阪神・淡路大震災、体験記

この体験記は筆者が1995年1月の阪神淡路大地震が発生したときに、たまたま仕事で訪れていた神戸市で遭遇した体験を綴った備忘録です。長年、diskに保存していましたが、今回の大阪北部地震で再びあの恐怖を思い起こし、この度、星空文庫に投稿させてもらいました。優れた文芸作品が投稿されるこのサイトにはそぐわない拙文ですが、ご笑覧いただければ幸いです。

大地震_破壊された街

「ドーン! ドドーン!!」
 突き上げるような大地の揺れに思わず身を起こした。
目覚めた瞬間、私は横で寝ているS氏の上に覆い被さっていた。一瞬、我が家で寝ていると錯覚して、普段横で寝ている我が子を庇ったつもりなのだろう。

「地震・・・? とてつもない大地震や!」
 恐怖でこわばった半身を起こしたまま、身動きできずに天井を見つめる。大きく揺れながら今にも落ちてきそうである。外からは「ゴォーゴォーゴォー」と、不気味な音が聞こえてくる。私の脳裏に妻や子供の顔が浮かんだ。

「もしかしたら、もう会われへんかも・・・」
 一九九五年一月一七日、午前五時四七分、神戸の街があの「阪神、淡路大震災」をもたらした大地震に襲われたのである。

 長い恐怖の時間が過ぎて、ふと我に返った私たちは、お互いに考えていたことは同じであった。S氏はすぐに携帯電話で京都の家族のもとに連絡を取り、無事を確認してから、私に電話を渡してくれた。
 当時、未だ携帯電話を持っていなかった私も、大阪の家族の無事をその場で確認することが出来たのである。その後、すぐに電話が不通になった事は言うまでもない。
 窓際のカウンターに置いてあったテレビが私の布団の足元に落ちている。外の様子は?とカーテンを開けると、地震の揺れで開いたのだろうか、閉めていたはずの窓が開いている。夜明け前の空はまだ暗く、灯りの消えた街の黒い影がぼんやりと見えるだけである。

 私と仕事仲間のS氏は建築現場の内装工事で神戸市須磨区へ来ていた。私は大阪府N市、S氏は京都府のY市に住んでいるが、現場までの距離が遠いので、数日間の予定で現場近くに宿を取り、前日に神戸入りしたばかりであった。

「大丈夫ですか!ご無事ですか!」
宿舎の女性職員が私たちの無事を確認に来てくれた。その顔は驚きと恐怖で泣き顔の表情に見えた。部屋から廊下に出ると積み上げられた宴席用の長座卓が崩れ落ちている。一階のロビーに下りると宿泊客はもとより近所の人たちが次々と避難して来ていた。この宿舎は大手通信会社「N〇〇株式会社」の厚生施設である。

「つぶれた家に、おじいちゃんが残されている。助けて!」
泣きながら女性が飛び込んできた。寝間着姿に裸足である。私たちは外に出た。しかし、無残にもその家は潰れている。一軒だけではない。周囲の古い家々は軒並み押し潰れた状態なのである。しかも、都市ガスの臭いが辺りに立ち込めていて、とても手が付けられない。
「何ということや、これは現実やろか?」
私は自分の目を疑った。

「近所の壊れた家の中から声がする。」
宿舎の職員さんから言われて私たちはその家に飛び込んだ。「おーい!」と、大声で呼ぶと足元から確かに返事が有った。潰れた一階からであろう。しかし、どの辺りか見当がつかない。しかも、床は斜めに傾き、家財道具がそこら中に散らばっていて、足の踏み場もないほどである。外に出て、街の人たちにも応援を求めた。そして先ず窓を取り外して、家財道具を外に放り出した。まだ新しい電化製品もあるが、そんな事はどうでもよかった。そして畳をはがして、その下の床板をはがし始めた。道具は何も無く、素手である。

「バリッ! バリッ! バリッ!」
一級建築士のS氏は建築の専門家だけでなくラグビーで鍛えた体を持っている。家の構造に詳しい上に人並み以上の体力もある。頼もしい限りだ。必死で床に穴を空けることに成功した。

 穴の下には七〇代後半と思われる年配の夫婦がいた。一階の部屋で寝ていて地震に襲われたのである。落ちてきた天井と家具との空間におじいさんは命を救われた。しかし、倒れた家具の下敷きになったおばあさんはぐったりしていた。もう息も途絶えているかもしれないが、急いで病院まで運んだ。病院には大勢のけが人でごった返していいる。しかし、早朝の予期せぬ大惨事に医者がいないのである。
「先生がまだ来てはらへん・・・」と、悲壮な顔をして看護婦が対応に追われていた。そうしているうちにも、どんどん患者が運ばれてくる。ロビーはたちまち患者で埋まってしまった。

 いつの間にか日も高くなて来た。私たちは建築現場の様子が気になるので現場のほうに向かった。宿舎から歩いて五、六分ほど北へ向かい、JR線路を越えて北側にある。新築の鉄筋三?四?階建てで有料老人ホームになると聞いている。内装を残して完成は間近である。現場に行ってみると、外形には変化は見られない。内部に入ると積み上げた資材や機材などの倒れたものものがあったが、目につく建物の被害は見当たらなかった。最上階の広いホールに上がり、窓から外を見た。街は無残な姿をしている。至る所から立ち上がる煙と粉塵で空気が白く澱み上空はどんよりしている。すぐ下に見えるJR線路の向こう側には線路沿いのかなり広い空き地がある。そこには大勢の人たちが、車やテント持ち寄って避難して来ていた。

 一通り現場の様子を見回った私たちは、この現場に駐車しておいた車から、積んであった二本の大バールを手にして元の街に戻った。木造瓦葺きの屋根にモルタル作りのベランダを載せた家がその重みで潰れていた。住人が下に残されたらしい。屋根上に置かれていた盆栽とモルタルの瓦礫が山となって、撤去に手間取っている。周りで見ていた少年たちにも声をかけ、私たちも大バールを持って手伝った。そして、瓦礫の下からまた一人、帰らぬ老人の姿が現れた。傍らからすすり泣きが聞こえてくる。

 宿舎の横を通る道路の亀裂から水が噴出している。水道管が破裂しているのだ。その水をバケツに汲んで使った。泥が混じっているので飲めないが、手洗いや、トイレの水に役立った。しかし、何時この水も途切れるか分からない。そうなると、衛生状態もかなり悪くなるに違いない。
 
 私たち二人は周囲の街にも脚を延ばした。この辺りは神戸市街地では西の端、中心部と違って大きな建物の少ない住宅と商店が入り雑じった下町風の街並みである。全壊、半壊の建物が目立つのは古い木造建築である。周囲の街も同じ光景である。火事も起きていた。ガソリンスタンドまで火の手が近づき必死に消火作業をしている。ある店の前に来ると、シャッターを開けたまま店主の離れた隙に、何者かが商品を手に取り立ち去る風に見えた。声を掛けると、逃げるように去っていった。

 月見山駅に向かってしばらく歩くとコンビニエンスストアーがあった。店の前に行列ができている。店の商品を百円均一で提供するというのである。そういえば朝から何も食べていない。私たちもその行列に並んだ。何人かがその行列に割り込もうとして小さなトラブルもあったが、大方の人がモラルよく並んで待っている。我々が店に入れた時にはパンなどは無かったが、少量の菓子を手に入れることが出来た。
 昨夜、宿舎に入る前に寝酒のウイスキーを買った酒店の前を通った。一階が店舗で二階が住居と思われるその店も無残に壊れている。
「昨夜の主人はご無事やろか・・・」
 夕刻が近づいてくる。街は混乱したままで、外部からの救援の手はまだ来ない。
「自衛隊はまだか?…いったい何しとるんや!・・・」
 苛立ちが込み上げてきた。暗闇の中で不安の一夜を過ごした。

大脱出_丹波の山を越え

 二日目の朝が明けた。窓から街の様子を見ても、昨日と変わらない光景がそこにあった。ロビーに下りるが、未だ外部からの救援の手は来ない。私たちの泊まるこの宿舎は、公的に指定された避難場所ではないが、大勢の被災者が身を寄せていた。でも、公的ではないそのためか、此処には食料などの救援物資は届けられて来ない。しかし、トラブルもなく個々の人たちそれぞれが助け会っている。
 幸いここは通信会社の施設である。一般電話が不通の中、一本の電話が通話できた。私たちはそれが外部との唯一の連絡手段として活用できたのである。

 この日、私とS氏は朝から建築現場に行く事にした。数少ない情報によると外部との連絡道路は殆ど遮断されるか規制中と聞いていて、この街を脱出する事は不可能なので、仕事の続きをする事にしたのである。この非常事態に不自然かもしれないが、他に何をするか考えられないのである。幸い現場に異状は無いので、持ち込んである資材の分は作業できる。後から搬入する予定の資材分を残して、私たち二人はこの日、一日中作業を進めたのである。
 そして夕刻、私たちは宿舎に帰り、ようやく届けられた食料を分けてもらって部屋に戻った。

「ここにいてもしよう無いから、脱出しよう」部屋に入ってしばらくしてS氏がおもむろに言った。ラジオなどの情報では、殆どの幹線道路は通行止めか麻痺状態だと聞いている。
「無理せんほうがええんちゃいますか?」
「夜中なら車も減ってるやろから、とにかく行ってみようや!」と、S氏の言葉に従い脱出を試みることになった。

 地図を探った。深夜十二時頃である。海側の国道二号は倒壊した阪神高速と並行しているから無理、山手幹線を走ることにした。
 宿舎の職印さんに訳を告げ私達は山手幹線を東に向かった。しかし、僅か数キロも走ると長田付近で自衛隊の車両が道路を遮断していた。通行できないと言うのである。そこで一旦引き返し、地図を見ながら北の方向に向かった。
 
 神戸市の西北地域、ひよどり台から鈴蘭台を経て六甲山の裏側へ回ろうと車を走らせた。深夜でもあり不慣れな地域を道に迷いながら、ようやく裏六甲の有馬街道に抜けることが出来た。しかし、距離が近くなったわけではない。むしろ遠くなった訳だが、地震の被災地域からは脱出出来たのである。

 有馬街道を北東方面に走り、中国自動車道の西宮北IC付近に来た。勿論、高速道には入れないが、此処から国道一七六号、通称イナロクだ。東方面へは宝塚市へ出て川西、池田,箕面市へと抜けられる。しかしその方面はぎっしり動けない程の大渋滞になっていた。
 私たちは諦めて、北方向の三田市から丹波篠山方面へ向かった。

 三田市から丹波篠山町に向かって深夜のイナロクをノロノロと北上する。しばらく走ると京都府亀岡市に抜ける分帰路がある。(後で調べたら国道三七二号)その方向へハンドルを切った。過半数の車がこの道へ向かっている。
 やがて山あい深いところで渋滞がひどくなってきた。
「寒い!」
 空から白いものが降ってきた。何しろ真冬である。車の燃料メーターは半分を切っている。
「もしも、燃料が切れたら・・・」と、思うとぞっとした。 
 
 ようやく渋滞の先頭地点にたどり着いた。山あいの斜面を登る急カーブでトラックが脱輪して動けなくなっていた。地震の影響で物流のトラックが幹線道路を避けて、このような山道を迂回しているのである。狭い道路の急なカーブを曲がり切れず運転を誤ったのだろう。

 幾つかの峠を越えて亀岡の盆地までたどり着いた頃は朝の五時を回っていた。ここで、国道九号線に合流する。幾分か車も少なくなってきている。それにしても、対向車が一向に無いのが不思議である。

 亀岡市街地に入ると、信号機の向こうで大型トラックが止まっている。その後ろが延々と大渋滞になっていた。多分、先頭トラックの運転手が居眠りをしているのであろう。先ほどの対向車の無い理由がここで解った。出来るなら、引き返して先頭車の運転手の目を覚ましてやりたい気持ちで京都市方面に車を走らせた。
 早朝六時頃、私たちは京都府南部のY市にあるS氏の自宅にたどり着いた。お茶をいただき一息ついてから、その足(車)でS氏が我が家まで送ってくれた。S氏宅から十五キロ程、大阪府N市の我が家に帰り着いたのは、午前7時頃である。
 
「お父ちゃん、お帰り!」
 何事もなかったように妻や子供に迎えられた。
 神戸市須磨区の宿舎を出てから、凡そ七時間の大脱出であった。ちょっと拍子抜けの出迎えではあったが、宿舎の電話で時々連絡を取ってお互いの無事は承知していたので仕方がない。

 我が家に帰ってからの私は、昨日まであの渦中の現場にいたのが夢のような気持になった。今度はあの大惨事の傍観者に変わったのである。テレビなどで救援活動や被害の様子が刻々と伝えられる。日が経つにつれ、犠牲者の数が増えてくる。あの亡くなられた老人の姿を思い出した。あるニュースキャスターが涙ながらに伝える姿に私の心も震えた。そして、あの恐怖の瞬間になすすべもなく、ただ茫然としていた自分の無力さを思い知らされた。

 一か月後、私はS氏と共に再び神戸市須磨区の建築現場に戻った。復興事業で住宅の復旧を急ぐ措置として、老人ホームもその一環であり早急に仕上る必要があるとされ、残りの作業に来たのである。神戸市内への車の侵入には交通規制が掛けられて、一般車両は車の大洪水の中を走らなければならない。通常なら片道三、四時間以上もかかるとされる道程を、私たちは緊急車両帯を通って現場に入れた。そして、あの日と同じ宿舎に宿を取った。そこには沢山の救援食料が届けられていた。職員さんの話では、あの後、此処も緊急避難施設に指定されたそうである。

 私は十五歳から十九歳の青春時代を西宮市と神戸市に住んでいた。山と海に挟まれたエキゾチックでお洒落な港街、神戸が大好きである。だがこの時、私が見た神戸は瓦礫の街と化し、埃に覆われ、かつての姿は見る影も無い。復興は始まったばかりだ。これから数年、いや十年以上かかるかもしれない。
 
「がんばれ神戸!!」
 仕事を終えた私たちは、再び元の美しい港町に生まれ変わった姿を心に描きつつ、神戸の街を後にした。

 終わり

阪神・淡路大震災、体験記

 最後まで読んでいただきありがとうございます。この拙い体験記が少しでも心に残っていただけたなら嬉しく思います。 

尚、今後記憶の修正、追記などがあれば、その都度校正しますのでご了承ください。
最終校正日:2023.01.15 by aiueno

阪神・淡路大震災、体験記

内装工の私は仕事仲間のS氏と共に、お互いの住まう大阪と京都から神戸市須磨区の建設現場に来ていた。初日の作業を終え現場近くの宿舎に泊まり二日目の夜明け前、激しい地震に遭遇する。恐怖の時間から解放された二人が目の当たりにしたのは、激震に打ち砕かれた神戸の街の光景であった。その神戸から自宅に戻るまでの苦難の道程。二昼夜の二人の行動を書き記した体験記である。

  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • アクション
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-07-01

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  1. 大地震_破壊された街
  2. 大脱出_丹波の山を越え