カアミン


 その歌。
 その歌は。
 一体どこで聞いたやら。
 
  〽母さん、母さん、どこへ行た。
   紅い金魚と遊びませう。
  〽母さん、歸らぬ、寂しいな。
   金魚を一匹突き殺す。

 昔、親戚の家に金魚を見たことがある。その家の従弟が縁日で掬ったものだという。あたらしいおもちゃのつもりだろう。波打った金魚鉢の表面を、幼い従弟の不清潔な手が撫でこする。

  〽まだまだ、歸らぬ、くやしいな。
   金魚を二匹締め殺す。

 歌をふと思うにつけ、澱んだ表象が頭をめぐる。赤い……水中にひらひら漂う……女の子のする兵児帯のような、薄い絞りの布地に見える。空想の金魚の尾だ。その金魚を見たのは、昔といっても二年前とか、そんなもので、絵の具のたっぷりついた筆を真水に浸したとき、あんなふうにふわふわした煙が透明な中に漂ってくるのを僕は知っていた。
「おまえ、自分が買ってもらえないからって、盗るなよ。いたずらしたら、おまえなんか打ってやるんだからな」
 従弟は幼稚な頭で僕に言う。そんな真似を誰がするかと思う……莫迦め、言ってろ、と、澱みの中で思いながら……金魚が尾を引き、赤い帯が糸を引き。血でも垂らせば紛れてしまいそうな水飴細工の金魚は、窓から離れた棚の上で、陽光ではなく蛍光灯に光を求める。その水底、砂ではない、いやな汚れが沈殿しつつあったが、従弟は気付いていない様子であった。

  〽なぜなぜ、歸らぬ、ひもじいな。
   金魚を三匹捻ぢ殺す。

 そう経たず金魚は死んだはずだ。世話に飽きられたのだろう。朝になって、白い腹が水面に光っているその様子…………別段の吐き気などは覚えず、ただ気の毒にはなるが、僕はうつろな金魚の光る腹を見下ろす。お前も、金魚なんかに生まれなければよかったものを。
 僕もいずれそうなるんだろうかと、薄暗い憂慮をした。

 僕がこの家の子じゃないと教えられたのは、小学校に上がってすぐのことだった。母は、先に知らせておいたほうが良いと思ったんだろう。僕もそう、必要以上の驚きをしはしなかった。そんなことがあっても、僕には母からは――少なくとも愛されている自覚があったからであるし、それは間違ってはいない。
 母は僕を拾い上げるとき、親戚中からひどく非難を受けた。母は二十代にして未亡人だった。そのときに折悪しく、臨月にあった母の親友が事故に遭い、運ばれた先の――看護師である母の働く病院で、未熟児の僕を産み落とし、そのまま亡くなった。不運なことに、その女と、同時に死んだらしい父親に当たる男以外に、僕には身寄りも何もないのだった。死に際の女の遺言で、僕は母のもとへやられた。……とは、誰だったかの言伝である。

  〽紅い金魚も死ぬ死ぬ。

 この僕にはまだ神様がいない。
 僕はひとりぼっちをかみしめながら口ずさむ。涙がこぼれる、日は暮れる。

 母が仕事で遅くまで家を空けるとき、僕は叔母の家に行く。底意地の悪い人たちのところ。何故って、母がそうしろと言うから。ご丁寧にも、事前に頼んであるからとか。叔母は母がいるところでは、姉の手前、僕のことをそう悪しざまに言ったりはしないが、僕が敵陣にひとり入っていったときにはそうじゃない。貰われ子という立場を、僕が分かっているだけに、余計な遠慮を強いてくる。母への告げ口がないことも、彼女は察しているに違いない。
 母と違って、紅を差さなきゃ綺麗にならない叔母の唇が哀れに見えた。でも、行いには報いが付きまとう。年々増していく叔母の醜さはそういうことか。かわいそう。僕にまでそんなことを思われて、気づかないのがかわいそう。
 ……気に入りのカアミン・レッドの口紅を従弟が壊したとき、叔母は監督不届きを理由に僕を詰った。叔母にとっての僕などは、さながら子守りか使用人。僕はヒエラルキーの底辺にある。そして下から奴らを見上げている。きっと軽蔑しているのだと思う。こんなざまは母にはとても見せられない。
「可愛げのない子だよ」
 叔母は汚い口で、そんなことをよく僕に言った。……お前の息子の方がよほどだよ。お前たちに振りまく可愛げなんて持ち合わせがないんだ。もったいないだろう。僕はひたすら黙ってやり過ごすばかりだ。黙っていたら、言葉は過ぎていく、疫病みのように。
けれども、気持ちの澱はいつの間にか、黒々、堆積する。足を取られて溺れる前に、母が戻ることを僕はいつでも期待した。そして母は、いつもその通りにしてくれる。僕が金魚を殺してしまう前に、戻ってきてくれる。空想と現実がある。

  〽涙がこぼれる、日は暮れる。

 僕の眼はいつでも乾いている。嫌なことがあったからって、泣いて駄々する子どもではないのだ。
 棚の上に光る金魚鉢を、まだ金魚が生きている時分に、部屋の隅からじっと眺めた。従弟のいないときだったはずだ。硝子を掻くような甲高い声はなかったと覚えがある。
 狭い鉢の中に、せせこましくも魚がいくつか。五匹くらいだったか忘れたが、それくらい。
 かわいそうな金魚。節操なき子どものおもちゃに成り下がり、なんだか奴隷のようだと思った。籠の中の鳥よりも逃げ場がない。
 金魚の尾っぽは少女の兵児帯。たかが子どものおふざけで、いとけない少女は死んでしまう。叔母が差すようなカアミン色素の口紅を知る前に。それはなんてかわいそうなことだろう。でも、そんなあいつらよりは金魚たちのほうがよっぽど綺麗で清らかだと思う。その水の濁りとは裏腹に。人間なんかに生まれなくて、ひょっとしたら、よかったね。
 舌先で歌を口ずさんでみる。金魚を一匹突き殺す。金魚を二匹締め殺す。金魚を三匹捻ぢ殺す。
 僕がやらずとも、そのうち従弟がやりそうだ。突いて締めて捻じって、手応えはさぞ軽いことだろう。おもちゃはいのちではないのだとばかり。僕は従弟と違うので、そんな野蛮はしない。自負は大事だ。抱いていたら、いずれ現実にそうなるものだから。
 突き、締め、捻じり、後の二匹はどう殺したらいいだろう。そんなことを考えていたとき。何かの用を済ませて戻ってきたらしい従弟が、僕の視線に長いこと曝されている金魚たちに気がついたか、途端に短絡に逆上するのである。何、見てやがる。おれのだぞ。見るなよ。見てんじゃねえよ。羨ましいからって。
 ――――そんなわけあるか、莫迦、くそがき、堪忍してやってるのも知らねえで、いい気なもんだ。くそ、悔しい、悔しい。
 面倒だからと僕が抵抗しないのをいいことに、従弟は僕をとかく殴る。大人にされるよりずいぶんましだが、子どもは加減が分からない。柔らかくとも、つぶてはつぶてだ。
 やってやろうと思えば僕の方がよほど強いのもいけないが(何せ僕はずっと空手をやっている)、しかしそのぶん耐えられる。やり返したら従弟は泣いて、その上叔母に言いつけるだろう。全て僕のせいにしてしまうだろう。乱暴な子どもだと、悪しざまに罵られて、やがて母が詰られるだろう。母の育て方の責任と言われて、それだけは何としたって避けなきゃならない。
 腕と脇腹に、びりびりするような鈍い痛みがじっと広がって、僕はますます蹲った。石のように動かない僕に、しびれを切らしたかそれとも飽きたのか、従弟はそのうち離れていった。……僕も従弟のおもちゃかしら。
 後で服をまくってそのあたりを見たら、薄い痣がぼんやりと広がっていた。ああ悔しい、と思った。澱んだ気持ちがふつふつと、煮えるようにわきかえる。ああ悔しい、何もできないことが悔しいったら……僕にもそんなことくらいある。やっぱり母には見せられないようなざま。僕の心を知るのは僕しかいないし、僕以外にはとうてい教えることなんかできない。この僕にはまだ神様がいない。
 神様。いるならきっと、僕に光をくれるような誰か。今なら母が一番近いけど、母はありがたい、ありがたい人なだけに、こんな醜いところを見せたら、余計な心労をかけてしまうに違いない。

  〽母さん怖いよ、眼が光る。
   ピカピカ、金魚の眼が光る。

 神様を求めるなら、まずいっとう、他人がいい。でも僕には他人とかかわりがない。友達もいない。ああ僕だって、金魚たちと変わらない。ずいぶんかわいそうじゃないか。
 かわいそうに、金魚たちに神様はいない。
 僕の神様も、どこにもいないのかもしれない。それでも、いいけど。

  〽涙がこぼれる、日は暮れる。
   紅い金魚も死ぬ死ぬ。
  〽ピカピカ、金魚の眼が光る。

 僕はかぶりをふる。洗面台の鏡から見る僕の眼の奥に、泳ぐ金魚の後引く兵児帯を見た。
 鮮やかなカアミン・レッド。

 夏が終わらないうちに、縁日の金魚は死んで、空の金魚鉢は棚の上から取り払われた。お葬式とでも言って、雑に庭先に埋められたのに違いない。もう、金魚にかぶせた土がどこのどれだか、あいつらには分からないに違いない。かわいそうに、と、かわいそうな僕は、かわいそうな金魚を憐れんでみる。僕なんかにそんなふうに思われて……金魚にも尊厳があるのなら、それは人間の世界では貶められてばかりなんだろう。
「あなたみたいな可愛げのない子でも、子どもは子どもだし、姉さんの息子だから私には甥っ子なのよ」
 たまに、あけすけな言葉を繕うように叔母は言う。そのときも、もうそこにはない金魚鉢を思い浮かべていた僕の目に、また叔母の口紅の色がきつく映りこんだ。
「だからこうして面倒見てるのだし、充分にしてあげてるんでしょう。藤彦くんは賢い子だから、私の言うこと分かるわね」
 叔母を見上げた僕の眼は、きっとその深みの深みまで、濁り落ちていたに違いない。
 母が僕を拾うことができたのは、そんな金のかかる不義理を犯してもこの家に居られているのは、全てを寛大にも許した家族のおかげ。だから僕は生きているのだし、それだけに恵まれているのだと。言葉にされなくても想像は容易い。僕は賢いから。欲得尽くのお前たちとはわけが違う。そんなことも分からないお前たちは、よほどの愚鈍。僕はしんねりと心に念じる。
 僕は底が透けないように、どうにか言うのだ。「もちろんです」と。本当のことを教える義理はない。そのまま愚鈍でいたらいいのだ。
 そんなことばかり考えていたら、罰が当たりそうだ。でも、早く当たるといいなと、ひそかに願ってみて溜息する。

  〽母さん、母さん、どこへ行た。
   紅い金魚と遊びませう。

 金魚を見るたび、歌が思い返される。
 どこにも繋がらない海。かわいそうな魚たち。閉じ込められたかわいそうな僕。
 誰の邪魔もなく口ずさむ。その日は頭痛がした。僕はいっぱいの大人の手に殺される自分を思い、子どもの殺す金魚の薄皮を考えた。
 いつしか、早く大人になりたくなった。そしたらきっと逃げていけるから。でも、最初から鉢の中の金魚だったら、と何かが頭をよぎって、とても恐ろしい考えなような気がして、僕はそれ以上を思わないようにした。
 そしてふと浮かぶ、食い散らかす紅い唇のイメージ。鮮やかな金魚の色よりも先に浮かんできたのが腹立たしい。
 金魚鉢の水面にかがやく金魚の血。兵児帯が流した淡い色。上を滑っていく幻。僕は早く大人になってしまいたい……そのそういう赤いのは、きっと僕の唇に似合うのだ。
 思い浮かべてみろ金魚たち……まだ現れない僕の神様……凄惨な金魚からこぼれた、幾すじものカアミン・レッドのしたたりを思う。その薄もやのような広がりが、僕をやわらかに搦め取る。息苦しい。でも苦しいわけではない。僕はそこへ溺れてしまうのが正しいんだよ。何せまだ子どもだから。子どもだからね。
 赤く腐り落ちる死骸と愚鈍な唇。そのはざまにある綺麗な僕。永いまどろみが覚めるのを待ち続けて、でも覚めることなどないのかもしれない。
 ほんとうのものごとと静かな絶望とは、閉じた目蓋の上に赤く、ただ赤く、広がっている。僕をいつまでも包んでいて、晴れる気配はいっこうにない。

 僕は重い頭を垂れている。その上に夕日が差すころになると、母が僕を迎えに来る。



――――回視――――

カアミン

カアミン

引用:北原白秋「金魚」より

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-06-23

CC BY-NC-ND
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