花筏(はないかだ)

「花筏」

 遊歩道をのんびり歩きながら頭上を見上げるとつい数日前まではまだ(つぼみ)だった桜が半ば以上ピンク色の花弁を覗かせている。
花冷えと言うのだろうか、頬に当たる風はまだ寒気を(はら)んでいるが道端にもイヌフグリが淡紅色の花を咲かせていた。いつだったかのデートの時、
「わたしの好きな花なんだ─」奈緒美がそう言うと男は突然笑い出し、
「お前、知ってんのか?そいつの名の由来」そう言って可笑(おか)しさに耐えられない風に肩を小刻みに震わせた。
「─何?何がそんなに可笑しいのよ」その態度がひどく不遜(ふそん)に思えて思わず詰問(きつもん)口調でまだ知り合って間もない長身の男の顔を見上げたことを思い返す。
 わざとの造作なのだろう、護岸工事で整えられた狭い川幅に掛けられた目の前の遊具にも思える緩やかなアーチ状の短いコンクリートの橋を渡ると程なく遊歩道は切れ、フェンスに仕切られた国有地らしい左右の雑木林を抜けた先に横たわる国道沿いに大学病院はあった。
医者嫌いが災いし数年来あった自覚症状を市販の鎮痛剤で(しの)いだり我慢したりしてきたのだが昨年末襲った下腹部の激痛には耐え切れず緊急で受診したのだった。
三十も半ばを過ぎた頃から生理が不順になり体調を崩すことが多くなった。出産もせず独り身でいることが早い更年期と子宮付近の病気を招聘(しょうへい)する、などとネットに蔓延している不確かで無責任な情報に迂闊(うかつ)に触れる度に気持ちは沈み萎えてしまう。結婚し子を授かり築かれていく周囲の幸福を羨望の念で傍観し重ねるこの頃は特に胸の奥深くに沁み入る様な耐え難い寂寥(せきりょう)を募らせ折にふれ鏡に映る自身の顔に刻まれた皺がその老いを知らしめている様にも感じるようになってきた。
色白で小造りの童顔のせいもあってか若く見られることが多いが月が明ければ四十の誕生日を迎えてしまう。またやるせない気持ちで蒼天(そうてん)を見遣った時ふと、
「休みを取るからさ、その日は。行きたがってた八景島にでも行くか─」割と筋肉質な腕枕を少しだけずらしながら優しくそう言った低く響きの良い男の声が耳に蘇り、小さく息を吐くと奈緒美はやっと笑みを浮かべた。
不意に賑やかな声が聞こえ眼を上げると前方から可愛らしいお下げを結った幼い女の子が両脇にいる両親の手を繋ぎ大きく揺らしながら愉しげに歩いて来る。間もなく弾かれた様に思わず車道に身体を避け親子を眼の端で見送りしばし佇んでいたのはその憧憬の一齣(ひとこま)にも入り込めぬやも知れぬ不安と決して恵まれているとは思えぬ自身の境涯への悲観がまた卑屈な気持ちと共に瞬時に頭を(もた)げたからなのかも知れない。
 『子宮内膜症』と診断されていた。
「─卵管の周囲が癒着すれば卵の捕獲や輸送が損なわれてしまい不妊の原因にもなります。薬物療法も勿論ですがこれから懐妊をご希望されるのでしたら根治のためにも手術することをお勧めします」腹腔鏡検査の後、銀縁の眼鏡の奥の眼を凝らすように丹念に画像を確認しながら医師が淡々と告げた。
「─そんなに深刻な病状なんでしょうか」しばし言葉が出ず思わず上擦(うわず)った声でそう訊くと、
「─大丈夫。今は腹腔鏡での施術も可能ですから。実はかなり罹患(りかん)率の高い病気なんです。病巣だけを摘出して子宮や卵巣を温存する保存療法がありますから。上手に病気と付き合ってゆく覚悟と根気があればお子さんを持つことも十分可能ですし─」医師はそう応えた後漸く眼を向けると(なだ)める様に柔和な笑みを浮かべた。
「大丈夫さ。手術、受けろよ。きっとよい方向に向くからさ─」その晩、茫然と(ふさ)いだ心情を察して誘い出してくれたイタリアンレストランの席で向き合い奈緒美の好きなバジルのトマトソースのパスタを取り分けてくれながら穏やかな口調で男が口を開いた。普段は割とぞんざいな物言いをする男だが実のところまめで細やかな気遣いも見せてくれる。年の瀬に激痛に襲われた時は明け方で、男は丁度夜勤の勤務から戻ったばかりだったが休むことなく長い時間腰を擦ってくれていた。
初めてのデートで男はごく当たり前の様子でモーテルの駐車場に車を乗り入れると、
「抱き合うのが一番だから、な。男と女は。手っ取り早く向き合える」そう言って笑うと半ば唖然(あぜん)と眼を向け言葉を探っている唇に唐突に口づけて来た。強引にも思える行為だったが意外にも自然に受け入れることが出来たのは男が度々口にする『肌が合う関係』だからなのかも知れないと感じてもいる。
「─うん。やっぱり欲しいのよね─赤ちゃん。─一人でもいいから産みたいんだ。家族が欲しいの」細い柄のフォークにくるくるパスタを巻きながら眼を上げると、少しの間の後男は何か口籠(くちごも)ったがそのまま戸惑った風に目線を手元の皿に落とした。男が望んでいるものはそうではないのかも知れない─。そう詮索しながらも幾度か口にした言葉だ。価値観の掛け違いを意識し上目遣いをあげ顔色を窺う。今まで何人にそうして来たのだろう。挙句(あげく)に口を(つぐ)むのが常だった─。言い(よど)み気持ちを呑みこむ。これ以上を言葉にしてしまえば間近にあるやも知れぬ「幸福」が不意にそっぽを向いてしまう─。
 二十歳を過ぎて間もなくの頃だった。
大学を中退せざるを得なくなった後、やむなく入社した小さな商社で奈緒美は思わぬ恋に落ちた。
残業の帰り、降り出した氷雨をやり過ごそうと入ったカフェに偶然職場の上司がいた。ドアチャイムの音に気づいたのか奥のテーブルに掛けていた上司は眼を上げ銀縁の眼鏡を右の中指で少し押し上げ眼を凝らして奈緒美の姿を確かめるようにした後、柔和な笑みを浮かべて小さく手を上げた。小さく会釈を返し別段躊躇(ためら)うことなく上司の座る席に足が向いたのは自身もどこかに抱いていた人恋しさからだったのだろう。ドアを開けた途端に包み込むように漂ってきた芳醇(ほうじゅん)で深い珈琲の温みのあるホッとする香りにも誘われたように自然に向かいの席に腰を下ろした。
「─雨宿りかい?」コートを脱ぎながらその言葉に頷くと、
「─ごめんよ。ちょこっとだけ、酔い始めてる」そう言ってやにわに大き目のタンブラーを目の前にかざし薄く笑った。営業を統括する立場でいつも気難しい顔をしてデスクに向かい,時折厳しい口調で部下たちを叱責している印象しかなかった上司の内を垣間見たような気がして奈緒美も思わず笑みを返した。
「─ここんとこ残業続きだろう。すまないね、年末も近いから」上司はそう言うとタンブラーを傾けカラン、と音を立てて琥珀色(こはくいろ)の液体を一口(すす)った。
「─ここに来るとね。ほら、─」そう言って流れているBGを見遣るように心地よさ気に宙に眼を泳がせた。
「─お気に入りを聴かせてくれる。カルロス・ジョビン─昔からファンでね。ボサノバが好きなんだ、俺─。このバーボンも気に入っててね。ボサノバに良く似合う─」グラスについた水滴に左の人差し指で触れながらそう言うとふと眼を向けてもう一度笑った。
気障(きざ)かな。だいぶ─」そう言った時初めて眼鏡の奥にある優しい眼差しに気づいた。
店から出た後、そっと抱くように肩に回してきた腕を拒まなかった。二人は仄暗(ほのくら)い路地で向き合うと唇を重ねた。軽い息遣いから匂ってくる酒の香が何故か懐かしく感じた。
二人は人目を忍んで度々デートを重ねるようになった。相手に家庭があることを承知の上での逢瀬はしばしば胸を締めつける様だったが恋心は切ない欲情を伴い抑えようがなくなっていた。間もなく訪れた体調の変化は身篭(みごも)った(きざ)しだった。
「─あのね、もし─もしも、だけど─」そう前置きをして躊躇いながら懐妊の例えを口にすると男は途端に眉間に皺を寄せ眼を手元に落とした。もう一度上げたその眼が決して望んではいない成り行きであることを告げていた。奈緒美は咄嗟(とっさ)に取り繕うように笑みを浮かべると首を振って見せた。悲しいやるせない想いが瞬時に込み上げてきて危うく涙がこぼれ落ちそうになった。「幸せ」が何なのか漠然とまだ見当も及ばなかったが、ただ目の前にある恋を失うことが怖かった。
それから間もなく宿っていた確かな命はその愚かしい畏怖(いふ)を悟ったかの様に奈緒美の胎内から消えた。(おびただ)しい流血と共に消え去ってしまった。思わず触れた血が掌を染めるとその温みが茫然と気を失いそうな喪失感を呼覚まし涙が溢れ出た。狭い浴室の冷たいタイルにへたり込み声を上げて泣いた。しゃくり上げながら天罰が下されたのだと思った。
燃え上がるような初恋は幕を閉じ以来凶兆(きょうちょう)を怖れ「その先」の言葉を躊躇う様になった。
二人は出逢ったカフェであの日と同じに向き合い別れ話をした。切り出したのは奈緒美の方からだった。
せめて尊い命への贖罪(しょくざい)を軽薄な自らに課すべく決意のつもりだった。
男は頼んだバーボンに口をつけなかった。黙って奈緒美の話を聞いた少しの間の後、
「─じゃ、」と呟くといつかと同じに薄く笑みを浮かべ席を立って行った。
残されたタンブラーを口元に寄せると香ばしいような匂いがした。その時不意にこの酒が父親も好んでいたものだということを思い出した。まだ幼い頃、膝に抱かれて嗅いだ憶えのある酒だ。
ふと先刻の男の笑みの意味に考えを巡らせてみるとまた切ない想いが迫り上げ涙が衝き上げてきた。カウンターを見るとサイフォンの横でマスターがじっと眼を伏せている。恋しい人の愛したボサノバの旋律が沁み入る様に胸を満たしてくると今度は泣き顔を伏せるためにグラスを傾けほろ苦い琥珀色の液体を一口啜った。
奈緒美は男にどこか父親の影を見ていたのかも知れない。倒産の憂き目(うきめ)に遭い失意を引きずったまま事故で急逝してしまった優しく家族思いだった父親の面影に(すが)ろうとしていたのかも知れなかった。
それから恋心を抱く相手もやはりほとんどがかなり歳上で何度かは性懲(しょうこ)りもなく不倫の関係を持つこともあった。
『たまたまよね。好きになった相手がたまたま妻子持ちだっただけの話しよ─』古くからの友人はありきたりのようにそう言って笑うが決して恵まれていたとは思えぬ半生を自虐的に捉えた末、「家族」の肖像を(ねた)み故の羨望を強引に手元にたぐり寄せようとした短絡的な行為なのかも知れないと反芻(はんすう)してみたりもした。だが相手に家庭があることを知るのは決まって関係が深くなってからだった。
「─艶っぽくてさ、どこかそそられるんだよな。その唇の形にも」いつだったか寝物語にそんな品のない言葉を囁かれたことがある。男好きのする顔立ちだと言われたりもした。紛れもなく幾人かの男たちはその火遊びの捌け口(はけぐち)に都合よく奈緒美を求めてきた。だがその行為を受け入れながら懸命に救いの手を求め伸ばしている切ない嗚咽(おえつ)に耳を傾けようとする男はいなかった。

「─どうしたんだよ」バスローブを羽織った肢体に薄い毛布にくるまったまま問いかけに顔だけ向けると、
「─俺も良くそんな風にぼんやり考えることあるんだ─もしかしたらお前、─寂しいのか─?」初めてチェックインしたモーテルの部屋で男はシャツを脱ぎかけた手を止めてそんな言葉を掛けてきた
「─さっき、カフェでもずっとぼんやりしてただろ─あのさ、こんなとこに入ったけど俺、その─別に抱きたいだけで誘ったわけじゃねえんだ。─何ていうかその、─すげえ寂しそうでよお前─ほっとけなかった─俺も同じだから、よ。─そうだ。─もう少し、話さねえか─?」言葉を選ぶようにしながら男が言った。不意に心に向けて直に話しかけられている気がしてまじまじと男の眼を見返すと、男はそれが癖なのか盛んに右の耳朶(みみたぶ)()きながら照れくさそうに顔を(うつむ)け煙草を(くわ)えた。
奈緒美は初めて他人に自分の身の上を話し始めた。

 小学校の教師に憧れ果たした大学進学だったがその翌年、折からの不況の(あお)りを受けて父親の事業が破綻(はたん)した。学費の工面もおぼつかなくなり中退を余儀なくされ抵当に入っていた大きな家屋敷が競売に掛けられると心労(しんろう)からかあまり丈夫ではなかった母親は()せることが多くなった。
その年の母の日のことだった。
初めて就いたバイトの給金で何か買ってあげたくて花屋のウィンドウを見ているとカーネーションの小さな鉢植えを見つけた。カスミソウがバランス良くあしらってある。カーネーションの深く赤い花弁に散りばめられているカスミソウの白が可愛らしかった。母の好きな花だった。
『─薔薇はね、この花があるからよけいに引き立つのよ。母さんは大好き。控え目で、小さいけれどそれでもどこかしら凛、としてて』薔薇にあしらわれている純白のその花を愛でるように触れ嬉しげにそう言っていた。いつだったかのクリスマスに大きな薔薇の花束を抱え帰宅した父が実にぎこちない仕草で母に手渡したことがあった。浅黒い父の顔の頬が真っ赤に染まっていたことを憶えている。
『あのね、男の人がね、花束を注文するのは少しだけ勇気がいるものなのよ─』愉しげに花瓶に花を移し活けながら母がそっとまだ幼かった自分にそう耳打ちした。
「─そうね。─母さんに似合う」笑みを浮かべそう呟くと鉢を手にした。
自分で働いたお金で買う初めての贈り物だった。包装につけてもらったリボンがほどけはしないかと手提げ袋の中を気に病みながら浮き足立って帰宅し玄関のドアを開けると珍しく奥の食卓に両親が向き合っていた。だがその空気が重々しいものだと気づくのにさほど時間は掛からなかった。
「─ただいま、お母さん、ほらこれ─」取り成すように明るくそう言い袋から取り出した鉢を差し出そうとしたが直ぐにその手を下に下ろした。向かい合った二人の間には広げた一枚の大きな紙が挟まれていた。印字された『離婚届』と記された濃いエンジ色の文字が真っ直ぐ目に飛び込んできた。おずおずと二人の前に近づいたが咄嗟に言葉が出てこなかった。しばらくの間の後、
「─ごめんね」そう言って上げた母の眼は真っ赤で泣き腫らした後の様だった。見つめ返すとその眼からまた一筋の涙が零れ落ち、
「─仕方ないの、よ」声を詰ま(つま)らせながらもう一度そう言った。父は眉間に皺を寄せじっと書類を見つめていたが少しの間の後小さく咳払いをした。やがて、
「─仕事に行って来る。後は任せるから─誰のせいでもない─」落ち着いた声で低く呟くようにそう言うと立ち上がり書類をスッと母に押し出した。その声と行為が冷淡でまるで他人事みたいに思えた。次の瞬間、得体の知れない怒りが内で弾けると同時に、
「─何よ、お父さんが悪いんじゃないのッ─!」思わずそう荒げた声をぶつけていた。父は一瞬グッと睨みつける様に奈緒美を見、次いで母を一瞥(いちべつ)したがそのまま玄関を出て行った。
その晩父親は運転中の単独事故で還らぬ人となった。難航した職探しの末やっと就いた仕事はタクシーの運転手だった。幸い客は乗せてなかった。見通しの良い殆ど直線の広い道路で縁石に乗り上げ大きな街路樹に激突した。大破したフロント部分から見てかなりのスピードが出ていたらしかった。
(なじ)りの言葉が最後になってしまった─。奈緒美は言葉の持つ取り返しのつかない残酷さを思い知らされあまりにも愚かしい自身の浅はかさを悔いた。
後から聞かされたことだが離婚は父から言い出したのだと云う。
『─お前たちをこのまま不幸にしておくことは出来ない。─俺は必ず立ち直るから、─だから、それまで距離を置いて生活しよう』そう自らにも言い聞かせるように、しかし絞り出すように苦しげに訥々(とつとつ)と言葉にしたらしい。
遺品を整理していた時何冊もの旧いアルバムが見つかった。色褪せ変色した写真の中で笑っているのはその殆どが自分であり母であった。探しても中々父は見つからなかった。いつもフレームを覗いていたのが父だったことに今更ながら気づいた。「幸せ」の瞬間を狙ってはシャッターを切っていた様子を想うと改めて強い後悔が胸の奥深くから迫り上げ、とめどなく涙が溢れ出て来た。
その後間もなくして母親も風邪が元で重い肺炎を患い父の後を追うように他界した。思い当たる身寄りはなく縁者はいたが皆父親の倒産を境に遠のいてしまっていた。奈緒美は独りぼっちになった─。
話しを聴き終わると男はそっと華奢な身体を引き寄せ包み込む様に抱きしめてきた。温かい(たくま)しい腕だった。
『─いい─?辛かったり、─苦しかったら。眼を閉じて、じっと、─かくれんぼ、みたいに─じっと─鬼が、過ぎたら─眼をあけるの─そしたら、─必ず、必ず、ご褒美(ほうび)が─待ってる、から─』今際(いまわ)に懸命に手を握り寂しい笑みを浮かべ息絶え絶えに遺した母の言葉が耳に蘇るとまた耐え切れなくなり奈緒美は男の広い胸に身を預け長い時間咽び泣いた。

 夕陽が窓枠に反射しているのだろう。一様にベージュのカーテンにぽっかり楕円(だえん)の光を映している。
手術は二時間ほど掛かったらしいが全身麻酔を施され目覚めた時に施術は完了していた。二日経ってもまだ下腹部を支配している痛みは鈍く重く、うっかり気を抜くと思わず呻き声を漏らしてしまいそうになる。医師がぎりぎりの判断で子宮と卵巣を温存する処置を選択してくれたことだけが幸いだった。
「─風が気持ちいいから、ちょっとだけ窓開けとこうか」きびきびした動きで看護師がそう言いいながら窓を開け放った。
「─ええ匂い。─梅やわね」気持ちの良い風が入り込みカーテンを揺らすと同時に掠れた関西弁が聞こえてきた。ベッドは四つあるがこの部屋の入院患者は奈緒美ともう一人の老婦人だけだった。
「あら、そうなの?もう桜が咲いてるのに、梅の匂いなんてするかしら─?」看護師がそう言い笑うと、
「春の匂い、や─梅の蕾の匂いが風に乗るんやて」婦人が応えた。
「そうなんだぁ。何だか素敵ね。梅の蕾の風かぁ─」元気の良い声を残して忙しげに看護師が去るとため息をつく音が小さく響いた。
昨夜、仕切られたカーテンの向こう側で婦人は泣いていた。忍ばせていたが確かに泣いていた。
「─まいったなぁ─ほんまに、まいった」すすり上げては時折そう呟いていた。気にはなったが声を掛けることはためらわれた。
痛みを気に病みながら洗面所に立つと間もなく足音が聞こえた。見ると婦人の夫と思しき男が立っていて奈緒美に向けて軽く会釈をするとにこやかに病室に入って来た。
「─まいったわなぁ─ほんまに─」婦人は夫の姿を認めるとまたそう言葉を繰り返した。
「─なんや、またか。まぁた弱音吐いとんのか」夫はベッドの横に立て掛けてあった椅子をガタガタと音を立てて広げるとしんどそうに腰を下ろし、さも可笑しそうに笑った。
「明後日には退院やないか。ちょっとの辛抱や」夫がそう言うと、
「─そうやない。タカシのことや─」婦人はそう応えて今度は深く息を吐いた。
「─そうやな、タカシか─」思い出したように夫が声を落とすと、
「─タカシだけやない、暮れからこっち、ミサキもやろ」婦人の追随する言葉に、
「─うん。けどな、タカシの手術も来月やろ。先生も言うとったやないか。手術は治る見込みがあるさかいやるもんや、と。─それに、考えてみい。こんなけみな癌になってしもたんや。もう、しまいやで、な。悪いことは、もうない。こんでしまいや」夫はそう言うと声を高らかに上げて笑った。

「─ごめんなさいよ。ちょこっとだけ、ええ─?」翌々日の朝、婦人が初めてカーテン越しにそう声を掛けてきた。
「─まだ痛みますか─?」そう(いた)わるように口を開いた婦人は優しい眼差しをしていた。
「あ、─いいえ、だいじょうぶです。ありがとうございます」そう応えると婦人は皺深い顔に笑みを浮かべ小さく頷いた。
「─今日、退院なさるんですよね。おめでとうございます」そう言うと、
「ああ、─筒抜けやもんね、ここは。おおきに」そう応えて(にわ)かに顔を(ほころ)ばせ、
「けど、もう女の部分はみな取られてしもたさかい。ま、ええ歳して、ええかげん遣い道もあるわけないねんけどな。けどな、わたしの性別はどないになんねやろ─」そうつけ加えて今度は声を立ててさも愉快そうに笑った。釣られて奈緒美も笑うと少しの間の後、
「─お子が欲しいんやろ─?」笑顔を崩さず真っ直ぐに眼を見つめて来てそう言った。咄嗟に返答に窮し曖昧に頷くと、
「ごめんな、筒抜けやさかい。あんたが毎日よう来はる優しそうな旦那はんと話しとんのも、しっかり聞こえてしもてん」そう言ってちょっとだけ舌を出してまた笑い、
「─どら、手え出してみ」そう言って(おもむろ)に奈緒美の手を引き寄せるとその掌を広げ小さな目を凝らすようにした後、
「─うん。だいじょうぶや、掌の相にも出とる。きっと授かるて─」きっぱりした口調でそう言い、にこやかに眼を上げた。
「─若い若い。あんた、まだまだ駆け出しの女や。これから、やで。ええか、お天道さんにな頼むんや。頼んで頼んで、頼み切るのやで。ええな─?」婦人が含み聞かせる様にそう言った時同時に家人が迎えに来た。
「─何やお前、まだ病人さんやで。邪魔したら迷惑やで、ごめんな。お嬢さん。─もう手続きは済んだ。早う、行くで─」申し訳なさ気に夫がこちらに気づきごま塩の頭を下げたが、
「ええのや。もう、お友達になったんや。なあ─?」婦人は悪びれることなくそう言い、
「─けど、もう会わんようにしよ、な。こないなとこで。お互いにな─ほな、さいなら」そうつけ加えて小さく頭を下げると腰を上げチョコチョコと病室を出て行った。
 午後から見舞いに来た男はその話しを笑って聞いていたが、聞き終わると急に真顔を戻して暫くの間の後、
「─あの、よ。いつだったか言ってたろお前。─家族が欲しい、って」とぽつり、と口を開いた。
奈緒美が見返すと男は他人には初めて話すことだと前置きしてから言葉を選ぶようにしながら訥々と語り始めた。
物心がついてからの男の記憶は泣いている母親の姿と父親に対しての恐怖心から震えているまだ幼かった自分の姿から始まっているのだと云う。
「─真冬だった。─真っ暗な夜道を闇雲(やみくも)に走ったんだ。親父から逃げるために─繋がれた手が、─まだ若かったはずのお袋の手がガザガザで─ひどく冷え切ってた─それだけは憶えてんだ。─けど、それからどこ行ったんだろう、俺らは─気がついたら─独りぽっちだった─知らない大人たちや、同い歳くらいの奴らに囲まれてて─泣きながら必死に探したんだ、お袋─。けど、どこにもいなかった─」男はそこで言葉を切ると天井を仰ぐ様にして深く息を吐いた。昼間でも点している蛍光灯の灯りにその目元に潤んでいるものが一瞬だけ小さくきらめいて見えた。
「─楽に、楽に生きたもん勝ちだ、って。─大人んなってからずっと─そうやって生きてきた。寂しけりゃ酒でも飲んで騒いで、人恋しけりゃ女ぁ抱きゃいい─実際お前のことも、そんな風にして誘った─けど─初めてお前の話を聞いた時、─言葉が出てこなかった─ああ、いたんだ。こんな近くに━俺以外にも─何て言うか─底ついたみてえな冷え切った、寂しさ抱えた人間がいたんだ、って─」男はそこまで話すと不意に俯いた。じっと項垂(うなだ)れたその肩が何かに耐えるみたいに小刻みに震えていた。暫くの間の後、
「─いてくれて良かった─お前が─無事で、本当に─家族に、─家族んなろう─」男はそう震えた声で詰まり吐き出すようにやっと言った。横たわった奈緒美の眼から一筋の涙が零れると頬を伝い枕を濡らした。
「─俺には、親父の血が流れてる─それが、─怖かった─。だから、応えらんなかった─けど俺は違う。あいつとは違う、絶対に━俺は─お前と、二人から始めて─家族になる─」男はもう一度そう言うと潤んだ眼を上げ、今度は鼻を赤く染めて笑って見せた。

 いつの間にか桜たちは開き切ったその重さに耐え切れなくなった様に見事な花びらを一斉に落とし始めていた。
大きなバッグを持ち少し先を歩く男の後を追いながら奈緒美がその風情に思わず立ち止まって見とれていると、
「─大丈夫か─?」そう言って男が心配そうに振り返った。
「─うん。─ほら見て、綺麗ねえ」宙を見上げたまま奈緒美が応えると、
「─ああ。桜ももうしまいだなぁ─」そう言って男も小さく欠伸をしながら目線をゆっくり上げた。
幾度か通い見慣れた短いアーチの橋を渡りかけた時、何気なく眼下を見下ろした男がふとその足を止めた。
「─綺麗ッ─!」奈緒美も立ち止まると思わず小さく声を上げた。
文字通り桜色の花びらが狭い川面一面にひしめき浮かびその流れにたゆとうていた。
「─すげえなあ」男が感嘆した風に声を上げると、
「─うん。はないかだ、って言うのよ」奈緒美が応えた。
「─はないかだ、かぁ。─あれだなお前、本当に博学だよな、色々」そう言って男が笑った。
「─一応ね。学校の先生目指してたんだから、これでも」奈緒美がそう言うと、
「んだよ、えらそうに。イヌフグリの由来も知らなかったくせによ─」男は少し唇を尖らせてそう言うとまた笑った。
「何よ、あんたこそ歳下のくせに─」頬を膨らませてそう言い掛けた時突然、吹き抜けた強い風に思わず肩をすぼめるようにすると、
「─ほらよ」男が自分のジャケットを脱いで肩からそっと掛けてくれた。途端にふわっと男の温みが自分を包むように伝わってくると、
「─優しいね─」ありがとう、そう言いかけた声が思わず上擦った。
「バカ、言え─」照れたのか男は少しだけつっかえてそう応えると一頻(ひとしき)り耳朶を掻いた後ジャケットのポケットから煙草の箱を取り出し一本を咥えた。だがライターで火をつけかけ一瞬躊躇うと、そのまま川面に放り投げた。
「─そうだ、もう止めるわ煙草も。その─お前の身体にも、良くないもんな」そう言って奈緒美を見てもう一度笑った。
煙草はゆるやかに放物線を描いて見事な花筏に落ちたが微かな波紋を残すこともなく、花びらたちは一瞬たりとも乱れずにその流れを下って行った。 


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花筏(はないかだ)

花筏(はないかだ)

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-06-27

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