雨の日の花 2
…あのとき、わたしの鉢植えにだけアサガオが咲かなかったとき、自分でもびっくりするくらい、わたしは泣いてしまった。その理科の時間が終わったあとも、声をあげて泣きはしないまでも、ずっと、ずっと、涙を零していたような気がする。
…自分でも何がそんなに哀しいのかよくわからなかったけれど、涙はなかなか止まらなかった。周りの友達は気を使ってわたしに優しい言葉をかけてくれたけれど、でも、そんなふうに優しくされると、またよけいに哀しくなった。
理科の先生の呼び出されて、その先生の職員室がある理科室に行ったのは、確かその日の放課後だったような気がする。
理科室のとなりに、準備室も兼ねた先生の部屋があった。あのときも雨が降っていて、教室にはその雨音が静かに響いていた。
わたしが職員室に入っていくと、先生は窓際に立って、ぼんやりと窓の外の景色を眺めていた。窓の外には花壇があって、そこに咲いている花を眺めているみたいだった。
先生はわたしが入ってきたことに気がつくと、振り向いて、目元で優しく微笑みかけた。髪の毛の薄くなった、外見はもうほとんどおじいさんといった感じのする先生だ。後藤さんと同じようにまるぶちの眼鏡をかけている。
「…アサガオは残念だったなぁ」と、先生は口を開くとそう言った。わたしは黙って軽く頷いてみせた。
「でもそういうこともあるもんだよ。気を落とすことはないさ。…植物は結構デリケートで気分屋なところがあるから、ちょっとしたことですぐ機嫌を損ねてしまうんだな。…先生もこれでも随分苦労したんだ」
わたしは何て答えたらいいのかわからなかったので、黙っていた。
ぐるりと職員室を見回してみると、そこには理科の実験で使う色々なものが置いてある。顕微鏡、地球儀、分銅、よくわからい液体の入ったオレンジ色をした容器、ホルマリン漬けにされた、内蔵が露出している魚。それから人体模型…化石、水槽にはこの前授業で使ったメダカが気持ちよさそうに泳いでいた。採点の途中だったのか、先生の机の上には赤丸やバツ印のついた答案用紙が置いてあった。
わたしの視線のさきに気がついたのか、先生はにやりとひとの悪い微笑を浮かべると、「この前のテストひどかったぞ。二十点だった」と、言った。
わたしはその言葉に驚いてしまった。自分のなかではこの前のテストはよく出来たつもりだったのだ。「うそ?」と、わたしが声を上げると、先生は可笑しそうに少し笑って、「ウソだよ。よく頑張ったな。九十五点だった」と、言った。その言葉を聞いて、わたしは少しホッとした。花が咲かなかったうえに、テストまでひどかったら、あんまりだと思った。
「話ってなんですか?」と、わたしはふと思い出して訊いてみた。すると、先生は窓の外を指さして、「あそこに咲いている花」と、言った。
見てみると、そこには色素の薄い、黄色いの、きれいな花が咲いている。丸みをおびた花びらが可愛らしい印象を受けた。
「あの花の種を、小西和華さんにあげよう」と、言って先生はこちらに向き直ると、わたしの手を取ってその手のひらを開かせると、そこに米粒程の小さな種を握らせた。
驚いたのは、その種子の色まで、淡く、透き通るようなきれいな黄色をしていることだった。まるでガラス玉みたいに見える。わたしが驚きと戸惑いでしきりに瞬きしていると、「その花はかなり神経質な性格をしてるから、ちゃんと花が咲くところまで育てるのがすごく難しい。だけど、その花が育てられるようになれば、あとは大概の植物は大丈夫になる。今回のアサガオみたいに枯れることもないだろうな」と、先生はからかうように言った。
わたしは手のひらの上の種と、先生の顔を何回か見比べてみた。どうして先生がわたしにこの植物の種をくれたのかよくわからなかったのだ。そう思って、わたしがそのことを尋ねようとすると、それを制するように先生の方が先に口を開いた。
「…もうだいぶ前のことになるな」と、先生はぽつりと呟くように言った。
「生きていればもう今頃はずいぶん大きくなっていたんだけどね」
そう言った先生の声はいくらか寂しげに空気を震わせていった。まるで外に降る雨に濡れてしまっているみたいに感じられた。
「小西さんによく似てるんだ。すごく花が好きな子でね、自分のお小遣いで花の種を買ってきては、大事そうにその花を育てたりしてたよ」
一体何の話をしているのだろうと思って、わたしは黙って先生の顔を眺めていた。
「…今から二十年ぐらいの前かな。先生にも子供がいたんだ。小西さんを見てると、どうしてもその子のことを懐かしく思い出してしまう」
先生はそう言うと、口元で少しぎこちない感じに微笑んでみせた。
「恵っていう名前の子だったんだけどね…事故にあって、中学校に上がる前に死んでしまった」
わたしは先生が口にした事実の重さに、言葉が出てこなかった。何て言ったらいいのかわからなかった。しばらくの沈黙があって、その沈黙に吸い寄せられるように外からたくさんの雨音が入ってきた。そしてその雨音は部屋のなかで静かに弾けると、ほんの少し、部屋を冷たく湿らせていった。
「どうして死んじゃったんですか?」と、わたしは少し迷ってからそう尋ねてみた。尋ねてしまってから、やっぱり訊かない方が良かったかな、と思った。
「…交通事故だったんだよ」と、先生はわたしの問いにそう答えた。
答えたときに、先生の顔の表面で、哀しみが、それとわからないほどの微かさで震えるのがわかった。
「居眠り運転でね、信号が赤なのに突っ込んできて、ちょうど横断歩道を歩いていたあの子ははねられてしまった。…まあ、そんなにスピードは出てなかったから、外傷はそれほどでもなかったんだけど、ぶつかったときに強く頭を打ってしまってね、意識不明の昏睡状態になってしまった。いわゆる植物人間っていうやつだね。…苦しそうな表情を浮かべながら眠るあの子の顔をベットの側で見ながら、先生は何もしてあげることができなかった。…そのときはすごく悔しかったし、辛かったね」
先生はそこまで話すと、わたしの方へ向けていた視線を、また窓の外の、花壇の方へ向けた。花壇に咲いた花は、強い雨に打たれて、今にも押しつぶされてしまいそうに見えた。
「でも、ずっとあの子の側についてるうちに、あの子が小さな声で何かを呟くのが聞こえたんだ。よく耳を傾けてみると、微かに花っていう言葉が聞こえてくる。…その言葉を聞いて思ったんだ。そうだ、花だ、って。何か彼女が喜ぶような花をプレゼントすれば、あるいは彼女は助かるかもしれないって。…自分が花を育てて、それをプレゼントすれば恵は助かるかもしれないって」
先生は窓の外に視線を向けたまま、ゆっくりとした口調でそう語った。
「今から思えば、バカな話なんだけど、でも、そのときは結構本気でそう思っていてね、早速、花を育てることにしたんだ。…育てる花は、できるたけ扱いが難しいやつがいいと思った。その花が咲いたとき、何か奇蹟が起こりそうなやつがいいと思った。そして、そんな花はないかと色々図鑑を探してるうちに、やっと見つかったんだ。気温や、湿度や、水分、日照時間、そういった色んな条件がきれいに揃わないと、滅多に花を咲かせない花。…光輝草っていうんだけどね。その花の種を取り寄せると、すぐに栽培に取りかかったよ。でもやっぱり、なかなか難しかった。どんなに慎重に育てたつもりでも、すぐに枯れてしまうんだ」
わたしは手のひらを開いて、そのなかにある、透き通るように黄色い種子を眺めてみた。雨の色素がそのまま溶けだしたように暗く陰って見える室内で、手のひらのなかのそれはまるで太陽光の欠片みたいに思えた。
「でも、そうやって色々試行錯誤している間にも刻々と時間だけは過ぎていく…気がついたら、娘が植物人間の状態になってから、もう三ヶ月が経とうとしていた。医者にもそろそろ覚悟をしておいた方がいいかもしれないというようなことを言われてね、内心、先生はすごく焦ったよ。早くしなければって。…そんなときだった、やっと育てた花が順調に育ちはじめたのは。これは上手くいくかもしれないと思った。そして、何とか蕾をつけるところまではいったんだ」
不意に、広げた手のひらの隙間から、そこにあった種子がいくつか床に零れ落ちてしまった。種子が床に散らばる音と、雨音は、奇妙に重なりあって聞こえた。ふと気になって、先生の方を見てみると、先生はこちらを振り返って、零れた種子をいくらか寂しそうに眺めていた。そして、その場にしゃがみこむと、そこに散らばった種子を拾い集めて、再びわたしの手に握らせてくれた。
「ごめんなさい」と、わたしは思わず謝っていた。先生はそれについては何も言わずに、「この花は本当に気分屋だからね」と、言って、小さく笑った。そしてまたもとのように立ち上がると、まだそこに花が咲いていることを確認するように、窓の外に目を向けた。
先生の目は心持ち細められていて、それは何か哀しい光景を眺めているみたいにも見えた。
「…結局ね、花は咲かなかったよ」と、先生は言った。
「仕事に行って帰ってきてみたら、物の見事に枯れてしまっていた。ひょっとすると明日あたり咲くんじゃないかと思って楽しみにしていたところだったから、その落胆といったらなかった。…思えば、もっとよく日光を当てようと思って、変に日当たりのいい場所に移したのがいけなかったんだ。黄色かった蕾が茶色く変色して、空気が抜いたみたいにべったりしてるんだ。
…それからすぐあとだったな。娘が息を引き取ったのは。…あのときは自分の不注意が悔やまれたね。まるで自分の不注意から娘を死なせてしまったような気がした」
先生はそう語り終えると、しばらくの間黙っていた。わたしも黙っていた。
訪れた沈黙のなかを、粒の大きい、やや角張った雨音が流れすぎていった。外に降る雨はまるで全てのものを押し流そうとしているみたいに見えた。雨を眺めているうちに、花壇に咲く花のことがだんだん心配になってきた。
「…花、大丈夫かな」と、わたしはポツリと言った。すると、先生はこちらを振り返って、「大丈夫だよ。一度咲いた花は、育てるのが難しいぶん、強いんだ」と、答えた。それから、
「…先生があの花をちゃんと咲かせることができるようになったのは、娘が死んでから一年くらいが経ってからだったな」と、言葉を続けた。「娘を死なせてしまったぶん、せめてこの花だけはちゃんと育てたいと思ってね。…色々苦労はしたけど、最終的には何とか花が咲かせられるようになったんだ。やっと花が咲いたときは、すごく嬉しかったね。嬉しいなんてものじゃなかった。宝石みたいにキラキラ輝いて見えたよ。でも、同時に、あのときこの花が咲いていれば思うと、ちょっと哀しかったりもしたね」
先生はそう言うと、口元の隅に、哀しみが淡く透けて見えるような微笑を浮かべた。
あの花が咲いていれば、先生の子供は助かっていたのかもしれない、わたしは先生の言葉を思考の上で反芻しながら、色素の薄い黄色の花を眺めていた。花の上を流れ落ちていく、ほのかに青色の色素を含んだ水の滴は、先生の哀しみそのもののように思えた。
「まあ、昔のことさ」と、先生は過去への未練を無理に引きちぎろうとするようにそう言った。そして、「とにかく、この花を頑張って育ててみなさい。育てるのが難しけど、そのぶん、花が咲いたとき、喜びが大きいし、もし何か願いごとがあればきっとそれは叶うはずだよ」と、先生は言った。
先生が倒れてしまったのは、その日から二週間も経たないうちだった。突然授業中に倒れたかと思うと、そのまま意識を失って重体になってしまった。原因は脳溢血だった。
先生の意識は一週間経っても戻らないままだった。
学校でも先生のためにみんなで何かをしようという話になって、千羽鶴を折ってそれをプレゼントしたりした。だけど、先生の意識が戻ることはないままだった。
そんなとき、わたしが思いついたのは、先生にもらった花を、光輝草を、育ててそれをプレゼントすることだった。自分ひとりだけの力で花を育てることができれば、先生の命を救うことができるような気がした。
わたしは早速、光輝草を育てはじめた。だけど、なかなか思うようには育ってくれなかった。芽が出たかと思うと、すぐにそれは枯れてしまったりした。そんなふうな状態がしばらくの間ずっと続いた。
でもやがてどうにか、ある程度の段階までは育てることができるようになった。後もう少しで、蕾がつくだろうというとこまでいった。でも、そこから先がどうしても難しかった。何度やってみても、それ以上成長してくれないのだ。力を使い果たしたように途中で枯れてしまう。気がつくと、先生が倒れてからもう三ヶ月以上が経とうとしていた。
やっぱり、わたしには無理なのかもしれない、と思った。アサガオすら満足に育てることができなかったのだ。それがいきなり、花が咲くだけでも奇蹟のような植物を育てることなんて、最初から無理があったのだ、とそう思った。いっそのこと、もう諦めてしまおうかとも思った。
だけど、先生のことを想うと、そういうわけにもいかなかった。花を咲かせることができないまま、先生も過去に子供を亡くしてしまっている。そう思うと、何とかしてこの花を咲かせたい、と強く思った。
でも、いくらそう思っても、結果はいつも同じだった。時間ばかりが流れていった。茶色く変色した植物の残骸は、先生の死をイメージさせた。枯れた植物に手で触れると、アサガオのときと同じように、ボロボロに崩れてなくなってしまった。
冷たい風がその植物の破片をどこかへ運び去っていった。
雨の日の花 2