茗荷の舌 第5話ー向日葵(ひまわり)
子狸の摩訶不思議なお話。PDF縦書きでお読みください
今日も暑い。暑い夏である。夏は暑いのが当たり前だが、最近は変な夏が多い、昨年は梅雨が明けたといっておきながら、立秋である八月八日を過ぎても雨が止まず、さらに十五日の終戦記念日を過ぎても曇りか雨の日ばかりであった。一方、今年は梅雨の間も雨が降らないし暑かった。
ところが、一昨日のことである。その日は今まで経験したこともない一日となった。朝から雲が低く垂れ下がり、八時きっかりに幾つもの雷が同時に東京タワーを直撃した。雲の中から何本もの稲光が筋をなして落ちてきて、東京タワーが一瞬真っ赤になったのを多くの人が見た。赤く熱せられた東京タワーはすぐに元に戻った。東京タワーの中で朝早くから働いていた人は誰も何も気がつかなかったという。ただ、一羽のオオタカが黒焦げになり落ちた。あまりにも人に近づきすぎた悲劇だ。
その日の東京は雨が降らず光が降った。昼間からいたるところで稲光がして、夜になっても、雷は暴れまわった。隅田川の花火などはとてもおよびのつかない光と音の饗宴である。
僕も東京のはずれの日野市の丘、すなわち、僕の家の脇の階段を登ったところにある集会所の庭から、一日中見物をしていた。見晴らしのいいところで、日野の町から新宿方面、遠くまで見渡せる。ごろごろがらがらピカリびりびり、それは、ヘビーメタルも、シンセサイザーも、レーザーアートもとてもかなうものではなかった。
そんなことで眼が疲れ、次の日に眼医者に行った。眼医者が言うにはしばらくサングラスを掛けろということである。それからサングラスをつけて外に出るようになった。ここ数日間サングラスがはなせそうにもない。
僕は茶色のサングラスを掛けて家の外に出た。玄関から一歩踏み出したとたん、僕の前に向日葵が首をたれた。どうしたんだろう。チョコレート色の大きな花の咲く向日葵である。そいつを避けて外に出ようとしたら、門の前にソフィアローレンそっくりな女性が立っていた。
ソフィアローレンそっくりさんは僕に言った。
「眼鏡が欲しい」
日本語でもイタリア語でもない。夢語か草語か、僕の頭の中では外国の匂いのする言葉が聞こえた。この声をきいて青虫が回りに寄ってきた。こいつは草語にちがいない。青虫を引き寄せるらしい。青臭い匂いのする言葉なのだろう。
僕はびっくりしてソフィアローレンに見とれていると、いきなり彼女の手が僕のサングラスに伸び、ひったくった。
「おーまぶしい」
たった一日サングラスを掛けていただけなのに外されると相当に眼にきつい。周りがみんな白く見える。あわてて眼を手で覆った。
僕は家の中にもどると他のサングラスを探した。ござれ市で遊びに買ったまん丸な茶色のサングラスが引き出しに入れてあるはずだ。座机の引き出しを開けたらあった。ロイド眼鏡というやつで、喜劇俳優が掛けていたようなやつだ。
それを掛けてもう一度外に出ると門の前にいたソフィアローレンはもういなかった。そういえば、向日葵がいない。見あげると、いないのではなく、しなだれていた首がしゃんと立ってお日様のほうを向いていた。しかも、ぼくのサングラスを掛けている。
「雷にやられたんだ、貸しておくれ」
今度は向日葵が口を利いた。
まあ、しょうがないか、こんな陽の真っ只中に突っ立っていなければならないのだ。向日葵だって疲れるのだろう。
僕は「いいよ」と言って門を出た。
これから人に会いに行かなければならない。丸い眼鏡はちょっと恥ずかしいが、会う相手は自称芸術家の友人だからいいだろう。
彼の名は悼心贈(いたみしんぞう)という。実は本名を知らない。京王線の高尾山口駅から歩いて数分のところにアトリエがある。アトリエというより隠居所のような草に埋もれた小さな家である。そこで心贈は木を彫っている。彼の作品はいつも小さなもので、両手で包み込むことができる程度の大きさである。どの作品を見てもふんわりほっとした気持ちに包まれる。
菩薩を彫ったときである。その顔が、どことなく、ふっくらとしていたころのマリリンモンローと似ていた。モンローと菩薩では全く違うと思われるのだが、不思議とこれがあうのである。デパートで開催されていた彫刻展に置かれていた彼の仏像が、隣の作品を映す為に近寄ったテレビのカメラの映像に捕らえられた。隣に置かれていたものは、なんとかいう新進彫刻家の大きなものであったが、カメラがその作品の足元をアップで撮ったとき、彼の菩薩が映像の半分をしめたのである。見ていたマリリンモンローのコレクターたちの目にとまった。それで有名になり、好事家からの注文が間々あるおかげで、それなりに食べていけないことはない。
ただ、奇妙なことには、彼はまったくマリリンモンローに興味がなく、映画も見たこともなければ、名前すら知らなかった。彼は太地喜和子さんのような日本の女優さんが好きなのだ。そのほうが菩薩には似あう。だから、彼は太地さんに似たような女性像をイメージして彫ったのだそうだ。彼は自分が作ろうと思っていたものがその通りにできたためしがなく、作りたいものとは違ったものに仕上がり、また、それが受けている。
最初は鼠を彫った。立ち上がって手を前にたらしているかわいらしいやつである。ところが、それが、どういうわけか猫に似ていた。それで評判になり、何十個も彫った。八十八個めの鼠猫が、牛がおチャンコしているようになった。それなら丑年だし、牛を彫ろうと思っていたら熊になったそうだ。その熊も良く売れた。やがて、熊を彫ったら、少女のようになった。少女を彫っていったら大人の女性になり、阿弥陀如来に行き着いたのだった。それからの変化が今のモンロー菩薩である。
僕はそんなもの欲しいとも思わないが、今でもモンローファンから注文がきている。しかも、菩薩にスカートをはかして欲しいという注文まであるそうである。一度やってみたらスカートが坊さんの袈裟のようになり、それならいいかと、注文者に渡したら、大喜びであったということである。彼が恐れているのは、その注文をさばく前に、また何かに変わってしまうのではないかということらしい。僕にとってはそのほうが面白い。僕はあまりいい友人ではないな。
そんな彼から「来て欲しい」と差し迫った声で電話があった。それでやってきたのだ。玄関の格子戸はいつも開いており、僕はそのまま声をかけずにはいった。作業場であり、寝る場所でもあり、食事をする場所でもある板の間で、彼は両手に自分の作品を包み込んで考えこんでいる。
このような時は、いつものように、作る予定でないものが出来たのだ。
「またかい」
と声をかけると、こっくりとうなずいた。
「どれ」と覗き込むと、モンロー菩薩が赤ん坊になっていた、しかもその顔はどう見ても動物ではない、植物だ。
頭の中で気になっていたものが作品に表れてくるということは、よく聞くことでもあり、作家の内面を作品として表現できるのはそれで良い。ところが、彼の場合には全く想像もしていなかったものが出来てしまうのだ。
彼は言った。
「向日葵になった」
そうだった。赤ん坊の顔は向日葵なのだ。かわいいことはかわいい。向日葵のような顔の人もいないわけでもない。
「かわいいよ、運命の彫刻家だな」
僕がそう言うと彼はうなずいて、
「ベートーベンでも彫るか」というものだから、「駄洒落の彫刻家になっちまうよ」と忠告だけはした。
その後、この向日葵の赤ん坊が彼の名前を世界に知らしめたのであるが、そうなるとは、彼も僕もそのときには考えもしていなかった。
その日は、できた向日葵の赤ん坊を脇において、彼と山椒の茶漬けを食べて家に帰った。
しかし、良く考えると、彼はなぜ僕を呼びつけたのだろうか。向日葵の赤ん坊ができて、一人でいるのが寂しくなったのだろうか。
家の門のところにくると、ミレーヌ・ドモンジョにそっくりな女性が立っていた。彼女は僕を見ると、これまた、「サングラスがほしい」と草語で言ったのだ。ひったくられるといけないと思って、丸いサングラスを手で押さえると、ミレーヌは前のサングラスを僕に差し出した。取り替えてほしいというのだろう。取り替えてやった。
茶色の向日葵はまた首をたれて玄関の前をふさいでいた。持ち上げて玄関に入り、居間にいったとき、玄関先から大きな声が聞こえた。
玄関を少し開けてみると、茶色の向日葵が、ミレーヌが差し出すサングラスにいやいやをしているのだ。
ドモンジョは僕がのぞいているのに気がつくと「これじゃいやだそうで」と言うので、「どんなのがいいのです」、と尋ねると、「青成屋のサングラスが欲しいそうで」と言う。
青成屋など聞いたことはなく、調べてみるからと約束して、とりあえず丸いサングラスを掛けてもらうことにした。茶色の向日葵はまたしゃきっと丸いサングラスを掛けて立った。ふと見ると、ミレーヌ・ドモンジョはいなかった。
運命の彫刻家に電話をかけた。彼はそういうものには意外と詳しい。
なんと彼は知っているどころか、青成屋のサングラスをもっているということだ。
次の日、僕はまた彼の家に行った。
彼は珍しくニコニコしていた。
彼は大学生のとき、青成屋でバイトをしたことがあり、売れ残りをもらったのだそうだ。ふちが白い緑色のガラスのサングラスで、いらないからくれるということだった。
それに、さっき画廊の女店主の金(きん)鱗子(りんこ)さんがきて、向日葵の赤ん坊が甚く気に入り契約をしてくれたそうだ。
なんと、その彫刻のタイトルが「ベートーベンの愛」だそうだ。ベートーベンの愛の結晶がなぜ向日葵になるんだ。なぜだか聞かなかったが、どうせこじつけなんだろう。運命の結果とでも言うに違いない。
夕方、家に戻ると、シルビー・バルタンが門の脇に立っていた。青成屋のサングラスを渡すと、向日葵が首を垂れた。シルビー・バルタンがサングラスを掛け替えてやった。
とたんに向日葵はしゃきっとして、背伸びをすると歩き出し、家の脇の坂をくだって行ってしまった。「ドライブウエイに春がくりゃ、いぇいぇいぇえいえいえ」、向日葵が歌っている。
向日葵のあったところに古い映画の雑誌を持ったシルビー・バルタンがいた。
僕は「お茶をどうぞ」と玄関を開けた。
シルビーに茶色の尾っぽがあった。
まだ下手なんだ。
僕が尾っぽを見たら、シルビーは恥ずかしそうに狸にもどって走って行った。
「茗荷の舌」所収、自費出版33部 2016年 一粒書房
茗荷の舌 第5話ー向日葵(ひまわり)