あなたの笑顔に魅せられて(5)

第五章 ある日の木曜日

 待ち望もうが、待ち望まなくても、次の日がやってきた。今日は、晴れのち曇り。俺の心と同じ状況だ。透明人間として、ある意味、つまり他人と異なるという点で、虐げられ、差別され、不審がられ、忌み嫌われてきた、この俺が、半分透明人間となり、やがては、普通の人間になれる方向性が見えたわけだが、嬉しいのか、悲しいのか、複雑な気分だ。現状が変わり、新しい道へと進むことへの不安なのか。不安が、不安を一層巻き起こし、俺の心の中は、千々に、万々に乱れ乱れている。どどっどっどどー。今度は、大きな波が押し寄せてくる。小船にしがみついて、決して、離れない意を決する。小船がひっくり返ったときは、どうなるのか。その時が、俺の最後なのか。半分、船酔い気分のまま、俺は、机に、頬杖をついている。
「先生、お客さんですよ」
 いつも、笑顔を絶やさないはずの、クミちゃんが、今日は、何故か、よそよそしい。二人だけの職場だ。俺が、今にも潰れそうな個人経営の社長で、クミちゃんは、給料が遅配になることがあるにも関わらず、「社長さんだって、給料貰ってないんでしょう。私、家が裕福ですから、一ヶ月や二ヶ月、一年や二年、一億光年や二億光年、お給料がでなくても、やっていけます」などとは言わないが、一日遅れでも、何とか我慢して、仕事をしてくれる。俺が、飲んだくれで、いつも片手に、大きな氷の塊がぽつねんとはいったウイスキーグラスを傾けている、名探偵シャーロックでもなく、DNAの螺旋構造から、新しい建築方法を二人で思い付いた、ホームズ&ワトソンでもなく、子どもながらも、大人の隠微な世界を感じ取り、見てはいけないもの、知ってはいけないものと感じながらも、つい、図書室の片隅で読み耽り、家に帰ってから、怪人二十面相の仮面が夢に出てきて、恐ろしくて眠れない夜を過ごし、親から、お叱りを受けた、あの明智小五郎(話は何処まで続くのか、もうここらへんでやめときや、と自分で自分に突っ込む)、探偵で、クミちゃんは、その名探偵を支える、ワトソンでもなく、バットの空振りを繰り返して、風の渦巻きを起こし、ピッチャーから投げられたボールを、竜巻旋風で、ホームランにする、あの伝説の野球殿堂の建物の中で、電灯として輝いている、トマソンでもないが、優秀なる相方なのだ。気まずい人間関係は、仕事に大いに影響を与える。ここは、どんな理由があろうとも、機嫌を損ねてはならない。あの原始のような、太陽の微笑の愛を授かりたいのだ。
「ありがとう。クミちゃんの声を聞くと、朝から、元気が出るよ。今日も、困っている人のために、お互い頑張ろう」
と、声を掛けるまもなく、ドアは、ドドッドーン、グアンチンチョンという爆雷の音が鳴り響いて締まり、部屋全体が、防空壕のように、身を潜めてしまった。宙に浮いた俺だけが、見えない手に翻弄されている。空白の頭の中を、甘ったるい、花の匂いを漂わせた声が忍び込んできた。
「ハート印の探偵所は、ここで、いいんですか」
 若い女が一人立っていた。クミちゃんよりも若い。女性を年齢だけで判断するのは、どうなんですかと、いつも、クミちゃんには、白い目で睨まれるが、その怒った顔が、キリリと引き締まって、あなたの美を引き立たせるのです、と、まあ、おだて返事をしいるが、人は、何か、感覚で、外部を判断せざるを得ない。最も、認知度が高いのが、視覚だ。百聞だろうが、千触だろうが、万嗅だろうが、億舌だろうが、見た目が一番、納得できる。他の感覚器官がよってたかって、自らの反応の確かさを誇ったところで、一見には及ばない。何しろ、目は二つあるんだ。何、耳も二つある、鼻も穴は二つ、おまけに、手の指は、5本で、両手、両足を合わせれば、二十本になる。舌だって、探偵業をしているんだ、五枚ぐらいあっても不思議じゃない。そう言われれば、そうだ。視覚が、最も正しいなんて、思い上がりもはなはだしいのだろう。そういうことならば、見た目で、人を判断するのは間違っているのか。でも、見た目以外に、預金通帳を見せろとか、子供のときの通信簿を見せろとも、最近の個人情報の守秘義務の点からも、相手に要請はできない。まあ、ひとつの参考資料として、扱わせてもらおう。それでいいよね、俺の体たち。返事がないのは、反対の意思表示がないことだと勝手に承諾させてもらう。
「せんせーい。何を、一人で、喉仏を動かしているんですか。これまで多くの迷える子羊の助けの叫び声に対し、一緒に悩み、苦しむ中で、一筋の、はっきりと照らされた明かりの道を見いだしてくれた、迷、明、名探偵として、有名な、せんせーいに会いにきたんですよ」
 瀬戸内海に小船を浮かべたような、ゆったりとした調子の声だ。
「いやー、これは、大変失礼しました。いや、何、散らかし放題の小汚く、掃き溜めのゴミ箱のようなこの事務所に、あなたのような、若くて、きれいな女性に来ていただいたので、少し、動揺しているだけですよ。ほら、右足と左足が、貧乏ゆすりで震えているでしょう。この建物の構造計算を誤魔化しているために、ビルが揺れているわけではないので、御安心ください。私こそが、あなたの揺れる心をしっかりと抱きとめることができます」
 汗を拭きながら、何とか、誤魔化そうとした瞬間、ドアが猛烈な勢いで開いた。そこには、ドラえもんのしずかちゃんのように、普段、大人しいはずのクミちゃんが、赤いキャンデーを飲みすぎて、大人になりすぎたのか、腰に手をあて、仁王立ちのまま、顔を真っ赤にして、叫んだ。
「ええ、確かに薄汚れている部屋ですよね。今から、ねずみを始め、ゴキブリなどの害虫駆除を行いますから、お茶はだせませんので、悪しからず」
  嵐の後は、いつも静寂から、物事は始まる。クミちゃんの宣戦布告終了後、私と依頼者との表面上の戦いが始まった。私は、ランデブーの方向に進みたいのだが、隣の部屋で、エアスプレーを持ったまま、聞き耳を立てているクミちゃんを意識せざるを得ない。
「あら、お茶なんて、いいの、せんせーい。今朝の五時まで飲んでいたアルコールが、まだ、体の中を駆け巡っているから。お茶よりも、ビールのほうがいいかもね。うふ、うふ、うふ、うふふふふ。迎え酒って、体にいいのかしら。でも、盛り上がったままの気持ちを、ずっと維持できるんですもの、きっと、心にはいいはずよ。体と心と、そんなにはっきりと分けることができるのかしら。どちらでもいいですよね、せんーせーい。あら、イントネーションが可笑しいかしら。くくくくのくーちゃん。もう一杯ちょうだい」
 鳩時計が五分もしないうちに、ドアを開けて、時を告げる。
「この事務所には、ビールはもちろん、あなたにあげる水さえもありません。どうしても飲み物が欲しいというなら、水洗トイレで顔でも洗って、出直して、いらっしゃい」
  クミちゃんの痴漢撃退用エアスプレーがいつ発射されるのか、不安でしかたがない。
「あら、せんせーいのところも水を商いしているの?その点では、私と同じね。それよりも、早速、私の相談に乗っていただけます?話は深刻なの。つまり、これから私とお話をして欲しいの。今だって、十分、話をしているじゃないかだって。そうじゃいないわ。今は、私が一方的にしゃべって、せんせーいが、頷ずいているだけ。もしかしたら、心の中で、この女は、何をしゃべっているんだ。俺は、探偵で、テニスの練習の、壁打ちじゃないんだ、ただ単に、しゃべるだけなら、トイレに籠もって、録音でもしていろと思っているんでしょう?」
「いやー、その通りです。あなたは、頭がいい。もう私の出番はありません。唯一、私があなたにお手伝いできるとすれば、日本一きれいな公衆便所を、探すことでしょう」
  俺は、クミちゃんとの熱い戦いが始まらないように、できるだけ穏便に依頼者を帰そうと思った。だが、女は、俺の心と反対に、どんどんと国境の三十八度線を乗り越えてくる。
「あら、えんせーい、切り替えしが、うまいわね。こんなとき、一世代前の人は、座布団一枚なんて、言ったのでしょう。あたし、某国営放送のテレビ番組のアーカイブズで見たことがあるわ。でも、いまどき、普通の家では、洋風になって、お客様は、ソファーに座ってもらうので、座布団なんて備えてないし、座布団の代わりに、布団が一枚ふっとんだ、さらに続けて、もう一枚、なんておやじギャグを言えばいいのかしら」
 俺は、すかさず立ち上がり、椅子のクッションを持ちあげ、彼女に手渡した。
「クッション、一枚。冷たいギャグで、くしゃみをしないように、ハ、ハ、ハ、ハクション」
隣の部屋から忍び笑いが聞こえる。大成功だ。俺が、今、戦っているのは、目の前の依頼者ではなく、防空壕から、ゴルゴサーティンのように、俺の眉間を狙っているクミちゃんなのだ。彼女に対抗するためには、通常の感覚を超えた、第三の目を見開く必要がある。例え、そこが狙われていようとも。
「面白いことを言うのね、せんせーい。ますます、気にいったわ。これからの二人の会話が、きっと弾むはずよ」
 依頼者は、全く俺の気持ちを斟酌してくれない。それは、当たり前か。相手はお客さんで、俺は、木戸銭をもらう立場。もちろん、俺は探偵で、お笑い師ではない。女は、言葉を続ける。
「あのね、わたしね、失礼かも、嫌味な言い方かもしれないけれど、左ハンドルの車しか運転したことがないの」
いきなりの相談内容が、金持ちの自慢か?十分嫌味ですよ。お嬢さん。俺だって野球の時は、グローブは左につける。右にグローブなんかつけたことがない。ほかに、左と言えば、頭の巻き方が左巻きっていつも友達にいわれる。ほっといてくれだ。俺は変わっているんだ。俺の 返答を待たずして、女の話は続く。
「それでね、空港も、成田しか知らないの。羽田って、成田と同じつくりなの?同じ田がつくから、昔は、田んぼだったのかしら。幼虫が成虫となって、羽が生え、成田から羽田まで飛んでいっちゃったのかしら」
  残念だが、羽田と成田の間に航空線はない。そりゃあ、突然、飛行機が事故か、台風などの自然現象の影響で着陸しなければならなくなり、成田から羽田に急遽降りることはあるかもしれないが、今までに、そんなことあったかどうかまでは知らない。今度、成田か羽田の空港に、問い合わせしてみよう。まあ、それはそれで無事、着陸できればちょっとした東京上空の遊覧飛行かも知れない。命と引き換えのお遊びかもしれないが、人生は、今から一秒、一分、一時間先のことさえ、分からない。安全パイの瓶の中の箱庭では、本当の人生を謳歌、堪能、充実させることはできない。身の毛もよだつほどの、危険と隣り合わせのスリル。それが、生きている証なのだ。それは、さておいて、成田しか空港を知らないっていうことは、海外旅行しかしたことがないっていうことを自慢したいのか。それとも、成田空港の免税店やコンビニなどで、レジ打ちなどのアルバイトをしているのか。
 それはともかく、来し方、行く末まで、海外旅行とは縁のない、貧乏探偵の俺にとっては、十分嫌味だ。もちろん、俺だって、特技の透明の術を使えば、ジェット機に乗り込むことなんか、お茶のこさいさい、料理が得意ですけど、実は、カップヌードルを作ることぐらいです、なんて言うくらい、簡単、簡便、感謝の二の字だ。だが、現実の俺に戻ると、エレベーターやエスカレーターに乗るのが関の山だ。例えば、大江戸線の地下から地上に抜けるのに、走りあがったことがある。エスカレーターに乗っている乗客たちを尻目に、ポポン、ポン、ポン、ポポン、ポン。太鼓が鳴ります、村まつり。今日一日は、農作業の労苦を忘れ、極楽浄土の舞を披露する。体力のある限り、乗降口までの、延々と続く階段を、二段、三段、四段飛ばしと、マイギネスへの挑戦だ。結局、五段飛ばしに挑戦するものの、足のつま先が届かずに、失敗に終わる。人間って、可笑しいことに、哀しいことに、急に、どうでもいいことに力を入れてしまう。道行く乗客の誰かが、拍手してくれる訳でもないし、彼女にかっこいいところ見せようって言う訳でもない。
  しかし、何なんだろう。この湧き上がってくる情熱と勇気と欲望は。自分でも自分を抑えきれないし、いや、返って、もう一人の自分が、自分を鼓舞してくれているんだ。ガンバレ、チャチャチャ。ガンバレ、チャチャチャ。ガンバレ、ガンバレ、ガンバレ、チャチャチャ。真夏の昼の灼熱地獄の中で、校舎の屋上で、ガクランに身を包み、天に二つに割らさんばかりに、声を大にして叫び続けている、もう一人の自分。そうなりゃあ、誰だって、頑張らないわけにはいかないだろう。自分の応援団が自分なのだから。愛しく、切なく、思わず、ほほずりをしたくなる。だが、それが、大きな落とし穴となることもある。翌日、足がパパン、パン、パン、サンドイッチに、蒸しパン、ロバのパンだ。下手をすれば、いや、なすびのヘタをとらなくても、ベッドから起き上がれないくらいの筋肉痛となる。もう一人の俺が俺を応援して、もう一人の俺の体が、俺を動かなくさせている。実に、不思議な光景だ。心離幽体現象は、まさにこの事か。まあ、俺のことは、いい。成田に話を戻さないと。えーと、成田と羽田の田んぼの話だったな。田んぼがどうした。それじゃあ、三田は田んぼが三つでもあったというのかい。うん、そうだったかも知れないな。他に、田が付く名前の地名は、田園調布だ。これは・・・
「それでね、旅行の時の送り迎えは、店のお客さんにお願いしているの。いつも、いつも頼める訳がないし、そんな都合のいい客なんかいないと疑っているのね。それが、大丈夫なの。私のお客さんだけじゃないわ。海外旅行に行く友達四人のうちの誰かのお客さんを捕まえればいいの。でも、お客さんとの関係はそれだけよ。ただ、送り迎えしてもらうだけ。手だって握りはしないわ。ありがとうのお礼の言葉と目にごみが入ったときのウインクだけで、みんな、満足してくれるわ。優しい言葉に飢えているのかしら、それとも、誰かに優しくすることに飢えているのかしら。どちらだっていいわ。私たちは、初期の目的を達成すればいいのだから。心配しなくてもいいわよ。あなたに、送ってくれなんか頼まないわ。来週、カリブに行くの。二週間の長旅よ。日程と時間を教えるわ。車は右ハンドルでもいいの。こんな安事務所の、探偵さんだと、給料も安いから、どうせ車なんか、持っていないんでしょう。だから、当日は、レンタカーでも構わないわ。あーあ、カリブ旅行が楽しみだわ。早速、荷物を積み込まないと。ディナーに出るための服だけでも、バッグが一杯になっちゃう。できれば、できるだけ、トランクの大きな車をお願いするわ。バックだって、大きいんだから。それに、一人二個から三個は必要なのよ。せんせーい、あなた一人で大丈夫かしら。心配だから、誰か、友だちを連れてきてもいいわ。今回だけ、許してあげる。できるだけ力の強い人をお願いするわ。でも、事務所の女の人はやめてね。なんだか、私に敵意を持っているみたい。でも、大丈夫。同姓からの、妬みや嫉妬には慣れているの。私には、せんせーいのような心強い殿方がついているもの」
 さっきまでアッシー君扱いから、今度は、殿様扱いだ。東京ディズニーランドのジェットコースターよりも、持ち上げ方の高低差が大きい。それだけに、心的ショックも大きい。このまま。この女との会話についていけるかどうか心配だ。途中で、落ちやしないかと心配だし、いやー、堕ちてしまいたいくらいだ。
「いやー、お話はよくわかりました。それで、私に相談とは、あなたが、近々、カリブ海へ旅行に行くとき、あなたやあなたの友人、そしてあなたたちの荷物を運べばいいんですね。それなら、わざわざ、私のような探偵に頼まなくても、人ならタクシーに、荷物なら、白猫印やコウノトリ印の宅急便にでも、お願いすればどうでしょうか」
 ここで怒りを顕わにしてはいけない。どんなことがあっても、客は客だ。相手を怒らせないように、丁寧に、やんわりと断るのが勝ちだ。それが次の仕事につながる。会社とは、永続する生き物。この俺は、その会社に属する、期間限定付の、机や椅子と同様だ。たとえ、個人経営者であっても、客は、ハート印の探偵事務所に引かれてやってくる。個人的魅力なんか、マッチ棒の明かりよりも弱く、暗闇を航行する船舶にとっての灯台はもちろん、誘導灯にも及ばない。
「私ね、カリブは初めてじゃないの。実は、二回目。旅行といっても、ほとんどが、船中での生活で、カリブ海をぐるっと周遊するだけなの。寄港は、一回からニ回程度。だから、ほとんどが、海の上で過ごすの。赤ちゃんは、お母さんの羊水の中で、成長するじゃない。だから、船の中での生活も、全然苦にならないし、不思議なことに、返って、落ち着く気がするの。何日も、何日も、波に揺られていると、お母さんにゆりかごを揺らされている頃のことを思い出すわ。嘘、もちろん、その頃ことなんか覚えていないわ。でも、お父さんが言っていたの。私が生まれたとき、見えないはずなのに、確かに、唯は目を見開いたって。あっ、ゴメン。自己紹介が遅れたね。私、松野唯です。仕事は、一応、ダンスのインストラクター。以前は、舞台でも踊っていたこともあるけど。足を痛めて、休業中。だからといって、遊んでいるわけにもいけないから、伽場蔵でアルバイトをしているの。でも、本当は、学生時代から、この仕事を続けているから、ダンスをやめたこととは関係ないの。もちろん、親公認よ。うちの親って、その点は、子どものことを理解して、信頼してくれているわ。でも、本当は、お母さんが、ぜひ、やりなさいっていったことも事実なの。変な、親だって?そんなことないわ。実は、お母さんも、若い頃、水商売をしていたから、この仕事に理解があるし、大学に行くよりも、ずっと社会勉強になるはずよ、と推薦してくれたわ。母の折り紙つきだから、一発で推薦入学が決定したわ、うふふ。少し、面白かった?だから、私のお姉ちゃんも、同じアルバイトをしていたの。今では、お店に来ていてくれたお客さんと結婚して、幸せな生活を送っているの。あーあ、私も、早く、結婚したいわ。誰かいい人いないかしら。話を戻すわね。でも、前回の旅行は最低だったわ。二週間近くも船の中で過ごすから、当然、他のお客さんとも知り合いになって、親しくなるほか、船員とも話す機会があるのだけれど。その時も、船のボーイがどうしてもというから、一緒に食事してあげたの。私たち四人は日本語で、悪口ばかり言ってたわ。だってあまりに見え見えなんだもの。わたしたち、そんな軽く見えるのかしら。ホント、失礼よ。」
「それは、君たち、唯さんたちが悪いんじゃないですよ。そうやってボーイにひっかかったイエローガールがたくさんいるのでしょう。誰だって、一度、美味しい目に会えば、二度、三度と大いに期待するし、例え、夢がかなわなくても、美しいお嬢様方とお話できただけで満足じゃないのですか。気にすることはないですよ」
「気にしてなんかないわ。だってせっかくの女の子四人の最後の旅行だもの。景色だけじゃなく、こうしたアバンチュールも、旅を楽しませてくれる、ひとつのエッセンスになると思うの。ほら、こうして、せんせーいとお話していることも、話題のひとつになるし。日常では、気がつかない、また、気がついても、無視して、通り過ぎてしまうようなことが、旅では、全て、五感に飛び込んできて、受け入れようとするの。旅は、人を大地にしてくれるの。燦燦と降り注ぐ光も、全てを洗い流してくれるスコールも、大地は、全て受け入れるの。だから、いやなボーイたちにも、少しは期待していたことも事実ね、うふふ」
「旅が大地にしてくれるんじゃなくて、あなたたち女性が、本来、母なる大地じゃないですか。女は弱し、されど、母は強し。今では、平均寿命をひとつとっても、平時では、母はもちろんのこと、男より、女が強いのではないですか。だから、男性は、女性よりも何とか優位性を保とうとして、力で勝ることだけを武器にして、争いごとを好むのでしょう。いや、DNAが変質した自分たちの存在意義を確認するために、そうせざるを得ないのです」
「あら、せんせーい、いやに、女性を褒め称えてくれるのね。依頼者の私に気兼ねしてくれているの?それとも、受付の人に、気をつかっているの、うふふ。どちらにしても、気分がいいわ。ここは、探偵事務所じゃなくて、心のアロマセラピーなのね」
 若いおねえちゃんだからといって、なめてかかってはいけない。まして、私の背後には、受付のクミちゃんがいる。相手の言葉が甘ったるいからしゃべりだからといって、白い砂糖とは限らない。辛い塩や香辛料が中には混じっている、その分、こちらとしても、用心に用心を重ねて、言葉ひとつひとつに、砂糖をまぶしてお返しする必要がある。それに、敵は目の前だけではない。その背後の茂みにも隠れている。女同士は、たとえ一時期、敵であったとしても、いつ、スクラムを組み、タッグ攻撃を仕掛けてくるかはわからない。どちらにも、微笑と賞賛を!
「カリブ旅行の話は、ここでお終い。次は、私の仕事の話。せんせーいなら、すべて話しても大丈夫ね。個人情報だから、十分注意して、取り扱って欲しいわ。実は、あたしの仲のいい友達に葵ちゃんって娘がいるの。葵って言うけど、特段、水戸黄門の親戚じゃないけど、うふふ。カリブ旅行にも一緒に行ったことがあるし、今度も一緒よ。その葵ちゃんだけど、伽場蔵は週一回の勤務だけど、仕事の日は、指名が二十本近くも入る超売れっ子なの。だから、お客さんなんか、大変よ。だって、葵ちゃん、その日は店に四時間しかいないのに、二十人の人とお相手しなければならないから、お客さんは、十分程度しか、一緒にいられないの。学校の数学も、こういう時に役立つのね。もう少し、勉強していればよかったかしら。でも、お客さんは、それでも満足して帰って行くし、また、翌週、同じ状況なのに、また、葵ちゃんを指名するの。お客さんは、ただ、葵ちゃんを顔が見たいだけなの。指名したいだけなの。葵ちゃんがいるお店で、同じ時間、同じ空気を味わいたいだけなの。そして、葵ちゃんに熱中している自分に満足したいだけなの。でも、お客さんの気持ちも分かる気がするの。あたしたち、伽場蔵嬢も、指名をされれば、その瞬間、そのお客さんに気持ちをあげるの。彼女になってあげるの。恋人になってあげるの。たとえ、十分間といえども。そうすると、お客さんの方も同じよ。お客さんも、私たちに心をくれるわ。家に帰れば、奥さんがいて、子供たちがいて、親兄弟がいようとも。この瞬間は、私たちは、二人だけの世界なの。でも、非常なものね。その時間が過ぎ去れば、嫌がる二人をマネージャーが引き離すの。織姫と彦星のように、束の間の逢瀬が終わるわ。私たちキャバクラ嬢は、お客さんと心を通い合わせた十分間だけ切り離して、別の指名の客の所へ行くわ。残された客は、その心を抱いて、家路へと帰るの。でも、その心なんて、一週間も持たないわ。その心が消えそうになる頃、客は、再び、この店にやってきて、私たち伽場蔵嬢の心を買いに来るの。体は売っても、心を売らないわってセリフは聞くけど、私たち伽場蔵嬢は心の一部を売っても、体は売らない。ほんと、変な商売ね。でも、その方が、人間にとっては重い仕打ちよ。一体、私たちの心はどれだけあるのかしら。そんな心を、もし、切り貼りしてつなげたら、地球上をすべて覆いつくせるかもしれないわ。お客さんも一緒だと思う。多分、お客さんの心も、切り刻まれていると思うの。そんな心がこの街には、充満しているわ。そのせいかしら、メイン通りから一歩入ったところにこんな墓地があるなんて。そこには、ほんとに肉体的に死んだ人だけでなく、精神的に死んだ心も埋められているに違いないわ。あの墓標には、ほらあなたの今日のこころが貼り付いているかも。よく探せば、あなたの名前が彫りこまれているかも。冗談だって?冗談じゃないわ。冗談でないことは、せんせーい、あなたが一番良く知っているじゃない。別に、せんせーい、あなたを引っ掛けようとも思わない。今こうしてあなたと話をしている時だけが、あなたは私を必要としているし、私もあなたを必要としているのよ。五分後の世界を信じる?五分後には、この街も、この日本も、この世界も、大地震や核戦争で滅亡しているかもしれないの。埋められない心は、浮遊霊のように、この街を彷徨うの。だから、この街は、眠りにつくことがないのかも知れないわ。私の切り刻まれた、切り売りされた、この心も浮かんでいるに違いないの。でも、大丈夫。とかげの尻尾のように、心も再生するの。再生しないと生きていけないの。心が再生しなくなった時が、私たち伽場蔵嬢がこの街から去る時よ。そうしないと、地獄よ。廃人となってこの街をうろつくしかない。それは、お客さんも同じ。私はこの街でまだ五年目だけど、そんな人達をたくさん見てきたわ。最後は、私たち伽場蔵嬢が狂うか、お客さんが狂うか、どちらかね。そういう意味では、私たち伽場蔵嬢とお客さんは、つかの間の恋人じゃなくて、真剣勝負の決闘かも知れない。駆け引きに敗れた方が、死ぬしかない。丁々発止の言葉の戦いね。心を賭けた戦いかも知れない。詩人となるか、死人となるか。さあ、どちらかしら。せんせーい、わたしたち二人の運命は?」
 初対面の伽場蔵嬢に、いきなり、恋愛の真剣勝負を挑まれても、戸惑うしかない。別に、俺は、相談にはのっているが、相手がよくわからないまま、好きになれといわれても困る。特に、男と女の関係を、一見客に求められても、たじたじで、後ろに引くしかない。特に、ドア越には、信頼関係で結ばれたと思い込んでいる我が家の奥の神が控えている。ここは、ひとまず、逃げの一手。
「いやー、私は、退散しますよ。こんな、しがない探偵では、あなたのような魅力溢れた人の足元にも及ばない」
「あら、弱虫ねえ、せんせーい。危険を承知で、飛び込んでいくのが、探偵家業じゃないかしら」
「いやいや、弱虫じゃなくて、私は、この街に住む寄生虫です。この街にしがみついている以上、十分安全を確認しないと飛び込んでいくようなまねはしませんよ。そうしないと、この街で生き残る、生き続けることはできません。それは、あなたのような、伽場蔵嬢も同じじゃないですか」
「うふふ、そうね、寄生虫さん、あなたの言うとおりよ。安全ドームの中で、恋愛ゲームに現を抜かしているだけなのかもね。それじゃあ、私の、もう一人の友人を紹介するわ。その娘は、冴ちゃんって言うの。冴ちゃんて、居酒屋で働いているって、親とかに言ってるの。でも、年二回は、私たちと一緒に海外旅行に行ってるの。居酒屋のアルバイトで、海外旅行に行けるだけのお金なんて貯まらないよね。可笑しい、うふふ。それに、実は、結婚しているの。がーん、だなんて衝撃を受けたかしら。もちろん、お店には内緒よ。このお店でも、あと何人かは、結婚しているか、同棲しているか、している人がいるみたいだと聞いているけど、それもよくはわからない。だって、私たち伽場蔵嬢が、本当のことを言っているかどうかわからないじゃない。それを真剣に議論しても仕方がないし。それに、紙切れ一枚の届出に何の意味があるのかしら。財産や親や子どもなど、自分にとって関係性を築くのには有効だけど、この街でひらひらと漂う私たちには、何の安息の手形にはならないの。それで、冴ちゃんの、紙切れ上の、ご主人さんは、家で商売をしているみたいだけど、あまり、うまくいってないないみたい。それで、冴ちゃん、まだこの仕事やっているんだけど、ご主人さんにも、伽場蔵で働いていること、内緒みたい。今年中には、この店止めるみたい。そうなると、私、寂しくなるわ。冴ちゃんとは、この店がオープンしてから、五年目になるんだけど、ずっと一緒よ。だから私たち四人はいつも一緒。年二回の海外旅行も一緒。今年は、最後の年になるかも。冴ちゃんも結婚したから、いつまでも、この仕事できないし、葵ちゃんは、恋人がいるから、多分、もう少しで、この仕事やめるわ。葵ちゃんの恋人は、ジャパニーズ事務所のアイドルグループの一人だった人なの。でも、本人は、それを葵ちゃんには言ってないの。偶然、ビデオを見ていたら、その彼が出ていたの。それから、私たち四人は、月に、何回か、集まって、アイドルグループ鑑賞会をするの。誰々さん、かっこいいとか、言ってね。もちろん、そのグループは、もう解散してしまっているから、いまさら、こんなことしてもしかたがないんだけど。女四人の息抜きね、ストレス発散の場よ。いいでしょ?今度は、ここが私の癒しの場所にしてもいいかしら?ふふふ」
 一体、どこまでが本気で、どこまでが真実で、どこまでが遊びで、どこまでが相談なのか、俺には全くわからない。いくら、世界がボーダレス化したとしても、これは、単なる感情の垂れ流しではないのか。まして、自分のことじゃなく、他人の情報ばかりだ。それとも一旦、自分が知りえた情報だから、後は、煮て食うなり、焼いて食うなり、自由なのかもしれない。この葵ちゃんだって、本当に実在しているのかどうか怪しいし、例え、実在していたとしても、この話のとおりかどうかは、疑わしい。ひょっとしたら、葵ちゃんは、自分のことかもしれない。それとも、仲間内のことは、すべてボーダレス化して、意識が拡散し、仲間自体が自分のことになるのか。謎は、深まるばかりだ。相談者の話は、永遠に続く。
「それでね、葵ちゃんたら、マンションに住んでいるんだけど、親には、仕事は花屋さんに勤めているって言っているの。そして、友達二人と一緒に住んでいると言ってるの。ほんとは、一人よ。私も、何度も遊びに行ったりしたわ。でも、その花屋の仕事も、今は、やっていないの。仕事は、週一回の伽場蔵だけ」
「その仕事だけでは、マンション代を払えないでしょう?親が金持ちで、十分な仕送りでもあるのですかね?それとも、俗に言う、血のつながってはいない、パパでもいるんですかね?」
 思わず、自分もそうなりたい願望からか、相槌を打ってしまう。援助をしたいのか、援助をされたいのか、その両方だ。
「あら、せんせーい、さすがに探偵さんだけあって、鋭いわね。そう。実は、パパがいるの。月にいくらか、援助してもらっているらしいわ。時々は、お店にも来るわ。葵ちゃんが言うことには、体の関係はないらしいの。でも、私が、ずっと見張っていたわけじゃないから、本当のことかどうかわからないけど、ふふふ」
「ほんとですか?それでは、何故、そのパパさんは、葵ちゃんに、安くはないマンション代を貢いでいるんですかね?パパさんの個人的な思いからの慈善事業ですか?」
 探偵根性なのか、下司根性なのか、思わず追求の手を深める。
「知らないわ。でも、体の関係がないのは、ありうることよ。私だって、つい、この前、サッカーのワールドカップの決勝戦を観にいったんだけど、そのチケットを手に入れるのに、一枚六万円もかかったって、誘ってくれたお客さんが言ってわ。そのお客さん、三年前から、私を指名してくれていて、食事して同伴とか、店が終わって、アフターでカラオケに行くことあるけど、今までに、手も握ったことないわ」
「私なら、いやですね。手ぐらいは、握りたいですね」
 思わず、軽口が飛び出す。
「あら、本当、せんせーい、嬉しいこと言ってくれるのね。じゃあ、今度、お店に来てね。いつでも待っているわ。これ、名刺。この名刺を出してくれたら、おもちゃの箱から、私が現れるの。それで、最初の話に戻るけど、わたしたち、これが最後の旅行かも知れない。冴ちゃんは、結婚しているから、もうすぐ止めると思うし、葵ちゃんだって、彼と結婚するだろうし、もう一人の仲間の橘ちゃんは、大学四年生だから、卒業しちゃうし。だから、今度の旅行は、みんなで、思い出をいっぱいつくるんだ。思い出だけでこれから先の人生が過ごせるように。そして、わたし、あと一年間はこの店にいると思うの。本当だったら、伽場蔵で五年も働いていると、次のステップで、倶楽部に移るんだけど。でも、お店を変わると、一からお客さんが変わるので、めんどうくさい気もする。こうして、ここの店にいれば、それなりに、お客さんも指名してくれるし、店長もわたしのことわかってくれている。その代わり、他の女の子がいやがるいやな客でも相手をするし、仕事だって、他に女の子がいなければ、店のために、延長しているの。休みの日だって、呼び出されたら、雨が降ろうが、雪が降ろうが、一時間かけて、この店に来るよ。人生、全て、バーターなのよ。もちろん、ビジネスだけのために、働いているわけじゃないの。わたし、この仕事が本当に好きなのよ。この仕事から離れられないの。いつまでも、いつまでもお店に出て、あなたのようなお客さんと、楽しい時間を過ごしたいの。それが、無理だとわかっているから、よけいに切なくなるの。関係性が、切っても、切れないから、切ないのかしら。日本語って、うまく表現しているのね。あら、変なことに、感動しちゃった。でも、感動って、サンタクロースのように、思いもかけないところからやってくるのでしょうね。期待半分、絶望半分」
 舞台で、ピンスポットを浴びている彼女の、少し鼻にかかった歌声が、続く。観客は、私と、裏方のクミちゃんのみ。もちろん、入場料を払うのは、彼女である。みんな、一生に一度でいいから、桧舞台にあがりたい。照明を一身に受けたい。それが駄目なら、二十パーセント割引となるチケットを握り締め、1時間五百円のカラオケボックスに飛び込むのだ。そこには、天国の演奏場が待っている。俺は、引き続き、彼女の周り舞台に光を当て続ける。
「今、一番指名をうけている子には、頑張って欲しいと思うわ。私もこの店がオープン時のときは、指名が一番だったときがあるの。それだから、指名が多い時の喜びも、少ない時の悲しみもわかるし、それに、誰の指名だろうと、お店に、お客さんが多い方が、私たち伽場蔵嬢も活気があって、楽しいの。せんせーいも、是非、お店にいらっしゃいよ。ほかのお客さんが帰ったあとは、すぐに、全員に取り囲まれて、秘密の花園の気分を味わえられるわ」
「花園に迷い込むのは嬉しいけれど、残念ながら、私はミツバチにはなれません。花から花へと、器用に飛び移ることなんかはできません。花を愛するのは、目の前にいるあなただけで、十分です」
と言いながら、内心は、部屋の外で、耳だけが、いちじくの葉のように膨れ上がり、手には、嫉妬という名の金棒を持って立ち尽くしている仁王に話しかけているのだ。
「あら、探偵さん、嬉しいことを言ってくれるわね。でも、あなたに、自由に飛び回れるミツバチになれなんていっていないわ。あなたは、箱に入ったミツバチ。蜜を吸わせるかどうかは私たちが決めるのよ。うふふ」
 やはり、この物語の主人公は、終始、彼女である。いくら、ストーリーをこちらに引き戻そうとしても、大海原の小船、いや、一枚の木の葉のように、彼女に翻弄され続けている。なんとか、打開策を見出そうと、私は席を立ち、窓際へと進む。
「ここからの眺めはどうですか」
 ここは、おんぼろビルの三階だ。周りの高層ビルに囲まれて、たいした眺望はきかない。それでも、一日中、資料整理に追われて、部屋に閉じこもっていると、無性に、窓の外が見たくなる。外の世界に飛び込んでみたくなる。彼女にも、俺の気持ちを伝えたいためにとりあえず声を掛ける。
「ありがとう。今、自分が置かれている状況だけを見つめていても、なんの解決策は見つからなさそうね。高いとことから、ちっぽけな自分を見つめ直すことも大事よね」
 伽場蔵女は、妙にしおらしいことを言って、立ち上がったものの、窓側には近よらず、反対のドアの方へと向かった。
「さようなら。楽しかったわ。なんだか、自分の進む方向が見つかったみたい。来月は、カリブ海よ。これから、また、お仕事を頑張って、お金をためなきゃ。旅行の出発の際は、連絡するわ。もちろん、荷物なんか運ばなくてもいいから。ポケモンのジェット機を見に来るついででいいかの。あら、なんだか私、少し弱気みたい。でも、今日は、本当に元気づけられたみたい。ありがとう」
「お礼を言うのはこちらです。どうもありがとう。伽場蔵詩人さん」
 最後は、洒落のつもりだが、果たして彼女に通じているのかどうか。また、本当に、彼女の役にたったのかどうか。どちらにせよ、答えは、全て、彼女自身が握っている。ただ、その答えの正当性を確信・確認するために、誰かに,少し後ろから、背中を押してもらいたいだけなのだ。彼女のような美人なら、喜んで、背中を押そう。もちろん、固体と固体の間に、気体を介在しての話だが。

 おおおおおおおっと、ドアが閉まる音と同時に、再び、これで四度目の激しい痛みが押し寄せてきた。痛みも、苦しみも、四度目になると、ほとんど和らいでくる。それどころか、今度は、どんな痛みなのか、痛みの種類に期待してしまう。真っ赤に燃え上がった鉄で、焼き印を入れられた感じなのか。外からの傷みじゃなく、腹痛のように、中から突き上げてくる傷みなのか。個人的には、内からの痛みよりも、外傷の方がいい。痛みの部分や程度を、自分の目で確認できるし、治癒していく状況がわかるからだ。また、直接、痛みの部分を、押さえることができるからだ。また、包帯やバンソウ膏で傷を覆えば、他人の目にも触れ、同情から、惻隠、憐憫の情を受けることができる。
 あら、探偵さん、その傷どうしたんですか?本当に、痛々しいですね。お体に気をつけてくださいね。私がお願いしていた、浮気現場の証拠写真を撮影する仕事ですか?いえいえ、そんなこと、別に急ぎませんよ。まずは、その傷をゆっくりと癒してください。探偵さんの傷が癒える頃、私の心の傷も治りますよ。お金の心配ですか。お陰で、もうすっかり立ち直りました。人って不思議ですね。他人が苦しんでいる姿をみると、自分の悲しみや痛みがちっぽけなものにみえてきて、どうでもよくなりました。契約金ですか。どうぞ、どうぞ、財布にお仕舞いになってください。お見舞いではないですけど、預かってください。なんて、とんとんなのか、すーっとなのか、上手い具合に物事が進みそうな気がする。その点、腹痛や下痢などの、内臓器官の痛みは、困る。誰だって、経験はあるだろうが、地中深く何千メートルを発信場所の痛みは、手が届かない。もどかしいまでに、手をくねらせる。まるで、体中真っ白の前衛舞踏家のように、右ひざをくの字、左足は、右足に巻きつけ、右手は背中の左の肩甲骨を掴み、左手は右手のひじを持つ。永遠に閉ざされた一次元の世界で、完了した生活を行うかのようだ。 そして、俺の左足が現れた。ぽっかりと俺の心臓だけが空いたままになっている。

あなたの笑顔に魅せられて(5)

あなたの笑顔に魅せられて(5)

透明人間として生まれた主人公が、透明の特性を生かし、私立探偵として客の依頼を解決するに従い、透明だった体を取り戻す話。第五章 ある日の木曜日

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-09-22

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