墓石の頭を撫でて

 うだるような暑さの金曜日、雀の声に起こされた琴恵は一通のはがきを受け取った。今時珍しく直筆で書かれた琴恵の名には、三十年も昔に捨てた旧い苗字がくっついていた。
 手紙の内容は訃報だった。引き寄せられるように最初に目についた故人の名前は、琴恵の中に眠っていた二十代の感傷の記憶を微かに揺り起こした。長らく思い出しもしなかったその男の顔と、声と、温かさとが眼前に蘇ったかのようだった。

「兄 松葉康介儀 兼ねてより大病により入院しておりましたが
 治療奏功せず 去る六月十三日 病状にわかに悪化し急逝いたしました
 早速お知らせ申し上げるべき処 遅れましたことをお詫び申し上げます
 葬儀は故人の希望により近親者のみにて相済ませました
 生前のご厚誼に心より御礼申し上げます」

 松葉は琴恵が高校を卒業し、地元で働き始めた頃に知り合った男だった。体育会系らしく活力に満ち、成績も優秀であったらしい所謂模範的な学生で、琴恵はその気概に惹かれたのに違いなかった。交際があったのは、松葉が大学を卒業するまでの二、三年の間のことである。
 突然の事だけあって琴恵は思ったより冷静でいられた。還暦を控えたといっていいこの歳になれば、こういった通知に触れることにも慣れていた。
 名前も長く忘れていた男の死ではあったが、一度は心から通じ合えたと信じたまでの男でもあった。今でこそ琴恵は絶望というほどの感情も抱かなかったが、この記憶をぞんざいに扱いたくもなかった。
 生来の几帳面さが手伝って、琴恵は若いころの手帳やアルバムを残さず保管していた。仕事帰りの夫が自室に引きこもった夜、年代ごとに分けられた段ボール箱から、松葉がいた頃の記録を探し出すのはそう難しい仕事ではなかった。
 当時の若者はその子の世代ほど恋愛に奔放ではなかったと琴恵は記憶している。彼女自身が異性に執着しなかったせいかもしれない。とにかく公立の中学校から地元の商業高校へ進んだ琴恵は、そのどちらでも色づいた青春を送ることはなかった。
 そしてそれは松葉とて同じことであった。当時は男子校だった東北の名門校を出、大学で工学を修めていた彼にはそもそも女性との接触の機会がほとんどなかった。
 当時の手帳を見るに、きっかけはどうやら松葉の大学の実習だったようである。拘りもなく琴恵は経理として採用されたところに勤めていたが、そこに松葉を含めた数名が実地体験のような形で三週間ほど出勤していたらしい。同級生だった琴恵と彼らは何かと言葉を交わしていた。
 ただそれだけで短い実習の期間は終わったが、その後偶然に琴恵と松葉が電車で出会ったことがあった。声をかけたのは琴恵の方だった。松葉が彼女の存在に気づいていたかは分からない。聞けば松葉の下宿先は琴恵の実家と電車で一駅の距離だった。その時に互いの家の電話番号と住所を手帳に書き留め合い、時々会うようになった。
 日記らしい日記を書くのが躊躇われていたわりに、このあたりの描写だけは手帳に丁寧に記されていることに未来の琴恵は赤面する。自分の心理については何一つ触れられていないのがせめてもの抵抗のつもりだったのかもしれないが、そのことがむしろ内なる慕情を物語っているようなものである。
 それからの日々のことは克明には書かれていない。琴恵の記憶にも断片的に残るばかりである。唐突に字体の変わった長文が綴られるのは二十二歳の夏、松葉にとっては大学四年生の夏である。
「今日、彼が突然アメリカに行くと言った。アメリカの大学院で学ぶと言った。どうして急に。今はそれしか考えられない。私は止めたくても止められなかったし、ついていくという強さもなかった」
 そう書き出された言葉は怒りと恨みを含みながら、それを頑として認めないような弱気な強さが表れていた。琴恵はそれを書いた日の暑さ、夜の嘘のような静けさをよく覚えていた。
 そして二十二歳の長い苦悩は諦めの言葉とともに締めくくられる。
「私の人生は彼と交差しただけだった。もうこれから重なることはない。でも、交差しただけ幸せでもあるのだろう」
 手帳を読んだ琴恵はすぐにそれを閉じる気になれなかった。胸の奥には温かいものが眠っていたことを思い出した。どこか他人事のように思っていた訃報に、初めて冷たいものを覚え、不意に松葉という男を想って寂しくなった。
 訃報の差出人である顔も知らない妹の住所は、朧気ながら記憶に残る松葉の出身地と合致していた。そこは夫の都合で今の琴恵が暮らしている町から行けない距離ではなかった。

 明くる土曜日、夫に暇を貰い、琴恵は松葉の生まれた町に来ていた。
 若かりし頃に来ていたならば感傷も一入だっただろうに、琴恵はそこに松葉の匂いを感じとることもできず、気づけばバスに運ばれて彼の生家のすぐ近くまで辿り着いていた。
 そもそも三十年も連絡の途絶えていた学生時代の恋人の連絡先など、一体どうやって調べたのだろうと思っていたが、はがきの差出人であった妹の話を聞いてその疑問もすぐに氷解した。
「お知らせするのが遅くなってすみませんでした。本当はもう手紙もひとしきり出し終わったと思っていたところで、兄の遺品を整理していたんですよ。そうしたら、押し入れの奥の段ボールから懐かしい手帳が出てきて。たくさん名前が出てくるものですから、今の住所をお調べして……」
 懇意から彼女は当時の手帳を琴恵に預けてくれた。

 亡くなって時間が経っていただけに、松葉の墓はもう立っていた。
 どういうわけか遺族も不思議だったそうだが、松葉は終身家庭というものを作らなかった。琴恵の世代ではそれは難しいことだったろうと思えて仕方ない。特に田舎町だから尚更ではないだろうか。機会に恵まれなかったか、本人にその意思が無かったのかは遂に暗闇のままである。
 そのせいなのか、松葉の墓は墓地の外れに一つ佇んでいた。子の無い彼の墓は、いつか親族らにも忘れられて朽ちていくのだろう。
 奔放な彼の末路と思えば思えないこともない。しかし松葉は仕事熱心な男だったそうである。出世も早く、会社の未来を担うかと思われた矢先、思わぬ病魔が彼の行く先を閉ざしたのだ。こればかりは遠慮もなく、あらゆる人間を等しく襲う。
 やはり真面目な男だったのだろうと琴恵は思う。その方向性が周囲には理解されず、そのせいでいくつかのものを失ってしまったに過ぎないのだと。
 供えられた花も寂しい松葉の墓は、彼の本来の体格からはかけ離れて小さく見えた。その息遣いや温かさが墓石からすっかり失われてしまっているのは、誰も松葉という人を理解しようとしていなかったせいではないか。
 琴恵は墓の頭に右手を置いた。

 松葉の妹に預けられた二十二歳当時の手帳を、琴恵はここへ来るバスの中で読んでいた。
 彼がアメリカへ行くと宣言した日の前の日付。
「いつまでも先延ばしにするわけにはいかない。もう考え抜いた末に自分の肚は決めたのだ。後悔など今更しようはずもない。琴恵さんに何を言われようとも、僕はただ決まったことを言うだけだ」
 そして、彼女に全てを話した後であろう次のページ。
「僕はひどい裏切りをしてしまったかもしれない。琴恵さんにも琴恵さんの意思があったはずだろう。アメリカ行きが決まったことだったにせよ、他にやり方はなかったのだろうか。僕がやったことは彼女を振り回すということだけではなかったか。僕はどうするべきだったのだろう」
 松葉の手帳にはそれ以降も自責の念が見え隠れしていた。それは当時の琴恵でさえも見抜けなかった松葉の震える独白だった。
 琴恵はとうとう許されることのなかった松葉の思いを慰めたかった。それと同時に、かつてただ一度でも人生を交差させた者に対し、琴恵に幸福を与えた者に対して、深い感謝を伝えたかった。
 昔ならば、背の高い松葉の頭に手を置くことなどできなかっただろう。どれだけこの瞬間を待ち望んだことか。そうして、ここに至るまでには長すぎる時間が経ってしまった。優しさと悲しみの中で琴恵は初めて松葉のために涙を流した。三十年の蓄積を思わせるほどに涙は枯れることを知らなかった。
 そのとき雨が降り出せば、それは琴恵の頬を洗い、松葉に涙を流させただろう。琴恵はそうなることを心の底から祈っていた。そうして祈っている間だけは、二人の人生は重なっていられるのだった。

墓石の頭を撫でて

墓石の頭を撫でて

3,495文字。

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-07-01

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