牽牛
「四方山話でも、」
彼は、ふいにそう仰って紅茶を淹れ直すものだから、私、帰るに帰れなくなっちゃった。
もう辺りはすっかり暗くて、遠くの方でカラスがカアカア言っているのが聞こえる。
仕方がないから、天鵞絨のソファに腰を掛け直してお話を続ける。
「それにしても、先日オープンした君のところのビヤホール。すごい評判なんだってね。」
「ええ。おつまみをね、海老の佃煮に変えたのです。そうしたら、以外にも好評で。」
「やはり、日本人ならそうこなくちゃな。西洋に倣ったスライスの大根だなんて、水呑百姓みたいでかなわないよ。てんでお話にならん。」
「あら、そんなこと。」
彼は昔から、分別のないことでもはっきりと言う気質なので、聞いているこちらがハラハラしてしまう。一度、遠回しに指摘したときには、心にわだかまりを残すのがいやなんだ、なんて子供のようにお笑いになっていた。まるで無反省なのである。
「まあ、なにより、君の元気そうな顔が見られて安心したよ。これでも僕は君のこと、心配していたんだから。」
バルコニーから差す、青白い月明かりに横顔を預けて、彼はニヒルに微笑した。どうしてまだ私のこと、そんな風に想ってくださるの、なんて、とても聞けはしないけれど、彼のその好意に喜びを感じてしまう私がいた。夫のある身でありながら。
「僕も男なんだから、一度愛した君のことを、いつまでも気にかけてしまうのは当然だよ。そんな怪訝そうに見つめないで。」
彼は私の心を見透かしたように言った。もう閉ざしたはずの扉が隙間から風を通すように私に囁く。それを押さえながら私は口を開いた。
「あなたは素直すぎるのよ。自分の感情をつまびらかに表しても、全然平気なのね。私もそんな風に快活に生きてみたかった。」
ついこぼした本音を拾う間も無く、彼は私を抱き竦めた。
「僕は快活なんかじゃないよ。君の前だと虚勢を張ってしまうんだ。本当は、」
いえ、よしましょう。彼は目を伏せて身を離した。触れた温もりが針のように痛かった。
何かを手放すときに、惜別のようにしみじみとそれを眺めると、今までは目に止めることもなかった意匠に改めて心を動かされる。そのものの持つ本来の価値とは、それから離れるときになってはじめて本質的に理解できるものでは、ないかしら。
人生は、それの繰り返し。
「私、きっとうまくやります。今、とても幸せです。新しいお仕事も、新しい家庭も、私の身に余るくらい。毎日が楽しいの。涙が出るくらいに、嬉しいの。」
ぽたぽたと、こぼれる涙を止められなくて、私は意味もなく笑った。今日が雨なら良かったのに、と思った。月が静かに私を見下ろしている。星が霞んで金平糖みたいに散らばっている。そういえば、今日は、七夕だったわね。
沈黙が続く。二人、半円の窓の側で、冷めた紅茶に月を映して、じっと眺めていた。
さらさらと、風が葉を揺らし、川と歌い、虫たちをくすぐって、私たちの頬に触れる。形而上の世界の中で、二人はただぼんやりと同じことを考えていた。
「僕は、」頷いて、彼は続ける。
「僕は、自分の置かれた境遇のなかで精一杯生きてきたし、これからもそれは変わらない。だから君も、しっかりやるんだよ。これからは、時代が変わるんだから、女性も、気を確かに持たなくちゃ。」
私は、その言葉がありがたかった。涙はすっかり乾いたけれど、心は澄み切った湖で満ちていた。頷いて、私たちは握手をした。それは、惜別だった。
時代は移ろっても、七夕は毎年変わらずやってきた。澄んだ漆黒のキャンバスは星を埋め込んで、私たちをその中に投影する。日本は今、たいへんな不景気の中にあるけれど、私は、そのなかでも自分を見失うことはない。それは、あの夜交わした牽牛との約束があるから。
「お母様、織姫様と彦星様は、今頃何をしているのかしらね。」
「ええ、きっと、こんな風に楽しくお話ししているんじゃないかしら。」
「あっ、お母様。みて!」
アルタイルが一瞬強く光ったよ、と隣ではしゃぐ可愛い我が子は、月に照らされて、あの夜の面影を微かに滲ませて笑った。
牽牛
読んでくださってありがとうございます!はじめまして、玲琳と申します。
今日は七夕ですね。昨晩、真夜中に勉強しようと机に向かったときのことー
うぅむ?そういえば今日は七夕じゃないか、書かねば!(使命感)と謎の衝動に駆られ、気がついたら空が白んでいました…遅筆なので、速く書ける方が本当に羨ましいです。
気楽に感想などくださると、とても嬉しいです。それから、iPadから書いているからかわかりませんが、書き出しのひとマスが上手く空けられず、詰めて書いてしまいました。気になった方がいらっしゃいましたら、お詫び申し上げますm(_ _)m