不気味の谷とギリギリロボット。
アンドロイドの定義は何か?
それは多分、人工知能だとか、人造人間だとか、人工生命だとかいわれるものだろう。
では不気味の谷とは何か?
不気味の谷とは、人間をもした人工の造形物や絵、など人間を模したものの、動き、形、
それが人間に限りなく近くなる状態のとき、人々がその対象から不快感を感じる事があるといわれている現象のこと。
それは谷のように落ち込んでいるのだ、人間に近づけば近づくほど、直前になって、人間らしくない場所、人為的なものへの忌避感があらわれる
そういう“谷状”の感覚がある。
しかし、さらに技術が進歩した倍どうだろう、
アンドロイドが、さらに人間に近づいて、まさしく人間そのもになったときには、不気味さは薄れていくだろう。
私はアンドロイド研究家のノースアフリャカ大学の機械工学専門の教授である。
ノースアフリャカ大学は近年、2050年ごろに機械工学、とくに人工生命や人工知能だとかそういった領域で
数多くの有名な論文を発表し、高度な成果をあげている大学だ。
私は自身の研究室で、一匹の知的な人工生命体を飼育しているのだが、
これはポット君という、毎日同じ時間にその人の体調にあった飲み物を提供してくれる、
いわゆる電気ケトル的なポット君である。
こいつのなき声はかわいげがあるぞ。
私を、私のスポーティな丸刈りヘアーとふかくきざまれた額のしわさえ、きにならないほどに
だれもがほほえましいとおもうほどの、愛らしい笑顔にさせてくれる。
さあ、きいていてほしい。
いま、このむさくるしい室内でなく、となりの広い研究室に案内しよう、
ほら、壁沿いの長いキッチンテーブルの上にいるのが、ポットさ。
「ポット!!!」
ほら、こんなふうに、ワンワンさけぶ。
それは、まあよしとしてもだ、本日は不気味の谷を愛する、不思議なご婦人の話をしたいと思う。
それは私の研究室の大学生、助手たちと、その婦人の邸宅におじゃましたときの話だ。
その日はとても暑くて、一年で最も暑かったと思う、たしか、2年前だから、2048年だな。
そう、あの年、野球はもりあがっていたね。
ご婦人は、いわゆる、有名なロボットメーカーの会社役員の婦人で、端的にいってしまえばおお金持ちのお玉の輿の方だ。
なんというか、この方はもともとテレビタレントだった、しかし、今はあまり、若い人に知られてはいないがね。
お年を召されてからも、体形、美しさはまるで変わることなく、むしろその輝きをましているようにさえ思える、
それは私の(御年52)の好みの関係もあるのだろうが。
玄関先で、呼び鈴をならしたのは、私のかわいい助手だった。
「はーい」
パーマをかけた、紫色の髪、ひとめでそれとわかる、ユニークな星型のサングラス。
まさしく、あのご婦人だ、どこか漫画チックで、すがすがしくさえある。
ご婦人はペットをつれておられた、人面犬の、ポルポールちゃんだ。
あいらしいすがた……であればいいのだが、どうやら、こまったことに、
不気味の谷の住人であるらしく、やさしくいっても不快感をあらわにせざるをえない。
考えても見てほしい、人間は不気味の谷の住人に不快感を示すのである、生理的にである。
であれば、人面犬というこれまた特殊な性癖というかなんというか、そういったものとあわせられたときには、
その不快感は跳ね上がる、この世のものとはおもえない造形をしている。
まさにクリーチャー様々である。
「ポルポールちゃん、ひざしがあついの、よしよしよしよし」
その人間の顔をした犬……夫人いわくポルポールちゃんは、人間の形をした、不気味の谷からでてきた唇、さらにその深淵からあらわれる
舌でもって婦人の顔をべろべろなめまわす、我々はおもったのだ、切におもったのだ。
それも玄関先でである、猛暑の中、大学から3時間もかけて訪れたのにかかわらず、せつにおもった。
「帰りたい」
と、冗談はここまでにしておこう。
我々は客間に通された、豪華な客間だった、おおきなソファと、ダイニングテーブル。
いやあ、暑い夏の日で、ご婦人には冷たいお茶をごちそうしてしていただいた、
行儀はよろしくないし、失礼だったが皆ごくごくのみほした。
ここからはご婦人の話である、前述のポルポールちゃんに対する世間の皆々様の見解が少しかわるかもしれない。
だからこそ、私は今日この記事をここに上げようとおもったのだ。
まるで関係ない話しだが、タグ付けをしよう、タグ名は「ポルポールちゃん」
「○○教授、ポルポールさんにおさわりになりますか?」
「お触り禁止です!!」
しまった、最近覚えた言葉をみんなにきかれた。
とおもった、しまった、冗談をやめると書いておいて、これはない。
が、実際婦人のお話はとても興味深かった、婦人は“知性とは何か?”と我々のほうにむしろ、問いかけてこられた。
「それは、日々進歩していくものです」
婦人は、そのとき即座に反応をしめされた、首をよこにふって、パーマのかかったかみがゆっさゆっさとゆれる。
「それは違います、私にとっては“かわらないもの”なのです」
“は、はあ、といいますと?”
まるで疑問符で宇宙ができあがっていくようだった、進歩の道はひとつではない、とはいえ、
技術が進歩せずに、いったい何を知性と名付けることができるのだろうか?
もしそうならば、人間はうまれたときから、知性だ、赤ん坊も知性だ。
「この子はね、毎日同じような事をいいます、でも人口知能だから、少しかわったこともいう、だけど
ほとんど毎日同じ、だけどね、私はその返事のときに、考えるのよ、私が何を考えるべきなのかと……」
「は、はあ……」
(何をいうのだろう、それは同情だろうか?それとも愛情だろうか?我々に、その場にいあわせた研究室のメンバーにわかるように
おっしゃっていただきたい、そのときは正直、そうおもった、だが)
「人間の日常は、毎日いろいろなこと、複雑なことばかり考えてしまう、だけど違うのよ、
彼は毎日、同じことをいうけど、その場所にとどまったまま、毎日、新しい動きをしているのよ
私は彼こそ、もっともものを考えている“知性”だとおもうのよ、同情ではなく、私がどうしたいか考えるときに、
彼はいつも、答えてくれる、いつも同じ、いつも新しい、ってね」
はっきりしたことはわからなかった、
だが、ただひとつ言える事があった、
人間にとっての知性とは、たしかに、それぞれ人の中にあるものだし、判断を下せばいいことだ、
そして、あのとき、あの瞬間に、私はポルポールちゃんが、はるかに知性的なロボットであるかもしれないと、錯覚、あるいは、確信したということだ。
不気味の谷とギリギリロボット。