アガペーの愛

播磨王66

  1. 1話:市営住宅の幼なじみ
  2. 2話:不妊症と育児放棄
  3. 3話:育ての親の決断
  4. 4話:子供達の才能
  5. 5話:子供達の夏の思い出
  6. 6話:幸子が成績優秀?
  7. 7話:幸子が学芸大学付属中学に合格した!
  8. 8話:学芸大付属高校へ入学
  9. 9話:幸子の初めての挫折
  10. 10話:新一も一流進学校へ合格した!
  11. 11話:新一が東京外国語大学をめざす
  12. 12話:幸子のNTTドコモ入社作戦
  13. 13話:先輩のコネ利用で一流企業に入社
  14. 14話:株投資での成功と人生感の変化
  15. 15話:投資の儲けで横浜のマンション購入
  16. 16話:章子の退職祝いの海外旅行1
  17. 17話:紅葉と冬の沖縄旅行
  18. 18話:乳児院支援団体立ち上げの夢
  19. 19話:NPO「乳児院・助け隊」の立ち上げ
  20. 20話:NPO「乳児院・助け隊」事務所とレストラン完成
  21. 21話:レストランの始動1
  22. 22話:レストランの始動2
  23. 23話:レストラン営業開始1
  24. 24話:レストラン営業開始2
  25. 25話:若手メンバーの料理指導1
  26. 26話:若手メンバーの料理指導2
  27. 27話:レストランの1週間終了
  28. 28話:レストランの交代勤務表の作成
  29. 29話:NPO寄付方法と募金活動
  30. 30話:NPO運営方法の確認
  31. 31話:子供達の協力
  32. 32話:表彰と新しい寄付物件
  33. 33話:新レストラン、NPO本部、寮の完成
  34. 34話:レストランの営業時間の延長で儲けよう
  35. 35話:新しい木造のNPO本部の構想
  36. 36話:新しい木造のNPO本部の完成
  37. 37話:NPOの新本部の落成パーティー
  38. 38話:不景気の嵐とリーマンショック
  39. 39話:久しぶりのお出かけ
  40. 40話:天変地異と東日本大震災の2011年
  41. 41話:東京郊外でNPO「乳児院・助け隊」1
  42. 42話:東京郊外でNPO「乳児院・助け隊」2
  43. 43話:東京郊外でNPO「乳児院・助け隊」2
  44. 44話:東京郊外でNPO「乳児院・助け隊」4
  45. 45話:東京支部のコックが横浜で1週間修行
  46. 46話:企業の支援金と緑綬褒章

女性の子を思う気持ちは、海より深いというが自分は子供を育てる自信がないから乳児院に入れると言った、母親も見て、それはひどい自分で産んだ子を乳児院に入れるのかと叫び、それじゃー、あの子達が、あまりにも可哀想じゃないですかと声を荒げた。これには、たまらず秀夫がと章子が引き取って育てると言ってしまった。そうして、子供達は、それぞれの才能を発揮して、一生懸命勉強して、一流高校、大学、企業に入った。その後、沖縄の平和祈念館とひめゆりの塔をみて、何か人のためにしなければと言う気持ちが芽生え乳児院支援団体立ち上げの夢を抱いた。そうして横浜の郊外に大きなレストランとNPO「乳児院・助け隊」を申請し神奈川県の認証を受けた。徐々に売上も上がってきて募金できるようになりその後、東京郊外でも「乳児院・助け隊」を立ち上げたいという若者が来て、レストランと学生寮を経営しながら毎年、寄付金を送り続けた。

1話:市営住宅の幼なじみ

 1968年1月8日、東京と郊外に住む、吉田秀夫と幼なじみの安田章子も今年、中学を卒業
予定だった。しかし、どちらも月5千円の公営住宅に住み、貧乏な暮らしをしていた。朝食は、
単に小麦粉を水に溶いて焼いた物に卵焼きと漬け物はさんだ、甘さのないホットケーキもどき、
まれに、大瓶のジャムをつけたりもした。学校へのお弁当は御飯と卵焼きとお漬け物。
 夕飯はキャベツ焼き(お好み焼きのようなもの)、たまに、白い御飯と、
魚のカマと、近くで取ってきた、野草の味噌汁だった。

 そんなことで、極めて質素な生活をしていた。そのため、高校へ行くなら、アルバイト
して言ってくれと言われていた。そこで、秀夫と章子は、冬休みは郵便配達、夏休み、学校が
休みの時には、近くの商店の手伝いを一緒にしていた。それでも家族は助け合いながら
仲良く生活していた。中学卒業後、章子は、近くの公立の商業高校へ、秀夫は近くの工業高校へ
入学した。そして、同じアルバイト先で仕事をするのが楽しみだった。
 ゆくゆくは、結婚したいなと、思っていたくらい仲良かった。

 そうして、1971年3月、無事、高校を卒業したが、ちょうど第一次オイルショックで
就職口が少なかった。それでも秀夫は近くの運送会社で自動車整備の仕事にありついた。
 章子は、そろばんが上手だったので近くの銀行に入った。秀夫は18歳になったら自動車の
免許を取って、2種免許や大型免許、大型2種免許も取りたいと考えていた。
 そして1972年4月に19才同士で結婚した。結婚は、まだ早いと言う意見も合ったが
、1人よりも2人の方が良いかも知れないという意見におされて近くの団地の集会場で、
身内だけ12人で質素な結婚式を挙げた。

 その後、市営住宅の空き待ちをしていた、1972年6月に公営住宅で一番小さい
2DKの家に空きがでて月に4千円の家賃で入居できた。秀夫も章子も貧しい生活を
しながらも小さい頃から堅実に貯金をして400万円を貯めていた。その後も、
無駄遣いはせずに、出かける時は必ず交通費をかけないために自転車で出かけた。
 そして貯金が500万円を越えたら、子供を持とうと考えた。

 こんな夫婦を近くの昔からアルバイト先の商店のおばさんが見ていて形が悪いくて
売り物にならないコロッケ、メンチ、ハムカツを暮れたり、売れ残って古くなった野菜、
果物などを無料で分けてくれるのだった。

 1976年に貯金が念願の500万円を越えたので子供つくりを始めたが、
なかなかできなかった。ついに翌年1976年の夏に、夫婦で婦人科を
受診すると、章子が不妊症で、子供ができにくい体質だと言うことがわかった。
 その結果に章子は泣き出して、長い間、落ち込んでいたが、秀夫が仕方ないよ、
これも運命だ。今後も元気で仲良くやっていこうよと、その言葉に救われて、
仲むつまじい夫婦生活を続けた。

2話:不妊症と育児放棄

 1976年10月12日、夫婦喧嘩が絶えない近所の家で、朝から子供の泣き声と
大きな物音が聞こえたので秀夫が、その家へ行くと幼い3-4才の女の子と歩き始めた
男の子と、殴られて、頭から血を流してる奥さんをみて秀夫が夫婦喧嘩を止めに入った。
 そこの亭主が土曜の午後から酒臭く何だお前とどなった。
 秀夫が、奥さんが頭を切ってるじゃないか医者に行かなきゃというと、よけいな
お世話だと言った。そこで奥さんと子供達を家から出して自分の家に連れて行った。
 そして、その家にもどり、旦那と話をするとキャンブルで損して高利貸しに
金を借りて困って八つ当たりして奥さんを棒で何回もたたいたようだ。
 秀夫では、どうにもならないので団地の民生委員に電話をして来てもらった。

 後は民生委員にお願いして秀夫は自宅に戻り消毒薬で近くの奥さんの頭を脱脂綿で
拭いてやり絆創膏を貼ってやった。傷は、あまり大きくなく血も止まったようだ。
 そして朝食を食べたかと聞くと、まだと言うのでキャベツ焼きを作り食べさせた。
 奥さんは、涙を流してありがとうと言いながら、朝食を食べた。
 少し落ち着いて、うちの人ギャンブル酒が好きで働いた金を全部使って
うまくいかないと家族に暴力を振るうようになって、離婚したいと思っているが、
実家の方でも、私一人ならともかく2人の子供まで面倒見れるほどの財力なくて、
本当に困っていると話した。
 そのうち4才の女の子と、歩き始めた男の子が章子さん
にくっついて離れようとしなかった。愛情に飢えているのが一目でわかった。
 章子さんは2人を抱きしめて可哀想だと泣いていた。今日は土曜だから、
とりあえず、この家にいなさいよと秀夫が言った。
 じゃーお言葉に甘えて、お世話になりますと言った。
 隣の家が気になった秀夫は行ってみると、あの男は民生委員と出かけたようで
不在だった。その状況を奥さんに伝えて、まず秀夫の家で風呂に入って子供達を着替え
させてあげたらと言い、章子に風呂を沸かさせた。その後、章子がその子達を
風呂に入れようとしたとき、その子達のあざを見て、章子が、また泣き出した。
 これどうしたのと奥さんに問いただすと亭主だ、たたいたり殴ったりして、
あざが絶えないといった。何てひどいことするのと章子は子供達を抱きしめた。
 その行為に対して余程うれしかったのか子供達が章子から離れようとしないので
3人で風呂に入って身体を洗ってあげた。すると長女が重い口を開いて、
おばちゃんありがとうと泣いた。それを見ていた秀夫も目に涙を浮かべた。
 すると、その子のお母さんも泣き崩れた。
ごめんね何もしてあげられなくと子供達に謝った。
 そうして、風呂から出て冷蔵庫に入っていたお菓子とアイスクリームを
子供達に与えた。その後も子供達は章子さんにくっついて離れようとはしなかった。
 奥さんが旦那との喧嘩で心身とも疲れ果てて、子供の事まで考えられなかったと
謝った。しばらくして、おにぎりと目玉焼きと漬け物と味噌汁で昼食をとった。
 夕方、旦那さんと民生委員が帰ってきたので、秀夫が顔を出すと民生委員が
警察に行って、いままでの状況と今後どうするかを話し合ったそうだ。
 そうして、奥さんに怪我をさせたので別れて出直せと旦那に諭したようで、
彼は、しゅんとしていた。奥さんと子供さんのことは、子供さんを育てられない
なら乳児院へ入れて、奥さんは実家にもどると言うのが一番良い解決方法だと
言われたそうだ。亭主も、しぶしぶ納得して奥さんの望む方法を受け入れる
と言うことになった。

3話:育ての親の決断

奥さんを呼んで、民生委員と秀夫、章子さんが入り5人で奥さんと旦那さんの
会話を聞いていた。すると旦那さんが、お前はどうしたいと言うと奥さんが離婚します。
 そして私は実家へ帰りますが子供達は育てられるかどうか不安なので乳児院に
入れたいと言った。話を聞いた章子さんが、それはひどい自分で産んだ子を乳児院に
入れるのと叫んだ。でも無理して共倒れになった、もっとひどいことになると言った。
 それを聞いて、それじゃー、あの子達が可哀想じゃないですかと声を荒げた。
 その勢いに旦那さんもびっくりして聞いていた。そういう話を聞いていた子供達が
やってきて章子にしがみついてきた。これには、たまらず秀夫が、私たちが育てる
というのは問題あるんですかと民生委員の聞くと責任持って育ててくれるなら、
こんな良い事はありませんが、大丈夫なんですかと聞いてきた。

 その質問に対して、章子が、大丈夫です。命に替えても育てて見せますと言い切った。
 その話を聞いていた、その子達の母が子供達に、ごめんねと謝ったが子供達は章子に
しがみついて離れようとはしなかった。その様子を見ていた民生委員が、これで決まり
のようですねと言い必要書類を持ってきますので後でハンコを押して下さいと
冷静に言い、今日中に書類を持ってきますと言い帰っていった。
 その後、夕方に、隣の家には、離婚の書類、秀夫の家には子供達の身元引受人の
書類を持ってきた。秀夫と章子と子供達2人で夕飯を食べて少しして子供達が眠った。
 その後、秀夫が章子に今度どうするというと、とりあえず私が有給休暇をとり善後策を
考えようと言った。
 そんな話は近所の人達の耳に入るのは早く、以前アルバイトしていた店のおばさんが
訪ねてきた。そして章子の話を聞いて、そうか大変だったねといい、うちで良かったら、
子供達を昼間、面倒見てやるよと言った。章子が本当ですかと言い、私も銀行に話して
早く帰ってくるようにしすと言い、秀夫も早朝勤務の日を増やして、週に2日は
早く帰ってくると言った。具体的に決まったら教えてよと店のおばさんが言った。
 こんな可愛い子を捨てるなんて信じられないと言い、目には大粒の涙を浮かべて、
章子と子供達を抱きしめてくれた。数日後、銀行で週に2日、早朝出勤で3時で
帰れるようにしてくれる事が決まり秀夫の会社でも週に2日、朝6時出勤で、
午後2時に帰れるように配慮してくれることになった。
 この知らせを商店のおばさんに伝えるとわかった。帰ってくるまでは、うちで預ると
言ってくれた。翌週から、このスケジュールで働き出した。そして、この話が団地で
大きな話題になって電話がかかってきて、子供用の三輪車、自転車、古着、文房具、
絵本、カバンを持ってきてくれる人が増えた。これには本当に助かった。 
 商店にも、この話題を聞きつけた人が来るようになり、店も繁盛してきた。
 秀夫か章子さんが子供達を迎えに来るときには、コロッケ、ハムカツ、
メンチ、串カツのお土産をもらって経済的に大いに助かった。

4話:子供達の才能

そして1976年が終わり1977年を迎えた。初詣で新しい家族の健康と今後の
我が家の発展を祈った。この頃には子供達もすっかり家になれてきた。寄付してもらった
絵本などを長女の幸子が興味深げに毎日の様に読んでいた。その後いろんな事を思えた。
 やがて長女、幸子が6才になり近くの小学校へ行くようになり、そこで習った事を
弟に教えてやるようになった。小学校でも真面目で勉強ができると評判が良かった。
 その年の6月に預金が600万円に達して何とか吉田秀夫が、この団地から出たいので
資産つくりのため株を始めたいと言った。最初、章子は反対していたが、章子の務める
銀行の方がこれからは日本の将来のために株式を持つ時代だと言っていたことを
思いだして了解した。しかし株価は高止まりしていたので下げ始める待つ事にした。
 夏休みに実家の車を借りて丹沢の麓のキャンプ場へ行きバーベキューを楽しんだり
、近くの服部牧場でサラブレッドを見たり乳牛を見たりして子供達も大喜びだった。
 夕方帰る頃には子供達は熟睡していた。この様子を長女の幸子が絵日記にしっかりと
書いていたのを見て母の章子は涙ぐんで良い子に育って良かったと、しっかり幸子を
抱きしめた。 
 そして1977年の秋頃から株が下げてきて注目していたが、1978年1月に
ソニー株を615円で4千株246万円で購入し、残金が354万円になった。
 この年の4月には長男の新一が近くの保育園に通い始めた。腕白盛りに育ち生傷が
絶えない元気な男の子に育った。保育園でも友達ができて喜んで出かけていった。
 2年生なった幸子は成績が良く絵もうまくコンクールで入賞して学校の廊下に
張り出されていた。国語と算数、理科が得意だったようで秀夫が小学校の問題集を

買ってくると暇を見つけては勉強していた。そしてある日、勉強している幸子の脇を
章子が通り過ぎた時、集中していたのか気づかず少ししてお帰りと言ったのには
 章子の方が驚いた位だった。これは、つまりすごい集中力があると言う証明だ。
 年末には、ほとんど小学校の問題集を終えてしまった。新一は、かけっこが
早かった。寝る前に、お姉ちゃんが絵本を読んで聞かせて算数などを教える
ようになり、少しずつ絵本を読むようになった。この年は、電車で横浜の港、
山下公園に連れて行き、中華街で、中華そばや中華料理を食べさせた。
 幸子は、山下公園の花に興味を持ちスケッチブックを持って行き盛んに
絵を描いていた。その頃、新一は、公園の中を意味もなく走り回っていた。
 海の景色は気持ちよく、港の風景も、幸子が書いていた。そんな事で、今年の
夏休みの横浜の港、山下公園の思い出を夏休みの日記にしっかりと書いていた。
 その中の横浜の港に絵が小学校のコンクールで金賞、横浜市の小学校コンクール
で銀賞をとったのには家族が驚かされた。そんな思い出と共に1978年が
終わり1979年を迎えた。この年の、新一の誕生日にかけっこが早いので
格好いい運動シューズをプレゼントした。すると大喜びで寝るときも枕元に置いて
寝る姿を見て、秀夫も章子も目頭を熱くした。そういえば小さい頃から、親の愛情を
知らずに育った子なので少しの喜びも普通の子の数倍いや数十倍も、うれしいの
だろうと痛感させられた。
 そして長女の幸子にも誕生日プレゼントにカメラを買ってやった。
すると喜んでくれ出かけたときに写真を撮り、それを見ながら絵を描くように
なった。こう言う子供の才能が開いている姿が親にとって最高の瞬間だと、
秀夫と章子が、子供達の寝顔を見ながら話していた。

5話:子供達の夏の思い出

 今年の4月から新一が小学校に入学した。保育園からの友達も多く仲良く通学していた。
 今年の夏休みは、東京の銀座と東京駅、日本橋へ行き、家族で散歩した。
 その時も幸子は大事そうにカメラを持ち日本橋の麒麟の像やデパート、東京駅、
丸ビルなど多くの写真を撮ってきた。そして夏休みの絵日記に数枚の絵を描いた。
その中でも日本橋と麒麟の像の絵が横浜市と東京とのコンクールで入賞して
表彰状をもらった。それを大事に、額にいれて飾ってやる事にした。
 その後も学校から帰ってくると近くの商店のおばちゃん所へ行って店の手伝いを
したりしていて早めに帰ってきた秀夫か章子が迎えに行くまで待っていた。
 おばあちゃんが幸子が買いに来た人に品物を渡したり、おつりを計算したり
手伝ってくれたり幸子と新一で商品の整理の手伝いをしたり良い子ですよと、
笑って話してくれた。そうして、1979年が終わりを告げて1980年を迎えた。

 1980年の夏休みは実家のの車を借り、中央高速から韮崎を抜けて、清里高原へ
一泊2日の旅行に出かけた。朝早く家を出て韮崎に9時についてファミレスでゆっくりし
清里へ向かい八ヶ岳自然センターを見学したり山梨県立まきば公園の牧場の牛を眺めて
牧場の牛乳で作ったアイスクリームを食べた。そこから天女山の頂上の標高1500m
の駐車場へ行くと涼しい過ぎて寒いくらいで吹く風は爽快そのものだった。

 そこから小海の方まで行き松原湖から麦草峠を目指してドライブした。
 一時間くらいして、メルヘン街道の最高点、標高2127mの看板の横で窓を全開に
して30分涼んだ。外に出てみると雑木林で見晴らしが良くなかった。
 少し行くと麦草峠の駐車場がありトイレ休憩をして再び出発、数分後、日向木場展望台
があり駐車場に車を止めて景色を楽しんだり写真を撮ったりして少し休憩し再び峠道を
下っていった。峠を下りたところが奥蓼科の別荘が見え蓼科を越えると茅野に入った。
 茅野からしばらく行くと諏訪湖が見え、午後4時頃に諏訪湖の旅館に着いた。
 ゆっくり温泉につかった。その部屋から見る諏訪湖の姿は美しく素晴しかった。
 夕食後、秀夫はドライブの疲れもあり、すぐ寝てしまったが子供達と章子は
いつまでも起きていた。翌朝、起きて諏訪湖の周遊道路を散歩しようと出かけた。
 朝の湖畔から風は爽やかで夏の暑さを忘れさせてくれる。その後、朝食をとって、
宿を出て松本に行くことにした。20号線を岡谷、塩尻、南松本、松本へ1時間半で
到着して11時から、松本城に入り天守閣まで登った。景色は良いが階段が急なのには
困った。子供達は身軽でひょいひょいと上がり天守閣で待ってくれた。

 堀に囲まれた、漆黒の松本城は、噂に違わず素晴らしい城だ。昼は地元の蕎麦屋に
入り、そばと、お焼きをいただいた。午後、お腹空いた時のために、多めにお焼きを
買い込み、午後1時に出発して高速で30分程で諏訪のパーキングエリアに着いた。
 ここは高台で昨晩泊まった旅館の反対側の高台にあり諏訪湖の雄大な景色と遠くには
八ヶ岳が見えて晴らしい景色だ。そして午後2時過ぎに出発して3時半に大きな談合坂
パーキングに到着してゆっくりと休憩をとり東京郊外の5時過ぎには自宅に着いた。
 この夏休みも多くの写真をとって幸子は絵日記に諏訪湖と松本城、まきば公園の絵を
描いてくれた。松本城の絵が今年も展覧会に入選して張り出された様だ。

6話:幸子が成績優秀?

秋には三浦半島をドライブした。最初に鎌倉に行き鶴岡八幡宮をお参りして車で
移動して長谷の大仏を見て回り逗子、葉山を抜けて横須賀から三崎へ行きマグロの
お弁当を買い城ヶ島の公園で、お弁当を食べた。幸子は相変わらず写真を撮っていた。
 この頃、写生するよりも写真を撮って、それを思い出すかのようにして家で遅くまで
スケッチを描いて色つけするようになった。しかし相変わらず絵は上手で感心した。
 その描いた絵も段ボールの箱に上手に入れて保管していた。
 その後、横須賀の港をみて、金沢シーパラダイスを通り抜け横浜から16号を
北上して、自宅へ夜6時過ぎに戻ってきた。

 そうして、1980年も終わった。株は年初から上がり1981年1月にソニー株
を2650円で1325万円で売却、純利益885万円で残金が983万円になった。
すぐ後に1981年1月にセブンイレブン株を108円で千株108万円で購入して
残金が246万円となった。1981年5月にソニー株を2650円で1325万円
で売却、純利益632万円で残金が878万円になり資産を増やした。

 この年は、4月の下旬に近くの花見の名所へ出かけて満開の桜を何枚も写真に撮って
幸子が桜の絵を数枚書いて、その中の1つがまた八王子市の絵の展覧会の小学生の部で
金賞を取った。小学校でも成績優秀だった。その頃、中学の参考書と問題集が欲しい
と言われ、週末に家族みんなで、電車で神田の古本屋へ出かけて、お目当ての本を
買ってきた。弟の新一も小学生用の問題集を買い本も買ってきた。

 この年も信州の高原に行き新鮮なスイカや葡萄、トウモロコシを買い込んできた。
また夏休みは実家の車を借りて中央高速で諏訪湖SA一休みしてから、松本から
三才山トンネルを抜け上田へ向かい、そこから菅平高原に上がり宿を取った。
 翌日は2000mの高原でラグビーの練習を見て歩いた。その後、昼過ぎに山から
下りて上田の別所温泉に入り北向き観音に、お参りして後、三才山から松本経由で
八王子ICから自宅へ帰った。その後1981年が終わり1982年を迎えた。

 小学校5年になった時に小学校の父母会に秀夫と章子が行った時、幸子の担任の
先生から幸子さんが東京学芸大学付属小金井中学に入学できるかと質問を受けて
驚いたが聞いてますかと話してくれた。いや聞いてませんというと、そうですかと言い
彼女の成績なら入れるかも知れないと思うのですがと言い、しかし彼女は絵が好きで
絵の道に進みたいが絵では食べていけないので趣味しておき学芸で身を助けたいと
話したというのだ。具体的に何になりたいというのではなく優秀な中学、高校、
大学に入り、給料の取れる優良企業に入りたいと話すだけで何と答えたら良いか
困ってしまったと言った。

 ご両親のお考えはと聞かれ困ってしまい秀夫が彼女は勉強もするに、いろんな物に
興味をもち良い子だし、優秀な学校に入って本当に自分のやりたい事を決めたい
という気持ちは良くわかるので、じっくりと話してみますと答えた。
 その晩、家に帰り秀夫と章子と幸子が話を中学進学についての話を切り出した。
 まず幸子の話を聞いた。すると、今、何をやりたいというのは決まってないが、
とにかく一流の仲間と切磋琢磨して勉強をして、やりたい事を決めて、それに向かって
突き進みたいというのが本音だった。それに対して秀夫が、その考えは悪くないと思うよ
と言い、折角、入れるチャンスがあるなら、挑戦したら良いと言った。
 すると幸子が電車代がかかるけどと言うと、それぐらい大丈夫だと言い合格するように
頑張れよというと笑顔を取り戻して絶対に合格してみたいと力強く言った。
 章子が、これで良いのですかと秀夫に聞くと、あの子の気の済むようにやらせた方が
良いと言った。その後、秀夫は休みの日に学芸大学付属中学の受験問題集を買って
幸子に渡した。ありがとうと言い一心不乱に勉強している姿を見て章子が幸子は、
本当にすごい子だと言い、逆境ををバネにするというのは、ああいうことを言うんだ
と秀夫が言った。

 2学期になり小学5年生の学年トップの成績になり、1982年が終わり1983年に
なり6年生になっても学年トップの成績は変わらなかった。おばあちゃんの店の
手伝いを終えて、家に戻ると一心不乱に勉強いていた、

7話:幸子が学芸大学付属中学に合格した!

 1983年が終わり1984年になった。幸子の学芸大学付属小金井中学の
受験の年となった。1月10-11日が出願日で2月3日が受験日であった。
 1月になってから風邪を引かないように睡眠時間をとるように言い上がらないように
深呼吸する事をすすめた。1月10日に出願しに行き学校の姿を幸子は脳裏に
焼き付けたようだ。そして運命の2月3日、受験当日、ベストを尽くせよと秀夫が
肩をたたくと章子がたまらず幸子を抱きしめて精一杯やってきなさいと送り出した。
幸子は両親に一礼して家を後にした。夕方帰ってきて何と言ったらよいか困っていた時、
幸子が笑ってベストを尽くしたと一言、言った。2月5日秀夫と章子は休暇申請を取り
幸子と一緒に合格発表に出かけた。幸子よりも章子と秀夫の方が緊張して唇が乾いた。
 学校について掲示板を見始めると幸子が受かったと大声を張り上げた。

 確かの幸子の受験番号39番が書いてあった。帰りは小金井駅近くの喫茶店で、
ささやかな合格祝いをした。家に帰り小学校に電話を入れると先生達が大喜びしてる
声が聞こえた。担任の佐藤博子先生が我が小学校、初の快挙だと涙を流さんばかりの
声で良かったと言ってくれ、電話をした章子の顔がくしゃくしゃになり、涙声で、
ありがとうと言うと、担任の先生も号泣しているようだった。
 それに対して幸子は冷静に学校に入ったら絶対、またトップをとってやるんだと
意気込んでいた。そこで合格祝いに英語の勉強用にラジカセを買ってやった。
 その後、ラジカセでNHKの英語講座や教育放送を聞いて大事なところをカセットに
取る様になった。そうして1984年の大イベントが終了した。

 その後は楽しそうに、おばちゃんの店の手伝いをしに、毎日出かけていった。
 この話を聞いた、おばあちゃんも幸子に、あんたすごいことしたんだねと
頭をなでてくれたそうだ。弟の新一は、ねーちゃんが頑張るのは勝手だが、
俺にも期待されても困るんだけれどというと家族中で大笑いした。
 幸子が人には、それぞれ得意分野があるから得意分野で頑張れば良いんだよと
慰めていた。新一も決して成績は悪くなくオール4以上だったがクラスで5-6番、
学年で30番前後であった。だた数学が得意で数学では学年トップ5に入る実力を
持っていた。あっという間に暖かくなり始め4月から東村山から西武線で国分寺、
そこからバスで10分で20分でつく所に東京学芸大学があり、その敷地内に
付属小金井中学と高校があった。

 団地が手狭になったので昨年春に一回り大きい3LDKの団地に移動願いを
提出していたのが秋が見つかったと連絡が入った。5月転居した。
 家賃が月、8千円となったが6畳3つと8畳のリビング、ダイニングキッチンで
秀夫と幸子の寝室1部屋と1部屋を秀夫と新一の机を置いて書斎にた。
 もう一つの6畳を幸子の部屋にした。今年は5月の連休に実家の車を借りて
昨年開演した東京ディズニーランドへ出かけた。ビッグ10と言うチケットを買って、
いくつかのアトラクションを経験したが、今ひとつ子供達には不人気であったが、
ミッキーやミニー、ドナルドのぬいぐるみは、興味を持っていた。
 パレードも幸子は綺麗と言って、じっくり見ていた。しかし小さい頃にディズニー
を知らなかったせいか、今1つの反応だった。そのため早めに帰り、中華街に立ち寄り
夕食を食べた。夕食の方が好評で喜んで、麺類、炒め物、チャーハンを食べた。
 その後、夏休みは幸子が忙しそーに勉強していたので、そっとしておいた。
 家で集中できないときには、近くの図書館へ自転車で出かけて、
冷房の効いた図書館で、勉強していた。

8話:学芸大付属高校へ入学

自宅にはリビングにエアコンがあったので、帰ってきてはリビングで勉強していた。
 弟の新一も、お姉ちゃんに刺激されたのか真面目に勉強するようになった。
 その後1986年を迎え中学3年生になった幸子は中学の成績もクラスでベスト5に
入ったがトップになれないのを悔しがっていた。高校の参考書と問題集が欲しいと
言うので、お小遣いをあげて、学校の帰りに神田まで行って買ってきたようだ。

 そうして夏休みを終えた頃には中学での学年成績でベスト5に入るようになり自信を
つけてきた。1987年、いよいよ高校受験もちろん学芸大学付属高校を目指していたが、
多分、この成績なら受かると思うわと強気な発言だった。ただ付属高校の場所は渋谷の近く
で電車で1時間位かかるようだ。秀夫が受験日をついていこうかと言うと大丈夫と言い
合格発表の時にきて欲しいと言われた。1月10日に幸子は自分で出願書を手に入れ書いて
持って行った。試験日が2月13日で合格発表が2月17日(日曜)手続き2月18日から
21日まで、受験当日は寒いが晴れで落ち着いて出かけていった。帰ってきて多分、
大丈夫だと思うと言って早く寝た。合格発表の日曜日、秀夫と章子と弟の新一が
興味あるから行きたいと言うので5人で出かけた、東村山から渋谷、三軒茶屋、
バスで10分、早足で構内の掲示板を見に言った。番号は37番、すると、新一が、
ねーちゃん37番あったよと一番先に見つけた。ありがとうと言ったが、あまり感動した
様子もなく落ち着いていた。理由を聞くと附属中学は全国から来るけど附属高校は中学からの
人が多く競争率も多くないので成績上位1/3程度でも合格してると言った。

 帰りに、渋谷の町をぶらつくと、パルコで洋服を見たいと幸子が言うので章子と2人で
入っていったが秀夫と新一は、すぐ飽きてしまい近くの喫茶店で1時間ほど待って、
幸子と章子が帰ってきて可愛いブラウスがあったから合格祝いに買ってあげたと言うと、
にこにこ顔の幸子がお礼を言った。新一が、ねーちゃんすげーなと突然言ったのには、
おどろいた。小学校でも学芸大学付属はエリート校で、今まで小学校から入ったのは、
ねーちゃんだけらしいと言った。幸子が渋谷の町が気に入ったと言った。
 今後、可愛い洋服を買いたいなーと舞い上がっていた。
 その後、1時間かけて、自宅に戻った。

 その年に新一は地元の中学に入学して、おねーちゃんの使った中学の問題集を
もらって勉強しだした。幸子が高校に入ってからは学校までの定期を活用して東京の
国会図書館や秋葉原電気街、上野動物園、銀座、築地を行くのを楽しみにして、土日は
東京見物をして回っていた。その後、上野美術館などにも立ち寄った。弟の新一は中学の
陸上部に入り短距離の選手として毎日練習に励んでいた。子供達の帰りが夜5時過ぎになり
、すぐ風呂に入り食事をして寝るという生活を繰り返していた。旅行に誘っても興味を
示さないので章子と秀夫で日帰り旅行に行くようになった。沼津、小田原、箱根、日光、
青梅など温泉とお寿司とハイキングを楽しんだ。

 そうして、1989年、新一が中学3年になり陸上部をやめて勉強に集中した。
 得意科目は数学で。学年でもベスト5に入る実力、しかし英語がちょっと苦手で、
姉の幸子に勉強の仕方を教えてもらった。英語は理屈抜きに暗記よと言われ、ラジカセを
貸すから頑張りなさいと言われ、時間があれば、暗記に注力していた。
 夏休みが終わり英語の成績も上がってきたようでクラスベスト5になった。
 そのうちに主要5教科でもクラスでベスト3に入り、勉強に力が入ってきた、
11月には、はじめて、クラストップになったと大喜びしていた。

9話:幸子の初めての挫折

 1988年高校2年生になった幸子は学芸大学の教育学部には、あまり興味を持たなくて
何か新しい事を勉強したいという気持ちがありコンピューターが、これからの花形産業
になると予想していた。そして、いつしか工学部電子工学に進みたいと思い始めて
、ポケットベルとか、移動電話などに興味を持っていた。そして、進路指導の先生に
その旨を伝えると東大、東工大、都立大学、東京理科大、早稲田大学理工学部と
言った所だと教えてくれた。そして数学は数Ⅲまで勉強しなければならない事を
知って関連する参考書と問題集を買って受験に備えるようにした。

 秀夫の株の方は1989年10月にソニー株を4300円で2150万円で売却、
純利益1211万円で残金が1470万円になり大喜びした。

 1989年なり、高校三年生で、最終的にどこにするかを決めるために進路指導の
先生と話し合った。そこで経済的な理由で私学でな、国公立大学を受けたいと伝えた。
 現在の成績だと、東大、東工大が60%都立大が80%といわれた。国公立は、
同じ試験日なので併願できないと言われ仕方なく都立大学を受けることに決めた。
 家から30分程度で到着する。その後、都立大学の受験問題集を買い勉強し始めた。
 夏休みもエアコンの下でしっかり問題集を繰り返し勉強していた。9月の模擬試験で
合格確率90%、ほぼ合格圏内に入った。東大は65%で、確率が低く、やはり、
東大はあきらめざるを得なかった。それでも最後まで頑張って1990年を迎えた。

 1990年は幸子の大学受験と新一の高校受験のの年であり緊張する年にになった。
都立大学の受験志願書を1月22日に提出した。その後2月26日まで体調管理に
気をつけてベストの状態で試験日を迎えるように万全を尽くした。
 試験当日、早めに家を出て、20分前に大学につき、試験会場に入り、深呼吸をしたり
ストレッチをして心を落ち着かせた。やがて答案用紙が配られ、試験開始となった。
 2回見直して時間となり答案用紙を提出して学校を後にした。翌週の3月8日が
合格発表で、秀夫と章子と幸子3人で出かけた。到着後、掲示板へ向かい受験番号34番
を見ると出ていたので合格した事がわかった。幸子は特に表情を変えず受かったと一言。
ちょっと憮然とした表情に見えた。食事していこうかというと、いや良いというので
家に戻った。昼食を用意して食べようと言ったが食欲がないからと部屋から出て
こなかった。心配した章子が部屋に入ると、幸子が机に突っ伏して泣いていた。

 なんで泣いてるのと聞くと幾ら頑張っても東大や東工大の様な一流大学に入れなかった
ことを悔やんでいたようだった。その話を聞いていた秀夫が部屋に入ってきて、
なに甘えれるんだと強い口調で言った。学校は学校であり本当の競争は学校を出てからだ
と叫んだ。俺なんか勉強したくても家に金がなくて公立の工業高校しか出てない章子も
同じように商業高校を出ただけだ。昔の自分を思い出してみろ、酒飲みの親父に、
家は荒れ放題で、ひどい生活で耐えきれず実の母は出て行って、それを見かねた、
章子が、君たちを引き取って、実の子同様に愛情をかけて育ててくれたじゃないか、
それを思い出してみろと言った。悔しかったら大学でトップになって社会人なって、
東大、東工大卒業の連中を負かせば良いじゃないかと言った。
 この話を聞いて、心が落ち着いたのか、わかった。確かに社会人になってからの
競争でトップの業績でがっぽり稼ぐ方が重要かもしれないと言った。

10話:新一も一流進学校へ合格した!

そして章子の前に行き、ごめんなさい、お母さんの愛情に助けられてきたことを
忘れていたと畳に頭をつげて謝った。これを見ていた章子は思わず幸子を引き寄せ
本当に良い子に育ったと泣きながら、おもっきり抱きしめた。
 この光景を見ていた秀夫と新一も大粒の涙を流して見ていた。
 一方、高校受験の新一は、志望校を、この地区では有名な公立の進学校の
都立国立高校をターゲットにした。2月6日、7日が願書受付、受験日が
2月23日で合格発表が3月1日手続き3月1日と2日。願書を提出して
2月23日の受験日、深呼吸して言ってきますと出かけていった。この日は姉の幸子が
落ち着いて自信を持ってねとアドバイスした。夕方帰ってきた時に新一はベストは
尽くした、後は結果、見るだけと言った。3月1日は家族全員5人で出かけた。
 受験番号17番、幸子が17番、書いてあるわよと喜んで叫んだ。
 これを確認した新一は、あー良かったと安堵のため息をついた。
 今日は、好きな物食べさせてやると、秀夫が言うと大きなステーキというので
国立駅近くのステーキ屋に入り、みんなで、ステーキを食べた。
 これで2人とも高校と大学に受かって章子も秀夫もほっとした。

 昨年10月に株で財産が増えたこともあり夏休みに3泊4日で北海道へ飛行機で
出かけた。最初に函館空港に着きレンタカーを借りて五稜郭を見学して魚市場で、
いかそーめんを食べてた。その後、立待岬へ行き与謝野寛・晶子の歌碑みながら
遠くに見える青森の景色をみて当時の郷愁の思いを感じるようにして遠くを眺めた。
 その後、宿にもどり、一休みしてから辺りが暗くなった頃に近くで函館ラーメン
を食べてから、車で、函館山に上がり100万ドルの夜景を楽しんだ。
 確かに噂に違わず素晴らしい景色だ。そして海からの数は涼しく頂上を散策して
車で帰った。 翌日、車で朝早く出て長万部を抜けてニセコで一休みして昼食を
とって近くを散策した。その後倶知安を抜けて余市を抜け小樽に着いて宿に入り
、夜は、寿司屋で食事をした。翌日は、積丹岬を見学してから札幌へ入った。
 夜は札幌のラーメン横丁で夕食をとり札幌で宿泊して、翌朝は近くの大通公園を
散策して宿に戻り、チェックアウトした。その後、千歳空港へ行きレンタカーを
返して東京行きの便で帰った。

 9月に入り新一は国立高校へ入ってクラスで40人中28位の成績で納得いかない
ので熱心に勉強し始めた。復習をしてから次の日の予習をしていくようになり徐々に
成績を上げてきた。新一は、以前おねーちゃんから借りたラジカセで英語を学び、洋楽が好き
になり、ビートルズ、サーモンとガーファンクル、カーペンターズを聞いては楽譜の意味を
調べるようになり、英語が好きになっていた。学校の成績でも、最も良いのが英語で、
クラスでもベストテンに入っていた。更に勉強を重ね10月のテストで英語は3位に
入りその後も勉強に励んで、1991年の2年生の夏には英語でクラストップとなった。

11話:新一が東京外国語大学をめざす

その頃から東京外国語大学に入りたいと言いだした。2年の秋の進路指導の先生との
面接で現在の成績で70%の合格率75%を越えたら、受験したら良いと言われ、
特に英語、数学にに注力した。冬のテストで英語はトップ主要科目で3位になった。
 外大の合格確率が77%になり出願することを決めた。

 秀夫の株投資は1991年10月にソニー株を1200円で4千株480万円で
購入して残金が990万円になった。

 そして1992年になり新一が東京外国語大学を見学に行きこの大学を受験することを決め
進路指導の先生にも伝えた。その頃には合格確率が80%を越えた。遂に受験の年1993年を
迎えた。1月28日に受験票の出願を済ませて受験日の2月25日に向けて体調管理をしていた。
 受験日の当日、おねーちゃんから日頃の実力を出せれば受かると言われ深呼吸をして試験会場
に向かった。そうして試験を終えて2度も見直しをして答案を提出した。
 翌週の3月6日に結果発表に秀夫と章子さんの3人で出かけた。
 そうして、受験番号の35番を見つけて合格を確認して手続きをとった。
 これで東京外国語大学国際社会学部に合格した。その帰り昼食、何食べたいというと
ハンバーグが食べたいというので、お付き合いした。その年の夏休みに海外へ一人旅に
行きたいと言うので50万円を貸して60日間、ソ連に渡りシベリア鉄道を使い東欧から
欧州を巡る旅へ出た。

 その頃、長女の幸子は卒論のために夏休み返上で学校へ行き、コンピュータネットワークの
あるべき姿について論文を書いていた。そして、パソコンが欲しいと言うので50万円貸して
欲しいと言われ渡した。NEC-PC9801Aeを買った。昨年から就職氷河期と言って、
なかなか良い就職先がなく、困っていたが近くの商店の息子さんがNTTドコモに務めており
コンピュータネットワークの仕事をしていて夏休みにNTTドコモでアルバイトをしないかと
声をかけてくれた。ちょうど幸子の研究テーマと同じ仕事を指定いたので喜んで応募した。
 日給2千円で、NTTのネットワークの図面を書いたりする仕事ばかりであったが、実戦的な
仕事に夢中で図面を書いていた。仕事終わりに、今後、NTTドコモの移動体通信の未来に
ついて熱く語る所に入っていろんな意見を出して来たるべき時代に期待を膨らませていた。
 その年の冬休みもその仕事を手伝いに言っているとき、移動体通信部門の久光良和部長が
来られて、この部門には男性ばかりでむさ苦しいので君みたいな若くて綺麗な女性に参加して
欲しいと言ってくれた。それに対して是非、ここで働きたいと思っていますと答えた。
 卒業が決まったら訪ねてきなさいと久光良和部長の名刺をいただいた。
 1994年になり3月、無事に卒論が受理されて卒業となった。

 1994年3月にソニー株を3100円で1240万円で売却、純利益1249万円で残金が1580万円になった。

12話:幸子のNTTドコモ入社作戦

幸子は卒業証書を携えて早速NTTドコモの移動体通信部の久光良和部長をたずねた。
わかった人事部には私から電話しておくので、すぐ行きなさいと言われ人事部へ向かった。
 部屋に入ると人事部の3人が待っていて、すぐに面接をさせて下さいと言われ了解した。
 その席で学校で研究していたテーマと今後の移動体通信のあるべき姿について熱く語った。
 君みたいな女性が移動体通信の未来を語るなんて非常に興味深いと言ってくれ意地悪な
質問はなかった。卒業証書をコピーさせてと言うので渡した。数日中に結果を連絡しますから
待っていて下さいと言われ失礼した。翌週の火曜日、NTTドコモの人事部の木下義男さん
からの電話で採用しますので、明日来て下さいといわれ、この入社の件は他の大学生に
話さないで下さいと言われた。了解しましたと答えた。翌日はリクルートスーツで出かけた。
 人事部に行くと採用通知書をいただき勤務部署は3階の移動体通信部だと言われた。
 笑いながらNTTドコモの最先端をになっている移動体通信部の部長に言われて断るわけには
、いかなくてねーと苦笑いした。ただ、これは成績ルートので入社試験を合格したという
わけではないので他の学生には、くれぐれも口外しないようにと念を押された。

 自宅に帰り近くの商店のおばさんに、お礼をいうと合格おめでとうといわれたが、
でも、これからが大変だよ。あなたは期待されて入社したんだからねと言った。
 それに対して頑張りますと答えた。1994年4月20日にNTTドコモ移動体通信部に
出社して、その晩の歓迎会の時に久光良和部長に君に最初にあった時に、この子は何かを
持っているとピーンときたんだと笑いながら言った。研究開発で一番大切なことはヒラメキ
なんだ人との出会いも同じさ、僕がピーンときた人で、駄目になった人は10人中1人だけだ
と言い君が11人目だと笑った。君のヒラメキが新しいNTTドコモの未来を築いていくんだ
と熱く語ってくれた。幸子も熱い口調で話すのは久光部長と同じで、何と言いうか
馬が合うというのは、こういう事を言うのかも知れないと内心思った。
 その後も自分の務めた部署では言いたいことは何でも言って熱い議論をして働く
人達が使命感を持って働いているのが誇らしく思えた。自宅に帰って、NTTドコモに
入社が決まった報告をすると、秀夫がNTTドコモなんて変な名前だなと笑うと
中身は最先端のすごい会社ですと幸子が言い返した。

 章子がどうでも良いけど巷では就職氷河期とか言われて就職難なのに良く入れたわねと
言うので近くの商店のおばちゃんの息子がNTTドコモに努めていて、昨年の夏休みに
NTTドコモでのアルバイトを紹介していただき、そこの部長の部長に気に入られたらしく
、採用されたので、正式な募集に応募して採用試験に合格して、面接、二次面接を経て
、合格したわけではないと言った。言葉は悪いけど、裏口入社って所かなと笑った。
 まーとにかく入社おめでとうとビールで乾杯した。

13話:先輩のコネ利用で一流企業に入社

 この話を聞いていた新一が東京外大でも就職難で困っている話ばかりが入ってきて困っていた
ので先輩のつてを利用する方法は良いかも知れないと言い、早速、翌日から、学校に行って
先輩の情報をもらうように就職課に当たってみると喜んでいた。幸子が、新一にどんな会社
に入りたいのと言うと、もちろん商社で海外出張して大きな商談をまとめてきたいと言うと
商社マンは大変だけれど給料も良いし海外へタダで行けるしねと笑った。
 翌週の日曜日に幸子が新一に、どんな具合と聞くと商社に就職した3人の先輩に面会して
もらい話を聞くと英語の力をつけることが一番重要で英語検定1級とTOEIC900点
以上だと完璧だと言った。どっちかというとTOEICの方が会社では通用すると言い
、海外希望するなら最低750点以上の実力は持っていないと、まず商社はとらないと
言い次に体力だと言い体育会系の学生は就職に有利だ言い特にラグビーとか柔道とか
体力系が評判良いみたいだと教えてくれた。そこで新一がラグビー部に入部した
と笑った。それで、TOEICのテキストをいっぱい買い込んだ訳だねと笑った。
 英検1級とTOEIC900点目指していくという目標ができたと話していた。
 1994年の6月に、TOEICの試験を受けて、その結果830点。英語検定は
1994年10月に受験して1次試験は合格したが2次試験のパブリックスピーキング
で落ちた。TOEICは1995年3月の試験で870点、合格へは、もう一息。

 秀夫の株投資では1995年3月にソニー株を1880円で5千株940万円で購入して
残金が640万円になった。

 1995年の6月の試験で910点/990点満点となり、基準値を超えた。
 1996年3月は、900点、1996年10月は920点と最高点だった。
 その成績をもって受験することに決めた。どこの商社に東京外大の先輩が多いか調べる
と三菱商事が多く受験することを決めた。1次試験を受験し合格し続いて面接試験で
面接官に何故、三菱商事を一番大きい商社だからと言うと軽く笑われた。
 次に君の売りはと問われて、とっさに足が速い事と言った。 ラクビー部に
在籍している時も人の間を抜けて行くのが得意だったと言うと面接官の笑いをとった。
 でも、この仕事は逃げてばかりでは困ると言われ、いえ相手のブロックを交わして
トライを挙げる。つまり競争相手をすり抜けて仕事をもらうと言う事とトライは同じ
じゃないですかと話すと、なかなか面白いこと言うねといわれた。
 英検1級、TOEIC910点と素晴らしいが英語以外に使える外国語は
と聞かれ、いえ、ありませんと答えると、スペイン後、ドイツ語、中国語の
日常会話くらい、覚えて欲しいねといわれた、言われたようにしますと答えた。

 最後に、どんな仕事がしたいと聞かれ、とにかく、足と体力で1つでも多くの相手先を
訪問すること、ライバルのブロックを交わしていつでも多くのトライ・業績をあげたい
ですというと。頑張ってトライをとって欲しいねといわれた。
 新一は面接の印象は悪くないぞと感じた。4日後、三菱商事から内定の通知が来て1997年
3月25日、会社の人事部に出社することと通知が来て出社し正式に採用通知をもらった。
 1997年4月1日から、第一営業部(アジア担当)に出社するようにと言われた。
 この結果を、家に帰り報告すると一番喜んでくれたのが、お姉ちゃんの幸子だった。
 すごいわね、三菱商事の商社マンたいしたものねと言い海外のお土産を期待してる
からねと言った。話を聞いていた、章子が、あなたたちとの最初の出会いから20年が
経ち、みんな大きく成長して一流の大学、会社に入って本当にうれしいと
言い涙ぐんで幸子と新一を抱き合って喜んだ。

14話:株投資での成功と人生感の変化

この結果は、あなたたちの努力のたまものだというと幸子が、いえ、そう言う良い
環境を提供してくれた両親に感謝しますというと、たまらず秀夫の目から涙があふれた。
良かった本当に良かったと言うだけで後は声にならなかった。そうして一番下の新一が
社会への一歩を歩み出した。1997年が終わり1998年を迎えた。

 この年に新一はシンガポール、クアラルンプール、バンコク、ホーチミン、
ジャカルタと1週間出張で出かける月が多くなり、アジアの大都市のインフラ工事を
日本のゼネコンと共同で受注するように活動していた。その情報入手が主な任務であり、
政府の役人や要人との接待が多く、彼らの懐に入るように行動していた。
 新一も日本からのお土産、接待などワイロぎりぎりの活動をしていたが、
中国、韓国の安値、見積もりと公と賄賂を送る姿を見て唖然とするのだった。
 彼らにとって安っぽい正義感なんて何の役にも立たない1にも2にも儲けしか
頭にないのだ、そのため安い価格で受注した橋やスポーツ施設が崩れ落ちる事故も
起きたが、安く作るのだから、リスクはつきものと、彼らは自分達の責任とは全く
思っていない、運が悪いくらいにしか感じていないのだ。

 また低金利で多額の融資をおこなう国では融資が焦げ付きそうになると、その国の
天然資源や港湾施設土地などを担保に取り自国のものにしていくという手口で
暴利をむさぼる情景が多くの所で見えるのには驚かされた。そうして1998年が終わり
1999年を迎えた。

株の世界では、この年は何と言ってもインターネットバブルのとしてヤフー、ソフトバンク、
光通信と言ったネット関連株が毎日のようにストップ高を続けた。つまり21世紀への
期待とインターネットの可能性がオーバーラップし実態以上に輝いていた。
 この異常な上昇に違和感を感じた秀夫は下がり始めが売り時と考えていた。

 そうして1999年11月にヤフー株を4株を6.5億円で売却し純利益5億円
で残金が50725万円となった。1999年12月にソニー株を15000円で
7500万円で売却、純利益5091万円で残金が55815万円になった。
1999年12月に18年間持ち続けたセブンイレブン株を21670万円で売却
、純利益16732万円で残金が72547万円になった。
 2000年を前に7億円を越える資産ができた。

 そして新一が海外出張が多いので成田空港近い所のマンションに引っ越すと言った。
 その後、夫婦で話し合いをして秀夫が運送会社を辞めて自宅で投資活動に専念しながら、
買い物、家事なども担当した。2000年になって章子の務める銀行で八王子支店に
転勤する様に命じられ、不便になり、通勤時間が1時間近くなってしまった。
 しかし、残業もないので我慢して通勤していた。秀夫が会社を退職した後は毎週土日に
新宿、東京、銀座、横浜へ出かけた。最初は、いままでの貧乏根性が抜けなくて、
買い物をする事への罪悪感があり、気が進まない章子だったが、素敵なブラウスや
ドレスを買ったり、素敵なレストラン、カフェで食事をしたりして、休日を満喫する
ようになり、すっかり人生感が変わった。

 そして、一番気に入ったのが映画で、邦画、洋画を毎月1回は見るようになり、
映画を見て食事をして帰ってくると言うパターンが増えていった。
 その後、車を買い、ドライブにも出かけるようになり秀夫と章子の世界が
今までに比べて、広くなった。山梨、八ヶ岳奥秩父、諏訪、松本、信州に
頻繁に出かけるようになった。 章子は外の世界がこんなにも広く、
素晴らしいことを始めて知った。

15話:投資の儲けで横浜のマンション購入

そんな21世紀の初めを謳歌し始めた矢先に米国、ニューヨークで2001年
9月11日にアメリカ同時多発テロ事件が起きて世界中を恐怖に陥れた。
 2002年に入りネットバブルで株価もどん底状態で世の中の景気も決して良い
感じがしなかった。そんな中で章子が勤める銀行でも支店を統廃合する動きが出て
、希望退職者を募るのではないかという話まで出た。
 秀夫の務めていた運送会社も不景気で秀夫が退職する時、少ないけれど
退職金が出たけれど、2001年に会社が倒産してしまった。
 2002年4月に正式に章子の勤める銀行で早期退職者の募集のお知らせが
出ていた。先に希望した人には、退職金の上乗せが大きいとか、話題になったが、
この不景気の中、早期退職に応募する人はいなくて、2週間後、退職金を2倍に
するからと言う条件を出してきた。それを聞いて章子がどうしようかと秀夫に
相談してきた。退職しても良いよとアドバイスした。会社と相談してみると言い、
翌日、支店長と話すと、現在49歳ですが、50歳の退職金の1千万円を2倍の
2千万円にすると教えてくれた。それを聞いた、秀夫は、会社に余力があるうちに
、その話にのった方が良いと話した。翌日、退職する旨を伝えてきた。
 昨年、銀行の移動が多かったのは異動先の銀行まで遠くなり退職する人が
増えるのではないかと言うことを思惑があったようだ。
 八王子支店と2つ先の駅前の支店を統合する予定で全店舗の半分を閉める計画の
ようだった。早期退職に応じたのは章子が最初だったようで支店長も大変だが、
わかって欲しいと頭を下げた。そして帰り際に早期対策の費用も決まっているので
早く応募して良かったも知れないよと、ぽろっと本音を漏らした。

 必要書類を書いて、提出して、銀行を退社した。その後、今、住んでいる
公営住宅でなく引っ越そうと言うことになり相談し始めた。
 章子の希望では、もっと日当たりが良く暖かく景色が良い所で部屋が広く交通の便
が良く買い物に便利な所と言った。検討し東京、渋谷、新宿、横浜を見に行った。
 翌日、東京周辺を回ってみたが交通の便は良いが狭くて圧迫感があり今1つだった。
 翌々日、横浜周辺へいくとMM21が素敵で景色、日当たり、温暖、混み具合も
それ程でもない。ここにしたいと章子が言った。不動産屋さんに行き、
3DKで6000万円で中華街、石川町駅、元町中華街駅まで徒歩7分以内の
10階建ての屋上のマンションが見つかった。即契約して数日後、不動産屋の口座に
入金した。2002年10月22日に引越して、自転車を買い、毎朝のように山下公園
、MM21,赤レンガ倉庫、象の鼻公園、海の見える丘公園を散歩した。
 マンションでは既に光インターネットが使える様になっていた。そこで新しいFMV
のパソコンを20万円で買った。そして、証券会社も以前から野村證券から、
インターネットで売買するイー・トレード証券株式会社に変更した。
そして2003年を迎えた。

16話:章子の退職祝いの海外旅行1

その後、東京駅、日比谷、銀座、箱根、鎌倉、熱海、伊豆を日帰りで毎月の様に
出かけるようになった。好きな洋服や素敵なレストランで食事したり今までの人生と
がらっと変わった毎日が続いた。そして梅雨が明けた7月に秀夫が章子に、
退職の記念に海外旅行に行こうとパスポートをとった。
 行き先を話し合い東南アジアは怖い、米国、欧州が遠いから日本の夏に冬の
南半球のオーストラリア、ニュージーランドに行きたいと言われ、9泊11日の
デラックス・オセアニア旅行を予約した。

 5日後、8月5日、家を出て、出発時間が早いので、成田に宿泊して、日本を
出発する事にした。ホテルに泊まるのは、初めてで、章子は緊張していたが、
夕食も良かったしベッドも大きく快適だった。ホテルから成田空港まで無料バスが
出て、翌朝、チェックアウトしてカンタス航空ので受付して、出発を待った。
 搭乗案内のアナウンスがあり列に並んで搭乗した。最初は緊張していたが
離陸して海の景色を見ているうちに、心地よい振動で寝てしまった。
 しばらくして、珈琲サービスがきても寝ていて、気づかなかった。
 11時半頃に、目が覚めると、CAが昼食の用意をしていた。チキンか、
ビーフどっちが良いか聞いてきたの、章子がチキン、秀夫がビーフにして
食べてみると、そんなに悪い味じゃなく、タレもしみていて十分な味だった。

 その後、赤道付近は多少揺れが予想されますから、注意して下さいと
アナウンスがあった。大きな揺れを覚悟していたが、多少、バタバタと音がした
程度で思ったほどでもなく安心した。そうして、また一眠りして起きる頃には
、後1時間少々でケアンズに到着しますとアナウンスがあった。
 その後、程なくして高度を下げはじめ無事ケアンズ空港に着陸した。

 ケアンズ空港は森と海に囲まれた空港。迎えにきたバスに乗り込んでケアンズの市内の
ホテルに到着した。翌日は、グレートバリアリーフへクルーズ船で行き、ダイビングして
シュノーケリングで美しい珊瑚礁を堪能した。そして翌日はシドニーへ飛び、
オペラハウスを見学した。
 ハーバーブリッジをガイドと登る”ブリッジクライムツアー”という
ツアーが人気で参加した。橋の頂上からは360度に広がるシドニー湾と
オペラハウスなどを一望するシドニーの大パノラマを眺めることができた。
その翌日はシドニー フィッシュマーケットで朝食を楽しんだ。その後ガイドの知り合い
を紹介してくれ投資の話を聞いた。オーストラリアでは高金利政策をとっており、
無記名の大口定期預金をすると高配当を約束すると言うのだった。
 入金はオーストラリアで行い、定期預金解約時は、日本円に替えて日本に送金する
システムと説明していた。以前、日本で中古車の仕事をしていたので、日本語も
流暢だった。とりあえず、名刺をもらいパンフレットをいただいて検討すると答えた。

 ホテルに戻り、明日、ニュージーランド・オークランドへ向かう。
 朝食をとって、シドニー空港へ向かい、空路、オークランドへ地図で見ると近いが
実際には飛行機で3時間強と、かなりの距離があった。オークランドについて町に
出て夕食をとってホテルに戻り、翌日は、オークランド市内観光バスツアー
ケリー タールトンズ シーライフ水族館(Kelly Tarlton's Sea Life Aquarium)、
オークランド博物館(Auckland Museum)、マウント エデン(Mt Eden)、
スカイ・タワーなど名所を見学できた。

 翌日は南島の中心都市クライストチャーチへ飛んだ。クライストチャートは
ガーデンシティと呼ばれるだけ町中も緑で誠に綺麗な町並みだ。その翌日、
車で東海岸に沿って北上して、カイコウラへ行き新鮮なクレイフィッシュ
(伊勢海老の一種)をゆっくりと食べてホエールウォッチングでしたり
近海ではマッコウクジラや、イルカの群れやオットセイ、様々な海鳥なども


観察して素晴らしい自然を満喫した。そうして、オークランドに帰り、
日本へ戻る前日は、お土産を探しにショッピングを楽しんで早めに床につき
日本への帰路についた。今回の旅行は非常に気持ちよく快適だった。
 帰りの飛行機の中で、次は、ハワイへ行きクルーズ、または、ラスベガスへ
行ってショーを見たり、いろんなアイディアが次々と章子の頭に浮かんできた。
 なんとしても、実現したいと思う秀夫だった。

羽田に着いた時間がラッシュアワーと重なったが、京浜急行の急行で横浜まで
約20分、駅からタクシーで新居のマンションに帰った。

17話:紅葉と冬の沖縄旅行

 家に帰り、今後、何をするか2人で話し合った。もう一度、勉強したり
大学の公開講座にも行きたいと章子が言うので了解した。
 秀夫は近くのスポーツジムに通って投資の時間が終わった3時過ぎから
運動をすると言った。そして夏が終わり秋になり10月下旬に車で清里へ行き
八ヶ岳の紅葉を楽しんできた。新そばも美味しいのは言うまでもない。
今年の冬は、避寒のために沖縄、那覇へ行く計画を立てていた。2003年が終わり
2004年を迎えた。2004年2月3日、寒い朝早く横浜から羽田空港行きのバス
で出かけた。10時の飛行機で12時過ぎに那覇空港に到着し2003年に
できたばかりの沖縄都市モノレール「ゆいレール」にのって那覇空港から那覇市内
へ遅い昼食をとって、国際通りを散策して3時過ぎホテルにチェックインした。
今晩は買ってきた泡盛を飲んで早めに床についた。翌朝レンタカーを借りてできた
ばかりの「美ら海水族館」へ向かった。ホテルを出て国道が車線が少ないことも
あって思いの外、混んでいた。高速に入るまで1時間近くかかり「美ら海水族館」
につく頃には11時近くになっていた。最初は、それ程、期待していなかったが、
入館してみると想像以上の最新設備で、ともかく水族館が大きくて綺麗で明るい。

 大型のマンタ、ジンベイザメの泳ぐ姿は壮観だった。深海生物のコーナーも
興味深く、あっという間に午後4時近くになったので水族館を出て、
北谷・アメリカンビレッジへ向かった。5時前について大きなショッピング
センターや、多くの個性的な店が軒を連ねていた。ウインドウショッピング
に疲れてレストランで珍しいゴーヤ・ハンバーグを食べた。
 北谷のショッピングセンターには米ドルと円の自動交換機があり米兵が米ドルを
日本円に替えて買い物ができるように配慮されていた。
 また、牛肉、ステーキ、ハンバーグが安いのを不思議に思っていた所、
米国から無税で米国牛肉が手に入るようなので、安いことがわかった。
 帰り途中に「とまりん・泊」船のターミナルに立ち寄った。この港から離島
(渡嘉敷島、座間味島、久米島、大東島、粟国島)へフェリーが出ているようだ。
景色が良く近くのホテルにも一度は泊まってみたいと思ったほどだった。
 そうして、那覇市内のホテルについたのは8時近かった。
 風呂に入り、床についた。翌朝は、ゆっくりして、南部、糸満市にある
摩文仁の丘平和祈念公園を訪ねた。中に入り展示施設を見ると急に沖縄戦の
悲惨さを目のあたりにして女房の章子がハンカチをぬらしながら、じっくりと
眺めては涙を拭く光景が続いた。ひめゆりの塔は、沖縄戦で亡くなった
沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等学校の教師・生徒のための慰霊碑だった。
 2校の生徒は沖縄戦中「ひめゆり学徒隊」として沖縄陸軍病院に動員された。
夢見る年頃のごく普通の明るい青春を戦時色に塗りかえた「戦争と軍事教育」
その過程を展示していた。 1945年3月23日ついに米軍の沖縄上陸作戦開始。
 学園から240名が戦場へ動員された。軍が間近にせまった1945年6月18日の夜
「解散命令」が出され、生徒たちは米軍の包囲する戦場に放り出されます。
 「解散命令」後の数日間で100余名のひめゆり学徒が死亡しました。
 これも見た秀夫もたまらず号泣してしまった。

18話:乳児院支援団体立ち上げの夢

 その帰り道、近くのサザンビーチホテルで綺麗な海の景色を見ながら早い夕食をとった。
 このホテルも素敵であり泊まってみたいホテルの1つだった。那覇市内でも
ビジネスホテルのウイークリー、マンスリー割引料金がある様で長期滞在も考えてみたが
年齢的に早い気がした。ホテルに帰って、明日、帰宅するので支度をして早めに寝た。
 翌日の便は10時過ぎなので、いつも通り昼食をとり、那覇空港へ行きレンタカーを
返して、飛行機の搭乗手続きをとってから、一休みして帰路についた。
 羽田に着くと冬に戻った感じが強く気温差が身にしみて、より一層寒く感じた。
 章子は、以前、自分が不妊症で悩んでいたが、子供が欲しいという願望が強く、
近くに住む子供を育てられない夫婦から2人の子供を預かり育て上げてから、
こっそりと相模原にある乳児院を訪ねていた。自分たちの子供が自立して自分の元から
巣立っていった後も乳児院の経営の厳しさを知って心を痛めていた。
 最近、秀夫の資産が増えて頻繁に旅行や買い物ができるように喜んでいたが
心の底には我々だけ良い思いをして良いのかという後ろめたさを引きずっていた。

 そんな、ある日、思い切って秀夫にこの話を切り出した。すると秀夫が相模原の
乳児院へ行ってみようと言い出し夫婦で訪問した。相模原の乳児院に着いてから多く
の恵まれない子供がいることを知って愕然とした。
 更に乳児院の院長から経営の厳しさを聞かされて心が痛んだ。
 家に帰ってから社会福祉活動の手伝いをしようかと言い東京、横浜を回って
まず調べようと考えた。翌日から実際に寄付していつ会社の担当者に話を
聞いたり全国社会福祉協議会、神奈川社会福祉協議会、横浜社会福祉協議会
を訪ねて回った。そこで話を聞いて見ると、個人の寄付を集めるのには知名度が
必要にで、芸能人、歌手、有名人でないと簡単に集められないことがわかった。

 社会福祉協議会では、食料・飲料品、文房具、衣料品、絵本、資金が欲しいので
企業訪問をして、この活動に賛同してもらう仕事をする方が近道だと教えられた。
 次にボランティアさんを募って仕事の分担をして団体として活動した方が成果が
出やすい事を教えられた。そこで週に3日、関東周辺の関連する企業訪問を開始した。

 残りの日は、最初、乳児院支援団体を横浜市と交渉してNPO「乳児院・助け隊」
を設立する行動を起こした。必要なスタッフは経理に詳しい人、法律に詳しい人
、営業経験がある人、パソコンが得意な人。
 インターネットNPO「乳児院・助け隊」の設立趣旨を書いてホームページを
立ち上げると、問い合わせが数多く寄せられたが必要とする人はパソコン得意な人
6人、営業経験あって引退した人5人、法律に詳しい人3人、経理に詳しい人3人、
法律に詳しい人3人が集まったのでNPO参加メンバーとして登録して良いか
確認を取った後、合計20人の名前を載せたNPO「乳児院・助け隊」の
ホームページを作った。

19話:NPO「乳児院・助け隊」の立ち上げ

そして2004年10月にNPO「乳児院・助け隊」が神奈川県の認証を受けた。
 11月にかながわ県民活動サポートセンターで初会合を開きメンバーの自己紹介
をして、今後の活動方針を会長:吉田秀夫、副会長:吉田章子、経理:加藤宗男
、法務:安田一雄、ネット担当:池田里美で、総勢20人で発足した。
 今後の加藤同方針として企業訪問で協力企業を増やすこと募金については
街頭募金活動ではなくインターネットのホームページで行っていく事が承認された。
 活動の際の必要経費は支払うことにした。具体的には交通費。事務所は設けずに
必要な時はかながわ県民活動サポートセンターで会合を開いた。営業さんは
吉田秀夫、星野健太、佐藤勝、清水圭介、桧山ひろこさんで会議終了後、
別に時間を設けて、今後の具体的な活動について話し合った。

 星野さんは医薬品関係、佐藤さんは食料品関係、清水さんは冷凍食品、
桧山さんは保険関係だった。佐藤さんと清水さんには、食料品全般をお願いして
、星野さんには栄養補助食品、衛生材料関係、医薬品卸、桧山さんと吉田は、
衣料品をその他、協賛企業担当開発に当たる事にした。そして、活動は週2-3回
として、決して無理せず、継続する事に重点を置くことを考えた。

 翌週火曜日に、佐藤さんから電話で食料品をもらえる先ができたが、取り行く
という条件なので、トラックと倉庫が必要だと言われた。そこで、横浜市郊外に
住むNPOメンバーの木下肇さんが自宅が農家で納屋があるから、そこを改造して
プレハブでも建てれば倉庫と事務所が造れると言っていたのを思い出して電話を入れた。
 すると協力するし知人に土建屋がいるから今度、連れて行くと言ってくれた。
 12月5日、木下肇さんの家を訪ねると、彼の友人の工務店を経営、
島田淳二さんがプレハブの倉庫と事務所のパンフレットを見せて100万円
で断熱材入りの倉庫ができると言った。更に、冷蔵庫、業務用冷凍庫、エアコン
、コンロ、シンクなども中古品を探してくれば安く提供できると言って入れた。
検討してみますと資料をいただいた。早速、プレハブのメーカーの日成ビルドの
会社を桧山ひろこさんと一緒に訪問してNPO「乳児院・助け隊」のパンフレット
を持参して乳児院への食料の供給用の倉庫とレストランとして貴社のプレハブを
使いたいというと総務部の担当者が、ちょっと待って下さいと言い、営業部長と
社長を呼んてきた。そして、会議室に案内された。社長が話は聞いたが、
NPO「乳児院・助け隊」の活動と事務所、倉庫のアンケートなどを我が社の宣伝に
使っても良いかと聞いてきたので、もちろん結構ですというと、それなら建坪60坪
のレストラン用のの大きな建物を格安で作って差し上げると言ってくれた。

20話:NPO「乳児院・助け隊」事務所とレストラン完成

 木下さんが、今、納屋は使ってないから壊してレストランを作れば良いと言って
くれた。この話を島田淳二さんに電話で話すと無料で作ってくれるんですか、
そりゃ良かったですねと言った。ただ、大型冷蔵庫3台と業務用冷凍庫2台は
必要で、電気工事もお願いしたいと言った。完成したら見に行きますので、
その時にエアコンの数、水回り、トイレ、電気、水道工事、インターネットも
相談しようと言うことになった。

 12月14日に県民活動サポートセンターで会議を開いてレストランの話を
すると支払いとどうするのかと言う意見が出たので会長の吉田秀夫が
NPO「乳児院・助け隊」の予算として300万円振り込むから、そこから出す
と言った。しかし吉田秀夫さん1人の支援だけでは、ちょっとまずい
のではないかと言い、どうだろう準備金として出せる人は、いませんかと
加藤宗男さんいった。加藤さんが10万円出すというと安田一雄、土地を
貸してくれた木下さんも、星野、佐藤、清水、桧山、安田、吉田章子さん
が8人が10万円ずつで80万円、残りの220万円を会長の吉田秀夫が出すに
決まった。

 来年1月中旬頃に完成予定だと説明した。食料品調達の営業に回っていた
清水さん冷凍工場から、冷凍おにぎり、うどん、餃子、シューマイで不揃い品を
無料で提供すると言う話をまとめてきた。また佐藤さんが大手の製パン工場で
出荷できなくなった食パン、バケット、菓子パンを無償で提供してくれる話と
食料品問屋で使用期限が3ヶ月以内になった商品を格安で譲ってくれる話をつけて
きてくれた。その他、事務所の土地を提供してくれた農家の木下肇さんが農協と
掛け合って不揃いの野菜果物を取りに来れば格安で売ってくれるという話を
まとめてきてくれた。

 そして2005年を迎えた。1月14日に平屋の事務所兼倉庫が完成した。
レストランは60坪の平屋だった。工務店の島田さんが、部屋を回ると、
エアコンは2階に3つ1回に6つ必要だと言い、シンク、ガスコンロ、
トイレ1回に2つと大型冷蔵庫3台と業務用冷凍庫2つをあわせての見積もりを
至急出してもらうようにした。翌日、吉田秀夫にメールで、費用の明細が届いた。
合計で80万円となっていて、材料費のみで工事は島田工務店で協賛させて
いただきますと書いてあった。そこで、事務所の目立つところに、協賛企業、
日成ビルト、島田工務店と書くことを約束した。

 工事が完成する前に、食料品を運ぶために、車かトラックが必要になるので、
検討した結果、トヨタ・ハイエースDX“GLパッケージ”(最大9人乗り・4ドア)
を中古車センタを回って4年使用して走行距離3.8万Kmの中古車を買った。
120万円の中古車があり購入した。これで200万円を使うことになる。
資金の残金が100万円となった。

21話:レストランの始動1

 レストラン完成の日にメンバーで以前レストランをやっていた吉川富子さんが
鶏もも肉2Kgを圧力鍋に蒸しす。蒸したときのスープにナンプラーを入れてフォーの
汁として使う。また蒸した鶏肉を小さく切りと青梗菜をフォーの上にのせて食べる。

 もう一人柳橋悟さんが以前、喫茶店で働いていたので、うまい珈琲、紅茶を
入れて出してくれ好評だった。そして柳橋さんが最近ケーキつくりも素人でできる
ように大きな円形のスポンジケーキ用が市販されて生クリームも手軽に作れ家庭でも
本格的なケーキが作れると言う事で3つ程大きなスポンジケーキを用意して
生クリームをボールに入れ撹拌用ミキサーでかき混ぜ始めた。
 その間に、ケーキにのせるキーウイ、イチゴ、ブルーベリー、桃缶詰、
ミカン缶詰を使って3つの大きなケーキを作り8等分してショートケーキに
して出してくれた。

 そして吉田秀夫が、みんなの前で今日は待望のNPO「乳児院・助け隊」の倉庫と
レストランが土地を提供してくれた木下肇さんとプレハブ住宅を提供してくれた
日成ビルトさんのお陰で今日、完成しました。誠に喜ばしいことですと挨拶し、
木下肇さんと日成ビルトの営業・佐藤岩男さんをみんなに紹介した。
 紹介された木下さんが、私も吉田会長から聞くまで乳児院の事はあまり
知りませんでしたが、困っている事を聞き土地を提供したわけです。

 今後のこの階の発展に期待してますので頑張りましょうと言ってくれた。
次にプレハブを建てた会社の方が挨拶して我が社のユニット型プレハブがこんな形で
皆様の役にたてる事を感謝しますと言い建てた後の感想を今後の仕事のために
使いたいので気のついたことは知らせて下さいと言い、本日はNPO「乳児院・助け隊」
船出の日をお祝いしたいと思いますと述べた。

その後、経理:加藤宗男、法務:安田一雄、ネット担当:池田里美
の自己紹介と仕事内容、今後の抱負を語ってもらい、最後に営業の星野健太、
佐藤勝、桧山ひろこさんが自己紹介と営業活動を話して、挨拶を終えて吉田秀夫
のコーラ、ジュース、ノンアルコールビールで乾杯の音頭をとり、
食事をお楽しみ下さいと言い、パーティーが始まった。

 最初の15分程は、それぞれの飲食、個別出の話が続いたが、営業の
星野健太がマイクを持ち今日の良き日を記念して「乾杯」を歌うと拍手が
湧き上がった。次に営業の桧山さんが「365歩のマーチ」を歌った。
 その後、次々に歌が出たり今後の期待したい事などの話が続いた。
 スタッフのメンバーもフォーを味わって吉川さんの料理上手には驚かされた。
1時間くらいしてデザートのショートケーキが女性から好評で売れていった。
 吉田章子が、吉川さんに経歴を聞くと以前、栄養士の仕事をやっていて料理に
一時期はまって調理師免許まで取ったと言い、その気になればレストラン
できますよと言った。そして柳橋悟さんを呼んでレストランと喫茶店
やりませんかというと面白そうですねと言った。吉田章子が、NPOで毎年経費が
かかるので、少しでもその穴埋めになればと提案したことを
話すと協力しますよと言った。

22話:レストランの始動2

吉田章子が秀夫を呼んでこの話をすると良いアイディアなので具体的に話を詰めて
欲しいと吉川さんと柳橋さんに言った。柳橋さんがわかりましたと答えた。
 言い忘れたかのように、吉田秀夫が横浜農協さんに農家で出荷できないような
不揃いの野菜、果物を安価で提供してもらえるという話はついているので、それを
利用したら良いと付け加えた。吉川さんがそりゃーありがたいと笑った。

そうして1時間40分位してそろそろ、お開きにしたいと吉田秀夫会長がマイクで
言うと、拍手と共に食器や使い捨て発砲スチロールなどの片付けを手伝ってくれ
各人で分担してドンドン片付けて20分程度で長テーブル折りたたみ椅子が
からづけられて、次々と帰っていった。

 翌日から吉田秀夫と章子は8時に事務所に出て電話番を始めた。持参した
パソコンとディスプレーとプリンターをデスクにおいて使える様にセットした。
 その後9時に柳橋悟と吉川富子さんがやってきてメニュー表を
ホワイトボードに書いてきた。朝8時オープンで11時までモーニング
サービスで珈琲か紅茶付きで400円(トーストかピザとサラダとゆで卵)
11時からランチ600円(日替わり定食:豚肉の生姜焼き定食、鶏唐揚げ定食
、ハンバーグ定食)その他のメニューは400円(チャーハン系、うどん、
そば系)午後2時から、ケーキ+珈琲か紅茶(400円)午後4時から6時まで
600円(日替わり定食:豚肉の生姜焼き定食、鶏唐揚げ定食、ハンバーグ定食)
とした。広告宣伝はインターネットのホームページだけで行い、その他、
基本にはNPOの人達の口コミでお願いしたいと言った。

 レストラン関係の責任者は栄養士の吉川富子「食品衛生責任者」さんと
する事にした。そのレストランのパンフレットを作成してプリンターで50部
、作成した。この話をこの場所を提供してくれた木下肇さんに話すと老人会
でも話してあげるから、資料を作成しておいてと言われたので30部渡した。
近くに高齢者やアパートも多いから良いかも知れないと言った。

 レストランは2005年2月5日から開始することにした。レストラン部門で
購入すべきものがあれば申請して下さいと言うと吉川富子さんと柳橋悟さんの
持っている物でレストランを開始して、必要なものがあれば買いますと答えた。 
 吉田章子が、食材については必ずレシートか領収書をもらって請求して
もらえれば支払いしますと言った。吉田秀夫が朝早くでる可能性があれば
予備鍵を渡しておきますと言うと、そうですね、そうさせてもらいますか
と言うので、スペアーキーを吉川富子さんに渡した。

 その後、農協から電話で明日、朝、不揃い品が出ますので近くの農協直売場
まで来て下さいと連絡が入った。その直後に、すぐ隣の木下肇さんがきて、
農協の件を話すと俺が話してくるよと言ってくれたので、レシートをもらって
くれば精算しますからと言った。笑いながら、最初は、サービスで
良いよと言った。

23話:レストラン営業開始1

そうして、最初の週が終わり翌週の月曜日2005年2月5日を迎えた。
朝8時には既に吉川富子さんと柳橋悟さんがきていて湯を沸かし発砲スチロール
の食器、使い捨て珈琲カップなどを点検していた。すぐその後、パンを無償で
提供してくれると言った山科パンの工場から電話が入り、取りに来て下さい
言われたので、吉田秀夫がハイエースバンで出かけていった。
 そして9時にレストランが開業し、お客さんが2人きてトーストセットと
ピザセットを注文し、その後3人の学生風の人は来てピザセットを注文した。
 10時過ぎに、吉田秀夫が戻ってきて、木下肇さんと章子さんの3人で8切りの
50欣の食パンをもらってきた。しかし、いつ頃来た方が良いか聞くと
午後4~6時頃が一番良いといわれたので、その頃に工場に電話をかけて来ます
ので宜しくお願いしますと言った。そこで昼食でもトーストセットを出せるように
用意した。吉川富子は、農協から安く譲ってもらった野菜を使い、豚肉とネギ、白菜で
味噌汁。里芋は煮物。キャベツは定食の添え物、青梗菜も添え物として考えた。
 トマトはミキサーにかけて生ジュースとして提供する事にした。
 11時過ぎて、生姜焼き定食の注文が始まり秀夫と章子が手伝って、料理を
運んだ。柳橋悟がトーストセットもありますのでどうぞと言うと、バター、
イチゴジャムとトーストに珈琲の注文が多くなり来ていた。来ていた木下さんも
料理運びを手伝うことになり、2時過ぎまで忙しかった。3時になると、主婦と
ご老人が増えてトーストと珈琲のセットの注文が増えて珈琲をいれる柳橋さんが
大忙しだった。そこで見かねて章子が手伝った。3時過ぎて暇になり4時過ぎから
、また、お客さんが増えてきた。すると、トーストを2人前持って帰りたい
という人が現れて、柳橋さんが珈琲いらないと言うので2人前のトーストで
400円でOKと言い渡すと学生風の人達が俺もと言い始めトースター2つでは、
間に合わないと吉川富子さんが魚焼き器とフライパンで焼いて見ると言い1回に
10枚焼けるようになり10人分の40枚のトーストを短時間で焼けた。
 その後も、その話を聞いたのか多くの学生さんがトーストを買いに来た。
当初、50斤のトーストが余ったらどうしようと考えていたのが
、思わぬ注文で売れていった。最終的に80人分のトースト4枚がうれた。
明日の朝食でも食べたいという学生の要望だった様だ。その分、定食の方が
売れ残った。明日、また定食を出しますから大丈夫と吉川さんが言った。

6時で店じまいして、定食が40とトーストが全部売れて、約10万円の売上
があった。ただ、人手が足りないので早速、スタッフの人に電話をかけまくり
、午前と午後で出られる人は全員、来て欲しいと連絡した。そして各自の
スケジュールで出勤名簿を作成した。すると土日が一番多く、月曜日が10人
、火曜が12人、水曜12人、木曜12人、金曜10人で土日は18人となった。
近くの駅まで送迎して欲しいと言う要望もあったので了解した。

 その後、2005年2月11日の夜6時半から会議を招集した。
 火曜日は、朝8時には、柳橋悟さんと吉川富子さんが来ており、秀夫と
章子が朝8時に会社に出て、8時半には木下さんが来てくれた。
 秀夫が8時20分に新横浜駅に6人を迎えに行った。
 9時前に戻ってきて、11人となった。そこで、6人にレストランの
方を手伝ってもらうことにした。するとタイマーを使い卵を茹でながら
、スライサーで4人でサラダ用の野菜を千切りにしてもらった。
 経理担当の加藤宗男に章子の代わりに電話番をお願いし、
池田里美さんに秀夫のパソコンを使い仕事をしてもらった。

24話:レストラン営業開始2

 9時から1階のレストランにお客さんが入ってきた。食パンがなくなりそうだ
というので近くのスーパに、吉田秀夫が10欣のパンを買ってきた。
 トーストを10枚ずつあらかじめ30枚焼いておいた。10人からの注文にも
トーストとゆで卵はできていたがサラダをもりつけてもらいながら、全員で
レストランを手伝った。近くの学生さんの口コミで多くの学生さんがやってきた。
 その後16人がやってきてトーストセットとピザセットの注文がでた。
 その後も11時近くなり買ってきたパンがなくなりピザだけになった。
 昼食時になり今日は生姜焼き定食の注文が多く、吉川と柳橋の2人で
ドンドン豚肉を焼いて6人で野菜の千切り2人で御飯の盛り付けをした。
 昼頃には御飯が足らなそうになったので圧力鍋で8合の御飯を炊いた。
 生姜焼き少なくなったのでほっけ定食をすすめた。お昼には生姜焼き
定食がなくなり、50人が訪れた。食事してすぐ出て行く人が多いので
、満員になることはなかった。昼過ぎた頃に近くの工場の人達が自転車で
やってきて、にぎわった。ほっけ定食だけでは、厳しいのでベーコンエッグ
定食を2人で作り出して、注文前に予測して、料理を作るように考えた。

 12時半には、少し待つ人が出たのでが、お客さんが気を遣い、
すぐ交代してくれ大事にはならなかった。しかし、注文に対して2人では
厳しい事がわかった。場合によってはも1-2人料理を手伝ってもらうこと
も増えるかも知れない。その後、農協から不揃い野菜、果物の連絡が入り
木下さんに取りに行ってもらった。2時過ぎに、工場に電話をすると今日は
4時頃に来てくれるように言われ100欣のパンをお願いした。
 3時前に吉田秀夫と免許のある山田真澄君と2人で真澄君の運転で出かけた。
3時過ぎに工場に着き100欣のパンをのせて3時半過ぎに事務所に帰り
レストランの厨房へパンを渡した。その頃から学生さんのトースト4枚注文
が増え始めて、20人が来て、4時過ぎにも30人、5時過ぎにも40人
が来て買っていった。100欣のパンが35欣まで減った。
 その後、夕食時にもトーストの注文もあり、ほっけ定食はなくなり、
ベーコンエッグ定食だけになり、6時になり、レストランを終えた、

その後、冷蔵庫の食料品がなくなったので、山田真澄君と柳橋さん木下さん
章子さんの4人で近くのスーパーへ、ハイエースバンで買い出しに出かけた。
 6時半過ぎに戻ってきて品物を冷蔵庫に入れて残りの人達はレストランの
片付けを手伝い、終了した。そして厨房の火のチェックを吉川富子さんが
やった後に柳橋悟さんがもう一度やるダブルチェックをしていたので、
秀夫は、流石にプロは違うなと感心した。そして水曜日も問題なく終了したが、
ここから1時間くらいの冷凍食品工場で、不揃い品の在庫を譲ってくれる
というので、明日10時頃に取りに来てくれるように連絡が入った。

 木曜日、朝9時、総勢12人が揃った。そこで男性3人で吉田秀夫の
運転で冷凍食品工場へ出かけた。1時間弱で工場について、冷凍うどん、
冷凍チャーハン、100個入りたこ焼き、シューマイ、ギョーザ、お好み焼き、
回鍋肉、青椒肉絲、焼きそばが手に入った。約1週間分の不良品だがハイエース
いっぱいになってしまった。そして10時過ぎに帰り調理係の吉川さんと柳橋さん
が場所を取りそうな、たこ焼き、冷凍うどん、回鍋肉、青椒肉絲、キョーザを
今日使おうとなった。早速、ホワイトボードに、たこ焼き8個セット、肉うどん、
回鍋肉、青椒肉絲、キョーザ定食(8個入り)を書き込んだ。

そして、先日買ってきたピーマン、キヤベツをを多く切ってもらい、
炒めた物と、電子レンジで温めた回鍋肉、青椒肉絲をあわせて、かさ増し
して定食に使った。その後、たこ焼きを手分けして2台の電子レンジをフル活用して
解凍し始めた。ホワイトボードのメニューを見て、たこ焼きの注文が増えた。
注文に追いつかないので木下さんが自宅でも電子レンジで焼いてくると行って
100個入りのビニール袋を持って行った。作るそばからから出て行った。
 餃子の注文を増えたのでガスコンロで次々に餃子を焼いて注文にこたえた。
 11時から、たこ焼きが30人分240個、持って帰ると言う人も現れて、
12時までに50人分400個、4時までに360個の千個が全て売れた。

 餃子も3つ口のガスコンロをフルに使い注文にこたえていき1200個の
餃子も夕方までに売れた。回鍋肉、青椒肉絲も終了した。そんなことで、
今日は在庫処分セールみたいになった。この日も5時過ぎにパンを
100欣いただいてきた。今日の売上が14万円と最高金額になった。

25話:若手メンバーの料理指導1

翌日の金曜日2005年2月16日は、レストランのホワイトボードに肉うどんと
チャーハン(大盛り可能200円増し)、生姜焼き定食と書き込んだ。
 そして、翌日も8時前にレストラン部門の柳橋さんと吉川さんが御飯を8合炊いて
、続けて8合の御飯を炊いた。その後も同じ量の御飯を炊いた。
 そして2台の電子レンジで1kg入りの袋をあけて、大皿で電子レンジで
温めはじめた。あらかじめ焼いておいた卵焼きと焼いたベーコンを小さく切り、
温めたチャーハンと御飯を半々にして炒め始めて、チャーハンの素を1袋を
投入して数分で熱くなった所で大きなボールに次々とチャーハンを投入した。

9時過ぎに店を開けると、チャーハンの香ばしい臭いにつられて、チャーハンの
注文が増えてきた。発泡スチロールの大皿にもりつけた。次々と注文が出るので
10時前には大きなボールのチャーハンがなくなり、もう一つのボールのチャーハン
に手がついた。その間にも空いてる3つ目のガス口で卵焼きとベーコンを次々に
焼いた。11時過ぎには2つの大きなボールのチャーハンも少なくなった。
 そして11時半に注文の方が、在庫に追いついた。その後もチャーハンを
作り続けて、吉川さんが腕が痛いと言いだし、代わりに料理好きな吉田秀夫
が替わってチャーハンを作り始めた。昼過ぎには、柳橋さんも着かれて来た
ようなので、若手の山田真澄君に交代して、秀夫のやり方を真似した。
 昼からもチャーハンの注文は衰えずに、3人がかかりで3つ口ガスレンジ
をフル活用して、料理を作った。1時過ぎに3.2升の御飯が残り少なく
 なってきて2時前に終了した。80人前のチャーハンを出した。大盛りも
多かった。その他、パンの注文も多く、50人分で300枚、50斤が売れた。

そして16万円の売上で過去最高で10kgのチャーハンがなくなった。
 終業後、柳橋が、調理台も一つと3つ口コンロをもう一台、電子レンジを
もう2台と大きなヤカン2つと5Lの大型ポット4つを買ってきて欲しいと言われ
、更に、手伝いのスタッフ6人欲しいと言うので了解した。その後、吉田秀夫が
若手3人をのせて、買い出しに行き、その日のうちに設置した。明日明後日の
土日は、どうなるか心配された。翌朝、8時前に既に、柳橋さんと吉川さんが
来ていたので、昨日の出来事を見た、吉田秀夫が2人に若くないし無理しないで
土日または週休2日で働かないと続かないと言い2人で休む日を決めてくれるように
お願いした。それで、頑張ってもらってるのはうれしいが、我々はレストラン
が目的ではなく、乳児院への奉仕活動が主目的だからと優しく言った。

 すると確かにそうだと吉川さんが笑った。どうしても料理人手視野が狭くなって
しまうのよねと言った。柳橋さんも了解しました。あまりきついときは、終了と
書くようにしますといい、週休2日は最低必要ですねと笑った。明日からは、
できるだけ手伝いの方に仕事を覚えてもらうように心がけますと言った」。
来週月曜日までに休む日と必要人員数を月単位で計画して提出しますと言ってくれた。
 翌日は、寒い日だった。8時には、柳橋さんと吉川さんが来ていて買ってきた
大きなヤカン2つでお湯を沸かし大型ポットに沸いた湯を入れていた。
 そうして、やってきた若い人に柳橋さんが珈琲豆の袋に苦いA、苦いB、
甘めD、やや甘めCと書き入れた。そして朝はBとCを半々、昼以降は、
ADかBCを半々と教えた。2つのコーヒーミルに白い計量カップに1杯づつ、
いれてミルを回して砕く方法を実際にやって見せた。粉末状になった珈琲豆を
プラスティックの容器に入れて小さなへらで2つの豆を十分かき混ぜてる。

その後2つの珈琲フラスコの上の紙製の濾過フィルターに粉状の珈琲を入れて、実際に
沸いたお湯の注ぎ口の小さなヤカンにいれて再度、軽くわいたところで濾紙フィルター
の上から一度、少し注ぎ入れ、お湯が均一に珈琲豆に行き渡ったことを確認してから、
また、お湯をゆっくりと小さな円を描くように注ぎ入れると、良い豆は、
ふくれあがってくる。ゆっくりお湯を注いで全体の7-8割まで湯の面が来たら、
いったん注ぐのをやめて1分半程度待つ、その後は、もう少し早くお湯を注いで
濾過フィルター9割ぐらいまでお湯を真ん中付近を中心に小さく円を描くように
湯を注ぐ、それを繰り返して、珈琲フラスコの9割程度の所まで珈琲が入れば完成。
 そして、珈琲カップは、あらかじめ小さなボールの念頭の中に入れ暖めておいて、
箸でカップを取り出して、珈琲をいれて小分けのプラスティックケースに入った
ミルクを一緒に、お客さんに持って行くと説明した。
 そして次から彼らに実際に体験させ、覚えるまでやらせた。

26話:若手メンバーの料理指導2

 この日1日で3人に珈琲の入れ方を理解してもらった。そして後ろで見ていて
早いとか、まだとか注意しながら仕事を覚えさせた。1人珈琲好きな中川裕という
フリーアルバイターがいて、彼が指導してくれると言い、交代して他の料理の
手伝いをするようになった。この日は寒いこともあり肉うどんの注文が多く
絶えず大きなヤカンで湯を沸かしていた。暖かい珈琲、紅茶とトーストセット、
ピザセットの注文が多く、手のかかる料理の注文は少なかった。
 そこで、空いた時間に、アールグレー紅茶の入れ方も教えた。
 そうして夜5時過ぎにはレストランを終了して早めに閉店してもらった。

 売上は昨日の6割10万円弱だった。その後、購入して欲しい食品のメモを
見て4人で食料品を買いに出かけた。米20kg、大根、キャベツ3つ、しめじ
、マイタケ、醤油1.8L2つ、油1L4つ、紅茶1缶、冷凍の鮭30切れ、
豚ローススライス3kg、鶏もも肉2kg、うどん10kg、そば5kg、
バター、イチゴジャム、マーマレード1kg、とろけるチーズ1kg、
冷凍ピザ100枚入りを買って、事務所に帰り、冷蔵庫に入れて、事務所を
閉めて家に帰った。

 帰ってから、週休2日にしないかと秀夫が章子に提案した。その方が良い
かも知れないねと言った。日曜日も8時過ぎに事務所に出ると既に料理担当
の柳橋さんと吉川さんが来て、せっせとお湯を沸かしていた。
 9時には20人全員がそろった。今日も珈琲、紅茶の入れ方を新しい人に
柳橋が教えようとしたら、昨日、珈琲好きだと言った中川裕君が私が指導します
から休んでいて下さいと言ってくれた。もう一人、紅茶好きの山上仁美さんが来て、
アールグレーとタージリンの2種類、揃えた方が良いかもと言ったので、
柳橋は了解した2つ揃えることにしようと言った。この話を吉川さんに
言うと、吉川さんが、スタッフ全員に声をかけて、料理得意な人と好きな人
来て下さいと言うと、6人が集まった男女3人ずつ、ちなみに得意料理を
切って下さいと言うと、チャーハン、麻婆豆腐、オムレツ、カレー、
焼きそば、中華料理、タイ料理と声があがった。

 焼きそばといった人に来てもらい今日は任せますので宜しくと言い
野菜と冷凍焼きそば10kgの調理をお願いした。
 その人はの名は安田靖彦さん65歳退職後、バーベキュー得意で特に
焼きそばと言った。彼の元に3人を預けた。そして、吉川さんと柳沢さんは、
生姜焼き定食とトースト、フォーを交代しながらやりましょうと話した。
5人のアシスタントを探した。全員が集まったときに午後6時から30分会議を
しますので残っていて下さいと言った。焼きそば担当の方々は、手分けして、
キャベツ切りを包丁とスライサーで行い、大きなボールに2つ切っておいた。
 そして作り始めると焼きそばとソースの良い臭いがしてきた。
 吉川さんがホワイトボードに焼きそばを最初に書いて、次にフォー
生姜焼き定食、ベーコンエッグ、トーストセットと書いた。

 焼きそばの安田さんが、冷凍焼きそばだけでは、味が濃いから蒸し焼きそば
と半々に入れてキャベツとソースで味付けすると、食べやすくなり、
これで行く事にした。紅ショウガ欲しいと言うの10時にすぐ買ってくる
というので、蒸し焼きそばも一緒に頼んだ。9時過ぎてレストランがオープン
するとトーストセットが出始めて、すこしずつ焼きそば出始めると、
それを見た人が次々に焼きそばの頼み始めた。そこで10人前ほど作り置き
していたので、それを少し温め直して出し2人で盛んに焼きそばを作った。

 空いたコンロでトーストも多く焼いて注文にこたえた。トーストは、かなりの
数を焼いておくほうが楽なので10人分を在庫するようにし、注文待ちの客減らした
ので10時過ぎまでは順調だった。

27話:レストランの1週間終了

その後11時過ぎるとお客が増え始めて2つのボールのキャベツが少なくなった
ので4人でキャベツを切り出してもらった。その後、安田さんが手伝いの池田道夫さん
に焼きそばつくりを交代した。交代前に後ろで見てもらい要点を説明していたので
要領よく作ってくれたが11時半頃から注文が増えて2人でフル回転で焼きそばを
作って生姜焼き定食の注文が入ると吉川さんが作ってくれた。今日はメンバーが多い
のでオムレツ、麻婆豆腐の得意な人にも作ってもらった。またタイ料理にフォー、
トムヤンクンスープ&ヌードル、中華料理好きの人に回鍋肉と青椒肉絲に作って
もらう様に、お願いし、調味料を用意した。豆板醤、甜麺醤、山椒、
オイスターソース、トムヤンクンペースト、おろしニンニク、ニンニク、生姜、
輸入エビ、冷凍貝ミックス、中華味の元、ラー油、乾燥フォーを買ってきた。

1時過ぎて、少し空いてきた頃に、トムヤンクンヌードル、回鍋肉と青椒肉絲、
オムライス、マーボドーフを6人前ずつ作ってもらった。みんなうまかったが、
特にトムヤンクンはフォーとの相性が抜群でおいしい、オムライスも見た目が
綺麗で良い、麻婆豆腐に山椒が良い回鍋肉と青椒肉絲、中華調味料を使い格段に
うまくなっおり、お客さんに出せる味だった。鳥を蒸しバンバンジーにして、
麺類にトッピングして、蒸してでた鳥スープは、麺の汁やスープとしても
十分に使えて重宝することがわかった。また、お願いするかも知れないので
宜しくお願いしますと言った。2時過ぎには10kgの冷凍焼きそばがなくなった。
 蒸し麺100g入りが100個なくなった。その後、また学生の4枚トーストの
注文を予測して、40枚ほど、焼いて注文を待った。30分で40枚(10人分)
なくなり、100枚(25人分)焼いて注文具合を待ったが、これで間に合った。

土日は出かける人が多いのか意外に、お客さんの数、注文数も平日と変わら
ないことがわかった。3時に冷凍食品工場から出荷できない製品を取りに来るように
パン工場から4時に来てくれと言うので3人で出かけたところ冷凍工場で崩れた形の
冷凍餃子が大量にできた様で30kgもあった。その他、冷凍チャーハン12kg
、冷凍焼きそば10kg、シューマイ5kg、ピザ300枚、回鍋肉と青椒肉絲
100袋ずつ、パンは100欣を持って帰ってきた。業務量の冷凍庫もいっぱいで
大型冷蔵庫の冷凍室もほぼ満杯となった。5時半に仕事を終えて掃除して6時から
全体会議を始めた。議題はレストランの手伝いのローテーションで6人が最低必要
と言うことで、お願いしたところ了解してもらった。

 次に料理担当の吉川さんと柳橋さんに2人の若手に補佐してもらう話をすると、
料理や珈琲、紅茶好きの人がいて了解してもらった。そして全員で仕事を毎日か
週休2日にすべきかという話をすると人数的に問題なければ毎日やった方が収益が
上がり良いと言う事になった。基本的に、電話、インターネットなど、全て
担当と補佐を決めて、交代制で良いのではないかと言う話になった。
 それでは、各部署に別れて勤務する日を決めて下さいというとグループに分かれ
話し合って、その結果を紙に書いてもらいホワイトボードに次々に曜日ごとに
担当と指名を書き入れた。できたものを再度確認した後、表に書き込んで
次週の役割分担表ができた。その後できるだけ、毎週でなくて月ごとに
役割分担表を作りたいので協力をお願いした。

 そして吉田夫妻は2人単位で週休2日で勤務することにした。それ以外の人は
週4~5日勤務でとなり営業さんは基本的に外回りを担当してもらい電話連絡を
入れてもらう事にした。そして6時40分に解散して帰った。これで今週を
無事終えることができた。吉田夫妻は安堵と共に大きなため息をついた。

28話:レストランの交代勤務表の作成

翌週は、吉田夫妻は水曜日2005年2月25日と3月4日、日曜日は
経理担当幹事の加藤宗男さんに会長代行をお願いした。
3月5日月曜、この日は料理担当の吉川さんが休みで柳橋さんが仕切っていた。
 珈琲紅茶は中川裕君に頼んだ。料理の方は中華料理得意の鮫島さんと相談して
使える冷凍餃子と使えないのを分ける頃を6人で始めてもらった、
崩れたものを大きなボールに入れて大鍋の中に入れて煮込んで中華スープと
みじん切りのネギでスープにした。1/3の10kg程が餃子として使えて
その他は、中華スープと、冷凍うどん、フォーのスープとして使い、
ホワイトボードに暖かい中華風うどんとフォーを最初に書き込んだ。

 9時過ぎ営業の佐藤勝さんから電話で現金問屋の店で賞味期限が1ヶ月切った。
中華あじ、サラダ油、ごま油、豆板醤、甜麺醤、回鍋肉、青椒肉絲のたれ、
オイスターソース、ウスターソース、小麦粉、中力粉、ナンプラー、カレー粉、
胡椒、山椒を無料で良いから取りに来て欲しいと言われた。
 そこでハイエースに乗って吉田秀夫と他2人で取りに行った。到着して現金問屋
の代表に吉田秀夫が名刺を渡し挨拶した。かなりの量があり倉庫が狭くなっていた。
 指定の品を次々をハイエースにつぎ込み、荷台の棚に、重い物は下、軽めの物を
上にしてのせていき、ほぼ満杯になるほど大量だった。店の人にも手伝ってもらい
10分ほどで積んで、お礼を言い失礼した。事務所に持って行きエアコンを入れてある
一画の棚に、下から重いもの、上は軽い物とのせていった。

 そして柳橋が10時になったらキャベツ20個と白菜10個、豚ばら10kg
鶏肉6kgを買ってくる様に頼んだ。9時からは冷凍うどんを中心に販売した。
 1人が大鍋に冷凍うどんを着き注ぎに入れて、もう一人が容器に汁と入れて
上から、みじん切りのネギをかけた。冷凍うどん10個ずつ入れてうどんが終わったら
再度、沸騰するまで待ち次々にうどんを投入していった。1時間に6-70個の
注文があった。10時過ぎに材料が入ったのでキャベツの乱切りを5人で開始して
もらった。そして2人にバラ肉を切ってもらった。3人に柳橋と同じ様にやれと
言いフライパンに油を入れて1分、キャベツを3摑み入れて、2分ほど強火で
炒めてもらい、それをおおきなボールへ2人に肉の炒めからを柳橋とと同じように
やる様に言った。予定の量を終えるとキャベツと豚肉を大フライパンに入れて豆板醤、
甜麺醤、オイスターソースと1:1:2の割合混ぜた物をプラスティック1Lの
計量容器に入れ、箸で十分にかき混ぜた物を100mlずつフライパンに投入して、
全体になじむようにかき混ぜ終わったら完成。この作業を1つのコンロで継続して
30分行った。その他に餃子定食を出していった。
 今日の昼定食は餃子定食と回鍋肉定食に決めた。
 スープは、崩れた餃子と長ネギと白菜入りのものにした。

29話:NPO寄付方法と募金活動

 作業しながら昼食は勝手に好きな物を食べて良い事にした。その他のスタッフ
は前半組は11時に後半組は1時過ぎに好きな物を注文して食べる事にした。
 独身者や希望する人は、朝、昼、晩と食事して良い様にした。お土産もトースト
または、残り物は全部もっていって良いと伝えた。まず事務所に帰り募金箱を
レストランのテーブルに1つずつ、入り口に2つ合計8つを置くことを考えて
早速、材料を買ってきて募金箱をつくり入り口に乳児院への募金のお願いのポスター
をプリンターで印刷して4ヶ所に張り出した。まず、このレストランでの収益金を
毎月、寄付金として送ることを決めた。

 今週は2005年3月2日(月)~6日(金)は、神奈川県内の乳児院を訪問して
寄付の具体的な方法について意見を聞こうと考えた。まず、3月2日に、
ここから一番近い近い乳児院に午後2時から面会の約束をとり自分の車で出かけ
ていった。着いてから話を聞いた。全国社会福祉協議会児童福祉部の下部組織
として全国乳児福祉協議会がるあるが昔から乳児院の役割や課題について問題点
を整理し考えているが全国組織として積極的に寄付活動はしていません。
 それというのは乳児院の形態が恩賜財団済生会など病院系、カトリック、
大本願寺系、善光寺系、等宗教系、小規模の社会福祉法人と、それぞれ
異なっているからです。そのため寄付の広告も個々で行っているというのが
現状ですと言った。逆に言うと個々の乳児院でも厳しい経営をしいられていて
他を構っている余裕がない現実もありますと教えてくれた。

 もし現金以外に冷凍食品とか中古衣服とか文房具とか現物寄付について伺うと
現状では難しい、やはり、寄付金が一番ありがたいと言った。
 わかりました、神奈川県内の全乳児園に寄付すると言った。その後、残り9ヶ所
を3日かけて訪問した。返ってくる反応は、最初の乳児院とほぼ同じ様な内容で個々の
乳児院で厳しい現状一緒と話していた。神奈川県内には、恩賜財団済生会など病院系、
カトリック、大本願寺系、善光寺系、等宗教系の乳児院はなく全部が小規模の
社会福祉法人だった。

 またNPO「乳児院・助け隊」の営業さんには神奈川県内の企業を回って神奈川県内の
乳児院への募金をお願いする事にして最低、募金箱の設置をお願いするように考えた。
 その事は電話で営業さんに連絡した。そうして4週間が経った。2月にレストランの
売上金額260万円、材料費60万円を引いて、純利益200万円を10ヶ所の乳児院
の人数割りして振り分けて寄付することにした。神奈川県内の乳児院に銀行振り込みで
振り込むが可能か確認して、振り込む日に振込先の乳児院に連絡してから振り込む事にし、
必ず領収書を作成してくれるようにお願いした。あらかじめ、乳児院名と振込金額を
入れた宛の領収書を印刷して、そのに印鑑を押してもらい返信用封筒で送り返して
もらうようにお願いした。そうして2月分200万円を神奈川県内の10ヶ所の乳児院
に送金した。その後、全施設から領収書とお礼の便せんと共に届いた。
 お礼の手紙をコピーして、事務所の壁に貼りだした。

30話:NPO運営方法の確認

 そうして2005年3月31日の夜6時からの運営会議で吉田秀夫が今後、確実に
募金のための資金源は、募金箱と、インターネットのNPO「乳児院・助け隊」の
ホームページの募金箱だけだと言うことがわかり営業さんも一通り、企業やスーパー、
農協をあたってくれたので、このレストランを手伝って欲しいとお願いした。
 するとフロアーの料理担当の吉川さんから、やはり自分たちの活動このレストラン
の宣伝、募金活動を定期的に月に2回程度、土日の主要ターミナル駅、横浜駅、川崎駅、
新横浜駅、桜木町駅、関内駅、MM21などで活動した方が、多くの人に我々の
活動を知ってもらうため、また1人でも多くの人の募金の機会を増やすためにも
良いのではないかとの提案をした。それに対して賛否の挙手をお願いすると
20人中16人が挙手したので実行する事にした。

その活動には会長、副会長か幹事の5人のいずれかが必ず出席するようにする
事にした。最後に吉田秀夫がもっと、いろんな乳児院への援助方法を考えたが
乳児院の専門家に金銭的な援助が一番効率的だと言われて、こう言う形になった
と話すと、それで行こうという拍手が起きて会合を終えた。
 この内容をまとめた資料を500部作り今後の募金活動の時に我々の行動の実態と
行動目標を知ってもらうために活用することにした。また、このレストランのことを
1人でも多くの人に口コミで広めて下さいと、みんなにお願いした。翌月3月から
神奈川の主要ターミナル駅で募金とNPO「乳児院・助け隊」のパンフレットを渡すと
数名の中高年の方が参加したいと賛同してくれメンバーが増えだした。
 そして事務所が大きなサッカー場の近くなので大きなサッカーの時に通り道
で弁当でも販売したらと言う、ご意見もいただき、早速、道ばたでに長机を
3つ並べて販売を始めた。そうして大きな倉庫があるので地元の木下肇さんに
お願いして、多くの自治会に声をかけてNPO「乳児院・助け隊」の為の募金と、
月に2回バザーをすることも決めた。そして募金額が徐々に増えてきた。

 2005年から吉田秀夫と吉田章子が個人名で毎月10万円ずつ乳児院に募金する
ようになった。2005年の4月には、数コンロが4台、電子レンジが8台、シンクが4つ
となり、NPO「乳児院・助け隊」のメンバーが60人になった。そして60坪のほとんどを
レストランにして席を倍増させて100人入れるようにした。エアコンも8台に増やし、
電気設備も大容量にした。売上も15-20万円/日、毎月400万程度と倍増した。
 これには農協でも不揃い野菜、果物、問屋の無償提供、冷凍食品工場、
大きなパン工場からの出荷できない製品を無償提供という強い味方のお陰だった。

 こうして2005年6月30日になりNPO「乳児院・助け隊」を当初の20人から
60人に増えて大所帯になった。特に若い人が増えたのが頼もしかった。人数が増えた
ことによりレストランの仕事も分担制で週休2日でこなせるようになった。
 その後も、出荷できない商品を無償や激安で譲ってくれる冷凍工場、パン工場、
問屋を増えて農協も4ヶ所に増えて非常に助かった。新たに、料理係の吉川さんの
紹介で3ヶ所の料理学校の研修生が研修として、毎週20人ずつ、月、水、金と
来てくれるようになり貴重な戦力で、いろんな料理を教えてくれた。

 この活動を最初に神奈川新聞が取り上げてくれ、次々に、地元のテレビ神奈川、
FM横浜でラジオ関東が話題として取り上げてくれ、NPO「乳児院・助け隊」の募金
、レストランのお客さんが増えた。また横浜スタジアムのサッカーの日の
弁当販売も好調になった。

31話:子供達の協力

 この話題を聞きつけて、三菱商事に入社した吉田新一とNTTドコモに入社した
吉田幸子が横浜のマンションを訪ねてきてNPO「乳児院・助け隊」50部ずつ持って行き
、会社内で宣伝するよと言ってくれた。その後、三菱商事とNTTドコモの会社の人が
電話で会長の吉田秀夫に面会を求めてきて、後日、NPO「乳児院・助け隊」の事務所を
訪ねてきて面会した。そのインタビューの内容を会社の社内報に載せてくれて会社内と
労働組合から、多額の募金を定期的にいただけるようになった。

 金額が大きいので神奈川の10施設だけに寄付するのも問題あるかもしれないと思った
秀夫が、最初に面会した乳児院の院長に相談に伺った。その人の話では全国乳児院協議会
が東京に事務所があるから、そちらで寄付金の分配を任せたら良いかも知れないと
言われて東京の霞ヶ関にある本部に電話を入れて相談に伺った。その機関は
全国社会福祉協議会の分科会で「子供の福祉」部門であり全国保育協議会、全国保育士会
、全国児童養護施設協議会、全国乳児福祉協議会、全国母子生活支援施設協議会の
5つの団体を統括していた。何か役所の臭いがする部門だった。そこで各団体を訪問して
見たところ該当するのが全国児童養護施設協議会、全国乳児福祉協議会とわかり、
この2つの団体に、半額ずつ寄付することを決めて、各施設別にうまく分配してもらう様
にお願いした。この申し出は大歓迎されてNPO「乳児院・助け隊」の事務所を訪問したい
というので訪問の電話をしてきて下さいとお願いして了解した。
 吉田秀夫は事務所に帰り、この話を文章にして、事務所に貼り付けた。
 寄付金の送付先を2ヶ所全国児童養護施設協議会、全国乳児福祉協議会として、
分配なども全部任せる事にした。そして2005年も夏を迎えて調理担当の
吉川富子(栄養士)と柳沢悟(喫茶)の2人には食中毒に注意して徹底的な衛生管理を
お願いした。7月初旬に調理を始める前に必ず衛生管理の確認をしてから仕事を
始めるように朝礼をする事にした。また体調の悪い時きには調理担当から外すことを
徹底させた。除菌用の石けん、アルコール消毒液、マスク着用、料理帽子着用を
義務づけた。そして、料理を終えたときの食器、料理器具の管理方法を
徹底させ、その日の調理責任者が必ずチェックするように義務づけた。
 そして調理した商品は必ず最初にメンバーが食べる事を義務づけた。
 そして弁当類には製造日時のシールを貼ることも義務づけた。
 このため7-9月のシーズン一度も食中毒関連の事件は起きなかった。

 そうして寄付金も増えて来たので寄付金の半額の食券をサービスすることにすると
寄付金が増えてきた。サッカー観戦の日には多くの人が、このレストランを訪れてくれ
、寄付金を出してくれてサービスの食券で食べていくようになった。
 ただサッカーの日は、たまにレストランが満杯になり入れない人が出た。
 それでも寄付金を置いていく人が増えたのは非常にありがたかった。
 そうして2005年10月になりNTTから電話が入り面会を求められた。
 了解すると4人が訪ねてきたNTT関東の総務部のCSR(社会貢献活動)担当者と
組合の人、NTTドコモの総務部のCSR(社会貢献活動)担当者と組合の人が
具体的な寄付の方法や実績を聞いてきたのでNPO「乳児院・助け隊」の9月号に詳細が
書いてあるので渡した。寄付金の送付場所についての質問について大口なので直接、
寄付金の半額ずつを全国児童養護施設協議会、全国乳児福祉協議会に入金して欲しい
と伝えて必要な領収書の書き方などを指示してくれれば、その通りにすると伝えた。
その数日後KDDI、三菱商事も電話予約してから訪ねてきたので同じ様な説明をした。
 そうして非常に忙しかった2005年が終わり、2006年を迎えた。

32話:表彰と新しい寄付物件

NPO「乳児院・助け隊」の活動で海外旅行やショッピングにも行けなくなったが、
吉田章子は元気にうれしそうに生活を送っていた。そんなある日、ある記念財団から
電話があり、NPO「乳児院・助け隊」の活動を褒賞すると連絡があり吉田章子と
秀夫が出席した。いただいた賞状を事務所の壁に貼った。レストランを中心に活動を
展開していた。メンバーが遂に80人を越えたので管理しきれないのでNPOメンバー
の募集を停止した。その中には、元女優、俳優、歌手、落語家、漫才師も増えて
、チャリティーショーをこの事務所でしてくれる事になり、レストランの
食事付きのコンサート、歌謡ショー、朗読会、手品、落語、漫才、サイン会を
月に1-2回行う様になった。

すると2006年3月10日この近くの鈴木三郎さんという方から電話が入り、
章子と共に、お宅を訪問した。大きなお屋敷と周りには荒れた畑が広がっていた。
鈴木三郎さんはベッドで介護の人に面倒をみてもらっていたが吉田秀夫の名刺をみて
近くに呼び寄せて小さな声で私は、もう短い命だと思うので、この屋敷と周りの畑を
君に託したいと言った。細かいことは書面に書いてあると手紙を見せてくれた。

 それによると自分の子供、孫も、この地を離れて独立して生活しているので戻ってくる者
はいない。そこで君の善意の行動を知って、この土地を利用して善意の輪を広げて欲しい。
 ついては亡くなった後、寄付するという内容だった。事務手続きは近くの斉藤弁護士に
依頼してあるので訪ねて欲しいと書いてあった。この申し出に吉田章子は鈴木三郎さんの
手を握り涙を流して喜んだ。すると三郎さんが章子に向かって、あんたの頭の上に後光が
差してる、きっと前世で素晴らしい仕事をされた方に違いない。恵まれない子供達を1人でも
多く助けてやってくれと握った手を強く握り返した。わかりました、その善意の輪を大きく
広げていきますと言った。その後、咳をし出したので失礼した。それから3週間後、
斉藤弁護士から電話が入り鈴木三郎さんの訃報を聞いた。

 一度、斉藤弁護士事務所にお越しいただきたいと言われ訪問すると鈴木三郎さんの家と
土地の権利書、銀行の預金通帳や関係書類があり、ここに印鑑を下されば、所有権が
移りますと言った。そこで、NPO「乳児院・助け隊」代表・吉田秀夫のハンコをついた。
預金通帳を見ると5千万円が入っていたのには驚かされた。そして、近くに住む、農家の
木下肇さんに連絡して鈴木三郎さんについて聞くと彼は代々この地区の名主の末裔で
金持ちで有名だったが人付き合いが下手で知り合いが少なく、子供達は、東京や海外に出て、
家に寄りつかなくなったと聞いていた。

その後、友人が少ないので消息は知らなかったと言い、へー、あの人が家、土地を
寄付するなんて最近の異常気象みたいだと笑った。昔は、けちで有名で、いわゆる、
嫌な奴の代表格みたいな人で、決して評判は良くなかったと言った。
 木下さんも2-3度、顔をあわせた程度らしい。

33話:新レストラン、NPO本部、寮の完成

実際に彼の家に行こうと言うので出かけた。土地は全部で約500坪畑は1500坪と
言った所、庭の納屋にも入ろうというので、鍵で開けてみると、奥の方に壺や掛け軸
などが多数、転がっていた。右の奥の一画に大きな金庫があった。
 その後、木下さんが、事務所も大きなレストランも十分に作れる広さだと言い、
友人の工務店の島田淳二さんに電話をした。数分後、彼がやってきて、こりゃースゲー
といい、今の事務所が6つは作れると笑った。そしてNPOの活動も理解していたので、
大手・格安ハウジングメーカーIFホームのネット住宅のいちばん大きな家60坪程度
を2500万円程度でつくりレストランは以前頼んだ日成ビルドのユニット型ハウス
の2倍の大きさのレストランを作ると良いと言った。予算はどの位あるのか聞くので
5千万円と言うと、それだけあれば、この庭を整地して、電気、水道、レストランの
設備を入れてぎりぎり3千万円で出来ると言った。俺の儲けにはならないが、
任せてくれれば、一番、安くて良い方法を考えてやるよと笑った。是非お願いしたい
と言うと任せておけと言った。翌日、島田淳二さん事務所にやってきて、今度は
何をつくりたいと言うので、以前のレストラン2倍のレストラントと学生寮を作り、
NPOで働いてくれる子達の部屋を確保したいと考えた。つまり持続可能なNPOを
作るのを目標として考えていると言った。わかりやすく言えば自分達の事業の経費を
払って余った分を募金するシステムにしたいと考えていると話した。

 ですから一気に希望の施設をつくるのはなく内部留保金を見ながら、徐々に施設を
つくりたいと言い、今回は、大きな歌謡ショーも開ける大きなメインレストランを
日成ビルドさんに相談してみるつもりだと伝えた。島田さんには電気工事、水道工事、
電化製品をお願いしますというと了解と言って帰っていった。日成ビルドに電話を入れると、
2006年4月14日、やってきて、以前と同じ平屋のレストランを作りたいと言った。
 その後48人用の学生寮も考えているので、見積もりも欲しいと言った。以前と同じ平屋の
レストランなら内装もいれて1千万円で出来ますと言った。それをお願いしたいと言った。
 アパートは16人用、3棟で合計48人収容の学生寮、費用は4500万円だと言った。
 そこで島田淳二さんに電話させるので水道、電気工事の打ち合わせをしてとお願いした。
 数日後、島田さんから電話があり2006年4月20日から工事開始して、5月中に
完成予定だと言った。工事費はエアコン8台大型冷蔵庫3台業務用冷凍庫2台を
入れて500万円でやると言ってくれたのでお願いした。

 近頃、レストランの名前が知れてレストランが手狭になったので良かった。
予算が足りない分は秀夫が5千万円NPOに投資する格好で入金することにした。
の費用はNPOを週3回以上手伝ってもらえれば食費込みで月5万円と学生さん達に
伝えた。すると、それは安いと言いといった。既に30人の学生がNPOに参加して
いるので、彼らを優先的に入寮してもらうことにして残り18名分を学生の推薦で、
料理が得意で、働く気がありNPOに賛同してくれる人を探してきて欲しいと言った。
 そして卒業して学生寮を出る時、必ず次に入る学生を勧誘しておいて欲しいと言った。

34話:レストランの営業時間の延長で儲けよう

2006年5月26日に収容人員200名の大きな第2レストランが完成しNPOの
人数も口コミで増えて80人となったので早朝6時から夜8時までと営業時間を延長した。
 早朝6時-8時は、中高年の方中心に働いてもらい、トースト、ハムエッグ、珈琲、
紅茶など軽食中心を考えた。営業を夜6時-8時は学生さん中心で、あらかじめ料理を
多めに作り置きして出すようにして2-3人で追加の料理を出せる体勢を考えた。
 最近では、地元に木下さんなどの中高新しいレストランが出来てNPOの人数も80人
となったので早朝6時から夜8時までと営業時間を延長することにした。
中高年、退職組の人達の参加が増えて最初のスタッフ20名+学生30名+中高年30名
で合計80名程度にメンバーが増えた。彼らの中高年の友人達もレストランに誘って
利用してくれるようになり、売上も上がってきた。
 特に早朝や10時、3時とお客さんが少ない時間帯に来てくれ、ゆっくりしていた。
 2006年6月になり200人入れる大きなレストランが完成した。その後、もう2台
、ハイエース9人乗りワゴンの中古車を300万円で購入した。
 6人以上の団体さんは、駅までの送迎をする事にしたので暇な時間帯がなくなり、
効率的にレストランが回転していった。そうして近郊の駅でレストラン新設のチラシを
配って回った。こちらは駐車場も20台ほどあり車で来る人達が多くなった。
 設備もう一つのレストラント同じにした。そして、こちらは麺類を中心に考えた。
そこで圧力鍋を使い一度に大量の乾麺を作れるようになった。冬はラーメン、
チャシュー麺、鳥そばをメインメニューに毎日、日替わり定食を600円で用意した。
 5月の連休は、サッカーや横浜アリーナの帰りの客が押し寄せるようになり繁盛した。
 それ以外にざるそば・うどん、つけめんも全品500円で好評であった。
鶏モモ肉も、大きな圧力鍋で2kgを一度にむせるので大変重宝し濃厚な鳥スープも
出来るので、効率よく料理を出せた。売上も1号店に追い超す勢いで増えていた。

 6月の梅雨が終わると冷やし中華が好評で若者中心に一番注文が出るように
なった。朝来て、冷凍を1晩おいて解凍した2kgを圧力鍋に入れて5分圧力が落ちるで
10分で取りスープ3Lと蒸し鶏が出来る。それが冷まして千切りにしてキュウリの
千切りと共に冷やし中華そばにのせ味噌だれか醤油だれをかけで出す。中華そばも乾麺を
2kgを一度に投入して圧力がかかって1分位で火を止め1分おいたら、2人でシンクまで
持ってきて水をかけて圧力を下げて蓋を取り水で洗い皿に盛りつけると10人前の
冷やし中華が出来る。蕎麦も、うどんも同じようにして作る。

 御飯は1度に2升炊きあげられるので、圧力が上がり5分で火を止めて15分待ち
圧力が下がるとできあがり、約10分蓋を開け、水分をとばす。その他、豚ショウガ焼き
やタンドリーチキンも作ったりする。第一、第2レストラン30~40人で運用すること
が出来る。夕方にサッカーの試合があるときには、別に7~8人でお弁当つくりをする。
こう言う方法で、秋を越え、冬が到来して、年を越え、2007年を迎えた。

35話:新しい木造のNPO本部の構想

レストランでステーキやビーフシチューなど高級料理も出し始めて売上金額が
増えてきた。売上金額の多い日では1-2号店で50万円を越える日も出てきた。
更に、喫茶部では、ベーグル、ホットドッグ、ハンバーガー、ショートケーキ、
パンケーキ、どら焼き、ドーナッツ等、品数を増やし、ウーロン茶、冷たい紅茶、
スポーツドリンク、ジュースなどの水物も提供し始め、単価も品数も増えていった。
 そのために最低2日に1回はのコストコに食料品を買いに行くようになった。

 4月18日の全体会議で経理の加藤宗男さんが吉田秀夫に、この2年間の投資金額
が多くないですかと指摘された。そこで確かに多いが先行投資して極力早く投資を
回収しようと考えていますと答え、そのための投資は個人的にNPOへの投資する
ようにしますと言い、そして最後に吉田秀夫、吉田章子さんのNPOへの拠出金額
が多すぎるのが気になりますと言った。確かに初期費用がかかっていますので、
どうしても仕方がありませんが今回の寮も寮費1人5万円で48人分、毎月240万円近く
入り年間2880万円入りますので、数年先には赤字金額もなくなると思いますと言った。
 ちなみにNPO立ち上げから4年で2920万円を拠出していますと言った。

 すると会場からどよめきが起きた。心配されなくても大丈夫ですと言い詳細は
言えませんが問題ありませんと答えた。年間2920万円で2-3年で持ち直せます
と言った。経理の加藤宗男さんが、それなら良いのですがと言って、この件は終わった。
 その他の質問で法務担当幹事の安田さんが、ちなみに来年度は何か新しい計画でも
あるのですかと質問した。来年は、寄付でいただいた土地の古家を取り壊して新しい
木造1軒家のNPO本部を計画した。費用は3千万円程度、そこで、有名人の
チャリティーショーや、オークション、バザーなどをしたり、NPOメンバー
が泊まれるようにしたいと思っていますと言った。この話に大丈夫なんですかとの声が
出たが大丈夫ですと言い細かい数字は言えませんが、このレストランでは多くのご厚意で
無料で食品をいただいたり格安で買ったりして料理の原価が通常の1/4程度で
原価率が30%程度、つまり1000円の料理が300円程度で儲けが700円です。
 その中で寄付に回しているのが4-500円であり残りをNPOの投資改修に
回していますと言った。だから支払金額が多くても1~2年で回復できると言った
所、メンバーから安堵の声があがった。

 ですから今後もレストランの売り上げをあげて下さいねと言った。また募金活動も
積極にして下さいと言い、また使える品物のNPOへの寄付もらう様にして下さいと
お願いした。その後、寮に入った学生達の積極的な募金活動、バザーが目立った。
 学生達は、こんな綺麗な寮に住まわせてもらってありがたいと言い、
以前にも増して、積極的にNPO活動に協力してくれるようになった。
 そうして、夏、秋、冬が終わり、2008年を迎えた。

36話:新しい木造のNPO本部の完成

 この年は円高が進み不景気の数が吹き出して5月の四川大地震7月には原油が高騰
147ドルをつけた。その後9月15日リーマンショクが起こり、9月29日にNY市場
が777ドルの暴落で10月13日に936.5ドルの急騰を演じた。東証大納会、
終値8860円で年初比42%減という大幅な下げを記録した。東京・日比谷公園に
企業から派遣切りで職を失った人達の「年越し派遣村」が開設された。
 NPO「乳児院・助け隊」では、特に変わりなく、第1、2レストラン共に順調に売上を
上げていた。ただ通りを歩く人の不景気そうな顔が印象に残る年になった。
 ガソリン高で無駄な車での外出を控えるようになった。

 企業は現金もので企業業績が良くなくなると派遣社員の首切りを容赦なく続けた。
 日比谷の年越し村には、当時の日本の世相がにじみ出ていた。しかし巷の経済状況
にもかかわらず2008年の1月7日、NPOの年頭所感で今年は昨年公約した
新しいNPO本部を第2レストランの近くに建てると言った。
 今年も頑張って行こうと士気を高めた。そして風邪を引かない様にうがい手洗い
を欠かさないで下さいと言った。冬は毎年の様に暖かい麺類が大好評だった。
また、お餅が問屋の在庫が多く、おしるこ、雑煮が売れた。

 昨年から、高級志向の珈琲、モカ。キリマンジャロ、ウインナーコーヒー
(生クリーム入り)紅茶もタージリン、オレンジペコ、ショートケーキも
数種類つくり出すようにして、レストランの壁にはNPO有志の素敵な
風景写真(富士山、横浜港の夕日、朝日、桜、薔薇、あじさいなど)を
展示するようになった。

 そうして春を迎えて2008年4月7日、IFホームと打ち合わせて6LDKの
大きな2階建ての新NPO本部を計画した。IFホームの社長から我が社の広告に
利用させてくれれば更にに値引くと言われ了解した。工期は3ヶ月で2008年7月7日
と言う事に決まった。そして断熱、キッチン、風呂、トイレ3つで最高級の家を
2500万円で建ててくれることになった。更に12ヶ月均等払い無利子でお願いしたい
と言うと社長が、それなら、ちょうど割り切れるように2400万円でやりましょう
と言ってくれた。工事について島田淳二さんと付帯工事の打ち合わせをすると引込工事
は終わっているので大型冷蔵庫2つと、洗濯機、ガスコンロ、電子レンジ、照明器具
、インターネット引込、エアコンが5つ、電気工事などで200万円でやりますという
のでお願いした。その後も順調に第1,2レストランも順調に売上を上げていた。
 夜の終了時間を8時に延長して昨年は、以前に比べ20%近く売上をアップした。

4月も、お客さんの数も順調であり高級商品の売り上げ特にステーキ定食1200円
の売上が順調だった。これを目当てに遠くから来る人も現れたほどだ。
 NPOの新本部の素敵な外観に期待を膨らませた。そして完成の2008年4月7日
を迎えた。20畳のリビングが広く開放的でその他、2つの和室を含む6LDK、
実に使いごこちも良さそうだった。 社長が訪ねてきて、玄関の鍵を渡してくれた。
 そして我が社では最高級の材料で作りましたと誇らしげに言い社長に同行した営業
の方々が社長と吉田夫妻との写真や、各部屋の写真を数多く撮っていった。
 そして、来月も、また来て写真を撮って良いですかというので了解した。
 会社の人達が帰った後、手の空いてる人達で吉田秀夫の車で、昨年オープンした
イケア港北店へ行き、3~4人かけのソファーを2つと3人用のソファー3つ、机4つ
、椅子4つ、ベッドと布団を6つ、その他、調理道具や生活道具などを決めて2台の
ハイエースで新しい家に運んで組み立てた。その後、テレビ2つと食器なども揃えた。
 その後、幹事の加藤宗男、安田一雄、池田里美、星野さん、佐藤さん、清水さん
、桧山さん、吉川さん、柳沢さんや若手の人が、次々とやってきて新しい家を見ては
感激してくれた。来週から、関係の深い、芸能人の方々もお招きして、ティーパーティー
を開く計画をたてた。

37話:NPOの新本部の落成パーティー

 2008年7月16日にNPOの新本部の落成パーティーの招待状を元宝塚のAKさん
、NMさん、歌手のMMさん、絵本作家のTNさん、小説家のIHさん、司会のTMさん
、落語家のSMさん、漫才師のNNさん、マジシャンのPPさんに送った。
 落語家のSMさん、漫才師のNNさんが用事で来られず。7人が来ていただく事に
なった。その日は、シャンパンとレモンソーダをシャンパングラスに注いで乾杯をした。
 NPOの写真の達人の小清水さんと池山さんにカメラが係をおねがいした。
吉田秀夫は司会のTMさんと元宝塚のAKさん、NMさん、歌手のMMさん、絵本作家の
TMさん、小説家のIHさんと打ち合わせを終わらせた。
 集まったの人達はリビングに入りきれずNPOのメンバーは一部、庭先にいた。
 そして落成パーティが始まり司会のTMさんが今日はNPO「乳児院・助け隊」
の新本部の落成パーティにお越しいただきありがとうございます。お陰様でこんな立派な
本部の建物が完成し祝して乾杯をしたいと思いますと言い今後の発展を祈念して乾杯と
言ってくれた。 元宝塚のAK、NMさん、絵本作家のTNさん、小説家のIHさんに
お言葉を頂戴して最後に歌手のMMさんに歌をお願いしたいと思いますと言って会が
始まった。AKさん、NMさんが近くに住んでいて、また機会がありましたら、立ち寄らせ
ていただきたいと言って、チャリーティ会場としても使わせてもらうと言ってくれた。

 絵本作家のTNさんが乳児院の事を説明してくれ慰問に行った時の子供達のつぶらな瞳
が忘れられないと話してくれた。その彼らを助けるという崇高な志には感服します。
 これからも頑張って下さいと話してくれた。小説家のIHさんが、石の上にも3年の
辛抱期間を終えて、これから発展期に入り、これからの活躍に期待したいと思いますと
言ってくれた。次に歌手のMMさんが「ここに幸あれ」を熱唱してくれた。
 最後にマジシャンのPPさんが、とっておきのマジックを10分間やってくれ、
会場方のおおきな拍手を浴びて挨拶を終えた。その後、テーブルに乗った、ステーキや、
お寿司、ビーフシチュー、タンドリーチキン、サラダ、サンドイッチに手をつけてくれ、
珈琲、紅茶をついで飲んでくれた。そして会長の吉田秀夫におめでとうと言ってくれた。
少し、酔いが回ったのか、元宝塚のAKさんが歌を披露してくれ、続いてNMさんも
歌ってくれ、最後は、歌手のMMさんと3人で歌を披露してくれ大いに盛り上がった。

 元スター達の小清水さんと池山さんが次々と写真を取っていた。吉田秀夫も綺麗どころと
一緒に写真に収まった。そうして、1時間半でパーティーが終わりを告げ、元スター、
有名人達が帰っていった。そして、夏が過ぎて、足早に
2008年が終わり2009年を迎えた。

38話:不景気の嵐とリーマンショック

レストランの方は順調にであった。学生も卒業して、NPOの学生寮を出て行く人と
入る人が交代していた。大学でも評判が高く普通のアルバイトよりも食費と寮付きで
5万円という好条件のために、NPOに参加する学生が多く寮に欠員が出なかった。
この年は東京で福祉関連のNPOを立ち上げたいという人の訪問が増えて訪問者が
多かったが立ち上げの費用と場所の確保が出来ない様であきらめる人が多かった。
 東京と一緒にやろうというNPOまで現れたが、このNPOは独立採算がモットー
なので他と組む気はないと言いと断った。その他、東北仙台と新潟で良い所出の
お坊ちゃん風の男性が仲間とやってきて、NPOの立ち上げ方法や採算は取れるのか
とか企業としての魅力があるのかと、妙な質問をするので、採算はとれないし、
持ち金は確実に減ると言うと、なんでそんな割に合わない商売やってるのかという
始末にNPOで寄付を主目的に行う非営利団体に経済的メリットなんかある訳ない
だろと追い返した。不思議そうな顔をしていくのを見ると思わずマジかよと突っ込みを
入れたくなる心境になった。吉田秀夫はNPOの事をもっと勉強してから出直してくれ
時間の無駄だと心の中でつぶやいていた。

 最近はNPOに65歳過ぎの高齢者が非常に増えた気がする。NPOの仕事参加だけ
でなく友人を連れて比較的空いてる10-11時、2-4時頃に大勢でやってくるケース
も多い、もちろん、お客さんなの大歓迎、珈琲、紅茶とケーキセットを注文して長時間
話して喫茶店代わりにしていた。その他、1人身の高齢者と思われる男性や女性が一人で
やってきて持ち込んだ弁当箱に料理とおかずを入れて帰ったり明日の朝のトーストまで
買っていく老人も増えてきた気がする。
こうして、不景気な2008年が終わり2009年を迎えた。

この頃には投資資金の回収をほぼ回収したのでNPOの新本部の家の離れに100人程
入れる会場をつくり元・芸能人のチャリティーショーや中高年のお茶飲み場、女性達だけの
喫茶店、集会場、インターネットが使える学生用の喫茶店として利用しようと思った。
 男女それぞれトイレ6つずつの簡単に間仕切りの出来る断熱材を入れた大型倉庫を
日成ビルドさんにお願いすると原価で1千万円でつくってくれると言った。島田淳二さんに
インターネットを引き込んで冷蔵庫4台大型エアコン6台、電気、水道工事を依頼すると
300万円で請け負ってくれた。9月初旬に工事に開始2009年10月11日に完成。
 その後、元・芸能人、タレントさんに連絡してチャリティーショーを帰宅して
毎週1-2回のチャリティーショーと不用品バザーを行うことにしてNPO会員にバザー
への協力を依頼し、この情報をNPOのホームページや募金活動の時に、チラシに書いて、
お客を集めるようにした。レンタルルームの営業も開始し、空いてる日は、午前中で1万円
、1日で2万円で、半分間仕切りで1万円、小部屋が半日3千円、1日6千円とした。

39話:久しぶりのお出かけ

 2009年11月に84円台の超円高となった。NPOでは特に大学生の交代以外に
これと言った話がなく平穏無事だった。今年で負債がなくなりそうでレストラン事業と
学生寮事業で負債を返し続けて、ここまで来た。
 ひと段落着いたので、2010年4月に沖縄のうりずんの頃、暑くなり始めた沖縄の
海を散歩して英気を養った。夏には八ヶ岳と松本にドライブに行き高原の避暑を楽しんだ。
 秋は伊豆へ温泉の旅に出かけた。来年も、このペースで活動して行こうと考えた。
 我がNPOが有名になった様で訪問者が絶えなくなった。理由は、NPOを持続可能
な形で長く続けているケースが非常に稀だったのが原因らしい。かといって秘訣なんてない、
ただレストラン事業や他に多少なりとも利益を出す部門を作らなければ長期に存続できない
だけの事である。特に協力者確保とスタッフをつなぎ止めることがポイントだった。

 娘の吉田幸子も研究の仕事が忙しく会う機会もめっきり少なくなった。また、浮いた噂も
ないようで連絡もなくなった。長男の吉田新一も世界中を飛び回って忙しいようで、恋人が
出来たとか、浮いた話は聞かない。そこで、電車で野比に出かけて、久しぶりに幸子に会うと、
携帯電話の未来形の話題ばかりで面白くなかった。一緒に夕食を食べて飲んで、おしゃべりを
満喫して帰ってきた。三菱商事の吉田新一は米国に彼女が出来て出張のたびにデートしている
様だ、アジア・シンガポールにも彼女がいるようで、行くたびに会っている様だった。
 そこで日本に帰ってくる日を聞いて東京銀座で待ち合わせ食事をしたが本命の子はいなくて
米国もシンガポールも単なるお友達だと言った。日本にも好い人いないのと言うと、
いない事もないが結婚という段階まで進んでないと難しそうに話しているのを見て章子が、
いつの間にか大人になったのねーと茶化すと俺だって、もてる方なんだぜとと言いだし、
 ポケットから米国・シアトル、サンフランシスコ、ニューヨーク、シンガポール
、日本人、マレーシア、フランス、イタリア、スペインの彼女の写真を携帯電話で
見せてくれた。こんなに彼女がいて、なんで結婚したいと思わないのかと聞くと、
無理してお互いを束縛しなくても一人で生活できるくらい、コンビニ、安い定食や
などで用事はほとんど済ますことが出来る便利な世の中に感謝していると何かずれた
様な回答をするので、新一も大人になって随分変わったねと、言うと、いつ迄でも
子供じゃねーからなと笑顔を見せた。秀夫が個人的な事ばかり聞くもんじゃないよと
、章子をたしなめた。小さい頃は素直な良い子だったのにと寂しげな目で見ると
笑いながら、新一がそれだけ成長したと誉めて欲しいよと言った。

 そうして、NPOの活動は順調で、今年2010年も終わりを告げた。
 2011年になりNPOの本部に泊まる日も多くなった。
 それは訪問者が増えたからであり、NPOが雨後の竹の子のように増えてきて
経営方法を知りたいという問い合わせが増えたためだった。
 NPOは、特に変わりなく学生の交代もスムーズに行われ内部留保金が
増えてきたので、今年からは寄付金を増やしていこうと考えた。

40話:天変地異と東日本大震災の2011年

 アラブの春とは2010年から2011年にかけてアラブ世界において発生した、
前例にない大規模反政府デモや抗議活動を主とした騒乱の事である。
 2010年12月18日に始まったチュニジアでの暴動によるジャスミン革命
から、アラブ世界に波及した。エジプト革命は、エジプトの国内外において
2011年1月より発生した大規模な反政府デモとそれに付随する事件の結果
、当時のホスニー・ムバーラク大統領が辞任に至った。
 2011年リビア内戦は、リビアにおいて2011年に起こった政治社会的
要求を掲げた大規模な反政府デモを発端とする武装闘争でカダフィ大佐
(革命指導者)の政府は崩壊し、10月内戦で受けた傷により死亡した。
 2011年は、1月にオーストラリアで過去数十年で最悪の事態となった
今回の洪水では、約20万人の生活に影響がでた。同様にブラジルでも豪雨による
洪水や地滑りによる死者数が806人となり、2万人を超える被災者が避難生活を
余儀なくされていると言うニュースが1月下旬に入ってきた。1月のインドでは
首都ニューデリーで気温が摂氏3度にまで低下し40年ぶりの寒さとなった。
 インドで最も人口の多い北部のウッタルプラデシュ州では、寒さで80人を
超えるホームレスが亡くなるほどで、地元当局は各地に暖を取るためのたき火
を設置するなど対応に追われていた。

 この年も、NPOの活動は順調で、取り立てて問題もなく過ごしていた。
 やっと暖かくなり始めた2011年3月11日、昼食を片付けていた午後2時47分
に大きな揺れが関東地方を襲った。秀夫が火を消せと言い外に出た。食器が外に出たり、
鍋、釜が散乱した。地震が収まると片付けを始めた。数分してテレビがつくと東北の
太平洋岸の大洪水の画像が飛び込んできた。まさに信じがたい映像ばかりでSF映画でも
見ているような気がした。夜になるとコンビナート火災が起きて大変な事になった。
 仙台空港に海水が押し寄せる風景も劇的だった。翌日に亡くなった人の数が増える度に
、胸が締め付けられる様な悲しさに襲われた。厭世観とでも言う嫌な気持ちになった。

その後の東京電力福島第一原発の事故が悲観的な気持ちを更に増幅した。親を亡くして
震災孤児の報道を聞くたびに何とかしてあげなければと言う気持ちになった。
 そうして翌日、吉田秀夫は、今後、乳児院の寄付から東北の震災孤児の救済に
変更すると発表し、3月の寄付金をヤフーを通じて400万円を送金する事を決めた。
 2011年3月18日、長女の吉田幸子がNPO本部を訪ねてきてNPO経営の
レストランを見せて欲しいというので案内して回った。すごい大きな施設に驚いていた。
ここで稼いだ金を4千万円強をと東北の震災孤児の救済基金に寄付していると言うと
、すごい事業を始めたと目を丸くしていた。ちょうど、この日、元・宝塚のNMさんが
チャリティーショーをしているので、会場の離れに案内して、見てもらった。
 歌、おしゃべりの30分間で入場料が¥500で百人は入る会場が満杯で立ち見が出た。
5万円は寄付金になると教えた。すごい、システムを考えたねと言ってくれ、NPOの
ために冷凍食品、パン工場、農協、問屋が訳ありの商品を無料または格安で分けてくれる
ので儲かった資金を投資したり寄付金にして運営しているといった。
 秀夫が、現在は、寄付金を全部、東北の震災孤児に送っていると話した。
 その後も毎月、12月までに約4千万円を東北の震災孤児の救済基金に募金した。
 その後も最低5年間は東北の震災孤児の救済基金に募金する決心をした。
 その後、全国児童養護施設協議会、全国乳児福祉協議会から秀夫に問い合わせが
あったが最低5年間は東北の震災孤児の救済基金に募金する事を話した。
 悲劇の2011年が終わり、2012年を迎えた。

41話:東京郊外でNPO「乳児院・助け隊」1

NPO「乳児院・助け隊」のホームページのブログに、この仕事を始めたきっかけと
なった、育児放棄の子を引き取った話や小さい頃の貧しい生活、公営住宅での質素な
生活や株投資でお金を増やした話などを連載していたが、それを見て感動したという
40前後の男性、武田敏次さんが訪ねてきた。いろいろ聞いてみると大学を出て大企業
に勤めて出世街道をと言う時に長時間勤務やサービス残業をさせられ、それでも出世の
ためと我慢していたが自分を引き立ててくれていた上司が、ある日、突然、退社して海外の
企業に移籍した。そのため、その上司に反目していた上司に目をつけられいじめられて、
会社勤めが嫌になって、退社して32歳の若さでFXと株式投資生活を始め、最終的に
株投資とファンドで18倍に資産を増やし現在7000万円程度の資産だと言った。
 結婚もしていないし、あなたのブログを見て考えさせられて今住んでる東京で
NPO「乳児院・助け隊」の東京支部をつくりたいと言いだした。そこで、現在の
経営状態を話した。何か、稼ぐエンジンを持たないとやっていけない事を説明した。
 初期投資のためには最低3千万円がいる事も話した。彼の話では何か生きてるという実感を
もてる仕事をしながら、今後生きていきたいと真面目に話したので何とか協力してあげたい
という気になった。そこで、もう少し彼の生い立ちと先祖の話を聞くことにした。
 彼は昔の武蔵国、今の和光市の豪農の家の出で親類が家の近くにいて耕作放棄地もあり
、土地は使えると言った。そして、もし私が成功すれば、一緒にやりたいという投資仲間が
2人いると話してくれた。話はわかったが難しい問題でもあるので、数日時間をくれと言い、
後日必ず電話連絡すると伝えて帰ってもらった。この話を、女房の章子に話すと力になって
あげたら良いと言われ、法務の池田さん、経理の加藤さんも応援してあげたら良いん
じゃないですかというので、応援することを決めた。

 そして訪問から5日後の2013年3月20日に電話を入れ、そちらで会いたいが、
日時と場所を指定してくれと言った。すると3月23日の午後1時に和光市駅北口出口で
待ちあわせる事にした。会うと、彼の車で、彼の住み、実家の離れに案内してくれた。
 今両親は数ヶ月前に東京にマンションに引っ越しして、この大きな農家は、私一人で
住んでますと言った。ですから、この敷地、多分380坪位あるので、ここにレストラン
を作ろうかと思っていると言った。大学も近くにありますので、寮も作れるし、親戚の家
にも空地や耕作放棄地もあると言った。そうしたら、何とか20人集めて、法律に詳しい人
と経理、税務、財務に詳しい人、受付、パソコン、電話で話が出来る人、3人を探し、
料理の出来る人、調理師、栄養士など、レストランを開業できる人を探すこと。

 営業経験があり、他人と交渉できる人2-3人を探しますかと言った。営業経験のある人
が1人だけで、その他は何とかなるかも知れませんと言った。それなら出来るだけ早く
、探して連絡して下さいと言った。武田敏次さんに再度、本気でやる気があるんですよね
と再確認をすると、はい、ありますと答えたので、今言った人達が集まったら電話下さいと
いって、秀夫は、帰っていった。

42話:東京郊外でNPO「乳児院・助け隊」2

 5日後、武田敏次さんから電話があり揃ったので、また来て下さいと言われた。日曜日でも
良いですかというのでOKと言い3月28日(日)午前10時に和光市駅に着き車で彼の家に
行くと、数人の人達がいた。まず、秀夫が自己紹介して武田敏次さんが最初に法律事務所の
安井広さん、会計事務所の井上順子さん、営業の渡辺強さん、栄養士の加藤秀美さん、
喫茶店手伝いの吉村真理子さんを紹介してくれた。そして、近くには、立教(新座)、
東洋大学(朝霞)大東文化大学(高島平)武蔵大学(江古田)帝京大と多くの大学が
ありますと言った。そこで、

 NPO「乳児院・助け隊」のパンフレットの様に、このNPOのする事、ミッション
、綱領などを作成し、早急にパンフレット作ること法律の安井さんにNPOの立ち上げの
手続きを取ってもらいます。それを早急に作って下さいと言い、パンフレットはFAXで
送って下さいチェックしますと言いNPOの立ち上げを役所ですすめて出来たら、また
連絡下さいと言い、NPO「乳児院・助け隊」パンフレットを10部置いてきた。
 その後いくつかの質問を受けて答えて、秀夫は帰っていった。

 その翌日FAXで草案が送られてきたのでチェックして送り返した。9月10日に
武田敏次さんからNPOの申請が認証されたと連絡してきた。そこで日曜でも
構わないから、仲間5人とこちらへ来て施設を見ていって下さいと連絡すると
9月20日(日)に伺いたいと連絡が入り、小机駅にハイエースで迎えに行った。
 そして、第一レストランを見学してもらい、続いて第二レストラン3棟の学生寮を
見てもらい、本部事務所のリビングに案内した。感想を聞くとすごい施設ですねの
一言だった。収益源はレストランと月5万円(食事込みの)の学生寮、廊下の
向こうの宴会場での元・芸能人のチャリティーショーだと言った。

 その他、営業さんが訳あり品を無料もしくは破格値で譲ってくれるように交渉
して回ってレストランの収益率が60%以上だと言った。その他、乗降客の多い駅での
募金活動と、このNPOの宣伝も兼ねてパンフレットを渡していると言った。
武田敏次さんがレストランや学生寮などの建設会社は紹介していただけますか
というので、もちろん紹介するといった。

 ちなみに費用はと聞くので第一レストランが1千万円、第二レストランが2千万円、
学生寮が5千万円、この本部の建物も値切り2500万円、離れの宴会場が1千万円、
その他、工事費が合計8千万円、冷蔵庫、冷凍庫、ガス、水道、その他で6千万円、
その他、車、印刷、その他で1千万円、ざっと3億円弱。売上は1.2のレストランで
年間1.3億円、寮費で1728万円、宴会場で2千万円、チャリティーショー収益金が
1千万円、寄付金2千万円、合計年間2億万円程で純利益は1億円程度だと説明した。

43話:東京郊外でNPO「乳児院・助け隊」2

 吉田秀夫が土地代は地元の農家の方の寄付であり無料だと言い武田敏次さんが最小規模
でどの位かかかるかと言うので、第一レストランだけで全部入れて最低1.5千万円。
2倍の大きさの第二レストランで2.5千万円と言った所だと言った。
 武田敏次君、どうする、このリスクの大きい事業に君は挑戦するかと聞くとやりますと
言った。それなら業者も紹介しようと秀夫が言った。いつから開始するというと他の2人の
友人と投資できる金額を相談したいので来年2月からにしたいと言った。了解と秀夫が言い、
また連絡して下さいと武田君に言った。その後10月25日に電話があり友人3人と見学に
来たいというので待った。10時半に到着して施設を全部見学して本部の応接室で武田敏次君
が友人の吉村宗彦、真田徹の2人を紹介してくれて投資資産の合計で1億円と言った。

 それなら、まず大きなレストラン(100坪)を作ったら良いと言いNPOの最低人員
30名できたら50名集めると良いと言い、明日からメンバー集めをしますと言った。
武田敏次君が、また連絡しますと言って3人で帰っていった。11月2日に当初メンバー
合計38名そのうち学生が20名と連絡があった。そこで学生に仲間の勧誘をお願いしたら
良いと言った。11月中に学生の勧誘のお陰で60名になりそうだと電話が入った。
 武田敏次さんが、この地区は学生が非常に多い地区で、募集と口コミで大勢の学生
が集まると思いますよといった。それなら、一気にやってみるかとと尋ねた。
 その方が良いかも知れないと答えた。それなら、16人の学生寮も2つも一緒に、
企業に頼んで、めいっぱい値引きしてもらう交渉をしようかというと、武田敏次さんが、
その方が良いかも知れないというので吉田秀夫は日成ビルドに交渉してみることにした。

 数日後、以前面会した、日成ビルドの今井信二社長に電話を入れて面会の約束をいただいた。
 2013年12月3日、会社に伺って、吉田秀夫が、横浜で成功した慈善事業を東京に
隣接した埼玉県和光市で行いと思っていますが、是非、協力をお願いしたいと言い、
NPO「乳児院・助け隊」東京支部長、武田敏次さんを紹介した。もちろん、御社の宣伝に使う
ことも含め全面的に協力しますと言った。それで、具体的にはと社長が聞くので、吉田秀夫が、
大きなレストラン2つと学生寮3つで、工事費5千万円で、木造の農家の解体費用も含め
お願いしたいと言った。社長が、随分、厳しい価格交渉だなとといい、少し待てと言い、
電話をかけた。その後、5千万円で了解するが、1つレストランと1つの学生寮に我が社が
寄贈したと言う事にして寄贈のシールを貼らして欲しいと言った。武田も吉田も了解しました
と言った。そして、我が社のサービスは、これで最後にさせてくれとわらった。
 わかりました本当にありがとうございますと2人で社長に頭をさげた。社長が、是非、
この慈善事業を成功させてくれと握手をしてくれた。帰りの車の中で、武田が、吉田さんって
、すごい交渉力ですねと驚いていた。吉田秀夫は、全て社長のお陰だよと笑った。

 でも、こんなに、すんなりといくとは思わなかったと言った。その後、島田淳二さんに
レストランの冷蔵庫、冷凍庫、ガスコンロ、大きな圧力鍋、調理器具を大きなレストラン
2つ分と寮2つ分の机椅子ベッドをめいっぱい安く、仕入れて欲しいと言った。訳あり品でも
、在庫品、中古品でも使える物なら何でも良いと言った。早速、調べて見積もりを提出する
と言った。後日、連絡が入り500万円で調達できるが一部は自分で運んでもらう事になると
言われたので、了解した。

44話:東京郊外でNPO「乳児院・助け隊」4

その後2014年2月12日11時に2つの大きなレストラントと寮を建てるために
現地も調査依頼があり了解し吉田秀夫と武田敏次が現地で日成ビルドの担当者を待った。
ついてから、ざっと見で、ここなら十分出来ると言い電気配線も水道管も来ているので
問題ないと言った。その後打ち合わせ、工事開始を3月10日にして4月中の完成も目指す
と言うことになった。4月25日に2つのレストランと学生寮が完成し資材の搬入が出来る
と連絡があったので朝9時に横浜から学生9人で3台のハイエースバンを使い資材の
運搬作業をお願いした。午後6時に帰ってきて全て調理器具など搬入完了しましたと
報告があった。2つの学生寮も外観は完成して、内部工事をしているようで、多分、
レストランは開業できるのではないと話してくれた。また、レストランの水も出る
ようになっていて、明日からでも使えますと言った。電話で武田君に聞くと明日から
営業開始してもOKだと言われたと言い今週いっぱいは乗降客の多い駅や学校内で
チラシを配ってもらう作業をして、4日後の9月24日の土曜にオープンするつもりだと
言われ了解した。調理の段取りと調理方法の説明にベテランさんを送ろうかというと
是非お願いしますと言い、早速、今日11時から4時までお願いしたいと言うので
ベテラン5人を含め7人を送ると言った。

 和光市から戻ってきたメンバーに状況を聞くと実際にトーストセット、珈琲、紅茶の
入れ方、圧力鍋の使いから作業の段取りを教えて数人に実際にランチを作ってもらった
と言い、レシピもクリアーファイルに入れて、渡しておいたと報告してくれた。
 その後9月24日、レストランのオープンの日、5人の応援隊を送り込んだ。
 夜6時過ぎに帰ってきた応援隊に状況を聞くと若い人が多く訪れて多分、近くの大学の
学生が多い様だと言った。2014年5月6日に2つの32部屋の寮が完成した。
 入寮者は既に、NPOの学生さんで抽選して決めていたようだ。
 学生さんが学校卒業しても、必ず、その部屋を使う人を早めに決めて空きを
造らないようにと念を押した。ちなみに寮費は食費込みで全部で月に5万円とした。

 数日後、秀夫が我々が世話になっている、パン屋の工場と、その他冷凍食品工場
と農協、食品問屋に電話しておいたので、武田敏次君と訪問した。まず連絡した
パン工場に行き名刺を渡し事情を話すと連絡は聞いてますと言い工場に電話して確認して
から来て下さいと言った。次に冷凍食品工場へ行くと、うちでは、そんなに不良品は
出ないと言ったが、乳児院の恵まれない子供のため募金のために是非協力をと言うと、
また電話して下さい出せるようなら出しますよと言った。食品問屋に行くと最初
難しそうな顔をしていた社長が、乳児院の子供に寄付金を出すためにレストランで
儲けなければならないのですと秀夫が力説すると、わかった使用期限3ヶ月以内は
値札の半額、1ヶ月切ったものは無料で分けてやると言ってくれた。
 次に農協に行くと、不揃い品と言ったていつ出るかわからないというと、
毎朝、電話入れますので宜しくお願いしますと武田敏次君がいうと会ったら取りに
来て良いと言ってくれた。武田敏次君が吉田秀夫に対して、さすがベテランですね、
本当に助かりましたと言ってくれた。

 そうして秀夫は横浜に帰っていった。1週間後、武田敏次君に電話を入れると
昼と夜は、お客さんが多いのだが10時過ぎと3時過ぎは暇になると言ったので地区
の老人会に入り込んでチラシを渡して来いと指示し、また農協に行っている事業を説明
してレストランのメニューと場所をNPOのパンフレットに置いてもらって来い言った。
 そして来ている学生に友人達に口コミで宣伝してもらうように話と良いと教えて
あげた。2014年6月になり圧力鍋で解凍した2kg鶏モモの肉を蒸して、その汁に
ナンプラー入れて、うどんのつゆにする方法などレシピを送った。11月23日には
始めて1日売上が6万円を越えたと喜んでいた。12月にお餅を使う時には電子レンジ
で柔らかくしておくと、すぐできる事なども教えた。トーストはトースターだけでなく
フライパンも使うと一度に大量に作れる事なども教えた。12月に、遂に1日売上
10万円以上になったと大喜びして電話をしてきた。食費が浮くという話題でNPO
を手伝ってくれる学生が口コミで増えてきて78名になったと驚いていた。
そして2014年を終え、2015年を迎えた。

45話:東京支部のコックが横浜で1週間修行

 2015年を迎えると和光市の学生スタッフが100名を越えた。東京の方から
横浜のレストランへ6人を料理の研修に送り込むから教えてやって欲しいと言われ、
預かる事にした。6人は、特別に本部の広い和室に6泊してもらう事になった。
 そうして1週間を終えてノウハウを覚えて東京のレストランへ戻り料理の仕方を
指導していった。時短料理のテクニックと料理の段取りを身につけるだけで、
見違えるほどの料理上手になり帰った。

 東京でも朝の15分のミーティングでよく説明してくれた様で大型の圧力鍋
の扱い方を指導した。冬は鍋料理、煮込み、麺とスープと鶏もも肉の千切りと
野菜の千切りで、ラーメンが完了で費用に効率よく作れる。
 1200円のビーフシチューやビーフステーキもかなりの注文をもらった。
 朝9時から夜8時まで早番、遅番が交代できるほどスタッフの数が増えてきた。
 ほとんどが学生で、食事付きが好評の原因だったようだ。
 4月下旬には2つのレストランで1日35万円の売上を上げる様になった。

 お客さんに学生が多いと、食べてすぐ出るので回転がよく売上が増えるという
良いサイクルが出来た。このまま行けば6年で5千万円の費用も回収可能になる。
 2つ目のレストラン用ののハイエースバンも購入した。週に3-4回は、
冷凍食品工場、パン工場、問屋さん、農協さんへ譲ってもらいに行くようになった。
 地元、埼玉や東京多摩の地方紙やインターネットで話題になりお客さんが増えた。
 そうして2016年を迎えた。今年は学生のお客さんが多く、ベーグル、
ハンバーカー、トースト、ホットドッグ、牛ステーキの注文が多かった。

 中高年に来てもらいたい場合はどうしようかと悩んだ末に、横浜の吉田秀夫に聞いて
きたので高齢者の多く農協、老人会で100円引きの優待券を渡す様にしたらと答えた。 
早速、翌日から優待券を配ると、翌週から数名の団体でやってきた。その後徐々に
増えてきた。そうして団体で来るようになった。夏が過ぎて秋になり冬を迎えた。
回転がよくなり毎日20万円以上の売上を維持していた。10月、11月、12月も
好調に推移して年間5千万円を超え新記録を達成した。

 そうして2015年を終えて2016年を迎えた。今年は全国児童養護施設協議会、
全国乳児福祉協議会に寄付金を送る金額について打ち合わせをしたいと武田敏次君に
横浜の本部へ来てもらった。武田君が今年の寄付金は3千万円と考えてたと言うので
1千万円にして残りの2千万円を東京支部の負債圧縮に使えて指示した。
 今年の募金手続きは、もし良かったら、こっちで処理してNPO「乳児院・助け隊」
3千万円、代表者名を会長:吉田秀夫とNPO「乳児院・助け隊」東京支部で1千万円、
代表者名を東京支部長:武田敏次と書いて処理してあげると言った。

 この件は、そちらでどうするか決めて電話して下さいと話した。その後、武田君の電話で
東京支部の方でやりますので結構ですと言われ、その電話で今年で投資費用が3千万円回収
できると言い、あと2年、2018年中に全額回収出来ますと、うれしそうに言った。

46話:企業の支援金と緑綬褒章

 東京の武田君から2016年も順調にレストランも回転してきて学生寮の売り上げの
1920万もあるので2017年中に投資金額を回収できる見込みだと連絡が入った。
 東京のこのレストランの話題が多摩の地方紙に取り上げられインターネットでも
話題になり始めたようだ。2016年3月に、ある企業からNPO「乳児院・助け隊」の
事業に対して補助金の対象になるので表彰状すると連絡が入った。2016年4月10日に
、その会社に代表の吉田秀夫が招かれて表彰状と1千万円をいただいてきた。

 そうして2016年は横浜でも4千万円、東京でも4千万円の寄付金を
全国児童養護施設協議会、全国乳児福祉協議会に送った。この巨額の寄付金が
全国社会福祉協議会で話題になった。そうして2016年を終え2017年を迎えた。
 そして2017年の7月3日に内閣府から電話で今までの仕事の内容について報告書を
送って欲しいと連絡が入った。歴史や横浜と東京での事業内容を詳しく書いて送った。
 11月12日に内閣府から、来年の緑綬褒章の対象に選ばれたのでお知らせすると
連絡が入った。この報告を受けて、吉田章子と、秀夫は、その晩、珍しく祝杯をあげた。

 振り返ってみると40年以上前に市営団地で近所の夫婦げんかで不幸な子供達を
預かって育て上げた。そこから福祉の心が芽生えて神の助けか株投資でも成功して
、財をなして、NPO「乳児院・助け隊」を立ち上げて、近くの農家の人や善意の大きな
寄付を受けて、NPO「乳児院・助け隊」のレストラン、学生寮をつくり、
寄付続けていたとき、これに賛同した、東京近郊の若者が3人で東京支部を立ち上げて
、横浜のやり方を学んで、レストラン、学生寮をつくり、大成功して、結果として
2つの団体で年間8千万円近くの寄付を出来るようになった。

 ここまで、全部、理想的にうまく言ったのは我々の情熱と神が運という強い味方を
つけてくれた、お陰かも知れないと振り返った。そして2018年5月15日、
国土交通省の大会議室で緑綬褒章をもらいに吉田章子と秀夫、武田敏次の3人で
参加した。その後、近くのレストランでビールで乾杯して祝った。

その時、突然、武田敏次が生きてるって本当に良いですね、人の役に立つって
気持ち良いですねと叫んだ、
 学校を卒業して大企業の中の無駄な人事争いで半分人生を放棄したい気分だったのが
本当の意味で生きる意味、幸せの意味を実感できたと涙を流して喜んでくれた。
 そうして3人で、これからも、はりきってやっていこうと誓い合うのだった。
(終了)

アガペーの愛

この作品は、小説家になろうと重複投稿しています。
東京と郊外に住む、吉田秀夫と幼なじみの安田章子、市営住宅に住み貧乏な暮らしをしていた。将来、結婚したいなと、思っていた。中学卒業後、章子は、商業高校へ秀夫は工業高校へ入学した。1971年月、高校卒業して秀夫は近くの運送会社へ、章子は銀行に入った。そして1972年月に19才同士で結婚した。6月に市営住宅の2DKの家に2人で転居した。秀夫も章子も貧しい生活をしながらも小さい頃から堅実にお小遣いを貯めて、無駄遣いはせずに自転車で出かけた。そして、貯金が500万円を越えたら子供を持とうと考えた。こんな夫婦を近くの昔からアルバイトしていていた商店のおばさんが見ていておかずを無料で分けてくれた。1976年に貯金が念願の500万円を越えたので子供つくりを始めた。しかし、なかなかできなないので、たまらず夏に夫婦で婦人科を受診すると章子が不妊症で、子供ができにくい体質だと言うことがわかった。その結果に章子は泣き出して長い間、落ち込んでいたが秀夫が仕方ないよ、これも運命だ。今後も元気で仲良くやっていこうよと、その言葉に救われて、また仲むつまじい夫婦生活を続けた。夫婦喧嘩が絶えない市営住宅の近所の家で朝から子供の泣き声と大きな物音が聞こえたので秀夫が、その家へ行くと幼い4女の子と歩き始めた男の子がおり殴られて頭から血を流してる奥さんをみて夫婦喧嘩を止めに入った。そこで奥さんと子供達を家から出して、自分の家に連れて行った。奥さんを棒でたたき怪我させたようだ。奥さんが亭主が酒とギャンブルが好きで働いた金を全部使って、うまくいかないと家族に暴力を振るので離婚したいと思っているが、実家の方でも、私一人ならともかく、2人の子供まで面倒見れるほどの財力なくて本当に困っていると話した。その子達のあざを見て章子が泣き出した。これどうしたのと奥さんに問いただすと亭主が殴って、あざが絶えないといった。何てひどい事するのと章子は子供達を抱きしめて頭をなでてあげた。その行為に対して情に飢えていたのか子供達が章子から離れようとしないので3人で風呂に入って身体を洗ってあげた。すると長女が重い口を開いて、おばちゃんありがとうと泣いた。それを見ていた秀夫も目に涙を浮かべた。すると、その子のお母さんも泣き崩れた。民生委員とが入り話し合い奥さんが離婚しますと言った。そして私は実家へ帰りますが子供達は育てられるかどうか不安なので乳児院に入れたいと言った。それを聞いた章子さんが、それはひどい自分で産んだ子を乳児院に入れるのと叫んだ。でも無理して共倒れになった、もっとひどい事になるかも知れないと言った。それを聞いて、それじゃー、あの子達が可哀想じゃないですかと声を荒げた。その勢いに旦那さんもびっくりしていた。そういう話を聞いていた子供達がやってきて章子にしがみついてきた。これには、たまらず秀夫がと章子が引き取って育てると言ってしまった。その様子を見ていた民生委員が、これで決まりのようですねと言い子供達の身元引受人の書類を持ってきた。秀夫と章子と子供達2人で夕飯を食べて、少しして子供達が眠った。その後秀夫が章子に、今度どうするというと、とりあえず、私が有給休暇をとり善後策を考えようと言った。そんな話は広がるのが早く以前、アルバイトしていた店のおばさんが訪ねてきた。そして章子の話を聞いて、そうか大変だったねと言いうちで良かったら子供達を昼間、面倒見てやるよと言った。その後、秀夫が、株投資をして、確実に財産を増やしていった。そうして、夏休みに旅行に出かけたりして幸せに暮らし、そうして、子供達は、それぞれの才能を発揮して、一生懸命勉強して、一流高校、大学、企業に入った。2001年のネットバブル崩壊で秀夫の運送屋も危なくなってきたので早期退職を選んだ。奥さんの章子さんも銀行の早期退職の応募して割増退職金をもらって退職した。その後、買い物や、海外旅行にもいった。その後、沖縄の平和祈念館とひめゆりの塔をみて、何か人のためにしなければと言う気持ちが芽生え乳児院支援団体立ち上げの夢を抱いた。そうして横浜の郊外に大きなレストランとNPO「乳児院・助け隊」を申請し神奈川県の認証を受けた。徐々に売上も上がってきて募金できるようになりその後、東京郊外でも「乳児院・助け隊」をしたいという若者が来てレストランと学生寮を経営しながら毎年、寄付金を送り続けた。そう言う活動続け10年過ぎた頃、この事業がある企業の支援金の対象になった様で補助金をもらった。その翌年、内閣府からこの活動に対して緑綬褒章を授与するという知らせが入り、一緒に行動してる若者も生きる意味を見つけたと大喜びで感激してくれ、吉川夫婦も今までの行動が報われたような気がして幸福な気分に浸った。

アガペーの愛

アガペーの愛、理性的な選択で、NPO「乳児院・助け隊」を立ち上げて、乳児院に寄付を続けた、人達の物語である。

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