舞い立ち昇る龍声

 他国の親戚の家に、嫡子にする約束で養子に出された片倉小十郎は、五年ぶりに、生家である米沢八幡宮へ戻ってきていた。
 養父母との約束が違えられた事に心を傷める小十郎は、龍笛の音色に願いを込め、八幡宮で行われた神事で笛を吹く。その姿を、伊達家の長子である梵天丸が見初めて、小十郎は梵天丸の父、伊達輝宗の小姓に取り立てられる。
 城に上がった日、小十郎は姉の異母弟である鬼庭綱元から、夜の城に出るという小鬼の話を聞かせされる。本気に取らなかった小十郎だったが、笛を吹いた夜、泊まった城でその小鬼と出会い、魅せられてしまう。小十郎が月の童子と思い定めたその小鬼は、何故か顔の右半分を隠していた。小鬼は、小十郎の笛へのご祝儀なのか、小十郎の泊まる部屋へ菓子包を投げ込んでいく。
 童子の正体を突き止めたい小十郎は一計を案じ、童子の正体が梵天丸であることを突き止める。だが、その為に、疫で醜く潰れた右目を人に見られたくない梵天丸の心を、小十郎は傷付けてしまう。
 自責の念に駆られた小十郎は笛の演奏を失敗し、輝宗から大曲を修める名目で暇を出されてしまう。
 暇を出された小十郎を城に呼び戻そうと、梵天丸は面を被って八幡宮へ向かう。八幡宮で小十郎の姉である喜多と出会った梵天丸は、梵天丸の潰れた右目を見ても動じず、疫病から生還した事を賞賛してくれた彼女に好感を持つ。
 梵天丸は小十郎に城へ戻ってくれるよう願うが、輝宗の小姓である小十郎は承諾することができず、梵天丸は乳母となる喜多と共に城へ帰る。
 輝宗と梵天丸との約束を守るため、大曲を修めた小十郎は城へ戻ってくる。心待ちにしていた梵天丸であったが、右目が醜い事を気にするあまり、小十郎との対面から逃げ出してしまう。同じ過ちは繰り返さないと、小十郎は雪うさぎを使った計略で梵天丸と対面を果たし、お目通りの許しを得る。

 小十郎とは対面できるようになったものの、依然表へ出れない梵天丸。
 些細なことから小十郎と諍いになり、梵天丸の言動が廃嫡された小十郎の心の傷に触れ、小十郎は梵天丸に表へ出ることを強要し泣かせてしまう。追いかけてきた喜多に、小十郎は性急すぎたことを詫びるが、逆に喜多から、梵天丸が春までに表へ出ない場合、廃嫡されることを告げられる。
 廃嫡された梵天丸は都の大寺に入れられると聞き、自分達だけならば、うまくやっていけると思った小十郎は梵天丸と共に寺に入ることを望むが、神職である兄に月天子である梵天丸を表へ出すよう暗に請われ、除夜の鐘が響き渡る中、決断する。

 米沢城で新年の評定が行われた日、小十郎は約束の花枝を持って梵天丸の元へやってくる。
 小十郎に右目を切除された梵天丸は意識を失い、梵天丸が目覚めるまで、小十郎は龍笛を吹き続けた。
 城内で伊達家の長子に刃を立てた小十郎は引っ立ってられる事になり、龍笛の音が鳴り止んだその時、梵天丸が目覚める。
 評定の場に出てきた梵天丸は、小十郎に頼んで右目の穢れを祓って貰ったというのに、なぜ小十郎が責められるのか――と、小十郎の無実を証明し、正月の評定は晴れの場へと変わる。
 表へ出てこられるようになった梵天丸は小十郎に眠っていた時のことを話し、潮風の銘を持つ龍笛に、大海へ出る日を夢見るのだった。

一章 奉納神事

 辛未年神無月十六夜。
 その夜、少年は笛を吹いていた。
 月明かりに川の流れが望める巌の上で、少年はひとり、神事の曲を練習していた。
 少年の背後には、八幡宮の鎮守である杉の木立が広がり、眼下の川までの緩やかな傾斜地には、茅が一面生えている。
 茅は、八幡宮の屋根の葺き替えに使われ、杉は、社の建て替えの建材に使われた。
 八幡宮の社殿、それ自体が御神体なのであり、社殿の中に偶像の類は存在しない。
 曲を通しで吹き終えた少年は、ひとつ、溜め息を吐く。
 間違いはしないけれど、何かが足りない。
 龍笛の音は、舞い立ち昇る龍の鳴き声。
 天地の間を、縦横無尽に駆け巡る龍の声に例えられるけれど、己の奏でている笛の音が、龍の声を体現できているとは到底思えなかった。
 溜息を重ねると、少年は風の姿を見直すべく、眼下へ目を向ける。
 雲のない月夜。
 透きとおるような初冬の夜気に、不知夜の月はいよいよ輝き、時期も終わりと開ききった茅の尾花は、穂の形こそ乱れこそすれ、月の光を受け、夜風にたなびく姿は美しかった。
 地上に落ちる草葉の影も、草原を吹き渡る風の姿も、目にも明らかな夜だった。
 茅野には、川に平行して走る道が一本あって、その道を北へ抜ければ、少年の家の本家がある長井の地へと続き、川を渡って東へ進めば、この地を治める伊達家の居城――米沢城へと着いた。
 少年の生家である八幡宮と伊達家の結びつきは深く、縁は、伊達家八代目当主の時代へ遡る。
 置賜地方の領有権を巡り、時の権力者である長井氏へ戦いを挑んだ伊達家八代目当主伊達宗遠は、八幡宮で戦勝祈願をし勝利を収める。御礼として、宗遠は八幡宮の社殿を建て直し、宗遠と共に戦った子の政宗は、この地を伊達家の本拠とした。
 以後、八幡宮で行われる月の行事には、伊達家当主一家が氏子総代として詣でるのが習わしとなり、十日後に行われる奉納神事も、現当主である十六代目伊達輝宗が、領内に流行した疫病退散祈願成就の御礼に、八幡の神へ舞楽を奉納するものであった。
 そんな両家の間柄ではあったが、八幡宮の子息である少年と、伊達家の長子である梵天丸は、一面識もなかった。というのも、八幡宮の次男として生まれた少年は、梵天丸が生まれた年に他国へ養子に出され、長らくこの地を離れていたからだ。
 少年が生まれ故郷である米沢の地へ戻ってきたのは、この年の夏も終わろうかという頃である。
 この夏、各地で疫病が猛威を揮い、米沢の地でも多くの者が斃れた。
 八幡宮の宮司であった少年の父も祈祷中に亡くなり、輝宗の五歳になる長子梵天丸も疫に罹患したものの、幸いにしてこちらは一命を取り留めている。
 少年の父母は、互いに連れ子を持つ者同士の再婚で、母の連れ子は女子であったが、父の連れ子は男子であったため、その子が八幡宮を継ぐ嫡子となり、少年は、男子が生まれぬ親戚の家へ、嫡子にするという約束で養子に入った。
 その後、養父母の間に男子が生まれ、実子に家を継がせたい義父母は、約束の手前、自分達から養子縁組解消を申し出ることはせず、少年から家を出て行くよう、いろいろと仕向けてくるようになった。
 理不尽な仕打ちに五年は耐えた少年だったが、結局、自ら養家を出てしまう。
 実家に戻れば迷惑がかかり、理由を述べれば、不服に思った家族が抗議するかもしれず、そうすれば非を認めたくない養父母との間で押し問答の泥仕合になるかもしれず、考えあぐねた末、少年は儚く消えてしまおうかとまで思いつめた。
 そんな少年の想いを止めたのは、今その手にしている龍笛である。
 八幡宮に伝わる名笛で、銘を潮風といった。
 少年が笛を巧みであったため、家を出る我が子の餞として、亡き父が与えた品であった。
 我が身は、草葉の露となっても仕方無い身の上ではあったが、名笛を散逸させるに忍びなく、少年が生家である八幡宮の拝殿へ、笛を置いて立ち去ろうとした時、これも八幡の神のお導きであったのか、八幡宮の巫女をしていた異父姉に見つかった。
 異父姉は、生まれてすぐに母を亡くした少年の母親代わりの姉で、歳は十八ほど離れている。
 少年に、学問と武芸の嗜みを教えたのはこの姉で、彼女は、隠し立てようとする弟の口から言葉巧みに事の経緯を聞き出すと、約束を反故にした養家へ怒りを見せた。
 彼女から事情を聞いた三つ上の異母兄は、神職につく生業からか、養家を責める言葉は口にせず、少年が戻るべくして戻ってきたことを姉――異母兄からは血の繋がらない義姉にあたる――へ伝えると、そのまま少年を八幡宮に留め置いた。
 八幡宮の宮司であった父は既になく、宮司の職は生前の約束通り嫡子であった異母兄が継いでおり、家長である兄の言葉に従った少年は、神職である兄と姉の手伝いをしながら、八幡宮で日々を過ごすことになった。

 十日後に行われる奉納神事は、新しく宮司となった異母兄のお披露目の席でもあり、晴れ舞台でもある。
 奉納される楽目は舞楽の蘭陵王で、舞手は宮司である異母兄が務めた。
 少年も、龍笛の奏者として神事に参加することになっており、自分を受け入れてくれた兄の恩に報いるためにも、神事を成功させたいところであったが、幾度龍笛を奏してみても、納得のいく演奏をすることができずにいた。
 理由は解っていた。
 自分は未だに引き摺っているのだ。違えられた約束を――
 養家が約束を破ろうとしたことは不義なことだが、正室腹の子が嫡子になることは、道理に適ったことだと言えた。
 そう考えたからこそ少年も養家を出てきたのであったが、やはり出てくるべきではなかったのではないか――? そんな疑念が頭を擡げてきては、少年を苦しめた。
 無心に笛を吹いていたと思っていた時でさえ、その考えは何の前触れもなく心の内に現れ、少年を揺さぶった。
 動揺に指を止めてしまうことはないけれど、その想いは音として現れ、聞く者が聞けば、すぐに知れてしまうだろう。
 養子縁組を破談にしてしまったことは、一生に関わる事をふいにしてしまったのだから、何も無かったようになど出来ぬだろうし、生涯抱えていくべき事柄なのだとは思う。
 けれど、龍笛を吹いている時だけは忘れていたかった。
 その名を冠す龍のように。
 龍笛の音が、心に塞がる物思いを吹き払う声となれば――

 風の渡る音を聞いた気がした。

 膝の上に置いた笛から目を上げると、少年は巌の上に立ち上がり周囲を見渡した。
 遠く、夜の川で、川面が闇に煌くのが見えた。
 風の姿は、暗い水面を輝かす漣となって現れ、徐々にこちらへ近付いてくる。
 少年が風の動きを目で追っていると、風は、八幡宮の参道に連なる橋の袂で川から上がり、神域である茅野へ入ると、まるで生きている獣のように、枯野に波を立てながら丘を駆け上ってくる。
「く…っ」
 襲ってきた突風に、少年は手にした笛で眼を庇った。
 過ぎ行きさま、風が龍笛を鳴らす。
 その調べに、閉じていた瞼を開けた少年は、仰いだ天に、風が舞い上がっていった跡を見る。
 八幡宮の天蓋を覆う杉の枝葉が、風の名残に揺れ、側には既望の月が輝いていた。
 憑かれたように、少年はその光景を見つめる。
 木立の向こうから少年の名を呼ぶ、姉の声を聞いて我に返るまで――

「小十郎ーっ」

 名を呼ばれて振り返り、少年は声のした方へ顔を向けた。
 そちらは八幡宮の境内がある方角で、木立の合間からちらちらと、境内の石灯籠に点された灯りが瞬いて見える。
 小十郎は巌の上から飛び降りると、地へ足を付けた。
 見上げた月は、中天に懸かっていた。
 夜は既に更けている。
 杜の中、木々は闇の柱のように天へと聳え、その合間を縫うように、少年は夜の杜を駆け抜けていく。
 その耳に木霊する、風が鳴らした笛の音を、龍声の手掛かりに――



「練習なら、家でせよと申したであろう!」
 小十郎が八幡宮の境内へ姿を現すと、鳥居の前で待ち構えていた異父姉の喜多に叱られた。
 喜多は、白の小袖に緋袴という巫女の装束に身を包んでおり、夕拝の帰りと想われた。
 八幡宮では朝と晩に、神の食事である神饌を捧げる神事を行う。
 朝拝夕拝と呼ばれるもので、宮司である景広が中心となって執り行い、巫女である喜多や出仕である小十郎は、その補佐を務めた。
 今晩の夕拝は十日後の奉納神事に備え、小十郎は楽曲の練習に専念することとなり、景広の補佐は喜多がひとりで務めることになっていた。
 喜多が小十郎を呼んだのは、小十郎の予想通り夕拝の帰り道で、近くには宮司の装束である狩衣に身を包んだ異母兄の景広もいた。
 景広は、拝殿の前で参拝者らしき男と話をしており、石灯籠の灯りが、そんな両者の姿を照らし出していた。
「ですが姉上、外で練習したおかげで、龍声の手掛かりを得ることができました」
 龍笛を鳴らした一陣の風のこと喜多へ話せば、
「夜の杜で笛など吹くから、鬼が寄ってきたのじゃ」
 姉からは嫌味で返された。
 喜多は、実家に戻ってきて以来、何処か線を引いているような弟をもどかしく思っていた。
 八幡宮は小十郎の家だというのに……。
「弟御が当てられた風は鬼ではなく、龍の仕業かもしれませぬぞ。龍は、秋には淵へ潜み、春には天へ昇ると申します。龍笛の音を仲間の声と思い、寄ってきたのでありましょう」
 話し掛けられて、小十郎がそちらへ視線を向ければ、拝殿前で兄と話をしていた男だった。日に焼けた肌の壮年の男で、その身を修験者の白い装束に包んでいる。
 八幡宮に、一夜の宿を求めにきた山伏だろうかと想っていたら、兄から、伊達家の重臣である遠藤基信と紹介を受ける。
 驚いた小十郎は、慌てて腰を落とした。
「元は寺の住職の息子、構わずに!」
 跪いた小十郎の腰を上げさせると、遠藤は景広との会話へ戻っていった。
 喜多と連れ立って社務所へ入った小十郎は、伊達家重臣の来訪理由を姉に尋ねる。
「遠藤様は、こんな夜分に八幡宮へ何の用向きでしょう?」
「神事の打ち合わせじゃ。実際に夜の八幡宮を見て、舞殿や桟敷席の位置取りを決めたいと申されてのう、景広殿と相談して、今晩決めてしまうそうじゃ」
「そうですか」
 十日後に行われる奉納神事は夜間に開催されることになっていた。伊達家の重臣としては、主君の警護等、いろいろ考慮するべきことがあるのだろうと少年は考えた。

 その夜、風呂から上がった小十郎は、社務所の南端にある自室へ引き上げるため、長い廊下を歩いていた。
 神域である境内と、私的な宮司一家の生活の場を切り離すため、廊下は、境内に面した側の壁が白壁で覆われていた。上部には明かり取り用の格子窓が設けられ、規則正しく並べられた短冊のような月影が、床板へ落ちている。
 足元を照らす月の光に、今宵の月を再び拝みたい衝動に駆られた小十郎は、格子窓の隙間から外を覗いた。
 拝殿の前では、景広と遠藤が随分と熱心に話し込んでいるようで、彼らは時々身振り手振りを交えては、舞殿や桟敷の設計図なのだろうか、地に何やら図形らしきものを描いている。
 十日後の神事に奉納される舞楽の題名に冠されている蘭陵王は、北斉の人といわれ、才知武勇を兼ね備えた武将であったが、殊に容貌が美しく、見惚れた兵の武器を取る手を鈍らせる程であったという。
 王城が敵軍の手に落ちた時、王は一計を案じ、恐ろしい面で美しい顔を隠すと、陥落した王城へ兵を率いて進軍させた。素顔を隠した王の姿に、いつもは鈍っていた兵達の武器を取る手は奮い立ち、その勢いを見た敵軍は、戦わずにして城を王へ明け渡す。
 舞楽蘭陵王は、その時の王の入城の様子を音と舞に表したものである。
 小十郎は廊下を進んで自室へ入ると、鎮守の杜で耳にした音を体現すべく、龍笛の練習をはじめた。
 舞楽蘭陵王は、龍笛の独奏――小乱声から始まる。



「行かぬか?」
「行かぬ」
 父の言葉にそう答えると、幼子はゆっくりと首を振った。
 日が落ち、夜を迎えた米沢城。
 その奥向きにある一室で、父と子は向かい合っていた。
 日中は、自室に閉じこもって出てこない梵天丸であったが、政務を終えた父が奥向きに戻ってくる夕べには、部屋から出てきて、父の居室へとやって来る。
 母親である義姫は、梵天丸の弟と妹達を連れて、新しく出来た東の対屋へと居を移しており、梵天丸とは生活を別にしていた。
 幼い梵天丸が甘えられるのは、同じ館に住む父輝宗だけであり、そんな甘えたい相手である父の誘いではあったが、これから八幡宮で行われる神事には、「行かぬ」と断る梵天丸であった。
 元来、このような芸事は大好きで、以前は「連れていってくだされ」と、ねだっていたにも関わらず、である。
「そうか」
 我が子の返答を聞いて頷くと、父は子を肩へと担ぎ上げた。
 意に反し連れて行かれると悟った幼子は、
「行かぬ、行かぬ」
 と手足を振って抵抗を示したが、父親が歩みを止めることはなく。
 奥向きから表へ、周囲に人の目が多くなったのを肌で感じ取った幼子は、父の背に顔を伏せたまま、死んだように動かなくなった。
 梵天丸は右目を病んでいた。
 その様を、人に見られたくないのだ。

 米沢城の正殿前では、輝宗の腹心の部下達が轡を並べて待っていた。
「お義は?」
 妻子用に用意しておいた駕籠が見当たらず、その代わりといった感じで、この場に畏まっていた妻女付きの侍女へ、輝宗は声を掛ける。
「夜の社が、お子様達に触ってはいけないと……」
「我が子の病平癒の御礼でもあるというのに、仕様のないヤツだ」
 申し訳なさそうに義姫の意向を伝えた侍女をそれ以上追求せずに、用意された馬の鞍へ抱えてきた我が子を乗せると、輝宗は馬上の人となった。
 鞍に乗せられた梵天丸は、続いて乗り込んできた父の羽織の内へ急いで身を隠す。
 輝宗は馬首を巡らし、八幡宮へ向かった。
 八幡宮は、長井へ向かう街道の途中にあり、馬を一刻ほど走らせれば到着できた。
 一の鳥居の前で馬から降り、手前を流れる鬼面川の河畔で禊を済ますと、輝宗一行は八幡宮の参道へと入った。
 八幡宮は小高い丘の上に鎮座しており、夜ともなれば闇よりも黒く聳え立った。
 今宵は境内に、御祭礼の提灯が灯され、石灯篭に明かりが灯され、参道脇には夜店も立ち並んでいた。
「梵、夜店も出ておるぞ」
 秋祭りのような賑わいを見せている参道を、羽織の内へ隠れる我が子へ伝えてやれば、むりやり連れてこられた事に臍を曲げているのか、梵天丸は顔を出そうともしない。
 今晩、奉納される舞楽は、寄進者である輝宗はもとより、付近一帯の領民にも観覧が開放されていて、舞はもちろんのこと、年若い伊達家の当主を拝もうと、多くの領民が八幡宮へ集まってきていた。その人の目の多さを、梵天丸はおそれていたのだ。

「殿がお通りになる。道を空けてくれ!」
 伊達家家臣の呼び掛けに、参道の人の出は左右へと割れる。
 境内に鳴り響いていた楽の音もやみ、空けられた道を通って、礼服に身を包んだ男達が通り過ぎていく。
 先頭には我が子を抱く輝宗、次いで、若き当主の腹心である鬼庭良直と遠藤基信。
「殿様だ!」
「若君も一緒だぞ!!」
 目敏い者が、羽織の内に隠れている梵天丸を見つけて、周囲の者へと知らせる。
 その声に身を固くした梵天丸は、父の胸にぴたりと顔を貼り付けると、病んだ姿が人の目に触れぬよう、ひたすら身を隠し続けた。
 参道を進んだ奥にある拝殿の前には、この日のために杉材で組まれた舞殿が設けられ、八方に篝火、四隅に五色の幡が掲げられ、向かって舞殿の左側に楽人達の桟敷席、右側に奉納者である伊達家当主一家の桟敷席が設けられ、正面の参道を空けた左右の場が、領民達の観覧席となっていた。
 輝宗一行は舞殿の前で歩を止ると、拝殿に向かって一礼し、それから右側に設けられた桟敷席へと上がっていった。
 主賓が席に着いた所で、楽人達が音取を再開する。
 領民達の視線も興味も他所へと移り、父に抱かれて桟敷席にあがった梵天丸も、聞こえてきた楽の音に心惹かれて、羽織の内から顔を半分ほど覗かせた。
「若君、こちらへいらっしゃい。お菓子を差し上げましょう」
 座で、歳が一番近い綱元に見つかって、梵天丸は、すぐさま元いた場所へと身を隠す。
「菓子には釣られぬそうだ」
「若君を物で釣るとは、お前という奴は!!」
「お恥ずかしい年頃なんですよ」
 老親の小言をさらりとかわし、左手に菓子を載せた高杯、右手に酒の入った徳利を持って席を立った綱元は、輝宗の前へ進み出ると、主には杯に酒を、羽織の内に隠れてしまった若君には菓子の載った高杯を差し出して、一礼して席へと戻る。
「梵、綱元が菓子をくれたぞ」
「いらぬ」
 結構とばかりに、羽織の内で幼子は首を振る。
 菓子は、梵天丸が目にすれば喜びそうな福良雀を模った落雁で、伊達家の家紋にちなんだものなのだろう。綱元は、輝宗のお目付役ともいうべき、老臣鬼庭良直の遅くにできた男子で、よく気が回り機転の利く青年だった。
 その綱元には、病前、梵天丸もよく遊んでもらっていたというのに、今は寄り付きもしないありさまで、輝宗は詫びの代わりに、綱元の注いだ酒を飲み干すのだった。
「そういえば、喜多とは会えたのか?」
 良直のもうひとりの子供である喜多のことを思い出した輝宗は、右隣に座している老臣へと目を向ける。
 輝宗の左隣に座していた今宵の饗応役である片倉景親は、左月の様子を伺おうと視線を飛ばした。
 景親は、今晩神事が行われる八幡宮の宮司を務める片倉家の、片倉本家の現当主であり、前宮司であった景重の実兄にあたった。今宵は年若い甥子達に代わり、主君である輝宗の接待役を勤めようと、所領である長井の地から出張してきている。
「前日の打ち合わせの折に父子で会いに行きましたが、姉上には、顔を見ただけで逃げられましてございます」
「おまえは、口を閉じておれ!」
 答えづらそうにしている父親に代わって横から綱元が口を出せば、その顔を隠すように、良直は持っていた鉄扇を広げた。
 そんな親子の仕草が笑いを誘い、輝宗が声を上げて笑うと、唱和するように一同の男達も笑った。
 父の羽織の内に隠れていた梵天丸は、何をみなして笑っているのだろうと不思議に思った。
 片倉家と鬼庭家の間には、少し厄介な事情が存在しており、幼子の梵天丸がその事情を理解するには、今しばらくの時間を要する。
 男達の笑い声が止んだ時、対岸で奏でられていた楽の音も止み、場を静寂が包んだ。
 水を打ったように静まり返った空間に、何かを呼ぶような、龍笛の音が響きはじめる。
 小乱声である。
 笛の音に導かれるようにして、幼子は羽織の内から見える方の目だけを出した。
 さきほどのように、誰かに見つかることがなきよう、見つけられたとしても、すぐに退散できるよう。
 幼子は細心の注意を払いながら、見える左目で場を注視した。
 すると、拝殿の奥から、橙色の装束に身を包んだ陵王が現れる。
 王は、拝殿の階を降り、舞殿の階を昇ってくると、場の中央へと立った。
 集った一同へあますことなく、 王は、異形なるその面を見せる。
 面は、獅子のようであり、狒狒のようでもあり、龍のようでもあった。
 顎がゆらゆらと揺れている所がまた、その面の異様さを際立たせている。
 撥を持った手を高く掲げ、王は天を指した。
 出の遅い月は未だ昇らず、月の無い夜のことであった。
 振り払うように、王は天を指した腕を振り落とすと、静かに舞い始めた。
 背後に漆黒の闇、八方に燃え盛る篝火、四方に掲げられた五色の幡は風にたなびいて、今宵最期と、紅葉が散った。
 陵王が身を翻す度、面と装束に散りばめられた金が光を跳ね返して、見る者の眼を射るように煌く。
 病んだ右目のことなど忘れて、梵天丸が王の舞いに魅せられていると、王は舞殿中央から足早に、桟敷席へと近付いてきた。
 驚いた幼子は、助けを求めるように父の着物を握る。
「梵、そう驚いては陵王の思う壺だぞ」
 父は笑う。
「王は美しい素顔を隠して、あのような恐ろしい面を付けている――何故か? 皆を畏れさせるためだ」
 父は言う。
「異形な面でありながら、神々しく感じられるその姿――それは王の振る舞いの成せる業なのだ」
 父は語る。
 ゆったりとしているかと思えば、急き立てるように振り落とし、爪の先まで伸ばされる手足――化け物とは、心身共に化してしまったものであり、姿形が奇怪なものであろうと、その振る舞いが心あるものならば、それは、神と通じた者として人の目に映る――病んだ姿の梵天丸とて、陵王のように心ある振る舞いをすれば、神に通じた者に見えるはず――
 父の言わんとしたいことは何となくわかった梵天丸だったが、王のような振る舞いはまだ出来ぬ、と思った。なにしろ作り物の面に驚いて、父の着物の端を掴んでしまうくらいの程度である。今はまだ徳を積むため修行中の身の上。何の徳も積んでいないのに、醜い面は晒したくない。何故、わかってくれぬのか?
「殿、龍笛の奏者、景親殿の甥子でございます」
 酒を注ぎに来た遠藤が、輝宗へひとりの少年を紹介する。
 左隣に座していた景親は、甥子の覚えがよくなるようにと輝宗へ頭を下げた。
「景親の甥子というと……」
 そう言って、輝宗は右隣の老臣へと目を向ける。
「脇腹筋の私が男子に生まれたばっかりに、母君と共に家を出られた、異母姉の、異父弟にございます――姉が私共を嫌うて、会わぬ訳です」
「おのれは、黙っておれ、と言ったであろうがっ!!」
 閉じない息子の口を叩き塞ごうと、父親は鉄扇を一閃させるが、振り払った鉄扇は息子の手の平によって受け止められ、鼓のごとき良き音を立てる。息子はにやにやと薄ら笑い、父親は渋面を浮かべ、仲の良い親子の様子に年若い当主は口元を緩めた。
 娘との関係は依然修復が必要なようだが、息子との関係はすこぶる良好のようであった。
 輝宗は視線を移すと、舞殿を挟んだ向こう側にある楽人達の桟敷へ目をやった。
 壮年の楽人達に混じって、ひとり年若い奏者がいる。
 梵天丸よりは歳上のようだが、綱元よりは下、十は超えているだろうが二十は超えていない、そんな年頃の少年だった。
「なかなか良い笛の音だ」
 龍笛の音に耳を澄まし、若き当主は小十郎を評価する。
「そうだな」
 想わぬ所から同意の声が上がり、輝宗が胸元へ視線を落とすと、殻に閉じこもる貝が口だけ出して呼吸するように、表へ出した左目だけで、梵天丸は龍笛の奏者を見つめていた。
「父上、お面の下の蘭陵王も、あのような顔をしておりますか?」
 父の視線に気付いた幼子が尋ねれば、満足とばかりに父は我が子の頭を撫でる。
 梵天丸は知らないで口にしたのだろうが、蘭陵王の舞手と龍笛の奏者は父を同じくする兄弟――その面差しには通じるものがある。
 我が子が関心を示した少年の容姿を確認してみれば、なるほど、龍笛の奏者は、涼しげな目元に掛かる切り揃えた前髪も麗しい、美少年であった。だが、輝宗にしてみれば、己が答えを待ち、ただひとつ目を開いて見上げてくる、我が子の顔が何にもまして美しく思えてくるのだった。



 奉納神事のあった翌朝、小十郎がいつもの時間に起きて勝手口へ行くと、姉の喜多から、伯父の片倉景親が社務所に泊まっていることを知らされた。
 景親は、長井の地に所領を持つ輝宗配下の武将のひとりで、昨日は夜の神事の上、神事の後に酒が振舞われる直会の席もあったので、酔い覚ましに、八幡宮へ泊まっていたのだろうと少年は思った。
 まだ、元服していない小十郎は直会には参加せず、宴の膳だけ頂いて、先に自室へ入って休んでいた。
 
 その日の朝餉は、神職の朝は早すぎるということもあり、景親は同席せず、景広と小十郎が向かいあって膳を囲む、いつも通りの朝となった。
 喜多が給仕は務め、姉は兄弟の間に陣取る。
「昨晩の神事に、伊達家の若君も見えられていましたが、小十郎は気付きましたか?」
 互いの舞と楽の感想を言い終えたあと、小十郎は兄の景広にそんなことを問われた。
「いえ。輝宗公と重臣の方々が見えられていたのは存じておりましたが、若君には気付きませんでした。曲を奏するのに精一杯で……」
 小十郎がありのままを答えると、何処か的を射ない兄の言葉が返ってくる。
「……おそれて、お父上の羽織の内に隠れておいででした」
「たしか、今年五歳になられる御子のはず。武家の棟梁の子なれど、幼子には仕方のないことかと。蘭陵王の面は怖ろしげなれば」
 取り成すように小十郎が言葉を添えれば、景広は少し間を置いて視線を外した後、
「そうですね」
 と言葉を返してきた。
 兄のその返し方に小十郎は、自分の言った事が兄の欲するものと違っていたのだと感じた。
 生まれながらにして神職である景広は、時々このような謎掛けめいた物言いをする。それは景広には見えていて他の者には見えぬものを、それとなく教えている時にする景広の癖であった。
 喜多も景広の言葉には何か含みのあることに気付いたようで、彼女は率直に問い質す。
「何か? 景広殿」
「いえ。それより姉上、お父上様にはお会いになられましたか?」
 景広の問いに、今度は喜多が間を置いた。
「――景広殿は可笑しなことを申される。我らが父上は今夏、亡くなられたばかりではないか」
「そうですね。片倉の父は亡くなりました」
 景広の返しに姉と兄の間に更なる間が空く。
 間を取り持つように、小十郎が口を挟んだ。
「昨晩は、鬼庭様も見えられていたようですが……」
「誰が小十郎に教えたのじゃ!!」
 その名を口にした途端、喜多の言葉が飛んでくる。
「誰といった個人ではなく、楽人の皆さん方が……姉上にお声を掛けてくだすったそうではないですか、無視して行ってしまうのは如何なものかと……」
「女子が知らぬ男から声を掛けられたら、逃げるのが常道、だと思うが――?」
「お父上様の顔も忘れられたのですか?」
 そう喉まで出掛かった言葉を飲み込んで、小十郎は口を噤む。
 喜多が鬼庭家を出たのは十も過ぎた頃。親の顔を忘れてしまう歳ではない。
「姉上、親孝行は生きている内にしか出来ません。両の親を亡くしてしまった私と小十郎には叶わぬことですが、姉上にはまだ、実のお父上が生きておられるのですから……」
「喜多の父は、片倉の父だけじゃ!」
 言い放つと、喜多はぷいと横を向く。
 ふたりの弟達は顔を見合わせた。
 喜多は頑固で気が強い。だからこそ母亡き後、ふたりの幼い弟達を育て上げられたとも言えるが――
 喜多と小十郎の母は、伊達家重臣鬼庭良直の正室であったが、嫡男を生めなかった由で離縁され、景広の父に再嫁した。母の手を必要とする赤子のため、父は母と再婚したのであったが、小十郎を生んだ直後にその母も亡くなり、年頃の娘だった喜多は嫁へも行かず、片倉家に残って、ふたりの幼い弟達の面倒を見た。姉というより母に近い存在であったから、ふたりの弟達は、この姉に頭が上がらない。
「姉上のご機嫌を損ねたままも嫌なので、最後に良いことを。昨夜の奉納神事で、小十郎の笛の音を大層お気に召されたようで、輝宗公が、小十郎を小姓にお取り立てくださるとのことです」
 景広の言葉に、横を向いていた喜多も顔を戻す。
「誠か!? 景広殿」
「はい。今日、伯父上が、小十郎をお城へ連れて行ってくださるとのことです――よかったですね、小十郎」
 小姓とは、武官見習いの少年のことであり、伊達家当主である輝宗の小姓ともなれば、功績次第では正規の武官への道も拓ける。
「はい、ありがとうございます」
 手にしていた箸と椀を膳の上に置くと、小十郎は兄と姉へ頭を下げた。

二章 姉の異母弟

 その日、伯父の景親に連れられて米沢城へ上がった小十郎は、城の南の敷地にある正殿で、伊達家十六代目当主、伊達輝宗に目通りをした。
 輝宗から神事の笛を褒められた後、小姓の役を賜り、小十郎が謹んで受けると場に指導役の者が呼ばれた。
「入れ」
「はっ」
 輝宗の呼びかけに上座の板戸の向こうから若い男の声がして、正殿の縁を回ってくる足音が聞えてきたと思うと、程なくして正面に長身の青年が姿を現す。
 青年の鼻筋の通った顔立ちが、何処か姉の喜多に似ているように想われて、小十郎はしばし青年に見入った。
 青年が小十郎の前に座している伯父の向かいの席へ腰を下ろすと、主の輝宗から紹介がある。
「城の小姓達の面倒を見てもらっている鬼庭綱元だ。わからぬことがあれば、彼に聞くといい」
 その名を聞いて、小十郎は納得した。
 姉の異母弟だと思った。
 たしか、今年二十二になる青年で、年の頃からして間違いないだろう。
 姉と父を同じくする姉弟――似ていて当然であった。

 輝宗への目通りが済むと、景親は綱元に小十郎のことを頼み、所領のある長井の地へ帰っていく。
 残された小十郎は綱元の下、城内のことを教わることとなる。
 まずは、輝宗と対面した板敷きの間を、正殿と呼ぶことから教わった。
 正殿は一族郎党を集めて評定を行う場所で、今日は、正面の板戸だけ取り外して左右の板戸は立てていたが、家臣の家来である陪臣が評定に参加する時は、全ての板戸を取り払って陪臣を縁へ侍らせ、評定を執り行なう。そんな板戸の取り外しに始まる議場の設営も、小姓の仕事の一つなのだという。
「――で。正殿から奥に見える建物が奥向き。殿とご家族が住んでおられる場所だ。真後ろの建物が殿の居館で、あっちの板塀に囲まれた真新しい建物が東の対屋。奥方とお子様方がおられる。東の対屋は立ち入り禁止。用もなく近づけば死ぬから、そう思え」
「はい」
 小十郎は、くだけた口調の綱元の言葉を、至極真面目な顔をして聞いている。
 対屋が新しく建てられた訳など聞かない。
 彼は、教えられた情報だけ受け取って頭に入れる、そんな聞き分けのいい『いい子』なのだろうか――?
 自分から話を振っていくのも何だかなと思い、
「じゃ、次、おまえの部屋」
 綱元が踵を返して前に進もうとした時、ようやく小十郎が反応を返してきた。
「私の部屋?」
 十代半ばの少年は、不思議そうな顔してつぶやく。
 小姓の仕事については城へ上がる道すがら、伯父の景親から聞いて大体は把握していた。
 城の雑事と、主の警護。
 基本、自宅からの通いの勤めとなり、究極の身辺警護である主の寝所警護は、宿直ではあったが、今日入ったばかりの新人に任せられたりする訳もなく、万が一そうであったとしても、警護は主の枕辺で行うものだから、城内に部屋を与えられるはずもなかった。
「あれ、お前知んねぇ? 小姓の夜のお仕事」
 指導役の青年がいやらしい顔して伝えてきたので、小十郎は驚愕の表情を見せる。
 青年は噴き出した。
「冗談! 十六代目に衆道の気は無いから安心しろ。それどころか側室も置かれない。真摯な方だ――うちとは大違いだね」
「鬼庭様」
 最後の言葉は何処か自嘲気味につぶやいた綱元に、少年が声をかける。
「からかっただけだ、怒るな」
「いえ、そうではなく」
「何?」
 改まった顔をして告げてくる少年に、青年も進めようとした足を止めた。
「鬼庭様は……」
「綱元でいい」
「綱元様」
「様付は、一門の方だけにしといた方が無難だなぁー」
「綱元殿」
「ハイっ!」
「あ…」
 何度も言い直した上、相手から明るく返されて、小十郎は言い出しにくくなる。
 聞きたいことは話柄、軽く口に出してよいものではなかったが、姉の大事に関わることなので、意を決して口を開く。
「綱元殿は、我が姉喜多の、異母弟に当たる方なのですよね?」
「えー? おまえ、オレのコトも知らねーの!?」
「……すみません」
「オレなんて、事あるたんびに、おまえの名前聞かされて育ったぜ? 『小十郎殿が先に生まれていれば……小十郎殿さえ先に生まれてきてくだされば……泥棒猫呼ばわりされるコトなんてなかったのにーっ!!』て」
「え?」
 綱元が発した言葉に、小十郎が眉を寄せた。
「泥棒猫? そのようなこと誰が申したのです? 母が申したのですか!?」
「母上は、言わねえだろ」
「――姉ですか……」
「姉ちゃん、気が強いもんなぁ……心の内で罵ったことはあれど、さすがに、口に出したりはしねえんじゃねえ? 可愛がっていたお嬢様にそんなこと言われた日にゃあ、うちのお袋は、世を儚んで死んじまうよ」
 綱元の語りに、少年は茫然自失の態である。
 綱元の名を知らない所からして、彼は何も知らされていないのかもしれない――そう判断した青年は、話を切り上げることにした。
「泥棒猫呼ばわりしてんのは、うちの親父の出世を妬んでいる連中だよ。で、そいつらの言ったこと真に受けて、うちのお袋がオレに愚痴ると。親父は今や殿の片腕だからね。叩ける所は叩いておきたいんでしょう――で、親父の唯一の失敗で、成功作であるオレに、何の用よ?」
 綱元の問い掛けに、少年は再び口にすることを迷う。
 けれども、一瞬押し黙った後、再び口を開いた。
「鬼庭様が、姉に会いに来られたと聞きました。姉は会わなかったようですが、どのような用件であったのかと気になりまして……」
「あ、それね――」
 言葉を伸ばして、青年は考える時間を作る。
 目の前の何も知らないであろう少年に、話すべきか否か。
「子育ても終わったみたいだし、そろそろ鬼庭家に戻ってこない?――って、言いに行った時のことね」
「鬼庭家に姉を? 今さら!?」
「今さら? じゃ、ねえよ」
 相手の言葉にカチンと来て、綱元が言い返す。
「おまえら片倉兄弟の、子育てが終わるの、待ってたんだろ? 親父としちゃあ、母上が死んだ時に、すぐにでも引き取りたかったんだけど。お姉さん、頑固だから! 幼い弟達がひとり立ちするまで何処にも行かぬ!――って、居座って動かなかったんだよ……でもさ、姉貴が言い出したこととはいえ、お前の親父、ひどくない? 嫁にも出さず、ずーっとガキの面倒見させてさ……普通、させないぜ? 実の娘ならともかく、他人の家の娘だぞ!? 自分の娘が下女代わりに使われてんの、黙って見ている親はいねえよ……」
 綱元の言い分に、小十郎は言葉が出てこない。
 聞いていた話と大分違う。
 小十郎は、母と姉は鬼庭家から追いやられたとように聞いていたのだが、今聞く綱元の話からは、どうもそうではない印象を受ける。
 言いたいこと聞きたいこと、いろいろあったが、どれから言い出せばよいのか分からず、そのくらい、小十郎が知っている話とは違っていたし、言い返す言葉の並びを間違えても、想いは正しく伝わらない気がした。
 ただ、鬼庭家の人達も、姉のことを想ってくれていることだけはわかった。
「――ま、おまえに当たっても仕方ないんだけど。おまえ何にも知らねえみたいだし……家に帰ったらお姉さんに伝えといてよ。鬼庭の父が心配してましたって。オレ達が行っても、会ってもくれないからさ」
「はい」
「じゃ、気を取り直して、今日お泊りする部屋でも行ってみますか」
 身を翻すと、綱元は先へ進んでいく。
 その後を、小十郎は黙って付いていった。

 城の西の敷地には、並列する形で棟が二つ建っていた。
 そのふたつの棟を繋ぐ長い廊下を渡って、小十郎は南側の棟の一室に案内される。
 其処は、弓射場を挟んで建つ宿直棟であった。
 城内に泊まりの勤めをする者に一室が与えられる棟で、北側の棟が格上となり、重臣や客人の部屋として使われた。南側の棟は、陪臣や判官以下の泊まる部屋として使われる。
 城内で行事等が行われる時は、棟の各部屋を仕切っている板戸を取り外し、大広間としても使われた。その板戸の取り外しに始まる会場の設営も小姓達の仕事のである。
 小十郎に宛がわれた部屋は、陪臣や判官以下の泊まり部屋として使われる、南の宿直棟の角部屋で、床には既に夜具が敷かれていた。
 少年は先程、青年にからかわれたことを思い出し、敷かれた夜具から目を逸らした。
 そういえば、何故泊まりの勤めになるのか、その理由を確かめていないことに気付く。
「おまえ、笛持ってきた?」
「あ、はい」
 青年に声を掛けられて考え事から我に返った少年は、帯に差し込んできた龍笛の包みを取り出す。
「ああ、袋からは出さなくていい」
 そのまま仕舞っておけと止められて、小十郎は袋から出しかけた龍笛を戻す。
 小姓取立ての話は、輝宗が小十郎の笛の音を気に入ってと聞いていた。なので、いつでも笛が吹けるようにと用意してきてあった。
「殿から夕べに笛を所望された時は、この部屋に泊まって、翌朝、家へ帰るように」
「……泊まりですか」
 目を逸らした夜具へと少年は視線を向ける。
 城下の西の外れにある八幡宮は、城から少しばかり離れてはいるが、歩いて帰れぬ距離ではない。
「だーから、冗談だって言ったろ! 疑り深いな、おまえ……だいたい考えてもみろよ? 殿にそっちの気があったなら、おまえに行く前に、オレへ来てしかるべきだろ?」
 そう言って青年は、自らの面を指す。
「――何か、反論でも?」
「いえ」
 こみ上げてくる感情を押し殺し、少年は青年の顔から視線を外した。
「このご時世、元服してもないガキんちょ、夜道をひとり帰らせる方が危ないでしょ? 殿以外が変なコトしてきたら、返り討ちにしちまっていいよ――あ、でも、変なのは出るか」
「変なの?」
 青年の言葉を聞き留めて、少年は聞き返す。
 すると青年は、周囲を憚るように少年へ顔を近づけてきたかと思うと、耳元で囁く。
「この城さ、鬼が出るんよ」
「――は?」
「日中は大人しくしてるけど、日が沈むと出てくる。悪さはするかもしんねえけど、変なコトはしてこねえから、出てきても、返り討ちにはすんなよ?」
 そんな妙な事に念を押してくる。
 小十郎は青年の顔を見る。
 真面目な顔はしていたが、また、からかっているだけなのかもしれない。
 そう少年は判断すると、「わかりました」と返事をして、本気に取らなかった。
 もし本当に、鬼の類が出て困っているというのなら、小十郎ではなく兄の景広を召し出して、御祓いでもさせるというのが筋というものだろう。
「さっそく今晩、殿が笛をご所望だ」
 綱元は、今夜の予定を小十郎へ告げる。
 次にふたりは、小十郎が笛を吹くことになる部屋へ向かうため、来た道を引き返しはじめた。
 ふたつの宿直棟を繋ぐ長い廊下を渡って、北側の宿直棟の脇を過ぎ、少し行った所で青年は足を止めた。
 後ろから付いてきた小十郎も足を止める。
「ここから先が奥向きになる。小姓は日中通り抜け可能だが、夜間は許可が必要だ。日没後、奥向きに入る時は、そこの部屋にいる爺様か婆様に一声かけてから入るように」
 そう言って案内役の青年は、曲がり廊下の手前にある小部屋へと入っていった。
 小十郎も後に続く。
「あれ、塩婆は?」
 入り口近くの座敷に火鉢を囲んで座っていた、翁のような顔した老人へ青年は声を掛ける。
「水汲みに行ったが、井戸端の評定にご参加だねえ」
「またかよ!」
 そう言うや、綱元はずかずかと座敷へ上がり込んでいくと、畳座敷の奥にある一段低い板間まで下りていって、開け放たれた勝手口から外の様子を伺った。
「あー、捕まってる捕まってる……ありゃあ、当分戻ってこねえな……」
 綱元が独りごちる。
「この子はどうしたね」
 戸口でどうしたものか、立ち尽くしている小十郎を見て、老人が綱元へ訊ねる。
 すると、思い出したように綱元が戻ってきて、中へ入るよう、戸口に立っている小十郎へ手招きした。
 青年と少年は、並んで老人の傍らへと腰を下ろした。
 その部屋はまるで独立した小屋のように、畳座敷に板間、土間にお勝手まで付いていて、炊事も可能なようであった。
「今日から殿の小姓となった片倉小十郎。ほら、昨晩話した……」
「ああ、笛の子ね」
「片倉小十郎です」
 紹介されて、小十郎は老人へ頭を下げる。
「わしは塩爺。塩婆と一緒に奥向きの番をしとる。婆様には会った時に挨拶するといいよ」
「姉君の塩婆が十六代目の乳母をしておられ、殿がおふたりを塩爺、塩婆とお呼びなさるので、それがご両人の通し名となっている」
 塩爺の自己紹介を補足するように、綱元が小十郎へ説明する。
「わかりました。塩爺殿と呼ばせていただきます」
「こちらは小十郎と呼ぶね」
「はい。よろしくお願いします、塩爺殿」
「こちらこそね、小十郎」
 少年と老人が互いの呼び名を確認し合っている間、青年は竹籠に盛られた湯飲みの山から二つばかり取り出すと、火鉢に掛けられていた鉄瓶へ手を伸ばして湯を注いだ。
「あの後、出てきた?」
 少年と自分の前に湯を煎れた碗を置きながら、綱元が塩爺へ訊ねる。
「いんや。ここ二、三日大人しかったから、今夜当たり出てくると思うね」
「餌も来たしなぁ……」
 自分で煎れた碗に口をつけながら、綱元は隣に座っている少年を見た。
「もしかして、鬼の話ですか?」
 碗へと付けていた口元を拭って、少年が青年に訊ねる。
「そ。人を食った困ったヤツでね。オレは末恐ろしいよ――な、塩爺?」
「はははは」
 青年の同意を求める声に、塩爺は笑って返す。
 その高らかな笑い声に、ふたりして自分をからかっているのだろうかと、少年は疑いの念を強くした。
 だが、そんな笑い話のために、少年が城へ呼ばれるのも可笑しな話なので、判然としない思いを抱えたまま、少年は先に進むことになった。
 番小屋を出ると、ふたりは曲がり廊下を進んで、奥向きへと入った。
 廊下沿いに角を曲がれば、目に入ってくるのは張り巡らされた板塀で、それらは、正殿から奥向きを見た時に教えてもらった、奥方とお子様達が住むという、東の対屋を取り囲む壁であった。
 その板壁と、東の敷地に建つ厨の間に井戸があり、女達が井戸端で話に花を咲かせているのが見えた。輝宗の乳母であったという塩婆という人も、そこで話をしている女人の何れかなのだろうと、小十郎は想った。
 廊下を進んで輝宗の居館へ入ると、何処からか子供の声が聞えてきた。
 正面にある板壁の向こうの東の対屋から聞えてくるのかと思ったら、どうもそうではないようで、声はもっと近く、輝宗の居館の奥から聞こえてくるようであった。

「龍師のタツノツカサ 火帝のヒノミカド 鳥官のトリノツカサ、人皇のヒトノオホキミナリ……」

 声は何かの漢文を読み上げていた。
 殿の居室に詰めているという小姓の声かとも思ったが、どうにも声が幼すぎる気がして、声をよく聞こうと小十郎は足を止めた。
 歩みを止めた小十郎に、先行く綱元も足を止めて振り返る。
「子供の声が……」
 足を止めた理由を告げ、音の出所を教えるように、少年は声が聞こえてくる左手奥の縁側へ目を向ける。
 そこは道が二手に別れる場所で、綱元は道を折れずに前進していた。
 子供の声は途切れることなく漢詩を読み上げている。
 幼き声が紡いでいる言葉に小十郎は聞き覚えがあり、何だったろうかと考えて、『千字文』だと思い至る。
 千字文は漢書の手習いとされる書で、幼き小十郎も姉の喜多から手解きを受けていた。
 小十郎の空耳でないとするなら、千字文を読み上げ続けるこの声が、綱元の耳にも届いているはずなのだが――
「気になる?」
 綱元は、小十郎へ問い掛けてきた。
「それは……気になります」
 いないとされる子供の声が聞こえるのだから正体は気になった――と同時に、頭の端で、先程から綱元が口にしている『鬼』の話がちらついて、触れない方が良いのかもしれないという危惧が小十郎の胸をかすめた。
 綱元は小十郎の返答を待たずに、来た道を取り返すと、分かれ道を折れて、左手の縁側へと入っていく。
 小十郎は綱元の後を追い、声のする方へと進んでいった。
 足を止めた場所からは木立に隠れていてわからなかったが、奥の部屋の前庭には、まるで目隠しをするように、網代戸が隙間無く並べ立てられてあった。その様は、東の対屋を囲む板壁を連想させる。
「誰だ!」
 誰何の声が飛んでくる。
 声は、漢詩を読み上げていた幼子の声であり、幼き声の主は、綱元と小十郎が部屋の前へ立つより先に、身元を質してきた。
「綱元にございます」
 先行く綱元が足を止め、その場に腰を落として頭を垂れたので、小十郎も倣って腰を落とした。
「呼んでない。下がれ!」
 幼い声は、有無を言わせぬ強い口調で、こちらへ命じてきた。朗々と千字文を読み上げていた時の声とは違い、何処か怒気を含むような声音である。だが、臆することなく、綱元は話を進める。
「お父上君に新しく仕える小姓をお連れしました。先日の奉納神事の、龍笛の奏者でございます」
「――蘭陵王の弟か?」
 幼き声は、小十郎のことをそう呼んだ。呼び声からは、弱冠、怒気が薄れた気がした。
「御意。お会いになられますか?」
 綱元の伺いの言葉に、しばしの沈黙が訪れる。
 幼子は、迷っているようだった。
「会わぬ。連れてけ」
「は」
 主命に従うと、綱元は小十郎を連れて御前から下がった。



「――梵天丸さま?」
 振り出しの分岐点へ戻ると、小十郎は、幼き声の主を言い当てた。
「へぇー、若君の名前は知ってんだぁ? 姉ちゃんのもうひとりの弟の名は、知らなかったくせにさぁ」
 揶揄するように綱元がからかうと、負けじと小十郎も言い返してきた。
「昨晩、梵天丸様の、病平癒御礼の舞楽をお納め頂いたばかりなれば! それより先程、お子様たちは奥方様と、東の対屋におられるとお聞きしましたが――?」
「ご長子の梵天丸様だけは、殿の居館に居られる。一つ違いの竺丸様と、先月お生まれになられた姫君は、母君と共に東の対屋だ」
(嫡子だからか……)
 綱元の説明に、胸を苦しめている考えが頭を擡げてくるのを感じて、小十郎は目を逸らした。
 幼き頃より、家督を継ぐ長子と継がぬ次子以降とでは扱いに差があった。もっとも、嫡子を順番に寄って決めるのは、正室腹の兄弟に限った話であったが――
「綱元殿! 梵天丸様の所に行かれたのですか!? お止めくださいまし! 梵天丸様から文句を言われるのは、この私なのですよ!!」
 井戸端の方から若い女がすごい剣幕で、綱元に駆け寄ってきた。
 濃い紅色の小袖を着た、まだ若い女人である。
「だったら、井戸端で無駄話なんかしてないで、そなたが若君の側に付き、近づく者を追い払って差し上げれば良いだろう」
 奥向きを預かる綱元が注意をすれば、
「梵天丸様が『席を外せ』とご命じになられたのです!」
 女は主の所為にした。
「なら同席せず、次の間にでも控えてればいいだろう」
 綱元の言葉に痛い所を突かれたのか、女は押し黙ると、恨めしそうにこちらを睨みつけてくる。
「ご両人、もうすぐ昼餉の時間でございますよ」
 その時、水を満たした桶を持った老女が、井戸端から歩いてきた。
 剣呑な雰囲気を醸し出していた若い女は、老女の言葉に踵を返すと、元居た井戸端の方へと去っていった。
「あのおしゃべり女より、塩婆が乳母やった方がいいんじゃね?」
 綱元が老女へ持ちかける。
「婆やにはとてもとても……せめて後三十は若うなければ、若君の乳母は勤まりませぬ」
「塩婆殿ですか?」
「おや、美男子」
 綱元との会話で老女の正体を知った小十郎が呼び止めれば、女は足を止めて顔を向けた。
 老女は輝宗の乳母を務めたとあって、品の良い老婦人である。
「本日から輝宗様の小姓として勤めることになりました、片倉小十郎です。よろしくお願いします」
「これはご丁寧に痛み入る。塩婆と申す。以後よろしゅう」
「塩婆も、面食いなの?」
 老女の発した言葉に、綱元が問いかける。
「女はみんな面食いぞ、偉丈夫」
「偉丈夫か……其処は嘘でも『美丈夫』と言っといて欲しいなぁ」
「ほほほほほ」
 綱元の切り返しに、老女は高らかな笑い声で返すと、別れの会釈をして、塩爺の待つ番部屋へと帰っていった。
「綱元殿、先程の若い女人は……」
「あれ? ああいうの好み? 紹介して欲しい?」
「そうではなく! 梵天丸さまの乳母御かと思ったもので……」
「そ。若君の乳母。と云っても、本来の乳母は疫に罹って死んじまってね……あの女は、弟の竺丸様の乳母。若君はおふたりとも乳離れなさったから、本当はお役目御免なんだけど、身の回りの世話をする女中がいないから、そのまま使ってる。けどねぇー、オレは塩婆にでもやらせた方がいいと思うんだけどねえ……ま、殿も何か考えあって、使えない女を使ってんでしょ――で、此処、笛吹く部屋」
 立っていた所の障子戸をカラリと開いて、綱元は、夕べに笛を吹く部屋を小十郎に見せる。
 其処は畳座敷で、正面の壁には床の間と違い棚が誂えられている。西側は、隣の間へと続く襖戸となっており、南と東側は、縁へと続く障子戸になっている。
「夕べの鐘が鳴ったら、厨で夕餉を取ってから、この部屋で待て。部屋で待っていれば、宿直の小姓達が殿へ知らせてくれる」
「はい」
 小十郎が了解の返事をすると、午前の終わりを告げる鐘が鳴った。
 正午であった。
 これから午後の始まりを告げる鐘が鳴るまでの半時が昼餉の時間となる。
「それじゃあ、厨へ行って、先輩小姓どもへ紹介がてら、昼飯でも食うとしようぜ」
 開けた障子戸を閉めて踵を返すと、ふたりは正殿の東側に建つ厨へと向かった。



 厨へ入ると、席を取って待っていた小姓達が手を上げ、ふたりに居場所を知らせた。
 綱元の仲介で互いに自己紹介をしあい、小十郎は小姓達の輪に入った。
 昼餉を食しながら談笑し、午後は綱元と別れて先輩小姓達と共に奥向きにある輝宗の居室へ入ると、実際に小姓の仕事を見ながら、小十郎は夕べまでの時を過ごすことになった。
 日が落ちて夕べの鐘が鳴り、小姓達も宿直の者達以外は城下にある各々の家へと帰る。
 笛のお勤めがある小十郎は、宿直の小姓達と共に厨に入って夕餉の膳を取り、食後は別れて、日中綱元に案内された部屋へ入った。
 室内は、昼間綱元に案内された時には置いていなかった灯明が、上座の左右に点されている。床の間には、張子の玄狐の面が飾られていた。たしか同じものが、昨夜の奉納神事の境内に出ていた夜店で売られていた。
 小十郎は下座に着くと、腰に付けた袋から龍笛を取り出して、端座した膝の前へと置いた。
 神事の時とは、また別の張り詰めた想いが小十郎を包む。
 少年は気持ちを落ち着かせようと、鎮守の杜で聞いた風の音を思い出そうとした。

『秋には淵へ潜み、春には天へ昇ると申します』

 不意に遠藤の言葉が浮かんできた。

『おそれて、お父上の上着の内へ隠れておいででした』

 続いて、兄景広の言葉も。
 未だ声しか耳にしていない若君ではあったが、今朝、兄から話を聞いて想像していた姿とは、随分と違う印象になっていた。
 伊達家の長子、梵天丸。
 一体、どんなお姿をした御子なのか――?

 カラリと障子戸が開いて、小十郎の待つ部屋に輝宗が姿を現す。
 下座に控えていた少年は平伏して主を迎え、輝宗は上座へと腰を下ろした。
 許されて小十郎が面を上げると、輝宗は政務の時の羽織袴姿とはうって変わった、寛いだ着流し姿になっていた。
 新しく召し抱えた少年に、これからなる小姓のことや、初めて見る城内のことなど、輝宗は訊ねる。
 少年は、各々感じたことや思ったことを率直に述べた。
 輝宗は頷きながらそれらに耳を傾け、そのあと、笛を望んだ。
 楽曲は蘭陵王。
 用意してきた龍笛を手に取ると、小十郎は歌口に唇を当てた。
 龍笛に息を吹き込む。
 少年は笛を奏でた。
 昨晩吹いた曲を少年は今晩も繰り返し、曲の中盤に差し掛かった所で、少年が視線を上げると、閉じられていたはずの西側の襖が、一寸ばかり開いていた。
 其処は主である輝宗に一番近い襖戸で、襖と襖の間に生じた狭くて暗い隙間からは、あろうことか、一つ目が覗いていた。
「曲者!」
 小十郎は持っていた龍笛を、一つ目めがけて投げつけていた。
 けれども、その笛を受け止めたのは、主の手の平である。
「見つかったぞ、梵天丸」
 主は、我が子の名を呼んだ。
 その呼び名に、全てを悟った小十郎は非礼を詫びて、床に額づいた。
「申し訳ありませぬっ」
 ぱたぱたと、座敷を走り去る童の足音が小十郎の耳へ響いてきた。
「気にするな」
 許されて小十郎が顔を上げれば、闇の中にあった若君の瞳は無い。
 少年が呆然としていると、歳若い伊達家の当主は立ち上がり、我が子が開けたままにしていった襖戸を閉め、それから小十郎へ歩み寄って、父の形見の品である龍笛――潮風を、手渡してで返してくれた。
 それから、輝宗の希望で小十郎は演奏を初めからやり直し、再び蘭陵王を奏でた。
 演奏はやり直しできたものの、笛を投げつけてしまった若君が部屋に顔を出すことは二度となく、輝宗の前から辞去して、与えられた部屋に戻ってきた時は、小十郎は力尽きて、床に敷かれた夜具の上に倒れ込んでしまった。
 ――失敗した。
 そう思った。
 綱元から忠告を受けていたというのに、自分は過ちを犯してしまったのだ。
 自覚した途端、疲れがどっと押し寄せてきて、小十郎は着物を脱ぐと、早々に床へ横になった。
 眠りに落ちて、どのくらい経った頃だろうか――?

 カツン……カツン……カツン……カツン……

 何処かで拍子木が鳴っていた。
 一定の間隔を持って鳴らされるその音は、気のせいだろうか、徐々に小十郎の元へと近付いているようだった。

 シュッ

 枕元で風の音を聞き、小十郎は重い瞼を開けた。
 すると、東側の障子戸が薄く開いていて、戸口に童がひとり立っていた。

「……誰?」

 少年は問いかける。
 童は何処かで見たような、それでいて何処で会った記憶もない相手だった。
 年の頃は、五、六歳だろうか。
 障子戸に右半身を隠し、床へ横になった小十郎を見下ろしている。
 見下ろす童子の頭上には真夜中に昇る残月が輝いており、淡い月光に照らされたその姿は、この世の者とは思えぬ美しさを醸し出していた。
 六歳までは神の内と云うが、そんな雰囲気を纏った童子だった。

『この城さ、鬼が出るんよ』

 昼間聞いた綱元の言葉を思い出す。

(……鬼? 鬼というよりは、月の童子のような……)

 小十郎が表情を緩めると、童は嬉しそうな顔をして、はにかんで、障子戸に身を寄せる仕草が可愛らしかった。
 飽きることなく、小十郎は童子の姿を見つめていたが、いつの間にか意識を飛ばしてしまったようで、風を感じて、再び目を開いた時には、開いた戸口に童子の姿はなかった。
 月は先程と変わらぬ位置で輝いている。

 ――夢?

 だが、夢とするには、閉めて眠りに就いたはずの障子戸は開いており、初冬の冷気は部屋へと入り込んでいて、開いた戸口からは残月が望めた。
 残月の出は、丑三つ。
 常世と現世の境界が開き、鬼達が姿を現す刻限である。

 ――鬼の仕業?

 判然としない頭で、とりあえず寒いから戸を閉めようと、小十郎が床に体を起こしかけた時、ぱしっと、何かが打ち破られる音がして、背後を何かが通過していく気配がした。

(何?)

 何かが床に転がる。
 音のした方へ顔を向ければ、部屋の奥の床に、羽らしきものが付けた何かが落ちている。
 その正体は、障子戸を透過して入ってくる光量だけでは足りず、判然としない。

(羽虫が、部屋に飛び込んできたのか?)

 もしそうならば、指に燐粉が付かぬようにと懐紙でそれを拾いあげ、縁側の釣り灯篭の下で確認しようと、開いたままの障子戸から縁へと出た。
 羽のように見えたのは、竹色の薄様だった。
 それは薄様に包まれた御捻りで、包みを解いてみれば、内から二つ粒の落雁が現れる。
 落雁の模りは、福良雀――
 小十郎が南側の縁側へ回ってみると、障子に一箇所、穴が空いていた。背後で聞いた音は障子を打ち破られた音らしい。

 カツン。

 離れた場所で、今一度、夢現に聞いた拍子木が鳴った。
 小十郎が音のした方を振り返ると、十六間向こうに、重臣達の泊まる北の宿直棟が建っている。南の宿直棟と北の宿直棟の間には射場があり、その射場の地面の上にも、向かいの縁側の上にも、人はひとりとしていなかった。ただ夜の闇に、閉め切られた障子戸が的場までの三十三間、静かに続いてるだけである。
 音は、障子戸の何処かの内から鳴らされたものに違いなかったが、音の出所を特定するのは甚だ困難であった。
 あきらめて、小十郎は手にした竹色の薄様に目を移す。
 包まれていたのは、二粒の福良雀。
 竹に雀は、伊達家の家紋を連想させた。

(――梵天丸さま?)

 夢現に見た童子の姿がよみがえる。
 正殿の奥、輝宗の居館に住むという、まだ見ぬ若君へ小十郎は想いを馳せた。

三章 姿を見せぬ若君

 翌朝、出仕してきた綱元を捕まえて、小十郎は打ち破られた部屋の障子戸を見せた。
「やっぱ、出てきたか……おまえ、気に入られてんだな……」
「気に入られた?――私が、ですか?」
「夜に笛を吹くと、鬼が寄ってくるっていうじゃん」
「……鬼、なのでしょうか……?」
 躊躇いながらも、小十郎は切り出す。
 すると、それまで破られた戸の具合を確かめるようにカラカラと戸を開閉させていた綱元が、手を止めて小十郎を見る。
「何?」
「鬼ならば斯様な物、投げ込まないのではないでしょうか?」
 そう答えて、小十郎は懐から竹色の薄様を取り出した。それは昨晩、小十郎の部屋に投げ込まれた菓子包みである。
「あ」
「菓子だな。毒じゃない」
 小十郎が包みを解いて、内に包まれていた福良雀の落雁を綱元へ見せれば、綱元は一口に落雁を食べてしまった。小十郎の手には、包み紙の竹色の薄様だけが残る。
「障子は下男へ言って貼り変えさせておく。もう帰っていいぞ」
 綱元に、事の終わりを告げられる。
 しかたなく、小十郎は竹色の薄様だけを胸に仕舞い、八幡宮へ帰ることにした。
 夕べに笛の所望があった次の日は、城勤めは休みということになっていた。



 小十郎が八幡宮の社務所へ帰ってくると、初めての城勤めということもあり、姉の喜多から質問攻めにされた。
 小十郎が城に泊まってくることは、伯父の景親が所領へ帰る途中に八幡宮へ立ち寄って、話をしておいてくれていた。
 喜多は問う。
 仕事のこと、小姓のこと、主である輝宗のことなど。
 小十郎は、輝宗に聞かれた時のように、ありのままを答えた。
 喜多はそれでは不満のようで、「それだけか?」と追加の話を要求してくる。
「一日城へ上がっただけで、全てが判る訳も無い」
 小十郎が話の続きを断ると、「それもそうじゃ」と、喜多は己が非を認めて笑った。
 景広は、姉と弟のそんな遣り取りを微笑みながら聞いていて、小十郎は兄のそんな態度を目にして、おもむろに口を開く。
「初めて耳にすること、目を疑いたくなるようなこと、いろいろとありました。姉上や兄上に、お話しておくべき事なのかもしれませんが……」
 喜多には、父である左月や弟である綱元のこと。
 景広には、梵天丸のことを。
 話しておくべきことだと思うのに、どう話していいのものやら、小十郎は語る言葉を見つけられずにいた。そのことを、それとなく兄へ告げてみる。
「急ぐことはないですよ。時が満ちれば、言葉は自ずと出てきましょう。それまでは小十郎のこころの内で、しっかり見極めなさるとよい」
 判断を仰ぎたい弟の心を見透かすように、宮司である兄はそんな言葉をかけてくる。
「はい」
 兄の言葉を素直に受け入れ、小十郎はしばらく事態を静観することにした。
 特に鬼庭家の事に関しては頑なな姉の態度からして、下手に口に出し、事態を悪化させてしまう恐れがあった。
 急がば回れ。
 時機を見て話すのが賢明だろう。

 その夜、社務所の南の端にある自室で日課の書見を終えた小十郎は、懐に仕舞っておいた竹色の薄様を取り出し、手に取って眺めた。
 舞台で、賞賛に値する芸を披露した者に投げ込まれる、紙に包んだ金子や菓子――御捻りは、贔屓筋からの御祝儀である。
(これは、私の笛に対する御祝儀だろうか? お姿は隠されてしまったが、襖戸の向こうで、梵天丸さまは私の演奏を聞いてくださったのか……)
 小十郎は、闇の向こうへ消えてしまった伊達家の若君のことを想う。
 想い描くその姿は、残月の夜に見た童子の姿と重なり、夢現に見た童子の姿を確かめようと、小十郎は部屋の障子戸を開けた。
 仰いだ空に月は無く、一面の星月夜であった。
 神無月も末の二十八日。月の出は、霜月の三日まで待たなければならない。
 初冬の冷たい夜気を吸い込むと、小十郎は障子戸を閉め、竹色の薄様を文箱の内へと仕舞った。
 手にした夢の痕跡を失うことがないように。



 翌日から小十郎は、ひとりで城へ上がった。
 日中は小姓のお役に励み、夕べの鐘を聞いて八幡宮へ帰る。
 そんな生活の始まりであった。
 朝、小十郎が奥向きにある小姓の詰め所で作業をしていると、中庭を挟んだ向かいの部屋から、千字文を読み上げる若君の声が聞こえてきた。
 向かいの部屋は梵天丸の居室ということで、先日、綱元の後に付いて進んでいった縁側の裏手に当たる。梵天丸の部屋は、人の気配はして声も聞えるのだが、梵天丸がその姿を出すということはなく、部屋の障子戸も開かれることがなかった。
 そのことを、小十郎は小姓仲間に聞いてみたのだが、若君が姿を見せない理由をはっきりと答えられる者はおらず、ある者は疫でお体が弱られ、まだ外へ出られない状態なのだろうと言い、またある者は冬になって寒くなったからだろうと言い、またある者は、輝宗が招聘した高僧の元へ近々学びに行かれるので、その勉強に専念しているからだろうと答えた。
 はっきりとした答えが得られぬまま、迎えた霜月の九日、初雪が降ったその日に、小十郎は二度目の笛を輝宗から所望された。

 朝から降り続いていた雪も夕べには止み、雪明りの中、小十郎は笛を吹く部屋へと入る。
 室内は前回と変わらぬ設えだった。
 上座の左右に灯明が点され、床の間に玄狐の面が飾られている。
 前回同様、下座に端座した小十郎は、主である輝宗の御成りを待った。
 小姓仲間が教えてくれた話では、主である輝宗は、朝と夕べの膳を長子である梵天丸と取り、昼の膳を奥方と他のお子様方がおられる東の対屋で取るのだという。
 梵天丸との夕餉を終えたのか、障子戸が開いて輝宗が室内に入ってくる。
 平伏して、小十郎は主を迎えた。
 席に着くと、年若い家臣を気遣うように、輝宗は小十郎の仕事振りや初雪のことなどを話題にして、二、三言葉を交わしてから笛を望んだ。
 小十郎は笛を手に取る。
 龍笛を奏で始めてほどなく、輝宗の脇の襖戸が薄く開いた。一寸ばかりの闇の向こうから、一つ目がこちらを覗いてくる。小十郎はそのことにすぐ気が付いたが、知らぬ振りをして笛を吹き続けた。小十郎が演奏を終えても一つ目はその場から離れず、龍笛を脇へ置いた小十郎は、懐から竹色の薄様を取り出して輝宗へ申し上げた。
「この竹色の薄様に、福良雀の落雁が包まれていたと――? 菓子は食べたか」
「はい」
「美味かったかね?」
「――恐らく」
「恐らく?」
 はっきりしない小十郎の答えに、輝宗が聞き返す。
「……毒味と、綱元殿が召し上がりましたので……」
 恐縮しながら小十郎が伝えると、それまで黙っていた一つ目が口を開いた。
「毒などではない!」
 声は、梵天丸のものだった。
 梵天丸がいる隣の間は明かりが灯されておらず、幼き主の姿は、大方が闇に飲まれてしまっていた。下座にいる小十郎から判然と見えるのは、灯明の光を映しこんで輝く黒い瞳だけで、小十郎が梵天丸と認識したのは、聞き覚えたその声に対してである。
「梵天、何か知っているか?」
 隠れている我が子へ、輝宗は竹色の薄様を見せる。
「知らぬ」
 そう答えると、梵天丸は席を立ち、闇の向こうへ消えてしまった。
「知らぬそうだ」
 立ち上がり、我が子が開け放ったまま行ってしまった襖戸を、輝宗は閉める。そして、そのまま小十郎に歩み寄り、竹色の薄様を返してくれた。
「福良雀の落雁は病平癒の祝いにと、綱元が梵天丸へくれたものだ」
「え?」
 薄様を胸の内へ仕舞い込んでいた小十郎は、主の言葉に顔を上げる。
「ま、そういうことだ。ふたりを許してやってくれ」
 事の次第を伝えると、輝宗は居室へ帰っていった。
 平伏して、小十郎は見送る。
 奥向きから宿直棟の部屋へ戻ってきた小十郎は、前回、事の起こった障子戸を見た。
 障子は前回破られた箇所だけ、紙が張り替えられてあった。
 小十郎は色の違う障子の前へ立つ。
 菓子の包みが投げ込まれた位置を確認してみれば、破られた箇所は、小十郎の胸あたりの高さである。
 御捻りを向かいの重臣達の宿直棟から投げ込んだとすれば、幼子が投げるには遠すぎる気がしたし、かといって、間の射場の地面から投げ込んだとすれば、床下からの高さがある分、幼子には高すぎる気がした。
 小十郎は残月の下で見た、童子が立っていた東側の障子戸を見つめる。
 記憶を辿って桟の位置で、幼子の背丈を推測してみる。
 記憶が確かなら、童子の背丈は小十郎の腰ぐらいになる。
 小十郎は背が高い方だけれど、腰あたりとするなら、それはやはり幼子の身の丈である。
 投げ込まれた落雁は、質量が軽いものである。石礫のように質量があるものならば、その重さで障子は打ち破られようが、そうでない落雁の場合、それなりの力が必要だろう。
 はたして幼子の力で投げ込んで、障子が打ち破られるものなのだろうか――?
 小十郎がそんな思案に暮れていると、目の前の障子をすごい勢いで打ち破られた。
 投げ込まれた物体は奥の板戸にぶつかり、床へと転がる。
 小十郎の部屋に、二度目の御捻りが投げ込まれたのであった。
 打ち破られた障子戸を開け放って、小十郎は縁へと出た。
 雪原を挟んだ十六間向こうの宿直棟の縁側には、夢枕に見た童子が立っている。
 それは上弦の月が輝く、雪明りの夜だった。
 童子は部屋から飛び出してきた小十郎に驚いたようで、身を翻すと、縁側を駆け出していく。
「お待ちください」
 縁側から飛び降り、小十郎は逃げる童子を追った。
 雪に覆われた射場を、小十郎は斜めに突っ切るように駆けていく。逃げる童子の後を追いつつ、前へ出ようとする作戦だった。
 縦方向からはまだ距離があるものの、横方向からは小十郎に並ばれつつあることに気付いた童子は、方向転換して縁側を逆走し始める。
 相手の方向転換に気付いたものの、小十郎は逆走せずに真っ直ぐ最短距離で雪原を突っ切り、雪原を渡り終えた後は、縁側へには上がらずに並走する形で逃げる童子の背を追った。
「お待ちください。なぜ小十郎の部屋へ、菓子包みを投げ込むのです」
 小十郎の問い掛けに、童子は答えなかった。
 たとえ答えを得られずとも、その声を聞くことができれば、童子が梵天丸かどうか確かめることができる。
 小十郎があと少しで童子を捕まえることができると思った矢先、逃げる童子の手前の障子戸が開き、中から日に焼けた逞しい腕が伸びてきたかと思うと、童子を捕らえて、内へと引き入れていった。
 あっと言う間もなく、戸はぴしゃりと閉め切られる。
 驚いて、小十郎は縁側へ駆け上がった。
 手を掛けて、童子が引き込まれていった障子戸を開けようとするが、戸は強い力で押さえ込まれているようで、少年の力ではピクリとも動かなかった。
「くっ…」
 幼子を捕らえていった、あの腕が押えているのだと少年は直感した。
 それは、斜めに刀傷が負った逞しい右腕だった。
「梵天丸さま!」
 小十郎はその名を呼ぶ。
 声を聞かせて欲しいと、切実に思った。
 梵天丸と判れば桟を破って踏み込んでいける。開かぬなら、破ってしまえばいいのだ。
「どうかされたね?」
「あ…」
 声を掛けられて、我に返った小十郎は、廊下に塩爺が立っているのを見た。
「そちらは宿直の重臣方が泊まられる部屋」
「……いえ、その……」
 少年は障子戸から離れ、言葉を探した。今更ながら、自身がしでかした行為の大きさに気付き、少年は身が竦む思いに襲われていた。
 勤めに上がった城で夜分に騒ぎを起こすなど、御役御免になっても仕方がない不始末。
 だが――と、少年は目の前の閉ざされた障子戸を見つめる。
 この障子戸の向こうにいるのが梵天丸なら、梵天丸を連れ込んだあの腕が守り手でないとするなら、己の保身のため看過するは、それこそ一生の不覚――
 少年が意を決し、老人へ顔を向けた時、今さっき閉め切られたばかりの障子戸が開いて、中から遠藤基信が姿を現した。伊達家の重臣は床へ就いていたのか、白い寝巻き姿である。
「何事?」
 輝宗の懐を預かる男は、縁側に立つ少年と老人へ尋ねる。
「これは、遠藤様」
 老人は一礼する。少年も膝を付き、上官である男へ頭を下げた。
「そちらはつい先日、殿の小姓に取り立てられた片倉小十郎。笛の名手故、今宵は御前で奏上の勤め。今宵は向かいの宿直棟に泊まっておる。怪しい者ではない」
 基信が小十郎の身の上を話した。
「聞いております」と、塩爺もにこやかに答える。
「雪原を駆けてきたか」
 射場に降り積もった雪を見やり、遠藤がつぶやく。
 その言葉に、小十郎が背後を振り返れば、己の行動がくっきりと跡になって残っていた。
「雪の上は足が付く。他人(ひと)に気取られたくない時は気を付けよ」
「はっ…」
 己の至らなさに、小十郎は顔から火が出る思いがした。
「して、何があった? 蛇でも出たか?」
「邪など……」
 小十郎は遠藤にも、部屋へ投げ込まれた菓子包みと、目にした童子のことを話す。
「これは前回のものですが……」
 今回の物は拾ってこなかったので、胸に仕舞った竹色の薄様を遠藤へ差し出す。
「中身は福良雀の落雁でございました。福良雀の落雁は綱元殿が病平癒のお祝いに、梵天丸様へ贈られたものとお聞きしております」
 そう説明して、小十郎は閉ざされた障子戸を見た。
 内にいるのだろうが、光は外から入ってきているため、外にいる小十郎からは内にいる者の姿は見ることができない。だが、内からは、雪明りと縁側に吊るされた灯篭の明かりによって、障子戸に投影されている小十郎の姿が影絵のように見えているはずだった。そして、一言話す度にこの声も――
 遠藤は縁側の端に進み出ると、床に降りかかっていた雪を集めて小さな玉とし、薄様に包んで、童子が立っていたとされる場所から小十郎の部屋へ投げ飛ばした。
「届かぬな」
 薄様の包みは、小十郎の部屋の障子を打ち破ることなく、手前の縁側の上に落ちる。
 手を抜いた訳ではないのだろう。大きく振り動かした遠藤の右腕は、着物の袖から現れ出て、日に焼けた肌に刻まれた傷痕を小十郎へと晒した。それは、逃げる童子を部屋の内へと引き入れた腕に刻まれていた刀傷だった。
「その腕の傷……」
「これか? 伊達家を守る為に負ったものだ」
「伊達家を守る為……」
 少年は悟る。
 どちらが、守り手であるか――
「座敷童子にね」
 沈黙したふたりの会話を取り持つように、老人がつぶやく。
「我々の番小屋にも門兵の詰め所にも、夜になると現れて、落雁や飴玉を投げ込んでいくね。当直者には良い腹の足し。きっと、座敷童子の仕業ね」
「座敷童子……」
 小十郎はその名を繰り返す。
 それはこの地方に伝わる物の怪で、童の形をしており、歴史ある大きな屋敷の座敷へ棲みついては、子供のするような可愛い悪戯や、家人の手伝いをしていくとされた。そして、座敷童子が棲みついたとされる家は、栄えるとも――
 小十郎は残月の夜に見た童子の姿を思い出す。
 人とは思えぬ、その姿――
「そうかもしれない」
 少年が発した言葉に、内心、遠藤は驚いた。
「きっとそう。座敷童子はよき童なれば、なんの問題も無いね」
 塩爺の仕切りで、小十郎が目にした幼子は、座敷童子ということになる。
 老人に連れられて少年が向かいの宿直棟へと帰っていくと、伊達家の重臣は障子戸を開け、部屋へと戻った。
「誰が、座敷童子じゃ……」
 室内へと戻ってきた男は、幼子に詰められる。
 遠藤の手によって逃げおおせた梵天丸は、障子戸の内から、事の次第を見守っていたのだ。
「相済みませぬ、梵天丸様」
 伊達家の重臣は膝を付くと、幼き主へと頭を垂れた。

 宿直棟をつなぐ長い廊下を渡って小十郎が与えられた部屋へと戻ってくると、部屋の前の縁側に竹色の薄様が落ちていた。
 中の雪玉を取り払って、少年は薄様を懐へと仕舞う。
 開けたままの障子戸から内へと入れば、部屋には今回の御捻りが届けられている。
 床に転がるそれを拾い上げ、縁側の釣り灯篭の下で確認すれば、今回の御捻りは、藍色の薄様に包まれた金色の有平糖だった。
 飴玉の金色に、薄様の濃き青が映える。
「まるで夜空の月のようだ」
 飴を口に含めば、蕩けるような甘さが口内へと広がる。
 その甘さを堪能しながら、小十郎は縁側に腰を下ろして、雪に覆われた射場を眺めた。
 自分の所業の跡が残る雪原は、冬の寒さも相まって、頭が冷える思いがした。そんな冷えた頭で考えてみる。
 向かいの棟の縁側に立っていた童子――
 遠目からだったが、残月の下で見た童子で間違いないだろう。愛らしい顔立ちは、長い前髪で顔半分が隠されており、着物はおそらく寝巻きなのであろうが、白い長着を着ていて、背丈はやはり小十郎の腰あたり迄しかなく、足は小十郎よりも遅かった。
 人の子であるなら、年上の小十郎より足が遅くて当たり前だが、座敷童子――?
 武人の遠藤の腕でさえ届かぬ距離を投げ飛ばしたというのが、あの幼子の腕であるとするなら、あの童子は梵天丸ではなく、人には使えぬ技を使える物の怪ということになるだろうが、御捻りを投げ込む力は持つのに、人の子の小十郎に捕まりそうになるのもおかしな話で――
「わからない……」
 口に転がる飴玉は、わかりやすいくらいに甘いのに。
 悩める少年の頭上に月は煌々と、その光を降り注いでいた。



 その次の夕べの笛には、梵天丸の姿は無かった。
 部屋に梵天丸の姿が無いのはいつものことであったが、輝宗の脇の襖戸も開かれなかった。
 嫌われてしまったのかと、演奏を終えた小十郎が気落ちしていると、輝宗が告げた。
「梵天丸は拗ねているようだ」
「え…?」
 その時、ガタっと、輝宗の脇の襖戸が揺れた。
 まるで襖戸の向こうから誰かが叩いたかのような揺れ方だった。
「梵天丸さま、其処に居られるのですか?」
 思わず小十郎が問い掛ければ、梵天丸の声が襖度の向こうから答えてくる。
「おらぬ。座敷童子じゃ」
「座敷童子? 座敷に憑く物の怪のことか。座敷にばかりへばり付いておると、そうなってしまうやもなぁ」
 輝宗の言葉に、本当に物の怪が憑いてしまったかのように、襖戸はガタガタと揺れた。
 その様を見て輝宗は声を上げて笑い、小十郎は月夜の童子は梵天丸であると確信を強める。
「童子さま、先だっては飴を下さり、ありがとうございました。大変美味しゅうございました。藍色の薄様に包まれた飴玉は、まるで夜空に輝く月のようでございました」
 小十郎が話を合わせて礼を述べれば、襖戸は鳴り止み、梵天丸から思わぬ言葉が返ってきた。
「月神さまは、大神さまの右目から生まれたのじゃ!」
(右目?)と思うも、その場では追求せず、小十郎は話を合わせ続けた。
「月天子でございますね。父神である大神様が、黄泉の国からの禊で右目を洗いたまひし時にお生まれになられた……」
「そうじゃ! 小十郎は物知りだ」
「神職の子なれば、記紀は幼き頃より読み聞かされて育ちました」
「そうか! 納得した」
 小十郎の答えに、梵天丸は満足したようだった。

 宿直棟への帰り道、小十郎は重臣達の宿直棟を過ぎた所で故意に、笛を落とした。そして、落とした笛を拾う振りをして床下へと潜り込む。
 下手な芝居を打ったのは、誰かに見られていて咎められた際に言い逃れるためであった。
 今夜は部屋には戻らずに、床下で、現れるだろう梵天丸を待つつもりだった。
 拗ねるほど思っていてくれるなら、何故逃げるのか?
 小十郎はその理由を知りたかった。
 霜月の中旬も過ぎ、雪が降り積もるようになっていた。
 床下に雪が積もることはなかったが、すぐ近くの地面に降り積もった雪から冷気が流れ込んできて、待つのは身に堪えるものがあった。
 けれども小十郎は、どうしても梵天丸と会っておきたかった。
 一刻も待った頃だろうか。奥向きの方から渡ってくる足音が聞こえてきた。
 ぱたぱたと軽い子供の足音で、足音は床下にいる小十郎の頭上を通り過ぎると、しばらくして止まった。
 重臣達の部屋である北の宿直棟の縁側へ出たのだろう。
 其処は南の宿直棟にある小十郎の部屋の真向かいにあたる場所である。
 小十郎は相手へ気付かれぬよう静かに床下から這い出ると、廊下へと上がり、柱の陰に身を隠して、北の宿直棟の縁側を見た。
 小十郎の予想通り、梵天丸と思われる童子がひとり、夜の縁側に立っている。
 童子は手に、薄様の包みと、二本の紐が付いた帯のような物を持っていて、帯に薄様の包みを挟みこむと、手首を軸に帯を回しはじめた。二本の紐が空を切り、ヒュンヒュンと音を立てる。
 投石だ、と小十郎は思った。
 古代の戦闘で行われていたという攻撃方法で、投石帯と呼ばれる武器である。
 紐の帯状の部分に石を挟んで投げ飛ばすという至って簡素な攻撃方法であったが、遠心力のかかった石は、普通に手を使って投げ飛ばすよりも威力も飛距離も増して飛んでいき、殺傷力は高かった。なるほど投石ならば、子供の腕でも、向かいの棟の障子戸を打ち破ることができるだろう。
 納得した小十郎は、努めて音を立てぬよう気を配りながら、童子へと近付いていく。
 投石に集中している幼子は、背後から近付く小十郎に気が付かない。
 投石帯の片方の紐を手から離して、幼子は薄様の包みを投げ放つ。
 弾は勢いよく前方へと飛んでいき、向かいの部屋の障子を打ち破った。
「お見事!」
 声を掛けられて、幼子は驚いて肩を揺らす。
 反射的に声のした方へ顔を向ければ、あろうことか、今、御捻りを投げ込んだ部屋で休んでいるはずの少年が、其処に立っていた。
「投石でございますな」
 にこやかな顔で少年は言う。
 その美しい顔に、幼子は持っていた投石帯で自分の右目を隠した。
 右目は、伸びた前髪で見えぬようになっていたのだが、幼子はつい手が出てしまっていた。
「お目を如何された?」
 気付いた少年が声を掛ける。
 少年は幼子が右目に手を遣ったのを、投げ放った拍子に帯が当たって、怪我でもしたのではないかと心配したのだ。
「何でもない」
 答えた童子の声。
 声は梵天丸のものであり、やはり月の童子は梵天丸であったのかと、少年は感慨を深くする。
「……帯で打たれましたか?」
 感慨はひとまず脇に置き、小十郎は右目から手を離そうとしない梵天丸を心配して、傷の具合を確かめようと傍へと寄る。
 梵天丸は一瞬、拒むように身を引いたが、肌に触れた少年の指先の暖かさに、それ以上逃げるということはしなかった。
 掛かる黒髪を掻き分けて、梵天丸の顔に小十郎の顔が近付く。
 右目を隠す梵天丸の右手に小十郎の左手が重ねられ、その覆いを取り外した。
 小十郎が目にした梵天丸の右目は、眼窩から眼球が突出し、どす黒く変色して瞼から垂れ下がるという状態だった。
 あまりな惨状に、少年は色を失くす。
 その様を、残された左眼で幼子は見てしまった。
「わっ」
 色を失った相手の顔を、梵天丸は握っていた投石帯で打ち据えていた。
「梵天丸さま」
 呼び止めるが、幼子は走り去る。
 少年は後を追おうとしたが、打たれた衝撃で視界が眩み、倒れ掛かった所を、脇の障子戸から出てきた男に抱き止められた。
 男は、遠藤基信だった。
 其処は基信の部屋の前で、半ば担ぎ込まれる形で少年は伊達家の重臣の部屋へ入った。

「座れ」
 相手の指示通り腰を下ろせば、部屋に置いてあった箱笈の中から、男は治療具を取り出し、出血していた小十郎の額を治療してくれた。
 視界が眩んだのは、額から流れた血が目へ入った所為である。
「梵天丸様の右目を見たな」
 傷口に血止めの軟膏を塗布し、晒しを巻きながら基信が尋ねる。
「……はい」
 梵天丸の顔に見たものを思い出し、少年は頷いた。
 幼子の顔には不似合いな、死の穢れが其処にはあった。
「疫の毒が回り、梵天丸様は右目を失われた」
「疫? 疫病でお目を失われたのですか」
「梵天丸様が疫に罹患したは、そなたも知っておろう」
「それは存じております。疫病に罹患すれば痕が残る発疹が出来ることも……ですが、それは重度の場合であって、その場合、発疹は全身に及ぶはずで……恐れながら梵天丸様のお体には何処にも……右目以外にはそのような痕跡は……」
 小十郎は言い募る。
 間近で見た梵天丸の体には、発疹の痕は認められなかった。着物の裾から覗く細い手足、襟首、頬、合わせた手の平にも、怖いくらい白く、美しい肌をしていた。
「発疹を掻き毟ることがないよう、乳母が両の手を抑えていたからな。肌に痕は残らなかったが、必死に看病した乳母は疫に罹患して命を落とし、右眼は体の内側から疫に侵され、あのような事態となった」
「それからだ。明るい内は部屋へお篭りなされ、表へ出ないようになられた。片目になられはしたが、武芸の勘所も良く、扱いが難しいとされる投石帯も、あの通り、意のままに操る。そして、何より聡明。だが、表に立てぬようでは、武家の棟梁にはなれぬ。小十郎の笛に興味を持たれたので、表へ出るきっかけになりはしないかと、輝宗公も期待していたのだが……」
「……申し訳ございませぬ」
 小十郎は頭を下げる。
「そなたが謝ることはない。むしろ、詫びねばならぬはこちらの方だ。可愛い子供の右目が鬼目であって、さぞや驚いたであろう。何も知らせず、巻き込んで済まなかったな」
 逆に遠藤から詫びられる。
 基信の部屋から辞去し、小十郎が宿直棟の部屋へ戻ってくると、梵天丸からの御捻りが届いていた。
 床に転がる白い薄様を拾い上げ、包みを解いてみれば、中からは白く曇った薄氷色の金平糖が現れる。
 白に白、氷の襲。
 雪の結晶のようなそれに涙を零しても、儚く消え去ってしまうことはない。
 肩を落として泣く少年に、昇ったばかりの下弦の月が優しい光を投げかけていた。

四章 願い出る朝

 不本意な顔合わせの夜から、千字文を読み上げる梵天丸の声が止んだ。
 それまで三日と空かずに聞こえていた若君の朗読の声がなくなり、思う所のあった小十郎はすぐに気が付き、他の小姓達も、五日も経った頃から誰からともなく噂するようになった。
 小姓達の詰める部屋から中庭を挟んだ向こうに梵天丸の居室はあり、詰め所の縁側から伺えば、室内は静まり返っていた。乳母が出入りする音で、かろうじて内に梵天丸がいることだけはわかった。
 千字文が止んだのは小十郎が梵天丸の右目を見た所為なのか、それとも別に理由があるのか――?
 確かめようにも小十郎には術がなく、梵天丸との繋がりを持てるとするなら、十二日に一度催される夕べの笛の席なのだが、それも今後あるかどうか疑わしかった。
 できることなら今すぐにでも梵天丸の元へ参上して、先日の無礼を詫びたかったのだが、基信が小十郎の非を一切責めなかったことで示したように、許される為に詫びること自体が許されない行為なのだろう。その行為は、梵天丸をひどく傷付ける。
 梵天丸が求めていたのは謝罪ではなく、病んだ梵天丸の右目を見ても謝罪する必要がない人間。謝罪を必要とした時点で、小十郎はその人選に落ちたのだ。
 御目に適わなかった者は潔く去るべきではないのか――?
 小十郎がそんなことを考え始めた頃、輝宗から四度目の笛の所望があった。

 その晩の笛は、散々だった。
 輝宗からは心が此処に無いようだと指摘され、自分でも酷い演奏だと思った。
 輝宗が座す上座寄りの、閉ざされたままの襖戸ばかりが気に掛かり、幾度音を外したかわからない。
 「怪我をしたそうだが、その所為か?」
 奏上後、輝宗が小十郎の額の傷について触れてきた。
 梵天丸に打たれた額の傷は、翌日には塞がり、翌々日の城へ上がる時には晒しも外していた。
 傷痕は額髪に隠れて見えず、十日も過ぎた今となっては、皮膚は完全に再生していた。傍で見ていて気付いたとは考えづらい。おそらく、遠藤から話がいっている。小十郎と梵天丸との間にあった事を輝宗は知っているのだ。
「いえ。怪我は完治しておりますれば。偏に、私の力不足に寄るものでございます」
 小十郎は己が非を詫びる。
「小鬼も出て来ぬようになったな」
 そう言って、輝宗はすぐ横の襖戸へ目を遣った。
 主の発した言葉に小十郎は憚りなく顔を上げ、主が見つめている襖戸を眺めた。
 輝宗の脇にある襖戸。
 その向こうに、梵天丸はもう居ないのか――
「今年も、もうすぐ終わる。これから雪もいよいよ深くなり、宮司が代替わりしたとあっては、八幡宮は忙しかろう。家の手伝いをしながら笛の練習に励むがよい。満足のいく演奏が出来るようになるまで、城に出てきてはいけない」
 輝宗の言葉に小十郎は視線を戻し、何か言おうとしたが、言葉はすぐに出てこない。
「……それは私に、暇を与えるということでしょうか……?」
 混乱しそうになる頭を堪えながら、どうにかそれだけを口にした。
 だが主である輝宗は小十郎の質問には答えず、別の質問を向けてきた。
「小十郎は、春鶯囀を知っているか?」
「――春鶯囀、でございますか? 名前だけは……家に楽譜がありましたもので……」
「初春の夕べに聞きたいものだな」
「精進いたしましてございます」
 主の求めにそう答えると、小十郎は夕べの笛の席から退出した。
 春鶯囀は雅楽の大曲のひとつ。手慰みに吹いたことはあるが、きちんと通しで吹いたことはない。
(一刻も早く帰って、会得しなくては……)
 小十郎は急くように廊下を渡っていった。
 少年の足音が遠ざかると、境界の襖戸を開いて幼子が出てくる。
「小十郎を辞めさせるのか!?」
 開口一番、そんな事を聞いてくる。
「さて、どうなるか……」
 席から立ち上がり、輝宗は部屋へ戻ろうとした。その膝元に梵天丸が纏わりつく。
「小十郎は悪くない。今すぐ呼び戻してくだされ!」
 幼子は父である輝宗に懇願する。
 顔は出さなくなっただけで、梵天丸が襖戸の裏に潜んでいたのを輝宗は知っていた。
 まだ少年である小十郎は潜む相手の気配を察するまではゆかぬようだが、幾度かの修羅場を潜り抜ければ自ずと身につくだろう。彼が武人の道を歩むなら。
「梵天丸、それは出来ぬ。そなたも襖の向こうで聞いておったろう。これは小十郎とわしの約束。満足のいく笛の音になったなら、小十郎も戻ってこよう」
「戻らなかったら、如何とするのじゃ!」
「あきらめるしかない」
 あっさりとした父の言い様に、幼子の目尻が上がる。
「父上には頼まぬ!!」
 そう言い放つと、輝宗の膝元から離れ、梵天丸は懐に隠し持っていた投石帯を取り出して、帯の紐で床の間に飾ってある玄狐の面を打ち落とした。かと思うと、拾い上げて持って行ってしまう。
 もともと玄狐の面は梵天丸のもので、年の初めの稲荷社の祭礼で、父の輝宗にせがんで買って貰ったものである。
 玄狐の面が梵天丸、白狐の面が竺丸に。
 玄狐と白狐は仲の良い夫婦狐であり、これは父上と母上であるぞと、弟の竺丸の頭に結わえつけてやっていた。
 その玄狐の面を、梵天丸は夕べの笛の席の飾りにと、自ら床の間に飾り付けたのである。
 輝宗は、我が子が開け放ったまま行ってしまった襖戸を閉めると、ひとり夕べの笛の部屋を後にした。
 縁側に出れば空には三日月が昇っており、梵天丸が生まれた晩もこのような月の相であったよと、父親である輝宗は思い出していた。



 早々に床に就いた小十郎は、廊下を渡ってくる足音で閉じていた目を開いた。
 眠れるはずなどなかった。
 一刻も早く家を帰って春鶯囀を習得したい思いに駆られていたが、夜が明けぬ内は城から出られないため、早く朝がやってくるようにという願いも込めて、床へ入って目を瞑っていただけのことである。五感は冴え渡っていた。
 小十郎は身を起こした。
 近付く足音は子供が駆けてくるような音だった。
 夜の城内を駆け回る童といったら、ひとりしか知らない。
 床から出た小十郎は縁側に向かい、部屋の戸を開こうと手を伸ばした。が、手を寸での所で止め、部屋の柱の陰へ身を隠し、少し様子を見ることにした。脳裏に前回の苦い思い出が甦り、少年は慎重になったのである。
 近付いてきた足音は、長い廊下を渡り終えると、小十郎の部屋の前で歩みを止めた。
 部屋の障子戸に見覚えのある小さな影が映る。
 その姿形に、少年はぎょっとした。影に、角が生えていたのだ。
 左右に一本ずつ、二本の角が、梵天丸かと思われる童の頭から生えている。影だけ見るならその姿はまるで小鬼のようで、不審に思いながらも、小十郎は障子戸を開けた。
 縁側には、玄狐の面を被った梵天丸が立っていた。角と思われたものは狐面の耳である。
 驚いている小十郎を余所に、梵天丸は入り口が開かれると、室内へ上がり込んだ。そして、そのまま部屋を真っ直ぐに進み、少年が今さっき休んでいた夜具の上へ腰を下ろす。
 少年は障子戸を閉めると、幼い主と向かい合うように下座の板の間へ端座した。
 玄狐の面には見覚えがあった。
 夕べに笛を演奏する部屋の床の間に飾られていたものだ。
 だが、そんな面の出所などわからなくとも、面から出る艶やかな黒髪や、細い首、手足の形で、夜の客人が梵天丸であることを小十郎は把握していた。
 向かい合ったまま声もなく、幼い主従はただ座っていた。
 小十郎は梵天丸からの言葉を待っていたのだが、幼き主は押し黙って座っている。
 長い沈黙の後、小十郎が口を開いた。
「もしかして、お声が出ないのですか?」
 小十郎の言葉に、梵天丸の頭がぴくりと揺れる。
「千字文を読み上げるお声が最近聞こえなくなり、小姓一同心配しておりました。もしかして、お風邪などを召されて、お声が出ないのですか?」
 小十郎は問いを繰り返す。梵天丸は首を振って『違う』と答えた。
「そうですか……」
 そうあって欲しいと思った願いは裏切られ、少年は目線を落とした。
(面を被って来られたということは、梵天丸様と思われたくないことなのだろうか……だから、小十郎の言葉に首を振られ、御声をお聞かせ願えないのか……)
 そのことを確認しようと、小十郎が伏せていた視線を戻すと、梵天丸は顔を逸らした。そのあからさまな態度に、少年は話しかけようとした言葉を失う。
 嫌われてしまったのかもしれないという危惧は抱いていたが、こうも態度で示されるとは……予想通りとはいえ、少年は傷付いた。相手から出向いてくれたという期待があっただけに。
 少年は再び目線を落としてしまう。
 しばらく考え込んで、相手の様子を伺おうと少年が視線を上げれば、幼子はまたしても顔を逸らす。
 この時になって、ようやく小十郎はあることに気が付いた。
 顔を逸らすということは、相手は直前まで、こちらを見ていたということだ。もし、はじめから相手が顔を逸らしていたとするならば、顔を逸らす動作などいちいち入らないからだ。
 心持ちが少し落ち着いた小十郎は、横を向いている梵天丸へ話し掛ける。
「笛を吹きましょうか」
 小十郎の言葉に、梵天丸は面を向けると、何度も頷いた。

 枕元の衣装盆に置いた龍笛を取るべく、小十郎が枕元の板敷きに膝を付くと、ここへ座れという風に、梵天丸が傍らの夜具の上を叩いてきた。
「え…」
 それは、板敷きの上の小十郎を気遣った振る舞いなのか、単に近くで聞きたいだけなのか、判然としなかったが、小十郎に時季というものを知らせた。
 寒さを感じなかったから忘れていたが、今は雪も降り積もる真冬の時期であった。
「お寒くはありませんか?」
 少年は、寝巻き一枚の姿で夜具の上に座っている幼子に尋ねる。
「夜具の内にお入りください。お風邪を召すといけません」
 幼子の返事も聞かずに、床へ寝かしつけようとする少年に幼き主は抵抗を示した。笛はどうしたと言いたげに、再度、傍らの夜具の上を叩く。
「笛は吹きます。横になっても、笛は聴いて頂けますでしょう?」
 少年の言葉にようやく納得したらしい幼子は、床へ横になって夜具を被った。そして、これだけは譲らぬという風に、横になった後も傍らの夜具の上を叩き続ける。
「では、遠慮なく」
 幼子が引きそうにないので、少年は申し訳程度に夜具の端へ腰を下ろした。すると幼子は、床に背を付けたままにじり寄ってきて、少年の膝の上へ頭を載せてしまった。幼子が目一杯に夜具を被れば、少年の膝の上にも夜具が掛かる。
「……ありがとうございます。暖かいですね。ですが端では、頭が夜具から落ちるといけませぬ故……」
 観念して膝枕はそのままに、少年は床の中央へと移動した。
 重なり合う肌と肌の間に熱は籠もり、梵天丸も小十郎も互いの体の暖かさを知った。
 小十郎は衣装盆へ手を伸ばすと、龍笛を納めている袋を手に取り、口紐を解く。龍笛を構えると歌口に唇を当て、小十郎は笛を奏でた。
 曲は蘇合香。
 春鶯囀と並ぶ大曲のひとつで、病を癒す謂れを持つ。
 幼き頃より小十郎が好んで吹いていた曲で、長い曲だが、通しで吹ける程に諳んじていた。
 曲も中盤に差し掛かった頃、膝元の玄狐の面の奥から寝息が聞こえてきた。
 梵天丸は眠ってしまったらしい。
 小十郎は演奏を切り上げると、梵天丸の眠りを妨げぬよう夜具から抜け出て、枕元の板敷きの上に腰を下ろした。若君と同じ夜具にいるのは畏れ多い。
 眠る主を眺めながら少年は、その顔を覆う面をどうしたものかと考えていた。
 幼き主は、病んだ右目を見られないようにするため、面を被ってやって来たのだろうが、眠りの邪魔になるだろうし、窒息の危険もあった。そう判断して、小十郎は面を外す。
 外せば、その顔は残月の下で見た童子であり、梵天丸の顔である。
(私が寒さを口にしたから、寒がっているのだろうと想い、床へ上がるよう指示して、夜具を掛けてくだすった……お優しく聡明な御子だ……)
 梵天丸の顔右半分に張り付いている髪を手櫛で梳いて流してやれば、愛らしい顔には不似合いな鬼の右目が現れる。
 一度見てしまえば、小十郎が色を失うことはない。
 外した面を衣装盆の上へ置き、小十郎は枕元に座して、幼き主の眠りを守った。
 師走三日の夜は、そうして更けていった。



 風の動きを感じて、梵天丸は眠りから目醒めた。
 目に入ってきたのは、何処かで見たことがある天井。
 見覚えはあったが、何処の天井かまでは思い出せなかった。確かなのは梵天丸の部屋の天井ではないことだけ。
 何処の部屋の天井であったろうかなどと考えながら、幼子は布団の中でまどろんでいた。すぐに起き出してしまうには、随分と寝心地のいい朝だった。
 存分に考えても思い出せなかったので、梵天丸は布団の上に身を起こした。
 周囲に目を遣って幼子は、枕元の衣装盆の上に玄狐の面が置いてあるのを発見する。
「あ」
 幼子は小さく声を上げると、顔に手をやった。
 指先に触れるのは己の肌。素顔である。
 昨晩の出来事が脳裏に甦り、意中の少年に再び醜い右目を見られてしまったことを幼子は悟る。
 部屋の中を探してみれば、部屋の主である少年の姿は無い。
 小十郎は帰ってしまったのだ、と梵天丸は思った。
 昨夜、小十郎の反応が怖くて何も言うことができず、言葉に出来ぬなら行いでわかってもらおうと、側にいてくれと手で示した。
 小十郎もわかってくれて、側にいてくれると思っていたのに、彼は帰ってしまった。
 何故?
 この醜い右目を見たからか――?
 梵天丸は枕元の面を手に取ると、再度顔を覆い、外れぬよう面紐をきつく縛りつけると部屋を出た。
 東の雲間から赤い日が射し込み、表へ向かっていく幼子の影を長く伸ばしていく。
 夜が明けたのだった。

 その頃小十郎は、梵天丸の来訪を知らせに奥向きへ向かっていた。
 昨夜の内に眠る梵天丸を抱いて奥向きへ出向き、送り届けようかとも思ったのだが、小十郎は輝宗から暇を貰っていた。
 このまま梵天丸と別れてしまったら、次に城へ上がるまで――悪くしたら城に上がることもないまま――梵天丸と相見える機会は無いように思われたからだ。
 片や広大な地を治める伊達家棟梁の長子であり、片や一地方の八幡宮の次男に過ぎない。側に呼ばれたこと自体が奇特なことであり、期待に答えられなかった身の上としては、打ち捨てられたとしても文句は言えぬ立場だった。
(もしかしたら梵天丸様は別れを言いに来たのかもしれない。優しいお子故、私を哀れまれ、別れの言葉を告げずにいたか……)
 なんだか、そんな気がした。
 もしそうだとするのなら、別れはやはり誰の口からでなく、梵天丸の口から聞いておきたかった。それが叶わぬというのなら、どんな言葉でもいい、梵天丸の声を最後に聞いておきたい。
 そう考えた小十郎は賭けに出た。
 梵天丸が別れの言葉を口にすることができず、黙っているのだとしたら、意識が混濁する目覚めの時に、お声を聞ける可能性があった。その時に賭け、部屋で梵天丸の目覚めを待っていた小十郎だったが、若君が部屋から居なくなったとあっては、騒ぎとなるのは必定。待つのは事が露見するであろう夜明けまでと刻限を決めた。
 結果、梵天丸は目覚めず、これも運命かと思い定めた小十郎は、ひとり部屋を出て奥向きへと向かったのだった。
 奥向きの手前にある番小屋へ差し掛かると、中から聞き覚えのある若い女の声がして、小十郎は足を止める。それは梵天丸の乳母の声だった。
 彼女は塩婆を相手に、梵天丸のことを悪く言っていた。
 梵天丸が同室で休むのを許さないから、自分は次の間に休んでいたのだと。梵天丸が勝手に出歩いて居なくなったのに、責められるのはお門違い。堪ったものではない。
 片目が駄目になったなら、残っている方の目も悪くなるというもの。盲になったら仏門に入れるしかないが、都から高名な僧侶を呼び寄せたというのは、そのためではないか?
 坊主の乳母になった所で旨味はない。伊達家の家督は弟君の竺丸様が継がれることになる。竺丸様の乳母に戻りたい。それが叶わぬなら、乳母を募集している妹君の姫様でもいい。
 そんなことを言っていた。
 梵天丸を部屋に留めたことで迷惑を掛けてしまったようなので、謝罪しようかと足を止めた小十郎だったが、話を聞いている内に気が変わった。
「失礼します」
 番小屋に一声を掛けて通り過ぎると、小十郎は奥向きにある輝宗の居室へと向かった。



 城の裏門は城勤めの者が出入りするためのもので、朝夕の一時だけ開放される。
 それ以外の時は門は閉ざされ、門に設けられた小さな出入り口――通用口――を通って行き来することになっていた。
 門は城の堀に架かった橋の両端に建っており、片側の門で本人確認を拒否して逃げる者があった場合、鐘を打ち鳴らして対岸へ知らせてもう一方の門を閉ざし、不審者を橋の上に閉じ込める仕組みとなっていた。
 城勤めの者は常勤の者が多かったので、門に詰める兵士達は、顔見知りの者はそのまま通過させ、見慣れぬ者だけ呼び止めて本人確認を行っていた。
 その朝、夜勤明けで家へ帰る者、これから登城するもので、いつもの朝の賑わいを見せていた裏門に珍客が姿を現していた。
 その者は玄狐の面で素顔を隠していた。
 顔を隠すなど不審極まりなかったが、身の丈はどう見ても童であり、纏っている着物が死装束のような白の長着であった上、冬だというのに素足であったため、発見した兵士は、童が賽の河原から現れ出た水子のように思われて、鐘を鳴らす手を止めていた。
 玄狐の面を被った童は、周囲が寄せてくる好奇の眼差しなどものともせず、橋を渡っていく。
 このままでは橋を渡り切られてしまうと我に返った兵士が鐘を打ち鳴らそうと、その手を動かした時、何者かの手によって、その手は止められた。
「鳴らすなら、開門の鐘にしておけ」
 耳元で囁かれ、兵士が顔を向ければ、伊達軍の者なら知らぬ者はいない、輝宗の腹心で、一軍の将でもある遠藤基信の手であった。
「遠藤様」
 兵士は基信へ敬礼すると、開門の鐘を打ち鳴らした。
 冬の朝に澄んだ鐘の音が鳴り響いていく。
 開門の鐘は、不審者と思われる者の身元を確認した際に鳴らされる鐘で、橋を渡っていく者の本人確認が済んだことを対岸へ知らせる。
 鐘の音に守られ、幼子は誰に呼び止められることなく橋を渡り終え、裏門を通り抜けていく。
 その後を、笠を目深に被った修験者姿の遠藤基信が付いていく。白装束は遠藤の忍び装束である。
 幼子は米沢城の前を走る大通りへ出ると、長井へ通じる街道へと入っていった。

 開門の鐘が裏門から聞こえてきて、奥向きの縁廊下を歩いていた綱元は足を止めた。
 朝の登城の時間帯、門は開いているはずだから、その前に閉門の鐘が鳴らされてないことを考えれば、開門の鐘は鳴らぬはずである。鳴るとすれば、通行許可を持たぬ者が裏門に現れて、門を閉ざす前に許可が降ろされた場合のみ。
(まさか……)
 綱元の心に不安とも驚きともいえない感情が湧き起こる。
 今朝、梵天丸の乳母から、梵天丸の姿が朝から見えないと報告を受けていた。
 実際は朝からではなく、昨日の夜からなのだろう。
 日中部屋に閉じ籠もっている梵天丸は、夜間に部屋から抜け出して、城内を遊び歩くのが日課となっていた。夜遊びは褒められたものではないが、部屋からまったく出なくなってしまうよりはましと、父親である輝宗は梵天丸の夜遊びを黙視していた。
 いつも、空が白む前には部屋へ戻っていたものを、今回は夜が明けても部屋には戻らず、梵天丸は姿を消してしまっていた。
 一体何処へ行ったというのか?
 日中は表に姿を晒すことを、何より懼れるあの幼子が――
「おい、こっちに若君が……」
 言いながら、小姓達の詰め所である部屋の障子戸を開けた綱元は、言葉を切った。
 最後に小姓達へ確認してから輝宗へ報告に上がろうと、綱元は小姓達の詰め所へ顔を出したのだったが、勤番の小姓達に囲まれて、本日は休みであるはずの片倉小十郎が其処にいるのを発見したからだ。
「……おまえ……」
 どうして此処にいる? と綱元が目で尋ねれば、小十郎ではなく、先輩格である他の小姓が答えた。
「片倉が、本日からお暇を頂くとのことで、殿に挨拶に見えたのですが……」
「暇!?」
 その一言を聞き返し、綱元は小十郎を見る。
「首?」
 小十郎を指差して、綱元へ説明した小姓に尋ねる。
「いえ。八幡宮が年末年始は忙しいのと、新宮司になったばかりということで、手伝いにしばらく休ませると、昨夜、殿から連絡がありました。小十郎の方にも、昨晩の笛の席でお達しがあったということです。ですから、特に挨拶は必要ないのではと思うのですが……」
 判断を委ねるように先輩格の小姓は、上司である綱元を見る。
「何事も、けじめは必要かと思われます」
 それまで黙っていた小十郎が口を開く。
 口振りからして、小十郎の挨拶の取次ぎは他の小姓達に拒まれているようだった。
 確かに断りたくなるような雰囲気が小十郎から滲み出ている。物腰は柔らかなのに目が笑っていない。
「まあ、そこまで言うんだったら、挨拶してくれば?」
 オレが取り次いで来てやると、綱元は小姓達の詰め所の部屋を出て、輝宗の居室へ向かった。
(梵天丸が居なくなったのと、小十郎が姿を現したのは、繋がってんのか――?)
 梵天丸がいなくなったと聞いて、綱元は、いの一番に南の宿直棟にある小十郎の部屋へ向かった。其処に梵天丸がいると思ったからだったが、室内には誰も居らず、部屋はもぬけの空だった。

「綱元です」
 縁側に腰を落として名乗ると、「どうした」と、障子戸の向こうから主である輝宗の声が返ってきた。
「小十郎が暇乞いの挨拶に来ております――挨拶とは名ばかりで、実は他にあるようですが――それと、今朝から梵天丸様のお姿が見えないと乳母から報告がありました。先程、開門の鐘が鳴ったのも気になります、如何しましょう?」
「梵天丸のことなら大事ない。基信が付いておる」
「そうでしたか。安堵しました」
「して、小十郎が参ったか?」
「はっ。戦に出るような目をしております」
「本性を現したかな――面白い、通せ」
「はっ」
 一礼して御前を辞去すると、綱元は主の返事を伝えるべく、小姓達の詰め所へ戻った。

 小十郎を輝宗の部屋へ案内すると、綱元は小姓達の詰め所へ戻ってきて、床の間に上った。
「……綱元殿、何をして……」
「盗み聞き」
 上司の不審な行動に小姓のひとりが咎めるように尋ねれば、綱元は悪びれも無くそう答える。
 綱元は床の間の壁に耳を当てて、壁の向こうにある輝宗の部屋の会話を聞こうとしていた。
 元々、小姓達の詰め所はそのためにあるのであり、いざとなったら打ち抜いて踏み込めるよう、壁の造りは薄く出来ている。
「本日よりお暇を頂きます」
 壁越しに小十郎の声が聞えてきた。続いて、相対する輝宗の声も
「昨晩は梵天丸が世話になったな」
「その梵天丸様の事なのですが――」
「梵天丸なら出掛けたそうだ」
「え?」
 輝宗の言葉に少年は驚きの声を上げた。
 梵天丸が泊まったことを指摘されたことには前回同様、遠藤から知らせが行っているのだろうと想い驚かなかったのだが、幼き主が外へ出掛けたと聞いては驚きを隠せない。
「そなたの部屋を出て城下へ向かったと、基信から知らせが入った」
「城下?」
「話は、梵天丸のお泊まりのことだけか?」
「あ、いえ」
 輝宗から指摘を受けて、小十郎は仕切り直す。
「梵天丸さまのお顔を拝見し、ご不快な思いをさせてしまったものと思われます。この場を借り、深くお詫び申し上げます」
 父親である輝宗に小十郎は深々と頭を下げる。
「夜の追いかけっこの事なら基信から聞いている。可愛い子供の目玉が飛び出ておれば、驚かぬ方がおかしいよ。小十郎は梵天丸の右目が潰れていたこと、よもや知るまい?」
「ですが……」
「顔を出さなくなっただけで、そなたの声も笛の音も、襖の向こうで聞いていた。病後、母親やお付きの女供に、その身を哀れまれ、右目を厭われたのが、子供心によほど堪えたと見える。随分と臆病になってしまった……」
「……。」
 沈黙の後、小十郎が口を開いた。
「姫様の乳母を募集しているとお聞きしました。梵天丸さまの乳母をお回しされては如何かでしょう? 梵天丸さまの新しい乳母につきましては、我が姉喜多を推薦いたします」
(!?)
 壁越しに盗み聞いていた綱元は、少年の言葉に驚く。
 乳母推挙など、年端のゆかぬ子供のすることではない。どうなることかと耳を近付けるが、壁があるのでそれ以上は近寄れなかった。
「お前の姉は独身ではなかったかね?」
 案の定、呆れたような、からかうような輝宗の声が聞こえてきた。
「梵天丸さまは、乳離れなさっておいでとお聞きしました。その点は問題ないかと思われます。私と兄の景広は幼き頃に母を失い、姉喜多に養育されて参りました。喜多は、実父である鬼庭左月様から、婿を取って家を継ぐよう、女子ながら四書五経、馬の扱いから弓の手入れまで、教え込まれた女子でございます。左月様は殿の片腕なる人物なれば、その左月様に武人の習いを教え込まれた姉は、若君の養育係の乳母として、不足はないものかと思われます」
「ちゃんと調べは付いているようだな」
 片腕である鬼庭左月の名を引き合いに出し、話を進めてきた少年に、伊達家の当主は態度を改める。
「女だてらに漢学か。まるで、どこぞの少納言だな……よろしい。自慢の少納言を連れて参るがよい」
「心得ましてございます」
 主から命を賜ると、姉を城へ迎えるべく、少年は朝を迎えた部屋を出ていった。

五章 八幡詣

 八幡宮への道のりは簡単だった。
 城の表通りを走る街道沿いに西へ向かって歩いていき、川を渡った所に建つ鳥居から参道へ入っていけばいい。
 八幡宮の月の行事には赤子の頃から連れて来られていたから、梵天丸は道を覚えてしまっていた。
 半時ほどかけて街道を歩いていき、橋を渡って大きな鳥居を潜ると、梵天丸の目の前に長い石段が現れる。
 八幡宮は川の西岸にある小高い丘の上に建っており、小十郎は此処に住んでいた。
 石段の雪は綺麗に掃き清められ、一段一段踏みしめるようにしながら、幼子は段を昇っていく。
 石段を昇りきると、其処に建つ二の鳥居を潜り、幼子は八幡宮の境内へと入った。
 境内はひっそりとしていた。
 御祭礼である月の行事の時と違い、露店も出ていなければ参詣客の姿も見当たらない。雪の時期ということもあり、八幡宮の人出は少なかった。だが、人の目が無いということは、梵天丸にとっては好都合だった。面を被って、右目を見えないようにしていたが、見る懼れのある者がいないに越したことはないからだ。
 早速、梵天丸は小十郎を探しはじめた。
 まずは、参道をまっすぐ歩いた所に建っている拝殿の中を覗いてみることにする。
 小十郎は八幡神に仕える神職の子であると聞いていた。そして、神社は神の家だとも。だから梵天丸は、小十郎が八幡宮の社殿の中に住んでいるとばかり思っていた。
 拝殿の階を昇り、梵天丸は社殿の中を伺う。
 社の中には誰もおらず、杉の木の材で作られた白木の祭壇に、鏡を中心とした祭器が設えられているだけだった。左右を覆う帳の向こうにいるのだろうかと、梵天丸が拝殿の中へ踏み込んだ時、声が掛かった。
「何をしておるっ!」
 するどい声が飛んできて、梵天丸が驚いて振り向くと、緋袴を穿いた巫女が立っていた。
「仮面を付けて社に踏み入るとは、盗賊の子か!? 神前を穢す者は、子供とて容赦はせぬぞ!」
 巫女は足早に階を昇ってくると、梵天丸の顔から面を剥ぎ取ろうとした。させまいと梵天丸は両手で押さえて頑張ったが、力負けして外されてしまう。
 露にされてしまった右目。梵天丸は恨めし気に女を見た。
 梵天丸の右目の状態を知った巫女は、幼子が付けていた面の意味を理解する。
「――手負いか。傷病平癒のお参りに来たか? だが、神の前で隠し立ては無用というもの。神様は何もかもお見通しじゃ。お側で願うよりもまず、隠し立てせずに願うことこそが肝要じゃ」
 優しく諭すように、梵天丸へ語りかける。
「主は驚かぬのか?」
 一方の梵天丸は、潰れた右目を見ても顔を背けぬ女に驚いていた。
 戦に出る男どもは、体に傷を負うは戦乱の世の常と、梵天丸の潰れた右目を見ても顔色を変えぬ者も多かったが、女で色を変えぬ者に梵天丸は初めて出会った。
「何を? 面を付けて神前に入る不届き者には驚いたぞ」
「右目じゃ」
 的を射ない巫女の言葉に、梵天丸は核心を告げる。
「ここは社ぞ。失せ物、得る物、願い祈り、神へ頼み事をする者が参る所じゃ」
 巫女はそう答えると、取り払った面が邪魔にならぬよう、梵天丸の背へ垂らすように結わえ直してくれた。そして、何かに気付いたように梵天丸の背に手を添えると、その身体を自分の方へと寄せた。
 何だろうと梵天丸が背後へ顔を向ければ、別の参拝者が階を昇ってくる所だった。
 その者は傷病者だった。
 一見して、症状は梵天丸より重い。片目が潰れた上、頬が引き攣れて、跛をひいている。
 梵天丸は相手の姿を見て、恐怖を感じて引いてしまった。しかし、相手は梵天丸の潰れた右目見ても、別段驚いている風は無かった。その者は戦に出るような武人ではなく、田畑を耕す農夫の風体をしていたが。
 男は不自由な体を前後に揺らすようにして調子を取り、一段一段、階を昇ってくる。巫女である女を見ると、男は恭しく礼をした。
 女も会釈をして返す。
 隠れるように巫女にくっ付いていた梵天丸も、ふたりに倣うようにして頭を下げた。この時幼子は、体の不自由な相手を気遣って、女が梵天丸を階の端へ寄せたのだと理解した。
 参拝を終え、男は場を去っていく。
 ふたりきりになってから、巫女が梵天丸に言った。
「今年は疫病神が荒ぶられてのう……たくさんの者達が家族や己が体の一部を、黄泉の国へ持って行かれてしまったのだ」
「梵の右目も疫にやられたのじゃ!」
「ほう! 疫病神相手に右目ひとつで渡り合うとは、小さいのに見上げたものぞ。よくぞ生きて戻って参ったなぁ」
 巫女は腰を屈めて幼子の目線に合わせると、梵天丸の事を褒め称えた。
 疫に罹患してこの方、嘆かれた事は多々あれど、褒められた事は一度たりとも無い。誇らしい想いを取り戻した梵天丸は、巫女の顔を見ると笑顔を見せた。巫女もにっこりと微笑み返す。
「坊は、お参りは済んだのか?」
「梵はお参りに来たのではない。小十郎に会いに来たのじゃ!」
「小十郎……にか?」
「そうじゃ! お主、小十郎が何処にいるか知るまいか?」
「知っているも何も、小十郎は弟なれば……」
「小十郎の姉君か! 名は何と申す?」
「喜多と申すが……」
「喜多、よろしく頼もうぞ!」
「う、うむ…」
 幼子に返事をしながら、喜多は数年ぶりにこの地へ戻ってきた弟の事を考えていた。
 他家へ養子に出されて戻ってきて以来、小十郎は神職の手伝いをしながら、八幡宮の実家で過ごしていた。近所に斯様な幼い友人が出来たという話は聞いていない。
 喜多は弟の名を口にした幼子の顔を見た。
 見覚えのない顔であった。
 喜多が知らないのだから、小十郎も知らないはずの顔なのだが、幼子は小十郎のことを知っている様子。だとすると、養家先での知り合いか、一月程前に勤めに上がった城での知り合いとなる。
「喜多、あやつは笠を取らなくて良いのか?」
「…え?」
 問われて顔を向ければ、幼子が指差した先に、編み笠を被った虚無僧の姿があった。その隣には喜多の義弟であり、八幡宮の宮司である景広が立っている。彼らは参拝の順番を待つ参詣客のように、梵天丸と喜多の背後にある狛犬像の脇に佇んでいた。
(あの方は――)
 男の姿には見覚えがあった。
 笠で顔を隠してはいるが、輝宗の片腕である遠藤基信の変装した姿で間違いない。
(遠藤様が付いておられるということは、この子はまさか……)
 喜多は幼子の正体に気が付く。
 現当主である伊達家十六代目輝宗の長子の名は梵天丸――
(『坊』ではなく『梵』であったか!)
 喜多は己が失態を悟る。
 実父である鬼庭左月と顔を合わせるのを避けるため、喜多は輝宗一行が八幡宮を参詣する時分は、表には出ずに裏方へ徹していた。そのため、梵天丸の姿を見る機会も持たなかった――顔に覚えがないのも当然である。
 喜多が膝を付こうとした時、景広が狩衣の袖をひらめかせながら、こちらへ歩いてきた。
 梵天丸は狩衣が珍しいのか、それとも小十郎に似ていると思ったのか、景広を凝視している。
 父を同じくする兄弟であり、歳も近く、共に育ったということもあって、景広と小十郎は纏う雰囲気に似ているものがあった。
 景広は梵天丸へ一礼すると、幼子の質問へ答える。
「彼は虚無僧。お天道様に顔向けできない身の上故、笠をかぶっているのです。笠を取り上げるのは無慈悲というもの」
 景広の説明に礼を言うように、背後に立っている白装束の男は笠を被ったまま頭を下げた。
「ふーん」
「私は小十郎の兄、片倉景広と申します」
「蘭陵王か?」
「いかにも」
 景広の返しに、幼子は満足気な笑みを見せた。
「姉上、若君には社務所の方でお待ちいただきましょう」
 弟の提案に、「そうじゃな」と、喜多も同意を示した。
「笛の奏者も直に戻りましょう。それまではこちらへ」
 差し出された景広の手の平に梵天丸が手を乗せると、景広は梵天丸の身を抱きかかえ上げた。
「御足傷めますので、失礼いたします」
 そう断って景広は、梵天丸の裸の足を狩衣の広い袖で包み込むと、そのまま抱えて、境内に建つ社務所へと向かった。後には喜多が続き、その場には隠密である基信だけが残った。



 雪道を歩いてきた梵天丸のため、社務所の式台には湯を張った盥が用意された。
「こんな雪道を裸足で歩いて来られたとは……凍傷になりますぞ」
 城から歩いて来たと言う梵天丸に、喜多が驚いて咎めの声を掛けるけれど、湯水で清められ、暖められた梵天丸の足裏は、凍傷どころか霜焼けも負っていなかった。
(幼子の足は暖かいからだろうか……)
 喜多は訝りながら、寝巻きで出てきた梵天丸の替えの衣服を用意しようと、社務所の奥向きへ下がっていった。
 そんな喜多を待つ間、景広は梵天丸を小十郎の部屋へ案内した。
 梵天丸が見たいと、望んだためである。
 景広に案内されて、社務所の廊下を南へと進み、突き当たりの板戸を開ける。
「せまい…」
 現れた出でた部屋の大きさに、幼子は率直な意見を述べた。
 部屋は三帖程の広さで、梵天丸の部屋の半分の広さもない。
 正面の壁には書見用の出文机が付いた障子戸となっており、そこから冬の陽光が入り、室内は明るかった。
 西側は板壁、東側は下半分が物入れの、上半分が書棚の造りとなっている。
 物入れの天板の上には文箱が置いてあり、梵天丸が興味を持って蓋を開けてみると、重ねた上の段に丁寧に使い込まれた筆や硯が収められていて、下の段には紙類が仕舞われていた。その中には、今まで梵天丸が小十郎へ送った御捻りの薄様も収められていて、それらは綺麗に皺を伸ばされて仕舞われていた。
 見覚えのある薄様を目にした幼子は、見てはいけないものを見てしまった人のように、すぐに箱の蓋を閉じた。
「何かありましたか?」
 景広が尋ねると、幼子は嬉しそうに首を振った。
 書棚に置いてある書物を見せてもらおうと、梵天丸が景広に頼んで取って貰えば、それらは小十郎が書き写して纏めた物だという。原本は八幡宮の蔵にあり、史書や兵学などの漢籍や雅楽の楽譜などが、種類ごとに一つの冊子になっている。試しにひとつ、雅楽の楽譜の頁を捲ってみれば、梵天丸には意味のわからぬ、数字と文字が書き連ねてある。
「……わからぬ」
 幼子は首を捻った。
「姉上!」
 その時、西の板壁の向こうから小十郎の声が聞こえてきた。衝撃に、幼子は肩を揺らす。
「小十郎が戻りましたようです」
 景広が告げると、梵天丸は頷き、背に吊るした玄狐の面を付けてくれるよう、景広へ頼んだ。
「小十郎を怖がらせてはいけないからな」
 そう言い訳をして、梵天丸は再び面を被ったのだった。

 小十郎が勝手口から社務所へ入ると、姉の喜多がお勝手の奥にある自室で、行李の整理をしていた。
「姉上」
 再度声掛けしながら、小十郎は履物を脱いで土間から上がり、姉の居る板間へと歩いていく。
「小十郎、今そなたの部屋に――」
 続く姉の言葉は聞かず、部屋の前で平伏すると、小十郎は頭を下げて姉に頼んだ。
「姉上、乳母になってください!」
「…は?」
 突然の弟の申し出に、喜多は頓狂な声を上げる。
「乳母とは、たわけたことを……子も産んでおらぬ私に乳が出る訳なかろう」
「乳は出なくてもよろしいのです。梵天丸様の身の回りのお世話をしていただければ――」
「――喜多が、梵の乳母になるのか?」
 聞こえてきた声に驚いて、小十郎は顔を上げる。
 声のした方に顔を向ければ、お勝手の板間の上に、玄狐の面を付けた幼き主が立っていた。
「梵天丸様!?」
「そうくろきつねじゃ!」
「総黒狐!?」
「お忍び故、化けて来られたそうです」
 梵天丸の背後に付いていた兄の景広が、幼き主の名乗りを補足する。
 総黒狐とは、輝宗の叔父である亘理元宗が治める亘理城下にある尊久老稲荷の祭神のことで、全身真っ黒の毛を持つ狐のことである。対岸の、純白の毛を持つ竹駒稲荷の狐とは夫婦狐とされ、参議小野篁が、陸奥の太守に任じられて巡行した際に、幼き童子の姿に身を変えて現れ、一行の道案内をしたという謂れを持つ。
 白狐も玄狐も総じて人を化かすが、今、人を化かしているのは兄の景広だろうと、小十郎は思った。
 小十郎の目の前に立つ玄狐の面を被った幼き童は、何から何まで、小十郎の知っている梵天丸である。
「梵天丸様の乳母は既におったであろう。その者はどうしたのじゃ?」
 景広と幼き主の登場に、小十郎が面食らって言葉を忘れていると、姉の喜多が話の先を促してきた。
「妹君である姫様の乳母に移られます」
「そうか。相わかった」
 喜多は席を立つと、梵天丸の前に端座した。
「…喜多が、梵の乳母になるのか……?」
「そのようでございます。喜多めは独り身故、乳母ではなく保母ということになりましょうが……」
「ホボ?」
「若君の身の回りの世話をさせて頂く女子のことでございます」
「保母か! 嬉しいぞ、喜多」
 喜びを全身で現すかのように梵天丸は喜多に抱きついた。抱きついてきた幼子を喜ばすように、喜多は立ち上がると梵天丸を高く抱き上げる。
 知らない間に仲良くなっている姉と梵天丸に、小十郎はただ茫然と見つめるしかなかった。
「梵天丸様、小十郎めに何か御用がおありだったのでは?」
 弟の視線に気が付いた姉が、腕の中の幼き主に八幡宮へやって来た用向きを知らせる。
「そうであった!」
 梵天丸は喜多の腕から下ろしてもらうと、板の間に両膝を付いている少年へ向き合い、「腰を上げてくれ」と、まず頼んだ。
「……小十郎、帯でぶったりして済まなんだ……梵天丸のこと、許してはくれぬか…?」
 立ち上がった少年に、幼子は許しを乞うてくる。
 それは八幡宮へ来る間、梵天丸が歩きながら考えてきたことだった。
 小十郎が何故、八幡宮へ帰ってしまったか――? それは梵天丸が謝っていない所為だと、幼子は考えることにしたのだ。
「いえ。私の方こそ失礼なことを……」
 主筋である梵天丸に謝られて、反射的に小十郎は侘びを入れてしまう。
 言った瞬間、しまったと思ったが、時既に遅く、
「小十郎は何も悪いことをしていないのに、何故謝るのじゃ?」
 逆に梵天丸から問われてしまう。
 梵天丸の病んだ右目を見て色を失ってしまったからだとは言えず、考えを巡らした結果、物陰に隠れて待ち伏せし、梵天丸を驚かしてしまったことだと、小十郎は答えた。
「それはお互い様じゃ」
 梵天丸は許してくれたが、隠し事は見抜かれてしまったのかもしれない。
 この幼子は賢かった。
「皆で城へ帰ろう」
 梵天丸は右手で喜多の手を取ると、左手で小十郎の手を握った。
「私は、春鶯囀を修めるよう、殿に言われておりますので……」
 少しも傷付けることがないよう慎重に、小十郎は両手で梵天丸の手を解いた。
「梵のこと、許してはくれぬのか…?」
「満足な演奏が出来るまで城に上がってはならぬと、お父上様のお言葉なれば……」
「父上には梵から言っておく! だから小十郎、一緒に城へ帰ろう」
 梵天丸は再び小十郎の手を取ろうとした。
 掴むことがないよう、小十郎は手を引く。
「小十郎!」
 傍らで見ていた姉が、弟の行動を咎めた。
 凍りついたように、幼子の指が宙で止まっていた。
 梵天丸は首を振ると、小十郎を叱ってくれるなという風に喜多の手を引っ張った。玄狐の面の奥の左目が涙で潤む。
「……梵の右目が醜いからじゃ……」
「そうではございませぬ!」
「そこまででございます、梵天丸様」
「基信っ!」
 笠を取って社務所の勝手口から入ってきた父の腹心を、幼子は呼びつける。
 小十郎は実家の勝手口に現れた上官に、膝を付いて頭を下げた。
「劉備は孔明を得るのに、三顧の礼を取りました。此処は一旦、引きましょうぞ」
 幼き主にそう提言すると、伊達家の重臣は城へ戻るよう梵天丸を促した。



 小十郎が自分の部屋へ戻ると、出文机の上に書物が数冊、開かれた状態で置かれていた。
 何だろうと改めると、小十郎が八幡宮の蔵書から書き写して纏めた、雅楽の楽譜や漢書の類だった。一緒に部屋へ入ってきた兄の景広が、それらを梵天丸が見ていたと説明してくれた。
「小十郎の部屋を見たいと仰いまして案内を。小十郎に断りも無く、悪いとは思いましたが」
「いえ、それは構わぬのですが……」
 寝巻きのまま八幡宮へやってきたという梵天丸は、今、城に帰るべく、喜多の部屋でお召し替えをしている。
「輝宗公は小十郎に春鶯囀をお望みですか」
「はい」
「大曲ですね。楽譜の写しは全部ありますか?」
「いえ、一部しか……」
「取ってきましょう」
「ありがとうございます」
 小十郎が礼を述べると、景広は頷いて部屋を出ていった。八幡宮の宝物庫である蔵の鍵は、宮司である兄が預かっている。
 ひとり部屋に残された小十郎は、出文机の前に腰を下ろすと、息をひとつ吐き出した。
 先程の梵天丸との遣り取りを思い出していた。
 仮面の向こうで潤んだ瞳。
 また傷付けてしまったのかもしれないと、小十郎は己を責めた。

「弟のお古で申し訳ございませぬが……」
 子供用の水干を梵天丸に着せながら喜多が詫びると、『弟』という単語を聞きとめた梵天丸が尋ねてくる。
「小十郎のか?」
「いえ、景広のです」
「兄上のか…」
 少しがっかりした様子で梵天丸がつぶやく。
 そんな主の落胆ぶりを気にして、「まあ、景広のお古で小十郎も着ましたが……」と喜多が真相をばらすと、幼子は面の内で笑った。
「喜多、怒るでない」
「いいえ、怒ります。梵天丸様に対する小十郎の振る舞い、許されるものではございませぬ」
 そう言って、姉は弟の代わりに頭を下げた。
 梵天丸が着せられた水干は、景広と小十郎が七つの祝いに着用した晴れ着だった。お古といっても数度しか腕を通していない、八幡宮で一番上等な子供服だった。地紋に紗綾型を織り込んだ白の正絹に緑の糸で作られた菊綴が合わせ目に付く。
 梵天丸は大事なものであるかのように、胸元の菊綴を指で包んだ。
 そんな幼子の仕草に喜多は微笑むと、着替えを終えた主を促して、社務所の表である西の棟へと案内した。
 八幡宮の社務所は式台のある玄関から、西と南へ棟が伸びる二棟構造となっていた。
 西の棟が八幡宮の公けの行事で使われる表で、南の棟が片倉家の生活の場として使わる奥向きであった。
 梵天丸は、一番格式の高い、西の棟の一番奥の部屋へと通される。
 その部屋は、南の棟の端にある小十郎の部屋からは、一番遠い部屋であった。
 奥の間へ入ると、「お食事ですから」と断って、喜多が梵天丸の面を外した。
 部屋に小十郎の姿はなく、部屋にいたのは素顔を知る基信で、喜多には面を付けられても外されても平気であったので、梵天丸は抵抗しなかった。
「片倉家の者達が朝餉を用意してくれました。梵天丸様、ご厚意に甘えましょうぞ」
 基信は、二つ並んだ朝餉の膳を主に示す。
 梵天丸は側の喜多へ視線を向けた。
「私は城へ上がる支度をして参ります。梵天丸様は遠藤様とお食事を」
 喜多の言葉に梵天丸は頷くと、空いている上座に腰を下ろし、朝食の席に付いた。
 膳の上には、白木の椀に白粥と青菜と油揚げの味噌汁、素焼きの皿に鱒の燻製の切り身と香の物が盛り付けてあった。
 梵天丸は椀を手に取ると味噌汁を啜った。
 幼き主が食事に口を付けたのを確認してから一礼し、喜多は奥の間を退出していった。



 自室で兄の景広を待つ間、小十郎は梵天丸が見ていたという書物を眺めていた。
 廊下を渡ってくる足音に気付き、小十郎が戸を引き開けると、戸口には兄ではなく姉の喜多が立っていた。姉の訪問に小十郎は驚く。
「姉上…」
 口篭っている弟を尻目に、姉は室内へと上がり込んでくる。
「梵天丸様は?」
 姉が開けたままにした部屋の板戸を閉め切ってから、小十郎は想い人の様子を尋ねた。
「遠藤様とお食事中じゃ」
「…そうですか……」
 小十郎は兄から聞いた梵天丸のことを思い出す。
 朝食も取らず着の身着の儘で、梵天丸は城を出てきたとのことだった。それは、目を覚ました部屋に自分が居なかったせいだろうかと、小十郎は考えていた。
「小十郎」
 名を呼ばれて、小十郎は我に返る。
「――あ、乳母の件ですが、輝宗様との対面の際に、漢学の話が出るやもしれませぬ」
「出ると、何かあるのか?」
 姉の問い掛けに、小十郎は乳母へ推挙した際に出た少納言の話を伝えた。
「わかった。問題無い」
「よろしく頼みます――ところで、姉上」
「何だ?」
「その…姉上と兄上は、今日会われたばかりだというのに、随分と梵天丸さまと仲良くなられておられるのですね…?」
「そなたも随分と思われているではないか」
「思われているというよりは過ぎたことを気にされただけかと――追えば逃げられますし、逃げているから追ってきているような……」
「参るぞ」
 喜多は弟の腕を取った。
「は?」
 相手の意図が読めきれず、小十郎は疑問の声を上げる。
「そなたは私と一緒に城へ上がるのだ」
「なっ…」
 姉の意を理解した小十郎は、掴まれた腕を解こうとした。だが、女ながら武道の嗜みを持つ姉だけあって、喜多の腕は強く、簡単には振り解けなかった。
「お放しください! 私は意地を張って城に戻らぬのではないのです。満足のいく笛の音を取り戻すまでは、家で修練せよと殿のお言葉なればっ」
「あんな小さな梵天丸様が、おひとりで八幡宮まで迎えに来られたというのに、五体満足のそなたが行かぬと申すかっ!」
「私は梵天丸さまを、小さき方とは思っておりませぬ!!」
「何をっ!?」
 姉と弟が互いに一歩も引かずにいると、部屋の入り口の引き戸が開いて、春鶯囀の楽譜を手にした景広が姿を現した。
 景広は表へ聞こえないよう板戸を閉め切ると、姉である喜多へ告げた。
「姉上、若君のお食事が終わったようです。姉上を待つ間、若君は遠藤様と、三顧の礼の話などなさっておいででした――なんでも、淵に潜んでいる臥龍を守り龍とするには、礼を尽くして三度参らねばならぬとか」
「――小十郎が龍だと?」
「淵に潜む蛟が天翔る龍神になるには、守るべき玉を手にして鳳凰へ孵した時。龍が鳳凰を為し、鳳凰が龍神を為すのです――その時が来たのなら姉上が泣いてお止めになられても、小十郎は行ってしまうでしょう」
「それは無い。私が若君の元へ参る」
 動こうとしない弟の手を離すと、姉は踵を返して部屋を出ていった。
「あるべき場所へと還る……」
 姉が去った部屋で、弟は宮司である兄へ問う。
「私のあるべき場所が若君のお側とは思えません。私がからかわれているだけなら良いのですが、私は梵天丸さまのお心を傷付けているようだ……主にあのような面を付けさせて、私は蘭陵王の愚か者の部下のようではないですか……」
 小十郎の言葉に景広は忍び笑いを漏らした。
「確かに、小十郎は家臣としては失格ですね。小十郎は輝宗公の小姓として城へ上がったはずなのに、若君のことばかり気にしておられる」
「!」
 思わぬ所を突かれて、小十郎の顔に朱が差す。
 そんな弟に景広は重ねて笑みを結ぶと、八幡宮の蔵から持ってきた春鶯囀の楽譜を差し出した。
「小十郎は春鶯囀の謂れを知っていますか?」
「唐の高宗が、鶯の声を写させた曲と聞いていますが……」
 楽譜を受け取りながら弟は答える。
「それもありますが、唐で皇太子が立つ時に演奏される曲なのですよ。立太子の式にこの曲を奏すると、鶯が来て百囀するとか」
「立太子…」
 その言葉を小十郎は反芻する。
 皇帝が皇帝を継ぐ者として皇太子を立てることを立太子という。伊達家で言うなら輝宗が嫡子を定めることであり、つまりそれは、輝宗は梵天丸を嫡子にしたいという意思表示――その件については、基信からも聞かされていて、小十郎は知っていた。梵天丸を十七代目とするには資質としては申し分ない。だが、表に立てぬようでは、武家の棟梁にはなれぬのだと――

 喜多が風呂敷包みを抱えて梵天丸達が待つ奥の間へ入っていくと、基信に問われた。
「その格好で行くのか?」
 喜多は緋袴を穿いた巫女の装束のままだった。巫女として城に赴くならいざ知らず、梵天丸の乳母として城に上がるのにその格好はないだろう、そう基信は問うたのだった。
「はい。少納言なれば」
「少納言?」
 喜多の返しに、基信が聞き返す。
 梵天丸の警護に付いて城を出てきた基信の耳には、輝宗と小十郎の間に交わされた遣り取りは入っていない。
「喜多、清少納言か?」
「当たりでございます」
 梵天丸の答えに、喜多は微笑んだ。
 喜多が胸に抱える風呂敷包みには、梵天丸の寝巻きと、母の形見である打掛が入っていた。打掛を緋袴の上から纏えば、女房装束のようにも見えるだろう。
 部屋から出る際、幼子は乳母に面を付けさせてから、表へ向かった。

 巫女と虚無僧と面を付けた童という、風変わりな一行が社務所の式台から外に出てくると、離れから龍笛の音が響いてきた。
 基信の腕に抱えられていた幼き主は、小十郎の部屋がある南の棟の外れへと目を向ける。
「早速、練習を始めましたな。お声をお掛けになられますか?」
 笛の音に耳を澄ましている幼子に基信は伺いを立てる。
 龍笛が奏でている調べは、梵天丸が今まで聞いたことがないものであった。
 小十郎は『春鶯囀』を練習しているのだなと、幼子は思った。父である輝宗と、梵天丸との約束を守るために――
「よい。城へ戻る」
 幼子は顔を前へ向けると供の者へ先を促し、八幡宮を後にした。

六章 跡継ぎ教育

 梵天丸が城から抜け出した日、輝宗は米沢城の奥向きにある私室で叔父の大有康甫と密談していた。
 大有は子沢山だった伊達家十四代目当主稙宗の子息のひとりで、六歳で仏門入りし、今は米沢城下の東昌寺の住職をしている。
 その東昌寺に、一夜の宿を求めにきたのが禅僧虎哉宗乙で、虎哉の人柄に感じ入った大有は、かねてから相談を受けていた輝宗の子供達の師に虎哉宗乙を推挙し、虎哉を米沢城下へ招くよう輝宗に薦めた。
 使者には大有が自ら立ち、礼を尽くして虎哉へ願い出たのであったが、母親をひとり故郷に残してきていると、最初の申し出は断られた。そこを通い詰め、どうにか口説き落とした所、虎哉が了承の返事を与える代わりに示した条件というものが、『虎哉がいる資福寺まで、弟子入りさせる伊達家の子息を通わせる』というものであった。
 資福寺は米沢城の北、城から馬で半時ばかりの高畠の地にある。
 梵天丸の身に何事も起こらなければ、何の問題も無い条件であったが、疫に罹患し、右目を病んだ梵天丸は座敷から出ようとしない。
 本来ならこの年の秋から、虎哉の元へ通うことになっていたのだが、疾病を理由に、来年の春へと延期して貰っていた。
 無理を言って承諾してもらった手前、これ以上の引き伸ばしは苦しく、かといって、虎哉が出した条件を梵天丸に守らせるには更に苦しい。
 虎哉の元へ通うのが一度や二度のことなら、梵天丸を騙して連れて行くこともできようが、ことは学問の修行である。一朝一夕で修められるものではなく、長期間通い続け、ようやく身に付くかどうかといった代物であった。
 本人のやる気が肝要なのであり、梵天丸がさぼるようなことでもあれば、師である虎哉に対する不敬であり、大叔父である大有の顔へ泥を塗ることにも繋がった。
 そのため輝宗は、梵天丸が座敷から表へ出るよう、あらゆる手段を講じた。
 まず、片目を失った我が子を不憫に思い、飛べぬ鳥を鳥籠へ入れるように、城の奥向きで養育しようとした母親の手から引き離した。
 次に引き篭もりを止めるよう、事ある度に説得を試み、時には実力行使で表へ連れ出すことも辞さなかった。
 そして、梵天丸が興味を持ちそうなものは何でも取り揃え、それらで釣って、表へ誘い出そうとした。
 しかし、梵天丸が釣られることはなく、かえって堪え性のなかった心根に、忍耐力が付く有様だった。
 梵天丸が右目を失ったことで負った傷は予想以上に深く、傷が癒える日は来ないかのように思われた。
 そんな中、疫病退散成就の奉納神事が八幡宮で行われ、梵天丸は小十郎を見初める。
 それまで講じられた手段同様、輝宗は小十郎を小姓として登用すると側へ置いた。梵天丸は警戒しつつも部屋から出てきて、小十郎にその姿を晒す。
 今朝などは小十郎を追い掛けて、城下の外れにある八幡宮まで出掛けたという。
 これで右目を隠している面を外すことができれば、事は解決したも同然だった。
 だが、梵天丸が面を外さぬ場合どうするか――?
 幸いと云うべきか、虎哉宗乙と梵天丸は面識がなかった。
 そして、虎哉に教育を依頼したのも、梵天丸とは限定せずに、『伊達家の子息』と幅を持たせていた。
 それはせっかくの名僧の教え故、梵天丸と共に弟の竺丸も通わせようという欲目からだったのだが、梵天丸が表へ出ぬようになった今では、言い訳に使えた。
 梵天丸がどうしても表へ出ぬ場合、竺丸を虎哉の元へ通わせ、虎哉に教育を依頼したのは始めから竺丸であったと、輝宗は告げるつもりでいた。
 それは事実上、梵天丸ではなく竺丸を伊達家の嫡子にすると、内外に宣言したことになる。
 竺丸は、梵天丸とは同腹の年子の弟で、才気では梵天丸に劣るものの、我慢強く芯の強い子だった。
 輝宗は、梵天丸が備える資質は、肉体の欠損には左右されないと、右目を失ってからも梵天丸を嫡子にという考えは変えずにいたが、梵天丸が表へ出ぬというなら話は別である。
 その時は、叔父である大有康甫のように梵天丸を出家させ、兄の代わりに家督を継ぐことになった弟竺丸の、相談役にしようと考えていた。黒衣の宰相よろしく、相談役なら表に出なくても務まるからである。
 梵天丸と竺丸は仲の良い兄弟であり、梵天丸が夜な夜な城内を出歩くのも、昼間は相見えることができない弟と、夜の城内で落ち合って遊ぶためでもあった。

「殿、たった今、基信が若君を連れ帰りましてございます」
 縁側から障子戸越しに声が掛かった。鬼庭左月の声である。ちょうど、己の考えを叔父である大有康甫へ語り終えた輝宗は、家臣からの声に答える。
「帰ったか――それでうちのは、小十郎を連れ帰れたか?」
「それが、お連れになったのは弟ではなく、姉の方でして……」
 輝宗の問いに左月は語尾を濁らせた。小十郎の姉といったら一人しかいない。
「喜多が参ったか! よし、通せ。左月が連れて参るのだぞ! 通した後も下がってはならぬ」
「……わかり申した」
 老臣は障子越しにそう答えると、輝宗の前を辞去した。
「梵天丸は座敷に籠って、表へ出ないんじゃなかったのかい?」
 左月の報告を聞いて、疑問に思った叔父の大有が輝宗へ確認する。
「それが叔父上、お気に入りの笛の奏者を連れ戻そうと、今朝、城を抜け出して、ひとりで八幡宮まで出掛けていったのです」
「八幡宮って、城下の西の外れにある?」
「そうです」
「ひとりで八幡宮まで行けるなら、和尚の元へも通えそうじゃないかい」
「……それがですね、知恵を付けたようで……面を被って行ったのです。和尚の前で面は付けられますまい?」
「面か…。面は難しいねえ……。しかし、賢い子だ。面を付けて行けば、見られたくないものも見られずに済むものね。考えたね! ――お、誰か来た」
 縁側を渡ってくる足音を聞きとめて、大有と輝宗は会話を止めた。
「殿、片倉喜多をお連れしました」
 左月の声に障子戸が開かれると、縁側に打ち掛けを纏った女性が平伏している。女は長い髪を垂らさずに、首の後ろで一つに纏めていた。
「面を上げよ」
 輝宗が声を掛けると、女性は顔を上げて輝宗の顔を見た。
「…また随分と、面白い格好で参ったな……」
 笑いを噛み殺すように輝宗が告げる。
 喜多は白の小袖に緋袴という巫女の装束の上に、打ち掛けを纏っていた。
「少納言なれば」
「――なるほど。待ちわびたぞ、少納言」
「お久しぶりでございます」
 そう挨拶すると喜多は輝宗へ頭を下げた。輝宗の言いつけ通り、左月は喜多の背後に控えている。
「小十郎が生まれる前だから、十五年ぶりになるか? なんだか父親に似てきたな」
 十数年振りに再会した昔馴染みの顔を、背後に控える父親の顔と見比べる。
「そうでしょうか?」
 輝宗の言葉に、喜多は同意しない。
「ああ」
 本人の賛同を得られずとも、輝宗は自説を曲げなかった。
 実際、鼻筋の通った喜多の顔立ちは、一緒に暮らしている異父弟の小十郎よりも、離れて暮らしている異母弟の綱元に似ていた。
 主の言葉に左月は礼を言うように頭を下げ、喜多は異を唱えるように輝宗を凝視したままだった。そんな少し意固地な所も、父親の左月に似ているように思われたが、それを口にすれば、この父娘の間は更に抉れるだけだろうと、輝宗は己の胸の内にだけ収めることにした。
「叔父に、梵天丸のことで相談に乗ってもらっていた。城に来てくれたということは、梵天丸の乳母の件、受けたと思ってもよいのだな?」
「御意」
「叔父上、こちら梵天丸の乳母の喜多にございます」
「知ってるよ。おまえのお気に入りだった、少納言じゃないか」
 輝宗の紹介に、大有は旧知であることを告げる。
「お気に入りだったのは、母上ですよ」
「少納言の渾名を付けたのは、おまえではなかったけ? まあ、それにしても久しぶりだね。今は八幡宮の巫女さんか……巫女なら何か舞える?」
「はい」
 大有の求めに立ち上がると、喜多は縁側から中庭へ下りた。背後に控えていた左月は心配気な面持ちで娘を見送る。
 中庭の雪は根雪だけ残して掃き出され、白く固まった表面は、石英で造られた石舞台のようであった。喜多は氷の舞台の上に立つと、懐に挟み込んでいた扇を手にし、高く掲げる。
「その唐玉を――」
 詠唱と共に扇の柄をパチリパチリと打ち鳴らし、半月形へ開いていく。
「少女ども 少女さびすも 唐玉を――」
 頭上に掲げた扇を緩やかに振りながら、打ち掛けの裾や袖を魅せるように翻しながら、喜多は五節舞の大歌を舞った。
「袂に巻きて 少女さびすも――」
 五節舞の大歌は、帝が即位される年の大嘗祭に舞われる曲で、梵天丸を嫡子にしたいという輝宗の意を汲んでの選曲だった。
 舞いを終え、喜多が縁側の御前へ戻ると、輝宗から乳母取立ての命が下される。
「見事な舞であった。梵天丸を任すに相応しい」
「ありがとうございます」
 謹んで喜多が拝命すると、
「――まあ、改めてわしが任せなくとも、梵天丸は既にそなたへ付いてしまっているようだが――」
 そう言って、輝宗は中庭の向こうへと目を遣った。
 輝宗が目を向けている方へ喜多も目を向けてみると、中庭を挟んだ向こうにある梵天丸の部屋の障子戸が薄く開いていた。
 隙間から覗くは、ひとつ目。
「梵天丸様…」
 感嘆に近い声で喜多が幼き主の名を口にすれば、その声が聞えでもしたのか、己の存在を見つけられてしまったことに気が付いた幼子が、慌てて部屋の障子戸を閉める。
 カツンと、戸は拍子木のような音を立てた。
 一同に笑いが生まれる。
 喜多は笑いを収めると、輝宗へ向き直り、小十郎の状況を報告した。
「弟小十郎も殿のお言葉に従い、龍笛の修練に励んでおります。近い内に必ずや春鶯囀をお聞かせできるものと思います」
「そうか」
 片倉兄弟の心遣いに、輝宗は感謝の意を示した。
 主の御前から辞去し、喜多は来た時と同じように左月に先導されて、奥向きの廊下を歩いていった。
 その先に梵天丸の部屋がある分かれ道まで来た所で、左月は足を止める。背後にいる娘の喜多を振り返った。
「何かあった時は、綱元に相談せよ。奥向きのことは、あれに一任されている」
 左月の言葉に、喜多は一礼して返した。
 城の控えの間で対面して以来、ふたりは会話らしい会話をしていなかった。父は何も語らず、また娘も何も言わなかった。だが、喜多の礼法に適ったその所作は、父である左月が娘に教え込んだものだった。
 別れの挨拶をすると、喜多は梵天丸の居室へ歩いていった。去っていく娘の背中を見送りながら、左月は二十年程前のことを思い出していた。
「本当に行くのか」
 番小屋の前で最後に問い質した父親に、「二度と家には戻りません」と、十を過ぎたばかりの幼い娘は宣言し、伊達家の奥向きへ入っていった。
 その宣言通り、奥女中を辞めた後も喜多は鬼庭家には戻らず、片倉家の娘になった。
 乳母は始終、幼き主の元で仕える。
 今日から再び、城の奥向きが娘の住まう家になるのかと、繰り返す運命を左月はひとり受け止めていた。

 父と娘が別れの挨拶を交わしている頃、輝宗の居室では、叔父と甥が今後のことを取り決めていた。
「姉が五節舞で、弟が春鶯囀ね――伊達家の氏神を祀る八幡宮の祈りが通じぬとあらば、諦めも付こうじゃないか」
 叔父の言葉に、輝宗は深く頷く。
 春には虎哉宗乙の講義が始まる。その前に梵天丸が表へ出ぬようであれば、梵天丸を出家させ、嫡子には次子である竺丸を立て、虎哉の元へは竺丸だけを通わせる――
「その時は梵天丸を、都の大寺へ預けたいと思います」
 叔父に心の内を伝える。
 梵天丸を溺愛する母親の義姫が、出家に反対するのは目に見えていた。
 梵天丸が疫で右目を失ってから、彼女は神仏の類を毛嫌いするようになっていた。
 城下にある大有の寺に入れては、取り返しに出向く懼れがあった。容易に手が出せぬ、都の大寺へ入れてしまった方がいい。
「私が世話になった寺へ入れるかい?」
 気を利かせて叔父が先に尋ねると、「よろしく頼みます」と、甥は頭を下げた。
「仏の道に進むのも、思ったよりは悪くはないよ」
 自分を寺に入れた父親や兄を許すようにつぶやくと、大有は席を立って障子戸を開けた。
 鉛色の空から、白い氷の結晶が静かに舞い降り始めていた。
「積もるかな」
「今宵は城にお泊りください」
「うん」
 袈裟を纏った叔父の後姿にそう成るかもしれぬ我が子の姿を重ねると、輝宗は叔父の部屋を用意させるため、席を立って部屋を出ていった。



 翌日から始まった、梵天丸の乳母の引き継ぎ事務は、滞りなく終了した。
 前任者は新しく生まれた姫の乳母に移りたがっていたこと、そして何より、後任者が他家に入ったとはいえ、現当主である輝宗の片腕、鬼庭左月の実の娘であることが大きかった。評定衆からも一門の者からも異議が出ることはなく、喜多はめでたく梵天丸の乳母に納まった。
 梵天丸も喜多には心を許しており、彼女を部屋から閉め出すことなく、むしろ何をするにも彼女を側に置いて、日々の行いをするのだった。特に漢書の手習いなどは、小十郎や景広の片倉兄弟は元より、父である輝宗も教えを受けたと聞いて、彼女の指導を仰いで行った。
 それまでは素読中心であったのを、喜多という指導者を得てからは筆を持ち、書も始めた。
 梵天丸は勉強熱心であり、理解も早く、春になる頃には、ひとりで読み書きが出来るようになるだろうと、喜多は思った。
 部屋の障子戸は、喜多と共に過ごすようになってからも、依然閉めきったままではあったが、中庭を挟んだ向こうにある小姓の詰め所の様子は気にしているようだった。
 幼子は小姓の詰め所から聞えてくる声に、耳を澄ましていた。
 ひとり、小十郎の声に似ている者がいて、その者の声が聞えると顔を上げ、話し方から小十郎ではないと察すると、がっかりしたような表情を見せる。
 梵天丸は弟を待っているのだと、喜多は思った。
 その日、喜多は梵天丸の文机に新しい用紙を広げると、幼き主へ告げた。
「小十郎めに、梵天丸様の手習いの上達ぶりを見せてやりましょう」
 まず喜多が筆を取り、手本として千字文の一節を記した。

 その日の午後、城にいる喜多から文が届いたと、兄の景広が小十郎の部屋へとやって来た。
 喜多が城に上がってから十日が過ぎていた。
 小十郎は別れ際に手を引かれた姉の腕の強さを思い出し、しびれを切らした姉が催促文でも送ってきたのだろうと思った。
 しかし文を開いてみれば、表の宛名書きこそ姉の手であれ、中は幼子の手習いと思われる書が、四枚に渡って記されているのであった。
「若君のお手蹟のようですね――小十郎、文意は解りますか?」
 景広が尋ねる。
 書は四枚。
 一枚に一文字ずつ、

 知 過 必 改

 の四文字が記されてあった。
「過ちと知らば、必ず改めよ」
 小十郎が送られた文を読み上げる。
「千字文ですね」
「はい。姉上も人が悪い……」
 観念したように小十郎はつぶやく。
 喜多に指摘されなくとも、梵天丸を傷付けてしまったという自覚は小十郎にはある。
「ふふ、喜多らしいではないですか」
 景広はそう言って微笑む。
 記したであろう梵天丸は、小十郎が過ちを犯したと思ってこの書を記したのではないだろうが、喜多は確実に、小十郎が過ちを犯したと思って、この句を選んで梵天丸に書かせている。
 つまりこの文は、やはり姉から小十郎への催促文で、言いたいことは、『春鶯囀を完成させて、早く城へ戻って来い』といった所なのだろう。
「使いを待たしてありますが、返書は書きますか?」
「書きます」
 小十郎は物入れの天板の上に置いてある硯箱を開いて筆を取ると、返書を認めた。
「明日、城へ上がろうと思っているのですが……」
 文を手渡しながら、宮司である兄の意見を伺う。
 春鶯囀の暗譜は済んでいたが、演奏の仕上げ加減を自分では判断出来ずにいた。同じ過ちはもう繰り返したくないから、少年は慎重になっていた。
「良いと思いますよ」
 頃合であると、景広は答えた。
 夜毎、小十郎が奏でる春鶯囀の調べは、同じ社務所に住む景広の耳にも届いている。
「では明日、城へ参ります」
「月も満ちますね」
「――兄上!」
 使いの者へ返書を渡しにいこうとした景広を呼び止め、小十郎は返された言葉を繰り返し、その言葉の意味する所を尋ねた。
「『月も満ちる』とは?」
 景広の言葉に、小十郎は意趣を感じたのである。
「明日は師走の二の卯の日。十五日なれば、月の位相は満月ということです」
「満月…」
 確かに明日は兄の言う通り、師走の十五日十五夜で、夜空が晴れれば、欠けることのない望月が望めることだろう。
 だが、そんな暦の上でのことでなく、何かもっと深い事を、景広は言っている気が小十郎にはしたのだ。というのも、景広の言葉を聞いた時、小十郎の心の内でそれまで繋がらないでいた何かが繋がっていく――全ての始まりへと繋がっていくような――そんな奇妙な感覚があったのだ。
「輝宗公が笛を望まれたのは、初日を除き、全て卯の日でした。初日のみは辰の日でしたが、それとて前日の卯の日に、八幡宮で神事が行われております。卯の日に月とは、何か意味を持った組み合わせなのでしょうか?」
「月は何処から出てきたのです?」
「え?」
 逆に景広から問われて、小十郎は一瞬、兄の言っている意味が取れず、「月の出ですか?」と、見当違いな言葉を返した。
「――いえ。月の出は定められたものなれば。そうではなく、何故小十郎は、卯の日と月が関係あると思ったのです?」
「それは……」
 梵天丸に月の影がちらつくからだと、小十郎は思った。
 月光を纏った童子――
 梵天丸は月と共に、小十郎の前へ姿を現した。
 梵天丸が小十郎の前に姿を現すのは、表から人気がなくなる日没後のことなので、当然といえば当然なことなのだが……。
「月には兎が住んでいると申しますし……」
 適当な理由を付けて小十郎が答えると、
「梵天丸様は卯年生まれでしたね」と、兄から思わぬ言葉を返される。
 内心驚きつつも、小十郎が脳裏で梵天丸の干支を計算してみれば、未年の今年数えで五歳になる梵天丸は、確かに卯年の生まれであった。
「梵天丸さまが卯年生まれ故、殿は、卯の日に笛を望まれたのですか?」
「ええ。兎は月の住人故」
「…兄上……」
「ふふふ」
 小十郎の台詞を繰り返して微笑む兄は、姉とは違った方向で人が悪いと、小十郎は思った。けれど景広は、社家である片倉家の直系の血を引いた、生まれながらの神職であることも小十郎は承知していた。兄は常人ではなかった。そして、月の住人も――
「月の住人と言われますと、天女を思い出します。嘘は申さぬ彼女達は現世ではなく常世の住人――兄上は梵天丸様のことを、この世の者ではなく、あの世の者だと仰いますか?」
「御魂はそうです。お体はこの世のものを借りられておりますが――あの世の者である月の住人が、この世へ降臨なさる際、通り道が穢されぬよう、天門と風門に守り手を置きます。その身が穢れれば常世である月の世界へ帰れなくなるからですが――小十郎は巳年の生まれでしたね」
「はい」
「喜多が亥年で、弟である綱元殿は戌年」
「はい」
「戌亥が天門、対角にある辰巳が風門であることは、小十郎も知っているでしょう?」
「はい。天門から風門に抜ける道が、あの世の者である天の住人の通る道であり、丑寅の鬼門から未申の人門に抜ける道が、この世の者である地の住人が通る道だと――ですが、四方に守り手を置いて結界を張るには、辰の方角が欠けているような……」
「お父上の輝宗公、懐刀である遠藤殿は、辰年のお生まれですよ」
「辰はふたりもいるのですか?」
「ええ。対になるのが巳なので。それに、欠けていたのは辰の方角ではなく、巳の方角というのが正しいですね。小十郎、貴方はこの五年、この地から離れていたでしょう? その為、疫病神の進入を許し、梵天丸さまの右目は穢れに遭われたのです」
 兄のこの言葉には、小十郎は話を合わせることができなかった。
 梵天丸が右目を失ったのは、自分が他国にある親戚の家に養子に出されていて、この地にいなかったから?
 そんな馬鹿なことがあるだろうか。
 だが、疫に犯された梵天丸の右目を思い出した時、それに纏わる梵天丸の声が小十郎の脳裏に甦る。

――月神さまは、父神さまの、右目から生まれたのじゃ!――

「小十郎?」
 小十郎の脳裏に甦った声が聞こえたのか、景広が声を掛けてくる。
「月神は父神の右目から生まれたと、梵天丸さまが……」
「若君が? では、右目は印のため故意に?」
「兄上?」
 己の考えに入り込んでしまったらしい景広へ、小十郎は声を掛ける。
 小十郎の存在を思い出したらしく、景広は顔を向けた。
「兄上は、何か知ってらっしゃるのですか?」
 弟の問いに兄は答える。
「私は何も知りません。ただ、他の方には見えぬもの聞こえぬものが、感じられるだけです」
「それは、幼き頃から存じ上げておりました。兄上には、我々常人には感じられぬものを感じられているのだろうと……その兄上の目に梵天丸様は、如何様に映ってらっしゃるのです?」
「聞きますか?」
「教えてください」
「月天子です」
「月天子…」
 景広の言葉を、小十郎はただ繰り返す。
 その正体は小十郎も感じたものだった。梵天丸を初めて目にした、あの残月の晩に――
 梵天丸を初めて目にした時、小十郎もそう思ったことを景広へ告げれば、「小十郎も片倉の血筋なれば」と、兄は微笑んだ。
「…その、自分で思っておいて何ですが……とても事実とは……今にして思えば、寝惚けていたので夢でも見ていたのではないかと思ってるくらいで……」
 小十郎が言い淀むと、「そのぐらいで丁度いいのです」と、景広は小十郎の言動の矛盾を否定しなかった。
「私の言ったことは、普段は忘れてくれてかまいません。ただ、小十郎が道を選ぶ時、選択に迷い、私の言ったことが助けとなれば幸いです。たとえ、それが正気の沙汰とは思えなくとも、心が命じているものならば、選ぶことを躊躇ってはいけません」
 最後にそう言い含めると、景広は小十郎からの返書を持って部屋を出ていった。
 明日、師走の十五日は、夕べの笛の席が催される卯の日であった。



 日も傾きかけた頃、使いの者が小十郎からの文を持ち帰りましたと、喜多が梵天丸の居室へ入ってきた。
 梵天丸が駆け寄って、文を喜多に見せてもらえば、次の四文字が記されてあった。

 得 能 莫 忘

「能を得ては、忘るること莫かれ」
 小十郎が記してきた文字を、幼子が読み上げる。
「覚えましたな」
「梵が書いたのの、次の句じゃ!」
 それは、梵天丸が書いて送った千字文の一節の次に来る一節だった。『大切なことを学んだら忘れるな』という意味を持つ。
「梵天丸さまとのお約束を心に留め、修行に励んでいるようです」
 弟である小十郎が書いてきた文を、姉の喜多が解説してくれる。
 小十郎が自分達親子に愛想を尽かし、もう城へ出てきてくれぬのではないかと心配していた梵天丸は、嬉しくて頬を赤らめる。
「次の句を言い当てるとは、小十郎は賢いのう! それに字も上手じゃ!!」
 話をそらすように、幼子は小十郎を褒め称えた。
 八幡宮を出る時に小十郎の笛の音を聞き、彼が自分に告げた言葉は真実であると、そう思おうと心を決めたはずなのに、しばらく会えぬことで弱気になって、要らぬ心配をしてしまった自分自身を、梵天丸は恥ずかしく思っていた。
 実際、一句を見ただけで出典を特定し、次の句を認めてきた小十郎の頭の良さには、梵天丸は素直に感服していた。
「なんの。梵天丸様もあの年になれば、この程度のことは朝飯前にございます」
「うむ。そう成れるよう、梵も修行に励まなくてはのう!」
 硯箱から筆を取り出すと、梵天丸は日課となった夕べの手習いをすべく、喜多の指導を仰ぐのだった。

七章 月を望む

 辛未年師走十五日。
 小十郎は兄景広に宣言したとおり、十日ぶりに城勤めへ戻った。
 冬空に陽は高く昇り、青空が覗くのも実に数日振りのことである。
 その日は朝から、冬場の小姓の仕事のひとつである城内の雪かきに借り出され、小十郎は割り当てられた北の宿直棟の軒下で、屋根から下ろされた雪を片付けていた。
 昼も近付いた頃、壁となっていた雪も大方片し終え、酷使した体を休めがてら、小十郎が空を見上げていると、背後から声を掛けられた。
「小十郎……そなた、いつ城へ戻った?」
 振り返れば、両手に膳を抱えた姉の喜多が、渡り廊下に立っていた。時刻からして、梵天丸へ昼餉の膳を運ぶ途中だろう。
「今朝です」
「今朝!?」
 弟から返ってきた言葉に姉は驚く。
「何故、梵天丸様に顔をお見せしない? 梵天丸様がお待ちなのは、お前も存じておるだろう」
「姉上、私は輝宗公の小姓です」
 自分自身へ言い聞かせるように、小十郎は言った。
「私が梵天丸さまにお会いできるのは、輝宗公が催される夕べの笛の席だけ。夕べの笛の開催は殿がお決めになるものなれば、小姓の私が口出しするものではないでしょう。そういう姉上こそ、お父上君の左月様とはお会いになられたのですか?」
 逆に小十郎から問い返せば、姉は短く「会った」と答えた。
「お話はされましたか?」
「話した」
「『はい』とか『いいえ』とか、受け答えしただけを、話したと仰っているのではないでしょうね?」
 更に追求してくる弟に、喜多は嘆息と共に吐き出す。
「……口うるさい弟だ」
「姉上の弟なれば――鬼庭家の方達も姉上のことを心配されておりました。できれば姉上を鬼庭家へ迎え入れたいと申されておりましたが、姉上は我々片倉家の姉君でもあれば、それは困ると思うておりました。此度の梵天丸様付乳母就任の件、姉上の元気なお姿を、両家共に望める場所でのお勤めなれば、誠に目出度き仕儀になったと思うております――謹んでお喜び申し上げます」
 朗々と口上を申し立てた弟に、喜多は別人を見る思いで見つめる。
「……そなた、まさかそのために、姉を? そなたが策を弄するとは思わなんだ……」
「その為だけではありませぬが、結果的にそうなりましたのは、姉上の教育の賜物かと思います。それでは膳が冷めぬ内に、梵天丸さまへお運びください」
 にこやかな顔で促され、喜多は梵天丸の部屋へ昼餉の膳を運ぶこととなる。
 狐に化かされた思いで喜多が奥向きにある梵天丸の居室へ戻ると、あろうことか、室内にはもうひとりの弟がいた。
「そなた、そこで何をしておる!」
「何って――」
「喜多! 綱元は梵が入れたのじゃ! 小十郎の情報を持ってきてくれたのでのう!!」
 喜多が綱元を追い出さぬよう、梵天丸は慌てて事情を説明する。
 喜多以外の入室を嫌い、梵天丸は部屋に誰も入れぬよう、喜多へ頼んでいた。それは小十郎に暇を与え、基信を監視に付かせた父、輝宗も例外ではない。
「小十郎の情報?」
 喜多が聞き返すと、梵天丸ではなく綱元が答えた。
「そ。若君お待ちかねの」
「梵天丸様、その者に聞くまでもございません。小十郎めの情報なら喜多が持っております」
 梵天丸の前に昼餉の膳を置くのに託けて、喜多は幼い主の傍らから、綱元を追い払おうとした。
「あ、表で会った? 今日小姓(あいつ)等に雪かき頼んだから――」
 邪魔にならぬよう身を脇へ寄せつつも、綱元はその場に居座り続ける。
「今朝、小十郎は城へ戻りましたようです」
「あー、それはもう話した」
 喜多の言葉に、綱元が茶茶を入れる。
 部屋を出て行かぬどころか、いちいち口を挟んでくる相手に喜多の怒りが爆発した。
「何なのだ、そなたは! こんな所で油を売ってる暇があるなら、子供だけにやらしておかず、そなたも雪かきを手伝ってやれ!!」
「主の欲しい情報を持ってきた男に、『油、売ってるー』は無いんじゃない? それに、雪かきは小姓の仕事。大人が子供の仕事、取っちまってどうするよ。第一オレが持ってる情報、お姉さんは知らないと思うよ?」
「誰が、姉さんだ!?」
「えー? 小十郎のお姉さんでしょ? 片倉喜多さん」
 しゃあしゃあと言ってのける綱元に、喜多の言葉も潰える。
 血の繋がった弟だからか何なのか、妙に馴れ馴れしいその態度も気に入らなかった。
 それでなくても、癇に障る存在だというのに――
「食べてもよいか?」
 主そっちのけで、目の前で姉弟喧嘩をおっ始めそうなふたりに、幼き主は声を掛ける。
「どうぞ、召し上がってください」
 幼き主にはにこやかに、同時に口を開いた姉と弟の言葉は重なり、その響きに梵天丸は声を上げて笑った。

「若君と隔てなくお会いするのは久しぶりですねー」
 梵天丸の部屋に居座ることに成功した綱元は、昼餉の膳を取る幼き主の姿を眺める。姿を隠さない梵天丸と相対するのは、実に数ヶ月振りのことだった。
「綱元は口が巧い。うっかり騙されて、表へ出そうになったわ」
 菜を口に運びながら、赤子の頃から知っている忠臣に距離を置いた理由を梵天丸は述べた。
「騙されておしまいになればいい。きっかけなんて、そんなものです」
「そんなものには、しとうない」
「望まれますか――小十郎に?」
 梵天丸が応じれば、綱元は話を詰めてくる。
「その方の話には乗らぬ」
 警戒した幼子は、そこで会話を切った。
「良い御判断です。それより今宵のこと――夕べの笛の席が開催されるのは確かなのだろうな?」
 幼き主の判断を誉めた後、乳母は情報元へ確認を取った。
「公から小姓の詰め所へ会場設営の沙汰があったからねー、確実。後は、笛の奏者に伝えるだけ」
「なら、此処で油を売ってないで、さっさと小十郎へ知らせに行け」
 再び喜多が綱元を部屋から追いやろうとすれば、
「――まあ、オレが知らせに行ってもいいんですけどね……」
 含みを持たせるようにそう言って、綱元は、食事を終えて箸を膳に置いた梵天丸を見た。
「若君から告げられた方が、小十郎も嬉しいと思いまして」
 綱元の甘い囁き。
 その言葉に、揺らめいたのは梵天丸だけではなかった。
 喜多の心も揺れた。
 綱元の策に乗るのは気に入らなかったが、梵天丸に表へ出てほしい気持ちは、乳母の喜多も一緒である。
 梵天丸はどう出るか。
 開かずの戸を開き、小十郎へ知らせに行くのか――?
 喜多と綱元が見守る中、迷いを終えた幼子は口を開く。
「…口が巧い」
 何処か、嘲るような声だった。
「綱元が知らせに行け」
 幼子は命じると、席を立ち、誰も居ない次の間へと行ってしまった。



「釣れない若君だ…」
 綱元がぼやく。
 夕べの笛の開催を奏者へ知らせに、綱元は奥向きから表へ向かって縁側を歩いていた。
「あざといからじゃ」
 幼き主を弁護するように、連れだって歩いていた喜多が評する。彼女は梵天丸が終えた食事の膳を厨へ運んでいた。
「弱みに付け込みたくもなるさー。時間も無いことだし」
「――何じゃ」
 仄めかすような綱元の言葉に、喜多は視線を向ける。
「春には、伊達家の将来を担う御子を、高畠まで通わさないとならない」
「高畠まで通わせる? 誰を?」
「伊達家の将来を担う子」
「梵天丸様のことではないのか?」
「それは、こっちが聞きたいねー」
 綱元の答えに喜多が足を止める。
「梵天丸様が高畠に通わねば、何かあるというのか?」
「お姉さんと、おんなじコトに、なるかもねー」
 喜多の数歩先に行った所で足を止め、綱元は背を向けたまま答える。
 喜多は歩を進めると、綱元の前へ出た。
「廃嫡させると? 輝宗公がそう仰ったのか!?」
「お姉さんは――」
 正面から食って掛かってきた喜多を制するように、綱元が口を開く。
「伊達家の嫡子だから、梵天の乳母になった? 嫡子じゃなきゃ、用無し?」
「…何だと?」
「違うって言うんなら、梵天が嫡子であろうとなかろうと、お姉さんには関係ない。どうぞそのまま変わらずに、梵天の乳母でいてやってよ」
 託すような口調に、喜多は向ける矛先を迷う。
「そう言うそなたはどうなのじゃ? 梵天丸様のお立場によって、身を変えるつもりか?」
「――それを、オレに聞いちゃうかなー」
 真っ向から答えることを避けるように、綱元は喜多から視線を外した。
「どうなのだ?」
「……どうって」
 苦笑するように言葉を切ると、綱元は喜多を見返した。
「俺が何の為に作られたか、あんたが一番、知ってんだろ…」
 本音を覗かせた相手に、喜多は返す言葉が出てこない。
 相手の瞳の奥に己の姿を見た思いがして、瞳を逸らすこともできぬまま喜多が綱元を見つめていると、綱元の眼が動いて、喜多の背後を見遣った。
「きょう、夕べの笛ーっ!!」
 突然、怒鳴った。
 何事かと、喜多が後ろを振り返ってみれば、少し離れた宿直棟の軒下に小十郎がいた。弟は相変わらず、雪かきをしているらしい。
「はいっ!」
 綱元の呼びかけに、小十郎が大きな声で返事をして、梵天丸から命じられた知らせの使いは終わる。
「梵天のことは好きだし、生涯懸けて仕えたいとも思ってる。けどねー、オレの代であの家、潰す訳にはいかねえだろ……女ふたり泣かせてんだし」
 綱元の言葉に、女ふたりとは誰のことかと喜多は思った。
 喜多の母と、綱元の母のことだろうか?
 それとも――?
「小十郎には期待している」
 そう言い残すと、綱元は喜多の傍らから去っていった。
 冬の陽光が庭先を照らし、笹に降り積もった雪がさらさらと光を纏って流れ落ちる、そんな午後だった。

 喜多が厨から奥向きにある梵天丸の部屋へ戻ってくると、主は文机で手習いの練習をしていた。
 相手の邪魔にならぬよう、喜多が背後で見守っていると、梵天丸が声を掛けてきた。
「梵も、ずっと此処にいるつもりは無い」
 必ず出ていくのだと、幼き主は言った。
「人前に出ても恥ずかしくない、人物たるまでは――」
 それまでは此処で修行するのだと、乳母へ宣言する。
「お供いたします」
 喜多はその場に額づくと、何があろうと、自分はこの幼き主の側にいようと心に決めた。
「喜多」
「はい」
「小十郎は喜んだか?」
「え…?」
 梵天丸の将来のことを考えていた乳母は、今日の夕べに行われることをうっかり忘れていた。
「――あ、夕べの笛のことでございますな。それでしたら……」
 すぐに気が付いた喜多が幼き主の質問に答えようとしたが、「いい、何でもない」と、梵天丸は聞くことを拒否した。
 喜多の答えに、幼子は懼れを感じたようだった。



 午後から雲が出始めていた。
 流れる雲が月を隠しては、漏れ出た光が雲間を照らす……そんな夜となっていた。
 梵天丸と喜多は早めに夕餉を取ると、夕べの笛が吹かれる部屋の隣の間に待機した。
 小十郎は刻限通りに縁側を渡ってきて、月明かりと雪明かりに照らされた少年の姿が、喜多と梵天丸が潜んでいる部屋の障子戸に映るのだった。
「小十郎からは見えませぬ」
 小十郎の影に身を固くした主に、乳母は囁く。
 顔を見て引かれ、手を繋ごうとして引かれたことを幼子は思い出していた。きっかけは、戻ってきていたのに、小十郎が教えてくれなかったことである。
 梵天丸は心待ちにしていたのに、小十郎にとってはそうではなかったということなのだろうか?
 部屋に輝宗が入ってきて上座に座る気配がしたと思うと、父と小十郎の間に会話が生まれ、笛の音が響き始める。
 それは、父が小十郎に所望した曲。
 春鶯囀だった。
 梵天丸が動かずにいると、喜多が気を利かして薄く襖戸を開いてくれた。
 閉ざした襖戸の隙間から、幼子は笛を奏でる少年の姿を見た。

「……喜多、小十郎は美しいなぁ……」

 襖戸の向こうから溢された、梵天丸のつぶやき。
 その衝撃には耐えた小十郎だったが、それを評した輝宗の言葉には堪えきれず、吹き出してしまった。
「コイだな」
「申し訳…っ」
 むせて、詫びる言葉も続かない。
「滝を登れば、龍になる」
 ああ、鯉か――
 主の言葉に、小十郎は思い直した。
「溺れたか、小十郎」
「見苦しい所をお見せしました」
 息を整えた小十郎が平伏して詫びると、輝宗は席を立って部屋を出ていった。
 主が退出すると小十郎は顔を上げ、梵天丸の声が齎された奥の襖戸を見つめる。
 隣の間には今まで通り、明かりは灯されていない。襖戸は今まで通り、薄く開いてはいたが、今日は離れていらっしゃるらしく、こちらの部屋の灯明を映す瞳が見えなかった。隙間から覗くのは、ただ漆黒の闇ばかりである。
 小十郎は席を立つと、お姿を望もうと襖戸に手を掛けた。
「開けてはならぬ!」
 闇の向こうから、姉の声が制してきた。
「失礼しました」
 無礼を詫び、小十郎は襖戸を閉め切ると、その場に額づいた。
「参りましょう」
 襖戸の向こうで姉の声がして、人が連れ立つ気配がした。
 気配は闇の向こうへと消えていく。
 呆然とした思いで、少年は顔を上げた。
 その様子を廊下から伺っていた輝宗は、嘆くように月へ問うた。
「月に帰るか、かぐや姫」
 月は流れてきた厚い雲に隠され、その姿を完全に隠してしまっていた。



 梵天丸が目を覚ますと自室の床の中だった。
 どうやら泣き疲れて眠ってしまったらしい。
 寝付くまで慰めてくれていた喜多の姿は無く、喜多の寝室に充てられた次の間で休んでいるらしかった。
 幼子は夜具の中で身を起こす。
 障子越しに入ってくる光は、いつもの夜よりも明るい。
 それは、夜明けが近いせいなのか、それとも月明かりのせいなのか。
 梵天丸は床から抜け出すと、文机の引き出しに入れておいた御捻りと投石帯を取り出して、寝巻きの袷へ入れた。そして、極力音を立てぬよう気をつけながら、戸を開けて部屋を出た。
 夜は、未だ明けていなかった。
 月は中天にある。
「梵天丸さま?」
 次の間の縁側を行き過ぎようとした時、障子戸の向こうから喜多に声を掛けられる。
「喜多は休んでおれ!」
 乳母にそう告げると、幼子は夜の縁側を駆け出していた。

 夕べの笛で、春鶯囀を奏でる小十郎の姿を見た梵天丸は、不覚にも涙を溢してしまった。
 己が惨めに思えたのだ。
 喜多の機転で、泣いている姿を小十郎に見られることこそなかったが、小十郎は変に思ったに違いない。
 何事もなかったように、いつも通り小十郎の部屋へ御捻りを投げ込んで、それで終わりにしてしまおう。
 幼子はそう決めると、小十郎が休んでいる部屋の真向かいにある、北の宿直棟の縁側へ急いだ。
「梵天丸さま、どちらへ行かれます!?」
 喜多がすぐに後を追いかけて来た。
 喜多は付いて来てくれるだろうと思っていたけれど、急いで行けば、御捻りを投げ込む時間くらいはあると思った。
 しかし、文武両道の喜多は足も速く、梵天丸が北の宿直棟の縁側に着く前に追いつかれてしまう。
「こんな夜半に、どちらへ行かれます?」
 持ってきた羽織を梵天丸の肩に掛けてくれながら、喜多が尋ねてくる。
 小十郎の部屋に御捻りを投げ込みに行くとは言い出せず、「厠」と、梵天丸は答えた。
「厠? ですが、こちらは厠とは逆方向…」
「月が見事なのでな。散歩がてら、参ろうと思ったのじゃ」
「確かに。月暈を纏った、見事な月でございます」
 見上げる夜空に、月は光の輪を描いて輝いていた。

 喜多を連れ、梵天丸は夜の城内を歩いた。
 小十郎と初めて顔を合わした場所、ご祝儀を投げ込む地点へと、着々と近付いていく。
 どうしようと思っている間に目的の場所へと着いてしまい、幼子は其処に、雪で作られた兎を発見する。
「喜多、何かある!」
「まあ、雪うさぎにございますよ」
「雪うさぎ…」
 梵天丸はその名を繰り返す。
 白い雪の体に赤い南天の目、緑の笹の耳を持つ雪うさぎは、雪国生まれの梵天丸にとって、誰が最初に作ってくれたか忘れてしまったくらい、身近なものである。幼子が乳母に問うたのは雪うさぎそのものの事ではなく、誰がそんな雪うさぎを作り、北の宿直棟の縁側の上に置いていったかということであった。
「風流な御仁が作っていかれたのでしょう」
「フウリュウ?」
「もののあはれをお解りになられる方のことです」
「もののあはれ」
 梵天丸は雪うさぎの上から視線を上げると、対岸の南の宿直棟の部屋を見た。
 其処は小十郎の部屋だった。
 幼子の目には、小十郎の部屋の障子戸は、ほんの少しだけ開いているように見えた。
 気がするだけで、実際は隙間ではなく、影かもしれなかった。
 そのぐらい、月の光が強い夜だった。
「梵天丸様?」
 名を呼ばれて、幼子は小十郎の部屋から雪うさぎへと、慌てて視線を移す。
「ゆ、雪うさぎは、めんこいのう」
 声を掛ければ、梵天丸の心を見透かすように、雪うさぎの赤い眼がじっとこちらを見ている気がした。
「お部屋へお持ちなさいませ」
 乳母の提案に、幼き主は許可を求める。
「よいのか!?」
「可愛いと思った人に連れ帰ってほしいからこそ、このような場所に置かれてあるのです。そういえば梵天丸様は、卯年生まれでございましたな」
 その時カツンと、拍子木を叩くような音がした。
 幼子は顔を上げ、対岸の部屋の障子戸を見る。
 間を埋める影は消え去っていた。
「梵天丸様!?」
 弾かれたように、幼子は縁側を飛び降りると、まっすぐ向かいの宿直棟へ駆け出していた。
 粉雪を撒き散らし、幼子は裸足で向こう岸へと駆けていく。
 驚いた乳母は、その後を追った。
 雪原を突っ切り、縁へと上がり、幼子は部屋の障子戸を開け放つ。
 はたして、小十郎は部屋にいた。
「小十郎!」
 呼びつけると、幼子は少年に踊りかかった。
 悪戯が上手くいった子供のように、笑みを堪えた顔で、いつでも逃げられるような体勢で、少年は夜具の上に半腰になっていたからだ。
 逃げるかと思っていた相手は一転、梵天丸の体をしっかりと抱き止めると、強く抱き返してきた。
 予想外の反応に、幼子は驚いて固まる。
 飛び込んだ勢いで埋まっていた相手の胸から顔を上げれば、美しいと思った少年の顔はすぐ近くにあった。
 瞬間、梵天丸は右目を隠したい衝動に駆られた。
 けれどその身はしかと抱きしめられていて、腕を上げることは叶わず、隠す手立てがない。
「掛かりましたね」
 してやったとばかりに、少年の瞳が幼子の目を覗き込む。
 其処に恐れの色は無い。
「若君をモノで釣るとは、何事じゃ!!」
「コイゆえ!」
 咎め立てにそう言い逃れると、小十郎は声を出して笑った。
 まだ甲高さが少し残る、少年の声だった。
 少年の笑い声に釣られて、幼子も声を出して笑う。
「小十郎?」
 梵天丸が空け放したままにした戸の隙間から、乳母の喜多が顔を出す。
 何処の殿方の部屋であろうかと入るのを躊躇っていたら、何処かで聞いたような笑い声が聞こえてきて、それは他家に養子に出されて以来、久しく聞いていなかった弟の笑い声だった。
「姉上」
「喜多」
 褥の上で笑い合っていたふたりに呼ばれ、喜多は部屋の戸を閉め切ると、室内へ入ってきた。
「なんじゃここは、小十郎の部屋だったのか」
「はい。夕べの席で笛を吹いた晩にお借りしている部屋です」
「喜多! 若君をモノで釣ろうとした輩を討ち取ってやったぞ」
 小十郎が膝の上に梵天丸を座らせ、両手が自由になると、その腕を小十郎の首に回しながら、捕まえたのはこちらであると、梵天丸が宣言してきた。
「釣られるのが嫌なら、代価をお支払いなさればいい」
「だいか?」
「ご祝儀です」
 小十郎の瞳を見つめ返した後、梵天丸は寝巻きの袷から、紅梅色の薄様を取り出した。
 右手で梵天丸の体を支えていた小十郎は、左手一本でご祝儀を押し頂く。
「ありがとうございます」
 少年は幼き主に頭を垂れた。
「何じゃ?」
 喜多が尋ねると、
「何でしょう?」
 小十郎が梵天丸に中身を尋ねた。
「干し梅じゃ」
「干し梅。確かに、梅の香がします」
 薄様越しに匂いを嗅いだ後、小十郎は御捻りを姉へ渡した。
 喜多が薄様の包みを解くと、中には薄紅色の干し梅が三粒ほど包まれていた。
 梵天丸は乳母が広げている包みから干し梅を手に取り、一粒を小十郎の口へ、もう一粒を自らの口の中へ入れた。
「喜多も食べよ」
 主の言葉に、残りの一粒は喜多が頂いた。
 口内に梅の実の味と香が広がる。
「大変美味しゅうございました」
「はい」
「うむ」
 頭を下げた姉と弟に、幼き主は頷いた。
 喜多から包み紙の紅梅色の薄様を受け取った小十郎は、幼き主に尋ねる。
「梵天丸さま、鶯なので梅ですか?」
「そうじゃ」
「成る程。小十郎、御見逸れいたしました」
「なんぞ、小十郎?」
 姉の質問に弟が答える。
「夕べの笛の後、いつも梵天丸さまから、趣向を凝らしたご祝儀を頂いていたのです。今宵の春鶯囀は鶯の声なれば、鶯には梅と、干し梅を頂いた次第です」
「小十郎、いつもではない」
 小十郎の説明に、梵天丸が修正を加える。
「…ああ、最近はご無沙汰でしたね」
「うむ」
「そのようなことは何とも……小十郎、そなた家では一言も申しておらなかったではないか……」
「話したくとも話せなかったのです。梵天丸さまから頂いているという、確かな証拠がありませんでしたので……」
「どういう事じゃ?」
「これじゃ」
 喜多の疑問に、梵天丸が懐から投石帯を出して答える。
「これで御捻りを、小十郎の部屋へ投げ込んでおったのじゃ」
「なんと!」
「証拠に、打ち込まれて破れた箇所だけ、障子が新しくなっておりまする」
 姉に部屋の障子戸を指し示す。
「随分と、まだらな障子戸だと思っておったら……」
 喜多の呆れ顔に、少年と幼子は笑った。
「次からは、手渡しで頂きとうございます。小十郎は、梵天丸さまのお目通りが済みましたでしょう?」
 少年の申し出に、幼子は一つ目で相手をちらりと見遣る。
「相わかった」
 許しの言葉を与えると、少年は感謝の言葉を述べた。
「何処へ行くのじゃ?」
 梵天丸を抱いて立ち上がった弟に、姉が問う。
「向こうの棟までお送りいたします。小十郎がお供できるのは其処まで故」
 弟の言葉に姉も立ち上がり、両手の塞がった弟を気遣って障子戸を開け、三人は縁側へ出た。
「姉上、枕元の風呂敷包みに予備のわらじがあります。それをお使いください」
 雪の上へ降りる前に弟が声を掛けると、「不要じゃ」と、姉は断った。
 素足で雪原へ下りた姉弟に、幼き主も共に歩むことを望んだ。
「梵も降りる」
「梵天丸さまは、よろしいのですよ」
「左様。人の上に立つ者は、そう簡単に降りてはなりませぬ」
「…そうか」
 従者と乳母の言葉を聞き、幼き主は教えに従った。
 雪原の半ばまで歩いて来た所で、小十郎が足を止める。
「ああ、影がない」
 足元を見た後、少年は天を仰いだ。
 少年に倣って、その身を抱かれている幼子も天を仰ぐ。
 空には雲間から抜け出した満月が、天の一番高い所で輝いていた。
 小十郎が梵天丸にもわかるように、両手で抱いていた手を片手一本にして、空いた手を水平に伸ばして見せてやる。
 すると、小十郎の足元に収まっていた影が腕を伸ばした分だけ足元から水平に伸びていき、腕を元に戻すと、影は再び小十郎の足元へ収まって見えなくなった。
「月天心じゃ」
 幼き主従の背中を見守る乳母が告げる。
 月が南中し、真上から射した時、影はその足元へと収まって、影のない世界となる。
「影を消す唯一の方法は、闇に飲まれることでも切り離すことでもなく、己の影に拠って立った時だけだと、月は教えているのでしょう。月の御心ですよ」
 少年の言葉に、幼子は月を見上げる。
 鏡のような月。
 三人で月を眺めた後、白い雪の原を越え、少年は幼子を北の宿直棟の縁側へ降ろした。
「夜分、お気をつけて」
 縁側で待っていた雪うさぎを熊笹の上に取り、小十郎は梵天丸へと渡した。そして、階下の雪の上に膝を付くと、頭を垂れる。
「行くぞ、喜多」
 乳母へ呼び掛けると、梵天丸はその場から足早に立ち去った。
 本音を言えば、もう少し小十郎と話していたかった。けれど、冷たい雪の上に相手を置いたままにはしておけない。凍傷になってしまう。
 姉は弟を一顧すると、幼い主の後を追って奥向きにある部屋へ戻っていた。
 頭を垂れたまま、姉と幼き主が夜の城を渡っていく音を、少年は耳で追う。
 遠く離れた場所で戸が閉め切られる音がしてはじめて、少年は雪の上から身を起こした。
 来た道を通り、小十郎は、自室のある南の宿直棟の縁側へと上がる。その時、小十郎が梵天丸を呼んだように、障子戸を立て切ることで、拍子木のように鳴らす者があった。
 カツン。
 音のした北の宿直棟へ小十郎が顔を向ければ、向かいの縁側には誰もいない。居並ぶ障子戸が、射場の奥まで続いていくばかり。
 見ていたのだな、と小十郎は思った。
 向かいの宿直棟に向かって一礼すると、少年は空を見上げて月を望んだ。

八章 大つごもり

 暮れも近付いた師走の三の卯の日、輝宗から小十郎に六度目の笛の所望があった。
 日没後、小十郎が笛を吹く部屋で待機していると、縁に続く障子戸から輝宗が現れ、ついで、隣の間に続く襖戸から梵天丸が現れた。
「小十郎、似合うか?」
 名指しで問われ、平伏していた小十郎が面を上げれば、梵天丸は見覚えのある白い水干を着ていた。
「それは…」
「小十郎が七つの祝いに着た晴れ着じゃ! 喜多に貰ったのじゃ!! 大きいので、少し詰めてもらったがのう」
「よくお似合いです」
 小十郎が誉めると、幼子ははにかむような表情を見せ、部屋へ入ってきた。梵天丸は、小十郎と輝宗の中間に腰を下ろし、背後には乳母である喜多が控える。
 主賓が揃ったところで、小十郎は龍笛を手に取り、前回、途中で中断してしまった春鶯囀を奏した。
 冬の凛とした空気に龍笛の澄んだ音色は、空の高い所まで響いていくようだった。
 龍笛の音に余すことなく酔いしれた幼子は、小十郎が演奏を終えると乳母を呼んだ。
「喜多」
 乳母は、隣の間から三方に載せたご祝儀を運んでくる。
 乳母が置いた三方からご祝儀の包みを手に取ると、梵天丸は手ずから小十郎へ渡してくれた。
 ご祝儀は直接頂きたいという、小十郎の意を汲んでの振る舞いである。
「開けても?」
「よい!」
 許可の言葉を受けて、小十郎がご祝儀の包みを紐解く。
 ご祝儀は、内に紅、表に白の和紙を二枚重ね、金の水引で茶巾に絞ったものだった。内には、桜花の塩漬けが包まれている。
「花湯にして飲むとよいぞ」
「ありがとうございます」
 幼き主の心遣いに少年は礼を述べた。
「長井には、桜の名木があったな」
 少年と我が子との遣り取りを見守っていた輝宗が、小十郎へ話し掛けてくる。
「明神桜でございますね。樹齢七百年は越えると言われる、大樹でございます」
「大きいのか?」
「それはもう。花の時期に木の下へ立てば、花霞で空が見えぬ程で……」
「そうか。見てみたいのう……」
「春になったら、小十郎に連れて行ってもらうがよい」
 父の言葉に幼子は目を輝かす。
 若君の供を仰せつかった少年は、謹んで命を受けた。
「八幡宮はこれからが忙しいな。歳越えの祓いに三が日。奉射祭は十二日か。例年までは景重が神矢、景広が真矢を射っていたが、来年の真矢は小十郎が射るのか?」
「はい」
「七日には当家も八幡宮へ参詣する。勤め始めは、小正月明けにするがよい」
「ご配慮、痛み入ります」
 主の心遣いに少年は礼を述べた。
 景重は、今年の夏に亡くなった少年の父親の名前である。
「小十郎」
 父との会話に割って入るように、幼子が少年の名を呼んだ。下げていた頭を上げ、少年は幼子へ眼差しを向ける。
「うさぎ、いなくなってしまった……」
 少年から貰った雪うさぎが消えてしまったことを告げれば、「月へ帰ったのでしょう」と少年は答えた。
 雪で出来たうさぎの体が室温で溶けてしまったことは、幼子も承知していた。水凍る冷たい外へ置いておけば、うさぎも今少し生き永らえることもできたであろうが、幼子はどうしても雪うさぎを傍らに置いておきたかったのである。
「また、連れてきてくれるか?」
 幼子が願えば、
「では、明日の朝」
 少年は申し出た。
 その晩、ふたりは約束して別れた。



 次の日の朝、梵天丸が喜多を給仕に朝餉を取り終えた頃、外で小鳥が囀ったような音がした。
 餌をやっている雀どもが催促しにきたかと、梵天丸が餌袋を片手に障子戸を開けると、前庭に小鳥の姿はなく、縁側に雪うさぎが置かれていた。周囲に視線を彷徨わせても、うさぎを連れてきてくれると約束した少年の姿はなく、悲しくなった梵天丸は乳母を呼んだ。
「喜多…」
 その声音に、ただならぬ気配を察した乳母は、すぐさま若君の元へやってくる。
 縁側に置かれた雪うさぎを目にし、乳母は弟の姿を探した。が、見える所に弟の姿は無く、喜多は目を凝らすと、若君の部屋の前へ造られた庭を見遣った。
 庭は、一国の若君のものに相応しく、盛り土をして起伏を作り、四季の木々を配置した明媚なものであった。以前は、季節ごとに見事な景観を見せたものだが、手入れの者を入れさせぬ今となっては、伸ばされるままに放置された木々の枝や、間に生い茂った笹や羊歯で鬱蒼とし、庭の外から内が覗けぬよう、網代戸を立てていることもあって、光が差し込まず、暗く見通しの悪いものになっていた。このような場所は気が溜まりやすく、潜むには打って付けの場所だった。
 喜多は、先程耳にした鳥の囀りに似た音は、弟が吹いた笹笛であることに気付いていた。縁側に雪うさぎを置いたことを知らせるため、姉である喜多に合図を送ったものであろう。
 潜む相手に聞えぬよう、喜多は若君の耳元で囁く。
「まだ近くにおります」
 乳母の言葉に、若君の顔に喜色が差すと、弟の気が動いた。
 姉は縁側の端へ進み出ると、庭の一点を見つめて呼びかけた。
「隠れてないで、出てこぬか!」
 乳母の呼びかけた先を、若君は凝視する。
 すると、庭に蔓延る笹の茂みの一角が揺れ、内から少年が姿を現した。
「小十郎!」
 叫ぶと、幼子は縁から飛び降りた。
 素足で庭に降りた幼子に驚いた少年は、行く手を塞ぐ笹を掻き分け、相手へ駆け寄る。
 幼子の体は残雪の上から、少年の胸へと抱き上げられていた。
「失念した。また、やってしもうた…」
 抱かれた腕の感触に、月夜の晩に教えられたことを思い出した幼子は唸る。宿直棟の縁側と違い自室の縁側には、沓脱石の上に庭へ下りるための履物が置いてあるのだ。
「何故、庭から入る? 入り口とてなかったであろう」
 幼子の責は咎められることなく、代わりに少年が姉から詰問を受けた。
「子供ひとりが通れるくらいの隙間はございました。縁から上がりますのは、畏れ多く」
「隠れて見ている方が、よほど畏れ多いぞ?」
「うさぎが人手に渡らぬよう、見張っていただけでございます」
 梵天丸を縁側へ降ろすと、小十郎は連れてきた雪うさぎを手に取り、前回同様、熊笹の上に載せて若君へ差し出した。
 梵天丸が受け取ると、用は済んだとばかりに小十郎は八幡宮へ帰ろうとする。
 若君の顔はまたもや曇り、乳母は「待て」と少年を呼び止めると、自分が膳を下げてくる間、若君の側に侍っているよう少年へ命じた。
 乳母が席を外すと、幼子は少年とふたりきりになる。

「お冷たいでしょう」
 どうしていいものかわからず、雪うさぎを抱えたまま幼子が縁側へ突っ立っていると、少年は幼子から雪うさぎを受け取り、雪が溶けにくい沓脱石の上へ置いた。その際に、屈んだ少年の髪に笹の葉が付いていることに気が付いた幼子は、手を伸ばすと、小十郎の髪に付いている笹を取った。
「付いてた」
「ありがとうございます」
 差し出された一葉を少年は受け取る。
「喜多はどうして小十郎が隠れていたこと、気が付いたのであろう? 梵は、小十郎はうさぎを置いて、帰ってしまったと思ったのに……」
「笹笛の所為かと」
「ささぶえ?」
 幼き主の問い掛けに、小十郎は先程受け取った笹の葉を唇へ押し当て、音を鳴らした。
 小鳥の囀りである。
「雀が、催促に来たのかと思うた!」
「そういえば、庭先に小鳥達が集まっておりました」
 雪うさぎを置くため、縁側へ近付いた時のことを伝えると、幼子は「餌をやっているのだ」と、雪うさぎを受け取る時に邪魔になって懐へ入れた、餌袋を少年に見せた。中には、城の蔵から出た屑米や雑穀の類が詰まっている。
「雀は伊達家の紋所の鳥だからのう。大事にしなければ」
 袋の中身を一掴みし、庭へと撒く。けれど、いつもは飛んでくる小鳥達が、今日に限っては寄ってこない。
「おかしい」
 幼子は首を捻る。
 量が足りぬのかと、もう一撒きしようと袋の内に入れた手を、少年が止めた。
「今朝は見慣れぬ者がいるので警戒しているのでしょう。小鳥は警戒心が強い生き物です」
「――確かに、そうであったわ」
 梵天丸は餌付けを始めた頃を思い出し、納得する。
 今でこそ催促しにくるようになった小鳥達であったが、最初の頃は梵天丸の前にも姿を現さず、翌日、餌だけが消えていた。
「小十郎、先程の、もう一度吹いてみてくれぬか?」
 梵天丸は小十郎に笹笛を所望する。
 少年は笹の葉に唇を押し当てると、息を吹き込む。
 先程よりは長く、梅花に止まる鳥のように。
「鶯じゃ!」
「笹鳴きは、鶯の雛が鳴く声と申しますから、音が似ているのかもしれません。子供の頃はこれで、よく姉をからかったものでございます――喜多にはすぐわかると思いました」
「梵もやる!」
 子供の頃に吹けたと聞いて、試してみたくなった梵天丸が、小十郎の持つ笹の葉に手を伸ばしてくる。
「新しい葉の方が吹きやすいですから!」
 そう断ると、小十郎は持っていた笹の葉を、梵天丸の手に触れぬよう手の内へ握り込んだ。小十郎が口にしたものを梵天丸が口にするのは、感覚的にまずいと判断したのだ。
 少年は踵を返すと、若君の笹の葉を見繕うため、庭の笹の茂みへと歩いていく。
 その後を、沓を履いた幼子が追いかける。
 背を追いかけて来た幼子を迎え入れると、ふたりは一緒に笹の葉を探した。
 良いと思う笹の葉を選んでやり、少年は幼子に笹笛の吹き方を教えた。
「――鳴らぬ」
 幼子の唇と笹の葉の間からは、息が漏れる音がするばかりであった。
「本当に鳴るのか!?」 
 幼子は少年に笹の葉を突き出す。
 音の鳴らぬ不満の他にも、少年が鳴らした葉を隠し、幼子にくれなかった不満がそこにはあった。
 突き出された葉に、先程と同じ懸念が少年の心に浮かぶ。
 けれど、逆ならば不敬には当たるまいと、少年は笹の葉を受け取ると、幼子が口にしたそれを唇に押し当てた。
 鶯は春の囀りを繰り返す。
「駄目です!!」
 再び手を伸ばしてきた幼子に、小十郎は目線を合わせるため落としていた腰を上げた。
 小十郎に立たれると、梵天丸の手は届かない。
「その葉がいいのじゃ!」
「どの葉も同じです! 音が出るのはお分かりになられたでしょう? 小十郎もすぐには音は出ませんでした」
「本当か?」
「本当です。修練あるのみです。一度音が出てしまえば、草だろうが石だろうが何だろうが、音は出るようになります」
「――わかった。新しい葉を選んでくれ」
 納得したらしい幼子の言葉に小十郎が腰を落とすと、果せる哉、幼子は小十郎の手から笹の葉を奪った。
 あ、と思う間もなく、笹の葉は幼子の唇に押し当てられる。
 音は出ない。
「うむ、葉は関係ないのう。これで練習する」
 幼子は小十郎が口にした葉で、笹笛の練習を再開した。
「――はかりましたね」
 落としていた腰を上げ、少年は立ち上がる。
 少年が手の内に封じ込めようとしたものを、幼子に暴かれたような気がした。
「確かめただけじゃ」
 幼子は我が意を主張する。
「練習ならば、笹は柔らかく、吹きにくいでしょう。椿の葉なら固く、初心者にも吹きやすい。表にある、椿の所まで行ってみませんか? 花も咲いて綺麗ですよ」
 少年は幼子を誘うと、手を差し伸べた。もう片方の手には、さきほど握り込んだ笹の葉が未だ捨てずにある。
「笹で練習するから、よい」
 少年の誘いを断ると、幼子は鳴らぬ笛を吹き続けた。
「若君は、春鶯囀の謂れをご存知ですか?」
 少年が問い掛けてくる。
 幼子は息を吹くのを止め、少年の顔を見た。
 其処には、父の小姓の顔した少年がいた。
「春鶯囀は皇太子の曲。殿は、梵天丸様を世継ぎにしたいとお考えです」
「だから、何じゃ」
「表に出なさい」
 少年が言い放つ。
 幼子は見定めるように相手の顔を凝視すると、視線を転じ、縁側の沓脱石の上に置かれた雪うさぎを見とめた。近付くと、「このうさぎは梵だ」と宣言し、幼子は雪うさぎの右目を潰す。
「何を、なさる!?」
 少年が声を上げる。
 赤い実は破れ、内から溢れ出たものが、白いうさぎの身を穢した。
「跡取りがこんな右目では、伊達家は笑い者になろう!」
「そのような物言いはお止しなさい。跡取りに成りたくても、成れぬ者もいるのです!」
「冷えた、内に入る」
「では、これまで!」
 少年の言葉に、幼子は向けた背を再度返して、縁側から相手を見た。
 笹の茂みの前に立つ少年は、別れの挨拶に頭を下げている所だった。
 その頭に、幼子は雪うさぎを掴むと投げつけた。
 少年に命中した雪うさぎの体は、はらはらと雪の欠片となって地へ落ちる。
「梵天丸様?」
 名を呼ばれ、声のした方へ顔を向ければ、膳を片し終えた喜多が、廊下を渡って帰ってくる所だった。
 幼子は顔を悲しげに歪ませると、乳母にも背を向けて部屋へと駆け込んだ。
 ぴしゃりと閉め切る引き戸の音が、乳母のいる所まで響いてきて、何かが起きたと悟った乳母は、歩調を速め、若君の部屋へと急ぐ。乳母のいた所からでは、網代戸と庭木が壁となり、庭先で起こったことが見えなかった。
「小十郎っ!」
 乳母が壁の内へと入ったのと、少年が庭の木立の影へと入ったのは同時だった。
 弟は姉の呼び掛けには振り返らず、影の中へと消えていった。
 後を追おうとも思ったが、閉め切られた障子戸の向こうから、啜り泣くような幼子の声が聞えてきて、乳母は弟を信じると、部屋へと入った。
 梵天丸は顔を隠すように、床へ突っ伏して泣いていた。
「どうされた」
「……なんでも、ない…」
「弟が、何かしましたか?」
「小十郎は、悪くない」
 喜多が仔細を尋ねても、梵天丸は面を上げず、涙の訳を告げようとはしなかった。
 幼子の頑なな態度に、喜多もそれ以上は聞くことをせず、込み上げるしゃくりが早く治まるよう、やさしくその背を撫でてやった。
 しゃくりも止まり、幼子の心持ちも大分落ち着きを見せたところで、再び、部屋の外で笹笛が鳴った。
 乳母は音のした方の障子戸へ目を向け、それまで顔を伏せていた幼子も、この時初めて顔を上げた。
 泣き腫らした眼は、うさぎのように赤い。
「……小十郎…」
 幼子はその名を呼ぶ。
 まだ日の射さぬ西側の障子戸に影は映らず、その声は小さすぎて弟の元までは届かない。
 乳母は腰を上げると、西側の障子戸を開けて、縁へと出ていった。
 表に弟の姿はなく、先程まで雪うさぎが置かれてあった場所には、白い椿の花が一枝、置かれてあった。
 姉は花枝を手に取ると、弟を追った。
「小十郎!」
 壁の内から出た所で、喜多は木立の合間から出てきた弟を見つける。
 捉まえて話をしようと、喜多が縁側から降りてくると、姉がこちらへやって来ることに気付いた弟が、姉の行動を止めさせようと、向こうから歩み寄ってきた。姉は素足で、地には雪が降り積もっていた。
「何じゃ、この椿は! 自分で渡さぬか!!」
 梵天丸の居室から十間ほど離れた縁側で、姉と弟は向かい合う。
「姉上から梵天丸さまへお渡しください」
 突き出された椿の枝を優しく押し返すと、弟は姉へ笹笛の経緯を話した。
「笹の葉よりも、椿の葉の方が吹きやすいでしょう」
「それだけか?」
 姉は花を付けた椿の枝を見る。
 枝には、白い椿の花が一輪だけ咲いている。
「――梵天丸さまのご様子は?」
 姉の問い掛けには答えず、小十郎は意中の相手の様子を乳母である姉へ尋ねてきた。
「落ち着かれたようじゃ」
 先に質問へ教えてやると、小十郎は安堵した表情を見せた。
 それから、「早急でした」と、梵天丸を表へ出すことを急ぎすぎたことを、乳母である喜多へ詫びた。
「綱元から、何か言われてのことか?」
「いえ……綱元殿が、何か?」
「春に、梵天丸様は高畠におる高僧の元へ、通わねばならぬと言ってきた」
「高畠まで通う!? 梵天丸さまが、ですか?」
「そうじゃ。出来ぬとあらば、廃嫡も辞さぬらしい」
「廃嫡……」
「表へ出る時のなのかもしれぬな」
 姉の言葉に事の重大さを悟った弟は、頭を切り替えると、本題へ切り込んできた。
「――医師は何と言っているのです?」
「右目が元に戻ることは無いらしい」
「そんなことは、素人が見たって判ります」
「突出した眼球については、瘡蓋が剥れ落ちるように自然と剥離するのを待つとのことじゃ。無理に切り取り、視神経を傷付けて、見える左目まで見えぬようになっては、大事だからと」
「椿や紅葉のように落ちるのを待つと? ですが、散らずに萎れる花もあれば、枯れたままの葉もあるでしょう? その点、どうお考えなのですか?」
「そなたこそ、どう考えておる?」
「私?」
「梵天丸様が廃嫡された場合、そなたはどうする?」
「どうする、とは?」
「また、輝宗公の小姓と、言い逃れるつもりか?」
 姉の言葉に、八幡宮で遣り合ったことを思い出した小十郎は、姉から視線を逸らす。
「言い逃れも何も、私は輝宗公の小姓です」
「小十郎!」
「それに、梵天丸様はご自分で投げておしまいだ。姉上は実子が生まれたせいで廃嫡された私に、それを聞くのですか!?」
 弟の叫びに、姉は一瞬、返す言葉を失う。
「……すまぬ」
 それだけは伝える。
「失礼します」
 弟は姉に一礼すると、踵を返して八幡宮へ帰っていった。

 喜多が、弟から預かった椿の枝を持って部屋へ戻ってくると、答えを求めるように梵天丸が寄ってきて、その顔を見上げる。
「小十郎からです」
 告げて差し出すと、幼子は驚いたように白い椿の花を見つめ、確かめるように乳母の瞳を見た。
「笹の葉よりも、椿の葉の方が吹きやすいと申しておりました――必要なのは葉であるのに花まで採ってくるとは……困った者でございます」
 喜多が笑いながら告げると、「いや。美しい」と、幼子は少年の行動を支持し、乳母から花枝を受け取った。
「――小十郎は?」
 しみじみと花を眺めた後、幼子が遠慮がちにその名を口にする。
「小十郎は八幡宮へ帰りました。年末年始の手伝いがあります故」
「…そうか。八幡宮は忙しいのであったな……喜多も戻ってよいのだぞ?」
「喜多めを梵天丸様のお側へ置いておくため、小十郎は八幡宮へ帰ったのです。喜多を梵天丸様の乳母に推挙したは、あの者でございますからな」
「そうなのか!?」
 はじめて耳にする話に、幼子は驚きの声を上げる。
 てっきり、父の輝宗が、小十郎を小姓に召し出したのと同じ理由で、喜多を乳母にしたのだと思っていた。
「そうでございますとも。先の乳母は、梵天丸様のお側へ置いておくには相応しくないと、小姓の分際で殿に願い出たのが、小十郎でございます」
「そうであったか。知らなんだ……」
「椿を生けて参りましょう」
 花枝を幼子から受け取ると、乳母は部屋を出て水屋へ向かった。
 椿を生けた花器を手に、喜多が梵天丸の部屋へ戻ってくると、幼き主は文机に向かって日課の手習いをしていた。
 部屋の床の間に花器を飾ると、喜多は主の邪魔にならぬよう背後へ控えた。
 筆休めに、床の間に飾られた椿の枝葉を取り、梵天丸は唇に当てて吹いてみる。
「鳴らぬ…」
 幼子の唇と葉の間から漏れるのは息ばかりで、やはり音は出なかった。
「喜多は出来るか?」
 椿の枝からもう一枚葉を取ると、幼子は乳母へ差し出した。
「いいえ。笛は小十郎の専門なれば、あれに任せておけばよいのです」
 乳母はそう答え、主から頂いた葉は栞にと、愛読の兵書へと挟み込んだ。
 乳母の言葉に、それもそうだなと考えを改めた梵天丸は、貰った椿の枝は花を愛でることにした。
 花枝に花は一輪。
 他に花はなく蕾もなく、厚い緑の葉に守られるように白い花は咲き誇っていた。



 その年も、静かに過ぎ去ろうとしていた。
 年越しの祓いの手伝いも終え、小十郎が八幡宮の社務所にある自室へ戻ったのは、除夜の鐘もそろそろ鳴り始めようかという時刻だった。
 神職の白き袴のまま、自室の床へ仰向けに横たわった小十郎は動かない。瞳を隠すように利き腕を双眸へ当てている。
 小十郎は梵天丸のことを考えていた。
 勤めが終わり、ひとりになる時間が出来ると、どうしても頭に浮かんできてしまう。
 傷つけたこと。
 泣かせたこと。
 出過ぎたことを申したことなど。
 何故、あのような口を利いたのか、小十郎自身にもわからなかった。
 表へ出よなど……
 小姓という身の程を弁えれば、若君に対し、あのような言葉は口にするべきではないだろう。
 第一、言った所で梵天丸が聞いてくれるとは思えないし、気分を害すだけだとわかっているというのに。
 頭ではそう判断しているというのに、また同じ場面に立たされたらどうするか――自分は何度でも同じことを言う気がした。告げた言葉に嘘は無い。だから余計、始末に悪かった。
 小十郎は床から身を起こすと、出文机の上に置いた素焼きの皿を見た。
 神饌を供えるのに使う素焼きの皿には、注がれた水面に、笹の葉が四枚浮かんでいる。水底には南天の実が二粒、内一粒は醜く潰れて沈んでいた。
 笹と南天の実は、昨日、梵天丸に笹笛を教えた時のものである。
 笹笛に使ったもの、雪うさぎにしたもの、己の手の内にあったもの、梵天丸が投げてしまったもの。
 それらを合わせて八幡宮へ持ち帰り、小十郎は素焼きの皿へ盛ったのだった。
 雪の中へ入れて持ち帰ったのは、笹の葉を乾燥から守るためであったが、雪は溶けて水となり、取り替えなければ何れ腐ってしまうだろう。それとも水が干上がって、干からびてしまうのが先か。
 小十郎は再び床に身を横たえると、瞼を閉じて横を向いた。
 もう何も考えたくなかった。
「小十郎、よろしいか?」
 その時、部屋の戸の向こうから兄の声がして、小十郎は半身を起こすと居住まいを正した。
 引き戸が開き、兄の景広が室内へ入ってくる。
 景広は宮司の装束である狩衣から着替え、長着に羽織と衣を改めていた。
 その手には盆を持っており、碗をふたつほど載せている。
「冷えますね」
 小十郎の向かいに腰を下ろすと、景広は湯気の立つ碗をふたりの間へ置いた。
 花湯である。
 それは、小十郎が六度目の夕べの笛のご祝儀に、梵天丸から賜ったものに相違なかった。白磁の碗の底に薄紅色の桜が、湯に花を開いている。
 梵天丸とやりあった後、城から帰ってきた小十郎は、己には受け取る資格が無いように思われて、やり場に困ったご祝儀を、宮司である兄に預けたのだった。
 小十郎は碗を手に取り、花を眺める。
 湯にたゆたう花を見ていれば、春になったら長井の桜を見に行こうと梵天丸と約束したことが思い出され、小十郎は自責の念にかられた。
 幼子は表へ出ようとしていた。
 面を付けてのことかもしれなかったが、それでも幼子は、部屋から出ようとしていたのに――
「私が浅慮でした。梵天丸さまはまだお小さいのに、お気持ちを察せられず、己の感情を抑えることができませんでした」
 碗を床の上へ置きなおし、小十郎が謝罪の言葉を述べる。
 すると、兄が諭した。
「それは致し方ない。小十郎は若君を、お小さい方だと思ってないのですから」
 兄の言葉に小十郎は顔を上げる。
 放った言霊が返ってきたことを知った。
「春までに梵天丸様が表へ出られぬ場合、都の大寺へ入れられることになりましょう」
「え?」
 兄の言葉に、小十郎は目を見開く。
「兄上、それは…?」
「大叔父の大有様同様、幼くして仏の道へ入られるということです」
「出家?」
「はい」
 其処まで確かめた所で、小十郎は言葉が出てこなくなった。
 都の大寺へ入れられてしまったら、梵天丸と逢うことは不可能に近いだろう。
 だがと、小十郎は想い直す。
 年若い伊達家の子息が入山するのだから、身の回りの世話をする供が付けられるはずであった。
 寺は女人禁制が原則だから、乳母である姉は供にはなれない。
 主が出家するのだから、供になる男子の出家も前提で。
 出家をしては子を成せず、家督を継がねばならぬ嫡子が供となっては、その家を潰すことになってしまうから、家督を継ぐ責のない次男以降が候補となろう。
 ならば、自分がその供となり、梵天丸と山へ籠もってしまいたい。
 ふたりきりならば、余計なことに煩わされることなく、何もかも上手くいく気がした。
「――確かに、そうでしょうね」
 景広がつぶやく。
 心の内を見られたと知った小十郎は、兄の顔を見た。
 景広は目線を伏せ、碗の中の花を眺めていた。
「おふたりにとっては、それが一番良いのでしょう。けれど、月が隠れてしまっては、浮世は闇となる――」
 除夜の鐘が鳴り始めた。
 鐘の音は、遠い空から響いてくる。
 城下にある梵天丸の大叔父である大有も、世の煩悩を取り除くため、鐘を打ち鳴らしているはずだった。
「小十郎が望めば、若君は山に籠もられます」
 予言するように、景広が告げる。
「梵天丸さまも、それをお望みですか?」
「若君は、表へ出ても恥ずかしくない身の上に成ることを、望まれています」
「私の望みとは、別だと――」
「若君は小十郎の望みを知りません。知れば望みを変えましょう」
「言霊の力で?」
「それが天の住人である、月天子のお力です」
 其処で会話は途切れ、沈黙に鐘の音だけが響いていった。
 小十郎が沈思黙考に入ったのを見てとると、景広は花湯を飲み干し、席を立った。
「兄上」
 入ってきた戸を開け、部屋を出て行こうとした兄に、小十郎が声を掛ける。
「今夜、鐘が鳴らされるは、月が大籠もりなされるからですか?」
 たゆたう花に視線を注いだままの少年が、大晦日に鐘が撞かれる理由を尋ねた。
「闇夜は人を不安にさせるもの。それが越すに厳しい年の瀬ならば、猶というもの」
「解りました」
 小十郎の応えに八幡宮の宮司は頭を下げると、静かに部屋を出ていった。

九章 雪中花

 明けて壬申の年、米沢城には新年の挨拶に上がる家臣達が、続々と顔を見せはじめていた。
 そんな中、一向に姿を見せない小十郎に、梵天丸は不安を覚えていた。
 父輝宗との約束通り小正月明けに城へ上がるのだろうと、込み上げてくる不安を宥めすかしてはいたが、暮れにひどい別れ方をしたこともあって、三日の夕べに小十郎から贈られた白い椿が花を落とすと、不安が勝り、花が落ちてしまったことを甚く気にしていた。
 喜多がその旨書いて送ると、小十郎は何を想ったのか、落花と記したその文言の下に蔵雪と書き足して、文を送り返してきて、梵天丸にどう説明したものか、喜多が八幡宮から届いた文を眺めていると、梵天丸が覗き込んできて、手水に入れておいた椿の花を掬うと、庭へと降り、幼子は白い椿の花を雪の中へ埋めるのだった。

 小十郎が姿を見せぬまま迎えた正月七日、輝宗はかねての予定通り、幼い二人の子供と重臣達を連れて、八幡宮を詣でた。
 姫が熱を出したため、妻女の義姫は同行を見送り、若君二人は晴れ着の水干に、狐面を被っての参詣となった。
 梵天丸は病んだ右目を、衆目に晒したくない理由から玄狐の面を被ったのだったが、弟の竺丸は、隠すべき何かがある訳でもなく、誰に何を言われた訳でもなかったのに、白狐の面を被った。
 それは、梵天丸ひとりを好奇の目に晒すのを避けるため、竺丸が取った行動であった。
 そんな弟を、梵天丸は憎からず思った。
 狐の面を被ったふたりの童の出現に、八幡宮の参詣人達は、この地に伝わる山の神が、歳神となりて山から降りてきたように思ったようで、歓喜を持って迎えられた。
 そんな歓声が飛ぶ中、狐面の奥から、梵天丸は小十郎を探していた。
 人目を避けたい梵天丸が初詣に出てきたのも、小十郎に逢えると考えての行動であった。
 けれど、どんなに一つ目を凝らして探しても、境内を行き来する人込みの中から、小十郎の姿を見つけることはできず、新年の祓いを受けるため、並んだ拝殿でも、宮司である景広と共に現れたのは、小十郎ではない別の神職の男性だった。
 乳母として、梵天丸に同行していた喜多も、補佐役の神職が小十郎でないことは訝しく思った。
 補佐役に現れた神職は、古くから八幡宮に仕える壮年の男性で、喜多も顔馴染みの者ではあったのだが、小十郎は八幡宮の手伝いをするため、城勤めを休んでいるのである。なのに何故その小十郎が、景広の補佐もせず、境内の何処にもいないのか――?
 宮司の景広は祝詞を唱え、幣帛を振り、新年の祓いを滞りなく行う。
 神事が済めば直会となり、輝宗と重臣達は、用意された宴の席がある社務所の表へと向かった。
 酒席に参加しない子供達は、乳母と若侍を供に付け、先に城へ帰る手筈になっていた。
 梵天丸は一行の列から飛び出すと、境内の一角へ向かう宮司の後を追った。
「兄上―っ」
 駆け寄りながら、梵天丸は景広を呼び止める。
「梵天丸様!」
 駆け出した若君の背を追い、乳母も駆け出す。
「これは、若君」
 白い衣冠の袖を閃かせ、景広は梵天丸を振り返った。
「小十郎は?」
 いの一番にその不在を問うと、八幡宮の宮司は答える。
「小十郎は、籠もっております」
「籠もる!? 梵が雪玉をぶつけたから、怒って、もう出てきてくれぬのか!?」
「怒ってはいなかったようですよ。籠もる理由はお教えできませんが――そうですね、願い事を口にすれば叶わなくなる、そう申しておきましょうか」
「願い?」
「願いを掛けて籠もったと? まさか小十郎は、誓願を立て、潔斎に入ったのか――?」
 後から追い付いて話を聞いた喜多が、景広へ問う。
 すると、八幡宮の宮司は弟の願いを守るように姉の質問に答えず、静かに笑みだけ向けてきた。
 その笑みに、喜多は自分の直感が正しかったことを知る。
 小十郎は梵天丸のため、神に誓いを立てようとしているのか――
「十日に、梵天丸様お望みの椿の花を、お届けに上がると申しておりました」
 景広の口から、小十郎の言葉が伝えられる。
 その言葉に、小十郎と交わした文のことを思い出して、梵天丸は景広に伝言を頼んだ。
「白い花は雪の中へ入れたと、小十郎に伝えてくれ」
「承知しました。確かに申し伝えておきましょう」
 小十郎と逢う約束を取り付けた梵天丸は、仮面の下、笑みを浮かべる。
 そんな梵天丸の様子を、少し離れた場所から見ていた竺丸は、傍らに立っていた若侍に疑問をぶつける。
「小十郎とは誰じゃ?」
 質問を向けられた若侍は、弟君の様子へ目を向ける。
 弟君の顔は白い狐の面に覆われていて、その表情を見ることはできなかったが、面の奥から覗く視線の先は、質問相手の若侍ではなく、対象の梵天丸へ向いていた。
 謎掛けするように、若侍は答える。
「私の、異母姉の、異父弟でございますね」
 綱元の言葉に、ようやく弟君は質問相手に関心を向け、傍らに立つ綱元へと顔を向けた。
「梵を呼べ」
 だが、発せられた言葉は、八つ当たりのような命令である。
 城内の若侍のひとりである綱元は、若君の帰城の供に命じられていた。
「ご自分でお呼びになられたら如何でしょうか?」
 綱元がやんわり断ると、
「いいから、呼べ!」
 重ねて、竺丸は命じてくる。
「お子様方ーっ、先にお城へ、お帰り遊ばしー!!」
 綱元が大声で呼ぶと、梵天丸と喜多は顔を向け、連れ立って、竺丸と綱元のいる場所へとやってきた。
「梵っ」
 梵天丸が傍らに戻ってくると、竺丸は詰め寄った。
 一門の男達や本人がそう呼ぶので、年子の弟である竺丸は、梵天丸のことをそう呼んでいた。同年の、従兄弟で叔父でもある時宗丸も、梵天丸のことを同様にして呼ぶ。
「何じゃ?」
「小十郎とは、誰じゃ?」
 弟から向けられた質問に、梵天丸は少し思案を巡らしたようだった。
「笛の奏者じゃ」
「笛?」
「夕べに吹かれる笛の音じゃ。東の対屋にも聞こえておったろう? 龍笛の奏者じゃ」
「笛吹き小僧か…」
「誰が小僧じゃ! 小僧は、そなたであろう!!」
 弟の物言いに、無礼であると、梵天丸がその額をはたく。
「…随分とご執心じゃ」
 叩かれた額を面の上から擦りながら、竺丸が注進する。
「梵が楽に目が無いは、そなたも知っておろう?」
「それだけか?」
「他にか、何かある?」
「無ければ、良い!」
 拗ねたように竺丸が顔を横に向けると、梵天丸が宥めるようにその頭を撫でる。
 まるで狂言だねと、傍らで見ていた綱元は思った。
 幼いふたりが口にしている言葉は、耳で覚えたであろう、一門の男達の話し言葉だった。
「竺、雪だるまを作ろうぞ」
 梵天丸が突如口にした提案に、異を唱えたのは、誘われた竺丸ではなく綱元だった。
「なーに言ってんですか! 若君達はお城へ帰るんですよ。雪遊びなら、お城のお庭で、存分にどうぞ!!」
「遊びではない。神事じゃ! だるまは歳の初めに、社で頂くものであろう」
 そう言って梵天丸は、境内の参道脇に出ている達磨市を指す。
「まー、そうですがねぇ……」
 紙張子の赤い達磨と、雪礫の白い達磨じゃ違うでしょ、と言った所できく相手ではないので、賢い青年は、その場では話を合わせながら、反撃の機会を伺う。
「綱元は、梵が表へ出て何かすること、望む所であろう?」
「そのお面を外されて――なら、望む所なんですがねー」
「ならば綱元は、そのように願って、だるまを作るがよい」
 梵天丸の言葉に、綱元と喜多はその意図に気付いて、顔を見合わせた。
 竺丸が見ていたように綱元も、梵天丸と景広の遣り取りには、耳を澄ましていたのだ。
「なるほど、そういうコトですか――」
「何じゃ?」
 ひとりだけ、梵天丸の意図に気付いていない竺丸が尋ねたが、教えても厄介なことにしか成らないので、「はいはい、だるま作りましょうねえ」と、綱元は言い様、雪玉を転がして、誤魔化してしまった。
 綱元と竺丸が雪だるま作りを始めたのを見てとると、梵天丸も乳母に声を掛け、早速取り掛かり始める。
「梵も負けておれぬ。喜多、少し待っておれ」
「喜多も加勢いたします」
「そうか! 手伝え」
 喜多も加わって四人となり、雪玉を転がし合った。
 一刻の後、八幡宮の境内の片隅に、四体の雪だるまが並ぶことになる。
「願いが果たされた時、右目は入るのじゃ!」
 そう告げて、竺丸はだるまの顔に左目だけを入れた。
 弟の言葉に、梵天丸は大きく頷く。
「お姉さん、何願ったの?」
「秘密じゃ」
「綱元、願いは口にすると、叶わなくなるのじゃぞ?」
 人の願いを聞きだそうとした青年に、梵天丸は宮司の言葉を聞かせてやる。
「――うん? じゃあ、オレの願いは叶わんのか?」
 担がれたことに気付いた青年はぼやき、女子供は笑い声を上げた。
 冬空に明るい声は響いていき、四人が後にした八幡宮の境内には、身代わりのように四体の雪だるまが残った。
 其処に並べるよう指示したのは梵天丸であり、他の二人は知らないだろうが、其処が小十郎の部屋の前であることを、喜多だけは気付いていた。



 約束の日、朝から雪が降った。
 降りしきる雪の中、蓑は纏わず頭に笠だけを被った小十郎が、真っ白な神職の衣装に身を包んで、城の裏門に姿を現した。
 若君に椿の花を届けに来たと、小十郎は門に詰める衛兵に、三方へ載せた赤い椿の花を見せる。
 死装束のような、白い小袖に白袴姿の少年に驚いたものの、彼が八幡宮の子息であること。
 腰に差しているのが刀ではなく、いつも少年が携帯している龍笛を収めた小袋であること。
 また事前に、小十郎がやって来たら門を開けるよう、若君から達しがあったこともあって、門番である衛兵は少年に道を開いた。
 門の通用門を通り城内に入った少年は、そのまま地伝いに進んで建物には上がらず、宿直棟の脇を抜け、境界の網代戸を潜って、奥向きにある若君の部屋の前庭へと入った。
 生い茂る笹の一葉を抜き取って、少年は笛を鳴らす。
 すると、閉め切られていた障子戸が開いて、縁側に幼子が飛び出してきた。
 背景の白い世界に溶け込みそうな、白い装束で現れた少年に、しばし見惚れたあと幼子はつぶやく。
「小十郎は、白が似合う…」
「ありがとうございます――上がっても?」
「よいぞ! 上がれ、上がれ」
 少年の申し出に喜ぶと、幼子は少年の空いている手を取って、座敷へ引っ張り込もうとした。少年の左手には、守られるように赤い花が一輪、三方に捧げ持たれている。
 約束の花だった。
「笠を取りますから」
 幼き主の振る舞いを制するように少年はそう述べると、主に右手を離してもらい、笠紐の結び目を解いて、脱いだ草履の上へ置いた。それから幼き主と手を繋ぎ直し、縁から若君の座敷へと入った。
 部屋で待っていた乳母の姉は、白袴姿で現れた弟に驚く。
 神事の時にしか見につけぬ装束に、巫女である姉は尋常ではないことを感じ取ったのだ。
 姉の心配をよそに、弟と幼き主は向かい合って座敷に腰を下ろすと、捧げ持っていた三方を床へ置き、小十郎は梵天丸へ約束の花を差し出す。
「喜多」
 赤い椿の花を手に取って愛でたあと、梵天丸は乳母を側へ呼んで、花を手渡した。
 主から花枝を受け取った乳母は、花を生けるため席を立つ。
 その際、小十郎が差し出した三方を垣間見て、花を載せるために敷いた物なのか、素焼きの皿の上に、折られた紙が置かれてあるのを目にした。折られた内側には、文字らしき物が記されてあるのが透けて見える。
 喜多は用心のため、境の障子戸を開け放したまま、部屋を出ていった。
 弟が戸を閉め切るようなら、すぐさま取って返し、部屋へ戻るつもりであった。
 水屋に向かう喜多の背後、戸は閉め切られることはなく、幼い主従は降りしきる雪の庭を前に、三方を挟んで向かい合っていた。
 姉が部屋を出て行くと、小十郎は両の指を床へ付き、座したまま前へと進み出て、差し出した三方の真ん前へ移動した。
 距離を詰めてきた相手に驚きながらも、梵天丸はその理由を問うことはしない。
 少年が口を開く。
「小十郎は誓願を立てました」
「セイガン?」
 聞きなれぬ言葉に幼子は首を捻る。
 少年は、三方の上の折り畳まれた紙を開いて、紙面を幼子に見せた。
 そこには、何か記されているようではあったが、墨で書いたものではないようで、文字色は薄く、一見しただけで何が書いてあるか、判読するのは難しい。
「薄い…」
「梵天丸さまが投げられた、雪うさぎと笹の葉で記しました」
 幼子は紙面から顔を上げる。
 少年の言葉に衝撃を覚えたのだ。
 かつて幼子は、雪うさぎは己であると宣言し、その右目を潰し、その身を放り投げていた。
「……何と、書いたのじゃ…?」
「右目に憑いた穢れを祓い、うさぎに天命を真っ当させて頂けるなら、小十郎は命を捧げると――お嫌なら、この匕首で、小十郎の眼を突きなさい!」
 逃げようと腰を浮かしかけた幼子の腕を掴むと、もう片方の手で腰の袋を紐解いて、中に仕舞っておいた短刀を抜き放った少年は、幼子へ突きつける。
 勢いで、白木の鞘と共に、袋の内へ仕舞っておいた龍笛が床へと転がる。
「…小十郎、何をしておる!?」
 龍笛が転がり落ちた先、花を生けて戻ってきた姉が立っていた。
 室内では、小十郎が梵天丸に抜き身の刃を突きつけているという、信じられぬ光景が広がっていた。
「これから小十郎が、梵天丸さまの右目を切除します」
「医師でもないそなたが、何を言う!? 気でも狂ったか!」
「お止めになりたいのでしたら、その胸の懐剣で、私の眼をお突きください。さすれば小十郎は止まりましょう――誓願を立てて履行せねば、神の怒りを買い、神罰が下ります。小十郎の身一つで収まるなら結構ですが、対象である梵天丸さまにも、害が及ばぬとは言い切れませぬ故、御免」
「待て! 景広殿はこの事、承知しておるのか!?」
「兄上は匕首を授けてくださいました」
「景広殿が!」
 喜多は床に転がる白木の鞘へ目を向ける。
 材はおそらく杉。
 杉は八幡宮の御神木であり、八幡宮の宮司である景広が授けたというのなら、八幡の神に奉じられた御神刀なのだろう。
 喜多は障子戸を閉め切ると、部屋を外界から遮断し、椿の花を床の間へと生けた。
 立花とも呼ばれる生け花は、元は魔除けの行為であり、床の間は、神の依り代を飾る神域であった。
 喜多が控えると、小十郎は懐から火打ち石を取り出し、素焼きの皿の上に広げた請願書に火をかけた。
 炙り出しのように、薄い竹色の文字が一瞬濃く浮き出たかと思うと、炎に巻かれて消えていく。
 穢れ、祓い、天命の文字が、梵天丸の左の網膜に焼き付いていった。
「何故じゃ…」
 唸るように、幼子は問いを発した。
「梵の右目が醜いからか!?」
「違います」
 真っ向から否定すると、少年は梵天丸の顔に手を伸ばし、長い前髪を耳にかけて、隠していた右目を露にした。
「疫の毒が回れば、誰だってそうなります。あなたが褒めてくれた小十郎の顔とて、そうなるのです――御覧なさい」
 少年は匕首の刃を鏡面に、幼子の顔を映した。
 幼子は顔を振って髪の覆いを元に戻すと、顔を逸らした。
「そこに映っているのが、梵天丸さまと同じ年頃の童であっても、そのようにお顔を逸らしなさいますか?」
 少年の言葉に、梵天丸は突かれる。
「戦い、地獄の業火に焼かれ、体の一部を奪われようと、黄泉の淵から戻ってきた者に対し、そのような振る舞いをなさってはなりません」
 従者の言葉に幼い主は、鏡に映った己の姿へ目を向ける。
 髪の隙間から覗く、眼窩から突出した右眼は色を変えて垂れ下がり、他人のものならば見られるだろうが、他人に見せていいものだとは思えなかった。
「梵天丸さまの右目を見た者が恐れ、目を背けるのは、梵天丸さまの右目に憑いた死の穢れです。人の心は弱いもの。誰もがそうなる運命でありながら、死から逃れたく、人は目を背け続けているのです。梵天丸さまの右目は、地獄がいつでも我々の傍らにあることを、如実に見た者へ示します。我々が忘れているだけで、地獄はいつだって、口を開けて待っていることを、その右目が教えてくれるのです。地獄が傍らにあると知って、正気を保てる者は、同じ地獄の淵より戻った者達だけでしょう。人に地獄を見せてはなりません」
「だから、他人の目に触れぬよう、引き篭もっているではないか!」
「病や怪我で体の一部を失った者達は表へ出るなと、そう仰いますか? 将来は一国の主となられる方が!!」
「小十郎が申したのであろう!!」
「いいえ。地獄を見せるなとは申しましたが、お隠れになれとは申しておりません――死を恐れ、恐れは人から笑いを奪い、恐慌状態に陥れ、この世に無間地獄を招きます。ならば貴方は、地獄の道行きに先立ち、人に笑みを結ばせる、伊達の棟梁にお成りなさい」
 少年の言葉に、幼子は何か思い当たったようだった。
 それが己の放った言葉に、少年が別の意を付記したことであると悟ると、その前髪を掻きあげて、幼子は叫んだ。
「祓え!」
「帰命月天子本地大勢至」
 誓いの言葉を口にして、小十郎は匕首で梵天丸の右目を切った。
 右の眼窩から繋がっていた緒は断ち切られ、幼子は「あ」と一声を上げると、背後へ倒れかかる。
「梵天丸様!」
 倒れる主を受け止めようと、喜多は腰を上げた。
 背後へ傾いた梵天丸の体は、向かいに座していた弟の手によって抱き止められていた。
 小十郎はゆっくりと、意識を失った梵天丸の体を床へと横たえる。
「姉上は、床の用意を」
 眼窩から流れ出た一筋の血潮を白い小袖の袂で拭い、小十郎は匕首を鞘へと収めて腰に差すと、切り取った梵天丸の右目を懐紙で包んで懐へ入れ、梵天丸を胸に抱いて立ち上がった。
 喜多は小十郎の指示に従い、次の間へ梵天丸の床を用意する。
 意識を失った梵天丸の体を床へと運び、右目を切るのに使った匕首を守り刀のように、眠る梵天丸の体の上へ置くと、小十郎は席を立った。
「輝宗公へ、報告して参ります」
 床に転がっていた龍笛を腰の袋に収めると、小十郎は部屋を出ていった。
 正殿では、年が明けて初となる評定の席が開かれ、棟梁である輝宗の元、主だった一門一族の者達がこぞって集結していた。



 年賀の評定らしく酒が振舞われ、列席者の口も軽くなっていた頃だった。
 引き篭もっている梵天丸の事が話題に上がり、一門のひとりが酒の席の言葉として、竺丸を嫡子に立てることを提言した。
「弟が家を継いでも問題あるまい。なにしろ十六代目とて、次男でありながら、立派に伊達家を治めているのだからな!」
 父の供として、評定の末席に席を置いていた綱元は、徳利を持つと席を立った。
 主君である輝宗は、兄を差し置いて棟梁になったことを気にしている。
 綱元は主の嫌う話題から話を逸らさせようと、口に出した一門の杯へ酒を注いだ。杯に酒を注がれたら口を付けるのが礼儀であり、その理を利用して、綱元は相手の口を封じようとしたのである。
 手にした徳利が空になり、新しい酒を手にしようと綱元が席を立つと、視界が開け、周囲がよく見渡せた。
 列席者の多い今日は、正殿の板戸は全て取り外している。
 正殿の向こう、舞い散る雪の中を、小十郎が廊下を渡って来るのが見えた。
 小十郎が今日来ることは、話に聞いて知っていた。
 だが、その出で立ちは聞いていない。
 小十郎は死装束のような、白い袴着姿だった。
 綱元の酔いもいっぺんに醒める。
 と同時に、本能的に異変を感じ取り、厨へ酒を取ってくると託けて、正殿を後にした。向かうは、小十郎の元である。
 正殿から少し離れた所の廊下で綱元は小十郎と行き会うと、話し掛けて、その足を止めようとした。
 けれど、小十郎はそんな綱元に一礼し、行き過ぎようとする。
 過ぎ去る少年の袂を、青年は掴んだ。
 少年は青年の手をやんわり振り払うと、足を止めることなく、先へと進んでいく。
 押し問答をして、人目を集めては元も子もないので、青年は少年を行かせるままにした。
 行き交う相手に礼をしていくくらいなら、正気は保っているだろう――そんな判断からだった。
 小十郎の袂を掴んだ際に覚えた濡れた指の感触が、違和感へと変わり、綱元は手を上げ指先を見た。
 降りしきる雪の欠片は壁のない廊下へと舞い込み、軒下に薄っすらと雪模様を描いている。
 その一片を、小十郎の袂と共に掴んだものとばかり思っていた綱元は、指先が赤く染まっているのを目にする。嗅げば、錆びた鉄の匂いがした。
(――血?)
 違和感の正体に気付いた綱元が顔を上げた時、歩みを止めない小十郎は角を折れ、正面から正殿へと入っていく所だった。
 ほどなく、正殿からどよめきが起こる。
 刹那、綱元は来た道を引き返そうとした。
 しかし、数歩進んだ所で足を止め、踵を返すと、青年は奥向きへと向かった。
 小十郎が事を起こすなら、それは梵天丸のことだろう。
 ならば自分は、誰が駆けつけるより前に駆けつけようと、青年は幼き主の部屋へと急いだ。



 眠る梵天丸の枕辺を守るように、ひとり座していた喜多は、開けられた部屋の障子戸へ視線を向けた。
「……綱元」
 戸口には、喜多のもうひとりの弟である、鬼庭綱元が立っていた。
「何だよ、コレ……」
「取っては、ならぬ!!」
 眠る梵天丸の傍らへ近付き、不吉な影を取り除くよう、その体の上に置かれた小刀へ手を伸ばした綱元は、喜多から注意を受けた。
 制止の呼び掛けの理由を問うように、綱元は喜多を見る。
「案ずるな。眠っておられるだけじゃ」
「――永遠の眠り?」
「罰当たりめ、滅多なことを申すな!」
 姉の口から出た小言に、梵天丸の命が無事であることを知ると、青年は安堵の溜息を漏らした。
 肩の荷を降ろすように、喜多の隣へ腰を下ろす。
「アレ、小十郎が置いたの?」
 梵天丸の体の上に置かれた白木の鞘へ視線を向けながら、綱元が問う。
「うむ。八幡宮の宮司が持たせた御神刀じゃ」
「棺の上に置く刀みたいに見えたぜ?」
「それでよい。魔除けの刀であることに変わりはない」
「魔除けねえ…」
 人を守るのは人だろうよと、綱元は眠る梵天丸の顔を見つめた。
 幼子の寝顔からは、忌避され続けていた物が、綺麗さっぱり消え失せていた。
「右目、切ったんだな」
「見ての通りじゃ」
「少し、出血した?」
 綱元の言葉に喜多が視線を向ければ、知っている理由を示すように、綱元は赤く染まった指先を見せた。
 喜多は胸元に挟んだ懐紙を、綱元へ投げて寄越す。
「もう乾いちまったけど」
 そう言いつつも一枚拝借すると、残りを喜多へと返した。
 喜多が懐紙を元の場所へ仕舞っていると、廊下を渡る足音が近付いてきて、綱元が開けたままにした戸口に、主君である輝宗と、その懐刀である遠藤基信が姿を現す。
 主の御成りに、鬼庭家の姉と弟は平伏して迎えた。
 輝宗は綱元同様、我が子の上に置かれた刀に一瞬動揺を示したが、その手の者である遠藤に制せられ、その遠藤は、刀を動かさぬよう梵天丸の頭から回り込むと、眠る幼子の首元から脈を確かめた。
「眠っておられます」
 父親に我が子の無事を伝える。
 輝宗が安堵の息を漏らすと、綱元が口を開いた。
「此度の事、奥向きを預かる私の監督不行き届き。全ての責は、この鬼庭綱元にございます」
「いえ。弟を止められなかったは姉の罪。全ての責は片倉喜多に」
 頭を下げ続ける姉弟に、輝宗は声を掛ける。
「ふたりとも、面を上げよ」
「小十郎からは神事と聞いた」
 ふたりに、正殿での小十郎の言葉を伝える。
「神事に障りあれば神の怒りを買おう。梵天丸の身を思えばこそ、邪魔立てしなかったのは妥当な判断。その方らの罪は問わぬ。小十郎とて同様にしてやりたい所だが、城内で刀を抜き、主に断りもなく、刃を突き立てたは、まずい。評定に集った一同の者達に聞かれとあっては、不問にした所で、悪用せぬ者が出ぬとは限らぬのでな」
「なれど、殿…っ」
「お言葉ご尤も。返す言葉もございませぬ」
 嘆願しようとした綱元を制するように、喜多が主の裁きを受け入れ、平伏する。
 そんな喜多に倣うよう、綱元も再び頭を下げた。
「案じるな、綱元。悪いようにはせぬ。これで梵天が目を覚ませば、天命の子。この上なき誉れになろう」
「はっ」
 綱元も同意を示した時、部屋に笛の音が流れてきて、その調べに、一同の者は顔を上げた。
「龍笛でございますな」
 基信が輝宗へ伝える。
 輝宗は頷き、喜多は弟の笛の音だと思った。
 笛の聞えてくる方角を確かめようと、部屋を見渡した輝宗の目に、床の間に飾られた赤い花が入ってきて、輝宗は思わず花の名を口に出す。
「椿…」
「弟が、梵天丸様と約束をし、今朝届けに参ったものでございます」
「基信、椿は……」
 伊達家の棟梁は、腹心の家臣へと問い掛ける。
「出羽の御霊木でございます」
 寺家の出身で、出羽三山の山岳修行で道を修めた修験者の遠藤が答える。
 羽黒山、湯殿山、月山を、出羽三山と呼び、修行の場の羽黒山、信仰の中心の月山、月山の奥の院が湯殿山とされ、梵天丸は湯殿山の神事で身籠った子だった。
 その名の通り、月神を祀る月山は、神道においては月天子である月読命を祀り、仏道においては、本地仏である勢至菩薩ではなく、阿弥陀如来を奉っていた。
 この阿弥陀如来の垂迹神が八幡神であり、月山は殊に八幡神と縁の強い山でもあった。
 尚、月山の縁年は卯年とされている。

終章 舞い降りた鳳凰

 梵天丸に取り憑いた死の穢れを祓うため、右目を切除したことを、正殿に集う一同へ告げた小十郎は、その後、宿直棟へ向かい、ひとり部屋に籠もって、龍笛を吹きはじめたという。
 小十郎の奏でる龍笛の音は、奥向きにある梵天丸の部屋へと響いてきて、眠り続ける主の枕辺を守っていた姉は、弟は後斎に入ったのだと思った。
 龍笛が奏でている調べには、喜多の耳に聞き覚えがあった。
 それは幼き頃より小十郎が好んで吹いていた曲で、病を癒す謂れをその名に持っていた。
 長い曲は、はじまりから終わりまで、通しで吹かれ、終わると再び始まり、繰り返し繰り返し何度でも、奏上されていた。
 音もなく降り続いていた雪も、正午を過ぎた頃に小休止に入り、戸を閉め切った部屋の内にも、障子越しに、日が射し込むようになっていた。
 床に伸びた影の長さに、黄色味を帯びた光の色に、時の経過を覚えた喜多は、障子戸へ目を向ける。すると、部屋へ近付く者の姿が影となって障子へ映っていた。
 鳴りやまぬ龍笛の音に足音は消され、侵入者の発見が遅れた乳母は、一瞬、体に緊張を走らせる。だが、投影されている影の形に、相手の正体に気付くと、喜多は席を立って、自ら部屋の戸を開けた。
 表にいたのは綱元だった。
 喜多と共に幼き主の枕辺を守っていた青年は、部屋に日が差し込みはじめた頃、席を立って、正殿へ様子を見に行っていた。
 正月の評定が行われていた正殿は、いまや伊達家の子息へ刃を向けた一小姓の処分決定の場となっており、青年は正殿で決定されたその沙汰を、部屋へ知らせに戻ったのだ。
 喜多が開いた戸口から、綱元は室内へと入ると、さきほどまで己が座を占めていた、幼子の枕辺へと腰を下ろす。
「小十郎への処分が決まった」
 喜多が席に着くのを見計らって、青年は口を開いた。
「若君に決めさせる」
「梵天丸様に?」
「そう――梵天が小十郎の処分を決めるなら、悪いようにはしないだろう? それになんといっても、梵天が決めたコトなら、他の連中がとやかく言えない。小十郎に何らかの責を負わせたい連中の意見も、封じ込められるって寸法だ」
「なるほど」
「ただ、ちょっと雲行きが変わってね――」
 そこで綱元は言葉を切った。
「誰かが御注進あそばしたらしく、お東の方が出てきた。この梵天の母君であるお東の方ていうのが――噂で聞いたことがあるかもしれねえけど――梵天のことを溺愛してる。ご夫妻が館内別居状態なのも、元を辿れば、梵天の右目が損なわれた事に行き着く。お東の方は殊更に、梵天の身が損なわれることを嫌っててね……それが梵天のためであったとしても、聞き入れはしない。先の乳母っていうのが、疫に掛かった梵天の看病をしていて、疫に罹患し、亡くなったんだが……その彼女に対し、『梵天の右目が損なわれたは、乳母の監督不行届きである。命があったら、打ち首にしていたところだ!』って、豪語するくらいの女(ひと)でね――まあ、彼女の気持ちも、わからなくはないんだよ。彼女は、疫に罹患した梵天の看病を、自分ですることを強く望んでいて。それが退けられたのは、お腹の子に何かあってはと、周囲の輩が反対したからであって。彼女にしてみりゃあ、泣く泣く看病を託した乳母に、裏切られたも同然なんだろう。けどねえ……彼女の発言のおかげで、死んだ女は嫁ぎ先から離縁されたあげく、実家へ返されて、返された実家も、娘の葬式を出すにも出せず、人知れず野辺送りにされちゃなあ……梵天も、彼女が何故自分の元からいなくなったのか――他の女同様、醜い右目を見て恐れを成して逃げ出したのか――? わかんねえだろと」
「いや、知っておられる」
「へ?」
 喜多の発言に、青年は驚いて目を向ける。
「私が乳母になった時、保母であることを確認されたのだ。その後も、それらしきことを仰っていたな」
「それらしきコト?」
「『梵の乳母はひとりだけだ』とも、『彼女以外、乳母にするつもりはないのだ』とも。彼女とは誰のことなのか、尋ねたら、『もうおらん』とだけお答えになられてな……『先に使われていた女(おなご)のことでしょうか?』と問うたら、『あれは乳母などではない!』と大層憤慨されてのう……なんでも、弟君の乳母でありながら、弟君を蔑ろにし、事ある度に、『梵天丸様の乳母として使って頂きたい』と、色目を使ってきたらしい。だから、ご両親が生活を別にされる時分に、それを逆手に取って、ご自分の方へ引き取って下女として使っていたそうじゃ……なかなか弟想いの知恵者じゃ」
「そういうヤツだよ、こいつはさ……」
 誇らしげに語る乳母の言葉を受けて、青年は未だ眠り続ける幼き主へ、慈愛の目を向ける。
「――待て。『こいつ』とは何だ? 若君に向かって、なんという口を利くのじゃ!?」
「若君だろうと、異母姉の異父弟だろうと、元服もしていないおとこっこは、ただの子供扱いですが? オレは!」
「おまえ…っ」
 言い掛けて、喜多が小言を口にしようとした時、部屋に鳴り響いていた龍笛の音が、突然やんだ。その不自然な終わり方に、瞳を見合した姉と弟は、龍声の行方を探すように、室内を見回した。
「――おしゃべりしてる間に、行っちまいやがったか……」
「何?」
 喜多が振り向いて綱元を見れば、綱元は部屋の一点を見ていた。
綱元が目を向けている先、その方角には、小十郎のいる宿直棟があった。
「何が行ったというのだ!」
「使いっ!」
 喜多の問いかけに答えるように、綱元は叫ぶ。
「口の利けぬ我が子に代わって、母君であるお東の方が、小十郎を問い質すと仰られてね――殿はお許しなさらなかったが、余計なコトするバカは何処にでもいる訳で――小十郎を正殿へ引っ立ててくる使者が、宿直棟へ行ったんだろう――それを見越してオレは、梵天の部屋へやって来て、向こうがそう出んなら、こっちも出るべき方に出てもらおうかなと――」
「ならぬ! 触れるなっ!!」
 幼子の上に置かれた刀へ手を伸ばした青年に、喜多は制止をかける。それは小十郎によって置かれた魔除けの刀で、八幡宮の御神刀でもあり、その刀によって梵天丸は、右目に繋がる緒を断ち切られ、死んだように眠っているのだ。勝手に動かせば、どうなるか――
「小十郎がどうなろうとも――?」
「触るな!」
 相手が示してきた仮定を、喜多は一蹴する。
「――まあ、耳元でこんだけ口っ喋ってんのに起きねえんだから、梵天も、ただ寝てるーっつう訳でもねえんだろ」
「……。」
 半ば呆れつつも感心し、喜多は相手へ掛ける言葉も出てこなかった。
 綱元は席を立つ。
「正殿」
 目で行き先を問うてきた姉に、行き先だけ告げると、綱元は入ってきたように、西側の障子戸を抜けて部屋を出ていった。
 喜多はふたりの弟達の身を案じる。
 特に小十郎に関しては、喜多は胸が痛んだ。養家から戻ってきて以来、笑わなくなっていた弟に――
 八幡宮へ戻ってきてからも、小十郎は笑ってはいた。しかし、それは文字通り笑っている顔を喜多達に見せていただけで、ひとりになった時、一体どんな顔をしていたのか――思い出し笑いをすることなどなかったに違いない。
 喜多がそのことに気付いたのは、月が照らす雪の庭で、屈託のない弟の笑い声を聞いた時だった。声変わりし、音の高低は多少変わってはいたが、弟は、かつてはこの声で笑っていたのだと、姉は思い出した。
 喜多がそのことにようやく思い至った時、実家に対し、弟が何処か隔てを置いていると感じた自分の感覚は、弟が本性の声で笑っていなかったことに起因していたのだと、思った。
 喜多は小十郎の母親代わりの姉ではあったが、弟が今もっとも心を開いている相手は、自分ではなく、その声を聞かせた梵天丸であろう。
 だがその梵天丸に対しても、小十郎は本音と建前の間で揺れている。
「喜多…」
 名を呼ばれ、乳母は顔を上げた。
 声のした方へ顔を向ければ、閉じていた左瞼を開けて、幼き主が喜多の顔を見ていた。
「梵天丸様っ」
「……小十郎は?」
 部屋にいたはずの少年の姿が見当たらず、枕辺にいた乳母へ、幼子はその不在を尋ねた。



 正殿の中央では、引っ立てられてきた小十郎と、それを止めに入った上官の綱元が、上座に立つお東の方に対し、平伏していた。
「医師でもないくせに出過ぎた真似を……神経を傷付け、見える左目まで見えなくなっていたらどうしてくれる? その不徳、どう詫びるつもりだ!?」
「その時は、監督不行き届きということで、綱元が全ての責を負い、腹を切ってお詫び申し上げます」
「黙りや! その方には聞いておらぬ!!」
 口を挟んできた綱元に、お東の方は一喝を与える。平伏したままの綱元は更に頭を下げ、その額を床へと付けた。
 そんな青年の横で、当事者である少年は無言のまま面を下に向けていた。正殿に連れてこられてからこの方、少年に畏れという色が見受けられず、そのことがお東の方の怒りに油を注いでいた。
「唖か!? 何か言ったらどうなのだ!!」
 正殿へ引っ立てられてきて以来、一言も発しようともしない少年に、お東の方は怒りをぶつける。父親である輝宗にはすぐに申し開きをしに来たそうだが、母親である自分には何故、一言も無いのか――?
 お東の方は一段高い上座を下りると、少年の前へ立った。
「小十郎、とか申したな――面をあげよ」
 名指しして、少年の顔だけ上げさせる。
「ふ… 梵が好みそうな、綺麗な顔立ちをしておる」
 顔を向けた少年の容貌を眺めたあと、お東の方は持っていた檜扇を高く振り上げた。悲鳴でも上げさせて、少年の声が出ることを証明するつもりだった。
「小十郎―っ」
 少年の名を呼ぶ幼子の声が場に響いた。
 聞えてきた我が子の声に、お東の方は打ち下ろそうとした手をすんででとめ、上座から黙って見守っていた輝宗は、声の聞えた方へ視線を向けた。
「若君だ」
「お目覚めになられたぞ」
 正殿の外側に座していた陪臣達の席から、状況を伝える言葉が上がる。そこからは奥向きに繋がる廊下を見渡すことができ、喜多を連れて正殿へ向かってくる、梵天丸の姿をいち早く拝むことができた。
「梵天丸……」
 正殿へ現れた我が子の無事な姿に、お東の方は一瞬怒りを解くも、共にやってきた乳母の姿を見るやいなや、怒りを新たにした。
「弟どもの命乞いに、梵天を使うかっ!」
「喜多を悪く言うと、母上でも許しませぬぞっ!!」
「梵……」
 我が子の言葉に、お東の方は傷付いたような声を上げる。
 母は、着物の裾を翻して我が子へと近付くと、その前に膝を付いた。
「自然に剥離するを待てという医師の言葉を無視し、負わなくてもよい傷を負ったは誰のせいか? この姉弟を庇うというか?」
「傷は負っておりませぬ」
「出血したであろう」
「微々たるものです」
「倒れたと聞いたぞ」
「眠っていただけです。疫で憑いた穢れを、梵天が小十郎に頼んで、祓ってもらったのです」
「梵が頼んだか――?」
「はい」
 母の質問へ答えるように、幼子は長く垂れ下げて、顔半分を隠していた前髪をその手で上げた。
 露にされた幼子の右の眼窩には、清々しいほど何もなかった。
「なのに何故、小十郎が皆の前へ引き出され、かように責められておるのでしょうか――?」
 その是非を問うように、幼子は左右の席に座している者達の顔を見回した。
 一つ目で睨みを聞かせてくる幼子に、ある者は感心してその姿を愛で、ある者は恐れを成して瞳をそらした。
 傍らの喜多は控えて面を下げており、小十郎と綱元は上座を向いているため、下座にいる梵天丸とは視線が合わず、梵天丸の視線は最後に上座の父とぶつかった。
「その一言を、小十郎が言ってくれぬでな。お義が何を聞いても、小十郎が口を利いてくれぬので、こちらも困っていた所だ」
「小十郎が口を利かぬ?――どうして口を利かぬのじゃ、小十郎?」
 父の説明に、幼子は少年に歩み寄った。
 横に座す青年は控えるように面を下げ続け、事の次第を見届けるように、一同の視線は幼き主従に注がれていた。
「願を掛けておりましたので」
 少年が口を開く。
「願?」
 聞き返した幼子の脳裏に、少年の兄である八幡宮の宮司から聞いた言葉が甦る。
「そうであった! 小十郎は願を掛けて籠もっていたのであったな――口を利いてしまっては、願いが叶わなくなってしまうのう……」
 申し訳なそうに幼子が詫びようとすると、少年は首を振って、「いいえ」と答えた。
「御前に」
 願いは叶ったのだと、少年は告げる。
 そこで、ようやく少年の願いが何であったか悟った幼子は、少年の想いを嬉しく思う反面、己の至らなさが大層恥ずかしく、頬を朱に染めて俯いた。
「梵天丸さま、切り取りました右目がここにございますが、如何いたしましょう」
 少年は懐紙に包んで仕舞っておいた、幼子の右目を懐から取り出す。
 赤黒く変色した塊。
 確かにそれは、己が右目であった。
「褒美として、その方へ取らす!」
「ありがたき幸せ」
 聞き覚えた父の言葉で少年へ与えると、少年は押し戴いて懐へと仕舞った。
 幼子は上座を返り見る。
「もうよろしいか?」
 場の最高責任者である父へ、評定の終わりを要求する。
 輝宗は一段高い上座から正殿を見下ろすと、一同に異議がないのを見届けて、我が子へ頷いた。
「行こう」
「綱元殿」
 梵天丸の促す声に、少年は小声で、傍らに付いていてくれた青年の名を呼んだ。
「オレは残る」
 面を伏せたままでいた青年は、この時顔を上げ、先に行くようふたりへ告げた。
「参りましょう」
「うむ」
 少年は立ち上がると、幼き主に付き従って、正殿を巡る縁の端で頭を下げて待っている、姉の元へと向かった。
「梵」
 手前に立っていたお東の方が、乳母の元へ向かう我が子を呼び止める。
「対屋の女供にも、その顔、見せてたもれ」
「では、今宵」
「待っておるぞ――綱元、支度手伝いや」
「はっ」
 奥方に呼びつけられた奥向き付きの若侍は、小気味いい返事をして立ち上がる。
 打ち掛けの裾を翻して退出する当主の奥方には綱元が付き従い、今宵に予定された、若君の新年慶賀の算段などを始める。そんなふたりの後ろ姿を見送っていた梵天丸は、今日が新年の評定の席であったことを思い出す。
「あいさつを忘れていた…」
 そうひとりごちると、幼子は正殿に居並ぶ男達へ体を向けた。
「あけまして、おめでとうございます」
 大きな声で、新しい年の挨拶を述べた幼子は、その小さな頭を下げる。
「それでは、皆様はお楽しみを」
 顔を上げて辞去の言葉を述べると、お付きの少年と乳母の手を取り、伊達家の長子は正殿を後にした。
「おめでとうございます」
 その背に、老臣から返礼が送られる。
 幼子の振る舞いに度肝を抜かれていた一同は、老臣鬼庭左月の声で我に返り、我も我もと後に続いた。奥向きへ去っていく三人に、祝いの言葉が贈られ、最後に、輝宗の懐刀であり、もうひとりの片腕である遠藤基信が輝宗に祝いの詞を述べて、結びとなった。



 三人が梵天丸の部屋へ戻ってくると、床の間に生けた椿が赤い花を落としていた。
「憑き物が落ちましたから」
 花の落ちた理由を幼子に伝え、少年は床の上の白木の鞘を手に取って、幼子へと差し出す。
「この刀は八幡宮の御神刀です。守り刀として肌身離さずお持ちください。必ずや梵天丸さまの身の危険を防ぎましょう」
「わかった」
 頷いて受け取ると、幼子は白木の鞘に収まった匕首を腰へと差した。
「投石帯は何処でしょう?」
 少年が尋ねる。
 部屋の端に置かれている文机を指した幼子を少年は抱き上げると、文机の前へと移動した。
「引き出しの中じゃ」
 幼子の指示を受け、少年は、膝までしかない文机の高さに合わせて、腰を下ろす。少年に抱かれていた幼子の足裏も床へと付き、幼子は自分の足でその場に立ったが、少年から離れるようなことはせず、また幼子を抱いた少年も、その腕を解こうとはしなかった。
「美しいですね」
 漆塗りに螺鈿細工が施された文机を見て、少年が感嘆の言葉を漏らす。
 漆黒に埋められた虹色の切片が、夜空に輝く月の光を連想させて、月天子である梵天丸に相応しい品だと、小十郎は思った。
「開けても?」
「よい」
 許可の言葉を貰い、小十郎は文机の引き出しを開く。引き出しの摘みは、螺鈿が描く草花に合わせて、蝶を模した作りになっていた。
「どうするのじゃ?」
 少年が開けた引き出しから、幼子が投石帯を取り出す。少年へ差し出すように、その小さな顔の前で帯を広げてみせた。
「こうしてはどうかと……」
 手にした投石帯の幅広の部分を、幼子の右眼窩に斜め掛けにするようにして、少年は帯紐を幼子の後頭部へと回した。投石帯を、幼子の右眼窩を覆う、眼帯代わりにしようという考えだった。
「少し無骨か……姉上」
 床を片付けて、こちらへやってきた乳母の姉に、少年は新しい投石帯の作成を依頼する。
「これを参考に、新しい投石帯を作っていただけませんか? 紐はこう、梵天丸様のお顔に合わせて、もっと細く。強度は、トンボ玉を投げ飛ばしても、壊れぬ程度に。眼窩を覆う部分は、視線がそちらへ行くように、刺繍を入れてください。図案はそうですね……」
「注文が多いのう」
 話をひとりで進めていく弟に、姉は一言、水を差す。
「――では、図案は姉上に任せます」
 少年が拗ねたように主導権を姉へと譲ると、乳母の姉は、投石帯を身につける幼い主へ尋ねる。
「梵天丸様は、何がよろしいか?」
「小十郎は、何がよい?」
 拗ねてしまった少年のご機嫌を取るように、幼き主はその意向を聞いた。
「鳳凰」
「では、それ」
「畏まりました」
 喜多が請け負うと、三人は顔を合わせて笑った。
「帯を使うか、おもしろいぞ! 今宵はこれをして母上の元へ参り、女どもへ年賀の御捻りを投げてこよう」
 急遽決まった東対屋への御呼ばれに、梵天丸が自前の投石帯でいこうとすれば、「まだ時間がありますれば」と、喜多が当座を間に合わす投石帯を作り上げることを梵天丸に申し出た。
 裁縫箱を広げ、適当な布と紐を見繕うと、喜多は作業を始めた。
 梵天丸は、床の間に落ちた赤い花を拾い上げ、小十郎の元へと持ってくる。
「赤い花も、雪に埋めた方がいいか?」
「その花は水に流しましょう。小十郎が帰りに川へ流して参ります」
「梵も行く」
 花を受け取ろうとした少年の手に、幼子は花ではなく、その手を載せた。
「梵天丸さま、今からでは遅くなってしまいます。今宵は、母君の東の対屋へ参られるのでしょう? 花のことは、小十郎にお任せください」
 その手を握りながら、少年は幼子を諭す。
 冬の日は短く、一番近い川へ出向いたとしても、部屋へ戻ってこられるのは、日が落ちた後になってしまうだろう。
 梵天丸がそれでも承服しかねていると、耳で聞いていた喜多が、助け舟を出してきた。
「小十郎、花は何処の川へ流すつもりなのじゃ?」
 作業の手は止めず、姉は弟に問い掛けた。
「鬼面川ですが……」
「ならば、城の堀へ流してくるがよい。お堀の水は、最上川へ通じておるからなあ」
 姉の言葉に、流れる先は同じであることを、少年は知った。
「それでは、お堀へ参りましょう」
 幼子の手を取った少年は、城の堀へ向かうため、縁側から前庭へと下りた。
「白い花も流すか?」
 庭に下りた幼子は、そう言うやいなや、少年の返事も聞かずに、庭の一角へと駆けていく。
「梵天丸さま」
 小十郎が後を追うと、幼子はある場所で足を止め、雪で覆われた庭を眺めてきょろきょろしていた。
「梵天丸さま、もしや白い椿の花を掘り出すおつもりで……?」
 それは無理だと小十郎が言いかけた時、幼子が「あった!」と叫ぶ。
 幼子が腰を下ろしたその場所には、榊のように、常緑樹の枝を雪に突き刺してあった。
 白い椿の枝葉であった。
 花を埋めた目印に、梵天丸が挿しておいたのだという。
「それでは、後は小十郎が!」
 素手で雪をかき出した幼子を止め、少年が後を継いで、冷たい雪をかき出す。
 幼子の機転により、埋めた場所は確定されたものの、少年の胸に一抹の不安が過ぎる。
 白い椿の花弁は雪に大変酷似しており、果たして見つけられるものだろうか? 見落として、雪と共に放り捨てはしないか?
「それじゃ!」
 いちめん真っ白な雪の中に薄紅色のものが見えた時、梵天丸が声を上げた。
 掘り進むほどに紅は色を濃くし、小十郎が雪の中から取り出してみれば、それは赤い薄様に包まれた白い椿の花だった。真っ白な雪に花を失わぬよう、梵天丸は赤い薄様で花を包んだのだった。
 赤き紙と雪の冷気に守られて、白い椿の花は、今落ちたばかりの姿を少年の目に映す。
 耳に、兄の言葉が甦った。

――若君は小十郎の望みを知りません。知れば望みを変えましょう――

「梵天丸さま」
 その衝動を抑えることができず、小十郎は問い掛けていた。
「梵天丸さまは、白い椿と赤い椿、どちらがよろしいですか?」
 水に流す花を選ばせるように、小十郎は梵天丸に花を選ばせる。
 兄の言葉を疑った訳ではない。
 ただ、衝動を抑えられなかったのだ。雪に埋めたと思った己の想いは、消えずに、目の前にあるのだから。
 幼子は交互に花を見入ったあと、白い花を選び取った。
「……小十郎も、本当は白い椿を選びたかったのです」
 少年の言葉に、何にも知らない幼子は白い花を少年へ返そうとした。その手を両手で押し包むと、心の内を明かすように、幼子へ告げた。
「赤い椿の花は、花弁の赤、葉の青、枝の黒、蘂の白、花粉の黄色と、五徳を備えた花として尊ばれます。何れ王として立たれる梵天丸さまには、赤い椿の方がふさわしいと思い直し、赤い花をお持ちしたのです」
「赤は、何の徳を指しておるのじゃ?」
「礼です」
「礼…」
「人が人と生きていくため、守るべき世のしきたり――白い椿には欠けているものです。その花は梵天丸さまの手で、どうか水に流してやってください」
 幼子は頷くと、両の手で守るように白い椿の花を抱いた。
 朱雀とも同一視される鳳凰は、赤き椿同様五色を揃えた体色から五徳を備えているものとして、翼あるもの達の王とされる。もし一色、その象徴する色を選ぶというのなら、それはきっと赤だ。そして、この赤色に、自分の弱き心は生涯守られていくのだと、小十郎は思った。



 前庭の茂みを抜け、網代戸を潜り、宿直棟の脇を抜けた小十郎と梵天丸は、裏門の通用口から堀に掛かる橋へと出た。
 少年と幼子は橋の欄干の前に立つと、各々が手にしていた花を橋の上から投げる。
 花は水面に着水し、お城の堀に白い椿と赤い椿の花が咲いた。
「小十郎……」
 幼子は傍らに立つ少年の名を呼ぶ。
「梵が眠っている間、梵はずっと小十郎の声を聞いていたのだ。夢の中で梵は部屋の中にいて、いつもと同じように、障子越しに小十郎の声を聞いていた。声さえ聞ければよいと思っていた。だから、ずっと小十郎の声を聞いていようと、梵は眠っていたのだ。でも突然、小十郎の声が聞えなくなって……梵は障子を開けた。表へ出るのはとても怖かったけれど、梵は戸を開けたのだ。そしたら、目が覚めた。梵が眠っている間、小十郎は一言も口を聞かなかったというに、おかしな話だ」
「口は利きませんでしたが、笛は吹いておりました」
「笛? 龍笛か?」
「はい。潮風にございます」
「潮風?」
「小十郎の笛の名です。小十郎が父から貰い受けました笛で、八幡宮に伝わる名笛にございます」
「米沢は山の中にあるというのに、潮風?」
「いつの日か、梵天丸様が、大海へ出られるという暗示でしょう」
「そうか。楽しみだな、小十郎」
「はい」
 幼い主従は笑い合うと、流れ行く花を見送った。
 赤白の花は離れることなく、連れ立って流れていく。

 元亀三年 春、応仁の乱から百年。
 百五十年に渡る戦国の世も、終盤に差し掛かりはじめた頃のことである。

舞い立ち昇る龍声

舞い立ち昇る龍声

仙台藩祖伊達政宗と、その守役片倉小十郎の出会いの物語。

  • 小説
  • 長編
  • 青春
  • 恋愛
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-09-21

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  1. 一章 奉納神事
  2. 二章 姉の異母弟
  3. 三章 姿を見せぬ若君
  4. 四章 願い出る朝
  5. 五章 八幡詣
  6. 六章 跡継ぎ教育
  7. 七章 月を望む
  8. 八章 大つごもり
  9. 九章 雪中花
  10. 終章 舞い降りた鳳凰