雨の日の花 3
「…僕の妹がね、好きだった花なんだよ。この花は」
雨音と共に、後藤さんの声がゆっくりとわたしの意識のなかに広がっていった。
ちょっとびっくりしてとなりを振り向くと、後藤さんは少し可笑しそうに口元で笑って、「どうしたの?」と、訊いた。
わたしは口元で曖昧に笑って誤魔化した。それから、「妹さんが好きだったんですか?」と、取り繕うようにそう尋ねてみた。
すると、後藤さんは短く、うん、と頷いて、五秒間くらいの間何か物思いに沈むように黙っていた。それから、「僕がこの仕事に就いたのは、妹の影響が大きいんだ」と、言葉を続けた。「妹は植物が好きでね、家の庭で色んな植物を育てたりしてたよ。しまいには、育ててる花のひとつひとつに名前をつけるぐらいの勢いでね」
後藤さんはそう言うと、軽く笑った。微かに水気を含んだような笑い方だった。
後藤さんの妹ってどんなひとなんだろう、とわたしは勝手に想像を膨らませていた。きっときれいなひとなんだろうなぁ、と思った。
「…子供の頃からそんな感じだったから、当然のように大学もそっちの方に進んだよ。ガーデニングとか、環境計画とか、そういう関係にね。そして大学を卒業すると、もっとそっちの方面の研究がしたいっていうことでイギリスの方に留学したんだ。…僕と違って、妹は結構優秀だったんだよ」
後藤さんはそう言うと、苦笑めいた微笑を口元の隅に浮かべた。
雨音が優しく響いていた。雨音に合わせるように世界は透明な声で何かを歌っているように感じられた。その歌声はどうしてか哀しげに感じられた。目の前に咲く、紫水色の花は、雨に濡れてますますその色彩の美しさを際ださせていくように思えた。
「確か、妹が留学してから二年ぐらいが経った頃かな、僕は旅行も兼ねて妹を訪ねてイギリスにいったんだ。そのとき妹は大学の寮みたいなところに住んでんだけど、その寮の彼女の部屋に、この花が飾ってあってね、すごくきれいな花だなぁって思ったんだ。
訊いてみると、妹はつい最近スイスかどこかその辺に旅行に行ってきたらしくて、そこで偶然この花を見つけて、摘んできたらしいんだ。…日本に帰ってからもその花のことが忘れられなくてね、色々調べて、実は日本でもこの花が栽培されてるっていうことを知ったんだ。そして実際に自分で育ててみたくなって、育てはじめたんだよ。
…それぐらいの頃からだね、僕が少しずつ植物に興味を持ちだしたのは。そのうち、どうしても何か植物関係の仕事がやりたくなってね、それでその当時勤めていた会社を思い切って辞めると、花屋さんでアルバイトをはじめたんだ。そしてそこで長く働いているうちに、今のこの会社を紹介されて、就職したっていう感じでね…」
後藤さんはそこまで話すと、わたしの方へ視線を向けて、「…ごめん。こんな話退屈だね」と、言って、苦笑するように笑った。
わたしは首を振って、そんなことないですよ、と答えた。そして、もっと話を続けてください、と言った。すると、後藤さんはちょっと戸惑ったような表情を浮かべて、それから軽く頷くと、また花の方へ視線を向けて何秒間の間黙っていた。そして、
「…妹が死んだのは、次の年の冬だったね」と、ポツリと告げた。
わたしは後藤さんの言葉があまりにも唐突に感じられて、後藤さんの横顔をまじまじ見つめてしまった。
「その年の冬がすごく寒かったのを今でもよく覚えてるよ。妹はもともと身体が弱かったから、その寒さがよっぽど応えたんだろうね。…風邪をこじらせて、肺炎にかかって死んでしまった…」
後藤さんはそう言うと、しばらくの間黙っていた。わたしも黙っていた。沈黙のなかで、ひとつひとつの雨音が大きく拡大されて聞こえた。
「…だけど、直接の原因はその寒さじゃないんだ。妹はちょっと無理しすぎたんだよ。まだ風邪の治りきらない身体で、強引に研究を続けようとして、それであんなことになってしまった。…まあ、妹らしいといえば妹らしいんだけどね」
後藤さんの瞳をよく見てみると、花の紫水色の色彩と雨の色彩が重なり合うように溶け込んでいた。それは後藤さんの意識というプリズムを通して、そこに現れた儚い光のように思えた。
「妹はイギリスの病院で息を引き取ったよ。…日本に連れて帰る間もないほど、あっけない死に方だった。雪の変わりに、恐ろしく冷たい雨が降る朝だったね」
そう言った後藤さんの声は、そのときの感情がそのまま凍りついて残っているみたいに寂しげに感じられた。
わたしは黙って、後藤さんの妹のことを考えていた。外国の、雨の日の陰鬱な光に濡れた薄暗い病室で、寒さに押し包まれるようにして死んでくということを、考えていた。
「妹が大学で研究していたのは、この雪解草だった。向こうで、妹の荷物とかを整理してたときに、この花に関する論文だとか、データーだとか、文献だとかが一杯でてきてね。…なんだろう。そのときになってはじめて泣いたよ。それまでは全然涙なんて出てこなかったのに、そのときになって急に喪失感みたいなものが込み上げてきてね、妹が住んでた小さな部屋で声を出して泣いたんだ…」
後藤さんはそこまで話すと、ふととなりにわたしがいることを思い出したようにこちらを振り返って、目元で哀しみを誤魔化そうとするように微かに笑った。そしてまた花の方へ視線を戻すと、「妹の部屋はひどく寒かったな。…泣いてる側から涙が凍ってしまいそうなくらい冷たい部屋だったよ」と、ひとりごとを言うように小さな声で言った。
後藤さんの言葉を、あとから雨がやわらかく湿らせていった。後藤さんの言葉は雨と共にこの地面に染みこんでいくように思えた。
「…だから、僕はこの花に特別な思い出があるんだ。妹が好きだった花を、自分で育てて、日本に広めたくてね…それでかなり強引に社長を説得して、今年からこの花をやらせてもらうことにしたんだ」
わたしは後藤さんの横顔に向けていた視線を、後藤さんの視線の先を辿るように花の方へ向けた。紫水色の花は雨に濡れて、優しく輝いて見えた。
「…きっと、妹さんも喜んでるんじゃないですか?」
と、わたしは言ってみた。
すると、後藤さんはちらりとわたしの方へ視線を向けると、軽く頷いて、「そうだといいね」と、静かに微笑みながら言った。
空から落ちてくる水色の粒は、地面に辿り着くと、そこに淡い水色のきれいな花をいくつも咲かせていった。辺りにはその花が咲くときの、少し水気を帯びたような、やわらかく澄んだ音がいつまでも響いていた。
結局、苦労の末に、わたしは何とか光輝草を咲かせることができた。ある日、突然淡い黄色の蕾がついたかと思うと、わたしの見ている前で、ゆっくりと蕾が開いて花が咲いたのだ。
それは日曜日の早朝だった。早起きしたわたしが鉢植えの前に座って、じっとその蕾を見ていると、小さな黄色の蕾からまるで光が放射状に広がっていくように花が咲いたのだ。それはまるで生まれたての希望のように思えた。
わたしはその日のうちに先生が入院している病院に花を届けにいった。そして、その花を届けてから三日もしないうちに、先生はうそのように意識を取り戻した。いくらか後遺症は残ったものの、深刻な事態には至らなかった。
あのときの花の種は、今でも大切にしまってあって、ときとぎそれを取り出しては先生のことを懐かしく思い出したりする。先生は今でもまだ元気にしていて、ごくたまに、絵葉書が届いたりする。
会社から帰るときになってもまだ雨は降っていた。でも、それは以前に比べるとだいぶ穏やかなものになってきているみたいだった。明日になれば、もう晴れ間が覗いているかもしれない。
結局今日は仕事がなかなか終わらなくて残業になってしまった。でも、どうしてか、それほど疲れは感じなかった。ふたつの花の記憶が、わたしの心を優しく震わせていったせいかもしれない。哀しみを含みながら、でも同時に何かを解放していくような潤いに満ちた花の記憶。
帰りの電車のなかで、ケータイにメールが届いた。それは学生時代の友達からのものだった。メールには「今度の日曜日久しぶりにみんなで会わない?」と書いてあった。わたしはその場ですぐに返事を返した。もちろん、承諾を伝える返事だ。みんなに会うのが、その瞬間から楽しみだった。
暗い電車の窓ガラスに線を描いていく雨粒を眺めながら、わたしは今日蕾をつけていたバラのことを考えていた。後藤さんの話では、明日の朝には咲いているだろうということだった。ほんとうに咲いているといいな、と思った。
明日はいつもより少し早く家を出ようと思った。そうすれば、朝日のなかで、遠慮がちに蕾を広げるバラの花を見ることができるかもしれない。
明日が待ち遠しかった。
雨の日の花 3