羽の生えた猫
祖母の通夜を抜け出したとき、既に外はとっぷりと日が暮れていた。久びさに集った親戚一同が、思い出話に花を咲かせたためだ。通夜に退屈しだした哲平は、落ち着きがなくなっていた。親戚達と一緒になって談笑する両親にも不満を覚えて、
「早く帰ろォ」
と駄々をこねた。母はぐずる哲平に笑顔を向けただけで、すぐに向き直った。親戚の手前、母にも体裁があるのだった。
母の意識が自分に向かないことにいら立った哲平は、袖をつかんで、さらにぐずりだした。見かねた父が、
「お前は来年中学生だろう。少しはピシッとできんのかっ。そんなに帰りたけりゃ、一人で帰ってもいいんだぞ」
と、雷を落とした。親戚一同の前で叱られた哲平は、恥ずかしさと腹立たしさで居ても立ってもいられなくなり、衝動的に飛び出していた。
「ばぁばが見たら悲しむぞ」
父の声が後ろのほうで聞こえた。
外がここまで暗いとは思わなかった。冬の日没は、哲平が思うよりも早かった。師走の風が冷たく頬に触れた。哲平は夜道が不安になった。寺から自分の家まで帰るには、昼間でも鬱蒼としている、あの森の中を通らなければならない。哲平は一瞬躊躇したが、やはり足を進めた。ああいう形で飛び出した以上、このまますごすごと寺に引き返せる筈はなかった。
夜の林内は異様な静けさでそこに居座っていた。自分の踏みしめる足音だけが空虚に響いた。
哲平は死んだ祖母のことを思い出していた。哲平に親しみを込めて‘ばぁば’と呼ばれていた祖母は、幼い哲平を連れて、この森によく散歩に来たのだった。
「この森にはな、羽の生えた猫が住んでてなァ。中々人前に姿を見せないんだけども、てっちゃんがお利口さんしてたら、会えるかもしれんなァ」
哲平が今でも覚えているばぁばの言葉だった。ばぁばの語るお話が大好きだった哲平は、ばぁばが散歩に行くというと、すぐに駆けてきて、一緒に付いていった。しかし、二年前にばぁばに喉頭癌が見つかってからは、ばぁばは散歩に行く気力もなくなり、家に伏す時間が多くなった。哲平もそれ以降、次第にばぁばから離れていった。毎晩ばぁばの部屋から、呻くように苦しむ声がするのを、哲平は聞いた。
ふと、我に返った。木々の梢が風に煽られて、擦れた音を立てている。何かに見られているような気がした。あたりは濃い闇に包まれている。哲平は急に恐ろしくなった。一度恐怖を感じてしまうと、身体は平静を保てなくなる。哲平は早足になって歩いた。林内はさらに黒さを増して、哲平の後ろに迫った。
不意に、闇の中から声が聞こえた。呻くような声だった。ばぁばの声に似ていた。哲平は走り出した。もがくように走った。呻き声がまた、聞こえた。さっきよりはっきりと聞こえた。やっぱりばぁばの声だ。近かった。哲平は喘いで、半泣きになって叫んだ。
「ばぁばっ!許してっ!」
すると同時に、ゲャーーーッ‼というつんざくような啼き声が上空からしたかと思うと、哲平の目の前を黒い物体が横切った。浮遊する黒い物体は近くの樹木の幹に張り付くと、哲平を一瞥して、すぐに闇に消え去った。一瞬だった。あたりはまた静寂に包まれた。あの不気味な視線はもう感じなかった。
――ばぁば……。
哲平は森を抜けると、再び振り返った。目の前を横切った黒い物体、その姿は紛れもなく、ばぁばの語った‘羽の生えた猫’だった。
哲平は、今晩の出来事は誰にも言うまいと決めた。ばぁばとぼく、二人の秘密にしたかった。
哲平がそれをムササビだと知ったのは、それから随分後のことだった。
羽の生えた猫