
翡翠海岸
新潟の糸魚川駅にやっとついた。松本からかなりかかった。大糸線で南(みなみ)小谷(おたり)まで一時間、そこで電車を乗り継ぎ、さらに一時間かかる。とてもゆっくり走る電車だ。
糸魚川はフォッサーマグナの断層、糸魚川―静岡構造線で有名である。中学の地学で習ったことがある。一度来てみたかったのだがなかなか機会がなかった。今回、松本に用事があってきたついでに足を伸ばしてみたのである。もう少し近いものかと思っていた。
日曜日だったこともあるが、糸魚川の駅前は静かだ。店は休みが多く、街中には特に見るようなものもなさそうだ。駅に併設されている物産展館に特産の翡翠の展示館がある。ここは翡翠で有名だ。狭いところで、あっというまに見終わってしまった。
駅から出て、街中をぶらぶら歩きながら、今日泊まるホテルに入った。
フロントのお姉さんに、どこか見る所がないか聞いた。
「そうですね、日曜日ですし、海岸にでて翡翠でも探すぐらいしかないですね」
申し訳なさそうな返事がかえってきた。
話によると、海岸の石に混じって翡翠が落ちているそうである。
「翡翠ばかりじゃなくて、綺麗な石が多いって言われています」
ただ翡翠がよくみつかる翡翠海岸というのも、かなり遠くて歩いていくことは無理のようだ。なにもすることがないのもつらい、荷物を部屋に置いて、とりあえず駅に戻った。気が向いたらタクシーで、翡翠海岸に行ってみようと思ったからだ。
駅で客待ちをしているタクシーの運転手に、きれいな石を拾うにはどこの海岸がいいか聞いてみた。
「そのあたりでもいいけど、やっぱり翡翠海岸だね、だけど、土産物屋で千円も出せば翡翠のペンダント買えるよ」
何とも親切なのか、そのときはよくわからなかった不思議な返事が返ってきた。
「ともかく、来た記念に、その有名なところに連れていってください」
タクシーに乗り込んだ。
「翡翠はね、昔はよく見つかったものだけど今はなかなかないね」
運転手はハンドルを握りながら話しかけてきた。
「姫川の河口がいいんだけどね、今は土砂に埋まってだめだね、家族で翡翠を拾いにきた家族をそこに案内したとき、子供が拾って持ってきたのは、俺の見立てでは本物だったね、家族は大喜びだ。ただ、俺だって絶対とはいえないからね、専門家に見てもらってよ、と言ったんだが、ともかく、すごい記念だと感謝されましたよ」
「簡単には見つからないのですね」
「そうだね、大体が狐石だね」
狐石ってなんですかと聞いた。波打ち際にいくと、海の水にぬれて緑色の綺麗な石がたくさん落ちているそうである。翡翠だと思ってホテルに持って帰り、乾くと普通の石になってしまっているので、そう呼んでいるそうである。
「だけどね、水石として楽しむ分にはいいよ」
運転手は笑った。
タクシーは姫川の脇を通り、翡翠海岸に着いた。千五百円もかかった。タクシー会社の電話番号を聞き、帰りも呼ぶことにした。往復三千円になる。だから、タクシーの運転手は千円でペンダントが買えると言ったのだ。親切だったのだろう。
海岸に隣接してバーベキューをする施設がある。駅とは違って町の人たちがたくさん集まっている。その脇を通って海岸にでたら波の音が高くなった。
見渡すと石が敷き詰められた海岸が続いている。波打ち際を何人かの人たちが下を向きながらひたすら歩いている。翡翠を探しているようだ。
自分も早く拾ってみたい気持ちになって、波が打ち寄せるところまで早足で行った。早く行かないと、誰かにきれいな翡翠を拾われてしまうのではないかという、面白い人間の心理だ。
波際に行くと、確かに海の水に洗われて緑色に輝くような石や、黒いスジの入ったきれいな石、臙脂色の石、様々な石が目に入ってくる。みんな翡翠に見えてくる。
タクシーの運転手が言っていたように、拾っても乾くと当たり前の色をした石になるのだろう。狐石ばっかりなんだ。
大きな岩のあるところで波が割れ、どーんとお腹に響くような大きな音がする。空からぴーひょろろと鳶の鳴く声が聞こえてくる。
小さな黄色の石を一つ拾った。花が開いたような格好の石だ。茸にも似ている。翡翠ではなかろうが記念にすることにした。ただの小石が三千円とは高いものになったが、旅の記念とはそういうものの方がいい。記憶に残る。
しばらく海岸を歩いたが、翡翠らしきものはみつからなかった。最初に拾った黄色の石がどうやら一番気に入ったきれいなものだ。
ホテルに帰ろうと思い道にでた。タクシーを呼ぶため携帯を手に取ったとき、遠くにタクシーらしい車が来るのが見えた。運がいい。近づいてくると真赤な車のタクシーである。空車と読めたので手をあげた。運転手は気付いたらしく、スピードを緩め、車を寄せてきた。
赤いボディーに紫色の線が入っていて、翡翠ジロールタクシーとある。赤い山の帽子をかぶった運転手は扉を開けると振り向いた。
「どうぞ」
色の白い女性であった。切れ長の目を私に向けて「駅までですか」と聞いた。
私はホテルの名前を言った。
「はい、承知しました」
車はいつの間にか走り出していた。振動がほとんどない。
「翡翠は拾えましたか」
女性の運転手が聞いてきた。
「いや、小さな黄色の石を一つだけ記念に拾いました」
「観光ですか」
「ええ、まあ観光です、松本に出張できて、一度大糸線に乗ってみたかったのと、糸魚川に来てみたかったので」
松本で学会があり、発表を終えた後の観光旅行である。
「どうですか、糸魚川は」
「来るのに時間がかかって、まだあまり見ていないので」
「何もありませんよ、先の海岸に夕日のきれいなところがあります、これからがいいですよ」
女性の運転手はそれを勧めるように言った。
「遠いのですか」
「いえ、駅から数分です、お客様のホテルまでだと歩いて十分ほどです、ちょうどこれから夕日の沈むのが見られるかもしれませんね」
ホテルに帰っても、特にすることもない。
「それじゃあ、そこにやってください」
「はい」
「翡翠タクシーとありましたが、このあたりのタクシーなのですか」
「私、翡翠という名字なので」
運転手の名前をみると、翡翠碧とある。
「祖先が翡翠取りだったのかもしれませんわ」
運転手は人気のない海岸沿いの道路に車を止めた。
「夕日が沈むまで少し間があります、気持ちのいい海岸ですので散歩されるといいと思います」
私はうなずいて、運賃を払った。
「どうもありがとうございます」
運転手はふーっと前を向くとドアを閉めた。
ジロールという意味を聞くのを忘れたと思いながら顔を上げると、いつの間にか赤いタクシーは消えていた。
大きな岩が波打ち際にある。それに向かって小石を踏んで歩いていく。翡翠海岸よりきれいな石が多いくらいだ。ここなら歩いてこれたのにと思いながら、海岸線を見ると太陽はまだ地平線の上にあった。
ぽちぽちと石の中を歩いていくと、橙色の親指ほどの石が落ちていた。きれいだなと思って拾ってみると茸である。名前はわからない。茸がなぜ海岸にあるのかと不思議に思いながら元に戻した。打ち上げられたにしても、やけに新鮮な感じがする。
石の間にまたあった。ところがその橙色の茸が動いている。目の錯覚かと見つめていると、やっぱり動いている。かがんでもっと目を近づけた。小さな蟹が茸を引っ張っていた。かわいいものだ。ポケットから翡翠海岸で拾った石を取り出した。そのあたりの石もまけずにきれいだ。また石が気になり始め、首を下に向けて波打ち際に向かった。
また茸があった。今度も橙色だ。九月終わりであるから、茸のシーズンではあるが、海岸に落ちているとはどういうことなのだろう。振り返り海と反対をみると山がひかえている。草地で生えた茸が風で飛ばされてきたのだろうか。
まわりには緑色の石もかなり落ちている。手にとって見るのだが狐石のようだ。先にすすむとまた石の間にはさまって橙色の茸がいくつもころがっていた。茸のことはわからないが、同じ種類ではないのではないだろうか。
顔を上げると、水平線に橙の太陽が半分ほど浮かんでいる。夕日が沈むのはもう少し先のようだ。また歩き始めた。
波打ち際から少し離れたところを歩いていると。たくさんの流木に混じって、いろいろな模様の石が落ちている。きれいなものである。流木の上に少し傘が開いた橙色の茸がのっていた。腰をあげたら、そこここに橙色の茸があるのが目にはいった。おやおやと見回すと。それどころではない、辺り一面、石より多いくらい茸が落ちていることに気がついた。これでは茸海岸である。
沖を見ると、夕日の頭の上が地平線にくっついた。
赤っぽい光に照らされて、海岸が橙色になってきた。
歩いてきたところを振り返ると、石の間に茸ではなく、茸の間に石と流木が挟まっているように見える。茸だらけだ。一体どうなっているのだろう。
夕日の下が地平線より少しばかり隠れた。
改めて波打ち際に歩み寄った。なんと、そこでは茸が波に押し流され、ごろごろと、洗われている。草地から飛んできた茸などではない。海にたくさん浮かんでいる。どこに生えた茸なのだろう。海底から湧き出してくるようだ。
橙色の茸は波によって押し上げられ、水が引くと、いくつかは波にまたさらわれていくが、たくさんの茸が波打ち際に残っていく。
後ろを見ると、茸の丘になっている。砂が見えない。それに、私の靴は茸を踏んで、囲まれている。
夕日の頭が地平線に沈んだ。ほんの少し雲が浮かんでいるが、金色に輝いている。
ぴちゃぴちゃと魚が跳ねるような音がし始めた。音の方を見ると、波打ち際の茸が立ちあがっている。足元を見たら、私の靴をかこんだ茸たちが起立している。
茸たちはのびあがり、みんなして夕日の沈むのを眺めているようだ。茸の顔がますます橙色に輝いてくる。
夕日の頭が地平線の下にもぐった。
あたりは薄暗いというより、青っぽくなってきた。
とうとう夕日は水平線の奥深くに沈んだ。といって真っ暗になるわけではない。濃紺の空が海岸を青に染めている。
茸たちが動き出した。ピョコピョコ跳ねている。石の上に乗ったり、一列になって行進したりしている。
おやっと思って見ると、少し大きな橙色の茸がピョコピョコ、石の上で跳ね始めた。すると海岸の茸が一斉に、その茸に向かって飛び跳ねていく。
波の音がどんどこ、どんどこ、と聞こえるようになってきた。リズミカルな音があたりをおおうと、茸たちがピョコピョコと踊りだした。大きな茸を真ん中にして、その周りを踊りながら回っている。茸の盆踊りのようだ。
どんどこどんどこ、その音の中に、ピーひゃらぴーひゃらと笛の音が聞こえてきた。空の鳶が舞いながら声をあげている。
どんどこ、ぴーひゃら、波と鳶のお囃子にあわせて茸が踊る。自分の足下の茸も踊っている。
ほら踊りなさい。そんな声が聞こえる。蟹が波打ち際からあがってきてそう言った。いつのまにか自分も手を挙げて踊っている。茸たちが私を見て喜んでいる。
茸の輪に入った私は、海岸をピョコピョコ跳ねた。
大きな茸が言った。
「ほら、ジロールタクシーがきたよ。ばいばい」
踊っていた茸たちが一斉に動きを止めると私を見た。
「ばいばい」
橙色の茸たちは、薄暗くなった海の上に浮かんで玉になった。また夕日だ。茸たちが夕日になった。茸の夕日はすーっと地平線の下に消えていった。
二度も夕日の落ちるのを見た。
海岸脇の道に赤いタクシーが止まっているのが見える。
女の運転手が「お帰りなさいませ」とドアを開けた。
ホテルに着いて、フロントで鍵をもらった。ポケットの石を取り出してみる。そういえばあの茸に似ている。橙色で半透明になっている。
フロントの従業員がのぞき込んだ。
「翡翠のようですね、すごい物拾いましたね」
「でも、翡翠にしては黄色っぽいのではないですか」
「翡翠は緑とはかぎりませんよ」
こうして、糸魚川記念の石は私のデスクの上に置かれている。だが、鑑定はしてもらわない。翡翠の可能性のある石。可能性を秘めたものは想像を掻き立てる。しかも、あの茸に囲まれたことを思い出させる。あれは、幻影だったのだろう。あのタクシーも奇妙な思い出である。狐石、狐の運転手、だまされないと幻想にならない。
最近、タクシーに書かれていたジロールとは杏茸のことだということがわかった。黄橙のきれいな茸で、杏の匂いがするそうである。ヨーロッパでは好まれる茸の五本指だそうだ。拾った石がジロールそっくりなのである。
翡翠海岸に行ってよかったと思っている。幻想海岸である。
翡翠海岸
私家版第十二茸小説集「万茸鏡、2022、267p、一粒書房」所収
茸写真:著者 秋田県湯沢市小安 2017-9-19