手紙一族
候
「拝啓、母さま。私は今、中国地方の瀬戸の海が流れる町に来ております。下関という、立派な街並みがあって、何しろ、河豚という食べ物が有名であって、それはそれは、私にとっては、頬がどうにかなりそうなくらいです。さてさて、母さま、お身体はご無事ですか?私?私は、手紙を書いてます候」と短文を書き、近くの郵便ポストへ投函する事を決め、早速、外出を計らうと、旅館の女将さんが、私を見つけ「どこへ行ってまいりますか?」とどうやら疑問に想ったのか。
直さまに「この手紙を投函しに行ってまいります。行ってきます」と元気な声で女将さんに挨拶をしました。
すると女将さんは「そうでございますか、いってらっしゃいませ」とまあ、私にとっては、心配症なのかとても鼻についてしまうほどです。
でもその女将さんは、気遣いがとてもいいという外見を見受けられているみたいで、私の手紙一族という名の者には、とても心配で仕方ないようで、何しろ、聞いたことのないことですから。
一丁目を通りかかろうとしたときには、郵便ポストが町のど真ん中にポツリとありました。
それは、まあ紅色に染められた奇麗な郵便ポストでした。草履をカタカタと鳴らして、郵便ポストへ投函をして、こうして、私の一日が始まろうとしているのであった。そう、早朝手紙執筆といったところであろうか。
手紙一族とは、文通を行う仲にでも行われるこの巷では無名なほどの超マニアな総称を表している。
母さまに送る手紙は、稀ではなく、毎日の日々の習慣である。
手紙を書くにしてもとても苦にも想えないですし、寧ろ、面白いという発想展開を見せてくれる素晴らしいツールだ。
それにしても、まあ、私にとっては、趣味の一貫なのです。
郵便ポストへ投函した後、旅館へ戻り、直さまに学校へ登校、下校時には、友達からの文通仲間として、手紙が到着しているわけだ。
それがとても楽しみで、梅子という女の子がそれはそれは、文通が面白く、堅苦しい文で書体もゴシックよりも明朝体・・・いや、教科書書体である。
怖いくらいに立派な字で達筆者としては、二重丸だが、私にとっては、生憎、面白いキャラクターという観点からそう、巷では、有名にはならなかった。
「梅子ー。また、手紙よろしくね」と私は、気軽な気持ちで友達の梅子に梅子の肩を叩いて、下校をしたのであった。「いやはや、私の文才もあの方には、相応しくないようですね」と堅苦しい言葉をしゃべっている。その本人が梅子なのだ。
「いいじゃん。沙弥には、かわいいところあるから」と気軽も気軽に話した身長がそれまた、低い、150センチメートルの千代が言った。
そう、手紙一族の主人公、私は、沙弥という名前である。見たことのない名字であるが、それは気にしない。何を言われようが構わない。それよりも旅館へ着いて、梅子の手紙が投函されているかが楽しみでしかたないのだ。
旅館での帰り道、何もない道で、何かあるかというと蛙が一匹つぶされているのを発見してしまったことくらいしか…むしろ、それは見てはいけないものに付随するものであり、私は、思わずガッカリした表情をしてしまった。
居候
居候している旅館に戻り、梅子の手紙をわくわくしていた。
思わず手が届こうと位になるまで楽しみなのだ。
そこまで楽しみにしている理由とは、先ほど言った、達筆のほかになにもないが、聊か私にとっては、変わったものとして見受けられているらしく、でも、それは、面白みがあっていいことではないだろうか。
居候をしている旅館には、三度のご飯が出る、それは、とてもおいしいし、料金もばかにならないほどだ。
だけども、親戚として泊らせてくれたのはとてもラッキーなことである。
私にとっては、幸せいっぱいの美しい旅館なのだ。あの女将さんももちろん、かわいい方です。
文通をしている私に対しては、心配症の癖をしているため、気が気ではあり万でした。たびたび、覗くではありませんか。
私もその行動にストレスを感じて、「いい加減にしてください!」と怒鳴ったくらいです。
「ごめんなさい・・・あなたの親が見ててくださいとおっしゃる上です」と無責任な親だとおもうが、私は両親は、文通の仲間であるから、立派な手紙一族なのだ。「わかりました。私・・・この旅館から、外に出ることはあまりいたしません。
ですから、女将さんもあまり、こちらの様子を見るのは、もうよしてください」と半分、起りそうになりながらも、手紙一族の誇りをもって、文通に命をかけているくらいです。
「そのかわり!投函ポストにお入れに行ってください!ではなければ、私は、学校でもどこへでも行ってしまいます。」と脅しをかけて、話しました。するとどうでしょう。
女将さんは、それ以降は、なにも口も聞いてはくれなくなり、見張りもなくなってしまいました。でも、私にとっては、心配となり、何をすればいいのかわからなくなりました。
「女将さん・・・いいんですよ私・・・学校にもどこにもいかない」と私は、声をかけたのですが「それは絶対にだめです!私のせいで学校に行けられなくなってしまったら両親が信用を失います。
そうすれば、大切な沙弥ちゃんも帰ってこれなくなって、旅館も閉館しなくてはならなくなります」と大げさなことをいって、泣きじゃくりました。
しばらくすると、女将さんは、私の手をとって、お願いしました。
「お願いです・・学校は、行ってくださいませ・・そして、いつもどおりに文通を行ってくださいませ。ではなければ」とそこまでもかというくらいまで、私は、責められました。
「わかりました・・ですが、・こうしましょう。私たちは、文通をする仲間とします。そうすれば、自然にどういった人なのかが互いにわかるはずです。わからないままであるから、不安が募るのです。いいですか?女将さん」と女将さんは、少し戸惑った様子でしたが「わかりました。文通をはじめましょう。私も、文章能力はあります。少しだけですけどね」と言って、笑みを零しながら、どこかへ歩いて行きました。
次の朝、文通をしている梅子から手紙が届いたかを郵便箱まで歩いていきますと、二通届いていました。そう、女将さんと梅子の二通でした。
わくわくしながら、胸を躍らせていた私は、梅子を先に読んで見ました。きっと堅いイメージの梅子ですから、書体がきっちりとしているに決まっていると私は、半ば笑みをこぼして、読み始めました。
「拝啓、沙弥さん。御元気でしょうか?私は、昨日に図書館へ行きました。さまざまな本を読んで、私の世界に入り込んでしまいそうなくらいに本が大好きです。このことは、沙弥さんは、とっくの昔に知っておりましたか。私は、その図書館で、ある一冊が目にとまり、読もうと試みました。『里親離れた子』とタイトルで、ちょうど、沙弥さんに似合っているので、少しだけ、この文を後々に、書き残し、私の文として終わります。」と結構ながらに梅子の文は、丁重なくらいまで短文であった。私は、もう一通の追加分を飛ばして、女将さんの文通の文を読もうかとおもいました。
「おかえりなさい。沙弥ちゃん。両親のことは、きつく言われました。けれども、沙弥ちゃんのことを信じて、手紙に宣言して伝えます。沙弥ちゃん、学校、がんばってね。少しながらですが、お疲れ様です。豊子」とまあ、梅子よりも短い文で、宣言文といった感じの手紙でした。手紙よりかは、メッセージといったところであろうか。私は、この二つの手紙を大切にしまって、手紙を書き始めました。心にしまいながら、追加文は、後で読もうかとおもいました。けれども、梅子がどのような本を読んだのかが気になって仕方ありません。「里親離れた子・・・私にぴったり」とまあ押し付けがましいというのか、何なのか私には、御節介とまではいかないが、少しだけ心に受けた。
夕暮れの帰り道、梅子と私は、一緒に帰ることとなった。梅子は、私を見て、「きっきょうとどいた。手紙・・」と汗汗して、言い始めました。私は、すぐさま伝えました「梅子。まだ、もう一冊の本を読んでないの・・内容だけ教えて?ねえ?」と私は、梅子に頼んだのですが「自分で、読みなさい。あなた自身のことが書かれてたので、お送りしたまでのことです。そう重要な文ではありませんこと」とかたっくるしい言い方をして私にぶつけてきました。私は「・・・わかりました。この目で見ましょう。けれども、今後一切、へんてこりんな文を送るのはよしてくださいね。梅子の文は、すべてがへんてこりんだから」と嫌味をついつい言ってしまったのであった。梅子は、かんかんに怒って「あらまあ、あなたの考え方は、どうかしていらっしゃいます。どこがへんてこりんなのか・・信じられないわ」と鞄を地面にたたきつけて、また拾い、どこかへ行ってしまいました。私は、困ったような顔をして、梅子にこう言いました「ごめんなさい。言い過ぎたわ・・ついつい、梅子が図に乗りすぎていたので、癪に障ったの」と私は、本当のことを告げ「なんですって?もういいです。金輪際、私は、あなたと絶交します。」と言って、梅子は、帰って行きました。私は、言いすぎたことにどうしていいのやら、もう頭がぐちゃぐちゃになってしまいました。「・・・どうしたらいいのだろう。私は、変なところで、強い口調になってしまう・・私こそがへんてこりんなのだわ」といって、泣きそうになりました。
私の部屋に戻ると、梅子のもう一文を見るのを忘れて、見ようとしました。
「里親離れた子・・その子は、決して明るい子じゃないいや・・・恥を知らない子。親から離れた立派な子・。貶しているのかどうなのか。私は、里親を離れた子がとてもあこがれです。とても、立派で秀才だとおもいます。それに手紙を書きつづって、私のためにお相手をしてくださる。やさしい子なのです。その子は、私がいなきゃ、何の頼りにもならない。そういった子です。里親離れた子。どうしているのかしら、旅館で一人暮らしでもしているのかしら、旅館の女将さんとはしっかりやっているのかしら、とても心配です。私と初めのころにあったとき話をかけてくれましたね。とても、嬉しかったです。もしも、万が一私から、離れてしまった場合、ごめんなさい。私の勝手さときっと、私の意地が張ってしまっている可能性があるのだとおもいます。離れた親は、決して、あなたとの縁を大切にしているとおもいます。信じてあげて、心配は誰でもつきものなのです。お母さんを大切に。作、林 梅子」と書いてあったので、私は、ものすごく、目から涙が滲み出て、ぶわっとなるばかりか、しずくがこぼれおちたのは、もうすっかり大量と化しているのでした。「梅子・・ごめんね・・・ごめんね。梅子・・私・・・私はなんて・・なんて、馬鹿な事をしたの?梅子のことを小馬鹿にしていたけれども、こんなにも私のことを思ってくれていたのに・・・」と私は、項垂れるように独り言を言いました。何度言っても、梅子は、帰ってこないとおもっておりました。泣き崩れた私は、泣き疲れた後に、外へ私は飛び出して、行きました。梅子を探して、探しては、また泣いて、町のあちこち、梅子の家、さまざまなところに行ったけども、どこにも梅子は、見当たらず、私は、どうしようもなく、私が立った一言、言ってあげられたらよかったのに「ありがとう、いつもそばにいてくれて」とそう告げられたなら、よかったのに、私の恥を見捨てなかった恥ずかしさ、もどかしさがどうしようもない。帰ってくるはずのない・・「沙弥ちゃん・・・沙弥ちゃん」とその声を頼りに後ろをおもいっきり、振り向いてみてみると、そこには、梅子がいたのです。まぎれもなく、梅子だった。「う・・・う・・梅子」と私は、梅子に近寄って、抱きしめました。おもいっきり、梅子は、泣き始めました「ありがとう、いつもそばにいてくれて・・ありがとう。梅子のおかげで私は、一人でも生きてこれたんだよ・・一人でも生活することができたんだよ。手紙のおかげで、いっぱいの思い出になって、思いがめぐらせて心が温まったんだよ」と私は、もう涙が枯れようとしていたころになるまで、ぼろぼろと涙をこぼしながら、梅子を抱きしめました。
梅子も抱きつき、涙がぼろぼろと流しました。「ごめんなさい・・ごめんなさい。私のせいであなたを不安にさせてしまった・・本当にごめんなさい」と梅子は、私を本当に大親友だということを私は、実感しました。二度と、絶交なんてしないことを私は、誓ったのであった。こうして、私と梅子は、友情を深く気づきあったのでした。
学校にて
私がまだ、小学校一年の頃、梅子の隣の席だったのです。
「よろしくね。私、沙弥っていうの。あなたは?」と私は、積極的に声をかけました。
梅子は、「・・・わ・・わたし、うめこっていうの」と恥ずかしそうな感じだったので、梅子は、もじもじしていた。
「梅ちゃんね。梅ちゃん。よろしくね」と勝手ながらにも、梅子にあだ名をつけた私だった。
梅子は、もじもじしながら、「よろしくね」とおそるおそる言いました。
次の日も、それまた、次の日も梅子に積極的に声をかけて、私は、すっかり馴染みやすいキャラクターと化していた。
「梅ちゃん・・ねえ、文通をやろう」と私は、言いました。
「ごめんなさい・・・私、文通・・苦手なの。沙弥ちゃん・・ごめんね」
「そうなんだ・・でも、少しでも私のようにがんばって、書いてくれたなら、嬉しいの」と私は、リーダーシップをするように、梅子を持ち上げました。
「わかったわ・・私・・書いてみるね」と私は、梅子が了解をしてくれたから、思いっきり、喜びました。
「ありがとう・・ありがとうね。楽しみにしてるね。私から、文通を送るね」とここで疑問点が起こるのである。
なぜかというと、転校してきたばかりの私だったのだが、二度も転校してきたということをお話ししてはいなかったのです。
なお、転校といっても学校が変わったのではなく、引っ越した時に学区が違うわけであり、一緒の学校であったのは確か、楠森小学校という学校は、変わりなかったのであった。だから、いつでも梅子とは一緒だったのです。
なお、今でも前でも。
梅子から文通を受け取った時の感動は、忘れられなかっただから、文通が好きになったのも梅子から手紙が届いた頃だったかな。嬉しくてたまらなかった。
千代と友達になったのは、文通をし始めて、年の半ばにさしかかろうとしていたころだったかな?「あなたが、沙弥ちゃん?」と千代から声をかけられ、背の小さい千代ちゃんは、私にとっては、かわいい存在だった。
千代にとっては、私は、お姉さん的な存在だったのかな?私には、そうとはおもわなかったけれども、話し方にしては、どうもそう感じられた。
「はい、そうだけど?」と私は、ぼけーとしていると「ああ、千代。何?沙弥ちゃんに用があるの?」と梅子が言いました。
「うん、ちょっと、来て・・屋上に」と私は、千代ちゃんに呼び出され、何やら二人の秘密のお話だったのか私には、梅子がいるだけで、十分だった。
屋上に行った私は、そこには、千代が待っていた。
すると、千代は柵から身を投げ出そうとしました。「何しているの?!千代ちゃん!」と千代を止めようとしました。
すると、千代は、こう言いました。「私を守るのなら、私も友達にして」と随分と強制的な千代ちゃんだった。
「うん?なんで」と私は、何で、そこまでして、友達になりたいのかとおもって問いました。
「じゃなきゃ、私は、飛び降ります」と小さな身体から身を投げ出そうとしました。
私は「なら、お姉ちゃんと呼んで!友達としてはなってもいいけど」と私は、わけのわからないことを言いました。
咄嗟の言葉がそれだったので、私は、お姉さんとして称えられたのであった。
そうして、千代ちゃんの飛び降りそうになった事件は、終わったのであった。
それ以降、千代ちゃんは、お姉ちゃんとよぶようになり、また、沙弥ちゃんとも呼ぶようになりました。
その自由奔放さは、凄まじいものだった。
手紙の一族
私の家系は、手紙一族だ。前に言ったが、文通をするのが当たり前な家系で、手紙を書く能力が備わっているのが、手紙一族、荒畑家なのだ。
荒畑家一族は、いつも、毎朝、各一人は誰かに文通をしなくてはならない。
といったまあ、厳守的なものなのだろう。
私は、それが本当に当り前で、当たり前が、不自然すぎるというのも言われたことがあったかな。
私は、自然と執筆活動をするのが一般的かになってきた。
それが小学生の梅子とあったときから、厳しく指導を受けられていた。
その受けられたのが、父親が私にという亭主関白な人だ。だから、母親は、どちらかといえば、大人しい性格なのだ。
といっても、怒らないとはかぎらないのだ。だから、手紙一族は、私にとっては、かけがえのない大切な存在なのである。
いくら、梅子に言われようが、女将さんに言われようが、知ったこっちゃないのだ。私には、私なりの生き方がある。
そう備え付けられたのは、家系では意思疎通なのである。
さてさて、ある晴れた日、梅子が私の家に来たときに、こんな時を言った。
「お母さんを大切にしてね。お母さんは、いつも沙弥ちゃんのことを心配してるんよ」と梅子は、人一倍にうるさいひとだ。
だけど、信じあえた仲だから、私は、梅子を信じた。
「私の予知からすれば、あなたを必要とするわ。必ずね」と梅子は、予知を当てようとしていた。けれども、私は、信じられなかった。信じようともその時は、しなかった。
「梅子がもしも、当たったなら、がんばって、故郷まで戻るわ」と私は、必死に言ったが、梅子には、それが伝わっていなかった。梅子は、そのことに関して、信じていなかった。けれども、それは、それほど、伝わってはいない。
その後、梅子と別れて、私は、たったひとり、家の中で取り残されたのは、紛れもないことだ。
「さてと」と旅館を出て、ポストを見に行ったとき、ふと、何かに気がつく、手紙がないこと。
その手紙がないことは、私にとっては、とても不安にさせてしまうものだった。
「ごめんなさい」と女将さんに尋ねてみました。女将さんは、不思議そうに、こちらをみました。
「女将さん・・・私・・手紙一族で、今日が一番に、さみしいと思ったことはなかった」と目に涙を浮かばせて、私は、とても、さみしくて仕方なかった。女将さに包んでほしかった。ただ、その一心。
「どうしたの?何があったの?」と女将さんは、相当心配をしていた。
けれども、女将さんは、私を包もうとはせずに、私をその場で座らせました。
泣き崩れていた私を休ませてくれたのだ。それは、女将さんにとって、最大の気遣いであって、私にはそれがうれしかった。
うれしかったから、涙がまして、流れ落ちた。ぽたぽたと流れ落ちた涙は、うれし涙にかわっていった。
一通の電話
女将さんと分かち合えたのは、その後だったろうか。私は、私の部屋からリリリリリとなる電話の音に気付いた。
それは、緊急を示すサインでもあった。そう、梅子が最もなるサインとなる羽目に私は、知らされたのは、今頃だったろうか。
「はい、もしもし?」と私は、涙を流した後でしたから、少し、疲れた声でした。
すると、向こうからの雑音が聞こえなくて、とても静かな場所だったのだ。その雑踏さえも聞こえていないから、よほど、静かなのだろうと私は、すぐに気付いた。
「荒畑さん!急変しました」と私は、なんのことやらと思っていた。そうこれこそが、母の入院通報だったのだ。
その一通の電話は、まさに緊急を示すことだった。
「何のことですか?私には、さっぱりわかりません。確かに私は、荒畑ですが、私の身内のかたですか?」と私は、おボケでもなったかのようにわからないままだった。
「おお、失礼しました。私は、市立大学附属病院の看護師です。身内でどなたかを本人にお聞きしましたところ、荒畑沙弥さんのお電話番号をお聞きしました。あなたさまのお母様が急変しました」と看護師が私に何のことやら、わからないまま、急変急変と言い続けられたので、「もう少し、こと細かく教えてください。なんのことですか?私の母が急変?母は健康体です。急変するわけがありませんが」と私は、更なる話を深ませた。
「わかりました。私がいる、市立大学附属病院に来てください。その際に、こと細かく、教えます。とにかく、緊急を要することなのです。お願いします。ご家族の方のお父様もいらっしゃいます」と看護師は、そのあとすぐに住所を教えてくれた。どうやら、本当に緊急を要することだった。
梅子の話は、事実と化していた。私は、その真事実に圧倒され、すぐさま、用具をまとめ、鍵を掛けて、市立大学附属病院に向かった。私のお泊まりしている旅館からかなり離れた場所に位置している。
その病院は、総合病院で私の住んでいる町からも大都会に位置していた。よけいに病院が近づいてくるにつれて、不安が募った。その不安は、拡大化してくるくらいにまで、及んだ。怖いと思った。
病院に着いた頃には、夜になっていた。その看護師がいた。
声ではっきりとわかった。
「すみません。昼に電話を下さいました。看護師さんですか?」と私が声をかけたとき、すぐにその看護師は、反応して「ああ、荒畑沙弥さんですか?早速ですが、医師との面談をお願いします。こちらです」と言い、看護師に案内をしてもらった。
よく見ると、浅井と名札に書いてあった。
「こちらでお待ちくださいませ」と浅井さんは、私をレディーファーストをしてくださるように、私を前にご案内してくれました。「失礼します」と私は、会釈して、個室のような広さの面談室にあった、椅子に腰をかけて、座った。
しばらくして、医師が相談室にやってきました。
「どうも、荒畑さん」と医師が私に気軽に声をかけてくださったので、私は礼をして、「母がどうも、御世話様です」
「いやいや、救急車で来られたんですよ。呼吸困難ですと通報があったらしくてですね。荒畑さん。お母様の江津子さんは、意識がないんです。それで、身うちの方に来られるように聞いたもんですから、私は、あなたのお父様とあなたをお呼びして、お待ちしておりました」と私にわかりやすく説明してくださいました。
「そうだったんですね、私は、一人暮らしで旅館に住んでおりました。ですが、母の急変を気にこちらの病院へ来ました。
あまりにもびっくりしたので、俊足でかけつけました。どうですか?母の状態は」と私は、心配そうに聞きました。
「いやはや、状態は、闇雲です、どう対処して治療をしていくのか、わかり兼ねます。
そもそもの病名が脳による梗塞ですから、詰まってしまった血管から異常反応を起こして、急変に至ったわけです」と医師は、汗を流しながら、私に説明したのは、はっきりとわかった。どうやら、深刻になってしまっているのが、事実なのだった。
「そうですか、脳梗塞ですと、かなりの重病ですよね、治ることはできますか?」と私は、真剣な面持ちで医師にぶつけてみた。「全力で尽くします」と言い、医師とわかれて、母の寝ている病室にむかった。不安がますます募ってしまった。
母が眠っていた。もう、枯れ果てた木のようなお顔をしていた。
病気以前の母の顔は、全然全く別人のような美肌の顔色がいい、肌色をしていたのは、記憶にある。
けれども、今は、荒れているお肌をしていた。どれだけの壮絶な日を暮らしていたのだろうと思うと、心が痛かった。
一人暮らしをした私が憎らしかった。もっと、母の近くにいたほうが安心できたろうに。
全くもって、後悔の念が多いばかりである。眼は、垂れていまして、今年で、65歳であり、杖を常についていたのが私の一人暮らしをする前に見ていたことをよく覚えていた。
ですから、一人暮らしして、まもないのだ。だから、びっくりしているのだ。
私の一人暮らし生活をしていた頃から一か月を過ぎようとしていたころだったので、突然すぎたのだ。
「お母さん・・・ごめんね。目を覚ましてね。私は、ずっとそばにいるよ。どうしちゃったのさ。いつになく、無言で、静かすぎるよ・・そっか、病院だったから、お母さん、黙っているんだね。それにしてもさ、手紙を書いていて、ふとおもったの。私、手紙書いていて、一度も贈り物をしてくれたことがなかった。それに、誕生日は、いつも、手紙でのやりとりで、なんだか、常に一人暮らしをしていたような、感覚で・・お母さんと一緒に住んでいたころをおもっても、ふと思わないの・・そうなると、親孝行なんて、一切してない私からお母さんにとっては、とても不幸なことをしているなあって・・・ねえ?黙っていないで、少しだけ、話してよ。お願い。少しだけ・・お母さんの声がもう一度聞きたいの・・。だって、久々だからさ。・・・」と私がぶつくさいっている間にどうやら、とても私は馬鹿げたことをしていると思うくらいになって、仕方なかった。すると、病室の廊下から、足音が聞こえてくるのが伺えた。そう、紛れもなく、父親の足音だ。それがはっきりわかったのは、足音のほかに、杖をついている独得な、音をしていたことを懐かしくおもった。「おとうさん?」と私は、お父さんらしい声が聞こえた。「沙弥か?沙弥。久々だな。まさか、このような事態になってから、再会するとは、おもってもみなかった。本当にお母さんのために、上京してきてくれて、ありがとう。何分、急変ということを告げられて、大変ショックが大きかったろうに。心配をかけて、ごめんな」とお父さんは、頭をさげた。
病室からの一睡
上京して、一睡もしていなかった私の体は、遂には、叫びだそうとしていた。
そう、だるさが出てきたのである。おもくて仕方のない、私の体は、ゆーらゆらと動いては、がくっと、会釈をしているような風に見受けられた。
「大丈夫か?ここで、休むといい、疲れたろう。沙弥、また、明日、おれは、ちょっと、自宅のほうへ帰っている。服やらを整えて、持ってくるよ。それまで、ここで、一睡しているといい」と私にそうやさしく、接してくれた。それが、お父さんなのだ。だから、お母さんは、とても幸せな家族ぐらしていたのが、事実だから、私は、余計に家計を持ちたくて仕方なかった。だから、一人暮らしを試みたのもあった。それが余計なことだった。まさかこんな事態になるなんて、自分を責めるようになった。
周りが場面が切り替わって、私の小さい頃の情景が映ってきた。どうやら、私は、夢を見ているようだった。
小学生の頃、公園の遊具で、お母さんと一緒に遊んでいた時のようだ。はっきりとその情景が懐かしくて鮮明に覚えている。だけど、その鮮明に覚えている情景を夢の中で再度見ているのは不思議で仕方なかった。
「わーい、わーい」と私は、ブランコでゆらゆらと揺れていた。お母さんは、後ろで押してくれていた。
「沙弥。今度は、砂場に行きましょう」と私を砂場につれて、お話をしてくれた。
「沙弥、いつか、大人になったら、お母さんを大切にしてくれる?」とお母さんは、本当に幸せな笑みをこぼして、私に話しかけてくれる。
「うん、もちろん。私、お母さんのために守るの。そばにいたいもん」と私は、そういう意志でずっと大人になるまで、考えていたのは、記憶に覚えている。
「そうだ!沙弥、手紙一族のお話をするわね。手紙一族とは、手紙を書いておくる一族のことよ。荒畑家代々受け継いでいる儀式のようなものかしら。決められたことに反しては、だめなの、それが手紙一族荒畑家なのよ。いつか、私に手紙を書いてくれることを誓ってね」とお母さんは、手紙一族に命をかけているようなふうに思えた。
それは、手紙一族だからこその在り方であり、なさなければならないものでもあり、手紙というものは、とても古風なもので私にとっては、とても大好きな一環なのだ。
拝啓、誰々様、何何を私は何何と始まるのが儀式なのだ。その儀式を私は、守り続けてきた。
その手紙一族だからこその成し遂げをしてきている。このような夢を見させられているというのは、一体全体なんのことだろうか?教訓をもっと守り続けなさいということの表れなのだろうか?梅子が注意してきた母からの急変の予知、母からの伝言らしき夢をみていること、この二点は、何らかの接点があったのだろうか?それにしても、私は、すっかりぐっすり眠ってしまっていた。気づいた頃には、朝を迎えていた。
お母さんのそばで虚ろ虚ろになりながら、お母さんの手をにぎって、「ありがとう。お母さん。私、手紙一族を守り抜いてきたよ」と私は小声で言った。
すると、廊下から、またも、すたすたと歩いてくるのが伺えた。
「沙弥、お目覚めかい?どうだい?ぐっすり、眠れたかい?」とお父さんだった。
どうやら、杖をついてこないで、荷物を両手に抱えて、持ってきたようだ。「大丈夫?」と私は、心配気に言った。
「ああ、母さんの苦しさに比べたら、御手のもんだ」とお父さんは、ニッコリ笑顔で、言いました。
「ならいいけど、お母さん、まだ起きないね。脳梗塞って、呼吸困難になってから、いつくらいが目を覚ますときなの?」
「それは、わからない、鼓動が続く限り、見守ることしかできやしない」とお父さんは、深刻そうに話した。
「それにしても、大事に至らずに本当によかった。おれがここまでに追いやってしまったのかと思うと」とお父さんは、自分を責めていた。
「お父さんは、なにも悪くないでしょ?・・・それに、私が手紙で、お母さんとのやり取りを止めてしまった私自身に、注意すべきだったわ」と私は心が特に痛かった。
手紙さえなければ、手紙があったなら、ここまでも苦労して、お母さんを病気に負わせずに済んだというのに、手紙一族というきまりを破った私に問題があったのに、お母さんには、なにも被はないのに、とにかく、自分を恨んだ。その恨みは、大きくなっていった。
「手紙さえ・・・手紙さえなければ」と私は、もう精神的にも乱れていた。
「お母さん、お願い、お願いだから、目を覚まして・・お願いだから」と涙があふれんばかりに一晩を過ごした。
だけども、結局、お母さんは、この世を去って、心臓の鼓動さえも静かになってしまった。
その苦しみは、私にもひしひしと伝わった。だけども、お母さんは、いくらなん度でも、帰っては来ない。
息を引き取ったあとには、もう焼かれてしまう。そう考えると、手紙一族という称するのも嫌気がさしてきた。
私は、本当に、惨めで手紙しか書かない人だ。それは、確かである。
けれども、私は、少なからず、お母さんに、最後は見届けた。これは、間違いない。お母さんも頑張った。
お母さんと別れてから、三か月が過ぎていた。
以後、候
雨が降りまして、お母様。今年も春が来たん。
お母さんへの悲しさまじりの雨だったのか、わからないけども、葬式の日は、そう、私は、ぐっと泣くのを堪えていたのである。
その堪えた理由としては、手紙一族として、手紙を捨てきろうと思っていたからである。
手紙のせいでお母さんは、亡くなったと私は、ぐぐっと思いを巡らせて、息を殺していた。
以後、私は、旅館へすぐさま、帰省し、お父さんとも別れを告げた。私は、そう、永くはいたくはないと心に思った。
なぜなら、心が荒んだ気持でいっぱいだったからだ。荒んだ心の穴は、どう、埋め尽くそうとおもっていた。
けれども、梅子と会う機会があれば、変わったのかもしれない。学校での、梅子との再会がとても苦しくて仕方なかった。
だから、見事あてた梅子が怖くて、仕方なかった。だから、私は、わざと梅子を避けるようになった。
「おはよう」と梅子が言ったが、私は、明後日のほうへ向いて、「ん?」と私は、知らないふりをして、千代ちゃんと話して、必要以上にお話をしていた。
梅子をどんどん、距離をはなしていった私は、とても、罪悪感でいっぱいになった。教えてくれたのは、梅子だ。
だから、私をお母さんに会わせてくれたのも、梅子だ。梅子が言わなければ、私は、苦しさを独り身で耐えられなかったかもしれないのに。私は、なんて最低な人間なのだろうとおもうと、相当、いらついた。いらついて、壁に当たりたくて仕方なかった。「もう!」と私は、独り言のように千代ちゃん前で叫んだり、とにかく、私は、人生がまっさかさまになったかのように、転落人生になって行きそうだった。
「梅ちゃんと、お話ししないのですか?おねえちゃん」と千代ちゃんは、心配そうにお話ししてくれたが、「余計な事を言わないでいいの」と私は、押し返そうとした。
けれども、千代ちゃんは、いつになく、押し返そうとする「いいの?私は、お姉ちゃんが心配だよ。だって、梅ちゃん、引っ越しちゃうんだよ。うーんと遠い所に確か、北海道の興部という町に引っ越ししちゃうんだよ?それでも、お姉ちゃんは、つっけんどんしちゃうんの?」と私は、その真実を知らなかった。
けれども、引っ越しをすることすら、私に告げなかった。
梅子は、とてもいい気になっているに違いないとおもって、おこっぺというところに住むというのは、とてもいい気がしてならなかった。・・・だんだん、私と梅子の距離が遠くなっていった。
いくら、先生が「梅子さんは、明日から引っ越しします。」と言っていたとしても、梅子が「ごめんね」と謝っていても、私は、つっけんどんのままだった。
だから、気に食わなかった。そう私に対して気に食わなかったのだ。その憎らしさが大きくなっていって、お母さんの手紙をいつの間にか、丸めていた。思い切って、ゴミ箱に捨てようとおもっていた。
けれども、私は、はたしてそんなに苛立っていたのは、なんだろう、お母さんのためなのか?荒畑家の尽くすためなのか?私は、相手方について、なにを思いめぐらせていたのだろうとおもって、梅子さえもぶつけていたとおもうと、私は、ぐぐっと気持ちを抑えきれないほどの悲しみに包まれて、思い切って、梅子に電話をした。
「もしもし?もしもし?」と向こう側は、もう、つながらないのか、ツーツーといっていた。けれども、私は必死に「もしもし?梅子?・・・わたし・梅子にひどいことをしちゃった。もう悔しさのあまり、恨めていたかもしれない。私とのペンフレンドだった梅子は、大切な人だよ。どうして、私は、次々と人を無くしていくのだろう。逆手にとってしまうのだろう。悔しくて、仕方ないよ。梅子・・・最終列車を待っているのかな?こんな真夜中に、梅子は、家族と一緒に興部に向かって、暮らすのかな?私をおいてさ・・なんでさ、いつもそうだよ。いつも偉そうで、いつも一人で考えて、意気地無しな梅子・・もう、私を悲しませないで・・・ていうのも、もう遅いよね。あなたは、列車を待っていて、さようならを私に告げずに、どこかへ行ってしまうもんね。わかれって・・・わかれって」と私は、もうそのまま、旅館を飛び出して、駅のホームへ向かうのだった。
只管、走り出して、梅子の家から、近くの、駅に向かった。
きっとその駅が一番に最寄りだと私は、勘付いたからだ。
最終列車の走りだすその列車は、まさに東北のほうへ向かう最終列車だった。
もう遅いかと思って、ホームを通り抜けて、無人駅の改札をとおり、列車が出発するところに私は、「うめこーーーー」と叫んで、「うめこー」と私は、叫び続けた。
声が枯れるまで、すると、列車の窓からひょっこり、顔を出すのを見えたから、明らかに梅子の顔だった。「さやちゃーん」と梅子の声が小さく聞こえた。
「さようならー。いつか、また、大人になってから、もういちど、来るから、帰ってくるから、それまで、待っててね」と梅子は、大きな声で聞こえたからにびっくりして、声がでなかった。
出るよりかは、茫然と立っていた。
「だから、だから、千代ちゃんと一緒にここの町に、いてほしいの」と梅子は、そのことを告げたかったのか、最後の最後まで言えずにいたこと、それが、この町で待っていて。そのことだった。
「わかれって・・つらいよね。つらいから・・苦しいの。苦しいから、息ができないのかな?梅子・・・梅子の声をききたいから、聞きたかったから、だから、私は、ペンフレンドとして、でも、私の手紙一族は、こうして、幕を下りた。そう、手紙をすっかり、やめてしまったのが、これがきっかけだったのかな。いや、お母さんがなくなってからかな。だから、手紙一族、さようなら、私の手紙の生活、さようなら。」
どうしても、私は、後悔しか生まれなかったのだ。だけども、とある手紙を気に私は、またしても、変わるとは思ってもみなかった。それは、何年後のことだろうか。とにかく、私の手紙一族の物語は、終わったのだ。
手紙一族