太陽の還る星 1
太陽は一度死んだ。
昔---人がまだ神を慕い、恐れていた頃。
そして人は繰り返す…罪を、過ちを、悲しい涙を。
過去の希望を光の在処、青い故郷の奇跡の軌跡を……。
《プロローグ》
壁が、床が。
それ自体が自然に光を発しているのかと錯覚するほどに白いその部屋で、長い黒髪が揺れる。
ゆっくりと、女がひとり歩いていく。
まだ若い。美しいが、ひどく冷たい印象の女だ。
部屋の奥、女が向かう先には棺が置かれている。これもまた、汚れ一つなく白い。
女の指が、棺に触れた。
「さあ、起きて…」
ゆったりとほほえみ、女がささやく。
「はじめましょう、もう一度」
彼女が頬を寄せた、その棺の中には男が眠っていた。
これは遠い過去から遙か未来へ、終わりなく続き繰り返す、ひとつの神話。
《船》1
広い部屋だ。
様々な形、大きさの机や椅子が適当な配置で散らばっている。
中央あたり、ローテーブルを囲むソファに、こどもがふたり座っていた。
膝に乗せたコンピュータに向かって何かを打ち込んだ少年が、首にかけていたヘッドフォンを耳にあてる。しばらく耳を傾け、軽く首をかしげるとまたカタカタとなにやら打ち込み始める。
もうひとりは少女で、右の肘置きに背を預け、膝を立てて座っている。こちらは広げたノートに時折ペンを走らせる。
コンピュータの稼働音とキーボードを打つ音。ペン先がノートを叩く音。
遠くからはかすかに潮騒が聞こえた。
「…できた」
ヘッドフォンを外し、少年がつぶやく。
少女も顔をあげた。
「聴かせてよ」
「うん」
にこりと笑った少年の長い指が、ひとつキーボードを叩く。
と。
彼の膝のコンピュータから、旋律があふれた。澄んだメロディが部屋を満たす。
耳を澄ましていた少女が、ふいに大きく息を吸い込む。
軽く目を閉じ次の瞬間、彼女の身体からもうひとつ音が生まれた。低めの女声、やわらかくのびやかな声が切ない詞をつむいでいく。
白い白い闇の中 失うものすらなにもなくて
分からなくなるんだ 僕の大切なもの
だから僕を抱きしめて 君の心の音を聞かせて
君の右手の温かさで 僕は僕を思い出せるよ …
「…きれい」
余韻が消えるまで待って、少女---サラは満足げにつぶやいた。
少し不安そうな表情の少年をまっすぐ見つめ、
「アマネらしい、透き通ったようないい曲だよ。すごく綺麗だ」
云うと、アマネは照れたように笑ってうなづいた。
アマネが作った曲に、サラが詞をのせ歌う。物心ついた頃から、それがふたりの日常だ。何度となく繰り返して、おそらくこれから先どちらかが欠けるまで変わらない。
サラとアマネ、ふたりだけの絆の形だ。
「ありがとう、サラ。メノウも気に入るといいんだけど」
「私がなあに?」
アマネの言葉に、サラのものより細く高い声が応えた。
開け放されたままの部屋の入り口、そこに少女がひとり立っている。くるりと大きな瞳の、愛らしく華やかな表情をした彼女は、サラやアマネより少し年上だろうか。
すらりと長い手足をしなやかに動かし、ゆるく波打つ髪の毛と肩にかけたおおぶりのショールをなびかせて歩いてくる。
「メノウだ」
アマネの耳元にサラがささやく。うなづいたアマネの視線は、しかしメノウの姿をとらえることなく、少し遠くの床あたりに落ちたままだ。
アマネは両方の目の視力を失っている。サラの右目、頬まで覆う眼帯の下も、今は眼球も溶けてただぽっかりと穴が開くばかりだ。ふたりとも、リキッドの副作用をその目に受けた。
「メノウ。新しい曲ができたんだ。つい、今さっき」
「本当? どんな曲?」
メノウにうながされ、アマネはもう一度コンピュータのキーを叩く。
先刻(さっき)の音がまた部屋中に広がった。
アマネの曲にサラの歌声が寄り添い共鳴して、どこまでもどこまでも響いていく。
カラ、と。
小さく車輪の回る音がして、もうふたり、部屋に入ってきた。
車椅子に乗ったケンと、それを押すリコだ。
ふたりはうなづき合い静かに進むと、三人から少し離れた場所であふれる音楽に耳を澄ます。
…そっと曲が終わると、ひとつ息をついてメノウが云った。
「いい曲。アンタの詞も合ってるわ、サラ」
「ああ。なあメノウ、この曲使えよ。これでおまえが踊ってくれたら最高だ」
「俺も、好きだな。いい曲だ」
微笑んで云うケンの声に、アマネが驚いて顔をあげる。
「ケン? 来てたの?」
「ああ。ごめん、驚かせたね。いい曲が流れてたから、邪魔しちゃ悪いと思ってこっそり」
「じゃあ、リコも?」
「はい。私も好きですよ、今の曲。どこまでも透る、やわらかい水のようで」
ケンの後ろに立ったリコもふうわり笑う。
落ち着いた雰囲気のこのふたりが、今の《船(シップ)》では一番年長でこどもたちのまとめ役だ。
特にケンはあらゆることについて知識が豊富で判断も的確、どんな時でも頼りになる。その彼の良き相談相手なのが、いつも側にいるリコだ。おっとりした外見に反して、頭の回転も決断もはやい。
「メノウ、オウは一緒じゃないのかい?」
ケンが訊くと、途端メノウの顔が嫌そうに歪んだ。
「知らない。私に訊かないでよ。あんたたちみたいにいつも一緒って訳じゃないんだから」
云い捨てて、ぷいとそっぽを向いてしまう。
代わりにサラが首をかしげ、
「ケン、オウに何か用?」
「大事な話があるんだ。みんなに聞いて欲しい、大切な話」
「メール、送ってみようか?」
云いながらキーボードを叩こうとするアマネに、ケンは首を横に振る。
「俺やアマネならともかく、オウはコンピュータを持ち歩かないだろ」
「じゃあ、探して歩いた方が早いな」
そう云ってサラが立ち上がる。
「ここに連れてくればいいの?」
「ああ、頼むよ。サラ、アマネ」
「おう。アマネ、行こう」
サラが差し出した右手に、戸惑いなくアマネの左手が乗る。
手をつないだふたりが部屋を出るのを見送って、メノウが大きくため息をついた。
「相変わらず仲良しですこと」
「すねるなよ、メノウ」
「別に。あそこまでナチュラルだと、かえって妬けもしないわよ」
それに、とメノウは優しく笑う。
「まあ、今更よね。サラとアマネは特別だし?」
「家族…」
ぽつり、リコがつぶやく。
「家族ってあんな感じなのかなって。サラさんたちを見ていると思うんです」
《船》で暮らす彼らに家族はいない。
親も兄弟も、いるのかどうかすら誰も知らない。
だから憧れてしまう。
友人とも恋人とも違う、不思議な距離で信頼し支え合うサラとアマネに幻想の家族を重ねてしまう…。
「アホらし」
メノウの冷たい声が、リコの横っ面をひっぱたいた。
自分の靴のつま先を見つめて、メノウが云う。
「家族も何もないわ。サラもアマネも私たちと一緒、所詮は他人同士よ。莫迦なこと云うのやめてくれる?」
「メノウ、」
「ねえ、呼んでくるのはオウだけでいいの?」
云いすぎだとたしなめようとしたところを先にそう訊かれ、ケンは仕方なく言葉を飲み込む。
車椅子のハンドルを握るリコの手に、強い力が入っているのを感じる。
メノウも相変わらず視線をあげない。
「…いや、テルとリキもだ。テルにはさっきメールを送っておいたし、リキはもう来ると思うけど」
「アンドロイド君は心配ないとして、テルは危ないんじゃないの? あいつもコンピュータ持ち歩かない派でしょ、探した方がきっと早いわ」
云って腰をあげる。
ショールをひるがえし出口へ向かうメノウの背に、リコの声がすがった。
「メノウ! あの…ごめんなさい、私…」
「手に入らないものに憧れたって苦しいだけだわ。苦しいのは嫌いなの」
「…すみません」
ぴしゃりと云われて、リコがますますうなだれる。
振り向きもせず、メノウが云った。
「家族なんていらない。…あんたたちがいるんだもの、十分よ」
そのまま部屋を出て行ってしまうメノウと入れ違いに、背の高いつり目の少年が姿を見せた。
ケンと目が合うと、少年は苦笑して、
「相変わらず、口の悪い人ですね」
「素直じゃないよね、相変わらず」
「本当、ですね」
リコもふたりと同じような苦笑いで、そろってメノウの消えた出口を見つめた。
本当は誰よりも優しいメノウは、素直になることに臆病だ。ああやって言葉で盾をつくって、その盾でいつも自分まで傷つけてしまう。
「来てくれてありがとう、リキ」
首をぐんと上向けて、ケンはリキのつり目にほほえみかけた。
口元が引き結ばれ、いつもの、どことなく不機嫌そうな表情でリキが答える。
「俺は《船》にプログラムされたアンドロイドですよ。管理する側で…貴方たちとは違う」
「でも、あなたは来てくれます」
リコにふわりと云われ、リキは苦々しげに顔をそらす。
白髪に金の瞳、長身で無愛想な彼の姿は、記憶の中でいつまでも変わらない。
いつのまにか、自分たちはこんなにも彼の見た目に追いついて、あるいはすでに追い越してしまった。それはつまり…。
「…何なんですか、今日は」
ため息混じりにリキが問う。
これは賭けだ。それも、恐ろしく危険な。
けれどきっと、リキの存在は必ず必要になる。
もしこの賭けに負けたなら…そう、まだ自分たちではなかったということなのだろう。
「残念ながら、俺たちに残された時間は少ないからね」
云いながらケンは動かない自分の足をそっとなでる。
本当にもう、時間がない。
「ちょっとした提案を、さ」
「”ちょっとした程度の話なら、僕は帰らせてもらおうかな」
飛び込んできた涼しげな声に、三人は出入り口を振り返る。
そこには、出て行ったときと変わらず手をつないだサラとアマネのほかにもうひとり、長髪の少年が立っていた。すらりと細身で整った顔立ちの彼に、ケンは目を細める。
「そう云わずに、聞くだけ聞いていってくれよ、オウ」
「わざわざ全員集めるからには、それなり以上の話なんだろうな」
云いながら、左目の片眼鏡を指先で押し上げる。
「ああ、もちろん」
このオウをどこまで引き込むことができるか…それがもう一つの賭け。
この企てが成功するか否かの重要なポイントだ。そのための駒がリキであり、そして…
「まったく、どこほっつき歩いてんのよ、あの莫迦」
帰ってきたメノウがぷうっと頬をふくらませてみせる。リキが「おかえりなさい」と声をかけた。
「テル、見つかりませんか?」
「ごめん。この辺りはひととおり見て回ったんだけど」
「探してこようか?」
再びアマネの手を取ろうとするサラに、ケンは首を横に振る。
来ないというのならばきっと、これが彼にとっての必然なのだ。むしろ都合がいいかもしれない。
「一体なんなんだ、ケン。お前の提案っていうのは?」
オウが問う。
集まったのは白髪の仲間たち。
その顔を見渡して、ケンは大きく息を吸い込む。
さあ---始めよう。
「まずは、みんなに質問だ」
「地球の、太陽が作る本物の空の色を覚えているかい?」
砂浜を歩く。
波打ち際で立ち止まり、彼は空を仰ぐ。
「青…」
冷たい風が黒髪を散らす。
「地球の、空の色…これが、青?」
天井に広がるのはホログラムの青空…それがゆっくりと夕焼けに変わっていく。
潮騒が響く。
目を閉じようとした、そのとき。
「テル」
呼ばれて振り向くと、そこには長い髪の女が立っていた。
「チハヤ…」
彼女の名前を呼び返す。
《船》内の環境とそこに暮らす《こどもたち》を衛る管理アンドロイド。チハヤもそのひとりだ。
透けるほど白い肌と真っ黒な髪の毛の、美しいけれどどこか冷たい雰囲気の女…。
ああ、この空みたいだと、テルは思う。
「何をしてるの?」
「空を、見てたんだ」
「空?」
隣にならんで、チハヤも空を見上げる。
作り物の偽物の空。
映し出されたホログラム。
「チハヤ…本物って、どこにあるのかな」
「地球よ」
「ちきゅう、」
ホログラムの夕焼けは次第に星空へ変わっていく。
じっとそれを見つめたまま、チハヤが云う。
「空も海も全部、地球にあるの。ずっと遠く、《船》のメインコントロールシステムを起こさなければ行けない、私たち人間の本当の故郷…」
その青の惑星を、人はかつて捨てて旅立った。
テルたちが暮らすこの《船》は箱船だ。
長い航海の末、不時着したこの惑星は有毒の霧に常時覆われて、人は自分たちの乗ってきた《船》の中でしか生きられない。
「地球の空の色が、見てみたいな」
「青よ」
云って差し出された瓶に、テルは思わず「げぇ」とうめいた。
おかしげにチハヤが笑う。
「青。あなたのリキッドと同じ色」
「…嫌いなんだよなぁ、それ」
「決まりよ。ちゃんと受け取って」
透明な瓶の中で、澄んだ青の液体が揺れる。
テルがそれを受け取ると、次の瞬間にはチハヤは彼に背を向け、黒髪をなびかせて《海》から出て行ってしまう。
夜を迎えた《海》にひとり佇み、テルはまた空を見上げた。
「…違うよ、これは」
つぶやき、瓶のふたを開ける。そしてそのまま《海》に向かって傾けた。
空色の水が、静かに打ち寄せる波にこぼれ溶けていく。
「こんな冷たいものじゃないんだ、きっと…」
空っぽになった瓶を握って、いつまでもいつまでも、彼はひとり空を見つめる。
ねえ。
太陽が作る本物の空の色を覚えているかい---?
太陽の還る星 1