四方四季の庭(前編)
浦島太郎の話に、竜宮城にある不思議な庭のことが出てきます。
庭の座敷から、
東を眺めると春の景色、
南を眺めると夏の景色、
西を眺めると秋の景色、
北を眺めると冬の景色。
つまり春夏秋冬の景色を同時に眺めることができる庭です。この不思議な庭は「四方四季の庭」と呼ばれています。
僕はかつて「これはおとぎ話の中だけの話で、本当には存在しない」と気にも留めませんでした。
しかし、思いもかけずその庭のようなところを訪れたことがあります。
もちろん亀の甲羅に乗って、海底深く潜っていったわけではありません。
それは、僕が合気道の稽古に熱心に通っていたときのことでした。
1. 身体接ショック
僕が合気道をやっていたなんて言うと、学生時代の古い友人なんかは驚くと思います。
なぜって、学校で体育が苦手で嫌いな男の子って、クラスに一人か二人いるものですが、僕もそんな子だったので。
そんな僕が三十路も過ぎて、ひょんなことから運動、それもよりによって合気道なんてやり始めることになりました。始めたきっかけは、またの機会にお話するとして、とにかく最初、ショックだったのは、他人と体が触れること。
握手もハグも文化として根付いていないこの国で、社会人の日常生活で、他人の体に触れる、あるいは触れられる機会というのは限られていますよね。
それが、道場では、手首や腕、肩、ときには胸倉をギュッと掴まれ、体全身で投げられ、倒され、抑えられる。それも思いっきり(笑)。
自分の体でさえろくに使ってこなかった私にとって、急に他人と体と体で激しく接触するようになったのは、とても強烈な体験でした。
と同時に、体が触れ合うという体験の豊かさにも驚きを感じました。
同じように技を掛けても、相手によって柔らかさや滑らかさが違うし、技を掛けられても相手によって重さや強さ、動きが違う。
傍から見ているだけではわからなくても、実際、受けてみると全然違うものを感じる。
触れることで、相手の体の造りや動きの個性をより豊かに味わえるということに気づかされたのも、このときでした。
2. 幅広い年代の道場生
それから、異様に見えたのは、稽古に来る人たちが多様なこと。
合気道を始めるまで、毎日、会社と家を往復するだけだった僕にとって、日常、接する人と言えば、働き盛りのサラリーマン、特に業界柄、ほとんどオッサンばかり(笑)。異なる世代に会うことなんて全くと言っていいほどありませんでした。
それが、道場には老若男女、さまざまな人が集う。
高校生・大学生から、社会に出たばかりの青年、働き盛りの壮年・中年、それから還暦を過ぎたころの初老の方から後期高齢者の方まで、それも、男性に限らず女性も一緒に稽古をする。さらに、子どもクラスと一緒に稽古をするときは、幼稚園児から中学生までの子どもたちも加わる。そんな幅広い年齢層の人たちと同じ時間を過ごすというのは、本当に衝撃的でした。
それも、ただ単に同じ場所に集まるだけじゃない。実際、組になれば、お互い技を掛け合う。老若男女が集って同じ行為をする場面って、子どもの頃に行った盆踊りくらいしか思い浮かばなかった僕には、そんなお祭りみたいなことが、ここ、合気道の道場では日常になっているのが、なんだか文化の違う国にでも来たような、異様な光景に映ったものでした。
3. 合気道の技
ところで、老若男女、さまざまな人が集まって、お互い技を掛け合うと、そこでは面白いことが起こります。とりわけ、一般的に力が弱いとされる年配の方や女性との稽古で、実際、技を体感してみると、「強さ」へのイメージを修正せざるを得なくなるときがあるんです。
例えば、自分の親と同世代の白髪の先輩に思い切り掴みかかって、わけもなく軽々と投げられると、高齢化社会が問題視ばかりされ、すっかり薄っぺらくなった「敬老」という概念が根底から覆される。
また、帯の色が白から茶に変わって、少しは自信がつき始めたある日、基本の投げ技の稽古で、入門間もない女性と組んだときのこと。彼女の受けを取ったら、たまたま上手い拍子で投げられて、あやうく頭を打ちそうになり、まさに冷や汗ものでした。
こんな感じで、一般的に強さを象徴する筋力というのが技の一要素に過ぎないと身を持って知らされることが起こるんですよね。
ヒョロヒョロな僕が、三十路を過ぎて今さら、マッチョになって強くなろうたって無理な話だけど、合気道なら今からでも強くなれる、うまくなれるんじゃないかって、希望を抱くようにもなりました。最初は「自分は運動音痴だから、簡単な受け身だけできるようなれればいいや」なんて思って始めたのですが、次第に合気道を本気で上達しようと熱心に稽古に通うようになっていました。
4. 成熟の過程
そうやって道場に通い始めて三年も経った頃、道場生の変化や入れ替わりを見てきて、年代ごとに共通する特徴とか成熟の過程みたいなものを感じるようになりました。
まず、受け身を取るにも技を掛けるにも、どこかホワァーっとしてあどけない幼稚園や小学校低学年の子どもたち。それが学年を上がるにつれてだんだんと動きにメリハリがついてサマになっていく少年たち。
体格も大人と変わらなくなったものの、急に強くなった腕力を持て余して、技が少々荒っぽいティーンエイジャー。それが、だんだんと自分の力を制御することを身につけて、どんどん技を洗練させていく青年たち。
しかし、そんな青年たちも、多くが進学や就職などを転機に、次第に稽古から遠ざかっていき、一部が細々と続けていく。
一方、働き盛りになって、若さだけでは頑張りが効かなくなるころ、早ければ三十ごろから、僕のようにそれまで合気道と縁の無かった人が新たに入門してくる。
早くから始めた人も、遅くから始めた人も、それからさらに稽古を続けていき、還暦過ぎてもなお、壮年顔負けの、充実した技を繰り出す初老の先輩方。
しかし、そんな年配の先輩方も、いつかは衰える。
やがて、体の故障や病気のため、だんだんと体が硬くなり、動きが制限され、受け身ができなくなる。故障のため長らく休む方、とうとう稽古から離れた方もいました。
一方で、腰が痛い、膝が痛いと、ヒーヒー言いながらも、できる技を一緒に稽古する高齢の方もいます。
そんな先輩と稽古するときは、技をかける前に
「ちょっとここの手首を痛めているから、弱くしてね」
とか、
「腰が痛くて受け身が取れないから、投げるのは途中で止めてね」
とか言われます。
そんなときは、揉むように腕をつかみ、支えるように倒し、伸ばすように関節を極める。
「こんなんで強くも上手くもなるわけないよなぁ」なんて内心思っても、仕方がないのでこちらも気を付けて技を掛けます。(実はこれは武術の稽古として、とても大切なことだったのですが、未熟な僕がその重要性に気づいたのは合気道をやめた後のことでした。)
稽古の後、そんな先輩方の更衣室での話は、病気と手術の話。
「片方の肺を手術で取ったのですぐに息があがっちまう」とか、「この間、心臓に管を入れてから血をサラサラにする薬を飲んでいるので、一度出血したらなかなか止まらない」とか・・・
そう、合気道の稽古では、人が衰えていく過程も見ることができたんです。
5. 四方四季の庭
このような道場生たちの成熟の過程への理解は、道場生たちと直接触れ合い、稽古を重ねていくにつれて、僕自身の体の中で深まっていくようにも感じていました。
例えるなら、稽古で触れるたびに相手の写真を撮っていて、その写真がどんどん自分の体のアルバムに蓄積されていく感じ。
同じ相手でも、昨日稽古したときの写真と今日稽古したときの写真は違っている。実際には一日の差を感じるのは難しいですけど、毎回写真を撮り続けているうちに、半年、一年となってくると、差がはっきりとしてくる。それも日々の稽古で撮り続けた写真は、一人の同じ人間として変化の過程を連続的に感じさせる。
稽古のとき、道場生を見るとき、そのときの相手だけでなく、それまで稽古を重ねた、時間的に厚みを持った相手が感じられる。時間軸上で考えるなら、最初、点のような相手の存在が線のように感じられるようになる。
そしてあるとき、こんな風にも感じられるようになりました。
それまで道場生一人ひとり別のもののように見えていた変化の過程が、それぞれの年代がオーバーラップしてくると、まるで一人の人間の変化の過程として見えてくる。
たとえば、三歳差の二人と三年稽古をすると、三年後には年上の三年間の変化の過程と年下の三年間の変化の過程がつながって、まるで一人の人の六年の変化の過程のように感じられるようになる。もちろん、三年後の年下が、三年前の年上と同じ地点にいるかというと、そんなことはありえませんが、細かい線がいくつか重なると一つの輪郭が浮かび上がってくるように、何人かの変化の過程が重なることで一つの線が感じられる。
たとえ線がまばらでも断続的な線がいくつも連なると、時間軸上ある幅を持った範囲で一つの存在が浮かび上がってくるように感じられる。
これを幅広い年齢の道場生たちに当てはめると、四、五才から八十歳余りまで人の一生をほぼカバーする、長い長い時間軸に横たわる一つの存在に感じられる。
そう感じるようになったとき、道場で一緒に稽古をする道場生たちは、僕にとって道場生それぞれの年代を眺める窓であり、そして、幅広い年代の集まる合気道の稽古は、人生の各時代を同時に眺めることができる特異な場所になっていました。
そう、これがはじめに書いた「四方四季の庭」です。
そこでは、ただ単にそれぞれ別個に流れている異なる年代の時間を見るのではなく、まるで一人の人の人生を一度に眺めているような繋がりを感じて各年代を同時に眺めることができました。
それを眺めていると、
過去、現在、未来へと流れる時間から離れた、
時間のない場所から時間の流れを眺めている、
そんな気分。
統合された世界を眺めるような、
自分が神さまになって世界全体を一望するような、
そんな気分。
その光景には絶対的な美しさがありました。
僕はそれに見とれてしまうのでした。
(後編に続く)
四方四季の庭(前編)
四方四季の庭(後編)
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2018/07/07 v0.1公開