朝日堂別館

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「そば屋のビール」

「そば屋のビール」
 56年の夏に都心から郊外に越してきて一番困ったのは、昼間からぶらぶらしている人間がまったくいないことだった。人口の大半はサラリーマンで、そういう人は朝早く出ていって夕方に帰ってくる。だから必然的に昼間の町には主婦しかいない。僕は原則として朝夕にしか仕事をしないから、午後はそのへんをぶらぶらしていることになる。なんだかすごく変な気分である。近所の人々はすごく疑り深い目で見るから、自分でも悪いことをしているような気分になってしまう。
 町の多くの人々はどうも僕のことを学生だと思っているようである。このあいだ散歩していたらおばさんに「ねえ、下宿探してんの?」と声をかけられたし、タクシーの運転手には「勉強大変だろう」と訊かれるhし、貸レコード屋では「学生証見せてください」と言われた。
 年中ジーパンと運動靴で暮らしているとはいえ、もう三十三なんだから、いくらなんでも学生はないだろうと思うのだけれど、町の人々にとっては昼間からぶらぶらしている人間はみんな学生に見えてしまうらしい。
 都心ではそんなことは絶対になかった。青山通りを昼間散歩しているとおなじような人々によく出会ったものである。とくにイラストレーターの安西水丸さんには度々出会った。
「安西さん、何してんですか?」
「あっ、いや、なんか、ちょっとね」
 などといった具合である。安西さんという人は本当に暇なのか、それとも実は忙しいのだけれどそれが顔にでないのか、そのへんがまったくわからない人である。
 とにかく都会にはわけのわからない人が多くて、そんな人々が昼間からぶらぶらしている。良いのか悪いのかよくわからないけれど、変なことはまあ楽である。昼飯にそば屋でビールを頼んで変な顔をされないだけでもありがたい。そば屋で飲むビールって本当にうまいんだから。

「食堂車のビール」

「食堂車のビール」
 例えメニューにビーフカツレツがなくても、食堂車というのはなかなかいいものです。なんというか、昔気質の食堂といった雰囲気がいい。食べ始める前と食べ終えたあとで違う場所にいるというのも感じの良いものである。それからカタコト、カタコトという振動もよろしい。
 食堂車には何かしら「かりそめの制度」とでもいうべき独特の空気が漂っている。つまり食堂車における食事は「つめこむ」ためのしょくじでもないし、かといって「味わう」ための食事でもない。我々はその中間あたりに位置するぼんやりとした暫定的な想いをもって食堂車にやってくるのである。そして食事をとりながら、何処かへと確実に運ばれていく。せつないとえば、かなりせつない。
 食堂車のその「かりそめの制度」の中で僕がとくに気に入っているのは、朝からビールが飲めるということである。べつにどこのレストランでだって、朝からビールくらい飲めるのだけれど、ちょっと頼みにくいし、だいたいあまり飲みたいという気にならない。
 その点、食堂車では朝の十時ごろからけっこうみんなビールを飲んでいるから、ついこちらも飲みたくなって注文してしまう。それでまったく違和感がない。
 実は今(といってもこの原稿が活字になるころにはずいぶん前になっているんだけど)、函館から札幌に向う特急の食堂車で、一人でビールを飲みながら遅めの朝食をとっております。ハムエッグとサラダとトーストと、それからビールである。このハムエッグのハムが、またすごく暑い。僕もいろいろ朝食を食べたけど、こんな厚いハムエッグははじめてである。
 隣のおじさんがカレーライスを食べながらビールを飲んでいる。窓の外は白一色で、目がちかちかする。カレーライスというのは他人が食べているとすごくおいしそうに見える。

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  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-09-20

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  1. 「そば屋のビール」
  2. 「食堂車のビール」