スイッチ屋と死にたがり少女―第一話―

※注意※

この章では以下のような表現及び描写がなされています。苦手な方はご注意ください。
読了後の苦情は一切受け付けませんので、ご了承くださいますようお願い申し上げます。

●グロ表現。
(表現をオブラートに包みまくりましたが、全然包めていません。この先の話でこれ以上グロイものは多分ないです。逆に言うと、この話が一番グロいです。本当に苦手な方は回避してください。)


愛してる。
ずっとずっと、
永遠に。

朝起きるとスイッチ屋の姿は消えていた。昨日の一件は夢かとも思ったが、床には昨日ロープとして使った衣類がきっちりと畳んで重ねてあった。ジャージに着替えてパジャマはベッドの上に放る。ベランダに出ると、案の定昨日使った脚立が転がったままだった。
外は相変わらずの暑さだ。ここ数日は快晴が続いていたが、今日は湿り気を帯びた熱気が風と共に押し寄せてくる。雨が降りそうだ。
頭が痛い。何だか目頭が熱くなる。私は急いで室内に戻り、窓を閉める。昨日の妙な男は何だったんだろうかと考える。スイッチ屋とか名乗っていたようだったがあまりにふざけた名前で、今になって考えてみるとバカにしているとしか思えない。
そんなことをうだうだと考えていると安っぽい音で玄関の呼び鈴が鳴った。インターホンなんて洒落たものはないのでドアスコープから覗くと隣の部屋に住んでいる竹中辰則さんだった。一応女子高生の一人暮らしということもあって普段からドアチェーンをかけているが、すぐに外してドアを開ける。
「弘香ちゃん、おはよう」
「おはようございます」
竹中さんは最寄駅から数駅先にある大学に通っている学生だ。高級ブランドものではないがいつも趣味のいい服装をしていて、今日は大学に行くのか小脇にファイルケースを抱えている。香水でもつけているのか、いつも微かに甘い香りがする。
ここに越してきたのは私より前だが、私がここに入居してからは一階に住んでいるぶっきらぼうな大家さんよりもお世話になっている。たまにこうして尋ねてきては、たまに私にリンゴやら切りたんぽやらを分けてくれる。実家が青森にあるらしく、両親が大量に送ってくれるらしい。住んでいる地域が遠くても、そんな家族がいることがちょっと羨ましい。
「弘香ちゃん、昨日大丈夫だった?」
竹中さんが心配そうな調子でそう言うので私は首を傾げた。
「ほら、昨日さ、弘香ちゃんの部屋からなんかすごい音したから。泥棒とか入ったわけじゃないよね?ひょっとしてゴキブリでも出た?」
嫌な予感はしたが、昨日の騒動はやっぱり聞こえていたらしい。私の部屋は角部屋なので隣人は竹中さんしかいなかったのは救いだったかもしれない。ちなみに真下の部屋は現在空き部屋だ。変に話を掘り下げられても面倒なので、とりあえずしらばっくれるしかない。
「すごい音?」
「なんて言うか……」
竹中さんは少し考え込むような仕草を見せて少し黙った。
「……なんて言うか、重いものが床に落ちた音っていうか、倒れた音っていうか……。昨日はちょっと飲みすぎてつぶれていたから、様子見に行けなかったんだけどどうも気になって」
事情は分からないが、竹中さんがお酒を飲むきっかけになったすべての事象に拍手を送りたい。
「ごめん、うまく説明できないや。忘れて」
僕の気のせいだったかもしれないしね、とはにかむ竹中さんにちょっとほっとする。
「ところでさ、そこで座ってるのは……?」
「え?」
ギクリとして振り向くと、あまり綺麗ではない部屋でスーツで天パの男が胡坐をかいていた。ちゃっかり座布団まで使っている。あまりのことに一瞬息が詰まる。
「あ、どうも。お隣さんですよね?俺、スイッチ屋って言います!挨拶が遅れて申し訳ない!」
いつの間に部屋に入ったのか思案している間にスイッチ屋が答えた。わざとらしい丁寧口調なのが腹が立つ。部屋の中央の丸テーブルで自前で持ってきたらしいスナック菓子をポリポリと食べながら、さも当たり前かのように自己紹介する様はいっそ見ていて清々しかった。しかしここまで自己が紹介できていない自己紹介は初めて聞く気がする。
「いや、それ自己紹介になってないですよ?」
私が言いたかったことを竹中さんが恐る恐るといった体で言ってくれた。とりあえず呼吸を整えてスイッチ屋に向き直ると、彼は軽く肩をすくめた。決まる悪そうにこちらに手をヒラヒラ振っている。一応、勝手に部屋に入ったことに対して罪悪感は感じているらしい。それでもスナック菓子の袋は手に持ったままだったが。
「なんでアンタこんなところにいるの?」
「だって、昨日言っただろ?『誰か見てないと多分、アンタし……』」
「分かった。分かったからちょっと黙って」
こんな得体の知れない男に迂闊に喋らせた私がバカだった。さっきまでの頭痛がさらにひどくなってきた気がする。とりあえずこの男に喋らせると余計に事態がややこしくなるってことだけは分かった。私が言ったら黙ってくれたのが救いである。
「えーっと……弘香ちゃん。俺、なんか邪魔みたいだし、これから学校だからもう行くね?」
「邪魔なんてとんでもないですよ!」
とりあえずスイッチ屋には部屋にいるように釘をさして、せっかくなので下に下りていく竹中さんを見送りに行く。錆びついた階段がギシギシと音を立てる。作りも簡素なのでいつ壊れるか分かったもんじゃない。階段を下りていると竹中さんが手を握って支えてくれた。
「部屋に帰るときも気を付けてね」
私は頷いた。もしかしたら少し笑顔になっていたかもしれない。
竹中さんは優しいと思う。この前、彼女さんが竹中さんの部屋に尋ねてくるのを偶然発見してしまったが、彼女はとても綺麗な人でとても幸せそうだった。部外者の私が一度見ただけで幸せそうだとはっきり分かるくらい、二人はお似合いのカップルだった。でもその彼女さんは不慮の事故でつい先日亡くなってしまったらしい。竹中さんがそう言っていた。その時の竹中さんがあまりにも魂が抜けたような顔をしていたのを今でも覚えている。大切な人を失ったのだから、無理もない。それから数日で竹中さんの様子は普段通りになったけれど、きっとまだ辛いに違いなかった。不慮の事故の内容までは聞いていない。竹中さんが言わない以上、部外者の私が訊ねることでもないだろう。
下まで下りきった後に、スイッチ屋のことは遠い知り合いと説明しておいた。それ以外の説明が思いつかなかったというのもあるけれど。
「最近何かと物騒だからさ、あまり“遠い知り合い”とかを部屋に入れない方が良いと思うけどなぁ」
説明に無理があるのが分かっていたので、竹中さんの苦笑いに私も中途半端な表情で返すしかなかった。突っ込んで訊いてこない竹中さんの心遣いに感謝だ。
「まあ、何かあったら俺で良ければ相談に乗るから言ってね」
「はい、ありがとうございます」
竹中さんを見上げると太陽が視界に入ってちょっと眩しかった。
学校へと向かう竹中さんを見送って、私は大きくため息をついた。まだ二階に最大の案件が残っている。
部屋に戻ろうとすると、私が上るよりも先にギシギシと階段が音を立てた。見上げるとスイッチ屋がこちらに向かってくる。部屋から出るなと言ったのに。
「あれ?行っちゃった?」
「うん、大学行くみたい。というか、出てこないでって言ったのになんで出てきてるわけ?」
「あーそうだっけ?」
悪びれもせずにスイッチ屋は天パの頭を乱暴にかいた。
「今日、空気が湿ってるじゃん?それで髪がクルクルしてるんだわ。だから今日は物覚えが壊滅的で」
「関係ないからそれ」
すかさず一刀両断すると、ユーモアがないな、と笑われた。余計なお世話である。と思っていると、スイッチ屋が急に神妙な顔になった。竹中さんが去って行った方をジッと眺めている。
「どうしたの?」
私がうかがう様に顔を覗き込むとすばやく顔をそらす。これは怪しい。
「まさか竹中さんにまで迷惑かけるわけじゃないでしょうね?」
「うーん、何ていうかさ」
結局スイッチ屋はそう言って口を噤むと、階段を上りきるまで口を開かなかった。私はと言えば、階段上まで危なげなく上って部屋までたどり着く。
「この階段上るのも降りるのも大変だよなあ」
「慣れちゃえば大したことない。確かに壊れてはいるけど、まだ使えるし」
大家さんが階段改築を渋っているのも同様の理由である。さっきは竹中さんが手を貸してくれたが、正直なところ手を借りなくても十分上り下りはできる。慣れてない人だと、今のスイッチ屋のように、バランスを取ろうとして変なガニ股になる。以前竹中さんの彼女さんを見た時も、彼女さんが若干涙目になりながら竹中さんの手を借りていたな、とふと思い出した。
結局その日、スイッチ屋は私の部屋で自前で持ってきたスナック菓子を数袋消費しながら、これまた自前で持ってきたらしいノートパソコンを弄っていた。窓を開けていたので、たまに空気の湿り気を気にして自分の天パも弄ったりしている。最初はきつく言って追い出そうと試みたが、私の自殺防止を盾にして居座られた。どうしてこんな赤の他人の私に執着するのかと半ば気味の悪ささえ感じながら、でも余計なことを言うとまた面倒なことになりそうなので何も言わずに置いた。
私は何をしていたかと言えば、特別何かをしていたわけではなかった。部屋に戻ってすぐに掃除洗濯をしたが、それ以降はいつも通りパソコン机に座ってネットサーフィンをする。これはスイッチ屋が来る前からそうだから、特別なことでもない。逆に言うとスイッチ屋がいるというのが常にはない事例だと言える。スイッチ屋が時々自分の手を止めてこちらにチラチラ視線を寄こすのが分かって、かなりげんなりした。
「あのさー」
「んー?」
お昼近くになってスイッチ屋がいきなり声をかけてきた。パソコンの画面を見たまま片手間に返事をした。しかしなかなか続きを言わないので回転イスごと振り返ると、スイッチ屋がやたら神妙な表情でこちらを見てきた。今朝もこんな表情をしていたなと思い出す。
「何?」
とりあえずこちらから促してみるが、スイッチ屋の表情は煮え切らない。やがて数秒おいて妙なことを訊いてきた。
「ねえ、弘香と竹中って、隣人関係なだけ?」
「は?」
「つまり、野暮なこと訊くけど恋人ってわけじゃないよな?」
「はあ?当たり前じゃん」
いきなりバカなことを言い出すのでちょっと呆れ口調になった。確かに竹中さんは優しい人だとは思う。でも……。
「そうか。なら良かった」
スイッチ屋は神妙な顔を崩さず、でも少し笑顔になって頷いた。

「弘香ちゃん、いる?」
安っぽいインターホンが鳴る頃にはスイッチ屋はいなくなっていた。昼はスイッチ屋が近所のコンビニから買ってきたものを適当に食べたのだが(正しくは食べるように半ば強制されたのだが)、その後パソコンを弄っている途中でガバッと立ち上がり
「ちょっと行ってくる!」
と言い残して荷物を全撤収して去って行った。どこに行ったかは彼のみぞ知るである。
ずっと居座る気かと思ったが、案外あっさりいなくなって少し拍子抜けした。これって死ぬチャンスなんじゃないの?とも思ったが、再びロープを作ってから倒れていた脚立を立て直す段になって、よく考えて止めにした。そういえば竹中さんが脚立を借りに来るんだっけ?じゃあ、別に今死ぬ必要はないか。少なくとも竹中さんが脚立を使い終わってからでも良いだろう。それに今日は雨が降りそうだし。
私はそんな風に単純に思った。

ドアチェーンを外して竹中さんを迎え入れる。外の湿った空気も一緒に部屋の中に吹き込んできた。
「いらっしゃい。脚立ですよね?今お持ちしますから」
「良いって。あれ、重いでしょ?僕が運ぶから、ちょっと部屋入って良いかな」
もちろん、と快諾すると竹中さんは玄関で靴を丁寧に揃えてあがってくる。ベランダに置いたままの脚立を持ち上げ、スムーズに玄関まで運んでいった。私がベランダに運び入れた時はかなりの時間がかかったので、やっぱりこういう筋力は羨ましいと思う。
「ごめん、弘香ちゃん。ドア抑えていてもらって良いかな?僕の部屋の鍵も開いてるから」
「あ、はい」
流石に両手がふさがっている状態ではドアの開閉はできない。私は自分の部屋のドアを開けて竹中さんが部屋を出るのを待ち、そして竹中さんの部屋のドアに手をかける。よく考えると竹中さんの部屋を訪ねるのは初めてだ。まあ、だからと言ってどうと言うことはないのだけれど。
「弘香ちゃん、開けちゃっていいよ」
一瞬動きを止めてしまったのを遠慮と取ったらしい竹中さんが笑顔で言った。
私はドアを開けた。
「……」
「いやぁ、ありがとう」
何とも言いようのない思いが胸を競り上がってきた。ドアを開ける前までは全く感じていなかったその感情に私は大いに動揺した。ドアを抑えたままその場で立ち止まったまま動けない。竹中さんがいつもしている香水の香りが部屋に満ちて、私は思わず足が竦んだ。
「どうせだから上がって行ってよ。何もないけど、お茶くらい入れるしさ」
脚立を部屋の片隅に立てかけて竹中さんがこちらにやってきた。右手で軽く背中が押されて私は室内に入る。
部屋の家具配置はほとんど私の部屋と同じだ。部屋の中央にテーブルが置いてあって座布団が二つほどある。ベッドの配置は少し違って。ベッドの傍らには花瓶が置いてあって赤いバラが生けてあった。窓は閉め切ってあって、クーラーが少し寒いくらいにかかっていた。
「どうぞ」
テーブルに湯呑が置かれる。シンプルな空色の湯呑だ。竹中さんに座るように目線で促され、私はようやく座布団の上に座った。座った上で、部屋をぐるりと見回す。私が座ってる位置から真正面に見える壁に竹中さんの彼女さんの写真が飾ってあるのが見えて、居心地が悪くなる。どれだけ竹中さんが彼女さんを好きだったのか目の当たりにして、正直どうしたら良いのか分からない。
「パックのほうじ茶なんだけど、もしかして緑茶がよかった?」
私が湯呑に口をつけないでいると竹中さんが言った。お徳用だから色々あるよ、と竹中さんは笑う。
「いえ、大丈夫です」
「そうかい?お茶請けも何もなくて申し訳ないけど、遠慮しないでくつろいでね」
目のやり場に困ってとりあえず湯呑を見ていると、テーブルを挟んで向かい側に竹中さんは脚立を立てた。古くなった床がミシリと鳴る。
「良かった。ちょっとギリギリ天井に届かなかったからさ。これが貼れなかったんだ」
私は恐る恐る目線を上げた。
竹中さんは天井に彼女さんの写真を貼っていた。手にはまだ写真の束がたくさんある。恐らく天井を全て覆えるほどだ。いや、もしかしたら天井に貼るだけでは足りないかもしれない。
この部屋に入った時から感じていた吐き気を本格的に感じて口を両手で覆った。天井から目線を下げると、壁一面に貼られた彼女さんの写真が目に入る。どの写真の彼女さんもどこか楽しげに微笑んでいる。竹中さんと二人で出かけた時らしい写真もあったが、ほとんどが隠し撮りっぽい写真ばかりだ。幼いころの写真まで貼ってある。
振り向くと背後の壁には違う人物の写真が、これまた壁一面に貼ってある。私の写真だ。彼女さんのものほど数は多くないけれど、それでもかなりの数だ。買い出しに行ったときに遠方から撮ったであろうものから、どうやって撮ったのか分からない室内の写真もある。いつの間にこんなに写真が撮られていたのだろうと思うとどうしようもなく頭が真っ白になりそうになる。
私は金縛りにあったかのようにその場から動けなかった。ただ目だけをあちこちに向けて打開策を働かない頭で思案していた。ダメだ。これもダメ。ダメダメダメ。考えろ。ここから出る方法を考えろ。ここにいちゃいけない。さっきは誘い込まれるまま部屋に入ってしまったが、これは大きな誤算だった。
あちこち見ているうちに視線はあまり見ないようにしていたベッドに向かってしまった。ベッドには“何か”が横たわっている。先ほど玄関先からも確認できたその“何か”は、多分だが原型を留めていない。そしてそこから竹中さんの香水の香りが濃く香っている。気味悪いくらいに濃い香りだった。視界に入って“何か”を見た人は辛うじて「恐らく“生前”は女性だったのだろう」と推測することができるだろう。“それ”の周りには女性ものの服がいくつも並んでいて、“何か”の上には夏物の空色のワンピースがかけられている。
「やっぱ緑茶の方が良かったかな?僕はほうじ茶派なんだけどね。彼女にもほうじ茶いれてあげたことあったんだけど、彼女もあまりほうじ茶は好きじゃなかったみたいで」
それともメーカーの問題かな、それともパックじゃなくて茶葉の方が良い?と竹中さんは穏やかに微笑んだ。いつも通りの竹中さんだ。あれ?いつも通りってなんだっけ?
ベッド脇のバラだけがこの部屋で生々しいくらい生気を放っていた。部屋を満たす甘ったるい香りはもしかしたらこのバラの香りなのかもしれない。そんな風に考えてみるが、それが嘘であることは嘘をついた私自身がよく知っていた。
やがて竹中さんは写真を全部貼り終わったのか脚立を脇に除け、抹茶色の湯呑を持って私の対面に座った。私の顔色を窺ってこちらを覗き込んでくる。
「どうしたの?なんか体調悪そうだけど?」
私は身じろぎもできず、やっとの思いで竹中さんの顔に視線だけを映した。
「……そういえば、弘香ちゃんって一回僕の彼女に会ったことあったよね?」
どうしようもなく震える。自分じゃ抑えきれない。体が震えているのか、周りが歪んでいるのか、それともどっちもなのか……。
「彼女も最近体調を崩してさ、今じゃ食事もほとんど取れないんだ」
違う。違う。彼女さんは死んだんでしょう?不慮の事故って言ってたじゃないですか?……どうしてもこの言葉が言えない。それ以前にもう声が出せる状態にはない。一言発すれば、それが悲鳴になりそうだった。だから声を殺すしかなかった。声を殺す方が自分を殺すより容易だってことが今分かった。
そもそも“不慮の事故”は本当に不慮の事故だったのだろうか。もうそれすらも曖昧で。でも考えるのが恐ろしかった。考えない方がよっぽど良いのかもしれない。考えることをやめてしまった方がまだ楽なのかもしれない。分からない。分からないことは考えない方が良いのかもしれない……。
湯呑を置いた竹中さんが台所(と言うほど立派なものではないが)から包丁を持ってくるのを私はぼんやりと見ていた。竹中さんの笑顔が見えた。なんだいつもの竹中さんじゃんそれじゃ何も問題ないよね心配ないよね大丈夫だよ怖いことなんかないじゃん。
「体が震えてるね。でも大丈夫。心配ないよ。こうすれば震えは止まるからね」
竹中さんの声が迫った。こうするってどうするの?……もうそんな疑問も考えるのが億劫で、低い声に妙に納得して私は体の力を抜いた。


「弘香、目閉じろ」
唐突に突き刺すように声がした。竹中さんの声より少し低い。まさかと思って体ごと振り返ると、スイッチ屋がドア枠に背を預けて立っている。いつの間に入ってきたのだろうか。
来ると思っていた刃物の感触はなくて、代わりにこちらに迫っていた竹中さんに後ろから抱きしめられた。甘ったるい香りがさらに強くなって、ハッと夢から覚めたように状況を思い出す。もはや恐怖しか感じなかった。何が怖いのかは実を言うとまだよく分からなかったが、とにかくこの状況は異常だということは分かっていた。そしてその状況に飲まれかけていた自分が一番恐ろしかった。
「弘香、閉じろって」
私はあわてて見開いたままだった目を閉じた。真っ暗な視界がチラチラ揺れる。いくら目を閉じても見てしまったものは消せない。部屋一面の写真、赤いバラ、そしてベッドに横たわる“何か”……。鼻から入ってくるむせ返るような甘い香りに私は唇を強く噛んだ。
「あれ?今朝のお兄さん。弘香ちゃんの遠い知り合いでしたっけ?」
「……うん、まあ、そんなもんかな」
竹中さんに応対するスイッチ屋の声は挨拶でもするようで、緊張感の欠片もない。さっきの鋭い声が嘘みたいだ。この異常な空間でそれだけが正常なもののような気がして、私は必死にその声を辿って、自分の気を落ち着かせようとした。
「竹中だっけ?どうしたの、そのベッドの人?」
「僕の彼女だよ」
「悪いけど俺の趣味ではないかな」
とりあえずさ、とスイッチ屋が言う。頭上で竹中さんが首を傾げた。
「その物騒なもの、仕舞ったら?」
「もちろん、使ったら仕舞いますよ」
「!!やめ……!」
空気に緊張が走った。スイッチ屋が鋭く言いかけた声は途中で止む。私にもその原因は察せられた。風を切る気配がして、次の瞬間には首筋に包丁の切っ先が当たっていた。間一髪、食い込む寸前と言ったところだろうか。包丁自体は冷たいだろうに、感じたのはやたらと熱い感触だった。
「ん?何?」
手を途中で止めた竹中さんはスイッチ屋の言ったことが単純に聞き取れなかったらしい。不思議そうな声音で問い返す。単純に聞き返す調子だ。
「弘香、目、開けんなよ」
スイッチ屋が言い聞かせるように言うのが聞こえる。必死に噛みしめている唇から血が滲んだのが分かった。この塩辛さで甘ったるい香りが消えれば良いと願う。このどうしようもない感情も全部この塩辛さで消えてほしかった。気付いてないかもしれないけどさ、とスイッチ屋の軽い声がそこに滑り込んできた。でも一端そこで区切って、深呼吸するような息遣いが聞こえた。どんな顔をしているのかは目を瞑っているので見ることはできない。
「竹中ってさ、良い香水使ってるけどやっぱり彼女さんの臭いは消えてないよ」
「やっぱりこれ良い香水なんだ。彼女が好きなブランドでさ。買ってつけてやると喜ぶんだ」
一気にお腹の底から嘔吐感が襲ってきた。さっきまでの塩辛さと酸っぱいのか苦いのかよく分からないものが混ざって、正直言うともう何が何だか分からない。スイッチ屋が来る前よりもちゃんと自我を保っていられるのが唯一の救いだ。私はひたすら目を瞑って、自分を保っていればいい。
「アンタ、彼女を愛していたんだな……」
「違う」
竹中さんの腕に力が籠る。
「愛してるんだ、今も。もちろんこれから先も。ずっと」
「じゃあ、弘香は?」
「愛してますよ。実を言うとこの子がここに越してきた時から」
はぁ?とスイッチ屋が素っ頓狂な声を上げた。馬鹿にすると言うよりは、むしろいぶかしむような感じ。私はと言えば、ただでさえ声を出す余裕がないのに、その上に更に重たい鉄球でも飲まされた気分だった。
「ここの大家さんをご存知ですか?結構気難しい方で、慣れていないと少しとっつきにくいんです。だから、入居したての頃は弘香ちゃんも大分困っていました」
否定はしない。確かに困っていた。入居当日、荷物の搬入のときも大家さんの対応に引越し屋さんがしどろもどろしていて、さてどうしようかと思っているときに竹中さんが色々仲介してくれて。当時近所の地理に疎かった私にスーパーや病院などの場所を教えてくれて案内してくれたのも竹中さんで。ついでに美味しくてこのあたりでは有名な甘味処なんかも教えてくれたは竹中さんだった。
「でも“愛してる”というのは少々語弊がありますね。妹に対する愛情って言った方が正しいかと思います」
「妹ねぇ……」
竹中さんが首を振って頷く。
「じゃあさ、」
「じゃあ、彼女さんは……?」
スイッチ屋が続けて何かを言おうとしたのをか細い声が遮った。どこから声がしたのだろうと考えて、自分の声だったと思い出す。掠れるような、声と言うより息と言った方が良いかもしれない。今の私に出せる精一杯の声だった。それでも竹中さんには聞こえたようで、包丁を持っていない方の僅かに腕が揺れた。迷うような気配がする。スイッチ屋も黙って竹中さんの次の言葉を待った。
「……彼女は、僕の大切な人だよ」
声の響きだけで、ああ、そうなんだと納得した。「大切」っていう言葉、それ以上もそれ以下もないんだと思った。そう思うと何故か無性に悲しくなった。悲しくて、悲しくてたまらなくなった。
優しく肩を抱かれて体の向きが変わる。私は竹中さんと向かい合う形になった。
「弘香ちゃん」
私は恐る恐る目を開けた。しゃがみ込んで私の顔を見ている竹中さんと目があう。片手には包丁を持ったままだったけれど、私は不思議と怖いとは思わなかった。さっきみたいに頭が麻痺して怖さが分からなくなったわけではなくて、ちゃんと怖くないってことが自分ではっきりと分かっていた。
「弘香」
「大丈夫だから」
スイッチ屋に返した声は相変わらず震えていたけれど、ちゃんと聞こえていたと思う。それに、本当に大丈夫だ。少し怖かったけど、でも今なら竹中さんの顔をまっすぐ見ることくらいなら私でもできる。竹中さんは困ったような笑みを浮かべていた。それがやっぱり悲しい。
「実は、彼女病気でさ。悪性リンパ腫で、発見した時にはすでに末期だったんだ。医者にはもう長くないって言われて。彼女には家族には心配かけたくないから黙っていてって言われた」
ここで竹中さんは一つ息を吐いた。包丁を握りなおして続ける。
「入院と自宅療養でどうにか治していこう、僕もついてるから一緒に頑張ろうって言ったんだよ。でも彼女が薬の副作用が酷くて苦しんでいるのに、僕は何もできなかった。それで分かった。僕は彼女の痛みのほんの少しも背負えてやれない……」
「そんなこと……」
「お前に何が分かるっ!!!」
スイッチ屋の声に竹中さんが立ち上がった。手が白くなるほど、包丁の柄を握りこんでいる。いつもの温厚そうな表情は全く見えなくてやたらと血走ったギラギラとした目が見えた。スイッチ屋を見据えている。竹中さんは更に声を荒げた。スイッチ屋が動く気配はない。
「そんなことないって!そんな適当なことどうして言えるんだよ!!彼女の苦しみがお前に分かるかよっ!副作用だけじゃない!!いきなりもう長くないとかふざけたこと言われて!どんな思いをしたか!」
そして竹中さんはしゃがんだまま身動きできずにいた私を見た。ごめんと慌てたように言いながら驚いたような顔で、また屈みこんでくる。私はまた竹中さんの腕の中に納まった。抱えられる直前、私は少し振り返ってスイッチ屋の表情を窺った。その表情を見て一瞬「あれ?」と思ったが、スイッチ屋が私と目が合う寸前にサッと目をそらした。
「僕は彼女にひたすら“愛してる”って言った。彼女は喜んでくれた。それに僕はさ、そう言って傍にいることしかできないから」
ずっと一緒にいてやるって約束したから。竹中さんは囁くように言った。この期に及んで、竹中さんの顔が少しやつれているのに気付いた。
「段々、体重も減ってきてベッドに横になっていることが多くなった。話しかけてもあまり反応しないで寝ていることが多くなった。いい加減、ご両親に連絡した方が良いんじゃないかって言ったんだけど、ずっと嫌がっててさ。今も、実はあまり具合が良くないんだ」
竹中さんはチラリとベッドを見やった。相変わらず濃い香りが立ち込めている。呼吸が少し苦しい。香りのせいと、竹中さんがきつく私を抱きしめているせいだ。
「違う。彼女さんは死んだ。そうだろ、竹中?」
竹中さんが虚空を睨んだ。実際には虚空じゃなくてスイッチ屋を睨んでいるんだろうけど。更に思いがけないことを続けた。
「彼女さんは死んだ。容態悪化で病院へ搬送中に交差点でトラックが救急車に突っ込んできて。アンタが大学に行ってる間の不慮の事故で、アンタが駆け付けた時にはもう……」
「違う!」
淡々とした口調で事実だけを言うスイッチ屋に竹中さんが叫ぶ。なんでスイッチ屋がそんなことを知っているのだろうと思案する前に、今日ちょっと竹中のこと調べてたんだ、と彼は呆気なくネタ晴らしをした。やたらと忙しそうに部屋を出て行ったのもその関係だったのかもしれない。
「うるさい!死ぬわけないだろ!何をバカなことを……!!ずっと一緒だって二人で誓ったんだ!僕は永遠に彼女を愛してるし、彼女もそうだ!!」
竹中さんの言葉はまるで大げさに芝居がかった告白のように思えた。あるいは妄想と呼んでも良いかもしれない。でも、一番に感じたのは竹中さんの恍惚と語る狂喜だ。スイッチ屋の言葉を無視して竹中さんは熱に浮かされたような表情で続けた。
「でも、やっぱり彼女は限界だった……ついこの前だ。体が動かない、辛い……彼女はそう言った。いっそのこと殺してくれってさ」
渇いた笑いが室内に響いた。外では雨が降り出したようで、パラパラと窓を叩く音がした。
「でも僕は彼女に生きてほしかった。諦めなければ、生きていれば希望は見えるから……そう言った。彼女は泣いてた。ごめんって謝られた」
どうして悲しい時に泣くのがこんなにも難しいのだろう。そんなことをふと思った。
やがて、はぁ、と大げさすぎるため息が聞こえた。
「俺、愛って言葉はあまり好きじゃないんだけど、これだけははっきり言うわ」
急に声が近づいてくる。玄関から部屋に上がって、コツコツと革靴が近づいてきた。
「永遠の愛なんてないよ、竹中」
「僕たちの部屋に土足で入るなっ!!」
「“僕たち”の部屋ねえ……。つまり愛の巣に踏み入るなって?」
竹中さんは強い目で私の後ろを見つめていた。スイッチ屋は私たちからあと数歩というところで足を止めたようだ。
「貴方に何が分かるんですか!」
「何も」
対照的にスイッチ屋がまた軽く言った。
「俺にはなーんにも分かんねえよ」
私を抱えている竹中さんの腕が強張る。竹中さんは立ち上がってベッドの際まで後ずさった。上半身が持ち上がったので、足で必死に支える。
「とりあえず、たぶんこれって死体遺棄とかになるんじゃないの?警察に……」
「うるさいな!黙れよ!」
目の前で包丁が力強く振られて、私は思わず目を閉じた。幸い掠りもしなかったが、心臓がやたらと強く波打っている。
「お前!死体ってなんだよ?!笑わせるな!!僕は彼女と永遠に一緒にいるんだ!お互いきっちり大学出て、就職して、結婚して、二人で子供作って!一人っ子じゃ寂しいから二人が良いね、なんて彼女は言ってて!僕は、幸せにするって……!」
口調の変化に気付いて私は目を開いた。声が震えてるな、と思ったら体も震えていた。
「そうか」
スイッチ屋の口調もさっきと打って変わったものになっている。何かを悟ったかのようだった。
「素敵な未来“だった”な」
彼とは会って間もないはずなのに、口調がスイッチ屋らしくない、とふと思う。振り向いてスイッチ屋の姿を確認したかったが、その場の雰囲気がそれを許さなかった。
「今の話で俺が分かったのは二つ。一つは、アンタが彼女さんを愛していたってこと。もう一つは、俺は絶対アンタのことを理解できないってことだ。さっきも言ったが、俺にはなーんにも分かんねえ。だから、」
スイッチ屋がこの後何て言おうとしたのか分からない。ただ竹中さんが恍惚とした口調のまま遮った。
「愛していた、じゃない……愛している、です」
「……そうだったな」
悪かった、とスイッチ屋が詫びた。
「で、弘香をどうする気なんだ?」
脈絡なく、いきなり名前を出されてドキリとする。竹中さんの視線が私に移った。目が少し揺れている。
「……」
「アンタにとっては妹、なんだろ?」
竹中さんが再び私を抱きしめた。顔が竹中さんの肩に埋もれる形になる。再び刃物が喉を指しているのが分かった。竹中さんは深呼吸を何度かすると、もとの落ち着いた声音に戻った。
「彼女も弘香ちゃんも一人にはしておけないですから。とにかく、僕は約束を守ります。彼女を一人にはしない。永遠に一緒にいます」
「つまり、みんなで死ぬってか?」
「これ以上、彼女を苦しませたくない。みんなで一緒の場所に行くだけです」
「さっき『諦めなければ』って言ってたのはどーしたよ?あれは嘘か?」
竹中さんは首を横に振った。フッと息を吐いて笑った気配がした。
「『永遠の愛なんてない』……貴方はそう言いましたよね?確かにそうかもしれない。でもそれを永遠にする方法を見つけたので、僕はそれを実行するんです」
それに、と呟く声には決意の色が見えて、私は拳を握りしめた。手汗が酷く、やたらとべた付いた。
「貴方みたいな訳分からん奴に弘香ちゃんは渡せない」
「アンタの場合は理屈をこねてるだけで、その実、ただ単に一人で死ねないだけだろ」
スイッチ屋が鼻で笑う。竹中さんの腕の力が強まって首のあたりが苦しい。
単に一人で死ねないだけ。果たしてそれだけだろうか。それだけじゃないはずだ。私には不思議と確信があった。
「死んだって彼女さんは喜ばねえぞ」
「じゃあどうやって『生きていけ』って言うんですか!?」
「結局、それが、」
スイッチ屋はなんて言ったのだろう。いずれにせよ、すべて言う前に竹中さんが何事か叫んだ。バッと竹中さんの体が離れる。頬が濡れたのを感じて、ハッと顔を上げると竹中さんの目から涙が流れているのと、包丁の切っ先がスイッチ屋に向けられているのが見えた。
ああ、泣かないで。どうして泣くの。彼女さんはきっと、こんなこと望んでいなかったはずなのに。今となっては彼女さんが何を望んでいたかなんて私には分からないけれど、きっと誰かが傷ついたりするのを望むわけはないと思う。
身体が投げ出されて、ひどく頭を打った。

そこで私の意識は途切れた。

雨音が静かに耳を打っている。
いつだったか誰かが「雨は言葉に似ている」と言っていたのを頭の片隅で思い出した。誰が言っていたのかまでは思い出せない。それとも本か何かで読んだのだろうか。
薄らと目を開けると、レースカーテン越しに暗い雨雲が見えた。ベッドの縁にはスイッチ屋が何をするでもなく腰かけている。
「おはよう」
今が何時なのかよく分からずとりあえずそう挨拶すると、スイッチ屋がこちらを見ずに一つ小さく頷いた。目覚めたばかりで視界が眩しいのと眼鏡と天パが邪魔なのとでよく見えないけど、あまり良い表情ではないようだ。なんでまた勝手に部屋に入ってるかとか、なんで他人のベッドに座っているのかとか、そんなことを今は突っ込む気力はない。虚脱感が酷くて、頭も体も怠かった。頭に関しては心臓の鼓動に合わせてズキズキと痛む。今は何も考えたくないし、体も動かしたくない。私はもう一度目を閉じた。
「弘香がテーブルに頭ぶつけて気絶した後、」
なるほど。やっぱり気絶していたのか。
「色々あって、警察に来てもらった」
スイッチ屋がポツリと言った。その色々あっての部分が一番重要なはずだけれど、今は尋ねても聞かせてもらえなさそうだってことは何となく分かったので黙っていた。
「“死体”遺棄やらなんやらでお縄になったよ、アイツ。警察の方は、今回のことで被害届の話もあるから、弘香も事情聴取したそうだった。まあ、とりあえず一旦追っ払っといた。また来る、だとさ」
あと竹中が、とスイッチ屋が続ける。妙にさっぱりとした口調なのが気になる。
「“貴方の言う通りかもしれない”って」
「……?」
「警察来たときはもうちょっと抵抗するかと思ったけどな。案外簡単にしょっぴかれてくれて安心したわー」
「……一人じゃ死ねないって部分のこと?」
「……何が?」
「さっきの竹中さんの言葉」
「あぁ、それか。知らねえよ。竹中に訊け」
ったく、曖昧な言葉残しやがって。天パをポリポリとかく姿はお気楽そのものだ。
「スイッチ屋は、さ……」
「んー?何だよ?」
返事も妙に間延びしている。
「“永遠の愛なんかない”って言ったよね?」
そんなこと言ったか?とまたはぐらかされるかと思ったが、スイッチ屋はこちらをチラリと見て、そんなことも言ったな、と言った。
「永遠の愛なんかないだろ。永遠でありたいって妄想することはできるだろうけど、どうせ妄想でしかないだろ。いずれ人ってのは死ぬんだから」
心臓が鷲掴みにされたかのような感じがしたが、吐き捨てるように言う様はいっそ清々しかった。でも、と口を開ける途中で声が被さる。
「でも、そういうのって限りがあるからこそ愛せるんだろ?」
さらっとそう続けたスイッチ屋には答えず、私は口を噤んだ。と言うより、何て返せばいいのか正直困る。
「あーあー!!愛とかなんだとかそういうくっせー言葉は嫌いなんだよ!何度も言わすな!恥ずかしい!」
スイッチ屋が手をヒラヒラと振りながら喚いた。
でも、と思う。“愛”という言葉は確かに臭いだろう。でもきっと「永遠に愛してる」なんてそうそう軽々しく言えない理由はもっと別にあって、竹中さんはそれを分かっていて納得した上でそういう言葉を使っていたのだろう。それが正しかったか正しくなかったかは別にして。
「泣くなよ」
釘をゆっくりを刺すような声を唐突にかけられ、思わず体が強張った。
「……うるさい。泣くわけないでしょ」
返した言葉は今度は震えていなかっただろうか。
「そうか、なら良かった。まあ、とりあえずもう少し寝てろ」
ベッドのスプリングがゆっくりと軋んで、スイッチ屋の気配が遠ざかる。それで気でも効かせたつもりなのだろうか。
私は寝返りを打った。玄関のドアが開いて、閉まる音を聞いた。私は目を閉じたまま、静かになった部屋で結局一人で泣いた。
外ではまだ雨が降り続いていた。優しい雨だった。

スイッチ屋と死にたがり少女―第一話―

9/22 第一話全UPしました。ご意見ご感想、誤字脱字変な日本語指摘などなど何でもお願いします!

スイッチ屋と死にたがり少女―第一話―

これは死にたがりによる、生きたがりな話。 今回は『愛してしまった話』(「小説家になろう」さんのささかま。のページでも重複投稿を行っている作品です)

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更新日
登録日
2012-09-22

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