あなたの笑顔に魅せられて(4)

第四章 ある日の水曜日

 朝一番で、仕事場に到着する。犬の美容室でのこと、保健所でのことを手短に、犬おばさんに連絡する。
「今すぐには、見つからないかもしれませんが、私の方でも何らかの手を打ってみます」
と言ってみたものの、大海原の中で、メダカ一匹を探すようなもの、とても期待はできない。まして、淡水魚のメダカなら、大海原に泳ぎ出す前に、世間の厳しさに打ちひしがれ、命を落としているかもしれない。それでも、探偵仲間に依頼して、特徴がよく似た犬がいた連絡してもらうよう、頼もう。二つの目よりも、四つの目、四つの目よりも八つの目だ。探偵家業は、プライベイトな秘密を探るため、個人主義で動くことが多いが、人や物探しなどは、互いにネットワークを利用したほうが、効率はよい。もちろん、お礼は、必要だが、結果的には、経費は安くつく。さあ、誰に依頼しようかと頭の中で、考えていたら、雇い主からの電話が掛かる。
「ありがとうございます。早速、動いていただいて。でも、もういいんですよ。あの子は、私の元がいやで、逃げ出したんです。それを無理やり連れ戻したところで、また、同じことが起こることです。ただ、私も、あの子との関係を断つことを、自分自身に納得させるために、探偵さんに、お話を聞いてもらったのです。とにかく、ありがとうございました。調査料は、指定の銀行に振り込まていただきます」
というと、老婦人は、電話を切ってしまった。
 ルビーちゃんを探すという俺の強い気持ちも、凧の糸が切れたように、どこか遠くへ飛んでいってしまった。こんな一方的な終わり方があるのだろうか。俺としては、彼女から話を聞き、ほんのちょこっとだけ、ルビーを捜索しただけだ。確かに、俺たちの仕事は、机に椅子、そして、電話とメモ帳があれば、十分だ。俺の活動時間を、相手に切り売りして生活しているといっても過言ではない。だけど、それなりの成果がないまま、相手からお金をもらっても、納得しがたいものがある。俺もこの仕事への誇りと情熱がある。客の喜んでもらえる顔があるからこそ、二十四時間、三百六十五日も厭わず、汚い、厳しい、きつい、張り込みや聞き込みができるのだ。犬おばさんからの申し出はありがたいものの、返ってそれが俺の心を駄目にしてしまう。不思議なことだ。俺は、もっと相手の笑顔が見たいのだ。スマイル、スマイル、スマイル。それが、透明人間である俺の存在価値なのだ。あなたの笑顔に魅せられて、俺は生きている。

「先生、今日の予定です」
 クミちゃんの声に、俺の心は、現実とのふれあいの場に、再び、舞い戻った。
今日、一番目の客は誰だろうか。先ほどの、心の葛藤は、どこか部屋の片隅か、ゴミ箱の中か、窓を開けて、年中、日陰の、すえた臭いのする路地にでも投げ捨てればいい。犬愛犬家の彼女も、それなりに満足してくれたのだろう。俺は、次の新たな問題と遭遇し、解決の糸口を見つけ、顧客の笑顔に会わなければならない。もちろん、次々と、問題が解決すればよいが、ほとんどは、最後の結末を見ずに終わるのが、俺たち探偵業の仕事だ。調査等は行うが、最終的に、右か左か、三叉路、四つ角の道のどれを選択するのかは、それぞれの顧客の決断による。俺たち探偵は、その判断するために、材料を提供するのに過ぎない。例え、愛犬が見つかったとしても、その愛犬を、これまでどおり、慈しんで、家族、いや、家族以上に思い、共に生活するのか、探し物がみつかったとたん、これまでの愛着が薄れ、橋の下や、山野に、捨てに行くかもしれない。
 俺たちの仕事は、お客に、一時的に、喜んでもらえたとしても、その幸せを、永久に、永続的に、与え続けたり、維持できるものではない。積み上げたバベルの塔の幸せの石積が、一瞬で、壊されたりすることもある。そして、再び、その石を積み上げる。この、繰り返しの毎日だ。もちろん、空高く希望が適うのがいいことか、昨日よりも、一歩前へ進むのが、素晴らしいことなのかは、わからない、人生が、地球のような球状であれば、いつかは、スタートラインに戻ってくる。そんな、答えの見つからない、とりとめもないことを考えていたときだ。地殻変動のように、俺の体の中心部から、マグマが噴き出すかのように、激しい痛みが襲ってきた。
 おおおおおお、これはまた、さっきの痛みと同じだ。今度は、右足が、急激に、痛む。見える右手と見えない左手で、見えない右足を抱える。おっ、これは早口言葉にするのに、最適なフレーズだ。もう一度、繰り返そう。見える右手と見えない左手で、見えない右足を抱える。よし、詰まることなく、すらすらとしゃべれたぞ。早口言葉なんて、どうでもいい。それよりも大事なのは、激痛が走る、俺の右足だ。これは。もしかしてと思った瞬間、くっきりと右足が見えだした。足首からふくらはぎ、ひざ、そして大腿部と。完全に見えきった時、俺は、半分透明人間になった。腹部はまだみえてないものの、右手、右足が見えれば、十分、右半身といえよう。右半身透明人間か。俺の売り文句がまた変わる。
 俺の、喜びと悲しみが混合した叫び声を聞いて、秘書のクミちゃんが部屋に飛び込んできた。
「先生、大きな声を出して、どうかなさったのですか。あれ、先生の右足が・・・。右手だけが見えていては寂しいので、色でも塗ったのですか?結構、リアルですね」
 相変わらずの、クミちゃんの素っ頓狂な返答に、面くらい、とまどう、左半身透明人間の俺。興奮のため、少し、あのー、そのー、このーと、少し上ずりながらも、クミちゃんに、事情を説明する。
「先生が人のためになることをされたので、きっと、神様がプレゼントをくださったんですよ」
クミちゃんは、脳天気な発想は、しばしば、俺を慰めてくれる。プレゼントか、ありがたいことだ。子どもの頃、毎年、十二月二四日の晩、「なむだいし、へんじょうこんごう」と唱えながら、二礼二拍手一礼をしてふとんの中に潜り込み、サンタクロースが、寒い国から大空を駆け抜けて、ただ自分のためだけにプレゼントを持ってくるのを待ったものだ。あの頃の、自分は、体も心も透明だった。
 どうせプレゼントをくれるのならば、三億円の宝くじが当選するとか、事務所に百万円が投げ込まれたりするとか、スーパーのチラシに、卵ひとパック、十円とか、現実に、得するものがいい。いや、現実に、俺の手は見え出した。見え出したけれど、それは、もともとあったもの。あったものが見え出す。これは、確かに発明ではないが、発見だ。俺が、見えている、感じている世界なんて、所詮、わずかなもの。漂うような生活の中で、様々な世界と触れ合っているが、実際に、すべての情報を入手しているのではない。自分に必要なもの、いや、本当に必要かどうかは、俺の五感、六感がすぐさま判断しているわけではない。たまたま、ほんの偶然で、強調された、刺激が飛び込んできて、慌てふためいているだけではないだろうか。現実を、自分の都合のいいように、解釈して、悦にいっているだけではないか。
 とにかく、俺の右足は、俺以外の他人にとって、現実のものとなった。なんと、喜ばしいことだ。とりあえず、他人からは、視覚という点においては、認識される、最初のスタートラインに立つことができたわけだ。神様、仏様、サンタクロース様の幸せのおすそ分けに、感謝すべきだろう。この感激を、誰に分かちあげるべきなのか。やはり、俺の身近にいる、秘書であり、受付であり、これまで、唯一、俺の存在を、視覚を除いた、四感で認識していてくれたクミちゃんだろう。この成功報酬で得たお金で、彼女に、ボーナスを与えよう。待てよ、それほどの、金額はもらえない。そうなると、どこか、美味しいフランス料理店、いや、イタリア料理店、中華料理もいい。いやはや、日本人である以上、和食を突き詰めなければならない。素材のよさを褒め称えること、つまり、優れたスタッフに感謝することが大切なことなのだ。それこそが、和食であり、日本人式経営の極みなのだ。早速、チャルメラが鳴り響く屋台のラーメンか、演歌の歌手なら一度は歌ったかどうかはしらないけれど、妙に、間延びした石焼きいものPRのこぶしとか、チンカラ、ハンカラの音に合わせ、何処からともなく現れる、ロバのパン屋の三択の中から、どれかひとつを選んでもらおう。いつ、それを切り出すかが問題だ。こう見えても、いや、他人からは見えないのだが、少し内気な、少年二十八号である私は、何も言えず、態度で示してもわかってもらえず、ただ、ただ、おろおろとするだけである。

「先生、すいません、電話です」
 クミちゃんが、俺の部屋に飛び込んできた。
かなり動揺している。俺が、おろおろしている間にも、世間は、着実に進んでいるのだ。気持ちをしっかりと持ち、目の前の問題に、対処しなければならない。通常なら、電話等での用件は、秘書のクミちゃんが受けてくれて、直接、俺が出ることはない。それにも関わらず、クミちゃんが、俺に電話を回してきたのだ。よっぽどの事なのだろう。
「変なんです。電話の相手が」
 変な相手なら、これまでも何人にも会ったはずだ。今週だって、主人探しのおばあちゃんだって、犬探しのおばさんだって、十分に変だった。もちろん、話を聞く、探偵家業の俺だって、一部透明人間、いや左半身透明人間だ。変という小指を立てれば、偏よったものばかりが集まってくる。一見、普通と思われるクミちゃんだって、透明人間が経営している事務所の事務員だ。普通の神経では、勤められないだろう。この世は、七変八化で、繋がっているのか。それを呼び寄せているのが、この俺かもしれない。そうなると、この世で一番変なのが、この俺か。変なこの俺に、変な相手の相談をする、クミちゃんも変だ。
「電話の向こうで、臭うんです、臭うんですの言葉ばかりなのです。ほら、あなたも臭うでしょう。もし、臭わないなんて、変ですよと、一方的に、しゃべりつづけるんです。「すみません、この電話では、臭いが受け取る機能が付いていないんです」と皮肉を込めて答えると、「あら、探偵屋さんにしては、ずいぶん、遅れているんですね、もっと設備投資しないと、時代についていませんよ」と返ってくる始末。私も、あんまり腹が立って、「それじゃあ、お客様の電話は、臭いを感じる機能がついているんですか」と嫌味を言えば、「勿論ついていますよ、でも、お宅の方が、臭いを受信できる装置が備わっていないんだったら、十分な能力が、発揮できませんね」だって。ああ言えば、こう言うとは、まさに、このことですね。そして、挙句の果てが、責任者、出て来いですから。ほんとうに、やってられませんよ」
クミちゃんは、よっぽど腹が立ったのか、肩から息をしながら、事件を再現してくれる。
俺は、無理やり作った笑顔で、クミちゃんの怒りをなんとか抑え、鼻の穴を大きく開いて、電話にでた。今のところ、俺の体臭しか臭わない。
「もしもし、電話を代わりました。ここの事務所の責任者です」
クミちゃんの次は、電話の相手の怒りを抑えなければならない。引き続いて、こわばったままの笑顔から発せられる、猫撫で声で対応した。
「臭うんですよ、臭うんですよ。あなたも、ほら、臭うでしょ」
「話の粗方は、私どもの秘書から、承っております。ですが、この電話は、臭いの感受性機能が、付加されていないため、残念ながら、私は、臭うことができません」
「あら、あなたもさっきの人と同じ事を言うのね。じゃあ、仕方がないから、一度、家に来てくださいよ。家にきたら、きっと、門を入った瞬間から、いいえ、あなたが近所に車を止めて、ドアを開けた瞬間から、いえいえ、どこにあなたの事務所があるかは知りませんけど、あなたが、臭いの感受性の機能の無い電話を持つ、ちんけな事務所から、一歩出た途端、きっとこの臭いを感じますよ」
ちんけな事務所とは、余計な言い方だ。
「わかりました。それじゃあ、早速、今からでも、お家のほうに伺います。今も、臭うんですか。その、臭いって、どんな臭いなのですか。どこから臭ってくるんですか」
 話の具体性は、全くないものの、単なる、本人の過剰なる思い込みだろう。最近よくある、一人暮らしや、家庭内での、寂しさを紛らわすための、孤独なメッセージだろうが、もし、万が一、そこに犯罪が隠れているのならば、探偵である俺は、どんなことでも嗅ぎ付けなければならなない。探偵家業の俺の血が騒ぐ。見えない心臓から送り出されて、見える右手や右足、見えない左手、左足にまで、この熱い思いは、体全体に巡り、再び、戻ってくる。
「なにか、くさった粘膜を突き破るかのような、つーんとした、臭いですよ。私も、これまでの人生の中で、こんな臭いは、初めてです。とにかく、今の、既存の日本語では、表現できない感覚です。新たな言語表現が必要だと思います。探偵さん、あなたには、臭いの原因を探るだけでなく、この臭いを表す言葉を、現代日本語では無理ならば、古文、漢文、果てまた、英語を始めとする外国語から捜して欲しいですね。ひょっとしたら、亀甲文字や、ナスカの巨大絵、ストーンサークルの中に、ヒントが隠されているかもしれません。探偵さん、この謎を解けば、あなたは、一躍、世界の言語学者として、羽ばたくことができるかもしれません」
 相手の声が大きくなると同時に、話も大きくなってきた。そのうち、空飛ぶ円盤が、この鍵を握っているかもしれないと言い出すに違いない。それとも、タイムマシンに乗った未来からの使者か。とにかく、このまま、電話でいくら話をしていても、臭いの正体も、対処法も、そして、本丸である、電話の相手もわからない。
「ありがとうございます。折角の申し出ですので、羽ばたくことはできませんが、助走ぐらいはしてみます。電話では、なかなか、話しづらいこともあるでしょうから、とにかく、一度、お伺いします。できれば、今すぐにでも」
 俺は、今日のスケジュールを確認した。とりあえず、午前中は、予定が空いている。多分、そんなに、時間はかからないだろう。
「あら、ありがとう。さすが、探偵さんね。対応が早いわ。これなら、臭いの原因もすぐにわかりそうよ。今からでも、お待ちしていますよ」
「わかりました。それでは、すぐ参ります」
とにかく、話が長い相手の対処法は、現場に行くことだ。電話で、いくら話をしても、全体の様子はわかるが、解決法は探れない。特に、電話を掛けてきた相手は、一方的で、思いのままの感情をこちらにぶつけてくるから、受け取る方も感情のこだま返しになってしまう。ほら、あなたも、聞いたことがあるでしょう。電話口で、大きな声で叫んでいる姿を。愛を叫ぶのならば、感動を呼ぶが、つばを飛ばしながら、罵る姿は、見ている者を、不愉快にさせる。電話は、最小限の、伝達事項の機能しかない。それ以上の込み入った話は、直接、顔と顔を突合せ、相手の感情を探りながら、言葉を選ぶ必要がある。もちろん、その技量は、お互いに必要だ。相手にその技術が不足しているのならば、こちら側が、補わなければならない。会話の中で、二人の、濃密な世界を構築する必要がある。さあ、電話を置き、俺は、町へ出よう。いざ、行かん、香しき、匂い都へ。

 俺は、住宅地図を車の助手席に置き、依頼者の元へ急ぐ。本当なら、カーナビを付けたいが、貧乏探偵事務所のため、それもままならぬ。今度の仕事がうまくいけば、カーナビのが買える程度の報酬が貰えるだろうか、果てまた、くたびれ損で終わるのか。報酬はともかく、俺は、解決した後の、依頼者の笑顔が見たくて、この仕事をやっているんだ、と自分に納得させるように、探偵用爪楊枝を口に咥える。
 おっと、少し行き過ぎだ。この辺りは、区画整理事業の関係で、道路が新しくでき、整然と区画された土地には、新しい家やビルが立ち並んでいるため、以前の知識では対応できない。かえって、昔の田んぼしかなかった頃の記憶が、今の俺の行動を邪魔している。過去に囚われて、未来が見えない。よくある話だ。と、言いながら、古木を訪ねて、新しい木が芽生えていることに気づくこともある。うーん、人生とは、その場、その場の、自分の都合のよい解釈で成り立っているのか。
 まあ、俺のことはいい。問題は、臭いおばさん?だ。住宅地図から判断すると、あの、築二十年余りの建物だろう。車庫のアコディーオンカーテンが、人生のレールから外れたかのように、元には戻らなくなっており、庭には、何の統一感もなく、ただ、漫然と、草花が植えられている。砂漠化する地球を、雑草一本からでも、植栽し、守ろうとしている、緑のドンキホーテのようだ。風力発電システムは、導入されていないものの、屋根には、長年太陽に挑戦し続けて、黒色がやや灰色にくすみ、ホースにはひび割れ現象が見られる温水器が備え付けられている。ひょっとするとこの家は、最後の審判の日に、人類の血を、未来へと引き継ぐ、ノアの箱舟かもしれない。俺も、透明人間という人類の一種として、是非、この船に乗り込みたいものだ。ただ、この船に乗り込むためには、深くて、長い、臭いの川を渡らねばならないだろう。俺は、川を徒歩ではなく、車で飛び越し、玄関前に乗りつけた。
 車のドアを開け、門の前に立つ。そのとき、家の中の部屋から、カーテン越しに、射すようなまなざしで。俺見つめる二つのブラックホールが見えた。俺の背中の、まだ見えていない、産毛が逆立った。俺は、透明人間という、普通の人間よりも進化した形、それとも、より動物的なのかはわからないが、直感は鋭い方だ。これまでの経験から判断すると、ここには来るべきじゃなかったと思った。チャイムを鳴らす手を引っ込め、そのまま車に乗り込み、この沈没決定の箱舟から、おさらばしようと思った瞬間、玄関の扉が開き、五十過ぎの、俗に言う、おばさんが、にこっという、不釣合いな笑顔で、仁王立ちしていた。カモが来た、飛んで火にいる鴨が来た、今夜の夕食のおかずは、焼き鳥だと言わんばかりの笑顔に見えた。
「あら、いらっしゃい、探偵さん。あんた、探偵さんでしょ。隠さなくても、私にはわかるの。あなたの臭いは、探偵の臭い。普通の人の臭いじゃないわ。電話で、お話ししたでしょう?私の鼻は、普通の人よりも敏感なの。特別の、大特別よ。だから、誰かが、私を狙って、毒ガスを撒こうとしたって駄目よ。瞬時に、臭いを嗅ぎ分け、危ない臭いと判断したら、ほら、この洗濯バサミで、私の鼻を摘むの」
 目の前の臭いおばさんは、ポケットから、市販の、どこにでもある洗濯バサミを取り出すと、自分の鼻を摘んだ。
「どう、似合うでしょう。毎日、何回も、鼻をつまんでいるから、クレオパトラのように、日本人離れした高い鼻になってしまったわ。でも、心配しないでいいわよ、探偵さん。特に、私を女王様と呼ばなくてもいいから。もちろん、ひざまづいて、足の指を舐めなくてもいいのよ。残念なことに。後二十年、いや、十年若かったら、シンクロナイズドの選手として、オリンピックで、金メダルを獲得していたはずよ。もちろん、鼻の摘み方の美的表現力・技術力が、共に百点満点でね。ほら、笑ってよ。折角、初対面の緊張を解きほぐそうと、冗談を言っているのに。今は、クレオパトラから、じゃかまし娘か、山田鼻子か、に変身しているのよ。本当のことを言うと、探偵さんに会って緊張しているのは、実は、あ・た・し・なの。よくあるでしょう。子どもが、運動会やお遊戯会で、妙に、はしゃいで騒ぎ回ることが。今の、わ・た・し・も、それと、お・な・じ。うふふ。ゴメンねー、五十過ぎのおねえさんが、若い娘の真似をしても、あなたのハートを捕らえられないかしら」
(実際には、鼻を摘んでいるため、臭いおばさんの声はくぐもっていて、俺の耳には、はっきりと聞こえなかった。この文章は、俺が密かにズボンのポケットの中に隠し持っていた録音機で記録し、後から、再現したものだ。最近の録音機は、ライターサイズだから、胸ポケットでも、背広の裏に入れておけば、相手に気づかれないで録音できる。探偵の七つ道具の一つだ。早く、八つ目の道具、カーナビを手に入れたいものだ。ただし、九つ目の道具の、毒ガス対策用の洗濯バサミだけは、入手したいと思わない。)
臭いおばさんの永遠に続く、機関銃のような演説から開放されるため、俺も、ささやかな単発銃で、対抗する。

「はい、はい、こちら、ハート探偵センターです。と、軽く、ジョーク返しをさせてもらいます。早速ですが、お客様のいう臭いは、どこから、漂ってくるのですか。今のところ、私には、何の臭いも感じないのですが」
 くじを引くのか、引かないのか、どちらか二つに一つの選択だ。十円玉が宙に舞い、表か裏かの賭けをして、表と言ったら、表が出た。後でよくみると、表同士をくっつけた十円玉という相手の策略に乗った以上、ここで、逡巡するのは、愚の骨頂だ。やるからには、スマートに、手早く、すませる必要がある。長引けば、長引くほど、こちらの腹は空いてくる。敵の陣地にいる以上、時間が長引けば、こちらの不利だ。針の穴一点に的を絞り、勝負に出る。
「あら、ありがとう。仕事を引き受けてくれるのね。どうぞ、どうぞ。まずは、家の中で、お茶でもいかが」
「お気遣いは、無用です。現場を、確認したいのですが」
こうした客との会話は、余計な修飾語は不要だ。単語だけ並べて、話をしてもいいぐらいだ。ひょっとしたら、身振り、手振りだけでもいい。
「さすが、ハート印の探偵センターね。仕事が早いわ。こちらが、臭いの元よ」
吉川という表札がかかった吉川さんは、俺を裏庭の方へ案内した。本来なら、芳川さんと表現すべきだろうが、俺の心の中では、臭いおばさんで決めている。臭いおばさんによると、この家は、新築されてから、二十が過ぎ、その間に、多種多様な草木が、世代交代を繰り返しながら、この庭の主となったそうだ。朝顔であれ、さつきであれ、松であれ、そこの場所に、静かに根付きながら、自己主張し、あわよくば、他人の領土までも奪い取ろうと身構えているように思える。犬や猫などのペットは、飼い主に、似てくるというが、盆栽や植木も、同様なことが起こるのか。一見、荒れ放題模様の庭だが、植物から言えば、伸び伸びと育ち、命の躍動感を表出していると言えよう。これなら、いろんな臭いも発生するだろう。
「いやー、緑溢れる植物から放出される新鮮な酸素に、心身ともに、癒されますね。花の匂いが充満して、心地よいですよ」
 俺は、すべての問題が解決したことを悟った。もう。この家ともお別れだ。どんなに憎みあった中でも、「さよなら」だけが、互いの関係性を浄化させる。最後の、御奉公で、近くに置いてあった水遣りのじょろを満タンにして、目の前のゴールドクレストに、「大きくなってもいい、他人に迷惑をかけない生き方をしろ」と囁こうとした。
「ほら、臭うでしょ。こちら、いらっしゃい、探偵さん」
 依頼主は、朝顔のつるの中に、顔を突っ込んで、俺を手招きしている。
「つるべじゃないけど、じょろで水をやっていますけど」
 俺の本歌取りのジョークに、相手の笑いはなく、代わりに、罵声が返ってきた。
「誰が水をやってくれと頼んだの。あなたの仕事は、水遣りではなく、探偵よ。こっちよ、こっち」
 吉川さんの後ろ姿、特に、大きな岩盤のようなお尻が、俺の行く先を塞いでいる。甘い水は、そちらにないことはわかっていながらも、俺は、ホタル嘘八百万匹に相当する大きなお尻に邪魔されながらも、明日の夜明けを待ちかねている朝顔のつぼみの中に、顔を突っ込んだ。
「ほら、隣の家が得るでしょう。立ち上がり三十センチの基礎のところどころに配置され、縁下につながるの通気溝よ。あそこから、私にとって、いやな臭いが出てくるの。あっ、臭う、臭う」
 女は、ポケットから、金メダル養成洗濯バサミを取り出すと、やおら、自分の鼻をつまんだ。
「探偵さん、あんたも、早く、これをつけないと、毒が頭に回って死んでしまうわよ。私のものでよければ、これ使いなさい」
 おばさんは、何を思ったのか、自分の鼻につけている洗濯バサミを、わざわざ取りはずし、俺に手渡してくれた。そして、自分は、ズボンのポケットから、もうひとつの洗濯バサミを取り出すと、何の躊躇もなく、鼻につけた。俺は、手渡された洗濯バサミを、付けようか、付けまいか迷いながら、じっと見つめている。
「何を迷っているの。ここは、戦場よ。一瞬のためらいが、自分の命を失うし、仲間の命も死の危険に晒すのよ。ほら、それなら、私が付けてあげる」
 臭いおばさんは、再び、自分の鼻の洗濯バサミを取り外すと、やおら、俺の鼻に挟んだ。
「いたたたたたたたあー」
 強引に、シンクロナイズドスイミング鼻用金メダル養成洗濯バサミをつけられた俺。毒ガスの臭いよりも、臭いおばさんの体臭と化粧品の匂いが混じり合い、自家発酵した臭いのほうが、断然、俺の命を死に至らせる臭いだ。
 そんな俺を尻目に、臭いおばさんは、再びの、再び、ポケットから、洗濯バサミを取り出し、自分の鼻に装着する。臭いおばさんのポケットには、一体、いくつの洗濯バサミが入っているのか。叩けば、叩くほど、洗濯バサミが、増えるのか。
「さあ、これで安心よ、でも、いくら、毒ガス対策用洗濯バサミを付けていたとしても、直接、敵の毒ガスを吸えば、命が、いくらあっても足りないわ。十分、気をつけて。ほら、隣の家の、通風孔を見て。あそこよ、あそこ。あそこから、毎日二回、朝と夕方の決まった時間に、毒ガスが私の家のほうに向かって、発射されるの。ほらもう直ぐ、定時の五時だわ。十、九、八、七、六、五、四、三、二、一、ファイヤー!ひー、危ない、あんたも、しゃがみなさい」
 臭いおばさんは、無理に矢理に俺の頭を抑えつけ、その場に、しゃがみこませた。目をこれまで以上に見開いたが、俺には、何も見えなかった。自分を攻撃してきたと思われるのに、臭いおばさんは、顔をほころばせ、何だか、この危険な?状況を楽しんでいる様子がある。
「探偵さん、あなたも、見えたでしょう?ええええ、わからなかったの。白い煙が、あの通風孔から、発射されたでしょう?あなた、危なかったのよ。私が、あなたの頭を押さえつけなかったら、まともに、毒ガスミサイルを受けて、今頃は、体だけ、この世に残して、別の世界で、探偵やってるわよ。私に、お礼を言ってもらわないと。まあ、今日は、私が隣についているし、初めてだから仕方がないけど。いつもいつも、私があなたと一緒にいる訳にもいかないから、次からは、あなた一人でも、細心の注意を働かせないと、大変なことになるわよ」
 俺は、知らない間に、臭いおばさんの一味になっていた。臭いおばさんの指揮下にはいっていた。まだ、誰も、この仕事を請け負うといったわけではない。おばさんが、勝手に、俺を、自分の世界に引きずり込もうとしているわけだ。
「ありがとうございました。でも、毎日、二回も、毒ガスが発射されているのに、吉井さんの庭には、何の兆候もみられませんね。それに、隣の家の人だって、こんなに、家が近かったら、自分の発射した毒ガスを吸い込むおそれがあるでしょう?私には、その当たりが、よく、わからないのですが」
「あら、あなた。私の言っていることが、信用できないわけね。そりゃ、そうだわね。いきなり、毒ガス攻撃を受けて、命を失いそうになったのだもの。頭がパニックになるのは、仕方がないわね。ほら、毒ガス攻撃を受けた、証拠よ。あの盆栽の松を見て。五つの鉢ともすべて、青々としているはずの松が、茶褐色に変わっているでしょう。これが、最大の証拠よ。他にも、家の壁に、ひびが入っているの。敵は、これまで、一年間にも渡って、私や、私の家族を攻撃してきたけれど、いまだに、私たちがぴんぴんと飛び跳ねているから、、真綿で、首を絞めるやり方から、家ごと、私たちをふっとばそうとする手法に変更してきてるみたいだわ。敵を侮っちゃ駄目よ。誰にでも、あいさつや、ニコニコして、愛想がいい、家族のように見えるけど、腹の底は、何を考えているのかわからないわ。多分、普段、周囲の家に、気を使ってばかりいると、突然、感情が爆発してしまうのよ。よく分かるの、私だって、これまで、主人や子どものために、どれほど尽くしてきたことか。今朝だって、家族の誰一人よりも、早く起きて、お昼のお弁当のおかずは何にしようかな、昨日は、冷凍のコロッケだったから、今日は、昨晩の残りのじゃがいもの煮っころがしにしようかなと、毎日、毎日、隠れたベストラー「今日のお弁当のおかず読本」を片手に、頭を悩ませているのに、夫や子どもは、会社や学校に、持って行くときも、家に帰って来て、空の弁当箱を取り出すときも、「ありがとう。おいしかったよ」の言葉がないのよ。別に、お礼を言えと強制しているわけでも、感謝の押し売りをしているわけでもないのよ。いくら、家族だといっても礼儀ぐらいあるじゃない。家族って何。家族は、ひとつの有機的な結びつきだと思うわ。例えば、主人が、頭で、子どもが手足。私が胴体みたいなものじゃないかしら。わかった。だからこそ、あるもの、存在することが当たり前として、感謝の念が湧かないのかしら。普通の人は、自分の手や、足に、今日もよくパソコンを打ってくれて、ありがとう。お陰で、これまでにない斬新な企画書が作れたよ。これで、次の営業会議では、駄目ダシもなく、すんなりと通ること間違いなしだ。このプランが実行され、成功に至れば、会社は、ますます大きくなるし、今は、係長の俺も、二段飛ばしで、部長に、出世するだろう。それに何より、一般のお客さんが喜んでくれるだろう。それが、俺の一番の楽しみだ。子供たちが、俺の企画したプラモデルを買い、早く家に帰って、作り上げるのを待ち望んでいる。傍らの父親も、かつて、自分の子どもの頃を思い出し、自分の姿と子どもの姿を重ね合わせ、うれしさの余り目を細めている。こんな、光景に出会うために、俺は、一週間もて通夜を続け、この企画書を練り上げた。最後を、締めくくってくれた、俺の手よ、本当に、お疲れさま。途中、キーボードの叩きすぎで、指や前腕部が痙攣したこともあった。それも今となっては、懐かしい思い出だ。今晩は、もう、パソコンに触ることも、近づくこともしなくていい。明日から、また、新たな、戦いが始まる。束の間の休息だが、十分休んで欲しい。って、探偵さん、あなたも、自分の指や手、腕に感謝したことがある?」
 突然、真理をついた質問に、俺は、一瞬、たじろいだ。返す言葉が見つからなくて、頭が真っ白だ。今なら、先着先着百名様に、俺の頭の中のホワイトボードを待ち合わせのための伝言板にしてもいい。明日、朝、午前九時までなら、消さずに置いておこう。そんな状況だ。確かに、俺の事務所のクミちゃんには、感謝、感激、神様に崇め奉り、大阪へ出張したときは、おみやげに、必ず、雷おこしを買ってくることになっている。彼女は、透明人間の俺を、恐れることなく、普通の人と同様に、いや、とりあえず、社長として、接してくれている。もちろん、俺は、クミちゃんを、単に、事務員として感謝しているだけではなく、淡い恋心も抱いているのだが。そんな気持ちも、透明化されてしまい、表面上は、おくびにもださずに接している。
 雷おこしで、関心を持ってもらおうと思うなんて、少し、間抜けだな。よし、今度は、高さ百メートルと五千二百四十センチのシンボルタワーの最上の三十階で、フランス料理のデイナーコースをご馳走しようか。早速、今月号の情報誌「ナイス街角」の企画「同僚以上、恋人未満のあなたたちのデートコース」を参考に計画してみよう。何だか、心がワクワク、ウキウキ、フワフワしてきたぞ。さて、何の話だったか。そうだ、自分の手や足など身体に感謝したことがあるかどうかだ。
「確かに、奥さんのおっしゃるとおりですね。自分の、手や足、目や耳、口や鼻、外側だけでなく、内側の、心臓や肺、胃、大腸などの内臓器官、血液など、自分を生かしてくれている、全ての、一つ一つの細胞に感謝すべきでしょうね」
 毒ガス攻撃を受けているなどと、馬鹿げたことを言っているから、こちらも少し、いや、大変、相手をなめてかかっていた節がある。現代の人間は、情報や知識ばかりが先行し、つまり、大脳ばかりが働いていて、人間イコール脳、と決め込んでいる。人間は、様々な細胞から成る有機体という認識が欠けている。汗をかくことを、極端に、いやがるのも、この風潮だ。脳だけで、人間が成り立っているわけではない。この過大にして、過度なる脳至上主義が、身近なごみ問題、自然破壊、地球温暖化、奇種動物の絶滅化に拍車をかけているのだろう。
「あら、探偵さん、いやに、素直に、私に言うことに従ったじゃない。それなら、私が隣家から、毒ガス攻撃にあっていることも、信じて欲しいわね。ひとまず、この場所を離れて、作戦本部に戻りましょう。相手が手を出してきた異常、こちらも次の手を考えないといけないわ。さあ、探偵さん、行くわよ。でも、音を立てずに、身を伏せ、相手にこちらのこと感づかれないようにしないと。特に、この秘密兵器、毒ガス対策用洗濯バサミは、相手に見せられないわ。ひょっと、この存在を知られたら、次に、いかなる攻撃を仕掛けてくるか、わからないもの。相手に、油断させ、有利な状況にあると思わせることこそ、最大の、攻撃よ。守るも、攻めるも、楽しいわね」
 臭いおばさんは、攻撃を受ければ受けるほど、つまり、相手が関心を持ってくれればくれるほど、いきいき母さんになってくるらしい。臭いおばさんの声に引きずられて、俺は家の中に入った。
「さあ、もういいわよ。防毒バサミをはずしても。でも、よく似合うわよ、その洗濯バサミ。洗面台に、鏡があるから、見てみたら。もし、よければ、そのまま付けていてもいいし、カメラ付き携帯電話をお持ちなら、待ち受けの写真にしてもいいんじゃない。その写真と、「戦時中から安息日まで、いつでもハート探偵社は、あなたをお待ちしています」のキャッチコピーを組み合わせた名刺を作れば、探偵さんの株が上がるわよ。そのためにも、お土産に、ひとつ持って帰ってもいいわよ。でも、これが、今日の探偵さんの報酬よ。ははははははは」
 臭いおばさんの声に、俺は慌てて洗濯バサミをはずす。慣れとは恐ろしいものだ。いつのまにか、臭いおばさんの世界の中に、どっぷりと浸かってしまい、鼻の洗濯バサミに気づかなくなってしまった。俺の鼻だけでなく、頭の中までもが、臭いおばさんの毒ガスに侵されてきたのかもしれない。
「でも、ひょっとしたら、このまま付けていたほうがいいのかもしれないわね。実は、隣の家からの攻撃は、縁の下からの毒ガスだけじゃないの。実は、ここだけの話だけど、隣の人は、何か、不思議な薬を使って、自分の体を小さくして、家の鍵穴や、小さな隙間から、この家に侵入してくるの。あら、また、そんな、顔をして。私のこと信用していないでしょう。ちゃんと、その顔に書いているわ。もちろん、私も、初めは、そんなこと絶対あるはずがないと思っていたわ。毒ガス攻撃だって、そうよ。どうして、隣の人が、私や私の家族を攻撃してくるのかわからなかった。でも、人間の行動に、動機や理由なんていらないのかもしれない。その場、その場の、瞬間的な欲望や感情から行動するのであって、終始一貫とした理由なんて、後づけじゃないの。あなたが、探偵さんだからこそ、私が言うことがわかると思うの。テレビや新聞で、よく犯罪の動機について、有識者が知たり顔で語っているけど、本当に、そんな明確な意思があったのかしら。何か、もやもやとした感情があったかもしれないけど、それは、後から、無理やり、本人や第三者が、物語を作り上げたものだと思うの。多分、そこには、脳の中で、理性と感情が、大きく葛藤しているのだわ。自分の行動を、筋道が立ったもの、理由があったもの、理性的であるものと信じて疑わないの。いいえ、信じたいのよ。そこには、感情が、悪だという認識が強いのかもしれない。そのくせ、いくらいいことをしたとしても。後から話を聞けば、俺は、知らなかった、話を聞いていない、すぐに、怒り出す、特に、物事がよくわかっている、指導者たちがいるじゃない。ほんと、人間って、感情が九十九パーセントの動物ね。自分のことは、棚に上げておいて、他人には、いやに感情的ですね、って批判めいたことをよく言うけど、人間から感情を取ったら、単なる、でくの棒よ。おじいさんを困らせたピノキオのほうが、まだましよ」
 臭いおばさんの、言葉攻撃に、俺は黙って頷くしかない。全てが、もっともだけに、当てはまるだけに、これからは、臭いおばさん、改め、百パーセント感情おばさんと名付けよう。そして、俺は、九十九パーセント感情探偵と自称しよう。ささやかながら、一パーセント理性を持って、探偵という職業に就く。この一パーセントは、相手の話を聴くという点においてだ。この一パーセントだって、いつ、消え去るかわからない。
「あららららああ、らーめん、あーめん、ちゃんぽんめん。ごめんなさいね。ほんと、九十九パーセントの感情をあなたにぶつけたりして。体だけじゃなくて、心も、毒ガス攻撃によって、蝕まれているのかも知れないわね。最近、怒ったり、笑ったり、泣いたり、何も感じなかったり、毎日、毎時間、毎分、毎秒ごとに、目まぐるしく、入れ替わり立ち代り、感情の波が押し寄せてくるの。分かっているんだけど、つい、他人に、ぶつけたりしてしまう。あら、探偵さん、その眼は、何?なんだか、私を疑っていないかしら?感情が激しく入れ替わるのは、毒ガスのせいじゃなく、更年期障害のせいだとでも言いたそうね。私だって、その方が、いくらか増しだわ。隣の家が、自分の家族を毒ガスで攻撃してくるなんて、誰が考えても可笑しいわよね。最初、私だって、変な臭いがするから、鼻の病気かしらと思って、耳鼻咽喉科で診察してもらったけど、何の症状もみられなかったわ。それも、町医者じゃなくて、ちゃんとした総合病院。そう、市内の中心部、県庁や市役所をも凌駕する建物、日青病院よ。普通、こんな地方都市だと、県庁や市役所が建物だけは立派だけど、日青病院も、ひけをとらないくらい立派。もちろん、建物だけがすばらしいという意味じゃなくて、医療機械だって、最新式よ。特に、病院のスタッフは、人間的にも、治療技術においても、最高の方々よ」
 百パーセント感情おばさんは、目をうるうるしながら、喉はごろごろ転がしながら、口からはぶくぶくと唾を泡立てながら、演説を続ける。この辺りで、息継ぎをしないと、呼吸の吐き過ぎで、酸素が不足して、倒れてしまうだろう。息継ぎなしの面かぶりクロールだって、一分、二十五メートルが限界だ。このまま倒れられたら、俺が、白亜の塔の病院へ運ばなければならなくなる。この俺こそ、中途半端な、半透明人間を治療して欲しいと思っている。
「立ちっぱなしじゃなくて、まあ、座りませんか」と俺は相手の話の腰を折る。
「毒ガスおばさんじゃなくて、百パーセント感情おばさんじゃなくて、そうそう、安藤さん、よっぽど、日青病院での待遇がよかったのですね」
「それほどでもないんですけどね。たまたま、病院に行ったときに、エレベーターに乗って脳神経科に行こうとしたら、看護師さんが、何階でしょうかって、尋ねてくれたんですよ。それが、とても嬉しくて、それ以来、日青の大ファンなんです。そんなことぐらいかと思われるでしょうが、人間って、そんな、些細なことに感動や感激するものなのよ。さっきから、私が言っているように、人間は、キュ十九パーセント 感情で生きている動物なの。このこと一つとってみても、十分な証明になるわ」
自らの理論を自らの体験談で証明する感情おばさん。反論の余地は、全くない。あなたは、私よりも、九十九パーセント、いや、百パーセント長生きするでしょう。俺は、ただ、ただ、頷くしかなかった。
「病院の話はおいておいて。そう、隣の家からの侵入者だけど、どうも、二階の寝室に忍び込んで、天井裏から、何か薬を巻いているの。探偵さんには、是非とも、寝室を調べて欲しいわ。私の言っていることが、本当だと、更に、確証を得ることができるはずよ」
 感情おばさんに連れられて、俺は、階段を上り、毒ガスの小部屋に入った。そこは、壁がビニールクロス、床はフローリング仕様で、ダブルベッドがひとつと、七段の引き出しがついた箪笥、観音開きのクローゼットがあるだけだ。頭を上げ、天井を見ると、壁と同様、ビニールクロスが張られている。長い年月のせいか、そうじが不十分なのか、薄汚れているものの、雨が染み込んだ跡はない。もちろん、薬を撒いたような痕跡もない。
「なんにも、変わった様子はありませんけれど」
 後ろを振り返ると、感情おばさんは、廊下で立ったまま、俺を凝視している。鼻には、オリンピック養成洗濯バサミがつけられていた。
「そう、私には、臭いますすけどねえ。ほら、さっきと同じ臭いですよ。探偵さんも、早く、防毒ハサミを付けないと、天国行きですよ。それでなくとも、ここは二階なんだから、先ほどの庭よりも、あの世に近づいているんですよ。この家では、この部屋が天国に最も近い場所として、家族中から、認識されているわ。ちきしょー、くやしいわね。探偵さんと居間で立ち話をしていた際に、隣の人が、密かに、この部屋に入って、薬を撒いたみたいだわ。探偵さんも、早く、毒ガス用洗濯バサミをつけないと、大変なことになってしまいますよ」
 毒ガスおばさんは、再び、元の状態に戻った。先ほどの、弁舌軽やかな、かつ、思慮に満ちた姿はない。ただ、ただ、自らの世界に舞い戻ったみたいだ。私は、舞戻れるのか?
「ほら、扉のノブのここ、蛍光灯のそこ、天井の隅のあそこ、それに、部屋全体のどこもかしこに、毒液が散布された後がみえるでしょう?敵は、賢いから、一回吹き付けた後、ワックス掛けのように、天井や壁に塗り込んでいるから、一見すると何もないように見えるけど、長年の習慣から、私にはわかるの。こんなことされると、私は、一体、どこで睡眠をとればいいの。一階では、毒ガスが流れ込んでくるし、二階では、毒液が散布されている。足の踏み場どころか、空中に浮かんでいる場所もないわ。私は、私たち家族は、もう、ここに住めないのね」
 臭いおばさんは、百パーセント感情おばさんとなり、廊下に座り込んで、泣き出し始めた。俺は、慰めの言葉を捜すよりも、いかに早く、ここから抜け出す切り口上のみ考えていた。
「吉川さん、あなたのお気持ちはよく分かります。この問題は、探偵の私よりも、ご主人さんや家族の方と相談すべきではないでしょうか。そうすれば、もっとよい解決方法が見つかると思います。それでは、私は、ここで失礼します」
我ながら、百パーセント冷静かつ優等生の発言だ。俺の頭の中が、見えない毒ガスで侵食されないうちに、何としても、早く、ここから脱出しないと。探偵から囚人への変身だ。
「あら、探偵さん、お茶もいれないですいませんねえ。何しろ、ゆっくりとお茶を飲む暇がないほど、敵から攻撃を受け続けたため、私も、頭の中が、錯乱状況でしたわ。とりあえず、一階に下りて、話の続きをしませんか。近所の八百屋さんで、自家製の手作りムースを買ってきているから、是非、食べてみてください。この物価高の折に、消費税込みで百五円という安さなんですよ。しかも、八百屋さんで、デザートを売っているんです。折からの健康ブームと、自分自身に徹底的にこだわるマイブームとの相乗効果で、人気沸騰中ですよ。おきに召したのなら、帰りにでもちょっと寄ってみて、もし、売り切れていなければ、事務所の受付の方に買って帰ってあげてくださいよ。ちょっとした気遣いが、人間関係を円滑に運んでくれますよ。それに私だって、一人で食べるよりも、多くの人と食べるほうが楽しいですから。インスタント食品やファーストフードが流行っているので、とかく、個食になりがちですけど、本来、食事は、物をおなかに詰め込めるのが目的じゃなく、家族や仲間が一緒に、時間を過ごすことが大事なことだと思うの。その時間の積み重ねが、人間関係をより一層深めていくことができると思います」
 出た出た、彼女の心の叫びが、マグマのように、再び、噴き出してきた。今度の思いは、先ほどよりも重いのか、軽いのか、それとも、熱いのか、少し冷めているのか、分からないが、臭いおばさんの姿は、そこにはない。臭いが、彼女の心を分厚く、覆っているだけなのだろう。それとも、自らの防御策として、臭いの壁を作っているのだろうか。
「ありがとうございます。お話をお伺いして、状況はある程度掴むことができました。私の方でも、聞き込みや近所のフィールドワークなどをして、捜索してみます。何らかの結果が分かり次第、連絡いたします」
「そんなこと言って、早く、この家から逃げ出したいだけなんでしょう。探偵さんの気持ちなんてまるわかりよ。なんたって、私は、小さい頃から、文学少女で、シャーロックホームズを始め、怪人二十面相、怪盗ルパンなど小学校の図書館で、読み耽ったんだから。基礎はしっかりしているわ。でも、その後は、あまり本は読んでいないから、柱は、しっかりとしてはいないけど。昔、読んだ本の知識で、直感だけは、鋭いの。だからこそ、大事に至るまでに、隣家からの毒ガス攻撃を感じることができたの。でも、この鋭敏に、研ぎ澄まされた感覚も、時には、外れることがあるわ。その一番大きいのが、今の、旦那を選んだことね。ほら、笑ってよ。久しぶりに、冗談が言えたのだから。探偵さん、あなたに来てもらえてよかったわ。お陰で、心がすっきりしたみたい」
 俺も、臭いおばさんの笑顔が見えて、少しは、楽になった。だからといって、ここから立ち去りたい気持ちがなくなったわけではない。
「それでは、また、連絡します」
 言葉だけを残して、体まるごと、この家から出た。振り返ると、臭いおばさんは、俺と出合ったことなど忘れてしまったかのように、鼻歌まじりで庭の草むしりに精を出している。俺は、二度と連絡などしまいと心に固く誓い、俺の臭いが充満している愛車に乗って、臭いおばさんの家を後にした。

 事務所に帰り、クミちゃんに、臭いおばさんのことを簡単に説明し、多分、二度と連絡はないだろう、もし、あったとしても適当にあしらってくれと話しをした途端、ドアをどんどん叩く音がした。これは、ノックではない。今にも、ドアを叩き割りそうな、土砂降りの拳攻撃だ。
「探偵さん、探偵さん、開けて頂戴。居るのは、分かっているんだから。昼間の、吉川です。隣の家からの、新たな攻撃を受けたのよ。その証拠を持ってきたから、緊急に調べてください」
 俺は、クミちゃんと目をあわす。驚きで、目がまんまるのクミちゃんは、
「先生、どうします?このまま、居留守のまま、放っておきますか?それとも、ドアを開けましょうか?」
「臭いおばさんの今のままの勢いだと、ドアを叩き壊すも違いない。おんぼろ事務所だけど、ドアなしでは、営業が続けられないし、大家さんに弁償しなければならない。それに、他の事務所の人にも迷惑がかかる。仕方がない。ドアを開けよう」
「先生、「臭いおばさん」ですか。それって、面白いネーミングですね」
「いや、もうひとつ、「百パーセント感情おばさん」という源氏名もある。」
「「臭いおばさん」のネーミングを全国に向けて公募しましょうか?全国から、多くのメールやはがきが送られてくると思います。そうすれば、ひとときだけど、世間から注目を受け、寂しさから逃れられるんじゃないでしょうか」
「うーん、クミちゃん、さすが、探偵事務所に勤めているだけあって、臭いおばさんの臭いの原因を見切ったね」
「先生、誉めていただいてありがとうございます。門前の小僧じゃないけれど、あたしも先生のように、探偵になれるでしょうか」
「もちろん、成れるよ。私以上に」
「でも、今回のケースは、特に、推理したわけでもなんでもないんです。女の人って、何か寂しくなると、妙に、何事かに熱中したり、また、他人から、無視されればされるほど、関係性を欲しくて、攻撃的になったり、ホント、自分でもどうしていいのかわからなくなるときがあるんです」
「それは、男でも同じだよ。太古以来、生命体が、種族のDNAを未来永劫につなげるため、天変地異のいかなる環境の変化に対応できるよう、雌雄に分かれた結果、人は、自分以外の誰かを求める定めになっているんじゃないのかなあ」
「あら、さすが先生。推理は、百臆年前までに遡りますね」
 クミちゃんと、こうしてまともに話をするのも久しぶりだ。普段は、仕事の忙しさにかまけて、じっくりと話をする暇がない。流れていく関係性を、少しでも深めていくためにも、週に一回は、仕事に関係しようが、しまいが、ミーテイングを開催しよう。たった二人だが、二人から、関係が始まるのだ。そんなきっかけを与えてくれた臭いおばさんに、感謝の気持ちを。おっと、クミちゃんとの二人の世界に埋没している間も、臭いおばさんは、入り口のドアを叩き続けている。
 ドドン、ドン、ドン、ドドン、ドンドンドンドン、ドン、ドドン。
 最初の怒りにまかせた叩き方から、いつしか、人の心を掴む、心地よいリズムに変わっている。俺は、ドアをゆっくりと開けた。
「探偵さん、出てくるのが、遅いじゃない。お陰で、ドアを叩くのが楽しくなって、足はリズムを踏んでいるわ。もし、よければ、ばちか、棒か、なければ、割り箸でも持ってきていただけたら、ありがたいんだけど。なんだか、音を出すのが楽しくなってきたみたい。でも、この手を見てよ。小さい頃は、赤頭巾ちゃんの手みたいといわれた手が、ドアの叩きすぎで、こんなに膨れ上がり、しかも、皴だらけ。また、血管は忍苦に耐えきれずに、青筋を立てて浮き上がっているじゃないの。一体、どうしてくれるの」
「いやー、すいません。今、会議中で、激論を交わしていたため、吉川さんのノックの音に気がつかなかったんです」
「二人しかいないのに、激論だなんて変ね。それに、部屋の中から、大きな音は聞こえなかったみたいけど。でも、そんなことはどうでもいいわ。ほら、これよ。敵の毒ガス攻撃の証拠よ」
 臭いおばさんは、手に持っていたバッグを、俺とクミちゃんの前に突き出した。
「これよ、これ。敵は、とうとう、恐るべきことに個人攻撃を始めだしたのよ。探偵さん、ほら、バッグの中を臭ってみてよ」
臭いおばさんは、バッグのふたを開け、俺の顔の前に突き出した。汗をふいたハンカチのせいか、バッグの中は、少しすえた臭いがした。また、小銭が、転がっているのか、お金特有の、金属的な臭いもした。毒ガスがどのような臭いなのかは知らないけれど、俺が臭うのはそれだけだ。もし、本当に、バッグの中に、毒ガスが充満しているのであれば、俺もクミちゃんも、毒ガスを臭う前に、その場で倒れているだろう。
「毒ガスの臭いがどういったものか分かりませんが、バッグの中は、取り立てて、異臭がすることはないですけれど」
 俺は、バッグを臭いおばさんに戻した。
「本当に、何も臭わないの、探偵さん?原因は、これよ、このハンカチよ。敵は、毒ガスをこのハンカチに染み込ませて、私が知らない間に、そっと、バッグに忍ばせ、毒ガスのエキスを吸わせて倒れるのを待つ企みなのよ。いきなりじゃなく、真綿で首を絞めるように、じっくりと死の訪れを呼び込む作戦なのね。あの意地の悪い隣の奥さんが考えそうな計画ね。でも、大丈夫。私には、探偵さん、あなたがついているわ。あなたのお陰で、敵の攻撃から、未然に、私の命を救ってくれたのね。本当に、感謝するわ」
「私は、何も、していませんし、特段、このハンカチが特別なものとは思われせんが」
「あららららららららら、探偵さん、遠慮しないでもいいわ。真の名探偵は、自分が何もしなくても、周りが勝手に動いて、事件を解決するものなのよ。例えば、名探偵コナンに登場する眠りの小五郎のように」
 誉められているのか、貶されているのか、よくわからない。だが、ここは、臭いおばさんの家のある、ホームではない。俺の事務所の廊下の、公の場所だ。一方的に、おかしなことをしゃべられると、近所迷惑のほかならない。道路にごみを撒き散らすように、公の場で、意味不明の声を発するのも、公衆道徳に反する行為だ。俺の気持ちを察してか、クミちゃんが、臭いおばさんに、忠告のミサイルをぶっ放す。
「ここで大きな声をあげますと、他の事務所の方に、迷惑です。どうぞ、事務所にお入りくださいといいたいところですが、事務所の営業時間は、既に、終了していますので、また、明日にしてくれませんでしょうか。こちらから、再び、連絡をさせていただきます」
「何よ、あんた。ひよっ子の探偵のくせして、余計なこと、でしゃばるんじゃないわ。あっ、そうか、あんたも、うちの隣の女のぐるなのね。ひょっとしたら、このハンカチに毒を染み込ませたまま、得意の、体を小さくする秘術を使って、私のバッグに忍び込んで、探偵さんの事務所についてきたのね。恐ろしい女だわ」
 臭いおばさんは、クミちゃんを、まるごと飲み込んでしまうかの勢いで、食って掛かる。
「いや、彼女は、うちの事務所の人間で、決して、吉川さんのおっしゃる、隣の家の回し者ではありません」
「探偵さん、あなた、まだまだ甘いわね。さっき、折角、誉めてあげたのに、今の発言で、全て、帳消しだわ。評価五から、マイナス五ね。もちろん、五段階評価よ。マイナス五があるということは、十段階評価ということかしら。もし、マイナス百三に相当するとしたら、全部で、百八段階評価になるわね。悲しいわね、人間って、やはり、煩悩のなすがまま、人生を流されていくのかしら」
 臭いおばさんの流されて行く言葉に翻弄されるまま、俺とクミちゃんは、天下の公道の廊下に突っ立っていた。

 その時、流されて行く場面を、大きく変える事件が起こった。廊下の向こうから、男の人が歩いてきた。景山さんだ。俺の事務所の隣で、司法書士の仕事をしている。昔、市役所で勤務していたが、人間関係にいやけがさし、「こんな仕事、くそぼっこだ」と叫び、定年まで、相当年数があるのにやめたのだと、昔、聞いたことがある。離婚問題など、様々な仕事の関係で、相談したりすることが多い。景山さんは、俺たち、三人に気がつき、声を掛けてきた。
「こんばんは。どうしたんですか、廊下の真ん中で、立ち話をして。部屋が必要なら、私の事務所の相談室を使ってもいいですよ。あら、あなたは、ひょっとして、藤原さんじゃないですか、久しぶりですね。小学校と中学校の同級生の、景山ですよ」
「景山さん?あら、思い出したわ、景山君ね、本当、全然、変わっていないじゃないの」
「いやー、ありがとうございます。でも、髪の毛は薄くなったし、眼は、老眼気味だし、あの頃と比べて、大分変わったと思いますが。それより、藤原さんこそ、全く、変わっていないじゃないですか。素敵な笑顔はそのままだし、スタイルだって、あの頃のままじゃないですか。確か、藤原さんは、陸上部で、僕は、帰宅部。毎日、下校中に、藤原さんの走る姿に、心ときめかせたものですよ。今でも、カモシカのようなすらりとした足が鮮明に思い出されますよ。いやー、藤原さんに、こんなところで会えるなんて、光栄ですよ。神様に感謝しないと」
「景山君、ありがとう。おせいじでも、嬉しいわ。でも。ほら、昔に比べて、こんなに太っちゃって、肌もかさかさ、髪だってぼさぼさよ」
「いくら、藤原さんが年齢を重ねても、僕にとっては、永遠のヒロインですよ。憧れの君は、変わりません」
「いやだわ、景山君ったら。口だけは、上手くなって。中学生の頃は、黙ったままで、あまり話しなんかもしなかったのに」
「藤原さんが、眩しすぎて、とても、僕ごときが近づける様子じゃなかったでしょう?藤原さんの周りには、いつも、女の子が取り巻いていて、他のクラスの男は、廊下越しに、あなたを見つめていましたよ。僕だって、休み時間になると、用もないのに、藤原さんの席の近くの男子に近づいて、深夜番組の内容をしゃべりながらも、心は上の空で、藤原さんの横顔ばかりを見つめていましたよ」
「やめてよ、景山君、そんな昔のことなんか話をして」
「もし、藤原さんが、よければ・・藤原さんとお呼びしていいですか?」
「今は、結婚して、吉川です」
「それじゃあ、吉川さん、もし、時間が許すのならば、近くの喫茶店で、昔のことでもお話しませんか。四十年あまり、心に秘めていた思いを、是非、聞いてもらいたいなあ」
「いやだわ、景山君ったら。こんな、おばさんをからかったりして。でも、主人は、今日も、仕事で遅くなると言っていたし、息子は、部活と塾で遅いから、時間なら、少しありますけど・・・」
「それは、有難い。是非、短い時間で結構ですから、お話できませんか」
「でもねえ、こんな、おばさんだから・」
 臭いおばさんは、口では、景山さんの誘いに、なかなか乗ろうとしないように見えるが、体は、既に、ここまで来た方向と反対の方向を向いている。
「それじゃあ、まいりましょう、藤原さんじゃなくて、吉川さん。でも、私にとっては、永遠に、「藤原さん」のままです」
 景山さんの言葉に促されるように、臭いおばさんは、我が事務所を後にした。その場に残された俺とクミちゃんが、互いに、顔を見合わせていると、三階の階段を下りようとした景山さんが、私たちの方を振り返り、にやっと笑い、目配せをした。俺とクミちゃんは、景山さんに、お辞儀をして事務所の中に入った。
「景山さん、あの臭いおばさんのこと、昔、本当に、憧れていたんでしょうか」
「さあ、分からないけど。景山さんが、私たちに大きな助け船を出してくれたことは確かだよ。ついでに、その船に、臭いおばさんを乗せて、遠くへ連れて行ってくれた。明日、景山さんに、お礼を言わないと」
「本当ですね、先生」
 
俺とクミちゃんが、あれやこれやと話をしていると、電話が鳴った。
「はい、こちらは、ハート印の探偵事務所です。あっ、吉川様ですか。はい、先生と変わります」
クミちゃんの差し出す受話器を俺は受け取った。
「探偵さん、先ほどは、突然、お伺いして、ごめんなさいね。でも、お陰で、同級生の景山君と、ホント、三十数年ぶりに会えました。人生、何が、幸いするのか、分からないわね。あれから、景山君と、約二時間も、昔話で花を咲かせ、今、自宅に帰ってきたばかりよ。それで、臭いのことなんだけど、不思議なことに、隣の家や、二階の寝室、そして、私のバッグには、これまで、臭っていた毒ガスの臭いが全くしないの。もちろん、臭い浄化装置付洗濯バサミはとりはずしているけど。それどころか、不思議なことに、今まで、毒ガスの臭いしかしなかった私の周りが、急に、パンジーや朝顔やひまわりなど、花の匂いに囲まれだしたの。まさか、あなたが、小人になって、私の家に、花の香りを吹き付けたわけじゃないでしょうけど、ふふふ。とにかく、探偵さん、これまで、色々とお世話になって、本当に、ありがとうございました。これから、私、強く生きていけそうな気がするの。そうそう、景山君は、今、各地域で行われるマラソン大会に出場しているんだって。「もし、よかったら、藤原さん、あっ、すいません、吉川さんも、一緒に、走りませんか」って、誘われたのよ。ランニングなんて、三十年ぶりよ、私に、走れるかしらと答えたんだけど、景山君が、「僕が、タイムマシンを持っていますから、カモシカのようなあの頃に戻りませか、藤原さん」と言われたの。タイムマシンなんて、そんなもの、SF小説の世界にしか存在しないのに、変な、景山君と思ったんだけど、景山君の「藤原さん」という問いかけに、なんだか、素直に、「はい」と返事してしまう自分がいるの。ホント、変ね。でも、変から、恋に変わることもあるかしら・・・ああ、恥ずかしい。このことは、景山君には、黙っていてよ。もし、しゃべったら、プライバシーの漏洩問題で、探偵さんを、訴えてやるから、ふふふ。あら、一人で、長話なんかして、ごめんなさい。とにかく、探偵さんに、一言、お礼が言いたくて、電話を掛けたの。本当に、ありがとう」
 臭いおばさんは、匂いおばさん、いや、失礼、麗しい匂い少女に変わった。俺は、ゆっくりと受話器を置いた。
「先生、よかったですね。受話器から、零れた音で、すべてを聞きました。でも、あの、臭いおばさんって、勝手ですよね。一方的に、責め立てたり、一方的に、お礼を言ってきたり。そうそう、電話のお礼よりも、調査料、ちゃんと払って貰えるのかしら。その当たりは、きちんとしないと、事務所の経費だって、馬鹿にならないんだから」
 クミちゃんが、俺の傍で、少しずつ、臭いおばさんになっていく。その時、俺の歴史が動いた。今度は、左手だ。過去二回の経験から、痛みも驚きも、弱ってはいるが、確実に、左手は、露わになっていく。指の先の爪が見え始め、指の第一関節、第二関節、そして、指のつけね。手のひらを事務所の天井にへばりついている蛍光灯にかざす。今まで、見えていたはずの光が、実体化した手に遮断されて、俺の目には届かなくなった。変わりに、生命線とか、知能線とか、勝手に名づけられた、縦横無尽に走っている手のひらの皴が、テレビの走査線のように、俺の目に飛び込んでくる。青い血管も浮かび上がった。この血管の中を、俺の生きる証明となる血潮が流れているのか。目の前にして、初めて、俺自身が、生きていることが実感できた。
 もう、一方の、右手を見る。同じように、血管が浮かび上がっている。露わになった途端、毎日の、仕事に忙殺されて、普段は、目にも留めなかった自分自身の体を、じっと見やる、労わることはない。人生とは、何が、きっかけで、変化が起こるかわからないものだ。臭いおばさんの気体が、俺の左手を固体にしてくれたのだ。俺が、両手に見入っている間にも、左手は、波が海岸に打ち寄せ、白砂が黒く染まるように、手首、ひじ、力こぶ、肩と実在化していく。これまで見えていた右手で、新たに見えた左腕を撫で、新たに見えた左手で、これまで見えていた右腕を撫でる。見えていても、見えていなかっても、感触は同じはずなのに、なぜか、愛おしさが、より一層増す。目が、視覚が触覚の感覚を増幅させるのか。俺の傍らで、一人、臭いおばさん化していた、クミちゃんが、俺の三度目の異変に気づく。
「先生、また、実在化ですか。今度は、左手ですね。よかったですね。これで、残りは、左足と胴体部分だけですね。先生が、仕事を通じて、人に喜びを与えるたびに、体が見え始めてくるんですね。今回で、このことが確証できました。もう、少しですよ。多分、あと二回、大きな仕事を成就させれば、先生は、晴れて、普通の人間に戻れるんです」
 普通の人間か?普通の人間とは、どういった人間なのか?俺は、よほど、変わっているのか?確かに、体が全部見えない透明人間であったり、体の一部が見える、半透明人間であったり、いわゆる普通の人間とは、見た目において、変わっているが、俺は、俺として生きている。以前、小学校の総合学習で、島への訪問という課外授業に、警備という立場で、サポートしたことがある。その島は、港から沖合い4キロ、フェリーで、約20分という近い場所にある。再開発された港頭地区からは、目と鼻の先ほどの近さで、いつも、見慣れた風景の中にあるにも関わらず、島を訪れる地域住民は、決して多くない。その島を訪れたときのことだ。島には、鬼伝説のゆかりのある、長さ四百メートル程の洞窟が、島の頂上付近にある。島だけに、木や草などの緑の自然が豊富で、トンボなども飛び交っている。名も知らぬ昆虫たちが、自らの生を謳歌している。女子小学生の体に、虫が飛んできた。彼女は、虫の存在自体を否定するかのように、その虫を腕から払い落とす。
「虫なんか、大嫌い」
 友だちかどうかはさておき、みんな、みんな、生きているんだ。他の命を無視するものは、他の命の存在を否定するものは、自らも、やがて、誰かに否定されるだろう。俺は、本当に、普通の人間になりたいのだろうか?残された、左足と体を、本当に、見えるようになりたいのだろうか?元の、透明人間の方が、幸せに暮らせるのじゃないだろうか?とにかく、今の俺の歴史の流れから行けば、予定調和として、他人に、喜びを与えるという数々の論功を行った結果、透明人間から、普通の、見える人間に戻るであろうが、その先が、俺の将来が、全く、見えない。不幸なことだ。沈黙の俺に対し、はしゃぐクミちゃん。クミちゃんは、俺が見える、普通の人間に戻ることを喜んでくれている。

あなたの笑顔に魅せられて(4)

あなたの笑顔に魅せられて(4)

透明人間として生まれた主人公が、透明の特性を生かし、私立探偵として客の依頼を解決するに従い、透明だった体を取り戻す話。第四章 ある日の水曜日

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-09-21

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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