幼年期
まだ戦後と言われた頃の話
夏、カンカン照りの中を遊び歩いては、昼になると祖母宅に戻った。瓶から柄杓で汲んだ水を飲み体の火照りを冷ましつつ、ふと家の奥に目を向けると、外の日差しに慣れた目には、見慣れた梁や神棚がうす暗くひっそりと佇んでいた。
神棚には、大切にされていたラジオが鎮座していた。おそらく、終戦の玉音放送を伝えたであろうその機械は、その家にとって、たった一つの電気製品だった。柱時計が、嫌な音を立てて刻を告げた。
知らぬ間に、いつも時が過ぎていた。まばゆいばかりの夏の光がふっと消え去り、倦怠の気分が濃厚になると、夕暮れの時間が迫ってきた。暑さは体の芯に残っていた。
少年時、私は夕暮れ時が嫌いだった。西の空が赤く染まり、竈や囲炉裏から立ちこめる煙の燻された匂いと子ども達が母親と紡ぎ出すざわめきが、私に哀しみの感情を引き起こした。
裸電球をつけると暗かった室内が急に明るくなり、それを待ちかねていたように、電球の周りに、小さな虫が飛び交った。蚊を追い払うために、囲炉裏に杉や松の葉がくべられると煙が目にしみた。いつも泣き腫らしたような目をした祖母は、すいとんの団子の数が等しくなるように、椀にすくっていた。
寝る前に、鴨居に鈎をかけ蚊帳を吊るのは、男の仕事だった。広げられた蚊帳には、蚊取り線香の匂いと何やらその家の秘密がこもっているようであった。
外便所に行くときは、提灯に火を入れた。土間から、外に出て見上げると、驚くほどの星世界があった。提灯の乏しい灯りがなければ、まさしく真の闇が拡がっていた。
盂蘭盆会も過ぎ、小学校で水遊びの場として指定されていた渓流の水が冷たく感じられるようになってきていた。学校の裏にある神社で遊んでいると、赤い狐の面を被った子どもがいるという噂がたった。
冬の夜には、寝床の足下に、小さな櫓炬燵が据えられた。真っ赤にした炭団を入れ、それに布団を掛けて寝るのは快適だったが、朝目覚めると、枕元が雪でうっすらと白くなっていた。屋根の煙出しから入り込んだ雪が朝まで消えないほどの寒さだった。
夜明け前にふと目覚めると、薄闇の中に囲炉裏を囲んでいる祖母と義理の叔父がいた。柴が爆ぜ火花が飛び中で、二人の息だけが白く見えた。祖母は、自在鉤に吊した鍋に味噌汁の具を入れていた。
私の両手の小指と、時には薬指までもが霜焼けで赤く腫れ上がったが、春になるまで治らなかった。肝油が効くと言われていたが、学校で与えられるのは、購入代金を支払った者だけだった。
正月はもうすぐだった。正月になれば、父母が出稼ぎから帰ってくるのだった。
しかし、その年の正月には、父母の姿はなかった。事情があって帰れなかったのだと叔母が慰めてくれた。私は、藁葺き屋根から垂れ下がった氷柱を手当たり次第に壊し続けた。
幼年期