氷の国(作・さよならマン)
お題「校門」で書かれた作品です。
氷の国
冷たいアーチ状の門の上に、粉雪が降り積もっていた。白の闇に覆い尽くされようとする景色の向こうには、黒い校舎が影の如く佇んでいる。氷のような微笑を湛えた女生徒達が品良く会話しながら歩いていく姿は、さながら機械人形のようですらあった。
ㅤその中にあって、一種異彩な空気を纏う、一見して無垢な少女が一人。マフラーとフードで顔を覆い、やや前屈みになって歩く様子は、周囲の子達のような完璧さとはほど遠く、どこか凡庸な印象を与える。
しかし、その眼——鋭利な刃物等という比喩には言い尽くせない、純然たる殺意を奥底に孕んだその眼の違いは、この私でなければ見抜くことは出来ないだろう……地獄の淵に通ずるとも思える彼女の仄暗い瞳孔が、こちらを向いた。
ㅤ身を震わすような刹那の後、彼女はまるで何事も無かったかのように、側にいる友達に顔を合わせ、笑いかけていた。
*
授業の終了を告げる鐘が鳴り響き、生徒たちが談笑しながら、ぞろぞろと校舎から出てきた。
皆は私の存在に気が付くと、まるでスイッチでも切ったようにぴったりと会話を止めて、こちらをじっと睨んだ。疑念の籠った細い目を向けてくる子もいれば、どことなく、怯えるような色を宿している子もいた。中には、同情を込めた、憐れむような顔を見せる子だっていたかもしれない。とはいえ、そんな者はごく少数だった。結局、事態は何も変わりはしないのだ。
私を陥れた主犯格とも言うべきあの音楽教師は、先週の日曜、校舎裏の湖で氷漬けの状態で発見された。足を滑らせて湖に落ち、急激な体温の低下によるショックで失神してしまったか、そのまま溺れて死んでしまったのだろう、というのが警察と学校の「見解」だった。もちろんそんなのは建前で、実際はただの「示し合わせ」に過ぎないのだろう。学内で殺人事件が起きたとなれば大きな話題になるし、学校そのものの体面にも関わる。まあ、この一件が世間的にどう片付くかなんて、私にとってはどうでも良いことだ。あいつが死んだことだって大したニュースじゃない。そんなことにいちいち一喜一憂するよりも、私には今、よほど大切な目標があるのだ。……そしてそれも、すぐ目前まで迫っている。
「サクラ!」
何も知らないような顔をしながら、リサが手を上げて声を掛けてきた。私のことを心配して、あえていつも以上に明るく振舞ってくれているのだろう。リサは入学の初日に話し掛けてくれて、以来この学校の中で、私のただ一人の友人でいてくれている。私をかばって周囲から孤立したことも何度もあったけれど、彼女はいつも気にしない素振りをし続けていた。
ㅤリサが私に対して怒ったのは一回だけだ。私が孤立するリサのことを気の毒に思い、「もうこれ以上、私と仲良くしなくて良い」と言ってしまったことが原因だった。あの時リサは泣きながら、もの凄い剣幕で怒っていた。
「一緒に帰ろう、サクラ」
「ごめん、リサ。今日は少し用事があるから、先に帰ってくれない?」
リサは心底がっかりそうな声で何か不満を言っていたけれど、もはや私の耳には届いていなかった。
私の意識にあるものはただ一人。今、校門の外で物陰からこちらを伺っている、タキシード姿の男に他ならない。私は体中の敵意を込めた目で男を睨み、密かに拳を握った。
————まだ幼い私の体を、飼い犬のペペが力強く引っ張っていた。
長い冬が始まり、道路はさらさらとした雪の膜に白く覆われていた。今にも足を滑らせて転んでしまいそうな私を構いもせずに、ペペは嬉しそうに舌をだらんと出しながら街路樹の下を駆け抜けていった。私は小さな右手で手綱を掴んでいるのに精いっぱいだった。
「……滑るから気を付けろよ。嬢ちゃん」
道行く男の人が、すれ違いざまにそう言った。
「待ってよ!ペペ!」
周りを見る余裕もなく、気が付けば家の前までたどり着いていた。通り過ぎようとしたペペを慌てて引き留めようと、両手で手綱を握りしめて、思い切り踏ん張った。そしたらペペがいきなり動きを止めて戻ってきたので、私は反動で尻もちをついて、ズボンを雪で濡らしてびちょびちょにしてしまった。
「もう、お家はここよ!いつになったら覚えるの?」
私が叫んでも、ペペは何も分かっていない顔でわんと鳴き声を上げるだけだった。私はママの真似をしてため息をつきながら、フードを外して、家のドアを開けた。
「ただいまー。聞いてよ、ペペったら私の言うことなんにも聞いてくれないの……」
言いながら、様子がおかしいことに気が付いた私は、電気をひとつも点けていない家の中を息を潜めて歩いた。ペペも何かを感じたのか、くうんと怯えるような声を出したきり、玄関でうずくまってしまった。
「パパ?ママ?」
自分でも意外なくらい、小さな声が出た。
ㅤ少しだけ空いたリビングのドアからテレビの光が漏れて、食器洗剤のCMの音が流れていた。私はほっとして、リビングに入った。
異様な光景が目に飛び込んだ。絨毯が赤黒い色に染まり、部屋中に立ち込めるむっとするような臭気が鼻をついた。パパとママは、床の上にぐったりと倒れていた。私は何も理解することが出来ずに、ただ呆然とその場に立ち尽くすだけだった。————
間違いない。あの時すれ違った男だ。一体何のつもりか知らないが、あの男は私がここに入学して以来、月に一度あの門の前に立ってこちらを覗き込んでいる。私が一家の生き残りであることを知り、何か探りを入れているのだろうか。
ㅤまあ、もうそんなこともどうでもいい。もうすぐ全て片が付くのだ。この日の為だけに、私は人を殺める技術と冷徹な精神を磨き上げてきたのだ。
「あの人、たまにあそこからこっち見てるよね。変態か何かかな?」
リサが笑いながら言った。ええ、そうかもね、と、私は答えた。
制服のポケットに手を入れる。拳銃の感触を今一度はっきりと確かめて、高ぶる気持ちを落ち着かせた。
*
どうしてあの子供にここまで気を遣う必要があるのか、自分でも理解出来ないでいる。私はあの時、殺しのプロとして至って機械的に、依頼人の要望通りに事を片付けたに過ぎなかったのだ。無論、事前の下調べで子供がいることも分かっていた。分かっていた上で、私はあの夫婦を殺したのだ。
夫は日本人で、ロシアに渡ってから結婚。その後はロシア姓を名乗り、妻と共に立ち上げた企業で大きな成功を収めた。その波に乗って幅広く事業を展開していく中で、モスクワのとある企業と提携を結ぶも、業績悪化により手を切ることになった。事前にこの話を聞きつけた企業のトップは悩んだ挙句、夫婦を殺して経営権を奪い取る計画を講じた。そして私はその為の歯車として、あの夫婦殺しをやってのけたのだ。
しかしあの日、犬を連れて無邪気に走るあの子を見て、私の中に奇妙な同情心が生まれてしまった。それから私は月に一回程度、学校に赴いて彼女の様子を伺うようになっていった。
サクラ・アドロヴァは両親を失った後に叔母に引き取られ、厳しい教育を受けながら育っていった。やがて強くなろうという決意からか、彼女は女性士官養成学校に入学した。成績は常に上位を保っていたが、例の出来事によって閉ざした心はなかなか他人に向けて開かず、同級生からは敬遠されていた。日系ということもあり、初めからあの子に対して罵声を浴びせ掛ける生徒も少なからず存在していた。
しかし、彼女に対するいじめが決定的な形に変わったのは、一人の音楽教師のせいに他ならなかった。醜い年増の女だ。音楽教師は典型的なレイシストであり、混血というだけでサクラの歌の評価を不当に落としたり、女生徒全員の前で歌わせて、わざと厳しい批判をつけて見せしめにしたりしていた。教師のレイシズムはやがて生徒達にまで波及し、サクラは次第に学内における立場を失っていった。
私はいつしか決意していた。音楽教師を殺そう、と。あの教師を取り除くことさえできれば、あの子の地位も少しは回復するのではないか、と。もちろんそんなことは、私の個人的な憤りから来る考えに過ぎないのだ。全くのエゴという物だろう。とは言え、やはりあの子の親を奪ったこの殺しの腕を、少しでもあの子の為になることに使いたかった。歪な思考かもしれないが、とにかく私は、音楽教師を殺害する為のありとあらゆる入念な計画を立て始めていた。なるべく痕跡を残さず、あの子にも私がやったということを悟られず、事故に見せかけるようなやり方でなければならない。計画は順調に練られ、完璧なものに仕上がっていった。もはや実行のタイミングを待つだけだった。
……しかし、予想外の事件が起こった。私が手を下すよりも前に、音楽教師が殺されてしまったのだ。
奇怪な出来事に思いを巡らせていた時、背中に固い物が当てられた。よく馴染んだ感触だった。私は力なく笑って、両手を上げた。
*
「分からないわ。どうしてわざわざ、自分から死にに来るのかしら」
拳銃を男の背に突き付けて、私は言った。男は抵抗一つせずに、何も言わず両手を高く上げていた。
しばらく沈黙が続き、やがて男は口を開いた。「困ったな」
「……どういう意味」
「君を人殺しにはしたくない。だからと言って、私が自殺などしても君の気は晴れないだろう」
銃を持つ手が震えた。このクズ、何を言っているんだ。他人の親を奪っておいて、どうしてそんな口が叩ける。
「ふざけてないで、命乞いでもしなさいよ。どうせ殺すけどね」
「本気だよ。本当に困ってるんだ」
気が付けば、頬に涙が伝っていた。どうしたサクラ、引き金を引け。自分の心に叫んだ。この忌々しい殺人鬼を今すぐ処刑しろ!……
私の手は震えるばかりで、どうしても指に力が入らなかった。
「だから、こうしようと思う」
男はそう呟くと、懐から素早くナイフを取り出して私の制服を切りつけた。私は短く叫び声を上げて、拳銃を取り落とした。
「これで正当防衛だろう。さあ、私を撃ちなさ————」
男の喉元から、鮮血が噴き出した。周りの雪が赤く染め上げられ、男は低い呻き声を出しながらその場に倒れた。背後に立っていたのはリサだった。リサは倒れた男に覆い被さるようにしてナイフを突き立て、その身体を執拗なまでに滅多刺しにした。やがて男が痙攣すらしなくなったことを確認すると、リサはよろりと起き上がって、こちらを見て微笑んだ。
「サクラ……大丈夫?」
リサの瞳孔は大きく開かれていた。私は唖然としながら、小刻みに頷いた。
「良かった。なんだか、変だと思ってたんだ」
返り血を全身に浴びたリサが、明るく笑って言った。私は声も出ずに、その無垢な顔を見上げていた。
「サクラにひどいことする人間は、私が絶対に許さない……全員、氷漬けにしてやるから」
リサの視線は、校門の向こう——雪の中の女生徒たちに向けられていた。
私はその瞳の奥深くに、鈍く光る殺意を見ていた。
氷の国(作・さよならマン)