タイトルをつけそこねた僕ら
『swim』
水の中の音が好きだった。深く潜れば静かな一定のこもったような微かな音、浅く潜れば泡の音と、日常の音が混ざり合ってくる。
泳ぐ視線の先にはコースの壁が見えてきて、そこに手をつくと、ゆっくりと体を起こして足をついた。水面に顔を出す。両手で顔の水を拭った。
「記録上がってるよ」
声がして見上げると、ストップウォッチを持った池内くんだった。彼に向けてピースサインをすると、私はプールの壁に背を向けてもたれかかり、そのまま水の中に潜った。床に座るようにして、コースの壁に背をつけて水の中の、視界の悪い向こうのほうをじーっと見る。音が遮断されて、心地いい。少しして息が続かなくなってまた立ち上がる。すると隣でバシャっと水の音がした。同じコースに池内くんが入り込んできた音だった。私の方を見てにっこり笑うと、爽快なフォームで泳ぎ去っていく。それを見送ると私はプールを上がった。
高校三年の水泳大会の練習だ。毎年の夏の行事ではあるけれど、放課後に厳かに開催される程度のもので、観覧者も少ない。先生と、水泳に参加するメンバーの友人だとか、体育委員になった子とか、そんな程度だ。そんな水泳大会を毎年やっているのも不思議なもんだが、泳ぐことの好きなメンバーにとっては楽しい大会だったりする。
初めて出場したのは高校一年の夏だった。
「出場したい人」
先生がクラスのみんなにそんな質問をした。誰も手を上げるはずがない。放課後に残ってわざわざ水着に着替えて泳がなきゃいけないんだ、そんな面倒くさいことはない。部活のある子は無理だし、バイトが入っている子も参加するつもりなんてない。結局、こうなる。
「この中で泳ぎ上手いの誰だ?」
この問いには、教室内に数名の名前が飛び交う。そいつらに決まれば自分たちは出場しなくて済むからだ。最初に名前があがったのが池内くんだった。
その夏、初めての高一の水泳の授業で、端っこの六コースに集められた女子は、まず最初に先生が二十五メートルプールを好きに泳ぎなさいと言われた。順番にひとりずつ、ビート板を持って顔を上げたままばしゃばしゃと泳ぐ子が多い。できればあまり顔を付けたくない。女子ならそんな感じ。その中で私を含めた数名だけが、軽くクロールで二十五メートルをさっと泳ぎきった。そのメンバーは全部で六コースあるプールの四コースに集められ、水泳授業の度に、時間内に自由に泳いでおくようにと言われていた。泳げない人だけをプールの端のコースで先生が指導し、私たち泳げる子たちに指導することはないといった感じ。それがまず女子の話。男子も同じようなことを一コースで行い、泳げる子たちは三コースに集められた。プールの中央の三コースと四コース、ここは水泳経験者の男女が自由に一時間泳いでいいコースだ。水の中に入って四コースの壁にもたれていた時に三コースから声をかけられた。
「なあ、小嶋ってやっぱりあの小嶋だよな?」
声をかけたのは池内くんだった。
「そっちこそ、あの池内くんでしょ?」
「やっぱり知ってた?」
「うん」
同じクラスになって、実は一度もきちんと話したことがなかった。だけどたぶん、あの子だ、と気づいてはいた。
お互い、別のスイミングクラブに所属していて、地方の大会などで会うことがあった。男女別のクラスのエントリーをしているので一緒に泳いだことはないけれど、泳ぎの上手い子や優勝経験のある子は自然と顔と名前を覚える。私たちはそんな、直接知らないけれど知っている、という微妙な距離にいた。
「なあ、なんで小嶋ここの学校にしたの?」
「家から近いから」
「それだけ?」
「うん、そっちは? 池内くんだったら水泳の強い学校行けばよかったのに」
池内くんクラスなら、専門の水泳施設のある学校に行けるはずだった。だってこの高校には水泳部がまず、無い。
「頭悪くて無理だった」
そう言って笑った池内くんは、こう続けた。
「タイムも気になるけど自由に泳げるのが一番じゃん?だからとりあえずプールがある高校ってのだけに絞ってここにした」
それには私もクスッと笑ってしまった。
「一緒、それ。水泳の授業なかったら無理って思って、学校にプール無いとこは全部最初っから志望校に入れなかった」
「やっぱり?」
そう言ってお互い指差し合って笑っていると先生に「真ん中のコース! ちゃんと泳いで!」と怒られた。お互い気まずい表情をして、それから池内くんがスッと水の中に頭まで入ったと思ったら、コースの壁を蹴ってキレイに水の中を進んでいった。私もそれを追うように、隣のコースで泳ぎを始めた。
その年の、初めて経験した水泳大会で、他に泳ぎの得意な二人を含めた四人でメンバーを組んでリレーに出場した。クラス対抗なので、水泳経験者のいないクラスは必然的に不利になる。うちのクラスはダントツだった。軽く一位の楯を貰うことができ、クラスの担任は教室に飾ると誇らしげだった。そういうものがクラスに増えるのが嬉しいんだろう。クラスの三分の一も見に来ていなかったレベルの水泳大会、楯を飾られたところで生徒たちに関心はない。「優勝したんだ?」なんて声が聞こえる中、実際泳いだ私たちにとっては楽しい水泳大会だった。
高校二年も、池内くんとは同じクラスだった。一年の時から水泳の時以外は相変わらずあまり話すことはなかった。また同じクラスになってもそれは変わらない。
或る日、家に帰るとパートから帰ってきた母から意外な名前が出た。
「那海、池内くんってクラスにいる?」
「は? いるけど?」
「今日ねぇ、中途採用で新しい社員の女の子が入って来てね、話をしてたら那海と同じ高校の弟が居るって言うから。同じ学年で、クラスも同じ六組だって」
「池内くんの、お姉さん?」
「そう。世間って狭いねー」
まるで何かの奇蹟でも起こったみたいに、母はひとりで興奮している。もともと水泳の大会を通じて中学くらいから知っている子だったんだけどね、なんて話をすると余計に面倒くさくなりそうだったので、それはやめた。そんな話を母とした次の日、水泳の時以外で、珍しく池内くんが声をかけてきた。
「小嶋の母ちゃんって〇〇で働いてる?」
「あ、うちも昨日母から言われた、お姉さんの話」
「まじか、恥ず……」
「別に、だからって何もないじゃん」
「そうだけど、まあ、姉ちゃんをよろしくって小嶋の母ちゃんに言っといて」
「う、うん……」
なんだかね、優しいなって思った。恥ずかしいとか言いながらお姉さんの心配してんだーって。普段はほんっと、同じ教室に毎日いるのに話さない。高一の終わりくらいから、池内くんには彼女もできたしね。それがまた、自分と同じ中学出身で、家も近所の子だったから少し複雑だった。全く知らない子じゃなくて、なんとなく知っている子と付き合われるのって、くすぐったい感じがした。
その年の夏も、水泳大会のメンバーに池内くんと私は入っていた。あとのメンバーが決まらず、あまり泳ぎの得意でないメンバーが集まってしまったクラスの中で、辛うじて二十五メートルを泳げる人が強制的に出場するということになった。練習は自由参加。放課後にプールを解放してくれる。一年の時は水泳好きが集まっていたのでみんな自然と足を運んでいたけれど、この年は池内くんと私しかプールに顔を出さなかった。先生がひとり、監視としてプールサイドにいるだけで、あとは自由に泳いでいいし自由に帰っていい。そんな感じ。池内くんと私はただ泳ぎたいからここに集まっていた。
「そうそう、俺もクラブやめたんだ」
準備体操をしていたら池内くんがボソッと言った。私は中学二年でさっさとスイミングクラブは辞めていた。高校生になってもクラブでの水泳は続けていた池内くんからそんな言葉が出るとは思っていなかった。
「辞めたら泳ぐ場所なくなるじゃん」
「だよねー」
そう言って笑うと、彼はシャワーを浴びに去ってしまった。
背は、あまり高くない。だけど誰が見てもわかるきれいな水泳をしている人の背中。筋肉があまりきれいにつかない自分と違って、とてもきれいなんだ。
「水泳、辞めちゃうのかあ」
準備体操をしていると、池内くんの彼女がプールサイドに現れた。日差しがきついので、頭にも肩にもタオルをかけて。池内くんの練習を見に来たんだってのはすぐにわかった。ほぼ誰も居ないプールサイドで、準備運動している私に気付いて彼女は笑った。顔は知っているので自然と私も笑い返せる。そして近寄って声をかけた。
「暑いから、あっちの日陰で見たら?」
監視室のところは少し日陰になっていて、先生が時々使っている扇風機もある。
「小嶋さんは、恥ずかしくない? 水着」
「え?」
考えたこともなかった。小学生の頃からスイミングクラブで泳いでいるから、水着でうろちょろすることにも慣れている。見られることもそうだし、男子のを見ることにもなんてことがない。確かに、授業の度に恥ずかしそうにしている女子たちの声は聞いたことはあるけれど。もともと見られて気にするような大きな胸も持ち合わせていない。対して男子に意識されるような体系でもないんだもの。
「水の中に入っちゃえばわかんないよ」
そう言って私もシャワーに向かった。日に焼けて小麦色の自分と違い、色の白い彼女が少し羨ましかった。
その日の水泳の練習は、結果的に池内くんと私だけだった。監視の先生と池内くんの彼女と、プールに集まったのはそれだけ。「もう明後日試合なのになあ」って愚痴りながら池内くんは彼女からタオルを受け取っていた。プールで泳いでいて、寂しいと思ったのはこの日が初めてだった。その日は早々に私はプールサイドを後にした。
次の日、違和感があった。目の周り。コロコロする。
「何これー」
「学校行く前に眼医者行こう」
母親に連れられて眼科に行った。なんでこんなに混んでんだ?ってほど、待たされた。視界が気持ち悪いから早く診察してほしいのに。ただ、待合室で目を閉じて待っていた。
「先生、ものもらいでした」
遅れて登校した時にはもうお昼前で。担任に遅れてきた病院での結果を報告した。
「ということなので、明日の水泳大会出られません」
あぁそうだなぁって表情で、うーんと悩む先生を見ながら、でも私はホッとしていた。どうしてだか、今年の水泳大会には出たくなくなっていたからだった。結局この、ものもらいが治る頃には水泳の授業も終わってしまい、私はこの夏、プールで泳ぐことはなかった。水泳大会は他のクラスが優勝し、うちのクラスはまったくダメな順位だった。
ひと学年に、全六クラスある高校生活で、高校三年間同じクラスだったのは、池内くんだけだ。三年目になっても、あまり話すことはない。池内くんは彼女を含むグループでいつもつるんでいたし、私は私で、別のメンバーとつるんでいた。それまでに少しの間、彼氏もできたし、あまり関わることがなかった。ただ、やっぱり水泳大会の時だけは違う。プールサイドではたぶん、何かが違う。
「去年、小嶋が急に出れなくなったからさー、負けたのぜったいそのせいだよ」
「私? みんなでちゃんと泳がないからじゃん」
今年も放課後のプール開放が始まって、今年のメンバーは元々私の仲の良い女友達も入っていたりで、しっかり全員で練習を始めた。仕切ってくれるのは池内くんで、みんな言われたとおりに練習する。
「それにしてもなんで今年からメドレーが全種目になるかなあ」
去年までは好きな泳法で四人が泳げばよかったのに、今年は、クロール、平泳ぎ、背泳、バタフライの四泳法を一人ずつに分けて泳ぐことが条件だった。バタフライを泳げるのは池内くんだけで、背泳のタイムが早いのは私だけ、自然とこの二種目は池内くんと私に決まってしまった。実はこれはそれぞれ得意種目ではない。池内くんは平泳ぎが得意で、私はクロールが得意だった。だけど他の二人のことを考えると種目の確定は仕方のないことだった。だからこそ一生懸命練習しようというのが池内くんの言葉で。去年がよほど悔しかったらしい。それに引っ張られるようにみんなで練習をした。終わってから四人でご飯を食べて帰る日もあった。普段は一緒につるむことのない四人が、こういう時にふと仲良くなるのも不思議なことだ。
帰り道にある商店街のお好み焼き店でわいわいとやる日が続いた。そしたらメンバーの一人の男子がある質問をした。
「池内ってなんで付き合ってる相手、小嶋じゃねえの?」
「は?」
思わず先に聞き返したのは私だった。
「だって一年の時から仲いいし、泳いでる時抜群のコンビネーションじゃん? 正直池内の彼女はあんま興味なさそうだしさ」
「あ、でも去年は、ちゃんと練習見に来てたよ、ねえ?」
必死でフォローを入れるように私はそう池内くんに話をふった。私の向かいに座る池内くんは私の顔を見て、別の男子との話に変えた。
「小嶋はきょんと仲いいじゃん、そっちのがお似合いじゃね?」
「ああ、確かに。小嶋、きょんと付き合わねーの?」
男子ふたりがそんな風に私の顔を見てくる。きょんは、仲のいい男子のひとりだ。だけど、親友みたいな感じで、思わず言い返した。
「だって私は他に好きな人いるもん」
「うそ? 誰?」
「言わないよ」
焼けたお好み焼きをヘラで切り分けながら視線を彼らから逸らした。そしたらもう一人の女子にふたり揃って「どうなの?」って聞くから、「私は知らないよ」とはぐらかしてくれた。私が切り分けたお好み焼きを、横取りするように池内くんがヘラで邪魔をしてくる。
「うわ、ちょっと」
「いただきっ」
顔を上げると、楽しそうにそれを食べていた。「熱っ」って言いながら。うん、今はね、別に好きな人がいるんだ。だけど、好きだったことはあるよ、池内くんのこと。誰にも言ったことのない言葉。
「じゃあ、明日の水泳大会、優勝目指してまた乾杯しますか!」
普段は集まらない四人での、最後の乾杯だった。
水泳大会の日はとてもいいお天気だった。放課後、思った以上にプールサイドには人がいた。三年は、早いと部活を引退している人もいる。何名か友達も来てくれた。そこには池内くんの彼女もいた。今年も頭からタオルをかぶっていた。
一番が背泳の私。二番が平泳ぎで男子、三番がクロールで女子、最後にバタフライで池内くん。うちのクラスの順番はこれにした。何の泳法からスタートしてもいいということで、飛び込みスタートのできない背泳からというのが池内くんの作戦だった。
プールサイドの壁に設置されたバーを掴んでスタートの準備をする。他のクラスの一番泳法はいろいろだ。深呼吸をしていると、頭の上から声がした。
「小嶋は腕の動きがきれいだから、いつも通り腕回せばいいタイム出るはず。ただし、力むなよ」
真剣にそう言ったあと、池内くんはにっこり笑った。
「わかってるよ、私の背泳なめんなよ」
そう言って私が笑い返すと、「知ってる」と池内くんも笑った。
スタートの合図で私は空を見つめながら泳いだ。気持ちがよかった。力まないように、ただ泳ぐのが気持ちいいって感覚だけで泳いだ。
「小嶋! いいぞ! そのままそのまま!」
水面に沈んだり出たりする耳元のちゃぽちゃぽという音と共に、間で聞こえてくるのは池内くんの声で。うん、そのままね、と心で呟きながら泳いでいると、私はゴールのプールの壁で頭を強打した。ゴーンと大きな音が響いた。その上を、次の男子が飛んで水に入っていくのはしっかりと見えたけれど、とにかく強打した頭が痛い。全くもって油断していた。五メートルフラッグを見たところまではわかっていて、変な安心感からか気を抜いてしまっていた。もう一度水の中にぐっと潜って顔を出す。プールサイドは沸いていた。状況を見ようとプールから出る私に手が差し出された。
「力むなって言ったじゃん」
次の、自分の順番の準備で反対側のスタートに回ってきていた池内くんだった。私は彼の手を取って、引っ張ってもらいながら水から上がった。
「力んでないよ」
「じゃあ、なんで頭打つんだよ、こんなとこで」
水中を指さしながら池内くんは笑うと、スタート台に乗った。私はその背中を見ていた。水の中ではクロールで泳いでくる仲間の姿があった。他にも一コース、競っているクラスがある。
「池内、一位!」
私が後ろから声をかけると、池内くんは振り向くことなく水面を泳いでくる仲間を見つめ、小さく頷いた。
いつも思っていた。彼の泳ぎはきれい。だけど、私もきれいだと言ってもらったことがある。きっと池内くんは覚えてないんだろうけど、中学生の頃の地区大会で。
「おまえの泳ぎきれいだな」
急に声をかけてきたのが彼だった。池内くんが覚えているかなんてのは知らない、わからない。だけど私はずっと覚えている。中二でスイミングクラブを辞めたのは、タイムが伸びなくなったからだった。もう、無理はしなくていいかな、というのが結論だった。諦めたと言われるのが嫌で、言い訳ばかり言っていた。自由に、好きな時に泳げればいい。スピードよりも、いつまでもきれいなフォームで泳ぐことを楽しめればいい。泳ぎがきれいだと言ってくれた彼のことが少し好きだった。所属クラブはパンフレットに記載されているけれど、どこの中学なのかはわからない。いつか会えるかなと思っていたら、同じ高校に合格していた。びっくりするほど嬉しかった。プールのある学校を選んでよかった。こうして一緒に泳げてよかった。
高校最後の水泳大会が終わると期末テストが始まり、そのあとは夏休みに入る。新学期が始まる頃には、もう、彼と会話をすることもほぼ無かった。先生が教室に飾っている水泳大会の、優勝の楯が私たちを見てくれているからいいんだ。そう思いながら最後まで過ごした。池内くんと一緒に取った楯は二つ。もし三年間、三つ取れていたら何か変わっていたのかな。いや、何も変わらない。一緒に泳いだ仲間っていうのが残ったことが、一番の思い出だ。
『Headphones』
電車からの景色は夕焼けが目についてあまり覚えていない。大船行きのいつもの各駅停車。見慣れた景色なのに、空の赤い色の濃さが街の景色を溶かしていくように感じて、ずっとそれに気を取られていた。
ヘッドフォンから流れるメロディとリズムが、電車のリズムに重なっていた。だけど体に感じる揺れと振動はまったく心地よくなくて、ヘッドフォンのリズムのほうがリアルだった。たぶん、目の前の世界よりも、音の聴こえる世界のほうがわたしにとっては魅力的で、逃げ込みたい場所だった。彼氏に、もう逢わないと言われた日の帰り道のことだ。
彼氏のことは好きだった。好きだったけど、それだけだった。別に趣味が合うわけでもない。逢わない日が続いても、「今頃、何しているのかな」なんて可愛いことを考えることもなかった。そう、わたしは可愛くない。短く切った黒い髪、赤いリップ。性格どころか見た目も可愛くない。今にも踏んづけそうな長く黒いスカートを引きずりながら、最寄り駅で電車を降りた。
なんとなく、いつもより電車を降りる人が多いなとは思った。子供が多い気がした。学生とかサラリーマンならよく見かけるけれど。改札を出て、自分の住むのと反対のほうに進む人が多いことに気づいて思い出した。今日はキャンドルナイトだ。何年か前からやってる。そういうのが好きな友達がいて一緒に行ったことがある。それはとてもきれいだったのを覚えている。だけど、自分の苦手な世界だった。
「あれあれ、私が作ったやつ」
誘ってくれた友達が自慢げに指さした。紙パックを家のように見立てて絵を描いたものが公園内の道に沿って、足元にたくさん並んでいた。中にキャンドルが入っているんだろう、切り取った窓の部分から光が放たれている。それがとてもきれいで、だけど苦手だった。友達のはハートをたくさん描いた紙パック。それは色鮮やかで、内側からの光が沢山の色のハートを優しく照らす。
「いいんじゃない? さっちゃんらしくて」
私がそう言うと、友達はまんざらでもないと言った笑顔で自分の作品を写真に収めていた。
学生の頃は友達のそういうのにも笑顔で付き合っていた。争いごとは面倒だったし、いい子な顔してなんにでも付き合っていた。そういうのをやめたくて、自然とその頃の友だちとは距離を置くようになった。
平和とか人の優しさとか面倒くさい。
その日も、公園には見向きもせずに家の方に向かった。手作りのキャンドルを見に行く人たちと逆に向かう。手にした大きなバッグには授業で使う教科書やメイク道具が山のように入っている。わたしだってそれなりに、自分の夢をバッグに詰めて毎日がんばっている。そんなことを心に思いながら、すれ違う親子を横目で見たりなんてする。
ヘッドフォンの音を、途中で大きくした。周囲の音をもっと遮断したかった。信号を待っていたら、目の前で急に車が滑るように停まった。目に見えているのと異なって、わたしのヘッドフォンは電車のリズムに合わせたメロディが流れていて。そのテンポが心臓の音みたいに刻んでいた。だけど、わたしの心臓のリズムはそれよりももっと早くなった。
ヘッドフォンをゆっくりと外す。事故だ。子供が道路に飛び出したのだった。だけど見た限り怪我をしている人もいない。悍ましい景色はそこにはなく、安堵する母親が子供を抱きしめていた。人だかりができ、車を運転していた男性は母親に声をかけたりしていた。
一瞬思い出したのは、帰りの電車の中で見た夕焼けの赤い色だった。深くて濃くて、怖かった。同じ感覚に襲われてびっくりした。
どうしてわたし、泣いているんだろう。
人の流れがまた普通に戻っていく中、わたしはまたヘッドフォンをして、涙を拭った。大きな団地の立ち並ぶ一角の、奥へ向かってどんどん歩いた。自分の住む棟で部屋の階を見上げてみたけれど、誰もまだ帰っていないようだ。灯りはついていなかった。だけどちょうどいい。家族にも会いたくなかった。
そっと家に入ると、自分の部屋に閉じこもった。赤いリップはすぐにティッシュで拭き取った。あまりキスをしてもらえなかった唇。こんなじゃ触れたくもないよね。もっと可愛く居られたらよかったのに。
『ブルー』
青い色には思い出がある。忘れたいのに忘れられない。母親のワンピースの青い色。短い髪に揺れるピアスのキラキラ光る石の青い色。玄関にあったマットの青い色。洗面所に置いてあった歯ブラシの青い色。俺が気に入っていたグラスの青い色。最後に買ってもらったスニーカーの青い色。一人ぼっちの部屋で水槽に浮かんでいた動かなくなった魚の青い色。
都内の水族館のクラゲの水槽の前で動けなくなっていた。
「リュウくん?」
声をかけられて振り向いた。
「そろそろ次のとこ行かない?」
俺の顔を覗き込むミサキだった。そうだった、デートしてたんだった。青い水槽の前でフリーズしていたことにふと気づいて、「クラゲがとてもきれいだったから、ごめん」と誤魔化した。ミサキの、フリルの付いた白いブラウスが水槽の色を受けて薄らと青色を帯びていた。思わずミサキの背に手を回して、軽くキスをした。びっくりしたようにミサキは俺の顔を見ると、「もう」と言いながら照れくさそうに俺の手を取った。
付き合って二週間。ちょっとしたことで一々頬を赤らめるミサキは可愛い。だけどそのうち、だんだんとそんな事では照れる事もなくなり、いろんな事に馴れ合いになり、気に入らない部分が出て来ると文句を言うようになり、相手を縛りつけたくもなり、最終的に去っていくんだ。あの日の母親のように。
「あ、ねぇ、あのお店見てもいい?」
水族館を出たところの雑貨店を指差して、ミサキが言った。笑顔で頷くと手を繋いだまま店内に入った。何を置いているという統一感があるわけでもない店内は、布製品やら食器類、アクセサリー、あらゆるものがあった。季節的なものなのか、ガラスや透明の製品が多い印象はあった。その中のガラスのカップを手に取ってミサキが俺に見せた。
「ねえ、お揃いでカップ買わない?うちに来た時に使うやつ」
「うん、いいね」
「何色がいい?」
同じグラスで色違いが数種。薄らとピンクのグラスを手にしたミサキの横で、俺は迷いなく濃い青いグラスを手に取った。
「これかなあ」
「きれいだね、それ。じゃあ私はこれにしよう」
青とピンクのグラスをそれぞれ手にしてレジに向った。「俺が払うよ」と言うと嬉しそうにミサキは微笑んだ。店員がグラスを包装してくれている間に、その横手に並んだピアスをミサキは見ていた。
「それ。きれいだね」
俺が指差すと、ミサキは「また青いやつ?」と言った。無意識だったので、小さく頷くだけで返事をした。涙みたいな形の小さな青いガラスが連なったデザインのピアスだった。見覚えのある思い出のピアスに少しだけ似ている。
「プレゼントしようか?」
「え?私に?」
「うん」
「似合うかなあ」
「似合うよ」
会話を聞いていた店員が、表情でどうしますか?と聞いているのがわかった。包装していた手を止めてこちらを見ていた。ミサキはピアスを手に取って耳元に当てながら鏡を見ている。やけに笑顔だった。「どうしようかなあ」と言いながら、もうそれは買って帰るつもりのような表情をしている。そして俺のほうを見た。
「でも、いいの?」
「いいよ。すみません、これも」
ミサキの手からピアスを受け取り、俺はそれも店員に差し出した。
「ありがとう」
「どういたしまして。記念にね」
「何の記念?」
「え?そう言われると困るな。なんでもいいんじゃない?水族館に来た記念とか?」
「そんな記念で買ってたら、しょっちゅう何か買わなきゃいけなくなるよ?」
「ほんとだね」
いいんだ、何か思い出が増えれば。これはあそこで買ったなとか、これは一緒に選んだやつだなとか。なんでもいいんだ。記念っていうのは、何となく当てはめただけに過ぎない言葉であって、ただ、思い出せる何かが欲しいだけなんだ。
店員から包装された商品を受け取ると、店を出た。小さな袋に入ったピアスはその場でミサキに手渡した。
「本当にありがとう、大事にする」
「うん、いつかデートで付けてよ」
「うん!」
ふたつの包装したグラスの入った袋を手にして、反対の手はミサキとまた手を繋ぐ。ゆっくりと他の店も少し見てから、家に帰った。
うちにミサキが来るのはまだ二回目で、慣れないのか、クッションを手に床に座り込んで俺が麦茶をカップに注ぐのを待っていた。
「リュウくんちで使うグラスも一緒に買えばよかったね」
「そうだね、ごめんね、うちマグカップしかなくて。しかも麦茶なんて、おばあちゃんちみたいで」
「ううん、私コーヒーとか苦手だし、お茶でいいよ」
マグカップをふたつテーブルに置くと、ミサキは「ありがとう」と小さく言った。そしてクスッと笑う。
「これも青だ」
言われて、なんとなくマグカップに目をやる。デザインの全く違うふたつのマグカップ。だけど色合いはどちらも青いやつで。「ほんとだね」と言いながら俺はそのひとつをミサキに差し出した。
「あ、ピアス、付けてみようかな」
バッグにしまっていた小さな袋を、ミサキは取り出して俺の顔を見た。
「ぜったい似合うよ」
俺がそう言うとミサキは顔を上げて微笑んだ。今付けている星のデザインのピアスを外してテーブルに置くと、新しく買ったピアスを手に取った。
「あ、待って」
俺が小さな折り畳みの鏡を持ってきてテーブルに置くと、ミサキはそれを覗き込みながらピアスを耳に飾った。少し顔を動かすとキレイにピアスが揺れる。
「ほんとに可愛い、これ。リュウくんありがとう」
「うん、いいね、やっぱり」
俺の言葉を聞いてからまた、ミサキは鏡を覗き込んで角度を変えてピアスを見ていた。それから反対側の耳のピアスも付け替えた。
「ねぇ、ミサキ」
「なに?」
「髪切ったりしないの?」
「なんで?」
「髪短いほうが、それキレイだなと思って」
「え?」
ミサキは肩より少し長い髪を今日は何もせずに下ろしていた。俺がそんなことを言ったからか、わざとその髪を手でまとめるようにして言った。
「こうやってまとめてるほうがいいってこと? このピアスのとき」
「ううん、短く切るの」
「え? ショート?」
「うん」
「え~? 私似合うかな。でも男の人って長い髪が好きなんじゃないの?」
「それは人それぞれ趣味じゃない?」
「リュウくんは短いほうが好きなの?」
「それも人によるかな。ミサキは短いのが似合いそうだなって思って」
あまり納得いかない表情で、ミサキは鏡の中を覗きこんだ。
「えぇ……。でも短くするのは勇気いるなあ」
「そんなもん?」
「うん」
「そっか、いや、気にしないで。そのままでも可愛いから」
入れてきた麦茶を飲みながら、俺は鏡を覗き込むミサキを見ていた。どうやら彼女は悩んでいるっぽい。表情がそう答えている。
「困らせちゃったね。今の忘れて? なんとなく思っただけだから」
「う……ん」
その後ミサキは、持って来ていたヘアゴムで髪をまとめた。
「今日はこれで、我慢して」
「我慢もなにも、いいよそのままで」
そう言って、テーブルを挟んだまま体を浮かせ顔を近付けると、ミサキは照れて微笑んだ。
「そのままで可愛いから」
そう言うと、目を逸らすことなく俺の瞳を見つめるそんなミサキの首元に手を回して、俺は長いキスをした。
次に会った時、ミサキの髪は短くなっていた。
「変かな?」
「ううん、似合う。思ったとおりだ」
「ほんと?」
「うん」
彼女の黒い髪は艶やかで、長めに下ろした前髪が色っぽかった。首元の髪はとても短くて、そして耳元に、青い涙の雫のようなピアスが揺れているんだ。
「友達には小学生の男の子みたいって言われちゃったんだけど……」
「そんなことないよ、きれい」
そう言って頬に手をやると、また頬を赤らめてミサキは小さく笑った。
だけどちょっと、残念だった。髪の短くなったミサキは、あの日俺を置いて行ってしまったあの人のようで。そのピアスも、あの日以来会っていないあの人のようで。そうなんだ、母親を思い出してしまう。自分から、髪を切らないのかと話したのに。そしてクスッと笑ってしまう。ミサキはそんな俺の笑ったのを、たぶん良いように勘違いした。
「迷ったけど切ってよかった」
「うん、本当に似合ってる」
その言葉は嘘ではない。似合っているからこそ、残念だったんだ。ピアスが揺れるたび、心が擽られる。今度は俺から離れて行かないように、手を繋ぐ。
「だけど、なんで急に熱帯魚なんて飼いたくなったの?」
「急にじゃないよ。子供の頃家にいたんだ。それでまた飼いたいなって思って」
「へえ」
今日は、熱帯魚を見に行きたいからついて来てよとミサキを誘った。あの日の思い出の続きを始めるには、まだまだ足りないんだ。止まったままの青い記憶を振り返るように、そして前に進む。そんなことに、巻き込まれているなんてミサキは知らないけれど。
『論理的なあなたとわたしの答え合わせ』
きっと十年くらい若かったら、迷わず私は『好き』だと伝えていたと思う。たった二文字の『好き』の言葉を伝える勇気を失ってしまった。伝えることができたなら、今よりももっと笑顔で一緒に過ごせるかもしれない。だけど、その逆になるかもしれない。もう話すこともできなくなる不安が膨らむ。後者のほうの結末を大きく頭の中で想像してしまう。片思いなんて二十代までで終わってしまう期間限定での感情であればいいのに。
スマートフォンに届いたメッセージを見ながら、そんなことを思った。あなたからの、「今日、飯でも行かない?」という短い文章を何度も見ている。「いいよ」と返事はすぐに返した。「また連絡する」というあなたからの返信で会話は終わっている。二時間前の会話。こうやって誘ってくれるのは、大学からの長い付き合いだからで。よく遊んでいた仲間は地方に離れて行き、消去法で残ったのが結局私ってことなんだろうなと思っている。
それでも会うことが嬉しかった。二人で会えることが嬉しかった。付き合ってはいないけれど、一緒に会ってお酒を飲んで他愛もない話をする。それだけでいいと思っていた。だけど、最近はそうやって会って、家に帰ったあとに、ため息が出る。
その日も、そのあとメッセージで届いた待ち合わせ場所に出向いて行って、あなたと二人で居酒屋に入った。いつもみたいに仕事の話や、お互いの友達との面白かった話なんかをして。そしたらあなたが急に話題を変えて、言った。
「河合って彼氏まだ出来ねぇの?」
「え?」
「だって、いつ誘ってもOKって返事くるからさ」
「そういう新藤くんだって、私以外に誘う人居ないの?」
「居ないわけじゃないけど、河合と居ると楽だからさ」
「ふーん、なんだ、実際モテないんだ?」
そう冗談で返すと、あなたは頬を大きく膨らませた。
周囲にはクールな印象をみせているくせに、こうやって長く一緒に居るようになると、新しい表情をみせてくる。そんな子供みたいな表情、見せられると『好き』を諦めきれない。膨らませた頬に溜まった息を、ワザとぶぅーと音を立てて吐きだして、天を見上げるようにしながら「モテねぇなぁ、俺」とあなたは言った。
ゆっくりとした時間の流れる、騒がしくない大人な雰囲気の居酒屋。そのカウンターの左の端っこ。微妙な隣同士の距離がやけに緊張させる。一緒にお酒を飲むことなんて慣れているはずなのに、やけに今日は緊張する。
私は、さっきまで頬を膨らませていたあなたを見てクスッと笑うと、ビールを飲んだ。かなりがんばって無理して笑ってみせたのに、「笑うなよ」って言いながら、あなたは私の頭に手をやった。そうやって肩までの私の髪をくしゃくしゃにしておいて、そのあと、ふっと笑って私の前髪に触れる。
「ごめん」
髪を直してくれる指は優しい。だけどすぐに私から離れて、その手はビールジョッキを掴んだ。私もまたビールを口にする。
「今日ピッチ早くない?」
そう言われて思わずあなたのほうを見た。
「なんかあった?」
あまり気にしていなかったけれど、確かに私のジョッキのほうがビールの減りが早い。いつも通りと平静を装っていたつもりだったけれど、間が持たなくなると自然とビールを飲んでいた。
「別になにもないけど……」
「ない、けど?」
「え?」
「けど、なに?」
「えっと……」
言うつもりはなくても、そういう流れになっている気がした。私をじっと見つめるあなたの視線。もう、会うたびに苦しいのはいやだ。『好き』を言えない代わりに、私の口から出た言葉。
「もう二人で会うのやめない?」
「え?」
自分でもびっくりした。いいの? もう会わなくてもいいの? 言ったあとなのに、自分で自分に問いかけながら、あなたから視線を離せなかった。たぶんその時の私は無表情で、そんな私と違って、あなたは優しく笑う。
「なーんだ、やっぱり」
「え?」
「彼氏、居んだろ?」
「え……?」
「だったら隠さずに最初っからそう言ってよ」
もう一度優しく微笑むと、あなたは私から視線を外してビールを一気に飲んだ。
「迷惑だったらそう言ってくれなきゃさ」
「ううん、そういうわけじゃなくて」
「河合は昔からそうだよな、気ぃ使って、遠慮しちゃって、思ってること言わねぇの」
「そうだっけ? そんなことないと思うけど」
「だって大事なとこだろ、そこ。彼氏居るなら俺の誘いなんて断らなきゃさ、彼氏に悪いじゃん」
あっさりと、そう言われた。会うのをやめようって言った私の言葉を、素直に受け入れられるほどの距離にしか、私は居なかったんだってことだ。この微妙なカウンターの距離に緊張していたのは私だけで、『好き』だなんて、やっぱり言わなくてよかった。言ったって言わなくたって、これでもう会わないんだ。
「どんなやつ? 彼氏」
「え? だから、違うって」
「だってさっき聞いた時も否定しなかったじゃん?」
「それは話の流れでちゃんと言わなかっただけで、本当に私、誰とも付き合ってないよ?」
「じゃあ、なんでもう一緒に飲めないの?」
どうしてこの人は、そんなことを聞きながら穏やかに私を見ているんだろう。そしたらやっぱり『好き』が溢れてくる。
「実は俺のこと昔から嫌いだったとか?」
私は、思い切り首を左右に振った。そしたらあなたは笑う。
「じゃあ、なんだろう」
頬杖を付いて、眉間にしわを寄せている。そして空になったジョッキを手にして言った。
「あ、答え考えるからもう一杯飲んでもいい?」
「え? あ、うん」
私の返事を聞くと、カウンターの向こうの店員に声をかけて「ビール」と注文をした。私のほうは向かずに、ずっとカウンターの向こうを見ている。何を考えているんだろう。そんなあなたの横顔を、私は見ているだけだった。少しして新しいジョッキが運ばれてくる。それを受け取ると、あなたは私に向けて空中で乾杯の格好をし、ビールをひと口飲んだ。
「例えば、なんだけど」
「うん……」
話を始めるあなたは、まだカウンターの向こうを見たままだった。視線はどこかに浮いている。
「さっき、楽だって言ったから?」
「え?」
「河合と居ると楽って、女性に対して失礼な話だよな、まったく」
やっとあなたは私のほうを向いた。
「それは…… 逆に嬉しい、かな」
「嬉しい?」
「一緒に居て楽なんて、なかなか居ないし」
「じゃあ、なんでだろうな」
またあなたの視線はカウンターの向こうに戻り、眉間にしわが寄る。腕を組んで考えている。完全に、いつものあなたのペースに巻き込まれている。そう思った。いつもそう。何かを急に難しく考え出したかと思うと、それに私を巻き込む。いつでも論理的なあなたの癖だ。
カウンターテーブルの、自分寄りに置いてある料理を私のほうにそっと寄せて、表情だけで「どうぞ」と言ったあと、また空中に浮かせたあなたの視線に私は置いてきぼりになる。だけど、この時間が嫌いじゃないからいつも、あなたからの誘いは断らないんだ。『好き』とか以前に、私もあなたと居ると楽なんだ。
「ごめん、もういいよ」
私が声をかけると、あなたはゆっくり振り向いた。
「答えなんて探さなくていいよ」
「どうして?」
「またご飯、誘ってよ」
「なに? 今度は急に」
「二人で会ってたら、新藤くんにいつまでも彼女ができないじゃん? だからもうやめたほうがいいかなって勝手に思っただけ。単なるお節介」
とりあえず適当に思いついた言葉を、一気にあなたに向けて言って、私はビールをぐっと飲んだ。
「なんだよそれ、ひどくない?」
「ごめん。でもいいや。新藤くんに彼女ができないのは別に私のせいじゃないと思うし」
「それはそうだけど、モテないから、なんだろ?」
そしてまたあなたは頬を膨らませる。私はその頬を指でぐっと押した。あなたはそれに合わせて、さっきやったみたいに、またワザとぶぅーっと息を吐く。
「なんで俺、モテないんだろうなあ」
ぼそっと呟いて、あなたはビールを飲んだ。適当に答えた私の言葉に、まだあなたは考え続いている。自分の髪を少しくしゃっといじって、ハッとしたような顔で私に言う。
「じゃあ俺って、一生彼女できないじゃん」
「なんで?」
「河合と会うの、やめる気はないもん」
どういう、ことだろう?
「だから一生彼女できないかもよ? って言ってるじゃん。だから会うのやめようってせっかく言ってあげたのに」
私は、口から出たでまかせの理由をそのまま続けた。まるで私が気を使ってあげているかのように。
「そうだけど、ねぇ、例えば」
あなたは体ごと、完全に私のほうを向いた。
「彼氏が俺だったら、会えるでしょ?」
私の気持ちをかき回すようなそんな言葉を、淡々と言う。思わず私はあなたの顔をじっと見てしまった。
「そうなると俺にも彼女ができたってことになるから、この問題は解決するんだよ」
「何言ってんの?」
にっこり笑って、あなたはさっき私に差し出した料理をつまんで食べた。もしかして? という期待が思わず膨らむ。私が言いたくても言えない言葉を、もしあなたも私に対して持っていたとしたら。考えながら、思わずため息をついてしまった。「え?」と言われて、思わず「え?」と返した。
「ため息つくとこ? そこ」
「あ、ごめん。そういうわけじゃなくて」
申し訳なく苦笑いで謝ると、あなたは背筋をピンと伸ばして私に微笑んだ。
「さっきの、河合の答え。このままだと俺に彼女ができないからっての、嘘でしょう?」
「え?」
「河合の本当の答え、当ててみようか?」
「え…… っと」
戸惑う私を見て、あなたは笑った。ゆったりした居酒屋にあなたの笑い声が響いて、思わず周りを見回しながら「やべ……」と口を手で押さえた。それから私の耳元にくちびるを近づけると、私がずっと言えなかった言葉をあなたは囁くように言った。
「俺はずっと河合のこと好きだったよ。もちろん今も」
近い距離で目が合って、私は何のリアクションも取れずに固まってしまった。
「なんで、急にそういうこと言うの?」
「もう会わないっていう選択肢は困るから」
「だからって」
「そもそも、この議題を始めたのは河合のほうじゃん。じゃあ、今のままでいい? 俺はいやだけど」
私の顔を覗き込むあなたの表情は柔らかくて、「いやだ」と私が言うと、あなたは嬉しそうに笑った。
「ちゃんと言ったほうがいいのかな? 付き合ってくださいとか、そういうの」
少し考えて、私はまた首を横に振った。
「え? 普通そういうのってちゃんと言って欲しいとか言うんじゃないの?」
「今聞くと、泣きそうだから」
「え?」
「ごめん。新藤くんのことはもう諦めようって思ってたとこだったから。今そういうこと言われると、ここで今すぐ泣いちゃう」
「マジかよ」
小さく言葉にして、あなたは私から目を逸らした。ビールをぐっと口にする。
「そういうこと言われると、俺だってたまんないんだけど。ずっと、俺のことなんてなんとも思ってないんだろうなぁって、何年も友達でいることに徹してきたからさ」
二人して、つまんないことをしてたんだなって、そのあと話して笑った。長く一緒に居過ぎて、相手のことがよくわかっているようで臆病になっていた。ずっと言えなかった言葉を、やっと私は口にする。
「好き……」
あなたは私をじっと見て、こっそり、カウンターの端で小さく私のくちびるにキスをした。
『記憶のかけら』
左手の、人差し指と親指でつまんだ硝子の破片がとてもキラキラとしてきれいだったのを覚えている。人差し指と親指の開いたサイズは三センチほど。それぐらいのサイズになってしまった破片。周囲にいくつか散らばって、元は何かの瓶だったのだろうと思った。
落ちていたその破片をひとつ指で拾って、平らな面ではなく鋭利になった角と角を指でつまむようにして持った。その三センチほどの硝子をつまむ指に、私はどうしてだかグッと力を入れた。割れてしまった硝子の破片はどのくらい切れるんだろう。どんどん力を入れると、自然と何かの痛みを感じる。
「きよちゃん!」
一緒にいた幼馴染が叫んだ。どうして叫んだのかよく分からないまま、幼馴染が私のもう片方の手を掴んで走り出したので、一緒になって走った。走ると、落とさないようにと硝子をつまむ指にますます力が入り、じんじんとした。そこからすぐそばの自宅まで来ると、幼馴染が玄関のドアを開けてまた叫んだ。
「おばちゃん!きよちゃんがケガした!」
私はそれでもまだ指でつまんでいる硝子を見ていた。きれいだなあと思っていた。それと同時に、赤い血が玄関に落ちていることにも気づいた。
人差し指と親指にはそれぞれ絆創膏が貼られた。どっちの指だったっけな、絆創膏に染み込んだ血が見えるほどだった。お風呂に入るとやけにお湯がしみて、その日は気分がイマイチだった。あんなにきれいな硝子を見つけたってのに。
小学二年生ぐらいだったのかな。硝子の破片を拾ったのは二階建ての文化住宅の前で、今ではコンクリートになっているその場所は当時は土のままだった。よく土団子を作って遊んだ場所だ。文化住宅の前の道路との間にある溝の近くに行くとたまにゴミが落ちていて、大人はそれを嫌がったけれど、たまに眺めてはそうやって見つけた硝子の破片などにわくわくした。そうだ、その文化住宅に住んでいたのが、「きよちゃん」だ。妹の同級生だった。あれ?じゃあ、なんで幼馴染は私のことを「きよちゃん」と呼んだのだろう。というか、そもそも私は「きよちゃん」ではない気がする。誰だろう?
そんなことを考えながら、ベッドの上で左手の人差し指と親指を三センチほど開いて眺めていた。そもそも、あの硝子の破片は三センチもあったのだろうか。今の私の指が開く三センチと小学二年生の指の三センチほど、というのは相違するような気もする。もっと小さなものだったかもしれない。
そうしていると可愛い声がした。
「おばあちゃん、なにしてるの?」
見ると、小学二年生くらいの女の子だった。まさに当時の私くらいの年齢だ。そして私を真似て同じように人差し指と親指を広げて見せた。
「これ、なに?」
なにか?と言われても答えられなかった。
「こら、おばあちゃんを困らせたらだめでしょ」
隣にいた女性がそう女の子に声をかけて、それから指を開いたままの私の左手にそっと手をかけた。
「また指が浮腫んでるわね。りのちゃん、看護婦さんに伝えてきてくれる?」
「またぁ?」
少し不機嫌そうな顔をして、女の子は部屋を出て行った。この人たちは誰だろう。私はなにをしてたんだろう?よく分からなくてにっこり微笑むと、女性は私の手をまたベッドに戻して優しく笑った。私はまた指を三センチほど開いて、もう片方の手でその指の皺と浮腫みで血管が見えづらくなったあたりをゆっくりとさすった。あぁ、ここは病院なのかと部屋の中を見渡しながら。
タイトルをつけそこねた僕ら