
茸拾い
「あ」
と声を上げて、大月行きの中央線運転手が急ブレーキをかけた。電車はきしむ音をたてて止まった。幸い朝早い下り電車だったので立っている人はいなかった。もしいたらば怪我人がでていただろう。
運転手が車掌に連絡している。
「飛び込みだ、乗客に通報頼む」
「お客様にお知らせします。人身事故がおこりました。この電車はしばらく停車します。お急ぎのところ申し訳ありません」
アナウンスを聞いた先頭車両の乗客の多くが窓の外をのぞいている。
遺体は三両目の下に入っているようだ。
しばらくすると、到着したパトカーから警察官、消防車から消防士がおりてきて、救急車の救急隊員の人たちとともに作業を始めた。電車の下から遺体をとりだし、落ちている部分がないか、線路の間をくまなく捜す。記録係りはどのようなことでも写真に撮っておこうと目配りをする。
「女だ、若い女、大学生くらいかな」
といった会話が聞こえる。
「ほら有名な大学の印の入ったバックだ。ノートや教科書が入っている」
「すごい大学に入ってもなあ、もったいないなあ」
ノートなどからすでに名前などはわかっているのだろう。
「おい、指がない、指探せ、左の人差し指だ」
「みつかるかなあ」
「あ、あったよ、よかった、簡単に見つかって」
「それでそろったな、もういいですよ」
現場の警察官が車掌に言った。
車内に戻った車掌が、
「現場の処理が終わり次第発車します。もうしばらくお待ちください」とアナウンスをした。それから五分後、電車は動き出した。
昔の中央線ではこんなことはよくあった。今では中央線だけではない、JR私鉄に限らず、鉄道経営にずいぶん支障をきたしている。
ところが今はこんな会話が聞こえてくる。
「また、茸拾いだ」
「ああ、昨日から三つ目だ」
「ご苦労さん」
中央線のとある駅の係員の会話である。
船酔いをして横になっている人のことを、猟師たちは「まぐろ」と呼んだりした。そのようなことからか、鉄道関係者は自殺体のことを「まぐろ」と言う隠語をつかったりする。どちらも横になっている動かない人間をあらわしている。
今は「まぐろ」ではなく「茸」である。鉄道自殺者の処理を「茸を拾う」という。これがまた妙である。「茸」というのは隠語ではないのである。
一月前のことである、中央線に女性が飛び込んだ、いつものように運転手と車掌は連絡をすませ、警察、消防、救急、鉄道の関係者が集まった。
ところが事故電車の下をいくら探しても死体はなかった。運転手はどすんという衝撃を受けている。それだけではない、乗客が女性の飛び込みを目撃している。ところが電車の下に死体がなかったのである。
捜索にあたっていた誰もが血眼になって探した。外に飛ばされた可能性も考え、線路脇の道や、近所の家の塀の内側までも探しまわった。それでもなにも見つからなかった。一人の救急隊員が線路に戻り、もう一度電車の下に潜り込んだ。
その隊員は青い小さな茸を見つけ警察に渡した。警官は何だと思いながらも、青い茸をビニール袋に入れ証拠品とした。それ以外なにもなかった。電車はいつもの倍、四十分ほど停車することになってしまった。
拾った茸は茸の研究所に渡された。外国の図鑑やいくつもの図鑑と照らし合わされたが全く載っていない茸だった。形はマツタケのようで、傘は青い色、柄は白い縞柄だった。新鮮だったこともあり、茸の専門家は線路から生えたものと考えられた。仮の名を線路茸となったのである。
傘の襞を調べたところ、胞子はすでにまかれていてなかった。
茸の形も重要であるが、今では遺伝子の配列を調べ種類の同定が行われる。茸類の細胞は菌糸という細長く延びている多核細胞で、茸はそれが寄り集まったものだ。茸は地中の菌糸で増えていくが、傘のところで胞子をつくり、胞子は飛んで離れたところで新たな菌糸の塊となり茸をつくる。ということは、茸は菌糸でも増えるが、胞子でも増えることができる大変強い生き物である。
線路茸の胞子はなかったので遺伝子を調べることはできなかったが、菌糸の遺伝子
は詳しく調べることができた。
茸の研究所には世界中で調べられた茸の遺伝子のデータがあり、それらと比較したわけだが、線路茸の遺伝子はかなり違うもので、既存の茸のものと似ている部分が半分、残りは茸より単細胞生物であるアメーバーの持つ遺伝子と似ているというものだった。変な茸である。
もう一つ、大事な発見があった。遺伝子解析と同時に、顕微鏡による細胞の様子が調べられていたが、細胞の中にある核など細胞内器官が動いていなかった。化学反応が起きていない。それは細胞が生きた活動をしていないということである。線路茸は新鮮に見えたにもかかわらず、死んでいたのである。
中央線で鉄道自殺のあとに茸がみつかったときから、同じようなことが起きはじめた。JR、私鉄に関わらず、飛び込み自殺の後に死体がみつからず、必ず線路茸がころんと落ちているようになった。この一週間の間に全国で十もの線路茸が拾われた。
線路茸は椎茸のような形だったり、シメジのようだったりさまざまだったが、遺伝子の検査では、最初の中央線の線路茸と同じものだった。
遺体が消滅し死んだ茸が現れる、という現象は誰一人として説明ができない怪奇現象である。警察もどうしたらよいものかわからず、結論がでなかった。
新聞は現代の怪異と書きたて、鉄道飛び込み自殺の捜索を、ある新聞が「茸拾い」と呼んだ。テレビでもその言葉を使うようになり、すべてのメディアで、「茸拾い」をつかったことから、「茸拾い」は世間一般に広まってしまった。
自殺した人が茸に変わったのではないか、と言い出したのは、マニアックな一つの怪奇専門雑誌だった。
怪奇現象研究家が、死というのは天国や地獄、黄泉の国などに行くのではない。植物が死ぬと動物に変身し、動物が死ぬと菌類、茸に変身する。茸は死ぬと植物に変身する。そういった輪廻のなかで、新たに現代の変化がおき、電車に轢かれて死ぬと死体は茸に変わる、という話を書いた。その専門家はテレビでもそのことを言った。
一月ほど経つと怪奇マニアだけではなく一般人もかなりの興味をもったことから、新しい怪奇現象の雑誌が創刊された。その雑誌にはさまざまなジャンルの人が寄稿することで、評判になった。
心理学者は調査の結果、自殺者は茸を好きな人だったと書いた。亡くなくなった人たちが茸を好きだったか嫌いだったかのみ着目した調査だったため、食べることはだれでも好きだったことから、そう言う結果になっただけのことであった。
一人の女子高校生が面白い現象に気がついた。茸の色と飛び込んだ人間の性との関係である。女性が変わった茸は暖色系で、男性の場合には寒色系であった。子供に絵を描かせると先天的に男の子は青っぽい色をつかい、女の子は赤系統を使うという心理学の本を読んで、調べた結果である。この発見は一時世間をさわがせたが、どのような意味を持つのか誰もわからず、それ以上に発展していない
宗教家はなぜ日本だけなのかということを問題視した。日本の土に怨念が宿っていると主張し、厄払いを行ったり、神社に茸を祀ったり、様々なもようしが行われた。茸払いとよばれテレビの番組をにぎわした。
こういった茸騒ぎで、一番こまったことは、鉄道自殺が増えたことである。自分の体が傷物になるのはいやだと、鉄道自殺を思いとどまっていた人が、茸に変われるのならいい、と飛び込み自殺が増えてしまった。踏み切りをどのように監視したらいいのか、ホームから飛び込むのをどのように防いだらいいか。どちらにしろ鉄道会社の人件費が増えてしまった。
茸騒ぎがはじまり二月ほど経ったとき、新たにおかしな現象が見られるようになった。保線員が線路の点検中、アミガサタケやチャワンタケを拾うことがあった。飛び込み自殺があった場所ではなかった。
ある日、外にでたことのない飼い猫が家から飛び出し、小学生の女の子が捕まえようと追いかけたところ、猫は踏切にはいって電車にはねられてしまった。はねられた猫ははじきとばされて、線路脇に落ちた。そのとたんアミガサタケになった。
一部始終を見ていた小学生の女の子は泣きじゃくってその茸を拾った。その子は泣きながら周りに訴えた。
「私の猫ちゃんがあみあみ茸になっちゃった」
このできごとで動物が電車にはねられてしまうと、アミガサタケに変わることがわかった。猫ばかりではなく犬もそうなった。鳥が電車に接触して落ちて死んでしまうことがあったが、茸にはかわらなかった。
こうして、哺乳類が電車に撥ねられると線路茸になることが明らかになった。
鉄道自殺者はさらに増えた。老人の自殺者が増えたのである。それには理由があった。著名な女性の作家が、高齢者は茸になって死ぬのが一番幸せという小説を書いたからであった。そうしたことから一日に何件もの老人の自殺者がでて、警察や救急隊の出動回数は何十倍にも増えた。
政府の対策委員会が立ち上げられていた。中では議論がおこなわれていたが、現実的には心理カウンセラーを増やして自殺を思いとどまらせるしか程度のアイデアしかでなかった。
委員のひとりは、電車にぶつかると死体が消滅するが、石に頭をぶつけて死んでも茸にはならない。ということは鉄と接触することが、茸への変換を促しているのではないかといった。一方、自動車事故では茸にはならない。だから鉄とぶつかったためではなく、他の理由があると、別の老物理学者が言った。
電車は高圧の電気が流れている。それに着目した老物理学者は、人の体が電車にぶつかると、一瞬に電気が流れる衝撃により、異次元の茸の世界の住人、すなわち茸人と人間が入れ替わるということを主張した。自殺をした人間が死んだ時間に、茸人の世界で死んだ茸人といれかわったというものだった。だから茸は死んでいたのだ、と指摘したのである。それを数式で示した。だが誰もその数式の意味はわからなかった。
その考えに一部賛同した哲学者がこういうことを言った。物事が起こるには必ず理由がある。これは我々の感覚が及ばない世界においても真理である。人間の脳のことを知りたい異次元の何者かが、寿命の前に死を選ぶ理由を知るためにその遺体を異次元に持って帰り、代わりに茸を置いていくのだと結論付けた。自分で死ぬということを不思議に思う異世界の住人が、比較検討するのために持っていくという理論だ。茸を置いていくのは、人間がなくなった遺骸を大事に葬る習慣を持つことをあらかじめ知っていたから、遺体に代わるものとして選んだのだろうというものである。日本だけにおきているのは、鉄道自殺の多い国をえらんだと主張した。
それに対し、他の哲学者が大事なことを言った。
あなたがたの主張の一部はいいとしても、犬や猫ががアミガサダケに換わってしまうことを考えていない。犬や猫にアミガサダケは必要なのかと皮肉った。
すると、茸のことをよく知っているSF作家がこんなことを言った。
そりゃあ、異次元の茸の世界では、担子菌の一種が地球における人間で、子のう菌がペットじゃないのだろうか。とすれば、単に鉄道自殺で死んだ人間と、向こうで死んだ担子菌が入れ替わり、電車事故で死んだ犬猫が、子のう菌であるアミガサダケにかわったんだろう。茸の分類をよく知るSF作家だった。哺乳類の人間がペットに哺乳類の犬猫を飼う。菌類の担子菌の茸人は、子のう菌をペットにしているという理論である。
巻き上がった議論はどれも結論を得ることのできないものばかりだった。
半年経った秋の半ば、日本中至るところの線路に茸がたくさん生えてきた。鉄道茸であるが、人や猫がはねられてできたのではない。
この現象から、異次元の茸陣の仕業だと騒いだことは間違いだったと主張する人が現れた。一方、異次元の茸人説の人たちはこう言った。
異次元から現れた茸人は、死んだ人ではなく、人間世界の鉄道自殺者やはねられた猫が茸人の世界に瞬時にうつり、向こうで生きていた茸人にぶつかったため、我々の世界に瞬時にあらわれ、電車にはねられたので、人間の世界で死んでしまった。そのとき茸人のもっていた胞子が飛び散り、日本にばら撒かれたのだ、それがあっという間に線路上に菌糸をはわせ、一斉に茸を作ったのだ。
年間の鉄道自殺者は六百人ほどだという。半年なら三百人だ。犬猫の事故数はわかないが、おなじとして、半年で三百匹、とすると、六百ほどの茸の胞子が巻かれている。一つの茸は数億個の胞子を作るとされている。となると、この半年で、線路茸から六百億もの胞子が飛んだことになる。
新しく生えた線路茸はすべて電車にはねられ、また胞子をまいた。その胞子は日本中にひろがった。この茸の胞子は大気中のいたることろに浮遊していた。
すべての日本人が線路茸の胞子を吸い込んだ。
同じようなことは世界中で起こりはじめた。
世界の鉄道茸の胞子を吸い込んだ人の脳に新たな本能が芽生えた。
人々は自殺ということを考えなくなった。
動物はどのような逆境にあっても生きる強い本能をもっている。ところが未来を考えることができるようになった人間は、自分で死を選ぶことができることを知ってしまった。それを食い止めるために宗教が発達したが、むしろ宗教は戦争をおこし、自分で死ぬことはいけないことだ言っているにもかかわらず、それを抑えることはできなかった。
異次元のなにかはそれを検証し、新たに生きることへの強い本能を人間に植え付けようと試みたのである。
人間は自分自身の我慢力が強くなり、他人への思いやりも強くなり、その結果,死ぬことへの願望はなくなっていった。人間が動物としての本来のあるべき姿に戻ったのである。
鉄道茸は本当に異次元からきたものなのだろうか。
これはSF作家が言うようなことである。だが鉄道茸のおかげで、強くなった本能をもつ人間の結論は、原始人にもどった。
鉄道茸は人間をただすために神が使わした者だ、と鉄道茸を神の死者であるとする、新たな宗教が生まれたのである。
人間はいくら成長しても、宗教はなくなることはない。ただ、宗教が本来の目的からそれていくと、また死の影が濃くなるのである。この新たな宗教がどのように進化していくのか、また歴史のやり直しである。
茸拾い
私家版 第八茸小説集「遊茸空、2020、一粒書房」所収
茸写真:著者: 長野県茅野市白樺湖 2016-9-14