心に巣くう、センチメンタルな思い

朝の五時に目が覚めて布団から起き上がり、水道水をコップ一杯飲み干してから鏡に映る自分を見て、今日はなにか記念碑的な出会いとか、心をくすぐる場面に出くわすのではないかと、ときめいて、シャワーを浴びてから、クロワッサンを食べて、インスタントコーヒーで流し込む。スマートフォンで自撮りして、その画像をインスタグラムに投稿した。
六時に自宅を出て、近くの稲積公園へ行って音楽を聴きながらウォーキングをした。まだこんな朝早くなのに、公園には鳩が何羽もいて、地面のアスファルト舗装をつついていた。公園内を五周するごろには汗が身体からにじみ出て、脳が爽快な気分に満ちてきた。ちらほらと犬を散歩させる人たちも現れてきて、この地球の活動が少しずつ前へ進んできたことがわかりはじめる。まだ少年と思しき人が、ゴールデンレトリバーを連れて歩いていた。わたしは
「こんにちは」と、挨拶をすると、少年も
「どうも、こんにちは」と挨拶をかえしてきた。その少年はハーフらしく髪の毛が茶色で、肌は真っ白で、日に焼けても皮膚が黒くなることはなさそうで赤く腫れるくらいに済みそうな感じがした。
「朝早くから関心だね。いつもこの時間に散歩させているの?」わたしは少年に声をかけた。
「うん、朝のこの清々しい感じが好きで、毎日犬を散歩させているんです」そう言うと少年は犬の頭を撫でて、にっこりと、それは天使みたいな笑顔を浮かべた。
「君のお父さんかお母さんは外国人なの?」
「ええ、お母さんがイギリス人です。お父さんは日本人ですけど」
「そうなんだ。お母さんが日本人でお父さんが外国人っていうのはよく聞くけどその反対なんだね」
「お父さんがイングランドに出張に行ったときに出会ったそうです」
「へえー、君のお父さんはどうやらもてるようだね」
「そうですね。イングランドでも沢山の女性から告白されたと言っていました」
「君も彼女が何人もいるのかい?」わたしはそう言って少年に近づき、ゴールデンレトリバーの頭を撫ぜた。
「正直言って、沢山の女性から告白されました。でも一人の女性にしか興味はないんです。実は彼女は今、両親の都合でアメリカに行っていて、メールを通して文通しているんです。
「君は小学生かい?」
「ええ、来年中学生になります」
「そっか、わたしが小学生の頃なんか、好きな子はいたけど告白とか、文通なんて考えもしなかったよ。ただ、じっと遠くで彼女を見つめることしかできなかった。世界は変わるものなんだね」
「僕がませているだけなのかも。クラスで付き合っている人って一人もいないから」少年は茶色の髪が風に揺られて、手ですかして遠くを見つめる様子で答えた。
「それじゃあ、また会えたら、彼女の近況を知らせてくれ、きっと物凄くべっぴんさんなんだろう」
「とてつもなく綺麗です。彼女の姿が鏡に映ったら、その鏡が割れてしまうほどに」
そう言って私たちは別れた。わたしは途中休憩して、テニスコートの傍の芝生で身体を大の字にして横たわり、深呼吸をして休んだ。十分ほどしてから起き上がり、自宅に向けて歩き始めた。今日は編集者との打ち合わせの為に東京まで行かなければならない。ここ、札幌から新千歳空港まで行って羽田までの道のりを考えるとわくわくしてくる。
また軽くシャワーで身体を清めて、JRの電車に乗って新千歳まで向かうことにする。電車は通勤客で混雑していたけど、それも気にならなかった。わたしは人に興味があって、その為に、小説家として、人間模様に関心があり、人を俯瞰(ふかん)していつも周りの状況を手に取るようにして、それらを文章にするのであった。
札幌駅で途中下車して快速エアポートに乗り換えて、新千歳に向かう。窓を通して流れてゆく風景はとても切ないほど綺麗で、その土地に住んでいる人のことを思い浮かべて、安堵のため息がついてでる。きっと、いや、絶対に、その土地に住んでいる人たちにも愛する家族がいて、わたしと同じように、生活しているんだと思うと心が温かくなってくる。わたしのように些細なことで悩んだり、ちょっとしたことに喜んだりするのだろう。心の底から自分という不可思議な、一人の人間として生きていることに感動したり、大好きな人のことを思って、ときめいたりして、心を熱くすることだってあるだろう。でも世界の裏側では貧困の為に今日一日の食物でさえ手にできない人たちもいたり、犯罪に巻き込まれて命を落とす人だっているだろう。そう、この瞬間にも、世界は破滅に向かって、回転しているのかもしれない。正直、日本に生まれてよかった、と心の奥深くでそう思った。その間にも電車は空港に向けて走り出す。ああ、なんてわたしは幸せなのだろう。こうして何不自由なく生活し生きていることに。目を瞑(つぶ)って網膜に焼き付いた情景は、自分が小説に登場させる場面の、真っ白な丘の情景だった。そこに二人の男性と女性が、手をつないで歩いている。二人は頬を寄せ合って軽やかな笑い声をあげる。そんな情景だ。目を開けると電車につり下がっている広告が目に入ってきた。週刊誌の広告で、ある資産家が殺害されたというものだった。そこで、わたしは今度の小説で、大富豪を主人公にした作品を書けないかと考えた。状況はこうだ、ある一人のお金持ちがいる。父親から莫大な資産を受け継ぎ、使う当てもない。これまで質素に暮らすのをむねとしてきたのだ。あるテレビ番組で、貧困に苦しんでいる人たちが取材を受けていた。そこで主人公はその莫大な資産を寄付しようとする。でも、ただ単にお金をあげるだけではどうも芸がないと感じる。そこで、とんでもない方法で貧困にある人々を助けようとする。その方法は‥‥。
よし、そこまでメモしてから、あとの続きは後ほど考えることにする。
電車が新千歳空港に着いて、空港内に入って昼食を摂ることにした。蕎麦屋に入って、天ぷらそばを注文する。周りは外国人観光客でいっぱいだ。中国人か台湾人なのだろう。中国語らしき言葉が飛び交っていた。
食事を終えて、チェックインして空港ロビーに向かう。羽田に行く客が待合室で座席に座り待っていた。午後一時のフライトだ。飛行機での一番の楽しみは何と言っても、客室乗務員だ。美しい脚線美が見られることを密かに楽しみにしているのだ。ほんと、我ながら困ったものだ。
搭乗手続きと済ませ、いよいよ機内に入り込むことになった。
機内は独特な真空状態とでもいうべきひっそりとしていて、まるで鯨の腹の中に入ってしまったというべきものだった。実際そのとおりなのだろう。手荷物を棚にしまい込んで、座席に着くと、何故だか安心感が身を浸した。これから一時間弱、この飛行機の中にいるのだ。わたしは、鞄から途中まで読みかけていた小説、スティーヴン・キングのアトランティスのこころ、を読み始めた。
気が付くと、すでに飛行機は着陸態勢に入っていて、遠くに東京スカイツリーが見えてきた。
飛行機が着陸して、羽田空港に着くと、ゲートを出て、空港ビル内にある喫茶店でひとまず休むことにした。三時に出版社での会合があったので、それに合わせてタクシーに乗り込む予定だった。エスプレッソを注文して、デザートにはチョコレートケーキを頼んだ。
隣に座っていた若い女性が、わたしの方をちらほらと見つめていた。
「すいません、ひょっとしたら小説家の芹沢恵さんじゃないですか?」
「ええ、そうです。わたしの小説を読んでくれているんですか?」
「はい、大ファンなんです。休憩中ですみませんが、サインをしてもらっていいですか?」
「いいですよ」わたしは胸のポケットからサインペンを取り出して、彼女が差し出したスケジュール帳にサインをした。
「ありがとうございます」そう言って、彼女は大事そうにそのサインに手で触れて、満足そうに笑った。

空港内の喫茶店を出て、タクシー乗り場でタクシーに乗って、出版社の住所を告げると、タクシーは走りだした。二十分ほどで出版社に着いて、七階にある編集者のいるフロアに行くことにした。
たどり着くと、編集長の武田さんがにっこりと笑いながら近づいてきた。
「ようこそ、いらっしゃいました。待ちかまえていたんだよ」
「お久しぶりです。お元気ですか?」
「僕かい?最近フィットネスジムに通うようになってね。おかげで体重が十キロも減ったよ」
「健康的でなによりです。わたしも毎日のウォーキングは欠かさずにしていますよ。いつも椅子に座りっぱなしの生活だから、健康には気を付けていますよ」
「そうだな、この仕事は身体が資本だからな。ところで作品はできたかい?」
「ええ、自分でも、驚くくらい順調にいきましたよ」わたしはそう言って、鞄からUSBメモリを取り出して武田さんに渡した。
「この小さなプラスティックの塊が、莫大な富を形作るんだよな」武田さんは大声で笑った。
「武田さん、ほんと正直すぎますね」
「ああ、この一粒から、沢山の収穫が待ちかまえているんだ。そう考えると、心躍るよ」
「これから仕事が終わってから、編集部の人たちで飲みに行かないか?時間はあるんだろう?」
「そうですね、久しぶりに飲みたい気分です」
「よし、今日は早く切り上げて、みんなで、芹沢君の成功を祝って盛大に盛り上がろう!おまえたち、今日の仕事は終わりにするぞ」
仕事がちょうど五時に終わって、十人ほどのメンバーで居酒屋に入った。わたしはウイスキーの水割りを注文して、ちびちびと飲んでいた。正面の席には、まだ入社したばかりという,若い女性がカクテルを飲んでいた。わたしは彼女がわたしのことをずっと見つめていることに気づいていたが、知らないふりをしていた。でも、正直わたしは彼女に興味をもってしまっていた。出版社勤務というよりは、テレビのお天気お姉さんといった役割が似合いそうなほど、清楚で可憐だったのだ。それで緊張してしまい、彼女と話す機会がなかなかなかった。彼女の方でも、わたしに興味があるらしく、ちらりちらりとわたしの様子をうかがっていた。わたしは勇気をもって、彼女に話しかけた。
「君の名前はなんていうの?」
「高橋瞳と言います。まだ編集部に配属されて一か月ほどになります」
「そうか、僕の小説はどう思う?」
「とてもエキセントリックでまるで、日常の平凡な生活の中にあるSF的なものを描いている感じがします。物語の中で蠢(うごめ)いている登場人物は生きていて、新鮮さを保っています。とてもデリカシーで繊細で、ひとりひとりの体温が伝わってくる感じがします」
「そんな誉め言葉をもらったのは初めてだよ。君はわたしの大ファンなのかな」
「はい、芹沢さんの今までに書いた小説は全部読んでいます」
「そうなんだ、これからも、わたしの小説が君の心の内で響いてくれることを願うよ」わたしはそう言って、財布から名刺を取り出して彼女に渡した。
「よかったら君のメアド教えてくれないかな?」
「はい、喜んで」そう言って、彼女は名刺ケースから名刺を取り出して、わたしに渡した。
「人の出会いってほんとに大切なものだよね。自分を成長させてくれる人に出会い、お互いに持っているもの、大切にしている思いを分かち合えることが今の世界にはあまりにも欠如している。その中にあってとてつもなく、感動することや、影響されて、心を動かすほどの体験をする機会が今の世界には希薄過ぎる。だから、こうした本当の、希少な、真の友人に巡り会えることは、大切にしたほうがいい。君とこうして話し合えることは、わたしにとって、心を慰めるほどの効果があると思う。よかったら、これからも友達になって欲しい」
「ええ、喜んで」高橋瞳は破顔した、最高の笑みを浮かべて、残りのカクテルを飲み干した。
わたしは彼女の美しいうなじや、露(あらわ)にされている二本の滑らかな腕に目が向かってその美しい腕にキスをしたいという衝動に駆られた。彼女の艶やかな頬に触れたいとも思った。そんな、センチメンタルな感情を今、酔いに任せて、いっそのこと衝動的に、その願いを叶えたいとも思った。心に巣くう邪心というか、純真な切ない、よりどころのない原風景を見つめながら、わたしは満たされた思いでいた。

心に巣くう、センチメンタルな思い

心に巣くう、センチメンタルな思い

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-07-14

Copyrighted
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