涙を流すと寿命が延びるっていう噂

「ああ、疲れた。わたしの両手を見て」そう言って芳美は買い物袋を歩道上に置いて、カズオに見せた。たしかに両手には買い物袋の跡がくっきりと付いていた。
「ごめんな、いつも芳美に荷物持たせて」そういって右手で芳美の頬を撫でた。
「ううん、大丈夫だよ。カズオはまだ病み上がりなんだし、先生には重労働させることを禁止されているんだから。体調がよくなってから、うんと重い荷物持たせてあげるから。それまで辛抱だよ」芳美はまたビニール袋を両手に持ち直してから、緩やかな坂を、自宅のマンションに向けて、カズオとともに歩き始めた。
自宅に着くと、七階まで上がって室内に入ると真っ先に芳美は冷蔵庫からオレンジジュースを取り出して、パックのまま飲み始めた。
「ああ、最高。まるで天にでも登る気分!カズオも飲む?」
「いいや、俺はいいよ、それより仕事をしたいと思っているんだ。入院中、小説の構想はだいぶ出来上がている。なにせ暇人だったから考える時間は永遠というほどもあったからね」カズオは自分の部屋に入ってパソコンを立ち上げた。そして病院でノート型パソコンで執筆していた小説のUSBメモリーをパソコンにさしいれた。これから小説の、いわばどろどろとした、まだ煮詰まっていない部分を改訂(かいてい)していく作業に取り掛かった。
その作業をおよそ三時間くらいすると、ドアをノックする音が聞こえてきた。
「カズオ、ちょっと休憩したら?紅茶とデザートを用意したから、居間で食べない?」
「ありがとう。そうするよ、そうだ、弘樹はまだ帰ってこないのかい?」
「そうね、もう少しで帰ってくると思うわ。きっと友達と何処かで道草食っているんでしょう」芳美はキッチンで夕張メロンをカットしながら、にっこりと笑った。
「なんだかこうして生き残ったことを考えると、なんか不思議な気持ちだな。毎日を、いや、この一秒を大切にしなければいけないという思いがあるんだ。なんか深刻な話みたいだけどね。でも支えてくれたみんなに感謝している。こうやって当たり前のことをするときにこそ、本当の充実感があるんだってことが分かったんだ。こうして静かに紅茶をすすること、このことにだって幸せが隠れているんだ。些細なことなんだよな、自分がこうして生を受けたこと、これだってほんと奇跡なんだよな。父親の何億か何千万か分からないけど、その精子が、母の胎内で受精して、こうして俺という人間が生まれてきたんだからな。もっと自分を大切にしていかなければならないということを感じるんだ。そして他人に対して優しい同情心を持つこと。なんか真剣になってしまったな」
「そうよね、こうして私たちが巡り会えたのも何かの縁よね。わたし、カズオに出会えたことって最高にハッピーだよ。あなたのお嫁さんになれたこと、なによりも幸せな気分」そう言って芳美はカズオを抱きしめた。
「ああ、こんなに痩せてしまって!辛かったでしょう、一杯栄養のあるものを食べさせてあげる」芳美はぎゅっとカズオの頭を包み込んで、キスをした。そしてカズオの両手を握りしめて涙が溢(あふ)れた。
「俺の希望!今日の夕食はお寿司がいいでーす!」
「わかったわ。今日は退院祝いとしてお寿司を食べに行きましょう」
「本当かい?よし、その前にシャワーを浴びさせてくれ。すっきりした気分で行きたい。
「ただいまー」弘樹が帰ってきた。ランドセルを背負って、驚いた様子で父親であるカズオを見た。そして走り出してカズオを抱きしめた。
「お父さん、今日退院だったんだね!もう全然痛みは無いの?」
「ああ、大丈夫だよ。それより今日の夕食はお寿司を食べに行くことになったんだぞ。嬉しいだろう」
「ほんとに!好きなネタ、選んでいいんだよね」
「うん、弘樹の大好きなかんぱち、いっぱい食べていいからね」
三人はマンションを出て、駅前の回転寿司に入った。店内は混雑していて、二十分ほど待つことになった。
カウンター席に座ると、早速、弘樹はかんぱちを三皿注文した。カズオはサーモン、鯛、甘えび、芳美は軍艦巻き、うに、コーンマヨを選んだ。
「こうして、些細な瞬間が幸せに感じるんだなー。ほんと、幸せ。なんかもう何もいらない」
「えー、僕とお母さんは?」
「それはもちろん別だよ。おまえたちが居なくなったら、お父さんは鼻水垂らして泣きじゃくるだろう。おまえたち二人を愛しているよ」
「僕も一度は病院に入院してみたいな。なんか楽しそうじゃん。何もしないでぼーっと、生きているのか死んでいるのか分からない状態ってのも楽しそうだし」弘樹は注文していたかんぱちを食べながらいった。
「いやいや、でもお父さんは小説家だからいっぱい考える時間だけはあったな。なんか病院というよりは、刑務所で監禁されていたみたいにも思えるよ。でもいい経験をしたと思っている」
「そうね、なんだかカズオ、達観した表情をしている。まるでお坊さんみたい」
「そうかい?なんかなまくら坊主と一緒にして欲しくないな」カズオは店内を見渡して、大勢の家族連れが楽しそうに食事をしている様子を考え深げに見つめた。
「みんな楽しそうだね。きっと、誰かさんの歌にあるように、誰もが、涙いてる。涙を人には見せずに、っていう歌詞の通りに。俺はこう言いたい。涙を流すと寿命が延びるんだってことを。だから今夜はきっと深刻に考えて、深く深く、世界中の涙を流している人のことを思って、安らかに眠ることにしよう」

涙を流すと寿命が延びるっていう噂

涙を流すと寿命が延びるっていう噂

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-07-08

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted