キャラメル
第一章
雨は一向に弱まる気配もなく、フロントガラス越しの世界は白く煙っている。
まるで飛行機の操縦だと思いながら、絵梨はカーナビに従ってハンドルを左に切った。
大名屋敷を移築したという史跡公園の向こうに、待ち合わせ場所であるホテルが目に入る。周囲に高い建物がないので、雨の中に屹立するその姿は巨大な墓標のようにも見えた。
地下の駐車場に車を入れ、ロビーに上がってから携帯を見ると、由香里からメールが入っていた。予定が押していて、三十分ほど遅れるという謝罪だったが、絵梨には却って好都合だった。
この隙に何か軽く食べておこう。
約束していたカフェテラスに入ると、窓際の席に案内された。天井から床まで一面のガラス張りで、その向こうには黒い御影石で作られた浅い池が広がっている。
灰色の空から落ちて来る雨粒が生み出す波紋は、次々と現れては干渉し合い、消えてゆく。私たちの一生も、何十年をわずか数秒に縮めてしまえば、こういう風に見えるかもしれない。
絵梨はその考えを意識的に断ち切ると、ハムサンドとダージリンを注文した。
雨は夜まで降り続くらしい。それはつまり、撮影の再開は明日まで無理という事。
束の間の自由。
運ばれてきたダージリンを一口飲んで、絵梨は再び窓の外を眺めた。
「僕から見れば、絵梨ちゃんは自由そのものって感じだけどね」
「まさか、私けっこう不自由よ。別にこの足のことじゃなくて」
彼女がそう言ってテーブルの下の爪先で軽く蹴ると、佐野一彦は大げさに顔をしかめてみせた。
「佐野くんさあ、昔の中国にいた西施って女の人知ってる?」
絵梨は肘をついて、少し姿勢を変えた。この店の料理はおいしいけれど、椅子の座り心地はいま一つだ。
「西施?楊貴妃に負けないぐらいの美女だっけ」
「そう。彼女が眉をひそめた顔がこれまた美しかったって言うけどさ、佐野くんもそういう顔すると、美しさが際立つね」
「誉められてるのかな」
「そうよ。こんな言葉、聞き飽きてるでしょうけど、それでも言っちゃう」
彼は「照れる」という言葉を知らないのではないかと思えるほど、誉め言葉を素直に受け止める。そして野生動物が己の美しさに無頓着なように、容姿についての自意識をほとんど持ち合わせていない。
「西施に喩えられたのは初めてだよ。それもお兄さんの影響?」
「そうね。理系なのに中国の古い話とか好きなの。三国志とかすっごく詳しいから、私も本なんか全然読まないのに、曹操とか呂布だとか、名前だけは憶えちゃった」
「素晴しいじゃない。絵梨ちゃんはお兄さんに英才教育を受けたんだ」
「嫌味なこと言うわね。そのせいでこんなに行き詰ってるのに」
ウエイターが空いた皿を下げに来て、代わりにデザートのメニューを置いていった。佐野はそれを開くと、絵梨の方へ差し出す。
「どうぞ。僕はここではいつも、決めてるのがあるんだ」
「じゃ教えて。絶対それは頼まないから」
「ベイクドチーズケーキ」
絵梨は黙って頷くと、ダークチェリーのタルトを選んだ。デザートとコーヒーはすぐに運ばれてきて、二人はそれぞれ自分の選択が正しかった事を確かめた。
「それで、絵梨ちゃんは、家を出るって本当に決めたんだ」
半分ほどチーズケーキを食べたところで、佐野は最初の話題に戻った。絵梨は皿の上に一粒だけ転がり出たダークチェリーをフォークで刺し、頷いてから口に運んだ。
「これ以上、鬱陶しい女になりたくないんだもの。家は確かに私とお兄ちゃんが半々で相続してるし、二人で住むには何だか広いけど、あの人と一緒に住むには窮屈過ぎる」
「でも、最初はお兄さんが家を出るって言ったんだろ?」
「言いはしたけどね、あの人がそれを許すわけないもの。したたかなのよ。上手にお兄ちゃんのこと操っちゃうわ。向こうは正社員だけど、お兄ちゃんはまだポストもなくて非常勤ばっか。そんなだから、ちゃっかり子供なんか作られたのよ。もう六ヶ月だからじき産休に育休で、彼女、お金はとにかく節約したいモードなの。子供はやっぱり広い家で育てたいだろうし、合理的に考えれば私が出て行って、今の家に新婚さんが住むしかないってわけ」
「絵梨ちゃんが一緒に住んでも構わないんじゃないの?」
「冗談じゃない。佐野くんは同じことが起きても平気でいられる?」
彼はそれには答えず、少しだけ悲しそうな目で微笑んだだけだった。
「私だって他の人にこんな馬鹿な話はしないわ。もう少しまともな人間だと思われたいもの」
「仲間に入れてもらえて嬉しいよ」
「そうでしょ?きょうだいに恋してる人なんて、滅多にお目にかかれないわよ」
「でも絵梨ちゃんの場合、血はつながってないんだから、自然といえば自然な気持ちじゃない?」
「親同士の再婚で家族になって十五年、向こうは完全にきょうだいとして見てるのに、こっちだけ片思いなんて不気味よ」
「不気味か」
佐野はフォークをおくと、コーヒーを飲んだ。絵梨は急に気まずさを覚えて「何も佐野くんのことを言ってるんじゃないわ」と付け加えた。
「でも、私達って同類だと思う、とは言ったよね」
「それは言った。直感よ。だけど突き詰めて考えなくていいわよ。これは私の問題なんだから」
「もっと別の選択はないの?絵梨ちゃんの実のお母さんのところへ行くとか」
「あれば五年前の事故の時にそうしてた」
「でもその時は絵梨ちゃん長いこと入院してたんだろ?自分で色々決められる状態でもなかったんじゃない?」
「まあね。でもじっさい面倒みてくれたのは父方の伯母さんだったし、母親は再婚先に気兼ねして一度見舞いに来ただけだもの。いくら高校生でもどういう状況かは判ったわ。それに私はもう二十三よ、いまさら親なんか頼れない」
「でも定職にはついてない」
「バイトはしてます。写真も続けてる。お兄ちゃんは、家を出るなら引越しのお金は出すって言ってくれてるわ」
「でも家賃までは出ない」
「そうね、あの人がそんなの許さない。だったら一緒に住みましょうって言われちゃう。でなければさっさとお嫁に行きなさい。でも別にそれはいいの、十分予想してきた。本当に困ったら、水商売でも何でもして稼ぐもの。私はとにかくあの人とは住みたくないの」
「あのさ、絵梨ちゃん、だったら僕と住まない?」
彼の言葉はまるで外国語のように聞こえ、頭の中で繰り返してからようやくその意味がつかめた。
「といっても期間限定だけどね、奨学金の審査に通ったんで、僕は秋からロンドンに留学する。でも部屋は解約しないでおくつもり。だから、しばらく我慢して一緒に住んでもらって、あとは絵梨ちゃん一人で留守番してくれたら有難いな。或いは、お兄さん夫婦の同居を少し延期してもらって、僕が出発してから移ってくるか」
「でも、佐野くんちって、お姉さんも住んでるんでしょ?」
彼は黙って首を振った。
「五月から別々。勤務医って本当に忙しいから、病院のすぐ近くに引っ越したんだ。同じマンションに同僚が五人もいるらしいよ」
それだけが引っ越しの理由じゃない。
絵梨の直感はそう告げていたけれど、今はそれをどうこう言う時ではなかった。
「だったらとても嬉しいけど、少しでも家賃は払うわ。それで、できるだけ早く引越しさせてほしい」
「お兄さんに、僕からも一言挨拶した方がいい?」
「絶対駄目。たとえ相手が佐野くんでも、嫁入り前の妹が男の人と暮らすなんてお兄ちゃんには理解できないから。でも疑うって事も知らない人だから、女友達と住むって言うわ」
「お待たせしてごめんなさい」
由香里が現れると、周囲の空気が一瞬で華やぐような気がする。四十も半ばを越えているのに、一回りほど年下である絵梨の友人たちとそう変わらないというか、下手をするともっと若々しく見える。
整った顔立ち、艶のある髪、仕立の良いスーツ、贅肉のない身体、手入の行き届いた肌。一つ一つが彼女の美しさを構成していたけれど、何よりもやはり内側にあるものが、本人の意思に関わらず光を放っているように思えた。
「水曜は休診なんですけど、雑用がこの日に集まってしまって。段取りが悪くて我ながら嫌になるほど」
「気になさらないで。私、お腹が空いてたので、のんびりサンドイッチなんか食べてたんです」
「そう言っていただけると有難いけれど」
由香里はコーヒーとシフォンケーキを注文すると、あらためて絵梨に向き直った。
「本当にお久しぶりですね。こんなところまで来て下さるなんて、嬉しいわ」
「いいえ、こちらこそ急に連絡してすみません」
「私達を会わせてくれた、この雨に感謝しないと。こちらではどういうお仕事をなさっているんですか?」
「県のふるさと遺産基金からの依頼で、山間部の廃校を撮ってるんです。一日に三カ所回る時もあって、雨で休めて正直ほっとしてます」
「そうして活躍されてる話を聞くと、こっちまで嬉しくなるわ」
「活躍、って言うか、何とか食べていける程度なんですけど」
「でも目が輝いてる。充実しているんですね」
そう言って由香里が微笑むと、まるで佐野と話をしているような錯覚に陥りそうだった。彼女がシフォンケーキを食べ始めるのに合わせて、絵梨は自分のカップにダージリンを注ぎ足した。
「由香里さんは、もうこちらの生活には慣れましたか?」
「そうですね、日常のこまごました事は周りの人に教えてもらったりして、少しずつ。うちの子は東京よりもこっちの方がずっと好きなんですって」
「今、おいくつですか?」
「もうすぐ六つ。でも保育所のお母さんの中で私が一番年上みたい。下手をしたら親子ぐらい年が違うんです。東京ではあまり意識していなかったけれど、四十代で第一子はやっぱり少数派なのね」
「そんなの平気だわ。よければ写真とか見せていただけませんか?」
由香里は「プロの方に?」と笑いながら、携帯電話のディスプレイに画像を出してくれる。
「ちょうど先週の水曜日、運動会だったんです」
体操服に白い帽子をかぶり、少しおどけた様子で首をかしげている、優し気な顔立ちの男の子。
「笑顔が一彦さんにそっくり」
「この写真は特別よく似ているんです。でも性格はもっと頑固かしら。主人のお父さんに似ているってよく言われます。それでも時々、一彦と同じことを言ったりして、びっくりする事があります」
「いつも、お仕事が終わってから保育所へお迎えに?」
「ええ。でも今日はお姑さんが迎えに行って、夕方まで預かってくれます。同居ではないけれど、車で十分ほどのところに住んでいるので」
続けて何枚か、息子の写真を見せてくれてから、由香里は携帯電話をバッグに戻した。自分にも画像をいくつかもらえないか?絵梨はそう頼んでみようかと思ったが、やはりやめた。私は彼女にとって、過去から来た存在だ。
「正直言って、由香里さんが東京から長野に移られるなんてちょっと驚きでした」
「そう?でも主人の実家があるから、いつかは移るつもりでいました。それが少し早くなっただけ。東京よりある程度不便なのはもう仕方ないとして、自然が豊かだったり、お野菜がおいしかったり、住んでみればいい事がたくさんありますよ」
「由香里さんが、北海道のご実家に帰られることは?」
「年に数回は。こちらに移る時には、父を呼び寄せることも考えましたが、友人や親戚も多くて心強いので、一人暮らしを続けるつもりらしくて。それに向こうには母と、一彦のお墓もありますし」
そこで言葉を切ると、由香里は自分を励ますように笑みを浮かべ、「絵梨さんはお仕事以外では、どんな風に過ごしてらっしゃるの?」と訊ねた。
「相変わらず、かしら。私も東京を離れて五年以上になりますけど、やっぱり住めば都って感じですよね。でも何がいけないって、ずっと一人暮らしで何とも思わないところじゃないかしら」
兄嫁からは時々、遠まわしに結婚の予定について問われる。それが絵梨の幸せを願って、だけではなく、自分の子供たちへの先々の負担を排除しておきたい、という考えからだというのはよく判っている。しかし絵梨には結婚が安全保障だとは全く思えなかった。彼女のそういうところが、たぶん兄嫁の神経にさわるのだろう。
「ねえ、もしその気になったら、私のベッドに入ってきても構わないからね」
真夏の夜、佐野がロンドンへ発つ九月まではまだしばらくの時間がある。
絵梨はダイニングの椅子に胡坐をかいて座り、シャワーをすませて冷蔵庫を開けようとしている彼にそう言った。
二人が一緒に住み始めて、既にひと月近くなっていた。
佐野は美大の大学院に在籍していたが、その傍らデザインスタジオで働いていた。絵梨は学生時代に少しだけそこでアルバイトをした事があって、二人はその時に知り合ったのだ。
モデルだとか役者だとか、佐野はそういう世界で通用するぐらい整った容姿の持ち主だったし、誰に対しても親切な態度で接するものだから、デザインスタジオの女性たちは既婚者も含めて全員が彼のファンだった。
絵梨よりも向こうが四つほど年上だったが、それを気にする必要もないほど打ち解けて話ができたし、何故だかよく食事やお茶に誘われた。
他の女性から嫉妬混じりの嫌味らしきものを言われた事もあり、確かに不思議ではあったので、「どうして私のことよく誘うの?」と率直に訊ねたことがある。
彼は至って真剣な表情で「絵梨ちゃんは僕のこと好きみたいだから」と答えた。
「でも、スタジオの女の人はみんな佐野くんの事が好きよ。自分でも判ってるでしょ?」
「それはちょっと違うっていうか、彼女たちは僕に好かれる自分が好きなんだ。僕のことなんか、別にどうでもいい」
「私は佐野くんといるのは楽しいわよ」
「そう。だからだよ、誘うのは」
あれから二年近い時が過ぎ、一応は社会人になり、自分も少しは大人になったと絵梨は考えていた。今ではあの時の佐野の言葉が、少し理解できる気がする。そしてさっきのような言葉だって、躊躇なく口にできた。
「絵梨ちゃんに対しては、そういう気にならないな」
彼は背を向けたままそう言って、冷蔵庫から出したミネラルウォーターのペットボトルを開けた。
「これのせい?」
彼女がわざとらしくタンクトップを捲り上げ、腹部を走る傷痕を示すと、彼は少し首を巡らせ、視線を一瞬だけ投げてよこした。
「もっと下の方まであるけど、見たいかしら?」
「いや結構」と言われると、更に悪乗りして「でも私、処女ではないの。こんな女の子でも手を出そうって人はいるのよ」と続けたが、タンクトップの裾は元へと戻していた。
「絵梨ちゃんは十分に魅力的だよ。ただ僕はそんな気にならないだけ」
「そうお、じゃあ私がその気になった時には、佐野くんのベッドにもぐりこんでいい?私の最大の魅力は、絶対に妊娠しないところなの」
「了解。でも絵梨ちゃん、今日に限ってそういう過激な事言うのは、何か理由があるの?見たところ、酔ってるようでもない」
「そうね。強いて言うなら、家に荷物を取りに行ったせいかしら」
「それで、お兄さんに会った?」
「いいえ、いたのはあの人だけ。栃木の実家に帰らずにあの家で産んで、お母さんに手伝いに来てもらうんだって。大きなお腹抱えて、暑くてほんとに大変って、それでもアイスコーヒーと手作りのロールケーキ出してくれたわ。アイスコーヒーはね、氷までコーヒーなの。溶けても薄くならないってわけで、もう完璧」
「なるほど」
佐野はそう言うと、ダイニングテーブルを挟み、絵梨の向かいに腰を下ろした。まだ濡れている髪は艶やかに光っている。
「話を聞く限り、とても親切でいい人だ」
「私だって、ちゃんと友好的な妹を演じてる。女をなめてもらっちゃ困るわね」
「かといって、男をなめるのもどうかな」
「別になめてないわ。ご依頼があれば舐めてあげるけど。けっこう上手だって言われるし」
絵梨がそう口答えすると、佐野はいきなり腕を伸ばしてきて彼女の頬を軽くつねり、手を放してからその目をまっすぐ覗き込んだ。
「黙ってようかと思ったけど、やっぱり言うよ。昨日の夜、ここにお兄さんが来た。君が遅番のシフトでバイトに行ってる間に」
「嘘」
「やっぱり何かおかしいと思ったんじゃない?富谷絵梨の兄ですって名乗られたら、ドアを開けないわけにいかなかった」
「でも、私には何の連絡も来てない。まさか佐野くん、私とつきあってるなんて言ってないよね」
「そんな失礼な事言わないよ。ただ、僕がもうすぐ留学するんで、その間留守を預かってくれる人が必要な事は言った」
「お兄ちゃん、それで納得してた?」
「どうだろう。少なくとも、怒ってはいなかったけど、何だかとても困ったような、面食らった感じだった。それで、絵梨は少し風変わりで時々横暴とも思える事を言いますが、根は優しいので、どうぞよろしくお願いしますって」
それを聞いた途端、何かが喉元までせり上がってきて、絵梨はのけぞって哄笑した。無理やりそうでもしていないと、苦い涙が溢れてきそうだった。
「絵梨ちゃん、お兄さんは君のことが大好きだよ。確かにそれは、君が期待している意味での好き、とは違うかもしれないけど」
「偉そうな事言わないで。佐野くんのお姉さんはどうなのよ。少しでも自分が期待してる意味で振り向いてもらった事あるの?彼女が誰かさんの子供を産んでも平気でいられる?」
佐野はそれには答えず、首にかけていたタオルで軽く髪を拭った。そして思い出したように、テーブルに置かれていた小さな赤い紙箱を手に取った。
「キャラメル食べる?」
「キャラメル?」
「友達にもらったんだ。フランスのカマルグでとれた塩が入ってるんだって」
彼は紙箱を絵梨の目の前に置く。
「ねえ、僕のことお兄さんだと仮定して、どんな風に食べさせてあげたいかやってみせて」
「何それ、くっだらない」
そう言いながらも絵梨は紙箱を開け、キャラメルを一粒取り出すと包み紙をはがし、「口あけて」と命令した。そして少し冗談めいた顔で言いつけに従った彼の口へ、ぞんざいに押し込んだ。
「次は自分がやってみたら?」と、絵梨は紙箱を彼の方へ滑らせた。
「わかった。じゃあ絵梨ちゃん、まず目を閉じて。それから口をあけて」
「かなりのアホ面になっちゃう」
文句をつけながらも、彼女は言われた通りにしてみせた。するとその顎を支えるように佐野の指先が触れた。驚いて反射的に身を引き、唇を閉じかけたところへ、彼の唇が重ねられる。その舌が甘く香ばしい小さな塊をそっと送り込んできて、彼女はまるで生まれて初めて食べるもののように感じながら、キャラメルという馴染み深いお菓子を味わった。
「びっくりさせたかな」
静かに身体を引くと、佐野は少し首を傾けて絵梨に微笑みかけ、自分もキャラメルを一粒手にとって口に含んだ。
「僕って絵梨ちゃんより、よっぽどどうかしてるだろ?」
平然とそう言ってのける彼に対して、一瞬でもうろたえてしまった事が絵梨には腹立たしかった。
「別に私だってあれ位のこと、考えないわけじゃない。ただ、キャラメルじゃなかったってだけの話よ」
「なるほど」
彼は素直に強がりを受け入れてくれたように見えた。しかし絵梨は自分の頬が熱いままなのを隠すわけにもいかず、憮然とした表情で甘い塊を舐め続けた。
「後悔とかしている?」
女からこんな質問するのもどうかと思ったけれど、絵梨は訊かずにはいられなかった。
ベッドの隅に追いやられていた水色のタオルケットを手繰り寄せて羽織ると、身体を起こす。ずいぶん長い間ぼんやりしていた気もするし、そうでもないようにも思える。
佐野は重ねた腕を枕にしてうつ伏せに横たわったまま、何も言わずに少しだけ彼女の方へ首を廻らせ、その黒い瞳を閉じた。長い睫毛がベッドサイドの明かりを受け、頬に影を落としている。
「こんな事言うと理性を疑われるかもしれないけど、私ね、佐野くんのことを一種の天使だと思ってるの」
「それは本当にどうかしてる」
彼は目を閉じたまま、そう答えた。
「まあいいじゃない、私の考えなんだから。で、放っておいたらそのうち天に戻ってしまうんじゃないかって気がして」
「それが今夜、僕の部屋に来た理由?」
「そうよ。貴方はもう堕天使だから、ずっと地上にいなくてはならないわ」
「僕はずいぶん前から堕落してる。ご心配には及ばないよ」
絵梨はタオルケットの中で両膝を抱えた。心配。確かにそれは自分の一方的な感情かもしれない。
佐野の出発までひと月を切ってからというもの、彼女は何故だか彼ともう二度と会えなくなるような予感に苦しみ始めた。冷静に考えれば、それはただの寂しさで、いつも自分の好き勝手な行いを容認してくれる、いわば兄の代わりとしての存在を失いたくない、という甘えだ。しかしその一方で、彼の身を案じるような、そんな懸念がとりついて離れないのだった。
「ね、佐野くんてさ、初めて女の人と寝たのはいくつの時?」
「高三の夏だから十八かな」
事もなげに答える、彼の白い背中に浮かび上がる肩甲骨は、まるで一対の翼だ。
「相手は?同級生?」
「ううん、たぶん十ぐらい上だったと思う」
「本当に年上が好きなのね。どこで知り合った人?」
「予備校の先生。美大受けるのに、実技のデッサンを習ってた」
「それで別な実技を教わっちゃったんだ」
思わずそう茶化すと、佐野はわざとらしく溜息をついた。
「そういう下品なことを言わなければ、絵梨ちゃんて本当にいい子なのに」
「別にいい子って年でもないし。でもさ、その人のこと好きだったの?」
「まあね。高校の頃って、姉さんはもう東京の大学に行ってて、父は病院が忙しくてほとんどすれ違い。食事やなんかは家政婦さんがやってくれてたけど、とにかく家に一人でいるのが嫌で、そのために遅くまで練習があるバスケ部に入ってたぐらい。でも部活を引退したら本当に空っぽな感じがして、まあ予備校の彼女もきっと、それに気づいたんだろうね」
「ふーん。でもまあ、いい話じゃない。ドラマみたいで」
絵梨がそう締めくくろうとすると、佐野は肘をつき、脇腹を下にして彼女の方を向いた。
「それで、絵梨ちゃんは?」
「え?私?」
「僕の話だけ聞いて終わりってのはずるいじゃない」
そう言われると、途端に奇妙な対抗意識が頭をもたげる。
「私は一年ほど前。相手は写真学校の同級生」
「つきあってたの?」
「ていうか友達ね。昼間は会社勤めしてる人でさ、たぶん佐野くんと同い年じゃないかな。なーんか笑いのツボが合うから、喋ってると楽しかった。その人が作品展で私の写真撮りたいっていうから、だったらやっぱり裸でしょ、って」
「絵梨ちゃんからそう言ったの?」
「ちょっと気持ちを読んであげた感じね。気が弱くて、真剣な話のできない人だったから」
「なるほど。優しいね」
「どうかな。私もちょっと、そんな写真撮ってみたいという気があったの。私の裸ってインパクトあるじゃない。プロポーションじゃなくて、傷のつき具合だけど。それでさ、ちょうど今の佐野くんみたいな感じで横になって」
「なるほど」
「撮影は普通に終わったんだけど、途中でふと思いついたの。使用前、使用後みたいな感じで、未経験と経験済みでそっくり同じ写真撮ったら、見分けがつくかなって。まあそれで実行してみたわけ」
「その彼は、嬉しかったんじゃない?」
「どうだろう。いや困るよ、マジかよー?って、言ってた割にやったけどね。でも結果としては失敗というか、写真は別に見分けのつくもんじゃなくて、私ですら判別不可能」
佐野はくすっと笑って、「それで写真は作品展に出したの?」と訊ねた。
「うん。一枚だけね。どっちを出したのか知らない。で、彼がタイトルを「石女」ってつけたら、それはちょっと、って駄目出しされて。私は初めて聞く言葉だったけど、石と女で「うまずめ」なんて、すごいと思ったのよ。でもなんか使っちゃいけない言葉らしくて」
「聖書にも出てくる言葉だけどね」
「そうなの?あの時それがわかってればね。とにかく、彼はそこで踏ん張れる人じゃないから、「一匹娘」ってタイトルに差し替えたの」
「その彼とは今も会ってる?」
「ううん。もう結婚してるわ。彼はずっと職場の女の子とつきあってて、子供ができてそのままゴールイン。今は奥さんの実家の八百屋さん手伝ってる」
「絵梨ちゃんと並行してつきあってたの?」
「そういう事にはなるわね。でも私たちは本気じゃなかったもの。六月に友達のウエディングパーティーでばったり会ったら、絵梨ちゃんごめん、あの写真もう無いんだ、って謝られちゃった。奥さんが、あんたもう八百屋なんだからそっちに集中しろって、作品全部捨てたらしいわ」
「すごいね」
「でも、そういうしっかりした奥さんだから、彼には合ってるかなって思ったわ」
「じゃあ、その写真ってもう見られないの?」
「ううん。私は経験前経験後、セットで持ってる。でも家に置いてきた。何かの拍子にお兄ちゃんが見てくれたら嬉しいな、なんて考えてね」
多分永遠に起きない、そんな可能性をいちいち想像して、時限爆弾を仕掛けた気になっている馬鹿な自分。
「僕はその写真、見分けられるかもしれないな」
「ぜったい無理だって」
「でも、他人にしか判らないことってあると思わない?」
「例えば?ここにホクロがあるとか?」
絵梨が手を伸ばし、佐野の右耳の裏にある小さな黒いしるしに触れると、彼はその上から指を重ねた。
「それとか、絵梨ちゃんはふだん憎まれ口ばっかりなのに、僕の腕の中では子猫みたいな声を出すとか」
一瞬、ほんのしばらく前に二人の間で起こした炎が甦った気がして、絵梨は小さく息を呑んだ。どうせ向こうは社交辞令程度だろうとたかをくくっていたのに、思いのほか遠くまで連れて行かれて、自分の一部はまだこの部屋に戻っていないような感じ。それを見透かされたようで、急に腹立たしくなってくる。
「うるさい。どうも、お邪魔さまでした」
つっけんどんにそう言うと、絵梨は佐野の身体を乗り越えて、床に落ちたTシャツを拾おうとした。彼はその腕を捕らえてそのまま抱き寄せる。
「朝までいてくれないの?」
「別に、いいけど」
絵梨は自分が彼の肌の温もりに抗う術を持たないことに当惑した。そして思い直す、そのために自分はここにいるのではないのか?それが偽りの絆であろうと、彼を地上にしっかりと結びつけておくために。
「ねえ、佐野くんが出発するまで、わたし毎晩ここで眠っていい?」
「もちろん、絵梨ちゃんが望むなら」
佐野を知るほとんどの女の子が、こういう時間を共に過ごすことを望むだろうに、絵梨はとても冷静な気持ちで彼の胸に耳を押し当てた。その奥底にある心臓は、彼女の存在とは無関係に落ち着いた律動を繰り返し、彼女が未だ会ったことのない女性の名前を刻み続けていた。
「一人でも平気っていうのはね、絵梨さんが強いからよ。きっと、どこででもしっかりと生きていけるわ」
まっすぐにこちらを見つめる由香里の声には、とても真摯な響きがあった。同じような言葉でも、内に包んだ悪意しか伝えてこない時もある。もちろんそんな「悪意」に反応するような絵梨ではなかったが。
「さっき廃校の撮影っておっしゃったけれど、これからもずっと、そういう場所を撮っていくつもりなんですか?」
「依頼があれば他のものも撮りますけど、基本的には、人間のいない場所を」
「でも、いつも思うのだけれど、貴方の写真からはとても強く、人の気配がしますね」
「それは当然かもしれません。私が撮るのは、人に愛された記憶のある場所だから」
絵梨がそう答えると由香里は静かに微笑み、自分を納得させるかのように頷いた。
外の雨は弱まる気配もなく、黒御影石の池の水面には無数の波紋が生誕と死を繰り返し続けている。
第二章
「あーもう、ぶっ殺す!」
頻繁に車線を変える前の車に向かって、絵梨が思わず悪態をつくと、助手席のヤシ君が「運転、代わりましょうか?」と申し出た。
頑張れば高速を降りるまで行けそうだったが、二十代の男の子相手にそんな根性を見せても意味がない。
「じゃあ、次のサービスエリアでお願い」
絵梨は素直にそう頼むと、少し背筋を伸ばした。
さっきまで眩しかった西日は低い丘陵の向こうに沈み、その上に薄く広がった雲は残照で朱鷺色に輝いている。七月の長い午後はようやく終わりを告げ、しばらく離れていた都会の夜景がその向こうから立ち現れようとしていた。
「この後、彼女と約束してるの?」
「ないっす。明日が水曜でノー残業デーだから、今日はけっこう遅くまで残るらしくて」
「あらそう。じゃあ晩ご飯食べていこうか」
ヤシ君は実に屈託なく「ごちそうさまっす」と返事した。年は二十五、大学を出てIT企業に就職したのにすぐ辞めて、後はずっと撮影スタジオでバイトをしている。絵梨がそのスタジオを仕事で訪れた際に今回の廃校撮影の話をしたら、無給でいいから手伝いたいとついてきたのだ。
よく気がつくし、体力があって、呑み込みが早い。彼はかなり理想的なアシスタントだった。食費と宿泊費は全てこっちが負担したけれど、日を改めて謝礼を出そうと絵梨は考えていた。
「スタジオのバイトはいつから戻るの?」
「昨日電話してみたら、今そんなに忙しくないから、月末まで大丈夫って言われて。ま、しょうがないっすね、十日以上休んで、いきなり戻りたいってのも勝手な話だし」
「その間に就職活動でもする?」
「いやあ、まだ具体的にどうしたいか決まらないんで」
彼はそう言って、へへっと笑った。本当に「いい子」ではあるけれど、自分というものがとても薄い感じがする。若い頃は「自分」を持て余していた絵梨から見ると、彼の頑健な身体とあっさりした性格はうらやましい程だった。
「絵梨ちゃんって、僕が思ってたよりずっと薄情だね」
「そうかな」
「二年ぶりで日本に帰ってきたら、黙って引っ越してるなんて、冷たいじゃない」
佐野はそう言って、お土産だというチョコレートの小さな箱を差し出した。それを当然のように受け取りながら、絵梨は「また一緒に住んじゃったら、今度はいつ出て行けばいいか判らなくなりそうだから」と低い声で言い訳した。
「なるほど」と、彼は少しだけ笑う。
「じゃ、合鍵はちゃんと返したからね。今月の光熱費はまた請求してもらえば払うわ」
「それはいいよ。鉢植えも全部面倒見てもらったし」
「思い出した時に水やってただけよ」
それだけ話すと、絵梨にはもう言うべきことがなくなった。
佐野がロンドンへの留学から戻り、自分はその一週間前に彼のマンションを出た。そして今日は近所のカフェで会って、部屋の鍵を返した。以上。
「それで、絵梨ちゃんは今どこに住んでるの?」
「前に三浦さんが住んでた部屋。結婚が決まったっていうから、家具だとか食器だとか、ほとんどいただいちゃって」
「そりゃついてたね。で、写真の方も順調なんだ」
「からかわないでよ。ちょっと雑誌に載ったからって、順調とは程遠いわ。相変わらずコールセンターでバイトしてる時間の方が長いんだから」
「別にからかってないよ。この二年の間に、絵梨ちゃんは自分の生活を切り開いたんだ。もっと自信を持ってあちこち売り込みしてもいいんじゃない?」
「外国帰りの人ってすぐにそういう事言うわよね。日本ってそんなに調子のいい国じゃないわ。まあ、じきに思い出すでしょうけど」
何故だろう、本当はとても懐かしくて嬉しいはずなのに、口を開けばつっかかるような言葉ばかり。なのに佐野は嫌な顔ひとつせず、落ち着いた様子でコーヒーを飲んでいる。だが以前の無条件に明るい感じが影をひそめ、うっすらと物憂げな気配があるのは、それだけ年をとったという事なのか、単に少し疲れているだけなのか。
「お姉さんにはもう会ったの?」
「来週会いに行ってくる。今は神奈川の病院に勤めてるんだ。絵梨ちゃんは実家に顔は出してる?」
「必要に応じて」
「どんな必要?」
「姪っ子の誕生祝いだとか、両親の命日だとか。来月あたり二人目が生まれるから、また行くでしょうね。お祝い持って。次は男の子らしいわ」
「そうか、色々とうまくいってるんだね」
「まあ、お兄ちゃんは非常勤のままで、予備校も掛け持ちして働いてるけど、あの人は産休に育休。明けたらすんなり職場復帰して、お兄ちゃんが仕事の合い間に保育所の送り迎えして、家事もするんだわ。そんな感じの円満家族よ」
今の自分はとんでもなく意地悪な顔をしているだろうが、佐野に見られても全く平気だ。
「絵梨ちゃんのこと、うらやましいよ」
「素敵な身内がいて?」
「吹っ切れるだけの条件が揃ってるところがね」
佐野はそう言って、窓の向こうに目を逸らした。絵梨はその顎の輪郭が以前よりも鋭くなった事に、何か悲しいような気分を覚えた。
「別に吹っ切れちゃいないわ。私はただ、置いてけぼりにされてるだけ。そうなれば一人で立ち上がるしかないもの。ねえ、お姉さんって彼氏とかいないの?写真を見る限りではすごい美人だし、周囲が放っておかないでしょ?」
「さあ、忙しくてそんな暇ないって、いつも言ってるけど」
「それってさ、向こうも実は佐野くんの事、本気で思ってくれてるんじゃない?」
彼はそれには答えず、口元だけでかすかに笑った。
ああ、どうして私はこの人をこんな風にいじめるんだろう。
絵梨は自分に腹が立って、前髪をかき上げると溜息をついた。
「失礼なこと言ってごめんなさい。でも何ていうか、私みたいにあちこちぶつかってきた人間と、まっすぐ育った佐野くんが同じような迷路にはまっちゃってるのが、時々どうしても納得いかなくなるの。だけどもしかすると、却って佐野くんの方が大変かもしれないわね。少なくとも私は、こんな目に遭ったんだから、ちょっとぐらい頭がおかしくなってもしょうがないでしょ?って言い訳できるから」
客観的に見て、絵梨は不幸な経験をしてきた人間に分類されるだろう。
幼稚園の頃に両親が離婚して、父親に引き取られた。そして一年生の時に父は再婚。相手には六年生の男の子がいて、子供たちは兄妹になった。新しい母親は穏やかで優しい人だったが、父親は彼女に家を任せきり、仕事で不在がちになった。
絵梨が兄のことを異性として意識し始めたのは、かなり早い頃だったような気がする。中学に上がる頃にはもう兄以外の人間と結婚するなんて想像もできなかったし、その一方で、どうやら自分は間違っているという事にも気づいていた。
それでも、一家が普通の家族として続いていれば何とかなったのかもしれない。しかし高校三年の夏、両親と彼女が乗った車に対向車線から居眠り運転の車が突っ込んできた。両親は即死、彼女は重傷を負った。それ以来、血のつながらない兄妹はふたり寄り添って生きることになってしまった。
絵梨には事故の記憶というものがない。十八歳の夏には何やら頼りない空白があって、その後に始まる思い出は病室の窓から見た黄金色の銀杏並木だ。両親の死をどうやって伝えられたのかも憶えていない。ただ、気がついたら父も母もいなくなっていた、という感じで、長い間、ふいに戻るような気がして待っていたように思う。
そして何度か手術をしたけれど、絵梨の傷は完全には回復しなかった。右脚は少しひきずるようになったし、子供を産むことは不可能になったと言われた。
絵梨は自分は不幸な人間になったと思った。
入院とリハビリが長引いたので、高校三年をもう一度やり直すことになったし、学校に行っても事情を知っている同級生から距離をおかれ、いつも困惑を含んだ笑顔で丁重にあしらわれていた。一足先に進学した友人の母親からは、「真面目に生きてれば、赤ちゃんは産めなくても、きっとお嫁にもらってくれる人がいるからね」と、涙ながらの励ましを受けた。
ただ一人、兄だけが今までと変わらず自分に接してくれた。余計な事は言わず、たまに気持ちがくすぐられるような冗談を言い、少し間抜けで、万事においてゆっくりではあるけれど、決して的外れな事はしない。落ち度があれば説教もされたが、それ以外は何も無理強いせずに、自分の気まぐれやわがままにつきあってくれた。
六年生まで母子家庭で育ったせいで、兄には食事の支度だとか洗濯だとか、何でも自分でこなす習慣がすっかり身に着いていた。兄妹二人だけで暮らすようになって、むしろ困ったのは絵梨の方で、まともに弁当を作れなかったり、ブラウスにアイロンをうまくあてられなかったり、その度に兄の助けが必要だった。
将来について特に目標のなかった絵梨は、高校を出て、流されるように大学へ進学した。難しくなさそう、という理由で私大の社会学部を選んだが、学生生活は予想以上に楽しかった。
それまで通っていた私立高校の、家庭環境も学力も似たりよったりの同級生に比べて、大学の友人たちはさまざまな背景を持っていて、ものの見方もそれぞれ違っていた。彼らと付き合ううちに、絵梨は自分の「不幸」についての考えを新たにした。
自分の「不幸」は「兄と結ばれる可能性ほぼ無し」という事だけだ。他の「不幸」は人から定義されたもので、自分が本当に感じている事ではない。
両親の死は彼女にとって悲しみではあったが、不幸と呼ぶには厳粛すぎる気がした。それは人間が立ち入れないところで仕組まれたものだ。自身も肌を掠めるほど死に近づいたせいで、絵梨はその事を心の深い場所で悟っていた。それに比べれば不幸は人の心が生み出す、物事のありように対するひとつの解釈で、ある意味で暖かくすらある。
そして二十歳を過ぎた頃、絵梨はたった一つの不幸を選び取って、他を捨てた。
それからは、自分でも不思議なほどに全てが気楽になった。ちょうどそんな時期に、アルバイト先のデザインスタジオで佐野と出会ったのだ。
絵梨はただの雑用係で、コピーをとり、郵便を出し、原稿を届け、コーヒーを淹れ、ゴミの分別をし、夜食を買いに走り、熱帯魚の水槽の掃除もした。一方佐野は、アルバイトとはいえ、中堅のスタッフと同レベルの仕事をこなしていた。
そこでは佐野を始めとして、絵梨が会った事のないタイプの人間が働いていた。ちょっとした世間話ですら刺激的で、仕事と遊びの境界線が無いような気楽なスタンス。かと思えば集中力は半端なく、納得いく結果のためには残業どころか徹夜も辞さない。
「みんな真剣勝負してるのよね。私だけぶらぶらしてお金もらってる感じでさ、まあ雑用だから当然なんだけど、これでいいのかな、って焦る時があるの」
ある日、帰り道で一緒になった佐野と歩きながら、絵梨はそんな話をした。
「だったら、絵梨ちゃんも何かやってみたら?」佐野はさらりとそう言った。
「私?無理よ。何もできない」
「でもさ、これでいいのかなって思うのは、心の底に何かがあるからだよ。写真なんかいいんじゃない?こないだ見せてくれたの、みんなも面白いって言ってたし」
「そりゃお世辞っていうか、社交辞令って奴でしょ」
写真、というのは、絵梨が友達と出かけた旅行で撮ったものだった。突然思い立って、すぐに予約のとれる旅館を選んだら、とんでもなくさびれた温泉街で、夜はまだしも、日が昇ると魔法が解けたように廃墟の様相を呈する場所だった。そのすたれきった感じに却って親しみのようなものさえ感じて、街のあちこちや、たむろする野良猫たちを写真に収めてきたのだ。
「あそこの人、みんな社交辞令なんか言わないよ。それは絵梨ちゃんもわかってるだろ?」
「そうかなあ」
「ああいう写真は絵梨ちゃんしか撮れないと思うよ。だからもっとやればいい」
思いがけず熱心に勧められて、その時は何となくはぐらかして終わった。それから二ヶ月ほどして、新人の女子社員と入れ替わる形で絵梨はバイトを辞めた。彼女は大学の四年生になろうとしていて、就職活動の代わりに夜間の写真学校に通い始めた。
ほぼ半月ぶりに戻った古い一戸建ての借家は、暗く静まっていた。絵梨は玄関に荷物を放り出したままで家中の窓を開け放ち、台所と風呂の換気扇を回した。それからサンダルをつっかけて、すぐ近所に住む大家を訪ねた。
夜風は穏やかで、かすかに潮の香りが混じっている。海へ続く大通りに出てから少し歩き、もうシャッターを下ろしている古びた雑貨店の裏手に回ると、彼女は「こんばんは」と声をかけた。「はあい」と小さな応えがあって、勝手口に明かりがつく。
「お帰りなさい、お疲れさま」
出てきたのはエプロン姿の奥さんだった。洗い物をしていたのか、濡れた指先をエプロンの端で拭っている。彼女は去年還暦を迎えたらしく、孫も三人いるが、年よりも若く見えた。
「もうちょっと早く帰るつもりだったんですけど、遅くからすみません。これ、よかったら召し上がってください」
絵梨は手にしていた紙袋を差し出した。中味は仕事先で買った、地元客に人気というクッキーだ。
「いつもありがとうね。晴れ間を見計らって風通しておいたから、カビとかは大丈夫だと思うけど」
「ありがとうございます。お手数おかけしました」
長期の仕事で家を空けることはよくあるし、不在の間に大家が時々様子を見てくれるのは有難い。
「長旅でお疲れでしょう、早くお休みなさい」という声に送られて、絵梨は自分の住まいへ戻った。
海に近いこの街に引っ越してもう随分になるが、最近では首都圏へのアクセスが良いという事もかなり知れ渡り、単身者だけでなく家族で移ってくる人も増えている。
本格派のベーカリーだとかカフェだとか、いつの間にかそんな店が目につくようになり、街は少しずつ変わってきた。後から越してきた知人によると、絵梨が借りている平屋の家賃は現在の相場に比べてかなりお得らしい。
とはいえ、絵梨の住まいは築三十年で、入居前に水周りをリフォームしてはあったが、風の強い日などは音をたてて軋むことがある。越してきた翌年に大きな台風が直撃して、その時はさすがに一瞬後悔したけれど、翌朝の光り輝く海と抜けるような青空を見たら、やっぱり当分ここに住もうと思った。
家の前には屋根つきのカーポートがあり、引っ越しを機に買った中古のトヨタが闇の中で緩やかに放熱している。掃除に洗濯、買い物と洗車。頭の中で明日の予定を組み立てながら、絵梨は鍵をかけずにおいた玄関に入り、キッチンへ行くと冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを出して一口飲んだ。そしてボトルを手にしたまま風呂場に行くと湯船に栓を落とし、蛇口をひねってお湯を出した。
「こういう時、恵存って書くんだってね」
「そんなに堅苦しくなくていいよ」
「え、もう書きかけちゃった」
絵梨は溜息をついて、手にしていたサインペンで「存」の字を書き上げた。
「佐野一彦様恵存」、画数の多い「恵」に対して明らかに小さい「存」に思わず苦笑して、「やっぱり新しく書こうか」と表紙を閉じかけると、佐野は「駄目だよ、これがいいんだ」と手を伸ばして引き取った。
B5サイズの薄い写真集。表紙も含め全てモノクロで、地味で部数も少ないけれど、とにかくそれは絵梨にとって初めての作品集だった。
「みんなに恵存って書いてるの?」
「とりあえず身内だけ。お兄ちゃんにそう書けって言われたんだけど、違うのかしら」
「いや、それが正しいんだけど」
「まあ、私のキャラじゃないわよね」
絵梨はサインペンにキャップをするとバッグに戻し、照れ隠しのように膝のナプキンの位置を直した。佐野はもったいぶって表紙を開き、「車関係と勘違いされたりしない?」と笑った。確かに「ハイオク」という書名は紛らわしいが、最初に浮かんだのがそれで、中味も廃屋だけでまとめたので嘘ではない。
「勘違い需要も見込んでつけたタイトルだからね。佐野くんも車好きだから、ムラっと来たんじゃない?」
「それはないけどさ」と言ったところで前菜のテリーヌが運ばれてきたので、彼はその本を鞄の中にしまい、赤ワインの入ったグラスを手にした。
「ではあらためて、写真集出版を祝って」
「ありがとう」
絵梨も素直にグラスを差し上げ、ワインを軽く口に含んだ。佐野は料理だけ絵梨に選ばせ、ワインは自分で決めたけれど、絵梨の舌でも相当高価らしいということは感じ取れた。
噂によると佐野はかなり稼いでいるらしいが、それでもこんなに優雅な雰囲気のフレンチレストランでご馳走になるというのは、何だか落ち着かない事だった。
「絵梨ちゃんもこれで、名実ともにプロフェッショナルだね」
「まあ、ようやく写真と無関係なアルバイトとは縁が切れたけど。正直いって不安ではあるのよね。仕事が途切れたらどうしようっていつも思ってるし、佐野くんみたいに学校で教えられる学歴もないし」
「自信を持って、正面向いて真剣にやれば仕事はちゃんと来るよ。でも、心配だったらうちの事務所に入る?」
「それは遠慮しとく。明らかにカラーが違うし」
佐野は留学から戻り、大学院を出てからしばらくはフリーで仕事をしていたが、二年ほど前から友人の立ち上げた事務所に所属している。
「ねえ、どうして今のところに入ったの?フリーの方が気楽じゃない?それに事務所だったら前のところの方が知名度あるのに」
「まあ、今は学校でも教えてるし、小さいところの方が気楽なんだ」
彼は事もなげにそう答え、長い指でパンを割ってバターを塗った。絵梨が人づてに聞いた話は少し違っていて、その友人の事務所というのが大して儲かっておらず、佐野が入ったおかげで何とか持ち直したらしかった。
人助けだか何だか、優しいところ見せちゃって。
絵梨はむしょうに腹立たしくなってきて、グラスのワインを飲み干した。
「ねえ、もうお姉さんとは一緒に住まないの?神奈川から都内の病院に移ったって言ってたよね」
「絵梨ちゃんが、またお兄さんと住むようなことがあれば、もしかしたら」
「なるほどね」
いまさらこの程度のやりとりでは互いにびくりともしない。絵梨はナイフを置き、佐野の端正な顔をあらためて検分した。
ほぼ左右対称で、鼻筋が通っていて、北国の生まれらしく色が白い。女性的ともいえる、柔和な顔立ちをしているのに、ただ目の光だけは深く暗い色を湛えている。しかしその瞳の暗さに気づかない人間が多いことも、絵梨は知っていた。
「私はもう、一人でいる事に慣れたわ。だけど、それでもたまに、お兄ちゃんと二人だけで、下らない会話を延々と続けたいなんて、思ったりはする」
何も言わずに軽く頷いて、佐野は絵梨のグラスにワインを足し、自分のグラスにも注いだ。いくら飲んでもほとんど顔に出ないけれど、彼は酔うと少し無防備になる。
「ねえ、今夜泊めてくれないかしら。それで明日、噂のマセラティで海を見に連れてってよ。どうせお祝いしてくれるなら、二十四時間ぶっ通しでお願いしたいわ」
突然こんな図々しいことを言っても、絶対に拒まれないという確信がある。そして案の定、彼は少し眉を上げただけで、「わかった。でもあの車、中古だからね」と笑った。
絵梨はシャワーの後で借りたパジャマを着てベッドに横たわり、二つ折りにしたクッションに背中を預けて、同じくパジャマ姿で隣に座っている佐野の膝に足を投げ出していた。
彼はまるでプラモデル作りに熱中する小学生のように、真剣な様子で彼女の足の爪にエナメルを塗った。レストランの帰りに寄ったコンビニで、外泊に必要なものを買ったついでに選んだ、マットなベージュ。
彼女の右脚の中指から小指までの爪は、左よりも小さくて褐色がかっている。
「こっち側だけ、怪我をしてから色が変わっちゃったのよね。やっぱり血の巡りが悪いのかな」
彼はそれには答えず、俯いたままでひんやりとした液体を重ねてゆく。手元を照らすスタンドの明かりだけがほんのりと明るく、部屋の隅は闇に沈んでいる。枕元のスピーカーからは、絵梨がリクエストしたカエターノ・ヴェローゾが低く流れていた。
「ねえ、お姉さんにもこんな事してあげた?」
「手の爪にはね。彼女が高校生だった頃に、よく塗ってあげたな。これから出かけるのに時間がない、なんて時にはね。それで、乾くまでの間に髪も巻いてあげるんだ」
「困った弟さんだ」
「本当にね」
そう言うと、佐野はエナメルの瓶の蓋を閉めてサイドテーブルに載せた。そして絵梨の足を膝から下ろすと、壊れ物でも扱うようにシーツの上に横たえた。
「この爪が乾くまでの間は、何をしてくれる?」
彼女がそう尋ねると、彼は少し考えて、「僕から質問していい?」と言った。
「どうぞ」と答えてクッションの位置を直し、絵梨は彼の言葉を待った。
「絵梨ちゃんはお兄さんが結婚して、彼自身の家庭を持ったことに満足してる?」
彼は自分の足元に目線を落としたままでそう問いかけた。その指は絵梨の爪先のすぐそばで、内側に張りつめたものをシーツの海へとかすかに伝えていた。
「満足っていうか、納得してるかな」
「納得?」
「うん。彼が望んでいる、普通に働いて普通に結婚して、普通に子供を育てるって事を邪魔せずにすんだって、そういう意味での納得。お兄ちゃんは残念ながら大学のポストは手に入らなかったけど、ちゃんと中堅の会社に入って、専門の研究は続けて、それなりに評価されて、奥さんはしっかり者で、健康で賢い子供が二人もいる」
「おまけに妹は写真家で、作品集を出した」
「それは別にどうでもいいの。とにかく、ああ、絵梨さえいなければ、なんて思われてなければ、それでいいのよ」
絵梨はまだ乾ききらないエナメルに触れないよう、注意深く足を組んだ。佐野はちらりとそちらを見て、再び視線を落とす。
「まだ僕とこの部屋に住んでた頃、彼女は家庭のある人と付き合ってたんだ」
そんな話、初めて聞いた。絵梨はそれを口に出さず、ただ「そう」とだけ答えた。
「相手は彼女より一回りほど年上でね、僕が大学に入って、こっちに住むようになった時にはもう始まっていた。彼女は僕と住むことで、けじめをつけようと思ったみたいだけど、それは無理だった。奥さんとは家庭内別居だとか、離婚を拒否されてるとか、よくある言い訳をされたらしいけど、まあ彼女もそれを信じたかったんだろうね」
「誰かを好きになるって、そういうものかもしれないわね」
「初めてそれを知った時、正直いって僕は頭が変になりそうだったよ。こっそり相手の職場に行ってみたり、何度も彼女と口論になったりした。でも結局、そうする事ではっきりしたのは、僕は決してその男の代わりになれないって事実だけだ。
知ってるだろうけど、うちの父親は医者で、僕もそうなる事を期待されていた。でも絶対に嫌だったんだよね。それで、中学受験をするかどうかって時に、彼女に相談したらさ、大丈夫、お医者さんになるのは、私が引き受けるからって約束してくれた。そんな重荷を預けたままで、僕に彼女の何を責められるだろう」
絵梨は黙ったまま、自分の呼吸だけを感じていた。
「だから僕は少しずつ、現実を受け入れる努力をした。ある意味では僕の思い通り、彼女は完全には誰かのものにならず、傍にいてくれるんだから。それにほとんど成功したと思っていたある日の夜、彼女はひどく酔って帰ってきた。今度こそ本当に別れたから、私は大丈夫、一彦さえいてくれれば絶対に大丈夫、そう言って笑ってたのに、次の瞬間には大粒の涙を流してるんだ。それで僕は」
彼はそこで言葉を切り、肩で大きく息をした。
「僕は彼女に触れた。弟と姉じゃないやり方で。自分を抑えられなかった、なんていうのは言い訳で、今だったら、一度だけなら許されるんじゃないかと、そんな風に思ったんだ。でも彼女はすぐ我に返って、僕を拒んだよ。当然だけれどね。
僕は彼女に謝って、すぐに家を出た。その夜は友達の家に泊って、次の日も、また次の日も帰らなかった。そして、学校で留学生審査に応募する書類を出してからようやく戻った。でもその時にはもう、彼女は出ていった後だった」
絵梨は「そうだったの」と言ったつもりだったが、かすれた声は自分でも聞き取れなかった。
「最低なのは彼女に、何もかも自分が悪かったって、そう思わせてしまった事だ。あれからずっと、互いに何もなかったように振舞ってはいるけれど、僕はそんな自分が許せない」
低くそう呟いて、佐野は両手に顔を埋めた。絵梨はただ「お姉さんもあなたも、誰も悪くないわ」と言うしかなかった。
長い沈黙が訪れ、いつの間にかカエターノも歌うのを止めていた。絵梨は身体を起こすと、もう一度「誰も悪くない」と繰り返し、佐野の肩に手をかけた。彼はようやく顔を上げると、なんとか微笑みを浮かべようとした。
「絵梨ちゃんの一番好きなところはね、絶対に泣かないところ」
「私だって、泣くことはあるわよ」
「でも僕の前では泣かない。だからとても安心するんだ」
「それはそうね」と絵梨が頷いてみせると、佐野は彼女の爪先を軽く握った。エナメルはとうに乾いていて、絵梨はその手の温もりで、思いのほか自分の身体が冷えていた事に気づいた。
「ね、もう寝ましょ。それでさ、明日の朝とびきりおいしいコーヒー淹れてくれる?それから車とばして海に行って、帰り道に一番くだらない名前のラブホテルに入ろうよ」
こんどは佐野も少しだけ笑ってくれて、絵梨はそのまま爪先を引っ込めると毛布の下に潜った。
少しのぼせたみたいだ。絵梨は腕を伸ばして窓を半分ほど開くと、夜風を招き入れた。湯船に沈んだ右足の爪は今や親指以外全て褐色になっていて、自分の生命が少しずつ終わりに近づいている事を知らされているような気分になる。
でも別に怖くはない。
流れる時間の中で自分は生きている。その先には死という名の静寂があり、もう一つの世界がある。自分はいつかそこで、両親に再び会うのだろうか。そして佐野ともう一度、語らうことがあるのだろうか。
第三章
「じゃあまた、一週間ほど前になったら連絡するよ。ありがとう」
「どういたしまして。ゆっくり楽しめるといいわね」
絵梨はそう言って電話を切った。
土曜の昼前。兄が用事で連絡してくるのはたいてい今ごろだ。単なるご機嫌伺いなら、通勤帰りの電車からメールを送ってくる。
リフレッシュ休暇をもらえる事になったので、夫婦でヨーロッパ旅行に出たい。子供たちは義姉の両親が世話をしてくれるが、三連休のかかる週末は絵梨のところに行かせたい。そんな話だった。
こんな時、台本を作るのは義姉で、兄はただそれを素直に伝えてくる。彼の頭には自分の子供たちと妹が一緒に楽しく週末を過ごすというイメージしかないし、絵梨もそれを壊すつもりは全くない。とはいえ、義姉に対しては複雑な気持ちがつきまとった。
「絵梨ちゃんにも、子育て体験を共有してほしいな」
姪が生まれて間もなかったころ、初めて顔を見に行った絵梨の腕にわが子を押し込むようにして、義姉は高揚した声でそう言った。絵梨は彼女の真意をはかりかねて曖昧に笑うしかなかったけれど、姪と甥の誕生日や運動会、音楽教室の発表会といったイベントに呼ばれる度にその言葉が耳の奥にこだました。
実際に血はつながっていないけれど、姪も甥も彼女にとっては大切な存在だった。たまに会えば嬉しそうに話しかけてくるし、彼女が海辺の街に引っ越してからは、物珍しさも手伝ってか頻繁に遊びに来たがる。
兄に似ておっとりとした性格の姪と、義姉に似て要領がいいけれど、とても繊細なところがある甥。上が高一に下が中二で、これからどんどん自分の世界を広げてゆく二人が一緒に行動してくれるのもあと少しだと思うと、絵梨は彼らを楽しく迎えたいと心から願うのだった。
それでも二人は絵梨の子供ではない。短い時間を一緒に過ごしたところで、子育てなんて判るはずもなかったし、趣味の蕎麦打ちか何かみたいに「体験」できるものでもなかった。
まあそんな事どうだっていい。義姉はきっと、自分の発言なんてとうに忘れ去っているだろうから。
絵梨は冷蔵庫を開けると、琺瑯の器に入っているイカのマリネの様子を見た。朝早くに市場で新鮮なのを買ってきて、レッドオニオンとパプリカと塩漬けのオリーブで合わせた。本当は夕方まで寝かせておきたいけれど、今日は昼食会だ。
少し離れた場所に住む友人の駒子から、こちらに引越しを考えている知人が来るので、絵梨からも率直な意見を聞かせてほしいと招待されていた。手ぶらで行くのも気がひけるので、こうして料理を作り、もらい物の焼き菓子も持参する事にした。
熱をはらんだ海風は開け放った窓から緩やかに吹き込んできて、軒下に吊るした明珍火箸の風鈴を時折鳴らす。夏休みに入って以来、家の前の道路は海水浴客の車で渋滞しがちだ。早めに出発することにして、絵梨は寝室に入るとハンガーからインド綿のワンピースを外した。
「天気はいいけど、まだちょっと泳ぐには寒そうね」
「泳ぐっていうなら、止めはしないよ」
近くの駐車場に車を停めて、二人は海辺まで歩いてきた。夏場なら若者や家族連れで賑わうこの場所も、五月では人影もまばらだ。アスファルトの道路から浜に降りてゆくと、少しヒールのあるパンプスを履いた絵梨の右脚は、砂に捉えられてふらついた。
「こんな靴はいて海に行きたいなんて言い出すんだから、自業自得よね」
笑う彼女に、佐野は黙って腕を差し出した。遠慮せずにそれにすがると、絵梨は「でも私、海で泳いだことないの」と言った。
「お父さんの好みで、夏休みの旅行はいつも山だった。泳ぐのは学校か遊園地のプールだけ」
「友達と海に行ったりもしなかったの?」
「そうね。怪我してからはプールにも行ってない。皆が楽しもうって時に、水着姿で手術の痕とか晒すのも迷惑かなって、勝手に気を遣ってたの」
「僕は北海道だから、海で泳いだのは東京に来てからだな。でも、人が多すぎて泳ぐなんてもんじゃないし、正直いって何が楽しいんだろうって思った」
「確かに、普通の女の子に興味がない人にはつまらないかもね」
「そういうわけじゃないけど」
背の高い松の防砂林を抜けて、二人は波打ち際に近づいた。少し離れた場所では、二頭のレトリーバーが飼い主の投げた流木めがけ、先を争って海に飛び込んでいる。
「私達が今、こんなところを二人で歩いてるなんて、絶対にみんな知らないよね」
「知らせる?」
「まさか。私達は共犯者よ。そう簡単に尻尾を出すわけにいかない」
「それじゃこれからも、ちょっとした友達の絵梨ちゃんと佐野くんって事で」
「ねえ、佐野くんって、男の人に好かれちゃったりした事ある?そんなにカッコいいのに彼女作らないのはそっちの趣味じゃないか、なんて噂する人もいるけど」
「なくはない。いっそその方が楽かな、なんて思って、つきあってみた事もあるんだけど」
「そうなんだ」
絵梨は一瞬立ち止まって、彼の横顔を見上げた。
「でもやっぱり続かなかったな。相手にも悪いことをしたと思ってるよ」
「ていうか、つきあえちゃうもんなの?」
「まあね。僕はさ、誰かに必要とされてるなら、それはそれでいいんだ」
なるほど。だから私とも遊んでくれるのね。口には出さず、絵梨はまた足を踏み出した。
「ねえ、今だけ本気でつきあってるふりしてみない?」
「いいよ。絵梨ちゃんは何がお望み?」
「私のこと抱き上げてみて」
返事する代わりに、彼は絵梨の腰に腕を回すと軽々と抱き上げた。思いのほか力強いその動きに少し当惑して、絵梨は何故だか「馬鹿みたいね」と呟いた。佐野は黒い瞳で見上げたまま「馬鹿みたいかな?」と問いかける。
ふいに絵梨は悲しくなって、彼の肩に手をのせると、うつむいて唇を重ねた。彼はそのままゆっくりと絵梨を砂の上におろす。彼の舌が自分の少し開いた唇を探るように入ってくるのを感じながら、彼女は胸の中で「馬鹿みたい」と繰り返した。
自分が兄としてみたかった事、佐野が姉との間で望んでいた事。
こんなに広々と明るい場所で実現しているのに、誰も知りはしないし、何も生み出さない。なのに絵梨の身体は現実味のない快楽に溺れそうになって、彼女は佐野の柔らかな髪に指を埋めると、自分も舌を絡めた。
彼のいつもより少し早い呼吸。初夏の日差しをうけて高まったふたりの体温は、砂浜をわたってゆく乾いた風に散らされる。
「もういいわ」
絵梨は濡れた唇でそう囁くと身体を引いた。何も言わない佐野の表情は、ちょうど太陽を遮る角度でよく見えない。
「続きはまた後でね」
勝手にそう宣言して前に進むと、途端に足をとられた。ほどいたばかりの腕がまた自分を支えるのを感じて、絵梨は振り向いた。
「ごっこ遊びで十分楽しめるなんて、三十にもなろうってのに、私達まるで子供ね」
「かもね」
潮はどうやら退いている途中らしく、濡れた砂は暗く色を変え、陽光を反射して輝いている。波は穏やかなのに、腹の底に響くような音をたてて寄せ続けた。
「本当の意味できょうだいなのは、私達かもしれない。共犯者できょうだい」
「共犯者って言えばさ」
佐野は何気ない風を装って、絵梨の傍に並んだ。
「僕と姉さんも子供の頃はちょっとした共犯者だったよ」
「何をしたの?」
「うちの母って、三十七で亡くなったんだ。僕が物心ついた頃には入退院を繰り返してたけど、元々身体が弱かったのに、無理して二人も産んだせいだって、親戚のおばさんがよく言ってた。亡くなった時は、冬の初めに病院でもらったインフルエンザをこじらせて、肺炎であっという間。僕は三年生だったよ」
「そうなの」と頷いて、絵梨は佐野の腕を支えに歩き続けた。
「それでさ、母が亡くなって一年ほどすると、父は再婚を考えるようになったんだ。自分は仕事が忙しいし、子供はまだ面倒を見てくれる人が必要。親戚からも色々と紹介されたらしい。何人か会ってみて、よさそうな人がいれば、次は僕らも一緒に会うんだ」
「親子でお見合いするわけね」
「だいたいは札幌とか、道南の人だったけど、仙台まで行ったこともあるな。でも結局、父は今までずっと独身のまま」
「そこに犯罪の匂いがする」
「そう。新しいお母さんってものに対して、僕はけっこう乗り気だったんだよね。男の子なんて優しくされるのを期待してるだけで、単純なものさ。でも姉さんは違った。彼女はもう中学生だったし、僕からみたらほとんど大人で、すごく冷静なんだ。お見合いの前の夜になると必ず、彼女は僕の部屋にやってきて、いい?明日は絶対に途中で具合が悪くなるんだからねって、仮病をつかうように命令するんだよ」
「で、素直にお腹が痛いふりとかするの?」
「それがさ、子供ってすごいよね。本当に頭が痛くなったり、熱が出たりするんだよ。僕はほぼ打率十割でやってのけた。そうなると、お見合いもそこそこに家に帰って、それでおしまい。今じゃ風邪もほとんどひかないけど、僕は小さい頃はよく病気をしてね、母親のこともあったから、周囲は必要以上に心配したんだ」
「でも、実際に熱が出るなら苦しいじゃない」
「まあね。それでぐったりして寝てると、姉さんがやってきて、はいご褒美ってアイスクリームくれるんだよね。でさ、それ食べながら、今日の女の人って、お父さんにはにこにこして、私たちを見る時は一瞬真顔になるのよね、なんて聞かされて」
「なるほど、そうやって調教されちゃったんだ。佐野くんって立派な被害者だと思うわ。自覚はないでしょうけど」
絵梨の挑発にはのらず、佐野は溜息のような笑いを漏らした。
「姉さんにとって母は、何ていうか、絶対的な存在なんだ。資産家の生まれでさ、元々は樺太で林業とかやってた一族なんだけど」
「樺太?って北海道?」
「地図でいうと北海道の左上にある、細長い島だよ。戦争が終わるまでは南半分が日本の領土だったんだ。今はロシア領で、サハリンって呼ばれてる」
「へえ、知らなかった」
「まあ、それで、母は学校の成績もよくてさ、大学は東京で国文学を専攻して、大学院に残るよう勧められたらしいけど、やっぱり身体が弱くて。けっきょく卒業後は札幌に戻って、父とお見合いで結婚したんだ」
「資産家の令嬢らしい選択だと思うけど」
「でもね、母は本当のところ、満足してなかったんだろうね。姉さんにはよく、結婚は無理にしなくていいから、まずは手に職をつけて自立することって言ってたらしい。別に夫婦仲が悪かったとか、そういう事じゃないんだけど」
「その気持ちは、何となく判るわ」
「だからまあ、姉さんは母以外の女性を家に入れるなんて、絶対にしたくなかったんだ。でも父にも気を遣ったんだろうね。そこで僕が役に立ったわけ」
「結果的には、お父さんと結婚する人がいなくてよかったわよね。結婚してたらきっと、天使みたいな顔の小悪魔たちに、精神ボロボロにされてたわよ」
「僕たち、そんなホラー映画みたいな子供じゃなかったよ」
「十分ホラーだって。ねえ、そんな秘密聞かされて、私この後、海に沈められるんじゃないわよね」
「それはどうかな」
気がつくと二人は遊泳区域の終わりを示す桟橋まで来ていた。砂浜はその向こうにもまだ続いていたが、傾斜が強くて岩場が迫っている。水底もまた急に深さを増しているようで、深緑に近い暗さを抱え込んでいた。
絵梨は低い階段を上り、木製の桟橋に立ってみた。そして半分ぐらいの距離を進むと、遊泳禁止の側にだけある手すりにもたれて佐野に向き直った。
「ねえ、もし私が殺してくれって頼んだら、引き受けてくれる?」
「なんでそんなこと言うの?」
「事故で怪我をした時にね、もう少しずれていたら、一生寝たきりだったかもしれないとか、そういう事を言われたの。まあ、ラッキーだったと思わせたかったんでしょうけど、たまにふと考えるのよ、今更のようにそんな事になったらどうしようって。なんか馬鹿げてるけど、ちょっと転んだりしたはずみで、古傷が悪くなってそのまま寝たきりとかね。まあ、肉体的なものは受け入れざるを得ないって覚悟があるし、兄さんは当たり前の顔して面倒みてくれるだろうけど、あの人に迷惑だって思われるくらいなら、さっさとおさらばしたいの」
「そこで僕の登場か。でも申し訳ないけど、無理」
「あっさり言うわね」
「だって僕は動物実験だとか解剖とかが嫌で、医者になるのを拒否したんだよ」
「でも、スプラッターじゃない殺し方もあるわよ」
佐野は黙って絵梨の隣に立つと、彼女とすれ違うように手すりにもたれ、背筋を伸ばしたまま海の方へ軽く身を乗り出した。
「そういう理由だったら、僕は絵梨ちゃんと結婚する。そしたらお義姉さんも安心してくれないかな」
「そしたら佐野くんの博愛主義者としての名声も、不動のものになるわね」
「いい取引だ。善は急げでさっそく実行する?僕らは立派に適齢期って奴だけれど」
絵梨は前を向いたまま、波打ち際で駆け回っている二頭のレトリーバーを見ていた。
「それは無理。私が心の中に隠してる、最低な筋書きを教えてあげようか」
「どんなの?」
「あの人が死んじゃうの。病気でも事故でも、理由は何でもいい。それで私は大手をふって家に戻って、お兄ちゃんとチビたちの面倒を見るってわけ。世間からは妹さん、偉いわねえ、なんてヨイショされちゃって。気高き志を持つ、自己犠牲のヒロイン。だから私、自由でいなくてはならないの」
「確かにそういう可能性は、ゼロとはいえないね」
佐野が身体の向きを変えて、自分と並んだ気配を感じながら、絵梨は尚も犬たちを見ていた。
「でもさ、そういう事になったら、僕は誰からも非難されるやり方で絵梨ちゃんのことを捨てるよ。で、めでたく離婚成立」
「佐野くんって、時々そんな風に優しすぎて、だから嫌いになりそうなことがあるわ」
絵梨は手すりから身体を起こすと佐野を見上げた。彼も同じものを見ていたらしく、視線はそちらに向けたままで「ごめんね」と呟いた。
「買い物に不便した事は特にないけれど、遊びに来た友達が夜中に体調を崩した時は不安だったわ。近くの診療所じゃ救急外来はやってないから」
絵梨はよく冷えたペリエを飲みながらそう言った。今日のホステスである駒子は「市民病院なら夜間救急があるけど、車で三十分はかかるわね」と付け加える。
「やっぱりお医者さんや病院って大事よね」
聡美はそう言って夫の方を向いた。彼女は二十八で、夫の孝仁は三つ年上。プログラマーをしている孝仁は毎日出社する必要がないので、この街へと転居する計画をたてていて、知人である駒子にアドバイスを求めてきたというが、二人は結婚してまだ一年足らずらしい。
「どこで出産するかも考える必要あるかもね、産婦人科も小児科も一軒だけだから、事情がある人は隣町まで行ってるらしいわ。あとは市民病院一択よ」
駒子はそう言って、手際よく空いた皿を下げた。
「そうなの」と頷き、聡美は絵梨の持参したイカのマリネを皿にとった。今は派遣社員で経理を担当しているが、こちらでの仕事も心配らしい。
「まあ、引っ越してくる人が増えてるから、これかれは病院とかも充実してくると思うけど」
少し不安そうな聡美を励ますつもりで、絵梨はそう言うと手元の小鉢にあったプチトマトを口に運んだ。いったんキッチンに姿を消していた駒子は、焼きあがった茄子のグラタンの皿を手に戻ってきた。
「たしかに、今年は小学校一クラス増えたものね。岬タウンなんか、見学のお客さんで毎週末すごい人だっていうし」
「ああいうエリアでぽんと一軒買えるほどの金があればいいんですけどね」
取り分けられたグラタンを受け取り、孝仁は軽く頭を下げた。
口ではそう言うけれど、彼は実際には入念に計画を立て、理想の家を作り上げるタイプに見える。絵梨のような、直感と閃きに従って行動する人間の対極だ。
「駒子さんがこっちに移ったのは、絵梨さんの紹介でしょ?」
「紹介というか、夏に子連れで絵梨の家に遊びに来て、楽しかったのよね。いつもは喘息の発作が心配な息子が、妙に元気だったりして。で、次に旦那も一緒で一週間ほど民宿に滞在して、その次に来た時には不動産屋に会ってた」
「駒子さんは翻訳の仕事だから、引越しは影響しなかったでしょうけど、ご主人のお仕事はどうだったの?」
「うーん、だから最初は私と息子だけで移住しちゃった」
「駒子さんって、決断したら早いのよ」絵梨が合いの手をいれると、駒子は悪戯っぽく笑った。
「今のちょっと皮肉なのよ。それが原因で旦那と喧嘩もしたし、でもまあ、今は単身赴任みたいな感じね。彼は金曜の夜こっちに来て、月曜にここから出勤。まあ会社に異動の希望は出し続けてて、来年はこっちの営業所に移れそうよ」
「息子さんの喘息って、今はどうなの?」
「随分落ち着いてる。もちろんお医者さんにはずっと診てもらってるけど、丈夫にはなったわね」
「それだけでも来た価値があるわね。じゃあ、絵梨さんが引っ越してきたきっかけは?」
「え?私?」
なんとなく駒子と聡美に会話をまかせていたので、急に水を向けられた絵梨は少し慌てた。食べ終わったグラタンの皿をテーブルに置き、再びペリエを飲んでから口を開く。
「私は、ちょっと都内に住むのに疲れてたの。別に通勤する必要もないんだから、海の近いところに住もうかなって」
「ここ以外にも候補地はあったの?」
「それはないかな。何となく、海辺の町ってここしか思いつかなかった。ずっと前に遊びに来たことがあって、その時なんだか気に入ったのね。で、久々に来てみたらあんまり変わってなくて、それで住むことにしたの」
「それって、彼とデートで来たとか、そんな感じ?」
聡美のはしゃいだ声には、却って少し不自然なものがあって、絵梨は気を遣わせたのかな、と思った。
「ううん、一人でぶらっと来たの。五月で、すごく晴れてて、砂浜を散歩して、気持ちよかったのを今もはっきり憶えてる」
「二十四時間まであと少し」
「あっという間だったね」
昨日の夜、七時に待ち合わせして、今はもう六時を回った。車の窓からは沈みつつある大きな夕日が見える。助手席からそちらへ目を向けると、左側でハンドルを握る佐野の横顔が、朱色の逆光に浮かび上がっていた。
「疲れてる?」と絵梨が尋ねると、「全然。昼寝したもの」と、あっさりした答えが返ってくる。
砂浜を散歩して、近くの漁師町で目に付いた食堂に入って、定食を食べて、また少し散歩して、年季の入った喫茶店でコーヒーを飲んで、そして行きがけに見かけたラブホテルの中から、一番下らない名前のものを選んだ。
絵梨がノミネートしたのは「なかよし倶楽部」だったけれど、佐野は「猫のゆりかご」だった。
「猫のゆりかごだなんて、メルヘン調で普通じゃない?」
「でもさ、そういうタイトルの小説があるんだ。SFで、しかも世界が滅びるって話で」
「インテリって時々、凡人には判らないことで大ウケするよね」
最初に看板を見た時に彼が大笑いしていたのを思い出して、絵梨は呆れてみせた。兄もたまに、テレビを見ていてふいに爆笑する事があったけれど、似たようなものだろう。
「じゃあ見てみようじゃないの、その、猫のゆりかごって奴を」
絵梨はあっさり譲歩したけれど、そこはまあ常識の範囲におさまる外観と内装の建物だった。だからというわけでもないが、二人は常識の範囲におさまる程度の事をして、少し眠った。
実際には、絵梨はしばらくうとうとしただけで、あとは佐野の寝顔を見ながら、彼のしたことを反芻していたのだけれど。
「やっぱり佐野くんてさ、辛そうな表情してる時がいいよ」
絵梨はシートベルトの位置を直しながら、彼の横顔に話しかけた。
「何?いきなり」
「さっきベッドで見てて思ったの」
佐野は少し考えて、「僕は絵梨ちゃんの、ちょっと困ったような表情が好きだよ」と言った。
「そうなの?こんど天井に鏡のあるところに行ったら、見てみよう」
「誰と行くか知らないけど、僕だったらそんなに冷静でいられるの、あんまり嬉しくないな」
「そうよね」
この先いつか再び、彼と抱き合ったりする事はあるのだろうか。今こうして会っているのだって数ヶ月ぶりだし、身体を重ねたのは一緒に住んでいたとき以来だ。
その間に何年かの時間が流れ、絵梨は二人の男性と付き合ったが、どちらともそう長続きせずに別れた。佐野は一体どんな風に、その時間を過ごしていたのだろう。
突然、車が一瞬大きく左に振れ、佐野が「ごめん」と言った。
「どうしたの?」
「猫がね。かわいそうに」
絵梨は反射的に振り向いてみたが、既に何も見えなくなっていた。
「そういうの、かわいそうって思っちゃ駄目よ」
「どうして?」
「ついてくるから。父方のおばあちゃんがそういうの信じる人で、よく言われたの」
「じゃあ、どう思えばいいのかな」
「あーらら、ぐらいでいいんじゃない?佐野くんには難しいでしょうけど」
「あーらら、か」
「生きてる人間もね、かわいそうだと思うとついてくるわよ。つまらない人ほど、そう」
絵梨は再び彼の横顔を見た。その向こう、西の空には夕映えが鮮やかに広がり、宵の明星が気ぜわしく輝き始めている。
「絵梨ちゃん、なんだか僕より年上みたいなこと言うね」
「うん。実はさ、私どうも、佐野くんより先に年とっちゃったみたい。それもついさっき」
「さっき?」
「お昼寝してる佐野くんの顔を見てたら、こんな子だったら産んでみたいなって、とても強く思ったのよ。そして、色んなものから守らなきゃって」
そう言うと絵梨は背筋を伸ばし、前を走る車のテールランプを見つめた。佐野はしばらく黙っていたけれど、やがて「最初は僕の方がリードしてたのにね」と言った。
「あの二人、引っ越してくるかしら。絵梨はどう思う?」
聡美と孝仁が不動産へと出かけた後で、絵梨と駒子は一緒に食事の後片付けをした。ひと段落ついて、砂糖をたっぷりときかせた熱いミントティーを飲みながら、二人はテラスのデッキチェアに深くもたれて午後の太陽を反射する海を眺めた。夕凪にはまだ時間があって、心地よい海風が絶えず頬をくすぐる。
「どっちかというとご主人の方が乗り気みたいね。聡美さんはまだこっちでの生活がイメージできてない感じ」
「うちと逆だ」と笑って、駒子は軽く伸びをした。
「春人くん、まだ帰ってこないの?」
「うん。旦那と実家に行って泊ってくるの。今夜は久々に一人を満喫するわ。ねえ、明日、アウトレットモールまで遠出しない?」
「行きたいけど、月曜に都内に行く用事があって、明日はその準備しなきゃ」
「そっか。じゃあお一人様で行ってこよう」
駒子はそして、ポットに残ったミントティーを二つのカップに注ぎ分けた。
「実は私ね、こっちに来てから一度も、旦那の実家へ顔出してないの」
「何?喧嘩でもしたの?」
「そんなに深刻な喧嘩じゃないけど、引越がらみのあれこれで、互いの実家の悪口も出ちゃってさ。だったらもう無理するのやめようって話になったのよ。旦那が向こうにどう説明してるかは知らないけど。私は自分の親に正直なところを話したわ」
「いさぎよいわね」
絵梨は飛んできた羽虫を軽く払い、足を組み替えた。
「でもさ、春人がもう少し大きくなったら、疑問に感じるかもしれないわね。どうして小金井のおばあちゃんちに行かないのって」
「女の子はけっこう敏感に察知するらしいけど、男の子ってどうなんだろうね」
「今のところ、うらやましいぐらい単純に生きてるけど、中学ぐらいになったら難しいのかな。私さ、意識してあの子と距離をおこうとしてるんだけど、気がつくともうべったりなの。何でもすぐ口出しして、手助けしちゃうし。おまけに、春人のことは本人以上に判ってるという、根拠のない確信があるの。ちょっと何か選ぶのでも、あんたは絶対こっちにしなさい、なんてね」
「そうなんだ。クールでならした駒子さんらしからぬ溺愛ぶり」
「でしょ?自分でも不思議だもん。旦那にはずっと、もたれ合わないことを要求してきたのに」
「でもまあ、それも悪くないって感じでしょ?」
「そうね。満ち足りてはいるのよ。ただ納得がいかないだけ」
「素直に認めればいいのに。息子に夢中だって」と、絵梨は笑った。
「いま一番心配なのはね、春人がいつか結婚する事なのよ。平気っていう人もいるけど、私は取り乱しそう」
「まだ二十年ほど先の話よ。その頃には覚悟もできてるんじゃない?」
「そうなのかな。万が一の時は、絵梨ちゃんまた話聞いてくれる?」
「嫁いびりの計画だったら、色々相談に乗れるかも」
「心強い」
そう、私は共犯者に向いている。絵梨はひときわ強く吹いてきた海風に目を細めた。
第四章
「はい、これお土産。お父さんから」
駅の改札から出てくるなり、姪の美那は手にしていたペーパーバッグを差し出した。その後ろには、また縦にだけ大きくなった甥の剛が、照れたような笑顔で立っている。
「絵梨ちゃんはこれ食べてたら機嫌がいいから、だってさ」
「まあそりゃ、好物だからね。ありがとう」
絵梨はそう言って受け取り、駐車場へと歩き始めた。ペーパーバッグの中味はいつだって同じ、実家の近くにあるケーキ屋のフィナンシェとマカロンだ。彼女がまだ小学生だった頃からある小さな店で、誕生日やクリスマス、入学祝い、何かあればここのケーキを食べるのが家族のきまりのようになっていた。
しかし確かに、二十代の頃はケーキの二つや三つ平気で食べられたけれど、四十近くにもなるとそんな勢いはない。ただ、兄にとっての自分は未だに洋菓子を次々と平らげる女の子らしくて、それを否定するのも何だか違うなという気がするのだった。
「先に買い物するから、つきあってね」
心配していた台風もそれて、九月も半ば過ぎだというのに真夏のような日差しだ。美那と剛は口々に「これだけ暑かったら、まだ泳げるかな?」「水族館は明日行く?」と質問しながら絵梨の後をついてくる。
「帰ったらまずお昼にしようか。それで、夜は友達の家でバーベキューだから、午後は持って行く料理の準備。それから時間があれば、少し浜を散歩しましょう」
「じゃあ、水族館は明日だね」
「まだあさってもあるし」
少し離れただけなのに、停めていた車の中はまるでサウナだ。いつも通り、美那が助手席で、剛は荷物と一緒に後ろ。窓を全開にして、絵梨は駐車場から車を出した。
「お父さんたち、今どこにいるの?」
「昨日の夜はオーストラリアだった」と美那が答えると、即座に剛が「オーストリア!」と訂正した。
「美那って本当にカタカナ弱いんだ」
「いいじゃん別に。でさ、今日からスイスに三日いて、あとはフランスに行って、パリから帰ってくるの」
「アルプスで氷河見るんだよ」
「ヨーロッパって九月になると、かなり涼しいんだって」
「あったり前じゃん。緯度、北海道と同じぐらいなんだぞ」
「知ってるって」
兄夫婦の行程については事前に知らされていたけれど、子供たちの口から聞くとまた違った感じがする。
「オーストリア、スイス、フランスか。まさに周遊ね」
「お母さん、ずっと夢だったんだって。新婚旅行は、私がお腹にいて行けなかったからね」
美那は自分がいわゆる「デキ婚」で生まれたという事について全く屈託がない。そんなところが兄を思い出させた。
「お父さんが送ってきた写真、後で見せてあげるね。お料理の写真とかもあるから」
「でも、絵梨ちゃんはヨーロッパ行ったことあるから、別に珍しくないよ」
「撮った場所が日本でも外国でも、他の人の写真って面白いわよ。こういうところ見てるんだ、って、発見があるから」
連休のせいで道は少し混んでいるが、それでも真夏に比べると、海辺の町は随分と寂しくなった。突き抜けるように青く澄んだ空も、どこか冷たい色を帯びている。駅からの細い道を抜けて県道へ出ると、「海の匂いがする!」と美那がはしゃいだ声をあげた。
あと十日ほどで十六歳になる、血のつながらない姪。彼女の誕生がきっかけで家を出たことを思うと、あれからの年月はまるで夢の中のように、一瞬で過ぎ去った気がする。
「あと五分だけ待ってね」
佐野は絵梨に声をかけると、カウンターの向こうにある事務所へ入り、スーツ姿の男性職員と言葉を交わした。絵梨はロビーのベンチに腰掛けたまま、あらためて周囲を見回す。
彼が週に二回教えているデザイン系の専門学校。でも正確には教えていた、で、四月からは休職するという。今日は引き継ぎ関係の用があるらしく、絵梨はこうして待っているのだった。
時刻は六時前で、これから社会人向けの夜間クラスが始まる。隣のベンチに座っているOLらしい女性は、自動販売機で買ったコーヒーを片手に、シリアルバーを齧りながらテキストに目を通している。かと思えば昼間のクラスの女子生徒が四人、名残惜しそうに掲示板の前でたむろしている。
切れ切れに、どうする?私はいいけど?じゃあ一緒に行く?といった、海の生き物の臆病な触手を思わせるやりとりが聞こえてくる。近づきたい、でもぶつかりたくない、なのに触れ合いたい。
あの年頃の自分にもあった、そんな気持ちは、今どこにあるんだろう。ぼんやり考えていると、「お待たせ」と声がして、見上げると佐野が立っていた。
「もう用は済んだの?」
絵梨も立ち上がり、傍らに置いていたバッグを肩にかける。
「まあね。これでとりあえず、この学校ともしばらくお別れ」
「でも、また戻るんでしょ?」
「空きがあればね」
二人して玄関に向かうと、たむろしていた女子生徒が声をかけてきた。
「佐野せんせーい、私も先生が帰ってくるまで一年休学しようかな」
「入れ違いで卒業なんて、つまんない」
佐野はとびきりの笑顔を浮かべ、「もしかしたら、後期に代講で来るかもしれないよ」と答えた。
「だったら代講じゃなくてチェンジチェンジ!水田先生と交代して!」
「それがいい!あの先生、課題出さなかった時が怖すぎるもん」
笑いさざめく少女たちに「だったらちゃんと課題出して。しっかり勉強してね」とエールを送り、佐野は軽く手を振る。絵梨は彼女たちが自分を値踏みする視線をやり過ごして、夕暮れの街に足を踏み出した。
「佐野先生、あんなに生徒に好かれてるのに、どうして休職しちゃうんですか?」
絵梨のわざとらしい質問にも、彼はいつもの調子で答える。
「言ったじゃない、少し充電したいって」
「学校以外の仕事はどうするの?」
「全部、ひと区切りつけてある」
「そして心置きなく、半年間ヨーロッパ旅行か」
「正確には四ヶ月ほどだけどね」
「羨ましいわ」
あちこちのビルから仕事を終えた人々が出てきて、最寄りの駅へと流れを作っている。佐野は「こっちを通ろうか」と、裏道に絵梨を導いた。流れを乱さないペースで歩こうとすると人を避けるのが難しくなる彼女には、静かな裏道は気が休まる。
「ねえ、絵梨ちゃんも半月ほど合流しない?」
「え?向こうで?」
「そう。六月なんかどうかな、気候もいいし。僕はその頃たぶん南仏あたりにいる」
絵梨は少しだけ、初夏の南仏でオープンエアのカフェに座り、呆れるほどに長い黄昏を過ごしている自分を想像してみた。
「うわあ、本気で行きたい。でも無理なんだよね。実はさ、七月に外国での仕事が決まったところなの。どこだと思う?」
「という事は、ヨーロッパではないんだよね」
「国でいうとヨーロッパなのかな?樺太よ。サハリン」
「本当に?」
言われた絵梨の方が驚くほど、佐野は大きな声を上げて立ち止まった。
「サハリンか。僕の方が合流したいくらい」
「そう?まあ、ある意味で故郷だもんね」
絵梨が一歩踏み出すと、彼も再び歩きだす。
「前に台湾で仕事があってね、日本の植民地時代の家を撮影したんだけど、その流れで、今度はサハリンどうですかって話になったの。二つ返事でOKしちゃったんだけど、調べてみたら、けっこう大変なところらしくて、実はかなりビビッてるの。まあ、現地のコーディネーターもいるし、一人ではないけれど」
「大丈夫、絵梨ちゃんならきっとできるよ」
「あっさり言うけどさ、相当不便なところらしいじゃない。治安もあんまり良くないらしいし」
「そういう話もあるね。で、今日のお誘いはその事?」
「ううん、また別の話。仕事はさ、どれだけ心配でも不安でも絶対にやるわ」
「だよね。やっぱり絵梨ちゃんは強いから」
「うちは肉と飲み物以外の担当なの。野菜とか、果物とか」
とりあえず書き出しておいたメモを見ながら、絵梨は売り場の配置を確かめた。
半年前にできた、この街で一番大きなスーパーマーケット。普段は近所の小さな店で十分だが、イベントの時にはやはり、こういう店の品揃えが心強い。
絵梨と美那は並んで歩き、剛はカートを押して後からついて来る。
「僕、しいたけ嫌いだからね。あの匂い、最低」
「出た!剛のわがまま攻撃。嫌いなら食べなきゃいいだけの話じゃん」
「だから、食べなくても匂いがしてくるのが嫌なの。あと、オクラも嫌い」
「オクラはバーベキューに使わないから」
美那と剛の喧嘩漫才のような会話は途切れることがない。
「あ、レンコンだ。うちのお母さん、バーベキューにレンコンも使うよ。先にレンジでチンしとくの。バターで焼くとおいしいんだ」
美那はそう言って新物のレンコンを手に取った。
「へえ、じゃあやってみようか。かぼちゃの薄切りもいいよね」
「僕、かぼちゃも嫌い」
「だから、食べなきゃいいじゃない」
「二人とも、買い物に来ればいつもこの調子なの?」
「ていうか、お母さんと買い物なんか行かない」
「美那も?」
「うーん。お母さんは仕事があるから、買い物は週末にまとめてするの。でも私は土日はクラブと塾で忙しいし、結局お父さんが運転手でつきあってる」
「優しいね、お父さんは」
いつの間にか先に立ってカートを押す剛の背中を見ながら、絵梨は美那と並んで歩いた。そして束の間思い出す、兄と二人だけの生活になり、怪我のせいで外出が億劫だった頃のことを。
兄はよくそんな彼女を誘ってスーパーへ出かけた。のんびりとカートを押す彼の傍で、病院食の方がおいしかったとか、どこのメーカーのカレーも食べ飽きたとか、たまにはカウンターで寿司が食べたいとか、憎まれ口ばっかりきいていた自分の幼さが少しだけ懐かしい。
そして今では、兄と結婚して休みの日には一緒に買い物に出かける、などという夢想をしなくなった自分がいる。兄が義姉と仲良く買い物に行くと聞いて、心が波立たなくなったのはいつからだろう。
「今日呼び出したのはさ、ちょっと愚痴らせてもらおうと思って」
絵梨はそう言って貝柱のカルパッチョ仕立てを食べ、白ワインをまた一口飲んだ。小さな店のカウンターには彼女と佐野だけで、無人のテーブル席には「予約席」のプレートが置かれている。
「絵梨ちゃんからお誘いがあるだけでも珍しいのに、愚痴とは更に珍しい」
佐野は大げさに驚いて、グラスを口に運ぶ。
「何かさ、女友達に話してもうまく伝わらない気がしたの。でも佐野くんはとりあえず私の話は聞いてくれるじゃない。説教もしないし」
「説教できるほど立派な人間じゃないもの。話って、お兄さんの事だったりする?」
「違う。母親なの」
「絵梨ちゃんの、実のお母さん?」
「そう。辻井徳子、五十九歳」
「年は別にいいけどさ」と、佐野は当惑気味の笑みを浮かべたが、絵梨はそれくらい他人行儀に話をしたかった。
「ずっと、年賀状のやりとりぐらいはあったんだけど、先月いきなり、ちょっと会いたいって連絡がきて。いったい何年ぶりだか」
「それで、会ったの?」
「うん。お昼をごちそうしてもらったわ。もう顔忘れてるんじゃないかと思ってたけど、やっぱり親子ね、待ち合わせしててもすぐに判っちゃった」
「お母さん、元気にしてた?」
「そうね、ちょっと太り気味。で、最近どうしてるなんて話してたんだけど、用もなく会おうなんて言うはずないし、こっちから水を向けたら、相続の話だった。
徳子さんは両親、つまり私にとっての祖父母から家と土地を相続してるの。埼玉で、ずっと人に貸してたんだけど、こんどその家に自分たち夫婦が住んで、敷地に娘夫婦の家を新築することになって、生前贈与をしたいんだって」
「絵梨ちゃん、妹さんがいるんだ」
「それがなんと、二人も。上は結婚してて、二つになる女の子がいるの。下はまだ大学生。会ったことないけどね。で、問題の家と土地なんだけど、徳子さんが亡くなった場合、彼女の今の旦那さんと、私も含めた娘三人が相続する権利を持ってるの。でも、徳子さんは私以外の娘二人に相続させたいわけ」
「なるほど。で、絵梨ちゃんの意見は?」
「別にどうでも。私はそんな不動産があることじたい知らなかったし、家は妹夫婦が建てるんだから、頑張って下さいって感じで、相続放棄OKしちゃった。まあ、実務的な話は司法書士さんから連絡があるらしいわ」
「潔いね」
そこへ焼きあがったピザが出されたので、話はしばらく途切れた。溶けたチーズとバジルの香りが食欲をそそる。二人はフォークも使わずに、熱く、脆い一切れを手づかみで口に運んだ。
「焼きたてのピザを食べるのを保留にするほど重要な話って、そんなにないわよね」
最後の一切れを頬張ってから、絵梨は指先を拭い、ワインを飲んだ。
「たまにそれでも話に夢中な人がいて、そういうの見ると、早くしないと冷めるじゃないって、気が気じゃないの」
「世の中は冷めたピザが平気な人と、そうじゃない人に二分されるのかな」
「徳子さんは平気な人の方かもね。茶碗蒸しが冷めても平気でしゃべってたから」
「お母さんには、それだけ重要な話だったんだろうね」
「どうかしら。旦那さんの年金が少ないだとか、妹夫婦の収入じゃ家を建てるのが精一杯とか、二人目がもうお腹にいるとか、下の妹は大学院に進みたがってるとか、そんな話だったけど。私は熱々の茶碗蒸し食べながら聞いてたの」
「ちょっと複雑な心境だった?」
「別に。ここの茶碗蒸し、おいしいな、なんて思ってた」
「でも、愚痴りたいんだ」
佐野は軽く目配せをして、続いて出されたショートパスタを取り分けてくれた。
「そこが我ながら不思議でもあるんだけど、変な気分になったのは家に帰ってからよ。お風呂に入ってぼんやりしてたらさ、昼間のあれ、一体何だったんだろうって。
徳子さんとか、妹たちとか、家とか、土地とか。それまで自分にとってはっきり存在していなかったものが、一瞬現れて、すぐに消えたような気がしたの。残ったのはマイナスって感じだけだったのよ」
「なるほど」
「私が相続放棄をOKしたら、徳子さん急に安心したみたいでさ、自分たちの近況とか、色々と話してくれたわ。で、妹たちの写真まで出てきて、これがまたけっこう私と似てるの」
「じゃあ絵梨ちゃんって、お母さん似なのかな」
「確かに、身勝手なところはすごく似てると思う。それでさ、上の妹が子供抱いてる写真なんてのもあってね、私にとって甥姪ってお兄ちゃんの子だけだと思ってたんだけど、よく考えたらこっちの方が血縁関係なのよ。まあ、そういう事全てが、ぱっと現れて、また消えたの」
「でも、消えてないっていうか、これをきっかけに行き来するという選択もあるんじゃない?」
「向こうにその気があるなら、司法書士から連絡させたりしないと思う。こっちも別につきあいは望んでないし。ただ少しだけね、私にもし別の人生があったとしたなら、それはどこで消えたんだろうって、そう思ったの」
「実のお母さんに育てられた人生?」
「そう。私これまで、徳子さんにはけっこう感謝してたのよ。だって普通、子供がまだ小さいのに離婚するとなったら母親が親権とるじゃない。なのに父親に譲ってくれて。まあどういう事情だか未だに知らないけどさ。おかげさまで私はお兄ちゃんと一緒に暮らせるようになった。
でも、もし徳子さんに引き取られてて、大きくなってからお兄ちゃんと知り合っていたらどうだったかしら、なんてね。少なくとも父の再婚相手の息子って接点は生じるじゃない」
「そして恋に落ちて結婚する」
「万が一にもそういう可能性はないって、判ってるんだけど。私ってお兄ちゃんのタイプじゃないし。でもこんな話を女友達にしても、お母さんだって色々あったのよ、とかさ、絵梨ちゃんの潜在的な結婚出産願望じゃない?とか、もっと素直にお母さんに甘えれば?とか、そんな事言われそうだし」
「なるほど」
佐野は相槌だけうってワインを飲んだ。彼も含めて、絵梨は自分と寝たことのある男には子供を産めないことを話していたが、大人になってから知り合った女友達には、余計な気遣いをさせるのが嫌で黙っていた。
「実際は事故が大きな節目だったのに、何故だかもうずっと昔に、私の人生のポイント切り替えは完了してたように思うのよ。でもね、あの日だけ、私は蜃気楼みたいなものを見ちゃったのよね。そして」
そして、何だろう。
絵梨はふと黙って、空になったショートパスタの皿を見た。この話だって、パスタを食べながらできるほどだから、別に大した問題じゃないのかもしれない。
「まあ、そういう事」続きは口にせず、彼女は話を終わらせた。
「これが本日の、私の愚痴の全て」
「別に愚痴ってほどでもないな。絵梨ちゃん、それで、本当におごってくれるの?」
「約束したじゃない。私、デザートはクリームブリュレと苺のソルベにするけど、何がいい?」
「じゃあチョコレートケーキ」と言って、佐野はワインの残りを飲み干した。絵梨はデザートのオーダーを入れてから、「ねえ、佐野くんのお母さんてどんな人だった?」と訊ねた。
「あんまり憶えてないけど、わりと社交的な人だったかな。体調のいい時はあちこち出歩いてて、友達とコンサートに行って夜遅くに帰ってきたり、日曜でも朝から何かのサークルに行ってたり。僕は大きくなってから、よそのお母さんってもっと家にいるんだって驚いた記憶がある。
でも、具合が悪い時はほとんどベッドで横になってたから、僕は学校から帰るとずっとそばにいた。たいていは、クラシックのCDを一緒に聞いてたんだ。リクエストに応えて曲をかけてあげたり、誰の指揮や演奏か当てて遊んだりした」
そこへコーヒーとデザートが出されて、絵梨が苺のソルベを食べ始めると、佐野は再び話を続けた。
「あとはそうだな、よく、本を読んでくれって言われた。特に宮沢賢治の童話集が好きだったんだよね」
「読んだことないなあ」
こんな時、絵梨はつくづく十代の自分に説教したくなる。勉強もクラブもスポーツも、何一つ一生懸命にならず、本すら読まずにぼんやりと過ごして、兄の事ばかり考えていた少女に。
「童話集ではあるけれど、僕にはちょっと難しい漢字がけっこうあってね。つまると母が教えてくれるんだけど、すらすら読みたくて、少しずつふりがなを書いていったんだ」
「佐野くんらしいわね。何だか目に浮かぶ」
「でもけっこう面倒くさいんだよね。で、ある日姉さんに、僕ちょっと友達の家に遊びに行ってくるから、ふりがなふっておいて、って頼んだんだ。で、夜になって彼女が本を返しに来て、十ページぐらい進んでるかと思ってたら、最後まで全部やってあって」
「さすがね」
「何だかあの時、決定的に、姉さんには絶対叶わないって思ったかな。平然とした感じで、はいこれ、なんて。でも大人になってから聞いてみたら、本人は全然憶えてないんだ。まあとにかく、それからはすらすら読めるようになったわけ。宮沢賢治ってね、詩人でもあるし、声に出して読んだ方が面白いんだ」
「ふーん、またそのうち読んでみる。でもさ、お母さんの話をしてても、やっぱりお姉さんの話になっちゃうわね」
佐野は少しだけ眉を上げた。
「確かに。まあそれに、母はそれから三月もしないうちに亡くなったからね。叱られた記憶もなくて、僕にとってはとにかく、何だか宙に浮かんだような感じの人だった。姉さんから聞くと、また違った印象なんだけどね」
「佐野くんの天使体質って、お母さん譲りなのね」
絵梨の言葉に、佐野は黙って少しだけ微笑み、頬杖をつく。舌に残ったクリームブリュレの甘い余韻を消すため、絵梨はコーヒーを飲んだ。
「ねえ、しばらく旅行したいのって、疲れちゃったとか、そういう理由?事務所解散したりとか、面倒な事があったから?赤井くんが詐欺まがいのトラブル起こしたって、噂になってるけど」
他人の身に起きた揉め事なんて、挨拶代わりの噂話で消費するのに格好のネタだ。
佐野と同じ事務所にいた赤井という男が、架空の取引で自分の口座に百万ちかい金を振り込ませ、そのまま行方をくらませたという話は、二人を知る者の間では既に知れ渡っていた。
「それは直接には関係ないかな。まあ、事務所もなくなって、今は別に、誰にも必要とされてないし、まとまった休みをとるいい機会だと思って」
「こうして私に呼び出されてるのに、そういう事を言うわけ?でもさ、事務所のことはとりあえず解決したんでしょ?」
「解決っていうか、お金の問題は全部、龍村くんが引き受けたんだけどね。自分が代表なんだから責任はとるって。でも、もしかしたら本当は、僕に原因があるのかもしれない」
「どういう意味?」
佐野はそれには答えず、ちらりと腕時計を見て「出ようか」と言った。
昼間は春らしい晴天だったが、夜の街はしんしんと冷えている。絵梨はスプリングコートのボタンを留め、両手をポケットに入れて歩いた。隣では佐野が、こちらもジャケットの襟を立てている。
「こういう寒さ、花冷えって言うんだってね。最近ようやく憶えたわ。週末はみんなお花見らしいけど、佐野くんはあちこちから誘われてるでしょ?」
「別にそんな事ないよ」
そうは言っても、絵梨にはよく判っていた。彼がいるだけでその場が明るくなるし、みんなの気持ちが和むので、佐野はとにかく何かの集まりには声をかけられるのだ。ただ、それが本人にとって本当に楽しい事かどうかまでは判らない。
「絵梨ちゃん、まだ時間ある?」
「うん、別に急いでないけど」
「じゃあ少し遠回りして、夜桜見ていかない?小さな神社だけど、一本だけ立派な桜があるんだ。きっと咲いてると思う」
「うん、行ってみたい」
そして二人は、ほとんど明かりの消えたオフィスビルの続く坂道を並んで歩いた。時折、思い出したように現れる小さなレストランの明かりや、コンビニの青白い光がぼんやりと足元を照らす。
「ね、さっきの話、聞いていい?事務所の解散の話、佐野くんに原因があるかもって、言ったよね」
絵梨は前を向いたまま、早口で小さく訊ねた。答えるのが嫌ならそれでいい、自分も言わなかったことにして歩き続けるから。しかし佐野は低い声で答えた。
「前にさ、男の人とつきあったことがあるって話をしたけど、あれ、赤井くんなんだ」
「そうなの」途端に動悸が激しくなって、震えそうになる声を絵梨は何とか抑えた。
赤井とは共通の知人を介して何度か会ったことはあるが、いつもふざけたような態度で遊び人を装っているのに、奇妙に目だけは醒めた光を宿していて、正体がつかめない男という印象しかなかった。
「といっても学生時代だけどね。僕ら同じ大学で、彼は一つ上の学年でさ、僕が二年の時に実習室でちょっと話をしたのが最初かな。すごく頭が切れて、才能とセンスもあって、自信家で、しかもニヒリスト。何だか面白い人だなって、すぐに友達になったよ」
「でも友達のままではいなかったんだ」
「そうだね。僕は姉さんと住んでたから、よく彼のアパートに遊びにいって、夜通し色んな話して、お酒飲んだりしてたけど、ある日何となく誘われたんだよね。ちょうど姉さんの交際相手のことでとても不安定になってた時期で、僕としては、彼が自分を必要としてるなら別に構わなかったんだ」
「それって、恋愛感情として好きだったって事?」
「友達としては大好きだったよ。でもどうなんだろう、その先は。今でもよく判らない」
たぶん佐野には本当に判らないのだ。姉以外の全ての人間に対する彼の気持ちは、同じ種類の好意で、男女を問わず無心に捧げられたものだから。
「でも、あの頃の僕はまだ子供みたいなもので、完全に彼を誤解していたんだ。何ていうか、クールで、ドライな人で、僕との事も半分遊びだと思ってたんだけど、本当はすごく寂しがり屋で、いつも僕がどこで何をしてるか知りたがって、僕が他の友達と遊んだりするだけで傷ついて、怒りをぶつけてきた」
「けっこう重たい人だったのね」
「こっちがもっと従順なら話は簡単だったかもしれない。でも僕もかなり息苦しくて、百パーセント君のものにはなれないって、そう言ったんだ。別に喧嘩という程ではなくて、ちょっとふてくされたぐらいの感じ。そしたら彼は、急に冷静になって、笑顔すら浮かべて、了解、って一言。それだけだった」
「プライド高いんだ」
「今ならそうわかるけど、当時は何がどうなったのかわからなくて、何だか自分が過剰反応しいてたような気さえしたよ。それで、また友達に戻ろうとしたんだけど、適当にあしらわれて。でも決定的に拒絶されるわけでもなく、知り合いに降格されたって感じ。まあ今考えると、僕が呑気すぎたんだけどさ」
「形としては、佐野くんが失恋したみたいに持ってかれたのね」
「かもしれない。で、まあ、大学を出てからも、噂は聞いたり、何かの集まりで偶然会ったり、お互いにどうしてるかは知ってたんだよ。そしてある日いきなり、事務所作るけど入らない?って声かけられたんだ」
「気まずいとか、思わなかったの?」
「たぶんそこが、僕の変なところ。仕事だし、やっぱり彼の才能って好きだし、必要なら協力しようかなって思った。
彼はさ、軽い人間に見せてるけど、思いつきで行動することは絶対にないんだ。色々考えて、ようやく出した結論を、何気ないふりして口にする。だから僕はOKしたよ。仕事は仕事で、私生活は関係ないし、自分も少しは大人になって、彼に対してどう振舞うべきかを理解したつもりになってた」
「でもあんな結末になった。彼、今も連絡とれないんでしょ?」
「うん。問題が起きた時はアメリカにいるって話だったけど、どうだか。でもとにかく、彼が本当に困らせたかったのは、龍村くんじゃなくて僕だったと思う」
「なるほど。佐野くんの弱点をよく判ってるんだ。自分より、周りの人が困る方がずっと辛いって」
佐野それには答えず、「ほら、あそこ」と、前方にほんのり明るく照らされている一角を指差した。
そこはうっかりすると通り過ぎてしまうほど、間口の小さな神社だった。鳥居をくぐり、両側を雑居ビルに挟まれた細い参道を歩いてゆくと、いきなり空間がひらけて、一抱えほどもある幹から豊かに枝を広げた桜が一本だけ聳えていた。まだ満開まではもうしばらく待つ必要があったが、初々しいような気配を漂わせて、境内の常夜灯にほんのりと照らし出されている。
「わあ、きれいね」
絵梨は思わず声を上げた。近隣の住人にはよく知られているのか、二人の他にも犬を散歩させている初老の男性と、夫婦らしい中年の男女が訪れていた。
「去年の春に教えてもらったんだ。あの時はもうほとんど散ってたけど」
佐野は絵梨の隣に立つと、同じように桜を見上げた。街中とは思えない静けさがその場を包み込んで、時の流れからも遮断されたような錯覚をもたらす。ただ、足元から上ってくる夜気の冷たさだけが、これは現実だと知らせていた。
「ねえ、いちど姉さんに会ってくれる?」
ふいにそう話しかけられて、絵梨は我に返ると佐野の顔を見た。彼はずっと桜を見上げたままだ。
「いいけど、どういう心境の変化?」
「心境というか、彼女に時間的な余裕ができたから。半年ほど前に、大学病院から個人のクリニックに移ったんだ」
「そうなの?よかったじゃない。もちろんお目にかかりたいわ」
「で、一つだけお願いがあるんだけど」
「お願い?」
「彼女にきいてほしいんだ。どうして、今つきあってる人と結婚しないのか」
絵梨は思わず唇を引き結び、身体ごと彼の方に向き直った。
「何言ってるの?初対面でいきなり、そんな質問できるわけないじゃない」
佐野はようやく桜から彼女に視線を移し、悪戯がばれた子供のように笑った。
「だよね。今のは冗談。でも姉さんには会ってね。きっと仲良くなれるよ。僕が旅から帰って、たぶん寒くなるまでには会ってもらえると思う」
彼はそれだけ言うと、いちど足元を見て、それから神社の本殿に向かってゆっくりと歩き出した。絵梨はその後姿が何だかとても儚く、そのまま夜の闇に滲んで消えそうな気さえして、後を追うと彼の腕を捕らえていた。
「どうしたの?」と、呆れたように振り向かれ、思わず「ちゃんとお願いしなきゃ。二人とも無事に旅から戻れるように」と口にしていた。
「なるほど。絵梨ちゃんって、けっこう信心深いんだ」
その後、春の終わりから秋にかけての数ヶ月、佐野は長い旅の途中に何度か、絵梨に宛てて短いが気持ちのこもったメールをくれた。彼女もまた、サハリンで撮影した写真を何点か送り、「珍道中については、また会う時をお楽しみに」と伝えておいた。しかしその機会は永遠に訪れなかった。
「花火、あと一袋あるんだって」
剛は弾んだ声を上げてテラスに戻ってくると、テーブルに置かれたグラスの麦茶を飲み干し、また庭へと駆けていった。そこでは駒子の夫と、息子で三年生の春人が花火を楽しんでいる。美那はひとしきり遊んだ後は、絵梨の隣に座って大人の会話に加わろうとしていた。夜風には潮の香りと、花火の煙と、食べ終えたバーベキューの匂いが混じっている。
「蚊にさされてない?」と言いながら、駒子が絵梨たちの持参したカットフルーツの盛り合わせを運んできた。
「花火が蚊取り線香になってるみたい」と笑って、美那は葡萄を一粒口に放り込む。絵梨はフォークでパイナップルを刺して口に運んだ。
「ああしてると、剛ってまだ小学生みたいに無邪気よね」
「だって頭の中は四年生ぐらいだもん。春人くんと変わらないよ」
「でもやっぱり中学生だなって思うわよ。しっかりしてるじゃない」
駒子はそう言って腰を下ろすと、グレープフルーツを手に取った。彼女の家は目の前に海が開けていて、隣家との距離もあるので、こうした集まりをしても気兼ねの必要がほとんどない。
「あーあ、私もこんな家に住んで、毎日海を眺めて暮らしたいなあ」
美那はうらやましそうに溜息をついたが、突然座りなおすと、ジーンズのポケットから携帯電話を取り出した。どうやら両親からのメッセージを受信したらしい。
「今、バスにて移動中、だってさ」
こちらに向けられた液晶画面には、窓際に座り、笑顔で少し首をかしげている義姉が写っている。外の景色は柔らかな緑の田園地帯だ。駒子も隣から覗き込み、「楽しそうね」と微笑んだ。
「美那ちゃーん、線香花火するよ!」
春人の声に誘われ、美那はすぐに立ち上がると携帯電話をポケットに戻し、駆けていった。
「お母さんたちの事、すごく気になるのね」
「普段は親がウザいだとか言ってるのに、いざ離れてみると心細いのよね。それにさ、旅ってどこか不安なものよ。行ってる人間も、待ってる人間も」
絵梨はそう言って、麦茶を一口飲む。
子供たちは相変わらず大声ではしゃぎ、線香花火に照らされたその姿は、古い映画のようにちらちらと瞬いていた。
第五章
「どうぞご遠慮なく」
絵梨はそう言うと、さっきコンビニで買った缶ビールを差し出した。龍村は「じゃ、いただきます」と軽く頭を下げて受け取ると、すぐに口をつけて勢いよく飲んだ。
「はあ、これは格別だな。富谷さんの言う通りだ」
「でしょ?ここでビール飲んでほしくて、わざわざ案内してるようなもんだから」
十月の晴れた午後。波打ち際では龍村の妻と幼い息子が、お城らしきものを作っていて、あとは少し離れた場所に、運動部の練習なのか、スタートダッシュを繰り返している男子学生が六、七人いるだけだ。
廃材で作られたベンチに腰をおろし、穏やかな日差しに包まれていると、風にまじって口笛のような、鳶の鳴き声が聞こえてくる。
絵梨はかぶっていた帽子のつばを軽く折り上げると、バッグからジャスミン茶のペットボトルを取り出して一口飲んだ。
「奥さん、もうすっかり元気みたいね」
「まあねえ、こういう遊びには子供並みに夢中になるから。そのうち、チビより先に海にはまって、ケツ濡れたーって、半泣きで戻ってきたりするんだよ」
「やめてよ」
絵梨は声をあげて笑った。
「本当にそうなんだって。今までにどれだけそんな事が起きたか、言っても信じないだろうけど」
龍村は苦笑いして、またビールを飲む。言葉とはうらはらに、妻と子に向けられた彼の眼は限りなく優しい。
彼の妻は流産がきっかけで心を病み、去年の暮れから夏の終わりまでを病院で過ごしていた。ようやく退院した今、辛い記憶のある住まいで、また同じ季節を迎えることに不安を抱えていて、いっそ環境を変えるという選択も考え、彼らはこの町を訪れたのだった。
「毎日こんな天気なら、すぐにでも引っ越そうかって思うんだけどなあ」
「残念ながら、雨の日も風の日もあるわよ」
「台風も来るよね」
「それに都心からは少し遠い」
「まあそれは、通勤してるわけじゃないからいいんだけど」
龍村はフリーのライターで、以前は佐野と同じ事務所にいた。事務所ができたばかりの頃は、一番仕事がなくて暇だから、という理由で代表を務めていたが、今は妻子を養えるぐらいの収入はあるのだろう。
「でもさ、生活を変えることじたいが負担になったら意味ないんだよね。引っ越しの荷造りだとか何だとか」
「だったら、ちょっと高くつくかもしれないけど、都内の家はそのままで、期間限定でこっちに住んでみたら?最近はこの辺にも、家具やキッチン用品つきのウイークリーマンションができてるのよ。夏場のお客が目当てだから、これからの季節は少し安くなると思うわ」
「なんか、だんだんとその気になってしまうな」
「でしょ?私、友達とか四組も紹介して全員成約させちゃったから、不動産屋からも重宝されてるの」
絵梨はそう言って笑うと、スニーカーの爪先で砂を軽く蹴った。龍村はまた少しビールを飲み、「そもそも、富谷さんはどうしてここに移ることにしたの?」と尋ねる。
「私?まあ、ありがちなところで、街なかに住むのが急に嫌になったの。変よね、都内で生まれ育ってるのに」
「花粉症みたいなもんかな。ある日突然コップがあふれて、もう都会暮らしは無理!なんてさ」
「かもしれないけど、一番大きな理由はたぶん、佐野くんがあんなふうに亡くなったせいだと思う」
他の誰にも言ったことはなかったけれど、佐野をよく知る龍村には話したほうがいいような気がして、絵梨は敢えて淡々と告げた。
「私は最初、ものすごく腹が立ったのよ」
「腹が立った?」
「そう。だって彼が亡くなったって連絡受けたとき、仕事で高知の山奥にいたんだもの。大雨が続いて一歩も動けなかったの。そんな状態でさ、薬飲んで自殺しただの、次の日にお姉さんと会う約束してただの聞かされて、はらわたが煮えくり返ったわ。何よそれ。そんなに気楽に、いつもの調子で「お先に失礼」なの?って」
話すうちに、あの時のやり場のない怒りが甦るような気がしてくる。絵梨は自分を落ち着かせるため、わざとそっけない口調で「龍村くんはお葬式に行ったのよね、札幌まで」と言った。
「うん。解散はしたけど、同じ事務所の代表としてね」
「私はさ、お葬式なんて行ってやるもんかと思ってた。実際は日程的に無理だったんだけど。だからさ、後から東京であったお別れの会にも、不参加のつもりだったの。でも、お宅の事務所の葉山さんに、来なくちゃ駄目って言われたのよね。彼女には仕事の上で色々とお世話になってるから、断れなくて。でも結局、途中で帰っちゃった」
「たしか、親知らず抜いたばっかりで、体調悪いって言ってたよね」
「そんなの嘘に決まってるじゃない。私あの日、初めて由香里さんに会ったの」
「びっくりしただろ?綺麗すぎて」
「まあ、写真は見せてもらった事があったけど、確かに驚いたわよね。でも私、彼女にも腹を立ててたの。本当はその少し前に彼女から、渡したいものがあるって連絡もらってたんだけど、都合がつかないって断ってた。で、ようやく会ったっていうのに、どうも、みたいな感じで、ろくすっぽ目も合わせないで」
「でも、どうして由香里さんに腹が立つの?」
「わっかんない。佐野くんに似すぎてたからじゃない?八つ当たりって奴。男の人なら、あんな美人にそんな失礼な事ないでしょうけど」
「俺はお葬式の時に会ってたけど、とにかく圧倒されちゃったよね。あの人がお姉さんだったら、学校も仕事も行かないで、彼女の靴でも磨いて毎日暮らすだろうな」
龍村は軽く溜息をつき、空になったビールの缶を掌で弄んだ。
「それでね、お別れの会から半月ほどして、葉山さんから呼び出されたの。行ってみたら、由香里さんから預かり物があるって。騙し討ちみたいなもんよね。でもまあ、葉山さんも板挟みで困ってるだろうから、しぶしぶ受け取ったの。そしたら実は、由香里さんじゃなくて、佐野くんからだった」
「何だったの?」
「本よ。宮沢賢治の童話集。私はとにかく本を読まない子供だったから、そんなのも読んだことなかったけど、佐野くんにとって、それがどういうものなのかは知ってた。昔、お母さんに読んであげてたんだって」
「彼のお母さんって、わりと早くに亡くなってたよね」
「うん。小学校三年生の時よ」
そして絵梨は少し黙った。波の砕ける音に混じって、龍村の息子のはしゃぐ声が切れ切れに聞こえてくる。
「それで私、また腹が立ったの。こういう大切なものを、私に持たせるってどういうつもり?ってさ」
「由香里さんに?」
「ううん、佐野くんに。ややこしいのよ。で、由香里さんに電話して、すぐに本を返したいって伝えたんだけど、弟の遺言だから受け取ってほしい、いらなければ処分してもらって構わないって言われたの。おまけに、ご迷惑をおかけしてすみません、なんて謝られちゃってさあ。仕方ないから本棚に立てておいたの。でも、その本を受け取ってから、変なことが起きて」
「変なこと?」
「全然眠れなくなった。すごく疲れてる時でも、寝てもすぐに目が覚めるの」
「それで?」
「大体は、お酒飲んで寝直す」
「でもさ、酒飲んで寝ると、結局また目が覚めない?」
「そうなのよ。仕方ないから朝までネット見たり、音楽聴いたり。幸いというか、地方での仕事が多い時期だったから、とにかく外で泊ったわ。日帰りができる時でも。そうすると少しは眠れるのよ。出費はかさんだけど」
「病院とか行かなかったの?」
「行かない。別に病気じゃないって思ってたし。ただ眠れないだけだもん。お酒飲めば何とかなるし。精神的な不調って、そんな感じじゃない?」
「うん。うちの奥さんの時はそれで失敗した。もっと早く医者に見せてたら、あんなに辛い思いさせずにすんだのに」
龍村はビールの缶を握りつぶすと、足元に置いた。
「まあそんな感じで私も、病院には行かずに、ひと月以上うだうだしてたのよ。でもある日、例によってお酒飲んで寝て、また目が覚めて、ああ畜生、なんて感じで寝返りうったら、本棚の宮沢賢治童話集と目が合ったの」
「本と目が合った」
「そうとしか言いようがないわ。で、じーっと背表紙を見ながら、いま電話で佐野くんのこと呼び出して、私にこの本読んで聞かせてって言ったら、来てくれるかなって考えたの」
「本気で?」
「ええ。でもすぐに気がついた。彼はもういないんだって。まず最初に、ああ残念って思って、それから、私の周囲に立ち込めていた怒りが、霧が晴れるようにして消えていった。
本当のところ、私はそれまでずっと、怒ることで自分を守っていたのよね。よく考えたら、いつもの行動パターンなのよ。子供の頃から」
「まあ、そういう人いるよなあ」
「怒りが消え去って、残ったのは後悔だけよ。私はあれやこれや、佐野くんに色んなわがまま言って、彼は何だってきいてくれたわ。でも彼がたった一つだけ頼んできたことを、私はその場で断ったのよ。
どうしてもっとましな答え方をしなかったんだろう。少し考えさせてとか、そんな風に答えてたら、何か違ってたんじゃないかって、もう叫びたい気持ちで私はその本を手に取った。そして思ったの、とりあえず、とりあえず佐野くんにこの本を読んであげようって」
絵梨は呼吸を整えるように、長い溜息をついた。
「でも、いざ声を出してみると吐きそうになった。単にお酒のせいかもしれないけど、部屋中が自分だらけって感じがして、頭が痛くなって、胸がむかついて、我慢できなかったの。それで仕方なく、黙って本を読んだわ。「どんぐりとやまねこ」から始まって「よだかのほし」で終わる童話集を。朝までかかって、全部」
「そうなんだ」
「次の日から私は、声に出してこの本を読むのにふさわしい場所を探したんだけど、どこもかしこも人や建物でいっぱいで、ざわついてて、駄目だった。でも家だとやっぱり自分が充満してて、ひどく気分が悪くなるのよ。
仕方ないから車を借りて、この浜辺まで遠出したの。ずっと前に佐野くんと遊びに来たことがあったのよね、例のマセラティで。のんびり散歩したのがいい思い出になってたから、もう一度歩いてみようと思って。
道が混んでたから、着いたのは午後遅くだったけど、私はあそこの桟橋で、海に向かって腰掛けて、初めて大声出して本を読んだわ。秋も終わって、もう冬ですって季節で、風もかなり冷たかったけど、別に辛くはなかった。
そして暗くなって字が読めなくなるまで,ずっとずっと朗読して、その夜は駅前のビジネスホテルに泊った。本当に久しぶりにぐっすり眠ったわ。で、次の朝に不動産屋に行って、今住んでる家を見つけて契約したの」
「すごい決断力だね」
「あんまり突然に引越したもんだから、失踪したと思った友達もいたぐらい。まあ、龍村くんもそうだけど、勤め人じゃないからできた事よ。私には養う家族もいないし。そして、仕事のない時は、朝でも夕方でも昼でも、とにかくここに来て宮沢賢治を朗読した。人からはたぶん、売れない劇団員とか、そういう人だと思われてたんじゃないかな。「朗読女」とか、子供に呼ばれてたかもしれない。でもそんなの構ってる場合じゃなかったのよ。そうしてないと頭が変になりそうだったから」
「富谷さんなりの解決策だったのかな」
「そうかも。で、本当に何度も繰り返し朗読して、ある日ようやく、私は心の準備ができたと思った」
「心の準備?」
「うん。佐野くんに頼まれて、一度は断った事を、やっぱり引きうけようと思ったのよ。最初に私が断ったのは、自分を守りたかったからなのね。軽蔑されたくないとか、嫌われたくないとか、そういう理由であって、佐野くんの事なんか少しも考えてなかったの」
「差し支えなければ、どういう事を頼まれたのか、聞かせてくれる?」
龍村の声には、少しだけ怯えたような響きがあった。彼は彼なりに、佐野の死に責任を感じてきたのかもしれない。
「プライベートな事だから、詳しくは言えないわ」
「そうか」
「それでね、頼まれた事を実行するために、私は由香里さんに会ったの。佐野くんが亡くなってから、半年近く経ってた。彼女に一生嫌われて、軽蔑されるかもしれないけれど、その位のことは引き受ける覚悟ができてた。
前に会った時に比べると、彼女は少し元気そうになってて、私はちょっとだけ安心したわ。はじめは互いに近況報告なんかして、それから本題に入るつもりだったんだけど、そこで思いがけず、私は自分の求めていた答えを手に入れてしまったの」
「答えって、頼まれ事の?」
「そう。私がぐるぐると迷路を回ってる間に、ものごとは少しずつ動いてて、答えが出ていたのよ。ああそうかって、私は思った。やっぱり佐野くんって優しい人だわ。私にそういう、ちょっときついこと、させずにおいてくれたんだから。でもその一方で思ったの、彼って時々そんな風に優しすぎて、だから嫌いになりそう」
絵梨は言葉を切ると、頬に一筋だけ流れた涙を指先で拭った。
隣に座る龍村は、何も言わずに波打ち際を見つめている。彼には絵梨とはまた違った、佐野との思い出がたくさんあるだろうし、彼なりの悲しみがあるはずだ。
その場の空気を変えたくなって、絵梨はつとめて明るい調子で「そういえばこないだ、珍しい人に会ったわよ」と言った。
龍村も軽く「誰?珍しい人って」と聞き返す。
「赤井くん。私さ、ずっとR大附属病院の整形外科にかかってるんだけど、半年ぶりに検診に行って、支払い済ませてたら、館内放送の真似して、富谷絵梨さーん、まだ富谷さんのままですか?なんて声かけてきたのよ。そのちょっと前に、書類の手違いで私の名前が呼ばれたのを聞いてたのかもね」
「相変わらず、失礼な事を平気でしてるんだな」
「しかも何だか憎めない。私も普通に、そっちこそ、まだ時効になってないはずだけど、こんな場所うろついてて捕まらないの?って聞いてやったわ。そしたら、一時帰国してるだけだもんね、なんてさ、どうもまだ外国にいるみたい。
誰にきいたんだか、色んな人のこともかなり詳しく知ってて、龍村くんの奥さんは具合どうなの?なんて事まで言うから、本人にちゃんと連絡とりなさいよって言ってやったわ」
「連絡なんて、もらってないけどね」
「だと思った。別に元気みたいよって言っておいたら、なんだそっかあ、心配しちゃうよね、なんて。それがまた本気に聞こえるから不思議なのよ」
「彼はさ、俺たちが考えてる意味での善悪なんて、気にかけてないんだ。ある意味ですごく子供」
「へえ、割り切ってるのね」
「まあ、それが判るほどにはつきあったつもり」
「そうなの。まあそれで、東京うろついてる暇があるなら、佐野くんのお墓参りぐらい行きなさいよって、嫌味言ってやったら、昨日行ってきたとこ、ついでにススキノで思い切り遊んで来ちゃった、なんてさ」
絵梨は大げさに肩をすくめて龍村の方を向いた。彼は呆れた顔つきで「赤井らしい」とだけ呟いた。
「それでさ、ねえねえ、佐野絵梨っていい名前だと思ったことない?なんて言うのよ。だから私、赤井絵梨よりはずっとマシかもねって言い返したら、にやっと笑って、元気でね!って逃げてったわ」
「はあ、目に浮かぶよ」
そう言ってから、龍村は軽く手を振った。その視線の先、波打ち際では、幼い息子が飛び跳ねるようにして両手を振っている。
彼はそして、やや言い難そうに「実はさ、俺も少しだけ、佐野は富谷さんと結婚するんじゃないかと思ったことがある」と言った。
「冗談じゃない」と即座に否定して、絵梨は「どうしてそんな事思ったわけ?」と訊ねた。
「佐野と仲の良い女の子は大勢いたけど、富谷さんはそう仲が良さそうには見えなかったんだよね。でもそれは、わざわざ仲良くしなくても、お互いのことを本当によく判ってるからじゃないかなって。まあ勝手な想像だけど」
そんな風に見えていたわけか。口には出さず、絵梨は風に折られた帽子のつばをもう一度折り上げた。
「ビール、もう一本どう?」
「いや、もう十分堪能したよ、ありがとう」
「じゃあ、ちょっと不動産屋、行ってみましょうか」
絵梨がバッグを肩にかけてベンチを立つと、龍村も足元の空き缶を拾って立ち上がり、妻と子のいる方へと歩き出した。柔らかな砂に沈み込んで、後を追う絵梨の足元はふらついたが、龍村は気づくことなく大股に歩いて行く。
ゆっくりと姿勢を立て直しながら、いいのだ、と絵梨は思う。ここで自分に腕を差し出す男など、優し過ぎて嫌いになるだけだから。
キャラメル