カムパネルラになりたい

「カムパネルラになりたい。」
着替えもせずにスーツのタイトスカートを履いたまま、薄暗い玄関に座り込んだ彼女か呟いた。
冷たい、灰色とベージュの混ざったような色をした三和土には黒いパンプスが不揃いに脱ぎ捨てられたまま散っている。いつもなら皺になる、と気にするくせに放り出された上着と一緒に落ちたバッグからは履歴書が零れていた。
玄関の電気をつけて、僕は彼女のもとへ行く。黙ったままストッキングごしに彼女の血が滲んだ絆創膏だらけの足を見つめる僕に、彼女はもう一度か細い声で呟いた。カムパネルラになりたい、と。
カムパネルラになりたい、は疲れ切って満身創痍になったときの彼女の口癖だ。小さい頃に読んだその本がまだ彼女の部屋の本棚にあることを僕は知っている。
初めて一緒に読んだ時、小さかった彼女はぼろぼろと泣いていた。青と銀の夜の中銀河鉄道にのって天の川で旅をした、友達を助けに川へ飛び込んで亡くなった優しい少年を偲んで。
「そこは固いでしょ、せめてソファーに座りなよ。」
僕の言葉に彼女は黙ったまま頷いた。
彼女のその口癖は優しさと矜恃の表れだ、と僕は思う。優しい彼女はどんなに疲れてもぼろぼろにされても、死にたい、なんて言えない。言われた人のことを思って。
大人しく僕の言うことを聞いてソファーに座った彼女は体育座りをした膝に顔うずめた。
「荷物も一緒に持って行ってあげて。」
落とされていた重いバッグと上着を彼女の横に置く。彼女は顔をあげ、うん、と掠れた声で呟く。渇ききった彼女の目は何も落とせない。
「カムパネルラは、幸せだよね。」
しばらくして彼女が小さく言った。
「友達の身代わりになれて、親友に想ってもらえて。あれが、ほんとうの幸いなんだと思うの。」
きっと、天の川は綺麗で涼やかで静謐なんだ、と彼女は言葉を紡いだ。
静かな部屋でポンプが動いている水槽の、水の音が響く。
僕は彼女の小さな頭を撫でる。
「でも、カムパネルラは最後まで鉄道に乗っていることができなかったよ。」
僕は言った。
「最後まで、乗らなきゃ。ほんとうの幸いを探さなきゃ。」
「カムパネルラはほんとうの幸いじゃないの?」
僕は頷く。
「見つけられるよ、僕が一緒に探してあげるから。」
泣きそうな、でも渇ききった表情をしていた彼女ににっこりと笑ってみせる。
探すよりも先に、と言って僕は両手を上げて持っているものを見せる。消毒液と絆創膏。
「沁みそうだなあ。」
今日、初めて彼女の口元が綻んだ。

2014年 09月27日 23時34分(作成)

カムパネルラになりたい

カムパネルラになりたい

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-06-26

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