四方四季の庭(後編)

四方四季の庭(後編)

四方四季の庭(前編)
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6. 絶望的な虚しさ

絶対的な美というのは、その美しさのあまり見る者の心を必ず揺さぶるものです。
そして、揺さぶられた心の底からは、何かが浮かんできます。
それは、喜びかもしれませんし、恐れかもしれません。
愛かもしれませんし、憎しみかもしれません。

合気道の稽古に通っていた当時、「庭」の美しさに見惚れてうっとりした後、遅かれ早かれ、僕の心の底から浮かんできたのは、

虚しさでした。

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自分の親と同じくらいの年の先輩で、まるでサイボーグのように屈強な方がいました。若いときに入門して何十年も稽古されてきた、道場の中で一番のベテランの方でした。僕なんかが下手に技を掛けると、「これじゃ駄目なんだよな~」とか先輩は笑みを浮かべて、逆に僕は腕を返されたかと思うと、悠々と抱え上げられて、投げ落とされる始末。まるで千変万化の技を繰り出す先輩は、道場生みんなから尊敬されて、僕たち若手は先を争って先輩に指導を仰いだものでした。
が、ある日の稽古中、正座から立ち上がろうとした先輩が、突然アッと叫ぶと左膝から崩れて、そのまま立ち上がれなくなりました。その故障のあと、先輩はしばらく見取り稽古に通われていましたが、そのうちお見えにならなくなりました。
何十年もかけて積み上げてきたものが一瞬にして崩れ去るところを、まさに目の当たりして、僕はショックを受けました。

そう、どんなに強くなっても、どんなに上手くなっても、いつかは衰え、体が動かなくなる、という当たり前の現実。

もちろん、八十歳、九十歳になっても屈強な若者たちをバンバン投げ飛ばすような達人というのも理想ですが、みんながみんなそうなれるわけでもないし、仮にそんな達人になったとしても、いつかは同じように朽ち果てる。

もともと体育が苦手だった僕は、他人と比べて強くなるということなんてどうでもいいことでしたが、昨日の自分より上手くなりたい気持ちは心のどこかにありました。高齢の先輩方の稽古姿は、そんな動機さえ虚しいものにします。

それなら一体全体、なんのために稽古をしているのだろうと、全てを放り出したくなる気持ちに駆られる。
コツコツ積み上げても、最後には全てが無に帰る。
虚無感の闇が大波のように押し寄せてきて、今にも飲み込まれそうになる。
そんな絶望的な虚無感を抱えながら、きっと何か意味があることがあるはずだと自分に言い聞かせて、僕は必死に稽古に通い続けていました。

7. 年配の先輩の姿勢

そんな絶望的な想いで稽古に通っていたあるとき、一緒に稽古している年配の先輩方を眺めていて、こんな風に思うことがありました。
ここが痛い、あそこが痛い、ヒーヒー、ゼーゼー言いながら稽古を続けている高齢の先輩たちには、昨日も明日もなく、ただ今日のこの日だけ、この瞬間だけに生きていると。
それに気づいたとき、実は、これが人が生きる上で一番大切な何かなのではないか、そして、それが合気道が道である理由なのではないかとハッとしました。
今、この瞬間において、他人との比較も、過去・未来の自分との比較も存在しない。
それまで僕は、上達すること、右肩上がりに成長すること、未来ばかりに気をとられていたことにようやく気づいたのです。合気道を始めるまで、成果主義や勝ち組・負け組などと、とかく生き残ることが強調される世知辛い競争社会の中で、目に見える形で結果を出し、評価されることばかり意識していた僕にとって、この気づきは衝撃でした。

しかし、そんな気づきがあったものの、依然、僕には「今、この瞬間に生きる」ということが実際のところどういうことなのか、本当には理解できず、その後もややもすると技の上達に気を取られがちでした。
だけど、高齢の先輩方の稽古姿は、否応なしに思い出させます。
どんなに強くなっても、上手くなっても、いつかは衰え、失せてしまうこと。しかし、たとえそうであっても稽古を続けるということの中に、人が生きる上で大切な何かがあること。
そのことを思い起こさせてくれる合気道の稽古は僕にとって貴重な場となりました。

高齢のある先輩は、ことあるごとにこんなことをおっしゃっていました。
「いやぁー、アタシにとって、運動の機会は合気道の稽古だけ。これだけが命綱だよー。」
僕はそんな言葉を聞くたびに、こんなことを思っていました。
「世の中には他にもマイルドな運動があるのに、わざわざこんなタフな運動を選んでするのは、ゼッタイ何かある!」

生きる上で大切なことがあることを、老いは見せてくれている。
そんな気がしながら、稽古を続けていました。

8. ある日の稽古

人間、絶望的な虚無感を抱えたまま、そう長くはがんばっていられません。
技の上達よりも大事なことがあると信じつつも、やはり虚しさを振り払うことのできなかった僕は、やがて無気力となり、それまで熱心に通い続けていた合気道もやめて、ついに自宅にひきこもるようになりました。

ただ部屋で一人ボーっとしていたある日、ふとある日の稽古のことを思い出しました。
それは、あるとき、手術のためしばらく稽古を休んでいた高齢の先輩が、久しぶりに稽古着姿でお見えになった日のこと。
その日、稽古に来ていたのは先輩と僕だけでした。
先輩は僕が入門以来、お世話になっていた方で、小柄で痩せているけど動きは軽快で、稽古のときはいつもポンポン飛び跳ねてはバンバン受け身を取っていました。
が、その日は病み上がりで、すっかり弱っていて、受け身を取られなかった。

そんな先輩をそーっと投げる。
そんな先輩の受けをふんわり取る。

稽古の間中、ずっとそんな調子でした。
以前の僕なら「こんなんで上手くなるわけないよなぁ」とか内心思いながら稽古していたでしょうが、その日は違っていました。

打込む、腕を握る、肩を取る、触れる瞬間瞬間、「ひょっとしたら先輩と稽古できるのも、今日で最後かもしれない」そんな思いが頭をよぎる。
そう思ったとき、目の前の先輩、道場の薄抹茶色の畳、白い壁、道場内の空気、すべてが紗がかかったように白く輝いているように見えて、この瞬間がとても愛おしいと感じました。

稽古のあと、更衣室で、すっかりやつれた体の先輩は着替えながら、かすれ声でこんなことをおっしゃっていました。
「どんどんできないことが増えていくけど、やれることだけをやるだけさ」

そう言って更衣室から出ていく先輩の後ろ姿を見て、
「あぁ、俺もこんな爺さんになりたい」
って思ったことを思い出しました。

誰もいない部屋で独り座っているとき、そのことを思い出して、
「『今、この瞬間だけに生きる』ってあのことだったんだ」
と、今更ながら気づいたのでした。

四方四季の庭(後編)

その後、結局、一年余り、自宅でひきこもっていましたが、ある日、ひきこもる前に少しだけかじったコンタクト・インプロヴィゼーション(略して「コンタクト」)の集いに行ってみたくなり、思い切って参加したのをきっかけに、またコンタクトをやり始めるようになりました。

コンタクトは、触れることで生じる感覚や動きを味わいながら自由に踊る即興ダンスのようなもので、誰でもできるものです。

コンタクトの集いに通い出して一年ほど経ったとき、ふと合気道の道場で眺めた景色を思い出して、こんなことを考えるようになりました。

コンタクトは、こどももおとなも、じいちゃんもばあちゃんも、障害の有無も関係なく、誰でも触れ合うことを楽しむことができる。

ひょっとしてコンタクトなら、
あのカッコいい爺さんたちにまた会えるかもしれない。
今度は素敵な婆さんたちにも会えるかもしれない。

いつか僕もあんな爺さんになれるかもしれない。

またあの「庭」を眺めることができるかもしれない。
それどころかもっと面白い眺めかもしれない。

今度またあの美しさを眺めることができるとしたら、
自分の心の奥から一体今度は何が湧き出てくるのだろう?


そんなことを想像しては、ワクワクしてしまうのです。

あの「庭」を訪れることができますように。
2018年 七夕
てつろう拝



2018/07/07 v0.1公開

四方四季の庭(後編)

合気道の稽古に熱心に通っていたころ眺めた美しい景色。それを眺めたあとの体験

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-07-05

CC BY-NC-ND
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CC BY-NC-ND
  1. 6. 絶望的な虚しさ
  2. 7. 年配の先輩の姿勢
  3. 8. ある日の稽古