三題噺「ソファ」「火」「魚」
三つのお題「ソファ」「火」「魚」で、一時間で書かれた即興小説です。三編あります。
イソギンチャク(作・千代藻乱馬)
人里離れた山の木々の間、特に整備が施されていない道のなか、私は車の後部座席に座っている。父の運転で別荘に向かうところだ。夏期休暇には毎年行くのが恒例になっているが、私がそこへ行っても一日中本を読むだけで普段と変わらない。今年は行かないと言っても両親の反応はおおよそ検討がつくので敢えて言わなかった。
天候のせいか車中は重苦しく、偶に誰かがあくびをしては独り言を発するが会話にはならない。いつかこの車の中だけ雨が降ってしまいそうだ。そんな車中の天候を転向させたのは母の独り言だ。
「こんなところに人が歩いてるなんて珍しいわね。」
確かに家族以外の人をこの山で見るのは初めてだった。それどころか、街中でもすぐに目に入ってしまうほどみすぼらしい見た目の男だった。髪の毛だけではなく髭もしっかりと白く染まっていた。しかし、強い違和感は彼の服装だった。山登りには相応しくないスーツに革靴だった。
「自殺でもするんじゃない。」
私の言葉はまるで無かったかのように両親は話題を変えて今日の午後の予定を話し始めた。私も本気でこんなこと言ったわけではないのに。最近読んだ小説の主人公の父が会社の倒産の果てに山で焼身自殺するシーンが思い浮かんでしまったばかりのジョークだった。
別荘に着くと私は真っ先に屋根裏部屋に行く。ここが一番のお気に入りだ。久しぶりに訪れたそこは少しカビ臭く感じたがすぐに慣れた。ここでさらに一番のお気に入りと言ったら中央に置かれた革製の一人掛けのソファだ。世の中で一番居心地のよい場所といって良かった。私がいない時はそこにカクレクマノミのぬいぐるみが座っている。私が幼稚園児の頃に家族で行った水族館で泣きじゃくってまで買ってもらったお気に入りだ。今では私の親友でここでの話し相手だ。
「あのね、くまのん。」
くまのんとは、このぬいぐるみの名前である。
「私文芸部に入ったの。去年私がした話をくまのんが面白いって言ってくれたからだよ。」
自然と笑みがこぼれていた。
「それでね、その話を原稿に書いて先輩に見せたら、今度コンクールに応募するから君もやってみるかって言われたんだ。嬉しくてね、すぐに、やりますって応えたんだ。」
私は鞄から原稿を取り出した。
「これが応募する作品なんだ。くまのんに最初に読んで欲しかったの。あとで感想教えてね。」
くまのんが原稿を読んでいる間、私は読みかけの小説を読むことにした。束の間の沈黙もまたしても母の声でかき消された。
「お父さんと少し買い出しに行ってくるから、少しだけお留守番お願いね。」
下の階から声が聞こえてきたので代わりに床を足でドンドンと鳴らし返事をした。
ようやく、小説の続きを読み始めることができた。ページをめくる音が小さい部屋の中で壁に反射しては私の鼓膜を軽く揺らす。心地良いリズムが次第に私の瞼を重くしていく。
「くまのん、少しお昼寝するね。感想はまた後で教えてね。」
ソファに腰を掛けてくまのんをしっかりと抱きしめて瞳を閉じた。
*
目が覚めるとベットの上にいて、母がこちらを見ていた。すぐに状況が理解できなかったが、よくありがちなパターンで病室にいた。腕に点滴の針が刺さっていたのが何よりの証拠だった。
「無事で良かったわ。あの後お父さんと別荘に戻ったら一階が火事になってて。近くで起きた火事が燃え移ったみたいなんだけど、無事で良かったわ。」
母の涙で私の右脚が濡れていた。
「火の煙を吸い込んじゃったから少しだけ入院すればすぐに退院できるからね。あなたが屋根裏部屋が好きで助かったわ。」
右脚が更に濡れてきた。ふと、右脚の方に目をやると横にはくまのんが一緒に寝ていた。
「くまのんも来てたんだ。」
ただただ嬉しかった。
「あなたがずっと抱きしめたままだったから、消防の方が一緒に連れてきてくれたのよ。」
「くまのんも無事で良かった。」
「そうね。」
母は落ち着くとベットの横にある椅子に腰を掛けた。
「そうだ。感想聞かせてよ。」
母は驚いた表情を浮かべたが、意味がわかると気を利かせてか部屋を出て行った。ドアが静かに閉まっていく。
「そうだよね。あそこのシーンは無くしてもっと幸せな展開にした方が良いと思ってたの。」
アンダー・ザ・シー(作・さよならマン)
台所に立ち、沸かしたての湯でコーヒーを淹れ、一口飲んだ。熱い蒸気が腹の底から立ち昇り、息をつかせた。
振り返り、リビングを眺める。我ながら、よく片付いた部屋だと思った。実に落ち着きのある、快適で、趣味が良くて、無駄のない、大人の男にあるべきリビングがそこにあった。誰もが頭に思い浮かべるであろう、成功者の住処そのものだった。一流の企業を統べる、一流の実業家が、一流の販売人を通して購入した一流の職人による一流の家具達がここには並んでいる。絨毯も、テーブルも、スタンドライトも、ベッドも姿見もレコード棚も何もかもだ。言わば、そう——人間の営みの最高峰が、この場に表現されているのだ。他にこの様を表す言葉があるだろうか。
私は目を閉じ、首を横に振った。
飽き飽きだ。そう心から思った。私は人間の営みの最高峰に立ち、その神髄の全てを心行くまで味わってきた。そして気が付いたのは、その底なしの無価値さだった。何一つとして意味がなかった。成功とはまやかしの言葉であり、充実とは大規模な洗脳の言葉に他ならなかった。後に残るのは虚無だけだった。
部屋の中央に置かれた、白いソファに目を遣る。気の利いたデザインなど何もないつまらないソファのようにしか見えないが、これこそ私が追い求め続けた品に違いないだろう。人間の営みを超越する究極のソファだ。この世でただ一つの特注品である。
コーヒーを飲み干し、カップを置いた。ソファに歩み寄り、肘掛けを撫でる。私の胸は静かなる興奮に湧き立っていた。いつの日か忘れてしまった感覚だ。
外の鍵は閉めてきた。邪魔者が入ることも無い。私は迷うことなく、ソファに深く腰かけた。背をもたれ、上部に備えられたヘルメット状の器具を頭に嵌めた。頭部がすっぽりと覆いつくされるサイズだ。
そのまま暗闇を眺めて数秒が経った後……徐々に、全身の感覚が麻痺していくのを感じた。微弱な静電気のような感覚が頭の頂点から足の先まで走ったかと思えば、もはや外界の空気、におい、音という諸々の刺激は完全にシャットアウトされた。いよいよだ。私はまるで子供のように胸を躍らせていた。いよいよ始まる。
暗闇にいくつかのアイコンが表示される。人間、鳥、虫、魚、その他四足歩行の動物……それらの分類が簡易的に表示されている。人間になどなっても意味がない。尤も、このソファを使えば全く赤の他人になることすら体験できるのだが、今はまるでそんな気分ではない。となれば、やはり鳥が良いだろうか。鳥になって、広い空を飛び回る。まさに自由の象徴、古来よりの人類の夢だ。しかしあまりにも月並みではなかろうか?いや、それにしても、魅力的であることには違いないが……。
ㅤいやいや、今すぐでなくとも、じきに全て味わえるのだ。だったら最初は鳥ではないほうが良いだろう。飛行の夢は最後まで取っておこう。すると次は虫だが、まだどうしても、抵抗感が拭えない。これはもっと慣れてから、さらなるマニアックな刺激を欲するときまでやらずに置こう。さて、魚だ。
魚か。悪くない。万物の母は海であったと聞く。最初は魚として、生命を産んだ海の神秘を体感することから始めようではないか。素晴らしい。我ながら詩的なアイディアだ。
魚のアイコンに意識を集中すると、変化はすぐに訪れた。冷たくも気持ちの良い海水に全身が浸され、細かな気泡が視界を覆った。泡が消えると、私の目の前には美しい海底の光景が広がっていた。そこには多種多様な魚たちが生息していて、みな思い思いに辺りを泳いでいた。ある者は群れを成し、またある者は一匹で気ままに海底散策を楽しんでいる。私はそんな一人者のうちの一匹、青い鱗に覆われた気品ある魚に意識を向けてみた。すると直後、私の意識は一瞬で青い魚へと接近し、そのまま融合して、私は青い魚そのものに生まれ変わった。
魚眼を通して見る海も美しい。視界の中心が大きく見え、外側は縮小されたように映るのだ。人間の目で見るそれとは違った奇妙な、されど幻想的な世界。実に素晴らしい。色彩豊かなサンゴ礁に小魚の群れに頭上を往くエイ、波打つ海面から差し込む揺れる光の幕、自然の何もかもが私に喜びを感じさせた。ひやりとした水が優しく鱗を撫でていく感触も最高だ。いつまででもこうしていられる。いつまでも……。
しかし、何故だろう。意識は段々と、深い眠気に包まれていく。前触れもない、あまりにも唐突な眠気に。まだ泳いでいたいのに。まだ見たい世界があるのに。まだだ、眠るな、ここで眠ってはいけない。言い知れぬ焦燥感が私を襲った。これはただの眠気ではない。眠っては駄目だ。眠るな……。
私の抵抗はあまりにも儚かった。眠気に抗うには、海の世界はあまりにも心地が良すぎた。
眠ってはいけない。眠っては————。
*
「これはまた、綺麗に焼けちまったもんだな」
白髪の刑事が現場を見るなり、そう言った。言葉とは裏腹に、どこかに憐れみのこもった声音だった。
火災が起きたのは高級マンションの最上階に位置する一室。すぐに警報機が鳴ったが、鍵が閉められていたために管理者がすぐに入ることは出来ず、木製家具や絨毯などを辿って炎はみるみる内に部屋中に広がってしまった。消防隊が駆け付けた時には部屋はほぼ全焼。コーヒーの湯を沸かした際にガスの栓を締め忘れたのが原因ということだった。
「しかし、妙ですね。ソファに座ったまま大人しく焼かれるなんて。自殺じゃないですか?」
若手刑事が、率直に思ったことを口にした。
「まあ……その線もあるだろうが」
白髪の刑事は、ソファ上部の器具を取り外して言った。比較的きれいに焼け残った顔がそこにあった。
「見ろ。涼しい顔していやがる」
「本当ですね」
若手刑事は、危うく微笑まんばかりの表情で言った。
「なんの悩みもないって顔だ。人生これだけ成功すれば、悔いなんて無いんだろうなあ。こんな人は、生まれ変わったって成功しますよ。多分」
割れた窓の側に立ち、白髪の刑事は煙草を咥えていた。懐から取り出したライターで火を点けようとしたが、刑事は気が変わったのかライターを仕舞い、煙草もポケットに戻した。
「生まれ変わっても、か」
窓から見渡す広大な海を眺めながら、彼は小さな声で呟いた。
魚嫌いの夏美ちゃん(作・七福笹餅)
俺は鯖男。昨日夕飯に食べられるはずだったのに、魚嫌いの夏美ちゃんは俺を食べてくれなかった。俺は虚しい気持ちだった。俺は昨日の朝から今までを思い返した。
あの日の朝、俺は二日酔いだった。鯖子ちゃんに振られて、明け方まで呑んでいたのだ。だから警戒心が足りず、気づけば目の前には逃げ惑う魚たちと大きな網。一生懸命逃げたがその努力も虚しく、ついには漁師に捕まってしまった。
それから俺は生鮮食品としてスーパーに並べられた。たくさんの人が俺を見る。正確には俺ともう二匹、パックに詰められてた奴らだが。そして手に取って言ったセリフがこれだ。
「このサバ、あんまりおいしそうじゃないわね…。あっ、あっちのブリがいいわ!!」
俺は今日はついていないのだと、心の底から思った。もう最悪だ。今日という日で俺の人生は終わる。あっけない人生であった。しかし、どうせ消えてしまうなら役に立って死にたいものだ。人間様の栄養でもいい。猫の餌だっていい。廃棄処分は御免だ。そんなことを考えながら、どれくらい時間が経っただろうか。もう太陽は沈もうとしていた。ついに俺たちサバに救いの手が差し伸べられた。それは値引きシール。要領よく貼っていく魚屋のおっちゃん。その後ろからやってきたのは一人の女だった。俺たちをじっと見つめると、
「今日の晩御飯はこれにしましょう。」
そう言うや否や俺たちを買い物かごへ突っ込むとレジへ向かい、そして無事購入された。ここまではよかったんだ。しかし、人生初のフライパンの上は思っていた以上に熱かった。フライパンという金属の下から、青色の火がやってくる。熱くて死にそうになりながら味噌をかけられ、調味料をかけられた頃には、俺はサバの味噌煮になっていた。
白いお皿の上に盛り付けられた俺は、ついに食べられるのだと初めての体験にドキドキしていた。しかし、いつまでたっても俺に箸があたることはなかった。俺を目の前にして夏美ちゃんは、
「ママ、夏美が魚嫌いなの知ってるのに買ってきたの?信じらんない。それもサバなんて。皮がぎらぎら光って気持ち悪い…。」
と言ったのだった。信じらんないのはこっちだなんて思ったりもしたが、その思いは彼女には届かない。昨日、鯖子ちゃんに振られたことまで思い出されて悲しくなった。
「だめよ、食べなきゃ。今食べなきゃ明日の朝食べるのよ!」
夏美ちゃんのママはそう言うと俺にラップをかけた。そして冷蔵庫に入れられた俺は自分の体が冷えていくのを感じながら眠りについた。
そして今に至る、というわけだ。俺を睨む夏美ちゃんは、今日も俺を食べる気なんてないらしい。にらめっこが続いていると、
「テレビを見ながら食べていいから、食べなさい。」
と夏美ちゃんのママは言った。夏美ちゃんは涙が零れそうになりながらも、俺を乗せた皿をもってソファへ向かった。夏美ちゃんがテレビをつけるとそこではヒーロー番組がやっていた。どうやら夏美ちゃんが好きな番組らしい。俺もおとなしく一緒に観ることにした。
主人公の子はどうやらピーマンが嫌いらしく、食べるのに苦戦していた。すると敵がやってきて、主人公は負けそうになってしまう。主人公はエネルギー切れになってしまったのだ。しかし、エネルギーを補給しようにも目の前にあるのは苦手なピーマン。主人公は泣く泣くピーマンを食べると、みるみるうちに元気になった。そして敵を倒し、苦手も克服したのだ。
俺は感動した。それと同時に夏美ちゃんにもエールを送った。今度は夏美ちゃんにも思いが伝わったらしく、俺に箸を伸ばした。そして一口食べると、
「おいしい…かも…。」
と言ったのだ。かもは余分だが、俺は嬉しかった。少し報われた気がした。もっと生きていたかったけど、その言葉が聞けたなら満足だ。なんだかとても眠くなってきた。終わりが近づいているらしい…。
「いい人生だった。」
完
三題噺「ソファ」「火」「魚」