彼女はまだ夢を見ている
記憶混濁
蒼い空が広がっていた。
さんさんと降り注ぐ太陽が街に何重もの膜を張っているような、自分の存在まで覆い隠されてしまいそうな空気。
ビルの屋上から見上げる空は、地上にいるより何倍も近い。此処にいる間はあの空と、この風だけが私の全世界になる。
いきなり強い風が吹き、弾かれたように尻餅をついた。私はその態勢のまま眼科の街を睨んだ。
「まぁ晴れてるとはいえ梅雨だしね。台風も近いし風が強いのは仕方ないか」
立ち上がろうとした時、後ろからバタバタ走る足音が聞こえた。
「やっと見つけた!」
聞き覚えのある声に振り向くと、そこにはグレーのよれたシャツを着こなす、汗だらけの男の姿があった。
「まったく。香織を探すの大変だったんだよ」
「見つかっちゃったか。でも恋人の私達は、赤い糸で繋がってるからそうでもなかったでしょ。私喉かわいちゃった。水ない?」
「息切らしてる僕を前に、よくそんなこと言えるね。水なんてないよ」
「そっか、残念」
立ち上がった私は、両手を組んで真っ直ぐ背伸びをする。
見上げたそのちょうど先の方で、カラスが円をかいて飛んでいるのを見つけた。
「あのカラスひとりなのかなっていたっ」
「もしかして五十肩になったのかい」
「いや違うから。さっきこけた時に腰を打ったんだけど、その痛みが今きた」
腰をよしよしとさする私の隣に、肩を支えてくれている彼の心配そうな横顔を覗き見た。
こういう何気ない優しさを私は尊敬している。
そしてその優しさに惹かれたのが私だ。
「大丈夫ではなさそうだね。歩ける?」
「うん、歩けるよ。ありがとうーーーー」
彼の手を取ろうとした瞬間、突然、金槌で後頭部を殴られたような衝撃が走った。
「どうしたの香織。しっかりして!」
「大丈夫だよ。でもね、おかしいな。私恋人なのに」
「僕の名前、忘れたの?」
冷たい彼の声が胸に刺さった。
私は吐き出すように咳き込んだ。
喉にしこりのようなものが詰まり、口を押さえると両手に真っ赤な液体がついた。それを血だと認識した途端、焼くような痛みが襲い自分の喉が切れた事に気づいた。しかし私はその痛みが喉だけによるものではないと思った。その疑問を誰かに投げ掛ける為に、その後も私は叫んでいたように思う。
辺りが暗くなっていることに気づいたのは、それから随分時間が立ってからだった。
「誰だっけ。あの人の名前は何だっけ。私の恋人はどこだっけ」
喉も痛かったが、胸の奥にある形の無い傷の方が今も私を苦しめている。私は糸が切れたようにその場に崩れ落ちた。
私は先程までの自分の行為の意味がどうしても思い出せなかった。
汚れた両手だけがありありと事実を語っていた。
風が吹き荒れ、雨が降り出した。
隣に居たはずの彼はいつのまにか消えていた。
ふいに携帯の電話が鳴り、震える体を抑えて電話にでた。
「やっと繋がった!香織、今どこにいるの。探してたのよ!台風が近づいてるから迎えに行くわ。今日は佑月君の命日だったでしょ……だから香織が変な気をおこしてないかお母さん心配で」
「佑月君……」
私は立てなかった。立たなかったと言った方が正しいかもしれない。
私はこの雨と混ざり、溶け合う方法を暫く考え、そのことを望んでいた。
彼女はまだ夢を見ている
読んでくださりありがとうございます。
なんだか上手くまとまりきっていないかんじになってしまいましたが、これは亡くなった恋人の幻覚を見ている女の子の話です。