おらあ寛太だ

 貧乏って、生まれてくる子供にとって、選べません。
でも、生まれた後、貧乏のままで行くのか、挑戦して富を
得ていくのかの選択はできます。

 北海道の漁村の貧しい家に生まれた、責任感が強くて、
心根の優しい、寛太が成長して、伯父・幸夫の援助で
成り上がっていく姿を描いた。

 数十年が立ち、寛太が、彼らの恩に報いるため、
年老いた伯父・幸夫と母・安江のために、適度な都会で
景色の素晴らしい都会・横浜と、温暖な沖縄・那覇に
マンションをかって、ゆっくりした生活を送ってもらった。

 最後は、彼らに南房総の老人ケア・ホームを紹介し住んでもらった。
晩年、幸夫は、理想的な環境で、妹・安江の腕の中で大往生した。
*この小説を読んで、読者がどんな事を思ってくれるか楽しみです。

一話:父の突然の死

 北海道、苫小牧、1968年4月20。北海道の4月は、まだ寒く、氷点下の日も多い。
そんな1968年4月20日、苫小牧漁港から2人乗ったホッキ漁船が出港した。
15分程度で漁場に着き、船尾から浮き球のついたアンカー(錨・いかり)を
海中に投入して、数回、網をあげて、港に戻ろうとしたとき佐藤義之の同僚の
嵐山正一(38歳)が急に胸の痛みを訴えて、うずくまった。少し休ましてくれと、
大の字になった。

 緊急事態を漁協に連絡すると、すぐ戻ってこいと言われ、佐藤義之は、
全速力で港に戻った。戻って、漁協の人が、佐藤義之を数人で船から降ろすと、
既に、息が絶えていた。そのまま、救急病院へ電話をしたが、
脈をとれと言われ、手首の押しても脈がないと言うと、ご臨終ですといわれ、
仕方なく、嵐山の家に電話して、ご自宅へ搬送した。

 憔悴しきった奥さん(嵐山和子)が出てきて、亭主(嵐山正一)の亡骸に
取りすがって、なんで、こんな時に死んじゃうんだよ、わしゃどうしたら
良いんだよと、すがりついて泣き崩れた。なだめるようにして、
とにかく暖かい部屋へ入れてやれと言われると、我に返り、すいませんと言い、
家の中に運び入れた。

 5人の子供達は、眠い目をこすりながら事の重大さを知ってか、信じられない
と言った表情でみな、呆然と立ち尽くしていた。布団に寝かせ、後で、診療所の
先生が来て下さるから、待ってろと漁協の人が言い、奥さんが彼らにご苦労様です
と言った。30分後、車で、診療所の鈴木先生がきて、死亡の確認をとり、
救急車で苫小牧の病院へ連絡した。電話した後、病院へ連れて行き、
詳しいことがわかったら知らせると佐藤先生が言ってくれた。

 救急車が来て、亭主を乗せて、家を後にした。2時間くらいして、
診療所の鈴木先生が、亭主の遺体と共に家に来て、急性心筋梗塞だったと
言い、死亡診断書にハンコを押すように言われ、和子はハンコを押した。
 しかし、亭主の死を悲しんでる暇はなく子供達に朝食を作った。
 その後、電話を入れておいた、和子の実家と亭主の実家から数人の
人達がやってきた。狭い家なので、座布団を出し、応対した。
 和子の実の兄、山田幸夫が心筋梗塞かと言い、長く苦しまずに
逝ったのがせめてもの慰めかなと、静かに言った。

 葬式の手配はしてやるからと言い、電話を貸せと言って、
てきぱきと関係先へ電話した。そして、火葬場の手配、葬式の場所、
時間、人数を確認してくれた。葬式は4月23日(日曜)10時から、
漁協の集会所、参加総数は15名、食事は、漁協のレストランに
頼んでおいた。

 葬儀は、実家の世話になってる王禅寺の住職にお願いしたいと
言った。費用は嵐山の実家と山田家の実家で折半すると言う事で
良いですねと言った。幾らかかるかと40万円前後と言い、
20万円ずつだというと、そんなにねーと、嵐山の実家で言うので
兄の山田幸夫がしかたねーな、俺が立て替えておくと一言、言い、
金ができたら、支払ってくれと言った。嵐山太郎さんが済まねーと言った。
1968年4月23日、みぞれ交じりの日、漁港の集会場で15人で
家族葬として、嵐山正一(享年38才)の葬儀が執り行われた。
大泣きするというよりも、あまりに突然の死に呆然といった感じで、
信じられないと言う声が多かった。葬儀の最後、泣き崩れる、
嵐山正一の妻の和子の代わりに、実の兄、山田幸夫がかわって、
挨拶した。

 みなさん、こんな天気の日に、来ていただきましてありがとう
ございます。亡くなった嵐山正一も、こんなに突然に皆様と
お別れするとは思ってもみなかったと思います。
 ただ、残された5人の子供と家内の和子は、これからの人生、
厳しい日々が続くと思いますので、皆様におかれましては、
何卒、御協力、ご支援いただけますように、亡き嵐山正一の妻、
安江に成り代わりまして、お願い申しあげますと話した。
 話し終えると、帰り際に、嵐山安江と5人の子供達に頑張れよ、
と肩をたたく人が多かった。

二話:寛太の決意

 葬儀を終えて、幸夫が祝儀袋を点検すると漁協から10万円、山田幸夫5万円、
 その他の人達から1万円ずつ13万円、合計28万円で費用が38万円で
 足らない分10万円を嵐山家と山田家から、後日徴収する事にした。
 翌週、幸夫が両家から残金10万円を徴収しに行った。
 全て葬儀が終わった後、山田幸夫は、姉の安江に、これから子供達に
金がかかり大変だろと言い、徴収してきた10万円を渡した。
 すると、安江は、兄さん本当にありがとうと抱き付いて泣いた。
 泣くのも今日までにして明日から子供達のために頑張れと励ました。
 兄さんには20万円も出してもらって、本当にありがとうねと感謝した。
 俺は、1人身で、何とかやってける、でも安江は人の子供をしっかりと
育て上げる義務があるんだから、身体を壊さない様に、うまく、やっていけよ
と肩をたたいた。数日後、安江から、実の兄の幸夫に電話がかかってきた。

 用件は、安江の長男の寛太が中学校を出て働くと言い出して、どうしたら
良いかとの相談だった。その晩、幸夫が安江の家に、夕飯のおかずに、
多くのハムカツとコロッケとメンチカツを買って、やってきた。
 夕飯後、幸夫が、寛太を呼んで、中学卒業して働くんだってと切り出した。
 すると、寛太が俺が働かないと食っていけねんだと言った。それに対して
確かにそうだな、でも、それで良いのかと幸夫が寛太に聞くと仕方ねえべよ
と言った。勉強は嫌いかと聞くと、好きでも嫌いでもねー、もし勉強したく
なったらするから大丈夫だと言った。

 幸夫が、それを聞いて安心したよ、と言い何かあったら、俺に相談しろよ、
悪い様にはしねえからと言うと、わかったと答えた。
 ところで、どこで働くんだと聞くと、漁協で船から、とってきた魚を
おろす手伝いしたり、市場の掃除など、雑用をしていくと言った。
 それを聞いて幸夫は安心した。また、相談事があったら、俺に相談していいぞ
と言うと、寛太は安心した様に、その時は、電話するからと笑いながら言った。
 この話を安江に言うと、でも高校に出してやんねと可愛そうだよと泣いた。
 そこで、大丈夫、寛太には、考えがあって言ってるように思えるから、
好きなようにやらせろと助言した。

 その後、母、安江と一緒に、漁協の下働きを始めた。朝は、元気に、
おはようと挨拶して、漁協の人達に、顔を覚えられ、可愛がられるように
なっていった。漁港の食堂でも人気者になって、ゴミ捨てや重いものの
運搬の手伝いをして、昼食、夕食を無料でふるまってもらった。
 仕込みの余り物があると、袋に入れて持たしてくれたりして、
良くしてくれた。休みの日には、寛太は夫おじさんの部屋(実家の離れ)
に行き、音楽を聞いたり、珈琲、紅茶とお菓子をご馳走になり、
仲良くなっていった。そんなある日、おじさんの本棚にある。
 株の本を見つけて、株って、儲かるのと単純な質問をした。
 損する人の分、儲かる人がいる。つまり、儲け+損=0、なんだ、
もちろん、正確には、儲け+損-証券会社手数料=0、
となるがねと易しく説明してくれた。

三話:幸夫の教え1

 
 寛太が勉強して上手になれば儲かるかと聞くと幸夫は多分と答えた。
株投資の方法を聞いてきたので証券会社に口座を作って、お金を入れて、
例えば、トヨタ自動車株を100株、500円で買うと言うとと、
100*500=50000、5万円でトヨタ株を買ってくれる。
 それが1000円になり手数料が100円すると、
100*(1000-500-100)=4万円、これが儲けになる。
でも、もし、500円で買って300円になった場合は、
100*(300-500-100)=-3万円、
つまり、3万円の損をする事になる。そうか、面白そうだなと言った。

 でも、投資した会社が成長するかしないか、また、その会社の株価が
高いのか、安いのか、知らないとだめだ。
 そのためには、相当勉強しなければできないと言われ。寛太が
勉強したいなら、入門書を貸してやるぞと言ってくれ借りてきた。
幸夫が、わかんないことあれば、聞き、教えてやるからと、
優しく言った。その時は頼みますと言い、3冊の本を借りた。

 5月末になって、北海道にも桜の季節がやってきて、後を追っかける様に
、いろんな花達が競い合うように一斉に咲き出す、一番美しい季節を迎えた。
 寛太は、その後も、朝早く起きて、漁協へ行き、一生懸命、働いていた。
漁港の食堂や、皆さんの差入で、何とか食べるものには困らないが、
それ以外に使えるお金がなく、全て、食費でなくなってしまう生活が続いた、
 見かねた、漁協の女将さん達が、自分の子供の服をあげたりして、
残された嵐山家の人達を応援してくれた。服や、カバン、つかえそうな物は、
全て寄付してくれた。北海道の夏は、あっという間に過ぎ去り、涼しく
なったと思えば、寒い風に変わり、10-11月になり、時雨れた。
 そうして12月、父を亡くした悲しい年1968年が終わり、
1969年を迎えた。冬は、雪と風で、漁協も仕事がなく家にいる日が
多くなった。寛太と言えば幸夫おじさんの家に毎日のように通い、
いろんな話を聞いた。株投資関連の本も20冊以上読んで、株投資に
ついても、どんなものかと言う、輪郭がわかってきた。

 そして、幸夫おじさんが金のためかたを教えてくれるようになった。
7万円の給料が入ったとしよう、そしたら、どう使うと、寛太に聞くと
必要ものを買うと答えた。すると、必要と考えたものが8万円だったら
、どうすると、更に質問した。俺は、人に金を借りるのは嫌だから、
我慢すると言った。そうか、それは偉いぞ、でも、それじゃ、
いつになっても、金を貯められないじゃないかと言うと、
そりゃそうだと寛太が言った。幸夫が、そういう時には、どうしても
必要なもの以外は使わないようにして5万円で生活するようにするんだ、
そうすると毎月2万円ずつ、貯金ができて4ヶ月で8万円、
1ケ月給料以上の金が貯まるじゃないかと言った。
 寛太が、でも我慢しないとできないと言った。
 そこだよ、金を貯めるというのは、どれだけ我慢するかと言うこと
なんだと教えた。また人のいやがる事を率先してやれと言った。
 理由は、人というものは、自分にとってありがたい事をしてくれれば
、必ず、恩義に感じて、恩義に報いてくれんだ。
 それが、お金だったり、食べ物だったり、着るもの、使うものだったり
するんだ。そういうのを親切貯金と言って然に入ってくるありがたいお金
なんだと教えた。わかった、明日から、意識して、人のいやがる仕事をする
と言ってくれた。翌週から、多少の雪でも、朝一番に漁協にでるように
意識して、使い仕事を率先して、やり始めた。
 すると、亡くなった嵐山の所の寛太は、偉い奴だと評判になり始めた。
 漁協が休みの時でも、食堂とか、近くの商店で手伝ってとお呼びが
かかるようになり手間賃をくれるようになったではないか、
また、お土産をくれたり、多くの物をもらえるようになった。
 確かに、幸夫おじさんの言うとおりだと思い、その賢さに驚かされた。
 その週の休日も、幸夫おじさんの所へ行き、先週の出来事を報告した。

四話:幸夫の教え2

 すると、偉いぞと誉めてくれ、次に、新しいノートを持って来て、
出納帳というものをつけるようにして、自分の財産の管理をしろと、
教えてくれた。株投資も同じ方法でやれば良いと言った。
 18歳になったら、株投資を始めようかと言った。
 それまで、頑張って、お金を貯めるようにするよと答えた。
 寛太は、翌週から出納帳をつけ始めた。かかったお金と買った品物を
別に書き込む様にした。寛太は、妹の和子に、お前は高校に通って、
しっかり勉強しろと言い、金のことは何とかするからと励ました。

 和子は中学でも優秀で、苫小牧東高校へ合格した。
 合格祝いに、幸夫おじさんが、すき焼き肉を買ってきてくれ、
コロッケ、メンチなど揚げ物をいっぱい盛って来てくれた。
また、定期的に30kgの玄米を買って、お店から運ばせた。
これには、安江も、いつもすまねえと、お礼を言った。

 また今年も、桜、花の季節がきて、短い夏が過ぎて、秋が来て、
1年が終わり、1970年を迎えた。幸夫おじさんの所へ行ったとき、
今までの出納帳を見せてと言うので、渡して、それを見た幸夫が、
言った。通りに、8万円の給料で2万円を使わずに貯めて1年24万円、
その他、漁協以外で30万円が貯まったねと誉めてくれた。
 次に寛太に出納帳をつけ始めて気づいたことは何かと質問すると、
我慢の大切さを気づいたと言い、人のいやがることを率先してする
ようになると、食堂や他の家で手伝ってくれと言われ、お小遣い稼ぎが
できることを学んだと答えた。幸夫が、これが金儲けの基本だと言い、
これからは、どうしたら、他人が、お金を気持ち良く出してもらえるか
というのを、よく観察して考えて行けと、助言された。

 夏になって、たまには出かけようと苫小牧から新冠のサラブレッド牧場
に行った。美味しいアイスクリームや食事をご馳走になったが、
寛太が、もう一つ浮かない顔をしていたので、幸夫が訳を聞くと、
何か俺1人だけ良い思いをして、残りの家族に悪い気がしたんだと
言うと、あまりに可愛い事と言うので、思わず、幸夫は寛太を抱き寄せて、
本当に、お前は優しい子だなと強く抱きしめた。

 寛太も親父をなくてして、ずーっと世話になって幸夫が本当の親父の
ような気がして涙がこぼれた。夕方、日が暮れる前に汽車で苫小牧に帰り
、幸夫は、嵐山家に、いっぱいの豚肉と野菜と焼きそばを買い込んで、
今晩は焼きそばパーティーをするぞと言った。
 安江さんが、材料を切って、隣で幸夫おじさんがフライパンで焼きそばを
作っては、大皿にもりつけて、テーブルに出したが、作るそばからなくなって
いった。4回作って、やっと満腹になった様で、箸が動きが鈍くなったところで
、安江と幸夫おじさんが食卓に座り、食べ始めた。いつも悪いねと、
安江が幸夫おじさんに言った。そして、食事を終えて、また来るねと言って
、幸夫おじさんが帰って行った。寛太が風呂に入り、今日の出来事を
母・安江に話した。すると母が、幸夫おじさんの事を寛太に話し始めた。

 幸夫おじさんは小学校時代から賢くて中学でも首席で卒業して高校は
苫小牧東高校に入り、北海道大学経済学部に入り北海道拓殖銀行に勤めた。
 しかし融資問題で銀行の仕事の仕方に不信感をいだき40歳(1967年)
の時、銀行を退社した。なんでも融資した先の商店の商売が危なくなった
ので銀行の融資した金を回収するように命じられ、融資の回収の話で
店を訪ねると、店主が首をつって自殺していたらしいんだ。
 それを見て、幸夫おじさんが銀行に嫌気がさしたらしいよと話してくれた。
その後は、実家の離れて家庭教師をしたり株取引をして
食べてると聞いていると言った。

五話:幸夫と株取引の開始

 翌月、幸雄おじさんが、寛太の18歳の誕生日にケーキをもって
来てくれた。その週の休日、おじさんの所を訪ねると、
お前も18歳になり、株投資を始めるかと言われた。
 是非やりたいですというと、それなら証券会社の口座申込用紙
をもって来てやろうと言った。銀行口座は持っているよなときくと
、漁協で作らされたと言った。来週の休みに、銀行の通帳も
もってこいと言うので了解した。

 翌週の休みに、口座開設書類に、名前、住所、電話番号、年齢、
勤務先、銀行口座番号を書き入れてハンコを押して日付を入れて、
書類を完成した。数日後、1970年9月に寛太の所に、
封書で口座開設のお知らせが届いた。
寛太に、お前は、何時頃が暇かと聞くので昼頃というので2日後の
12時20分に漁協で待ち合わせた。そして、銀行へ、連れて行って。
寛太の口座に300万円入れてあげた。300万円は、お前に
投資したのだからと、いずれ返してもらうぞと言い入金した。
そして、幸夫が、最初、俺が投資したとおりに売買しろと言われ
、寛太が、はいと言った。そして10月の休みの日に、寛太が幸夫
の所へ行くと、11月になり、基本的には、大型株の方が安全だから
、有名な、トヨタとソニー株を売買していくと言われた。

 12月になり、時雨れて、今年は寒い冬で、吹雪の日が多く、
休みの日が多かった。1969年が去り1970年の正月を迎えた。
 その当時、幸夫さんは1千万円以上の資産を持っている話していた。
 今年の高校受験は次男の二郎であった。彼は、数学が得意で
地元の苫小牧工業高校に進学したいと言っていた。
 先に高校生になった和子が、二郎がわからないところなど、
受験勉強を手伝っていた。その甲斐もあったのか、
希望の苫小牧工業高校に合格できた。合格祝いに、また今年も
幸夫おじさんが、すき焼き肉をもって、嵐山家を訪ねてきてくれた。
 そして、二郎に腕の立つ技術屋になれよと励ました。

 今年の夏休みに、幸夫おじさんが嵐山家の子供全員を連れて
新冠のサラブレッド牧場に行く計画を立てた。この日は、朝から、
母の安江と長女の和子が、たくさんのおにぎりを握り、寛太と二郎が
食料が入った重い袋を持った。安江、寛太、和子、二郎、良三、好恵
と幸夫おじさんの7人で苫小牧から電車とバスで、1時間、
新冠のサラブレッド牧場へ着いた。みんな、初めてみる、
サラブレッドの美しさや、可愛い子馬の姿を見て喜んで
走り回っていた。幸夫おじさんが、写真機を持ってきて、
何枚も写真を撮ってくれた。

 走り回って疲れて、大きなビニールシートを敷き、にぎりめしと
、少しのおかずと、お茶で昼食を食べた。牧場には、新鮮な牛乳を
使ったソフトクリームが売っていて、みんな、食べて良いぞと
幸夫おじさんが、お金を出してくれ、おごってくれた。

 子供達の笑顔をみて、安江が、思わず、目に涙を浮かべ兄ちゃん、
ありがとうと言って喜んでくれた。子供ってのは何か楽しい思い出が
必要なんだと言い、俺も、みんなと、牧場に来れて、楽しいよと
言ってくれた。午後3時過ぎに、牧場を後にして、苫小牧へ帰った。
 駅に降りて、いつものコロッケ屋の前で、コロッケとメンチとハムカツ
をいっぱい買って、家に帰り、御飯を炊いてもらって、みんなで、
夕食を食べた。帰る時には、5人の子供達が、幸夫おじさんを送ると、
また来るからよと帰って行った。夏休みが過ぎで、10月、11月と
寛太は、朝早くから漁協で仕事をして近くの食堂などの手伝いをして
駄賃をもらっていた。

 1970年12月トヨタ株75円で1万株75万円で、ソニー株を
358円6千株で210万円、合計285万円で買い残金が65万円となり、
1970年も終わり、1971年を迎えた。

六話:時代背景と札幌旅行

 1971年、日本では、成田空港反対闘争が激化して、
新東京国際空港公団・千葉県と反対する地元農民・支援学生らが
激しく対立した。このニュースが毎日の様にテレビから流れた。
 また1971年8月15日に、テレビとラジオで全米に向けて、
新経済政策(減税と歳出削減、雇用促進策、価格政策の発動、
金ドル交換停止、10%の輸入課徴金の導入)を電撃的に発表し、
その中の「金ドル交換停止(金とドルとの固定比率での交換停止)」
のことを主に指します。当時、この金ドル交換停止は、米国議会
にも事前に知らされておらず、極めて大きな驚き(サプライズ)を
与え、またグローバル経済に甚大な影響を与えたことから
「ドルショック」とも呼ばれます。これは、ドル高是正、米国赤字縮小
と米国の輸出がしやすいようにするための米国のための政策に
他ならなかった。

 これについて、幸夫おじさんは、金とドルとの交換を前提とした
固定相場制(ブレトンウッズ体制)が崩壊して、ドル円の360円の
固定制がなくなり、円高になると予測した。成田闘争を始め、
学生運動の高まりの年だった。今年の夏は、幸夫おじさんが、
嵐山家の家族を札幌見物に連れて行く計画を立てて、8月3日朝に
出発すると連絡してきた。そして8月3日、朝早く、やってきて
苫小牧から札幌までの汽車の切符を買ってくれた。

 子供達は、2時間近い、汽車の旅は初めてで、窓からの景色を
楽しんで、はしゃいでいた。千歳駅で空港からの観光客が乗り
込んできて、混雑してきた。10時近くに、札幌に着き、
タクシー2台で狸小路へ行き、混雑する前に札幌ラーメンの店に
入り、大盛りが欲しい人と聞くと、男兄弟3人が手を上げ、
7人前を注文した。ラーメンが出てくると、熱いから、
ゆっくり食べろと言い、ふーふー言いながら、うめーと言う
歓声の中、30分程度で食べ終わり、狸小路のアーケードを歩き、
大通公園を見て歩いた。その後、市電を見つけて、それに乗り、
ロープウェイ入り口から藻岩山ロープウェイに乗り、頂上から札幌の
市街地をながめ、涼しい風を感じて楽しんだ。その後、円山動物園や
北海道神宮を見学してから市電で帰る途中、豊平川が見えたので、
途中下車して、川遊びして遊んだ。停留所の前に喫茶店があったので
、入り、一休みした。そこで、幸夫おじさんが1人1個、頼んで
良いぞというと、アイスクリーム、パフェ、レモンソーダ、コーラ
と大きなケーキを1つ人数分に切り分けてもらい注文した。

 初めて食べる子もいて、大喜びではしゃいでいた。30分位して
、市電に乗って、夕食の食材を買い込んで、中島公園近くのホテル
に入った。3部屋予約してあり、女性達1部屋と、男性が2部屋に
別れて寝た。翌朝、ホテルの朝食でトーストとジャム、バター、
牛乳、紅茶、珈琲があり、めいめいで好きな物をたべた。

 今日、これで帰るけど、どっか寄りたいところはあるかと聞くと、
長女の和子ができたら、千歳空港を見たいというので、寄ることにした。
 9時過ぎにチェックアウトして、バスで札幌駅に行き、汽車の切符を
買って、千歳駅から、空港へ向かった。始めて見る空港に、子供達は
おおはしゃぎだったので、みんなから離れるなよ、迷子になるなよと、
母の安江が、大きな声で注意した。女の子達は、一緒に行動していた。
 空港を見下ろせる所まで上がり、離陸、着陸する飛行機を眺めて
いたとき、長女の和子が大きくなったら東京へ行ってみてえと言った。
 金ができたら、アメリカ、ハワイ、ヨーロッパにも言ってみて-と、
離陸するジェット機を見てつぶやいていた。幸夫おじさんは、
しっかり勉強して、学校を卒業して、仕事して、自分の金で行けるように
頑張れと、肩をたたいた。すると、それしかないよねと笑った。

七話:妹・和子の進学相談

 それを見ていた、寛太が、近いうちに、俺が金を作って、
お前等を東京へ連れてってやるからなとと大きなことを言った。
 すると、和子が兄ちゃんに連れて言ってもらうより、格好いい
彼氏に連れて行って欲しいなというと、大笑いになった。

 そこで、幸夫おじさんが、君たちは五体満足に生まれてきて、
自分の努力、腕、頭を鍛えて、自立していき、今まで、世話になった
、母ちゃんに、親孝行しろよと言うと、母の安江が、毎年、旅行に
連れてきてありがとうよと目に涙を浮かべて言うと、女兄弟も、
目に、こぼれそうな大きな涙を浮かべて、このやりとりを聞いていた。

 その後、苫小牧まで汽車で帰り、駅近くの店で、夕飯のおかずを
買って、嵐山家に帰った。その後、もう暗くなるからと、
幸夫おじさんが自宅へ帰っていった。その後ろ姿を、嵐山家の
人達は、今日はありがとうと言い、手を振って送り出した。

 夏も終わり、涼しいと思う暇もなく、寒い数が吹き出し、
10、11、12月となり、1971年が終わりを告げ、
1972年を迎えた。今年は、嵐山家の長女、和子が高校を
卒業する年だ。1月の日曜日、その和子と兄の寛太と母、
安江が幸夫の所を訪ねてきた。今日はちょっと、相談があって
来たんだと言い、まず、上がれと言い、ストーブのたいてある
部屋に通し、珈琲をいれた。相談て何だと聞くと和子が、私、
北海道大学に入りたいのと言った。

 それを聞いた幸夫は、合格の可能性はどの位だと聞いた。
7-8割だというと、それはすごいなと言い、それでと言った。
 すると、母の安江が、和子が北海道大学に合格したら、何としても
、入れてやりたいと言い、通えないから、下宿して、学費もかかり、
金が足りないかも知れないので、その時には、協力してくれないか
と言った。それを聞いて、幸夫は、和子に、もし俺が出せねと言ったら
、どうすると尋ねた。そん時は、無理してでも行く、下宿して、
どんなにアルバイトしても、学費と下宿代と食費を工面すると言った。

 じゃー、水商売でもやるのかと聞くと、金が足りなければ、
やると言った。そんなに行きたいか大学出て何になりたいんだと、
続けざまに聞いた。先生だ、学校の先生になって、立派な子供を
世に出す手伝いがしてえと言った。じゃー教育学部希望かというと、
そうだと言った。続いて、寛太が、まだ、俺にも、それ程の大金はねーが、
絶対に金は作るから金を100万円、貸してくれと言った。
すると、幸夫が利子つけても良いんだなと、笑いながら言うと、
構わねえ、今、金がいるんだと言った。わかった、寛太に金を
100万円貸すことにしよう。それで、北海道大学に合格しろよと、
和子に言うと、和子は、すまねー、母ちゃんや兄ちゃん、
おじさんにまで世話になってと泣き出した。
 すると、幸夫が、ここで泣くんじゃねー、これから、絶対に
合格する様に、頑張って勉強して、合格してから泣けと、
ハッパをかけた。わかった、絶対に合格する、ここのみんなに
約束すると言った。話を終えて、お茶菓子をだして雑談した。
 おじさんが、そーか、和子が北海道大学か、
と宙を眺めるようにして言った。

八話:妹・和子の北大合格と札幌旅行

 幸夫が、俺も、昔、北海道大学の試験を受けるというと、
それが何になるんだと、親父に言われて、大げんかしたことを
思い出すよと言った。その後、銀行に勤め、謹厳実直に、
上司の言うことを聞いて、仕事をしたが、銀行から融資した
商店主が首つり自殺をした現場を見て、世の中の裏を見たような
気がした。北海道拓殖銀行、北海道唯一の都市銀行、北海道大学、
経済学部卒の希望の就職先に入社しエリート街道と思った矢先、
銀行も、町のサラ金と一緒だということがわかり、馬鹿らしくて
仕事を辞めた。この件で、金の恐ろしさを知り、それに復讐するように
、今、投資で、世の中から、金をむしり取っているんだと言った。
 和子は、良い子を育てて、世の中に出していくのか、そりゃー
良いことだ、頑張って、努力しろよと、肩をたたいた。すると、
下を向いていた和子の目から、涙が落ちで、畳をぬらした。
 幸夫おじちゃんて、ただ、ぼーっとした優しいおじさんだと
思っていたが、そんな辛い過去があったなんて知らなかったと言った。

 最後に、幸夫が明日にでも、寛太の口座に100万円振り込んで
おくと言い、和子達3人は、帰って言った。
 その後、毎晩、遅くまで、和子が勉強してると、寛太が幸夫に
教えてくれた。そして、運命の合格発表の日を迎えた。
 幸夫も近くに神社に行き、合格祈願のお参りをした。
 11時に、電話で和子から、涙声で合格したと聞かされた。
 幸夫は、昔の自分とダブらせて、熱いものがこみ上げてきた。
 よかったな、本当におめでとうと、最後は涙声で電話を切った。
 その晩、幸夫は、大きな豚肉を買って、嵐山家を訪ねた。
 合格祝いだと言って、その肉で、合格祝いの焼き肉パーティー
をやろうと言い、2つのフライパンで、肉を焼きだした。

 全部、焼き終わって、全員で、合格おめでとうと言ってから、
肉にありついた。うめー、という声がする中、和子が幸夫の
前に来て、本当にありがとうと、お礼を述べた。
 次は、良い子を教育していくための勉強をしっかりしなさい
と言うと、頑張りますと返事をした。

 この日は、日頃、あまり酒を飲まない幸夫も、安江と共に、
合格祝いの酒を飲んで、楽しみ、飲み過ぎて、こたつに入ったまま、
寝てしまい、起きたら、安江が、朝ご飯の用意を始めていた。
 すると安江が、もう少しで、朝飯できるから、食って帰れ
というので、みんなと一緒に朝飯をいただき、帰って言った。

 帰り際に、幸夫は、そっと和子を呼んで、これ合格祝いだと
10万円の入った袋を渡し、これは母ちゃんには内緒だぞと言った。
 すると和子が、ありがとうございますと丁寧に、お辞儀を返して
くれた。4月になり和子の下宿先も決まった様で引っ越していった。
 下宿先は、札幌中心部、狸小路の土産物など雑貨品を扱う店の
2階の6畳を借りて、授業のない日は店番をして働くことになった様だ。
 5月になり、一斉に花が咲く、良い季節となり、それらが散って、
暑くなり始め、6月を迎えた。今年の夏旅行は、昨年同様に札幌に
行くことを計画した。みんなの都合も聞いて、7月28日、苫小牧から
汽車で札幌へ、電話を入れていたので、和子が札幌駅に迎えに来ていた。

 地下鉄に乗り、北海道大学のクラークの銅像をみたりして、
広いキャンパスを歩いてまわった。すると、二郎や良三、好恵が
ねーちゃんすごい学校に入ったねと驚いていた。みんなも、
一生懸命勉強すれば、入れるから頑張れと言った。

 今回は、ジンギスカンを食べようと、店を探して、入った。
 10人前を頼んで、料理が運ばれてきた。すると、待ちかねたように
、男性達が、パクパクとすごい食欲で食べ始めた。20分位で食べ終わり
、ちょっと足りなそうなので大盛りのライスと5人分追加した。
 安江と幸夫は生ビールを飲みながら、ゆっくりとジンギスカンを食べた。
 さすがに20分くらいして食べ終わる頃には、もう腹一杯だという
笑い声が聞こえた。その後、札幌テレビ塔を目指してあるいて、
展望台に上がって、大通公園や札幌の町を眼下に見て、楽しい一時を過ごした。

九話:札幌旅行と良三が北大・医学部へ!

 その後、大通り公園から、宿のある、中島公園まで歩いて行き、
ホテルにチェックインした。3部屋に別れた。買ってきた夕飯を
食べたら、散歩で疲れたのか、すぐに寝た。翌朝、昨日教えて
もらった、和子の下宿先の商店に行き、店の人に、また宜しく
お願いしますと挨拶して、和子と別れて、札幌駅から苫小牧行き
の電車にのり、午後3時に苫小牧について、嵐山家の人と幸夫が
別れて家に帰った。寛太の話では、来年、苫小牧工業高校を
卒業する二郎が夏休み、就職活動の一環として希望する企業で
、夏休みのアルバイトを始めたと聞いた。

 その後、二郎の第一希望が王子製紙で第二希望が日本製紙だと
教えてくれた。8月28日に幸夫が嵐山家を訪問して二郎に、
その後の状況を聞くと、王子製紙が家からも近くて、
通いやすいと言った。アルバイトを通じて、学校の先輩と
パイプを作り、真面目に働いていたので、多分、入れそうな
気がすると話してくれた。9月、10月、11月が過ぎ
1972年が終わり1973年を迎えた。

 次郎の言葉通り3月に念願の王子製紙に就職する事が決まった。
就職祝いに、コロッケ、メンチ、ハムカツをいっぱい持参して、
幸夫が嵐山家を訪ねた。夕飯を共にとって就職を祝った。幸夫が
二郎に小さな包みを渡した。明けて良いと聞くの構わないよと言うと
、広げた、中には万年筆が入っていて、これ高い万年筆だねと、
喜んでくれた。帰り際に、二郎が、俺、頑張って、母ちゃんに、
楽してもらうようにると言ったので、頼んだとぞ、頑張れよと、
二郎の頭をなでて、帰っていった。

 良三は、苫小牧東高校に合格して、数学が得意なようだった。
 そして、成績は学年トップであり、将来楽しみだった。
 寛太が1970年に買った株が1973年になり上昇してきた。
 4月にトヨタ株を320円で売り263万円の利益を手にし
残金が328万円となった。5月の連休に、寛太と安江と良三が、
幸夫の所を訪ねてきた。ちょっと相談があってきたと言った。
 相談とはと聞くと良三から話せと安江が言うと話し始めた。

 昔の事だが、親父が亡くなった1968年4月20日、俺が
10才の時だった。親父の死を目のあたりにみて、なんて、惨めな
死に方なんだと、悔しくて仕方がなかったと言った。
 その後、診療所の先生が来て、死亡の確認をして、救急車で
大きな病院へ運ばれ、死因を調べ、急性心筋梗塞による死亡だと
わかり、診療所の先生が事務的に死亡診断書をもってきて、
確認のハンコを押してくれと言った。これを見ていて、無性に
腹が立ったと言った。都会なら、身体の具合が少しでも悪ければ、
医者に行き、病気を診断してもらい、薬をもらい、生活指導も
受けられ、急死することも稀だ。ところが、こんな田舎の漁港では
、多少無理しても漁には出なくて行けない、検診もする人は、
ほとんどいない。具合が悪ければ、少し寝てろと言うだけ、
診療所も遠い。死んだ時さえ、事務的に診療所の先生は、
診ようともせず、機械的に、大きな病院に検視を任せ、
自分は死亡診断書にハンコをもらいに来るだけ、あれなら、
馬鹿でもできる。こんな差別は許せねえと思ったと言った。
 俺は、こんな理不尽な医療的差別を無くしていきたい。

 そのために北海道大学の医学部に入りたいときっぱりと言った。
 そのためには、奨学金をもらってでも行きたいと、力強く言った。
 これには、さすがの幸夫も驚いた。良三は、苫小牧東高の成績で、
多分、入れるし奨学金ももらえると言ったが、もし金が足りない時には、
援助して欲しいと言った。これには、何も言えず、わかったと言う
しかなかった。良三は、寛太みたいに、思った事をすぐ言う男ではない
と思っていたが、こんなに冷静にみる奴だとは、想像もしてなかった。

十話:嵐山家の子供達の将来1

 寛太が俺も株で儲け始めたので何とかなるよと言った。最後に、
良三が、もし万が一の時は、お願いしますと、幸夫に頭を下げた。
 よし、わかった頑張って北海道大学の医学部に入れと激励した。
 今年は良三の受験のこともあって、夏休みの旅行は、新冠の
サラブレッド牧場に日帰りで行く事にした。

 それでも安江と寛太と好恵と二郎と幸夫の5人で出かけて楽しんだ。
 その後、寛太は10月にソニー株を1600円で売り、儲けが
713万円となり、1973年中に残金が1041万円となった。
 その年の12月、再びトヨタ株が下げてきて155円で4万株を
620万円で買い残金421万円となった。

 二郎も昨年入社した王子製紙で、工場の保守点検の仕事について
上司に可愛がられている話を聞いて安心した。涼しくなったと思うと、
急に寒くなり、年末が駆け足でやってきて、1973年が終わり、
1974年を迎えた。

 今年は何と言っても、嵐山家の三男・良三の北海道大学医学部の
受験の年だ。良三は、体調管理に気をつけ、風邪を引かないように、
コンディションを整えながら、受験の最終調整に入った。
 2月の受験を終え、帰って来て、母の安江が、どうだったと聞くと
、問題なかった、多分行けるだろうとクールに言った。
 その言葉通り3月に合格の発表が届いた。この合格の話は苫小牧東高校
でも珍しいようで、評判になったそうだ。貧しい漁師の息子が
北海道大学医学部に受かったと漁協でも、いろんな差入れをもってきてくれる
人が多く非常に助かった。数日後、幸夫が、嵐山家に、すき焼き肉を
合格祝いにもってきた。そして、今日は、合格祝いの品物は
もってこなかったと言い、良三に、何が欲しいと聞くと、
格好いい防寒コートが欲しいと言うので、今週日曜に、苫小牧の
町に見に行こうと言った。数日後、気に入った防寒コートが見つかり、
早速、良三が着て、帰ってきた。それを見た、寛太が、どっかで
見たような格好だと言い、あ、そうだ、寛一お宮みたいだと笑った。
 その話を聞いて大笑いとなった。良三が、幸夫にお礼を言って、
頑張って、良い医者になって、また、ここに戻ってきて病院で
働くよと言った。それを聞いて、そうだ、この漁村の守り神に
なってくれと言った。わかった、頑張るよと、みんなに宣言してくれた。
 また、来週にでも札幌に行き、学生寮か下宿かアパートを
探しにいくと言った。この年は、昨年、1973年のオイルショック
で石油の値段が上がり、日本中に不景気の風が吹き荒れ、
1974年も不景気が続いた。また、東京では、学生運動の
過激派による、三菱重工ビル爆破事件など、暗い年になった。

 また、ベトナム戦争の米国の敗戦が濃厚になりつつあり、
ベトナム反戦の活動も活発になっていた。今年の夏は7月29日に
、札幌に出かけて藻岩山や北海道神宮、円山動物園を散策して歩いた。
 良三は、大学の寮に入り、札幌市内で、家庭教師を掛け持ちして、
学校の勉強とアルバイトに忙しい日々を送っているようだった。
 夏休みを過ぎて、秋の紅葉、寒い風、気がつけば10月。

 株の方ではソニー株が安くなり1974年10月に490円で
6千株で294万円で買い残金が127万円となった。

 嵐山家の一番末っ子の次女好恵は、料理、裁縫が好きで、
母、安江の手伝いをしていた。高校は、苫小牧の商業高校を
目指して、将来は服飾・デザインの仕事で東京へ出たいと夢を見ていた。

十一話:嵐山家の子供達の将来2

 今年は、嵐の日が多く、外に出られない日が続き12月を迎え、
1994年も終わりを告げ、1995年を迎えた。
 新年の挨拶に行き、お餅と簡単なおせち料理をご馳走になった。
和子も良三も札幌から帰ってきていた。末っ子の好恵が、
和子に、お姉ちゃん、休みの日に札幌に行って言いといい、
一緒に、ショッピングや、洋服屋を見に行かないかと言った。

 札幌に来る日を前もって言ってくれれば2時間くらいつき合って
あげると言った。じゃー、そのうち電話するよと言った。
 良三の方はと言えば、学校と勉強と家庭教師のアルバイトで、
忙しく今年初めて里帰りしたと言った。そして勉強に疲れた時なんか
、広い大学のキャンパスの緑の中を散歩すると、いろんなアイディが
わいてきて、良い環境だと喜んでいた。みんなの元気な姿を見て、
また今年も宜しくと言って、幸夫は嵐山家を後にした。

 3月に、好恵が苫前商業高校を受験して合格した。
 その知らせを聞いて幸夫が嵐山家を訪ねてきた。合格の祝いを
言って好恵に何か記念になるものを買ってやるからと言い、
好恵が母さんと2人で苫小牧の町に買いに行ってこいと言った。
 家を出て2時間くらいで帰ってきて素敵な冬コートを買ってもらい
、好恵が上機嫌で帰ってきた。それを着て、ぐるっとモデルのように
まわって見せた。安江が似合ってるよ、可愛いよと言うと、
男連中は、興味なさそうに見ていた。嵐山家の男って、何も言わない、
優しくない男ばかりだと言うので、幸夫が素敵だよ、最高だよと言うと
、ありがとうと微笑んだ。幸夫が安江にレシートをもらい金を支払った。
 少しして、帰る時に、好恵と母の安江が、こんな高いもの
買ってもらってありがとうねといってくれた。

その後、好恵は、商業高校の帰りに、毎日のように、町中の洋品店
のウインドウショッピングを欠かさないようで、お得なセールの情報を
嵐山家の連中に教えていた。その後、好恵が高速バスで札幌に出かけ、
和子とショッピングしたりして、たまに、安江も好恵と一緒に
高速バスで札幌へ出るようになった様だ。

 そんな事で、今年の夏休みは7月27日、札幌の先、小樽に
行ってみる計画を立てた。その日、幸夫が安江と寛太と好恵と
二郎と一緒に、朝早い電車で小樽へ向け出発した。
2時間半かけて、小樽に着くと、和子と良三が小樽の駅で
待っていて、運河沿いを散歩して、硝子工芸の店を見て回り、
昼は、有名な寿司屋に入り、昼食をとった。天狗山に登り、
眼下に広がる、雄大な海を眺めたりした。
 旧日本銀行や名所、旧跡が多い、素敵な所だった。
 夕飯用に、海産物市場で干物を買って、帰った。9月、10月と
涼しい時期を過ぎ、寒くなって来た。

 1973年10月に買ったソニー株が上昇してきて1975年11月に
1400円で売り、利益が546万円、残金が673万円となった。

 1975年は、南ベトナムの首都、サイゴンが陥落して、
ベトナム戦争が終わった。陥落直前に、米兵や南ベトナム高官をのせた
と思われるヘリコプターが逃げるように飛び立ったのが思い出され、
アメリカの衰退を象徴しているかの様であった。

十二話:嵐山家の子供達の将来3

 1975年も12月になり、また1976年を迎えた。
 この年は、ロッキード事件が2月5日に米国で発覚して、
戦後最大の汚職事件となり、7月には、田中角栄元首相が
逮捕される事態となった。この年の5月に幸夫が寛太を家に
呼び、お前も22才になり、もう一度、高校の勉強をしないか
と言った。この年で高校へ行けと言うのですかと聞き返すと、
今、ラジオ高校講座講座というものをやっているから、
土曜日もやってるし、全教科受ける必要もないんだと言った。
また、録音しておいて、勉強することもできると、NHK高校講座の
雑誌を見せてくれた。良かったら、タイマー録音できる
カセットテープレコーダーで授業をカセットにとってやるから
始めてみないかと言った。NHK高校講座の雑誌を貸して
くれますかというので渡した。よく考えてからに返事すると
言うことで良いですかと言ったので了解した。
 翌週の日曜に寛太がやってきて鉛筆で丸した授業を受けたい
と言った。もし幸夫さんが留守録でとっておいたら、それを
聞きながら勉強しますと言ってくれた。わかった録音したカセット
を渡す、嵐山家で勉強するのが嫌だったら、休みの日ここで、
勉強しても良いと言った。そして、もしわからないところが
あれば、言ってくれ、多分、教えられると思うと言った。

 英語1、基礎数学、数学1、数学、理科、地理、日本史、
物理基礎、国語総合に印がついていたので録音した。
 最近嵐山家の子供達は、個々に出かけるようになったので、
夏休みの旅行はやめることにした。カセットに各教科の単元を
録音したものができはじめて、海がしけてる日や、日曜など、
寛太が、頻繁に幸夫の家に来て勉強するようになった。

 9月、10月、11月、1976年12月になり終わりを告げ、
1977年を迎えた。新年の挨拶に幸夫が嵐山家を訪ねた。
 長女の和子に、北大を出たら、次は何するのと聞くと、
私は、既に大学で教職課程を取っているので、卒業した後は、
研修を受けながら、7月の教員採用試験に合格すれば、
道内の高校の教師になれると言った。ですから、最短で
今年の7月に試験に合格する目標で勉強していると言った。

 良三に、医学部での状況を聞くと、医者になるには、
6年過ぎて、24才で研修医になり、2年間の研修期間、病院で
研修を受け、26才になって、自分の希望する専門の科
(内科、外科、整形外科・・)の医者になって、病院で実地訓練を
受けて腕を磨くことになると言った。だから、まだまだですと笑った。
 1,2月と荒れた日々が続き、寛太は、幸夫の家に来て、高校講座の
カセットを聴きながら寝そうになると起きろと幸夫に怒られながらも、
地道に勉強していった。母の安江が家に帰ってこない寛太を
不思議に思い、そっと後をつけると、幸夫の家に入るのを見て、
幸夫の家をノックをし入ってきた。
 そこには、こたつに寝てる寛太がいた。
 幸夫は、そっとして、起こさないようにして安江に通信高校講座の事を
話すと声を上げずに涙をぽろぽろながして、そんなことしてたのと驚いた。
 小さな声で、あの子は、昔から計算が早く人との話しもすぐに理解する
賢い子だったので、高校に行かないと言ったときには、本当に可哀想な
ことをしたと思っていたと話してくれた。
 寛太が起きる前に帰るからと言って、そっと帰っていった。

十三話:寛太の通信高校講座の勉強

 そうして、3月には、カセットを全部聞き終え次に何したいと、
幸夫が寛太に聞くと小説を読んでみたいというので、俺の本棚に
あるものなら、貸してやると言った。

 次に、投資の勉強を本格的にしたいので、また教えて欲しいと
言ったので了解した。次に、英語を話せるようになりてーと言った。
 それに、歴史、地理に興味があるとも言い、化学、物理も好きだ
といったので、時間かけても構わないから、カセットに留守録して
あげると言った。安江の言ったとおり、寛太は、勉強すれば
できる子なんだと再確認した。

 株の方は、1977年3月にトヨタ株が上昇してきて600円で売り、
利益が1160万円で残金が1833万円となった。
 その後も、寛太の空いてる日は必ずと言うほど、熱心に
高校講座を聴いていた。ノートもとっていて、覚えも早い。

 8月になり、寛太と2人で札幌へ行き、北海道大学の中で
入室可能なところを歩いて回り、図書館にも入ってみた。
 スゲー静かだなと言い、なんとも言えない良い感じだと言った。
 学校卒業した後でも、一般教養講座というのをやっていて、
社会人や、高齢者も授業を受けられるんだと聞くと、俺も、
聞いてみてなーと言った。高校講座が終わったら調べてみるから、
一緒に来て見ようかというと、是非、来たいと言った。
 そんな時は連れてきてくれと真剣なまなざしで言う、寛太の
素直な顔を見て幸夫は思わず熱いものがこみ上げてきて涙を浮かべた。
 そして、寛太が、幸夫に向かって、あんたは偉い人だ、
本当に優しい人だ、強い人だと、抱き付いて泣いた。
 俺は幸せもんだ、こんなに良くしてもらってと言った。
 幸夫は、そんな、寛太を強く抱きしめた。
 お互いに、これからも勉強していこうなと言った。

 その後、クラーク博士の像の前でボーイズ・ビー・アンビシャス、
少年よ大志を抱けの意味を説明してやると、俺もこれからでも遅くねー、
大志を抱くぞーと言った。こう言う寛太の姿を見ていると、
立派な1人前の男にしてやらなければと思う幸夫だった。

 札幌駅近くで夕飯をとって、帰路についた。9月、10月、11月、
12月で高校講座は、聞き終わり、次は、何したいと聞くと、
英語と投資の勉強と言った。来年はそれで行こうと言った。
そして、1977年が終わり、1978年が明けた。
 新年の挨拶に嵐山家を訪ねると、好恵が苫前商業高校を卒業して、
苫小牧の洋品店に務めだした。ゆくゆくは、デパートの用品売り場で
仕事がしたいと言っていた。続いて和子が高校の国語の先生の免状を得て、
苫小牧東高校の国語の教師に就任したという知らせを聞いた。
 競争率6倍の試験を突破したそうだ。和子に聞くと、まだ見習い
だけどねと笑いながら言った。幸夫が突然、ちょっと聞いてくれるか
と言い寛太の高校通信講座の勉強を約2年間続けた話しと、今後、
英語と投資の勉強をしたい事。また北海道大学の一般人の教養講座に
参加したいという話をした。

 それを聞いた、良三が、兄ちゃん、すげえなと言った。
それを聞いていた、和子は、ぽろぽろ、泣きながら、兄ちゃんが、
俺は良いから、お前は大学へ行けと言った日の事を
思い出して号泣してしまった。

十四話:寛太の株式投資の勉強

 おもむろに、母の安江が、実は、寛太には、苦労をかけて、
私一人の稼ぎでは食っていけないところを助けてくれ、一銭も
無駄遣いせずに、家に金を入れてくれたんだと言い、朝一番に、
漁港へ行き、みんなに挨拶して、何かあったら言ってくれ、
手伝ってやるからといい、港のみんなの手伝いや下働きをして
稼いだ金も、みんな、家に入れてくれたんだよと言うと、
弟たちも兄ちゃんありがとうと、抱きついてきたのだった。

 すると、寛太が、もう少ししたら、もっと良い暮らしができる
から期待して待ってろといった。詳しいことは金ができてから話す
と言った。そんな、うれしい、新年会を終えて、幸夫は帰っていった。

 その後、寛太は1978年1月にトヨタ株365円で1万株
365万円で、ソニー株を615円2万株で1230万円で
買い残金が238万円となった。

 また、英語の勉強、特に話す、英会話の勉強を中心に始めた。
 株の方は、四季報の見方、連結貸借対照表、損益計算書、
キャッシュフロー計算書、有価証券報告書の見方を教えた。
 5~7月の日曜日、北海道大学の一般人向け教養講座1クール10回の
最終日7月25日の「君はいかにして生きるべきか」を聴講にしに行った。
 その後、近くの喫茶店で、感想を聞くと、賢い人は、すごいね。
 学問って本当に奥が深いねと、終始、感動しているようだった。
 また、次の講座の予約が取れたら、また来ようと言い帰っていった。
 その後も8,9,10、11月も勉強を続け、
寛太は、簡単な英語の日常英会話をマスターした。
 投資の方も、PER、PBR、ROE、キャッシュフロー
、フリーキャッシュフローも理解していった。

 1978年が終わり1979年が明けた。1979年のイラン革命
によりイランでの石油生産が中断したため、イランから大量の原油を
購入していた日本は需給が逼迫した。また1978年末にOPECが
「翌1979年より原油価格を4段階に分けて計14.5%値上げする」
ことを決定し原油価格が上昇。第1次石油危機並に原油価格が高騰した。
 第一次オイルショックの経験から、省エネルギー政策の浸透
(深夜のテレビ番組放送の自粛や、第1次同様のガソリンスタンドの
日曜祝日休業などが行われた)これにより、原子力や風力、太陽光など
非石油エネルギーの活用の模索、また省エネルギー技術の研究開発への
促進の契機ともなった。寛太は、その後も、勉強を継続して、化学、
物理、文学の勉強もしていった。
 
 そうして1979年が終わり、1980年を迎えた。
 この年は、モスクワオリンピックが開催されたが、前年1979年12月
に起きたソ連のアフガニスタン侵攻の影響を強く受け、集団ボイコットという
事態に至った。日本、アメリカなど67ヶ国のIOC加盟国が
不参加(ボイコット)を表明した。

十五話:新業態の商売の将来性に賭ける

 次に大きな出来事はイランイラク戦争開始だった。
 イラクの奇襲1980年9月22日未明、イラク軍が全面攻撃
、イランの10の空軍基地を爆撃、イラン軍が迎撃するという形で
戦争は始まった。翌日、イラクは両国の644kmに渡る国境線を
越え三方向から地上軍を侵攻。南部戦線ではフーゼスターン州に
橋頭堡を確保しシャッタルアラブ川流域のアーバーダーンや
ホラムシャハルを包囲する目的だった。こんな激動の1年だった。

 この年1980年8月に米国のセブンイレブン(朝7時から夜11時
までの営業している便利な店:コンビニエンス・ストアー)が日本に
上陸して、株を上場すると言う情報が入った。この新しい業態の店に
興味を持った幸夫は、証券会社から資料を取り寄せたり、直接証券会社
に出向いて、話を聞き始めた。この会社は個性的で当たればでかいと
思い、その後、株価を注視して買い場を探していた。

嵐山家では、王子製紙に務めている寛太の弟の二郎が、同じ職場に
勤める2才年下の池田益子さんと10月に結婚式を苫小牧市内であげた。
 その時に益子さんは妊娠6ヶ月の身重であり、いわゆる、
できちゃった婚のはしりだった。
 そして1980年が終わりを告げて1981年が明けた。

 幸夫が嵐山家の新年会に行くと、長女の和子は苫小牧東高校で、
国語の先生をはじめて、いろんな経験の毎日だと言っていた。
 また北海道大学医学部の良三が24才になり今年、研修医になるが、
内科系に行くか外科系に行くか、悩んでいると言った。しかし最初の
目標で行けば最前線の医者になりたいとすれば内科系であり、
自分が診断して、何科に行くべきかを知らせる医者になりたいと
思ったのであり、やはり、内科を目指すべきかと考えていると言った。
 医科に多くの人命を救うとしたら外科より内科かも知れないと考えた。
 その後、やはり内科の研修医になることに決めたと連絡が入り4月に
内科研修医として北海道大学付属病院で研修を開始する事になった様だ。
 また、1981年4月26日、二郎に長女、嵐山比奈子が誕生した。
 株式市場の大発会(初日)寛太は、108円で1万株、108万円で
買い指値を入れて、セブンイレブン株を買った。残金は307万円になった。
 この年も冬場の時化が激しく、何日も漁に出られず、漁協の仕事もなく、
幸夫の家で英語の本を読んだり、小説を読んだりしていた。
 3月頃から毎日、漁出られる日が続き、市場も食堂も活気が出てきた。
 寛太は4月も、忙しく働いていた。

 この頃から、トヨタとソニー株が上昇して来たので、売値を検討し、
トヨタ1000円、ソニー2650円の売り指値を入れ、数日後、
売れ、2700万円の儲けで、残金が2977万円になった。

十六話:嵐山家の新居を建てる

 5月の休みに寛太は、幸夫に、家を建て替えたいと言った。
 今の家は、広い敷地にぽつんと1軒で、すきま風をベニアと
断熱材で応急修理した箇所が3ケ所もある。幸夫が調べてみると、
札幌のIFホームの寒冷地仕様住宅で、5LDK延床面積で
50坪、175m2で3000万円のモデル住宅の情報を掴んだ。
 実際に札幌のIFホームを訪ねて相談すると、実際に苫小牧の
現地を見せて下さいと言われ、了解した。数日後その会社の人
3人が車で見に来た。どこまでが敷地ですかと尋ねられ教えた。
 これだけ広いと今の家を壊さずに建坪50坪の家が建てられますよ
と言った。そして関係者の1人が敷地が広いから、まず新しい家を
建ててから近所の解体屋に古い家を壊すようにした方が、
安上がりだと教えてくれた。1981年6月から工事して
9月中に入居できますと言われて、お願いする事にした。

 幸夫は妹の安江に家は寛太の名義で、ここに建てて寛太から家賃
をもらうことにし、それで借金を払ってもらうことにすると言った。
 1981年9月に、立派な2階建ての木造の一軒家が完成した。
 その週の日曜日に、家族総出で家財道具を運び入れた。
 寛太が家財道具で使えないような物は買い換えろと100万円を
安江に渡した。寛太が、幸夫おじさんに株投資を教えてもらい、
稼いだ金だと言った。安江は寛太と、幸夫にお礼を言って、
寒くなる前に、いらなくなった家財道具を処分して、
新しい家財道具を50万円かけて、買いそろえてた。

 古くなった家はとり壊さずに、嵐山家と安江の実家の物置
として使う様に提案した。その後10月中に家財道具の整理が
終わって、新しい文化的な生活が始まった。11月になり
寒くなって来たが、高断熱ペア硝子の窓と断熱性の高い壁の
お陰で、以前よりも暖かくなり、快適な生活ができ、大きな風呂と
1階、2階にトイレを完備して、近代的な家に生まれ変わった。

 きれいな家になると不思議なもので以前に付き合いのなくなった
近所の人達や、安江と寛太が世話になってる漁協の人達も、
良く魚を持って、来てくれるようになった。
 そして、1981年が終わり、1982年を迎えた。
 1982年の正月の新年会に、嵐山家に漁協の社長もすき焼き肉を
持って挨拶に来てくれ、立派な家を建てたな、良い実家を持って良かったな
といってくれた。漁協近くの食堂や店屋の人達も、いろんなものを持って、
家を見に来た。長女、和子、三男の良三も札幌から帰ってきて、
新しい家を見て、広い、暖かい、きれいと驚いていた。
 そして、差入れの酒や魚を安江と和子と寛太で手分けして料理して、
リビングのテーブルの大皿に出してくれ、6人で、食べた。
 寛太と幸夫は熱燗の酒を飲みながら、料理をつまんで満足そうだった。
 良三が、株で幾らぐらい儲けたのかと聞くと、幸夫が2人で高額の宝くじの
当選金額くらいかなと言った。1億円越えかと聞くと、金額は秘密と言った。

十七話:嵐山家の新居を建てる2

 良三が、こんなに快適なら、正月休みはずっと家にいてテレビ
でも見ていようと笑った。好恵が、苫小牧の洋品店を退職して、
札幌のデパートの用品売り場に就職することが決まった様で、
大喜びだった。デパートには女子寮があり、そこに入って仕事に
行くようだ。

 寛太は1月4日から、幸夫の家に行き、株の大発会の状況を
聞いていた。今年はトヨタ、ソニー、セブンイレブン株とも
下げているから、早めに買いをいれた。1982年1月にトヨタ株
555円で2万株1110万円で、ソニー株を1300円1万株と
1300万円で買い、残金が567万円になった。

 1月6日から、漁協の仕事始めだったが、この年は、
 天候が悪く、開店休業の日が続いた。そんな時は、寛太は
 英語の本を読んだり、株の勉強をする日々が続いた。
 1982年は、災害の多い年になった。2月8日、
ホテルニュージャパンの火災が起きて33人が死亡した。
 7月には、九州北部集中豪雨で長崎市で大洪水が発生し
同じ時、奈良県でも浸水被害が発生した。8月には台風10号が
愛知県に上陸し、死者・行方不明者95名の被害を受けた。

 8月20日にセブンイレブン・ジャパン、初の無額面化に
よる株式分割を発表した。1082年10月に日本初の本格的
パソコンPCー9801が発売され、新しもの好きの幸夫も
予約して、購入した。秋風になり、やがて雪が来て12月、
1982年が終わり、1983年を迎えた。

 嵐山家の新年会に、安江、寛太、和子、二郎、良三、好恵が
来て、にぎやかだった。今年は、良三が26才になって、
新米の医者のスタートする年だ。循環器内科(心臓・血圧)に
入局して指定された病院を毎年交代制で派遣されることになる。
 良三は、救急病院を経験したいと、最初は、札幌市内の救急病院
の循環器内科を行く事になるだろうと話してくれた。
 長女の和子は、苫小牧東高校の国語の教師になって早いもので
4年目となり、かなり慣れてきたと言った。みんなと食事して
 にぎやかな正月だった。1月9日、自民党の北海道選出の
中川一郎議員が札幌市内のホテルで遺体で発見され、自殺説など、
いろんな憶測が飛び交った。

 また4月15日に東京ディズニーランドが首都圏にお目見えし、
正式に東京ディズニーランドとして開演した。
 その後1983年6月12日に二郎の長男、嵐山宗一が誕生、
目のくりっとした可愛い子だった。

 10月12日にロッキード事件の丸紅ルート裁判の第一審で
田中角栄元首相に懲役4年、追徴金5億円の有罪判決が出て、
この結果を受けて、衆議院解散(田中角栄・判決解散)となり、
選挙が行われることになった。

十八話:寛太の結婚

 1983年は、嵐山家や幸夫の周辺でも、平穏な年だった。
 そしてまた、1984年が明けた。この冬、幸夫が風邪を
こじらせて昨年の12月29日から、嵐山家の2階の6畳の部屋で
寝ていた。新年会にきた、良三が近くの病院へ行きレントゲンを
撮ったりして肺炎の兆候は見られないといわれ安心し1月3日に、
元気を取り戻し、普通通りの食事ができるまで回復した。

 1月4日大発会にトヨタ株が上昇して1140円で売り指し値を入れ、
売れ、利益1112万円を得て、残金が1679万円となった。

 4月に、良三が苫小牧の王子総合病院の救急センターに赴任して来た。
 家から病院に通うようになった。これには、母の安江が、喜んで、
せっせと弁当を作って送り出すようになった。
 この年、寛太が港の食堂の娘さん、斉藤君恵さんを母の安江の所へ
連れてきて、つき合って3年目になったが、結婚したいと言った。
 なれそめは、寛太が、朝早くから港の市場の下働きをして、手が空く
9時過ぎに、何か手伝うことはないかと言われ、市場の風雪食堂の
手伝いをし始めて、高校を出たばかりの君恵と一緒に仕事をする
ようになり、仲良くなったそうだ。もともと、店主の父、佐藤秀夫も
母、佐藤友子も寛太の仕事のぶりを気に入っていたので、
結婚を喜んでくれたらしい。寛太31才、君恵19才だった。

 数日後、漁協の集会所で仲間内30人ほどが集まって結婚式をした。
 幸夫も寛太の結婚を祝福してくれた。新婚旅行は、日曜日に
新冠のサラブレッド牧場へ行き母馬に寄り添う可愛い子馬を見て、
こんな可愛い子が、早く欲しいわといって喜んだと教えてくれた。

 そして、1984年が去り、1985年となった。1985年、
寛太の8畳の部屋に一緒に住んだ、君恵が、おめでただとわかり、
仕事を休む事になり、最初の3ヶ月間は心配だからと言うので
母の安江が一緒についてやる事にした。

 株の方ではトヨタ株が下がってきて、2月に753円で1万株買って
残金が926万円となった。6月にソニー株が上昇し2200円で
1万株を売り、855万円の利益が出て、残金が1781万円となった。

 1985年9月20日、2900gの男の子を出産した。名前を元気で
逞しい子に育てと嵐山鉄郎と名付けた。出産後、まもなく10月には
家に戻り、心配なので3ヶ月間、母の安江が仕事を休んで見てやる
ことにした。やがて1985年は終わり、1986年を迎えた。
 この年の嵐山家の新年会は、生まれたばかりの嵐山鉄郎を
見たいという、人が多く、元日から訪問客が手土産を持って、
引っ切り無しに訪ねてきた。そのお陰で数日、買い物に行かなくて
良いくらいに食べ物がいっぱいになった。 

十九話:寛太の子・鉄郎の、お披露目

 その時に特に印象に残ったのは漁協の山下社長の一言だった。
 山下社長が来て出産おめでとう、玉の様な元気そうな男の子を
見て17年前、1968年に亡くなった、寛太の父、嵐山正一も、
天国から、寛太の子をみて、さぞかし喜んでるだろうと涙ぐんで、
しみじみと本当におめでとうと言ってくれた。

 それを聞いていた母の安江が社長に抱き付き、あの人に孫の
顔を見せたかったと言いながら泣き崩れた。それを見ていた
家族も思わずもらい泣きした。社長が一升瓶と祝儀袋を安江に
手渡してくれた。次に社長が、寛太を呼んで、でかした、
お前の子供は、俺等の宝だ、良い子に育てろよと荒っぽく、
肩を強くたたいた。次に君恵の、実家の両親が訪ねてきて、
君恵の父の佐藤秀夫が、俺等の子供は君恵一人で大事に育てた。
 その娘が子供を産んで佐藤家の3代目ができたんだ、
うれしいよ、これで、また次の世代に橋渡しできたんだ、
鉄郎には逞しい、でっかい男になって欲しい。
 本当にうれしいよと男泣きしたのだった。そして寛太を呼んで、
良い子に育ててくれと、肩を抱き合って喜んだ。

 また、港の職場や、近くの商店の人達も鉄郎の可愛い顔を見て
、元気をもらえるよと喜んでくれ、また、港の方に鉄郎を見せに
来てくれと言った。寛太が、港の有名人になっていて、
その息子誕生を、港の関係者全員で祝福してくれた。
 こうして、寛太にとって一番、忙しいかった1986年の
正月が過ぎた。その後、寛太は、仕事が空くと、急いで家に戻り、
鉄郎の顔を見ては、あやして帰る日々が続いた。
 少しずつ暖かくなり、4月を迎え、君恵も実家の食堂の
手伝いを始めた。4月は、1日おきに出て、5月の連休明けの頃
から普段通り、週5日の仕事を始めた。寛太は、以前の様に日曜日に
幸夫の所へ行かなくなり鉄郎のそばから離れなかった。

 株の方は激しい動きはなかった。鉄郎は生後、半年を過ぎると、
ハイハイをするようになり、表情も出てきて、時折見せる笑顔は、
まるで天使の様で、みんなを笑顔にしてくれた。
 港の仲間達も、その鉄郎の笑顔見たさに手土産をもって頻繁に
訪問してくれた。もちろん、家族達は、その笑顔見たさに、
仕事を終わると早く帰ってくる日々が続いた。夏が過ぎ、
涼しくなったかと思うと、時化始め、11月、12月と時が
急いで過ぎていき、1986年も終わり、1987年を迎えた。

 今年も正月から可愛い鉄郎見たさに大勢の人の訪問があった。
 15畳のリビングと、8畳の部屋と、ダイニングルームに、
 大勢の人達が集まってきた。幸い、差入があるので、
酒とつまみは、十分だったが、食器を運んだり、料理したり、
女性達は、てんてこ舞いで大勢の客の応対をするのだった。
 そして鉄郎へのお年玉袋の数もその分多かった。この頃には、
時折、立ったりするようになり、もう少しで立つ予感をさせてくれた。

二十話:北海道をドライブ1

 12月もあっという間に過ぎ、1987年が終わり1988年
を迎えた。達郎が2才になんな、寒さ厳しい2月に、鉄郎が風邪を
引いて真っ赤な顔で、みんなを心配させた。ちょうど王子総合病院
の内科の良三がいたので処置の方法を教えてもらい頭をひやせ
水を飲ませろ、薬を定期的にのませろと指導されて5日ほどで
熱が落ちて、普通通りに戻った。良三が、母の免疫から、
鉄郎自身の免疫、つまり細菌やウイルスと戦う力を
試され始めたと言うことだと話してくれた。

 1987年3月にソニー株が下げてきたので1180円で
1万株、買い指値を出し買えた。残金が601万円になった。

 やがて5月になり鉄郎が立って歩く日が多くなり目が
離せなくなった。頭が重いせいか、すぐ転げてしまうのだ。
 8月になる事には、立って歩くようになり、転げなくなった。
 家の周りの砂の多い場所で、寛太が鉄郎を遊ばせる日が
多くなっった。その後、天気の良い休みの日は、鉄郎は寛太と
散歩するのが楽しみのようで、すぐに、玄関へ行き、出て行きたい
素振りをした。もう一人前に御飯を食べて元気いっぱいに
遊ぶようになった。今年は、夏休みに、寛太と鉄郎と君恵で、
新冠のサラブレッド牧場へ馬を見に言った。

 馬を見ると、鉄郎は、喜んで、はしゃいで、走り回った。
 9月20日に2才の誕生日を迎え、すっかり元気な男の子と
言った感じになった。その頃、幸夫おじさんが三菱パジェロ
という4輪駆動の車を買ったので、見せに来た。
 7人乗りで、どこでも走れると言い、そのうち、ドライブに
行こうと言ってくれた。翌週の日曜日に電話が入り、洞爺湖と
支笏湖をドライブして、たくさんの写真を撮ってきた。
 その翌週の日曜は朝早く出発して襟裳岬までロングドライブ
を楽しんだ。寛太、お前も、運転免許取れと言われ、
10月から、時間を見ては運転免許の学科試験の本を勉強して、
人気のない場所を見つけては、内緒でハンドルを握り運転の
練習をして11月には、免許を取った。

 その頃には、雪が降り出し、時化の日が続いた。そんな日は、
寛太は、鉄郎とボール遊びしたり輪投げをしたしして遊んでいた。
 この頃から、正月に、あれだけ多くの人がに集まっていたのが、
めっきり減ってきた。それでも、君恵の実家のご両親や、
幸夫おじさん、港の商店のおばさん達は、来てくれた。

 この年1988年は、株の方は、あまり大きな動きがなかった。

 1988年の4月23日に二郎の次男、嵐山啓二が誕生した。
 手の甲が厚くがっちりした感じで将来、大きな身体になりそうな
予感する逞しそうな男の子だった。これで兄弟で1番の子沢山で
3人の子供のパパになった。5月になり幸夫おじさんがドライブに
誘ってくれるようになり、札幌まで連れてってくれた。
 途中、大きな道では、寛太に運転を交代して運転させてくれた。
 来年あたりは泊まり込み、出かけようと言ってくれた。

二十一話:北海道をドライブ2

 6月は、苫小牧から南下して、函館まで足を伸ばし、夜遅くに
苫小牧に帰ってきた。2人交代で運転すると楽だと幸夫おじさん
が言った。8月は、朝早く起きて、富良野のラベンダー畑へを
見に言った。ラベンダーを初めて見た君恵は、わー素敵と
多くの写真を撮った。9月は、千歳経由で帯広へ言った。

 10月は、札幌へ行き、狸小路や円山公園を散歩して楽しんだ。
 今年は、11月から雪が降り出し家にこもる日が多くなり年の瀬
を迎え、また1989年が明けた。今年は初詣でに行き鉄郎を
家族や仲間達の健康を祈願した。新年会で、良三が王子総合病院
に就職できるかも知れないと言った。北海大学付属病院から
出たくない医者が多い様で、もし今年、就職できたら良いんだけれど
と抱負を述べていた。長女の和子も、苫小牧東高校の国語の教師が
長くなってきたが、やはり札幌周辺の高校を希望する先生が多い様で、
お陰で長くいられると話してくれた。

 3月になりトヨタ株が上昇して来て2400円の売り指値を入れて
待つと4月に売れて1565万円の儲けで残金が2165万円になった。

 今年は、5月の連休に、幸夫さんのお誘いで寛太と好恵と鉄郎と
一緒に函館から松前、江差をまわって登別の温泉に一泊して帰ってきた。
 8月には、富良野のラベンダー畑を見て、美瑛の美しい丘を散策し、
旭川に宿泊し、稚内まで行き、帰りは札幌に宿泊して、苫小牧に帰った。

 9月に入りソニー株が上昇し始め4300円で売り指し値し、売れて
2964万円の利益で、残金が5129万円となった。

 近くの幼稚園に空きが出て、長男の鉄郎が入園した。最初は、母、好恵
と別れるのをいやがって、ぐずっていたが、入園して2ケ月すると、
幼稚園で友達ができ、楽しみに通うようになった。

 雪が降り始め時化の日が多くなり1989年が終わり1990年になった。

 1990年入ると、2月に株価が大きく下げた。2月23日には936円安
の終値3万4891円,2月26日には1569円安の終値3万3322円と
不安な幕開けだった。10月には遂に2万円割れまで大きく下げた。
 世界情勢も混沌としており8月にイラク軍がクウェートに侵攻した。
 また、10月3日、ドイツにとっては、記念すべき東・西ドイツの統一が
実現した。日本では、株価低迷とともに、銀行の合併が多く行われ始め、
景気低迷を象徴する出来事だった。そして、日本中が重苦しい雰囲気で
1990年が終わり、1991年を迎えた。1991年は1月17日、
クエートで湾岸戦争が勃発し、日本でも多くの時間を割いて報道した。
 6月3日には、雲仙普賢岳で火砕流発生で死者・行方不明43人となった。
  嵐山家では、寛太の息子・鉄郎が小学校に入学した。

 株価低迷の中、ソニー株が下げてるのをみて1991年10月に
ソニー株1200円で100株を購入し残金が3929円となった。
 やがて1991年が終わり1992年が明けた。この年も、日本株が
低迷して、静かに大蔵省主導の元に国民に知られずに、密かに多くの
地方の脆弱な銀行が次々に救済合併という名の元に倒産していった。
 政治、経済は自分たちの国の運営の失敗を国民に知られない様にして、
帳消しにして、後々にそのツケを国民に払わせる下準備をしたという時代だった。

二十二話:安江の父の死と孫の誕生ラッシュ

 米国では、黒人差別に反対してロサンゼルスで黒人暴動が起きた。
 日本も世界も人々の鬱積した不満がたまり、時に爆発するという
不安定な情勢だった。そして1991年が終わり1992年となった。
 1992年は6月に、長女の和子(1954生)38才が、
同じ苫小牧東高校に勤める数学教師、東出浩一(1950生)42才
と結婚し、安江の元から出て行った。

 この年も株価低迷で下げてきたトヨタ株を1992年2月に
1300円で1万株買い、残金が2629万円となった。

 この年に嵐山家の実家で、母、安江の父、嵐山太郎(1910生)
82才で11月に脳溢血で入院していたが、死去した。
 その後、彼の奥さん嵐山聡子は、実家を出て、寛太の家に
入ってきた。寛太の家は、聡子、寛太、和子、二郎、良三、鉄郎の
7人の大家族になり安江の仕事が増えて港での仕事ができなくなった。

 そうして、1992年が終わり1993年を迎え 欧州経済共同体
に加盟する12か国による世界最大の単一市場・EUが出現した。
 1993年は6月に、三男の良三(1957生)36才が、
同じ王子総合病院に勤める看護婦、山田博子(1971生)22才
と結婚し、1973年9月22日に長女、早苗が誕生した。

 その後、やっと1994年に、株価が上昇し始め、寛太は
1994年3月にソニー株1万株を3100万円で売り、
1805万円の利益を得て、残金4434万円。

 1994年6月16日には、寛太と好恵の間に長女、仁美が
 誕生した。この2年で2人の孫誕生に安江の母、聡子(1913年生)
81才も、忙しい安江と一緒に2人の孫の面倒をみるようになり
元気をを取り戻してきた。

 翌年、1995年にソニー株が下げてきたので1995年3月
にソニー株1万株を1880円で買い指値を入れて買った。
残金2554万円。

 この頃には、幸夫おじさんの株のもうけが大きくなり、寛太たちが
以前住んでいた倉庫を壊して、新しい、大きな離れ着きの5LDKの
大きな家を寛太と折半で建てた。この家は5月に契約して8月に完成した。
 10月には、寛太の家族4人と離れを幸夫の書斎と寝室として
住むようになった。こうして、安江の住む家が少し広くなったので、
長女の和子も泊まりに来るようになった。1996年4月に、三男の良三の
3人家族が王子総合病院の社宅に空きが出たので、引っ越していった。
 すると、長女の和子夫婦が引っ越して、安江の家に入ってきて、
家事を手伝うようになった。その年の9月に、良三が急に結婚すると、
3才年下の彼女、柳田智子さんを母の安江に紹介するために嵐山家に
連れてきた。安江が、もしかして、智子さん、おめでたと聞くと、
恥ずかしいんですが、妊娠4ヶ月ですと言った。
 結婚式はいつにするのと言うので、身内だけで来月あげたいのですがと
言った。そして10月17日、近くの結婚式場で結婚式を挙げた。
 これにより、安江は、随分楽になり、また港で仕事を始めるように
なった。和子と亭主の東出浩一は、寛太の長男、鉄郎、小学校5年生
の勉強を見てやるようになり、一層懸命に勉強するなった。
 1997年になり、鉄郎は地元の公立中学に通うようになり、
和子と亭主の東出浩一は、安江の家の8畳の部屋で週に4日、
国語、英語、数学の塾を開いて、月6万ずつ、安江に支払う
ようになった。その時に鉄郎も無料で教えてもらうようになった。
塾に通うようになり、鉄郎は、数学に興味を持つようになり、
成績も上がってきた。

二十三話:日本初のインターネット関連株

 そんな1997年1月に寛太は幸夫の部屋に呼ばれ今年3月に
ヤフーという、日本初のインターネット関連株が上場するので、
投資しないかと持ちかけられた、もし化けたら、大きな儲けに
なると説明され、一緒に買いを入れることにした。
 1997年11月に1株、200万円を寛太と幸夫が
1株200万円で買った。これが大当たりして1999年11月
には何と6億5千万円になって売った。これにより、とんでもない
資産を作った。更に、かなり前1978年1月に購入した
セブンイレブン株が11倍の分割で1万株が11万株になり
1960円で売却でき2億2千万円の利益を得て103588万円
と天文学的金額になったので幸夫さんに借りた5千万円を返すというと、
いらないと言われた。その後、幸夫は自分の資産を安江、寛太、
好恵、鉄郎、仁美の口座を利用して、毎年数百万円ずつ移動し始めた。

 1997年3月12日、良三の長男、良一が誕生した。
そこで、幸夫が良三に金は貸すから、内科医院を開業しないか
と持ちかけた。そして、幸夫と寛太が良三に1億円の融資の
書類を作成し融資した。すると開業するとしても苫小牧よりも
大都会、札幌の方が良いと言った。

2000年に入り2月22日ヤフージャパンが1億6790万円の
最高値を記録した。ところが日本株のピークだったようで、
その後バブルがはじけて急激に株の大きなが下げの波が押し寄せた。
 3月31日-4月27日 光通信、20営業日連続ストップ安と
いう下げの新記録をつくった。光通信の信用の失墜は、
光通信の関連企業だけでなく、日本のIT業界全体に波及し他の
ITベンチャーの株価まで急落させる事態になりました。
 日本のITバブル崩壊は光通信の架空契約発覚からだといえます。
 関連するITバブル銘柄、光通信、ソフトバンク、ヤフー、
NTTドコモ、楽天で、かなり激しい下げを演じた。

 また米国では2000年度年間売上高1110億ドル(全米第7位)
2001年の社員数21000名という全米でも有数の大企業だった。
しかし、巨額の不正経理・不正取引による粉飾決算が明るみに出て、
2001年12月に破綻に追い込まれた(エンロンショック)。
 破綻時の負債総額は諸説あるが少なくとも310億ドル、簿外債務を
含めると400億ドルを超えていたのではないかとも言われている。

 そして2000年が終わり2001年を迎えた。この頃から日本の
都市部を中心に急に地価が下がりだした。それを見て寛太は2001年
2月に札幌の不動産屋さんをまわってビルをさがすとバブル崩壊で
下がって売れないビルも出てきたと言ったので5-6階建てで
駅から近く便の良いところで売れなくて困ってる物件を安く買って
欲しいと言い、いくつかの物件情報が届いた、その中で札幌駅と
苗穂駅の間で札幌厚生病院近くに土地100坪で6階建ての
建坪500坪、築2年の物件が2億円で出ていたが、現状渡しで
1.5億円なら交渉できるとと言ったので、その週の2月20日
の日曜日、寛太と幸夫と良三で見に言った。

二十四話:購入した札幌のビルに診療所

 交通の便話悪くない、だた、診療所をつくるには、工事が
必要になると言った。不動産屋との交渉で1.5億円なら、
売買交渉に乗ると答えた。不動産屋が了解したと答えて、
交渉に入ると言ってくれた。翌週の週末に電話で交渉が決着し
1.5億円で販売契約できたというので、翌週の2月27日、
日曜日に、寛太と幸夫で札幌の不動産を訪ねた。書類を揃えて
きたので、幸夫が売買手数料が500万円上乗せして1.55億円
と書いてあったの1.5億円でないと駄目だと言うと、不動産屋、
手数料いただくのは当たり前だ言い返してきたので私は1.5億円
というので契約すると言ったので何とかしろ契約書を突っ返した。

 支払い方法はと聞くので現金で払うと言うと、ちょっと待ってと
言い、数分後了解しました1.5億円で結構ですと契約書を
書き換えてきた。その契約書にハンコをついて、不動産会社の
銀行口座に1週間以内に入金すると言い、もう一度、そのビルを
確認しに行った。ゴミやいらないものが、入り口近くにあり、
各階にもゴミがあったので、明け渡しまでに、ゴミやいらないもの、
看板等は、全部撤去するように指示した。いつまでですかという
ので今月中にやってくれと言うと了解しましたと言った。

 そして、札幌を後に帰路についた。2001年3月には、
寛太の息子の鉄郎が苫小牧東高校に合格して1年生で数学、
理科は学年トップの成績で、東大か東工大を目指せると
先生に言われるくらいだった。そこで土日に、このビルの進学塾
に来るようになり一生懸命に勉強をして更に成績を上げた。

 その後、良三に4月からでも診療所を開設できるというと、
わかった、病院や大学の仲間と相談して、3月までには、
連絡すると言った。この話を、長女の和子と亭主の東出浩一
に話すと、面白いかも知れない。一生、学校の先生で終わるのも
味気ないと思っていたそうで、札幌なら進学塾も生徒が集まりやすい
ので検討させて欲しいと東出浩一の方が積極的に話に乗ってきた。

 2月になって、良三の方から、1フロアー貸してもらって、
クリニックを4人でやろうという話がまとまったので、
フロアーの工事の打ち合わせを2月中旬から始め、
3月中頃に終わらせ、4月1日からの診療開始、遅くとも
4月中の開院で行きたいと言ってきた。幸夫が工事代金は、
良三達で支払うと言う事で良いのかと聞くと、みんなに
確認してみると言い、数日後、彼らで支払うと連絡があり、
工事の打ち合わせをして開始した。東出浩一の方は
2002年4月までに結論出すのは難しいと言い、夏くらい
までに結論出すと言い、1フロアーを借りる方法で話を
進めてみると言うので幸夫が了解した。賃料は特別に最初は
20万/月と言うと良三が了解しましたと言った。その後、
幸夫が寛太に札幌のビルで投資教室を開かないかと言い始めた。
それは面白いかも知れないねと寛太が言った。
 3月下旬になり良三が奥さんの看護婦の博子さんも参加しない
かと聞いた所、当面、病院で勤めたいと言ったので了解したようだ。

株の方では、ヤフー株の下げ止まりとみて寛太が1000万円購入し
、残金が102588万円となった。

二十五話:購入した札幌のビルに進学塾

 和子の亭主、東出浩一の方の塾の方の話が、とんとん拍子
に進んで、札幌の公立高校の教師3人が協力したいと申し出
があり、3月中に退職願を出して、4月から進学塾を始めたい
と言うことになった。賃料は、最初20万円と言うと、
軌道に乗るまで15万円にしてと言ってきたので、仕方ない、
他には言わないという事で1年間限定で15万円年、
2年目からは20万円で、やって行けそうもないと
わかったら速やかに出てもらうという事にした。

 奥さんの和子さんは当面、苫小牧東高校で働き、札幌の進学塾
が軌道に乗ったら、その時にまた、考えてみると答えたそうだ。
 4月になり良三が王子総合病院を退職して医院の事務職員を
募集し、北海道大学の内科医師4人と契約して、2診体勢で
始めることになり、すぐ近くの札幌厚生病院や北海道大学病院、
その他の大手病院の医局に挨拶回りして回った。

 そして、4月1日から診療開始し、朝9時から夜6時、6時以降は、
急患受け付けを開始した。6時以降は北大内科の医師や研修医に
ポケベルも持たせ、休憩室に待機してもらう体勢をとったのだ。
 最初は、患者さんもまばらで、良三も手持ちぶさたの日が続いたが
、夜の救急に大勢の患者が来るようになり、研修医だけでは、
厳しくなり、若い医者と研修医の2人体制として、良三も
週に3回、泊まるようになった。半年が過ぎ、急患を手早く、
大型の救急病院に手早く回すのが好評を得て、救急の患者が、
その後、通院するようになり、昼間の患者さんが増えてきて、
その年の10月には、3診体勢になり、更に患者が増えていった。

東出浩一の進学塾の方は5月の連休明けにオープンして土日、
夜間9時までが中心で、生徒が入ってきた。進学塾の中には、
英語塾も併設して英検合格コース、TOIECコースをはじめると
、英語塾の方の生徒が増えていった。それでも進学塾は、
北大進学コース、札幌医大、北大、小樽商大や、東京の
私学コースなど専門性を打ち出し、生徒が集まってきた。
 そして、寛太に賃料を20万円し払うと言ってきた。
 幸夫がバブルがはじけて来た頃に、足元を見て商売するの
賢い商売の方法だと寛太に教えた。屋上のワンフロアーを
寛太と幸夫の家として使い、鍵を3つ作り、寛太と幸夫と
安江に預けるようにした。簡単な間仕切りと作り4つの部屋と
リビング、風呂をつける工事で200万円で業者にお願いした。
 大きなソファーと、普通ベッドとしてもつかえるタイプの
2段ベッドを3つと3つ口数コンロ、電子レンジ、冷蔵庫と
洗濯機と大型テレビを100万円で購入し、
備品合計で300万円の出費となった。

二十六話:購入した札幌のビルに銀行と証券出張所

 そうして、落ち着いた6月に、幸夫が投資教室を考え、
札幌の証券会社に、投資教室を、開催するから出張所を
出さないかと持ちかけたが、反応が薄いので、一番大手の
N證券に、D証券の反応が良いのでと話し、中堅のTT証券
、OS証券にも話を入れた。すると、最終的にD証券が
出店を作り、また、投資教室に特別講師を出しても良いと
言ってくれた。その頃、シティバンクが札幌支店を開設
したので勉強のためと幸夫が寛太を誘い、シティバンクNAの
札幌支店を訪問しファンドやいろんな投資商品を説明してくれ、
口座を作り、1000万円以上預けてくれれば、ゴールドメンバー
として勉強会や他では買えない世界中とファンド、貴金属、
プライベートバンクを利用できると説明され、幸夫が寛太が
口座を作り、幸夫は全財産を預けた。そして、数ヶ月後、
大和銀行の出張所が2階の1フロアーの半分しか使ってないので、
出張所と出さないかと札幌支店の支店長に掛け合うと、
本社と相談して答えると言われ、数日後、相談室を出すと
言ってくれた。もちろん、家賃12万円/月は、いただく
契約を取った。5月の連休を終えてシティバンク札幌支店
とD証券に投資教室のご案内と窓口においてもらった。

 シティバンクでは、ゴールドメンバーに渡す資料の中に
入れてくれると言ってくれた。その後、50人から電話連絡
があり、空いてる4階のフロアーに、椅子と長机をいれて、
教室形式にした。開催日は土日の午後1時から3時までの
2時間とした。最初は、幸夫が投資の基本的な話しや心構えなど、
投資する立場に立った話をして、次に、具体的に現在の株価で
、割安の大型銘柄を資料を使って説明した。次に週1回ずつ
土日のどちらか、シティバンクがファンド、ヘッジファンドや
ETF、プライベートバンキングの話、D証券が海外の債券
の話や外貨MMF、国内MMF、MRFの話や、新規上場銘柄の
情報などを話した。シティバンクでは、間接的にでも
ゴールドメンバーを紹介してくれれば、豪華賞品か、相当分の
現金をくれるというので賞品をもらうことにした。

 その後、札幌の富裕層が、社交場のように使い出し、
シティゴールドメンバーが10人以上集まり、いただいた賞品を、
ゴールド専用のソーファーのある部屋に置き、珈琲、紅茶、
お茶、羊羹、和菓子、洋菓子をシティバンクの提供で置いた。
 するとシティバンクの社員が、富裕層の相談係として
常時2人派遣してくれるようになりゴールドフロアーは、
平日も明けるようにして、投資商品のパンフレット、資料の棚を
用意してもらい、シティバンクとD証券で管理してもらうようになった。
 また富裕層のご老人達は、土日以外でもOKというのでシティバンク
が20人集まれば、講師を派遣して勉強会を開くと言ってくれた。
勉強会の告示を入り口に貼ると、60人の定員が埋まるようになった。

二十七話:投資教室と鉄郎の東大合格の快挙

 そして、ゴールドメンバーが口コミで、どんどん増えてきた。
 シティバンクは、何かにつけて、商品を出すので、
シティの投資商品は面白いように売れていった。
 しかし、D証券は地味な営業で、あまり人気がなかった。
ほとんどが株投資の助言を求める客が多かった。
 特にシティバンクでは、自社のチャイナファンドを強く
すすめていた。9月になりシティバンクの投資商品を幸夫も
間接的にすすめて、購入されるお客があると購入額に比例した
100万円で1万円1%のキャッシュバックをもらえた。
 その後、成績が良いので、シティバンクから、詳細は
書けないが毎年のように接待を受けるようになった。

 そして、翌年の2001年から東京で行われる勉強会にも
寛太と幸夫が招待されるようになった。結局、投資の本格的
勉強でなくて、富裕層のたまり場、社交場になってしまった。
 しかしそれでも、十分な報酬と知識を得られ、幸夫は満足した。
 幸夫、寛太とも、2001年にHSBCチャイナファンドを
1千万を購入した。その後、頻繁に東京や大阪、那覇と訪れる
ようになった。10月過ぎの寒い時期は沖縄でゆっくりしに
寛太と安江を連れて行くようになった。

 2001年が終わり、2002年になり全国の統一テストでも、
偏差値が高く、東大、東工大が射程範囲に入ってきた。
 その後も札幌の進学校のライバルたちをしのぎを削り順調に
成績を上げてきた。

 その頃シティバンクでも金価格が安いので買い時だと言って
いたので、幸雄の援助もあり2002年12月にゴールドの
ETF5千万円分とSP500ETF1千万円分をシティバンク
を通じて購入した。寛太の長男の鉄郎が2003年に念願の東大の
工学部電子情報工学科にを受験して合格した。これに一番感激した
のは幸夫で、遂に我が一族で日本の最難関の東京大学に合格した
鉄郎を強く抱きしめ、良くやった、本当に良くやったと抱きしめ
ながら男泣きした。そして幸夫が鉄郎にシティバンク口座を作らせ
合格祝いに100万円を入金した。寛太は下宿代として年間120万円
出すと言った。合格祝いにパソコンが欲しいというので
デルDIMENSION4500とディスプレイで15万円を
買ってあげた。合格してから鉄郎に寛太と奥さんの好恵と幸夫が
着いていき、アパート探しを手伝った。最初に東京駅、渋谷、
新宿、池袋、横浜、千葉をまわる予定だった。東京、渋谷、上野、
混みすぎて嫌だと言い、横浜へ行くと良いねと、この周辺が良いと
言い出した。そこで、桜木町、関内、石川町をみて、桜木町、戸部、
日の出町、黄金町の当たりの賃貸マンションが良いと言い出した。
 6万円台の1DK物件を数カ所見て、自転車で、山下公園、
みなとみらい、伊勢佐木町、元町、中華街を散策できて気に
入ったとなった。お腹が空いたからと、中華街で遅い昼食を食べた。

二十八話:横浜にでかいマンション買うぞ 

 電話で宿探しして、その晩はMM21のインターコンチネンタル
ホテルを2部屋予約し泊まった。夜景の素晴らしさに感動し
都会でありながら、落ち着いた雰囲気で最高の景色、
夜景でほれぼれしてしまった。寛太がおもわず、こんな所に
住みたいと本音を吐いた。夜景を見ながらの夕食と、朝食、
その後の海辺の散歩、本当に感動してしまった。

 羽田空港までバスで15分と近い様だ。翌日は、契約した
アパートへ行き、必要なものを買い出しを手伝い、昼過ぎに
終えて、寛太、好恵、幸夫が羽田空港行きバスに乗り、
千歳から苫小牧に帰った。その晩、幸夫が寛太に話があると
2階の部屋で話を聞いた。まず、幸夫が俺も2003年で
76才にになる。金も十分できた。今の財産を使い切れねえと
思う。だから、お前に、俺の金を託すと言った。だから、その金を
俺たちの家族のために有効に使ってくれと言った。

 言いたいことはわかったと寛太が返事をした。次に寛太が、
俺、横浜の町を初めて見て良い町だと思った。だから、あの当たり
にマンションを買い住みたくなったと言った。
 すると、幸夫は、その考えも良いかも知れねー、いつまでも
北海道の田舎にいても仕方ないし、かといって人が多すぎる大都会
も息が詰まる。横浜みたいな適度な都会が良いかも知れないと言った。
 鉄郎たちの世代は、その方が幸せかも知れないと、しみじみと
言った。また、近いうちに鉄郎に会いに言った時に2-3泊して
、良さそうなマンションを探してみると寛太が答えた。

 2003年も鉄郎の東大工学部情報工学科合格で、幕を閉じ
2004年になった。この頃には、幸夫は札幌のマンションで
過ごすようになった。金は、寛太の口座に移すようになった。
 2004年6月に、寛太は息子の鉄郎に会いに羽田から横浜駅
で待ち合わせた、昼食をとりながら、港から近い所に大きな
マンションを買いたいと思っていると言った。
 不動産屋にも連絡してあると言い、食事後すぐに待ち合わせ場所
へ行くと車で迎えに来ていた。このあたりでは一番でかいマンションで
横浜駅へ徒歩7分と言った。マンションに着くと10階建てで
広さが101m3LDKの大きさで6人までは十分な広さに感じた。
 築5年で6380万円だと言った。とりあえず抑えるとして、
どの位の間、抑えられると、聞くと不動産屋が1週間というので、
それまでに連絡すると約束し、寛太の電話番号を教えた。

 その晩、みなとみらいのロイヤルパークニッコーホテルに
泊まり、朝食後、海辺を散歩して、羽田行きのバスに乗り、
昼頃に千歳空港から札幌の幸夫さんがいるマンションに行き、
買いたいと思っているマンションの写真と地図を見せた。

 良いんじゃないかと言ってくれた。それでは、これを
6180万円で購入しますと言い、苫小牧へ帰った。
 翌日、横浜の不動産屋に購入したい旨を伝えた。
 そして、関係書類を郵送するようにお願いした。2日後届いて
、書類を作成しハンコを押して送りかえし作成した書類が届いた
と連絡があり指定の口座に入金し、購入となった。
 と言っても、実際に支払ったのは、幸夫さんだった。
 翌日、買えたからと息子の鉄郎に話し、今借りてる賃貸
マンションを解約して、住んでいいと伝えた。
 あんな広いマンションに一人かよ、寂しーなと笑った。

二十九話:沖縄・那覇にも大きいマンション買うぞ

 また、ちょくちょく遊びに行くからと伝えた。10月に
女房の好恵と2人で横浜に行き息子の鉄郎と待ち合わせた。
 昼食後、不動産屋に行き鍵を2つもらい、1つを鉄郎に渡し
、もう1つを寛太が持った。不動産屋が、もっと鍵が欲しければ
、自分で作って下さいと言うのでそうした。新しいマンション
へ行き、好恵が、東京大学での勉強の話や、その後の生活に
ついて聞いていた。学校まで1時間15分程度である事、
家庭教師のアルバイトをやってる事などを話してくれた。

 鉄郎が、また、ちょくちょく来てくれよなと笑った。
寒くなったら、ずーといるかもよというと構わないよと言い、
うまい御飯をつてくれよと甘えてきた。そうして大きな買い物
をした2004年が終わり、2005年を迎えた。

 2005年5月に鉄郎から電話で寛太が投資で成功した
方法を教えて欲しいと連絡してきた。鉄郎が20才になったので、
SBI証券に口座を開いたと言った。ところで投資予算は
いくらあるかと聞くと300万円というのでそれでは無理だと
言い、1千万円をお前に投資するから口座番号を教えてと言い、
控えて、翌日、指定口座に入金した。入金を確認したとの鉄郎の
電話を聞き、CTSを38円で5万株買っておけと指示した。

 数日後、鉄郎からから買えたと報告があり、寛太が、そのまま
継続して持っておくようにと伝えた。鉄郎が、昨年から株の
勉強し始め、かなり勉強したがもっと知りたいと言った。
 寛太が株のことを簡単に短時間では教えられないと言い
鉄郎がインターネットTV電話で勉強したいと言うので了解した。

 寛太が、鉄郎の空いてる時間に連絡してこいと言った。
 その後、鉄郎が土日の夜9時から10時まで連絡してきた。
 具体的に注目してる銘柄を聞かれ、その他、日本SHLで、
現在は高値にあるが、400円を切ったら買いと言った。
 BSP、現在高値から下げてるが下げ止まりを買うべきだ
と言った。また具体的に指示すると言った。そして上級者用
の株の本と知っておくべき用語などを伝え関係する本を
買い読んでおけと言った。以前の言葉通り1月中旬から
幸夫おじさんと、母の安江が5月まで避寒のために、
横浜に滞在した。帰ってきて、やはり横浜のがずーっと
暖かいなーと2人は実感したようだ。この年は10月になると、
幸夫おじさんと、母の安江が横浜にやってきて中華街や元町、
東京、銀座、新宿、渋谷を回って、楽しんだようだ。それを
見ていた寛太がいっそのこと、那覇近郊のマンションも
買いましょうかと幸夫に言うと、それは良い考えだと言った。

 是非、調査して良い物件があれば買って欲しいと言った。
 天国まで、お金は持って行けないからと笑った。早速、
那覇の不動産屋に電話をかけて、90m2以上のめぼしい
物件を探してもらった。その結果6軒の候補があがった。

 翌週に那覇に飛んで、不動産屋さんと見て回り空港から
の便も良く那覇港に近くモノレール駅も近い中古マンション
を4520万円の物件を決めて、契約書にハンコをついて、
不動産屋の銀行口座を聞き、10月18日数日後支払いを
済ませて、鍵を3つ送ってきた。翌週に母の安江さんと
幸夫おじさんが視察をかねて、那覇のマンションに出かけた。

 あらかじめ不動産屋に那覇空港に迎えに行くように伝えた。
3日、宿泊して帰ってきた時は少し日に焼けていた。
 感想を聞くと、遠くに那覇の港と海が見えて、那覇市街地が
一望できて素晴らしい景色だと言った。また、美味しい料理屋や
スーパー、病院、郵便局、銀行、市役所の場所、空港行きのバス
、モノレールの駅迄の道など、懇切丁寧に教えてくれたそうだ。
 幸夫おじさんが、これからは、人生の最終章が近いから、
妹の安江と、横浜、那覇でゆっくり静養するのが楽しみだと、
うれしそうに笑った顔を見て、寛太と安江も、昔の苦労した
時代を思い出して、思わず涙をこぼさずにはいられなかった。

三十話:鉄郎、東大卒業しNTTドコモに就職 

 この頃に光ファイバーのインターネット100M時代を迎え、
札幌のビルでも使い始め、証券会社も大手証券からネット証券に
切り替えた。株式市場が上がって来て、2005年11月に
ヤフーを18400万円で売り16530の利益を得て残金が
112938万円になった。12月になり、あっという間に
2005年が終わり2006年になった。2006年には、
幸夫おじさんと、母の安江さんは、こちらの快適さに負けて、
10月から3月までは沖縄・那覇で過ごし、4月から6月は
横浜で過ごすようになった。

 息子の哲郎は、この2人の老人がタクシーで3分で横浜駅、
また10分で、元町、中華街、みなとみらい21、山下公園
などどこでも行けて、レストランも洋食から中華、和食まで
うまい店も多く、景色も良く、こちらに住むようになるのを
よくわかる気がした。この年にシティバンクの札幌支店が
閉鎖されると言う情報が入った。そこで寛太が、幸夫の許可を
得て、投資関連の事務所の閉鎖を3月に決めた。

 ちょうどその頃、良三の友人の整形外科医が、クリニック
を探しており、このビルの4階を使いたいとい言う情報が入り、
寛太が整形外科を開業したがっている小平昇平を紹介してくれ
月30万円の家賃で貸すことにした。その後、やむなく、
シティバンクから、他の日本の銀行をメインバンクにする事にした。

 ただシティバンクが世界中の投資情報や、ヘッジファンド、
海外支店での口座開設、プライベートバンク情報など、今まで、
知ることができない貴重な情報を教えてくれ、また、更に、
勉強会で、より詳しい情報を提供してくれたのは、大変助かった。

 日本の財務省(旧大蔵省)は、余計な入れ智惠をするなと
ばかりに、数回にわたる行政処分をかして、日本を再び金融鎖国
の状態にして、取れるところから手当たり次第に税金を取るという、
悪代官ぶりを、益々、発揮してきた。その後も、日本国民に
知られないように、水面下で毎年、数十行の、銀行の救済合併
という名の銀行倒産がおきて、日本経済が益々収縮していった。
 その後2006年が終わり、2007年が明けた。

 この年2007年に、シティバンクは日本の三井系の銀行、
支店、ATM、従業員を渡し、売却して個人向け営業から
撤退した。ただ、東京支店と企業向けの営業は継続しており
、一部の大口顧客は、例外的に取引をしていたようだ。

 その他、寛太の息子の鉄郎が3月に東大工学部を卒業し
4月にNTTドコモに入社して、スマートフォンのプログラム
の研究をする部署に配属された。5月に寛太と君恵が横浜の
マンションに行き、鉄郎に就職祝いの話をすると子供
じゃないんだから、いらないと言い月10万円の仕送りでやって
行けたし、今は、この豪華な広いマンションに住んでいて経費は
全て親父の支払いになっているので大丈夫だと言い、
むしろ感謝してると言った。

 2007年10月、母の安江さんと幸夫おじさんは、
那覇から、石垣島、西表島のハイキング、竹富島では牛車に
引かれて島を回り、星の砂を買ってきた。また来年は、
石垣島の先の波照間島、与那国島も行ってみたいと考えた。
 その他、宮古島、久米島、座間味島にも興味を持ったらしい。
 マンションを購入した不動産屋の人と仲良くなり、海釣りに
連れって言ったもらったのが随分うれしかったようで、
北海道に帰ってきても、みんなに話していた。

 幸夫おじさんは、苫小牧でも、横浜、那覇のマンション
を嵐山家のファミリーに、解放して出かける予定をカレンダー
に書いてもらい行く前にマンションのキーを渡すようになった。
 無料と言うわけにはいかないと言うので、1人1泊5千円を
いただく事にした。

 投資の方では2001年に買った1千万円分のチャイナファンド
が急上昇したので2007年10月に6500万円で売却できた。
 そして2007年が終わり2008年を迎えた。2008年に
シティバンクが財務省の何回もの営業の指導を受けついに、
日本での個人向け営業をやめてしまった。
 しかし、取引金額の大きい人は、個人向けとは、別枠で企業、
団体向けという事で東京のシティバンクでファンドの
売買はできファンドは継続して保有することができた。

三十一話:息子の鉄郎の結婚 

 2008年には、2001年から幸雄さんの
資金を寛太の口座に動かし続けて、既に、寛太の
資金の方が幸雄の資金よりも多くなった。
 シティバンクが閉鎖され銀行口座を国内大手銀行
に移す事になった。2008年は5月に寛太と妹の
好恵と、長女の仁美が3泊4日で出かけた。
 沖縄の名所、ちゅらうみ水族館やパイナップルガーデン
や、ひめゆりの塔、平和祈念資料館を見て回った。
 那覇市内では、大きなビーフステーキや、そうきそば
を食べ、楽しんで、あっと言うの4日間だった。

 8月の夏休みは、和子と二郎夫婦と那覇へ6泊7日
で出かけた。8月の夏休み、安江と好恵が横浜へ出かけた。
 鉄郎が久しぶりに会った、妹の好恵を見て、一人前に
なったねと笑った。鉄郎がレンタカーを借りて、三崎、
油壺水族館、横須賀、八景島シーパラダイスに連れて
行ってくれた。また好恵のたっての願いだった
東京ディズニーランドとディズニーシーにも
行ってくれた。山下公園、横浜港、海の見える丘公園、
外人墓地がすっかり気に入ったようで、
また、来年も来たいと話していた。
 その後、また今年も、幸夫と安江は10月から3月末
まで沖縄・那覇に滞在して離島巡りを楽しんでいた。

 11月5日に寛太が鉄郎に、日本SHLを370円
で370万円分、買うように指示した。その後、
買えたと連絡が入った。

 今年は、横浜のマンションに11月に君江と和子と
好恵と二郎が3泊4日でやってきた。年末年始に良三と
奥さんの博子さんが4泊5日で遊びに来た。

 そして2008年が終わり、2009年になった。
 2009年2月に寛太が鉄郎にBSPを380円で
380万円分買う様に指示した。数日後買えたと
連絡が入った。

 幸夫と安江は4月から6月は横浜で過ごすように
なった。4月15日に鉄郎が、自分と同じ年の彼女、
重田小百合さんを連れてきた。鉄郎の話によると、
同じNTTドコモの研究開発に勤務しているようで、
東京の世田谷のお嬢さんだと紹介された。5月には、
2人で鉄郎の両親、嵐山寛太と君恵に、会いに
苫小牧を訪問した。感じの良い、品の良い、
お嬢様と行った感じであった。できたら、今年中に
結婚したいと鉄郎が切り出した。母の君恵は、私たち
は構わないけど、小百合さんのご両親は、何て言ってる
のと聞くと、世田谷のお宅を数回訪問して、
結婚の承諾はもらっていると言った。
 そして、子供ができたら、引っ越すから結婚しても
横浜のマンションに当分いさせて欲しいと言うので
了解した。数日後、10月10日に横浜の
ホテルニューグランドで挙式をあげると連絡が入った。

そこで、寛太と君恵と鉄郎の妹の仁美と幸夫おじさん
と、おばあちゃんの安江さんの6人が出席した。
 10月8日から11日に横浜のマンションに6人で
泊まり、観光をかねて出かけた。その後、幸夫と安江は
那覇のマンションへ出かけていった。そして2009年は
、長男、鉄郎の結婚という大きなイベントで終了し、
2010年になった。この年も幸夫と安江は那覇の
マンションへ出かけていった。

三十二話:息子の鉄郎の結婚

 2010年は1月19日にJALが会社更生法の
適応を申請し事実上倒産した。会社を再建するため
に夏頃から希望退職者を募っていたが、目標人数
には達せず、12月9日、パイロットや客室乗務員
など約200人に対して最終手段である整理解雇を
行うと発表した。
 ギリシャで5月に突然財政危機が表面化した。
 これは今まで数字を偽装して隠していたものが、
昨年の政権交代で新政権になって、隠さずに発表する
ようになったため発覚したものだった。
 その後ギリシャは財政再建を進めようとしたが、
これまでのところ思ったほど財政は改善されていない。
 4月に英国BP社がメキシコ湾で原油流出事故を起こし、
原油封じ込めに3ヶ月も要して原油の流出は止まったが、
賠償問題や生態系への影響など、まだまだ後処理問題が
残された。

 日本国内経済回復の遅れのため、米ドルは今年の春、
以来下落を続け11月、1ドル80円の超円高になった。
 円高は国内の輸出企業の業績を悪化させ、また企業の
海外移転を促進するために雇用への悪化が懸念された。
 その後2010年も年末を迎え2011年を迎えた。
 2011年は、SP500ETFが下げていたので
7月に寛太は鉄郎に更に1千万円融資するから
2011年の8月初旬から8500円の指値で1千万円
買い続けろと指示し1100株を935万円で買った。
そして、2011年が終わり2012年を迎えた。

 2011年は、南半球で大洪水がオーストラリアで
20万人の生活に影響が出て、ブラジルで被災者
2万人以上で死者数が806人と大災害になった。
 インドの大寒波と異常気象の年となった。
 2011年2月にはニュージーランドでだ地震が起き、
地震被害による死者が155人に達した。最終的な死者数
は約240人に上るとの見方を示した。ニュージーランド
政府当局は、地震発生後に発令された非常事態宣言を
7日間延長した程であった。

 日本でも、2011年3月11日14時46分、
日本の太平洋三陸沖を震源として発生した地震である。
 東日本大震災を引き起こし、東日本を中心に甚大な
被害をもたらした。その後の東京電力の福島第一
原子力発電所で発生した炉心溶融(メルトダウン)
など一連の放射性物質の放出をともなった原子力
事故が起きた。

 その他にもアメリカ南部の竜巻で米南部諸州を
襲った竜巻による死者数が同日までに少なくとも
342人に上り、米観測史上、2番目に多い犠牲者
となったと報じた。5月22日アイスランドの火山噴火。
 6月4日に南米チリでアンデス山脈の火山が4日、
約50年ぶりに噴火し、噴煙が上空10キロに到達、
 隣国アルゼンチンの人気スキーリゾートも火山灰
に覆われた。チリ政府によると、周辺地域からは
約3500人が避難した。日本、フィリピン、
タイの台風や洪水、トルコ地震と天変地異の年になった。

三十三話:幸夫さんが心筋梗塞で倒れる

 経済問題ではアメリカ米国債デフォルト危機、
7月22日まで赤字額の上限を撤廃撤廃デフォルト
するというところまでいった。また、欧州では
欧州債務問題が再燃し、市場ではリスク回避の動きが
強まっている。ユーロ財務相会合でギリシャの第2次
支援について具体策が決まらなかったことに加え、
イタリアにも債務懸念が波及。7月12日の
債券市場では、イタリアが本格的な金融危機に
陥る可能性があるとの懸念から10年物のイタリア
国債利回りが一時14年ぶりに6%を突破した。
 米格付け会社ムーディーズ・インベスターズ・
サービスは7月25日、大規模な財政赤字に
苦しむギリシャの長期国債格付けを、これまでの
「Caa1」から「Ca」へ3段階格下げした。
 同国が債務不履行(デフォルト)に陥る可能性は
「事実上100%」としている。

 アラブの春とは、2010年から11年にかけて
アラブ世界において発生したとは前例にない大規模
反政府デモや抗議活動を主とした騒乱の総称である。
 2010年12月18日に始まったチュニジア
での暴動によるジャスミン革命から、アラブ世界
に波及した。エジプトでは29年間の長きにわたり
大統領職にあり独裁政権を維持したムバーラクに
対する反発が表面化し退陣を要求するデモが
繰り返された。この騒乱によりムバーラクは退陣し
政権の長期独裁に終止符が打たれることになった。
 リビアでは41年間というアフリカ諸国最長の
 政権を維持するカダフィー大佐に対する退陣要求
が高まった。10月20日にリビアのカダフィ大佐
が銃撃戦の末、殺害された。
一連の反政府運動は、チュニジアでのジャスミン革命
が他のアラブ諸国に波及した騒乱のうちの一つとして
数えられている。
 また、パキスタンにおいて、ウサマ・ビンラディンが
5月1日に米国軍人により殺害された。
とにかく、2011年は最悪の年だった。

 そして、過去の歴史をふりかえっても、気候、災害
、紛争、経済危機など悪い事が一気に来た年はない程
、大変な年だった。

 2011年が終わりを告げて2012年を迎えた。
 2012年3月に寛太の長女、仁美が苫小牧東高校
を出て、地元の信用組合に入社した。

 2012年4月13日に午後4時に幸夫が急に
胸がしめつけられるように痛いと、苦しみだし安江が
すぐ救急車を呼び近くのKU病院へすぐで運んでくれた。
 急性心筋梗塞と診断され直ぐにステント手術を
する事になった。診察の結果、狭窄されている箇所は
1つで、その他は大丈夫だという事で薬を飲むよう
に言われた。5月の連休のころには、元気を取り
戻した。念のため今年は、このまま横浜にいることにした。

三十四話:日本の家電メーカーが壊滅的な業績悪化?

 この年は、日本の家電メーカーが壊滅的な
業績悪化となった。このころ、大手家電メーカー
各社は、2011年度第3四半期の決算予想を
 大幅に下方修正して、パナソニック、ソニー、
シャープ3社合計の通期の最終損益見込みは、
およそ1兆3000億円弱の赤字という目を疑う
ような悲惨な状況にあることがわかってきた。

その後、リストラ等の効果もあって、多少なり
とも回復が見込めるとの報道もあったが、結局、
2012年度の業績予想も繰り返し下方修正され、
11月には3大格付け機関の一角、フィッチ
レーティングは、パナソニック、ソニー共、
『投機的格付け』に格下げしてしまった。

 世界に冠たる日本の家電メーカーの時代は完全に
終焉していることが誰の目にも明らかになった。

 9月11日、尖閣諸島3島(魚釣島、北小島、
南小島)を国が20億5千万円で買い取り国有化した。
 9月15日に日本政府による尖閣諸島の国有化に
抗議する中国の反日デモは、当初の予想を大きく
超えて広がり、トヨタやホンダの販売店や
パナソニックの電子部品工場、総合スーパーの
イオンなどの日系企業が相次ぎ襲われる事態に
エスカレートした。経済的な躍進が様々な矛盾や問題を
覆い尽くしているといわれてきた中国では経済成長を
阻害する要因を政府がそのまま放置することは考えにくく
『政権交代期のデモンストレーション』、
『反日を借りた、国内不満分子への「はけ口」の提供』
等いわばガス抜きが反日デモの主な理由なので、
基本的には過激化することは考えにくく、短期的に
終息するとの楽観的な観測もあったが、その期待は
裏切られ、デモの一部は暴徒化し、略奪や破壊が
繰り返された。さすがに今では騒動は一段落した
とはいえ、一部に不買運動が継続している等、
反日感情は払拭されていない印象だ。

 その証拠に日本企業は続々と脱中国、ASEAN
等へのリスク分散を始めた。そんな暗い日本の
ニュースの中で、久々に明るいニュースが飛び
込んできた。10月8日京都大iPS細胞研究所 所長
山中伸弥教授がノーベル医学生理学賞を受賞した。

 そしてもう一つ注目された、「世界終末の日」
マヤ文明の歴史が終わる「西暦2012年12月21日」
を迎えたが、幸いにも世界中で何も起こらず
この日を終えた。そして、2012年が終わり
2013年を迎えた。

 寛太は2013年1月がゴールドが急上昇して
2001年に購入した6千万円分の金の値段が
3億5千万円になったので売却して残金が
135938万円になった。その後、寛太は、株取引を
やめて、資産を息子・鉄郎の家族に移動させ始めた。
 鉄郎は、寛太のアドバイスで、キヤノンを3100円で
2千株620万円で購入し残金が447万円となった。

 2013年4月にボストンマラソンで爆弾と見られる
大きな爆発があり少なくとも3人が死亡、多数の
負傷者が出た。世界的にも歴史のある同大会は、
凄惨なテロ現場と化した。9月には2020年
夏季五輪・パラリンピックの開催地が東京に決定した。
これには日本中がお祭り騒ぎとなったが多額の
予算が必要なオリンピックうれしいとばかり浮かれ
てばかりいられない、予算をどう捻出するかという事と
、予算のずさんな立案問題が浮上してきた。
 そうして2013年が終わりをつげ2014年を迎えた。

三十五話:南房総の老人施設に入居するって?

 2014年も、安江と幸雄さんは、横浜の
マンションに住み続けていた。この年はトヨタ
自動車がが全世界で639万台のリコールを発表。
 ベトナムで、南沙諸島での石油採掘を巡り同国
と衝突している中華人民共和国に反対するデモに
より死者発生した。このころから、中国の南シナ海
での領有権問題で近隣諸国との対立が深まって行った。
 幸雄さんは心筋梗塞から1年、血圧も低位で
安定し今まで通りの生活をしていた。
 来年から、また、冬場に沖縄に行きたいと妹の
安江さんと話していた。
そして2014年は終わり2015年となった。

 2015年の10月にBSP株を2千円で
1万株売り、税引き後1600万円を手に入れた。
 11月に日本SHLを2500で1万株売り、
税引き後2000万円。

 2016年は2015年になり、幸夫さんが88才
で安江さんが82才になったの、寛太が、南房総の
亀田病院の近くのケアハウスが、先日テレビで紹介
されていたが、良かったら、見学に行かないかと話した。
 すると、幸夫が、人に世話になりたくないし、見学しに
行こうかと、妹の安江を誘った。安江は、もう自分が
気を遣う、親も兄弟も幸夫さん以外いなくなったので、
その方が良いかも知れないと誘いに乗った。
 数日後、寛太の息子の鉄郎がレンタカーを借りて、
寛太と安江と幸夫の4人で出かけた。横浜から羽田から
アクアラインに入り、木更津東まで30分、そこから
30分、都合1時間弱で鴨川についた。

 亀田病院グループの「ケアハウス・まんぼう」に
到着して施設を見て回ると、日射しがたっぷり入り
、露天ぶろもあり、幸夫も安江も気に入ったようだ。
 早速、ケアハウスの方と話をしたところ、現在、
要支援、要介護も必要なく、年齢が80才以上に、
万一の時のために入居希望という方には最適だと
説明してくれた。

 亀田病院検診センターで定期的に検査、診断をする様
であった。今年の11月から入所する予定にしたい
というと了解しましたと答えてくれた。その後、
亀田総合病院を見学して、その大きさ、近代的な建物、
設備に、寛太、幸夫、安江が驚いていた。

 帰る前に鴨川シーワールドによって、イルカショー
を見て、夕方5時過ぎに横浜に着いた。幸夫が今年は
10月まで横浜にいて11月に鴨川の「ケアハウス・まんぼう」
に入所すると言った。その後、11月に前と同じ様に、
鉄郎の運転で、今回は、生活用品や着るもの、その他の
荷物が多いので、大型1BOXワゴンで寛太、安江
、幸夫の4人で出発して、1時間程度でケアハウス
について、荷物を安江の部屋と隣の幸雄の部屋に
衣類や、洗面用具、そのた必要な物を置いて、
寛太と鉄郎が横浜に帰っていった。

鉄郎は2015年1月にJXHDを422円で1万株
、422万円で購入し残金が645万円となった。
 10月に2009年に買ったBSPを売却し
5800万円の利益を手にし、残金が6400万円
になった。そして2015年が終わり2016年を迎えた。

三十六話:2016~17年は天変地異?

 2016年は年初からテロが起きた1月30日
シリアの首都ダマスカスで3個の爆弾が爆発し
少なくとも45人が死亡、百人以上が負傷し
イスラム国が犯行声明を出した。

 2016年4月14日に熊本県にて現地時間
午後9時26分頃、マグニチュード6.5の地震が
発生した。深さ約10Kmという浅い地点を震源
とする地震であったため、地震の規模に比して
大きな揺れとなり日本の震度階級で最大となる
震度7を5年ぶりに記録した。

 再び熊本県で4月16日現地時間午前1時25分頃
、再びマグニチュード 7.3・最大震度7の地震が
発生した。6月23日イギリスの欧州連合離脱の
是非を問う国民投票が執行され、EU離脱支持票
が過半数を占める結果となり翌6月24日イギリス
国民投票の結果を受けてキャメロン首相が
保守党党首及び首相を辞職する意思を表明した。

 イギリスの国民投票の結果を受けてEU離脱
が避けられない事が伝わると、この日の世界各国
の株価が大幅に下落し、イタリアとスペインでは
株価指数は一日の取引として過去最大の下落幅となり
、アメリカ合衆国・NY証券取引所では終値が
610ドル安を記録しフランスでは8%ドイツでは
6.8%、ギリシャでは10%も下落するなど
各国市場でイギリス・ショックの影響を受けて
世界経済の先行き不安から株安が進行する
結果となった。

 バグダードのカッラーダ地区の繁華街で爆弾
を積んだ冷蔵トラックが爆発し200人以上の
犠牲者を出した。7月12日フィリピンが
「中国の主張は国際法違反」と訴えた仲裁裁判
の判決が出て、中国の主張に法的根拠がないと
判断を示した。7月26日、日本で相模原障害者
施設殺傷事件が発生。19人が死亡し、戦後日本
で過去最多の大量殺人事件となった。

 10月にタイの国王ラーマ9世が入院していた
シリラート病院にて88歳で死去。在位期間は
70年4か月だった。その後12月となり、
2016年が終わり2017年となった。

 2017年は1月からとんでもない
ニュースが世界中を駆け巡った。
それは、トランプ大統領誕生である。1月6日
ドナルド・トランプの第45代アメリカ合衆国大統領
当選が正式に決定された。6月1日トランプ大統領が、
地球温暖化対策の国際枠組み「パリ協定」
からのアメリカの離脱を正式表明した。

 2月5日、アフガニスタンで雪崩が発生
し100人以上が死亡。3月18日南米のペルー
では、断続的に続く大雨の影響で洪水が発生し
17日までに67人が死亡した。また、首都の
リマ近郊では6万5000人の人々が帰宅困難な
状態に陥った。
 
 アメリカの自治領プエルトリコが財政破綻、
負債総額は約740億ドル(日本円換算:約8.3兆円)
5月19日、世界保健機構(WHO)がイエメンで
流行しているコレラによって過去3週間で242人
が死亡し、さらに約2万3500人に感染の危険
があると発表。6月23日の段階では死者は
1265人にまで上り、感染危険者も約19万3千人
に拡大したと発表した。

シエラレオネの首都フリータウンで
洪水と地滑りが発生し、8月19日までに441人
が死亡。600人あまりが行方不明。
 2017年10月1日、ラスベガス・ストリップ
銃乱射事件で59人死亡した。
 ソマリアの首都モガディシュのホテルの
前で爆発物を積んだトラックが爆発。多くの市民
らが倒壊した建物の下敷きになり358人が
死亡569人が安否不明。

三十七話:トランプ台風吹き荒れる

 鉄郎は、2008年に買ったSHLも売却し
7600万円の利益を手にし、残金が9200万円
となった。2005年に購入したCTSを売却して
3億万円の利益を得て、残金が4億円となった。
 寛太に借りた2000万円を返却した。それでも
手元に3.8億円の資産が残り、今後も安いときに
投資しようと考えた。ただ、寛太は、もう既に米国株
は天井を迎えているので、様子を見た方が良いので
投資しないで、株価が下がるのを確認してから、
買っていくべきだと、鉄郎に言った。
 寛太は2018年になり、ダウが乱高下しはじめて、
もう既に株価が天井付近に来ていると判断して、
大型株の中期売買(1~2年)に切り替えた。

 2018年米国と北朝鮮の首脳同士の直接対話で
、北朝鮮の核放棄は決まったが、どういう手順で
という点で、多少隔たりがある。それよりも、
トランプ大統領の米国貿易赤字削減のための相手国
、日本、欧州の車、関連部品、鉄、アルミニウムの
輸入品に25%の関税をかけると言う話は
2018年11月、中間選挙を意識したもので、
単なる、人気取りの作戦くらいにしか見られていなかったが
、その話が出始めたの2018年5月で、中間選挙まで
半年もあった。それが話の成行上、9月に突如実施された。
 そして為にEU、中国は報復関税で対抗した。日本も
引きずられるように、大打撃を受けたのだった。

 しかし、10,11、12月になり、輸入関税をかける
ことにより、米国で生産するものの値段が高くなり、
売れなくなって、在庫の山を抱えることになってきた。
 しかし、トランプ大統領は、後には引けなくなって、
 景気の腰折れを招き始めた。そのため、11月の
中間選挙では、トランプ共和党の大敗北となり、
共和党の過半数割れを招き、共和党内からもトランプ
弾劾の話が話題に上るようになった。

 そして、輸入関税が実施されたころより、米国株離れ
、米ドル離れで、米国株の急落とドル安となってきた。
 これを好機と中国は南シナ海、東シナ海での資源掘削
開始ちて、人工島の軍事基地を強化してきた。

 12月についに共和党の敗北に追い込んだ
トランプ大統領の弾劾のコールが日に日に
高まってきた。流石にまずいと思って輸入関税でも
、米国にとってマイナスになるものは廃止した。
 つまり付加価値の高い代替えの聞かない、
高級スチールなどは、関税を撤廃し、メキシコとカナダ
とのNAFTAは継続して、ダンピングの可能性の高い、
 中国、東南アジア、韓国製品には関税をかけたまま
であり、中国には、航空機や大豆の輸入を減らさない
ように配慮してきた。一番影響を受けたのは最終的に
欧州であり、欧州も米国製品に報復関税をかけること
になった。

 2008年に買ったSHLも売却し7600万円の
利益を手にし、S&P500ETFを売却し900万円
の利益とCTSを売却して3億万円の利益を得て、
残金が4億円となった。JXHDの利益300万、
キヤノンの利益220万円などを合計して、4億円の
資産を得たが、実際には、2005年働き出してから、
毎年300万円ずつ貯めた金も入っているので
300*13=3900万円で、実際に投資で得た
利益は3.6億円だった。

三十八話:インバウンド消費とスタグフレーション

 2019年 日本では、相変わらず、東南アジアを
中心とした観光客が大挙して押し寄せて、日本国内
の消費の陰りを、帳消しにしてくれた。
 また、外国人労働者の労働ビザの緩和により、
若い、東南アジアの労働者が、ファミレス、コンビニ
、コーヒーショップ、居酒屋では非常に多くになった。
 その他、インドや中国のコンピュータ産業技術者
たちは、東京、横浜の日本のコンピューターや通信
、スマフォ、ソフトウェア、車産業の技術者として
、厚遇を受けて、都心から1時間県内の場所に
1軒屋を立てたりして、高級車を乗り回し豪勢な
暮らしをするものまで現れてきて、収入の少ない
日本の非正規労働者をしり目に、日本の産業界
での存在感を高めつつあった。東京オリンピック
に向けての宿泊所が足りないので、会場から
1時間以上の郊外にもホテルが林立していった。
 
 そうして、2019年が終わり、2020年を迎えた。
 2020年は、東京オリンピックの年で、そのリハーサル
と最終チェックに余念がなく忙しく働く現場の外人労働者
が目立った。そして、オリンピックが始まり、素晴らしい
、世界のアスリートたちの競演に毎日、テレビに釘付け
の日本人が多かった。こういう面白い時間というのは、
えてして、あった言う間のに感じるのであり、
今回のオリンピックも例外ではなかった。
 素晴らしい、スポーツマンの祭典オリンピックも
2週間で閉会式を迎えて、続いて、パラリンピックが
始まった。8月が終わるころから、日本の株価が建設
、不動産から落ち込んできた。今までも、オリンピック
が終わると日本の株の下げが怖いと言われていたが、
現実に大きな下げを演じ始め、それが米国、欧州へ
と伝播していったのだった。

 消費増税は、やはり東京オリンピック前の経済の
腰折れにならない様に2021年10月からと
再延期となった。ところが、その再延期が、
むしろ裏目に出そうな勢いで株価が連日、最安値を
更新してきた。これには政府は何もできず、株安、
円安で、不景気の物価高、スタグフレーションを
連想させるような感じになってきた。そうして、
2020年が終わり、2021年を迎えた。

 株安、円安は続いたが、外国人客の増加は、今まで
より増えてきて、東京、銀座や京都、横浜、大阪は
、もはや、外国だらけだった。しかし、円安により
日本企業の輸出は増えはじめて、業績が徐々に
上昇してきた。また、インバウンド消費により、
小売業、観光業を中心に景気が持ち直してきた。
 ただ、日本人にとっては輸入品高騰による、
物価高で、減り続ける年金を合わせると、
一番人口の多い階層である75歳以上が
2重苦、3重苦で苦しい生活を強いられていた。

三十九話:最愛の兄との別れ

 寛太と、鉄郎は、それを見越して高金利通貨の
社債、国債、準国債に投資して、利益を得ていた。
 また地方の過疎化が一層ひどくなり地方の大都市
の地価も下がり、更に、田舎の方では人口減少で、
土地の値段がつかないと言う奇妙な現象が始まった。
 また、5年前から始まった10年間空き家を
自由に取引してよいと言う法改正により、若者は、
家を手に入れやすくなり自分で家をリフォームする人
が増えてきて若者の持ち家の比率が上がってきた。

 そういう事で、新幹線で1時間圏内に、若者が戻り始めた。
そして廃屋をリフォームする大工も集まり、家が、次々に
建ってきた。これにより、東京近郊、快速、急行で1時間
、または、新幹線で1時間以内の静岡、山梨、福島、郡山
、新潟、長野、茨城、栃木、群馬、埼玉、千葉、神奈川が
空き家のリフォームがブームになってきた。

 鉄郎も、千葉の房総か温泉のある山梨か、長野か
迷った末に、山梨の韮崎に大きな木造空き家を見つけ、
建て替えて、4人(鉄郎、奥さん、息子、娘)で住むように
なった。この頃には、鉄郎の資産も10億円、近くなり
寛太の資産が1億円程度となった。

2022年には、5Gインタネット
サービスにより、日本どこでも高速ネットでつながり、
本も、ネット回線で時間当たりの値段で、読んだり、
部分コピーできるようになり、土地の安くて、首都圏まで
、1時間程度までの地域のコンパクトタウン化
(効率的な街づくり)で小さな独立した便利な町
が次々とできた。スーパーもあり多少の不便さを
我慢すれば、大いなる自然や天の恵、コメ、魚、
山菜、野菜を手に入れながら生活することが
可能になった。

 その後は、残された航空路、新幹線、鉄道、高速道路
、トンネル、橋、高速インターネットを大事に
メンテナスしながら、過ごしていく風潮に世の中が
変わってきて、数年前の変に忙しい時代から、
昔の落ち着いた、良い雰囲気の日本に変わってきた。

 それを見届け、安心したような笑顔で、2022年
の4月の暖かい日、幸雄は、南房総・鴨川の亀田病院
に近いケアハウスの日当たりの良い部屋で日向ぼっこ
しながら安らかな顔で眠る様に大往生した。それを
見つけた、妹の安江は、兄ちゃん、本当にみんなの
ために、尽くしてくれたねと、幸雄の顔に、ほおずり
しながら、頬を伝う涙をぬぐおうともせず、
ずーっと、頬ずりを続けていた。(終了)

おらあ寛太だ

寛太、母・安江、兄・幸夫の慈しみの心を読者がどう捕らえて、
どう感じてくれるか・・、楽しみです。

おらあ寛太だ

とにかく、大人が、引きつけられる、面白い小説を目指して書きました。

  • 小説
  • 中編
  • 青春
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-06-12

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 一話:父の突然の死
  2. 二話:寛太の決意
  3. 三話:幸夫の教え1
  4. 四話:幸夫の教え2
  5. 五話:幸夫と株取引の開始
  6. 六話:時代背景と札幌旅行
  7. 七話:妹・和子の進学相談
  8. 八話:妹・和子の北大合格と札幌旅行
  9. 九話:札幌旅行と良三が北大・医学部へ!
  10. 十話:嵐山家の子供達の将来1
  11. 十一話:嵐山家の子供達の将来2
  12. 十二話:嵐山家の子供達の将来3
  13. 十三話:寛太の通信高校講座の勉強
  14. 十四話:寛太の株式投資の勉強
  15. 十五話:新業態の商売の将来性に賭ける
  16. 十六話:嵐山家の新居を建てる
  17. 十七話:嵐山家の新居を建てる2
  18. 十八話:寛太の結婚
  19. 十九話:寛太の子・鉄郎の、お披露目
  20. 二十話:北海道をドライブ1
  21. 二十一話:北海道をドライブ2
  22. 二十二話:安江の父の死と孫の誕生ラッシュ
  23. 二十三話:日本初のインターネット関連株
  24. 二十四話:購入した札幌のビルに診療所
  25. 二十五話:購入した札幌のビルに進学塾
  26. 二十六話:購入した札幌のビルに銀行と証券出張所
  27. 二十七話:投資教室と鉄郎の東大合格の快挙
  28. 二十八話:横浜にでかいマンション買うぞ 
  29. 二十九話:沖縄・那覇にも大きいマンション買うぞ
  30. 三十話:鉄郎、東大卒業しNTTドコモに就職 
  31. 三十一話:息子の鉄郎の結婚 
  32. 三十二話:息子の鉄郎の結婚
  33. 三十三話:幸夫さんが心筋梗塞で倒れる
  34. 三十四話:日本の家電メーカーが壊滅的な業績悪化?
  35. 三十五話:南房総の老人施設に入居するって?
  36. 三十六話:2016~17年は天変地異?
  37. 三十七話:トランプ台風吹き荒れる
  38. 三十八話:インバウンド消費とスタグフレーション
  39. 三十九話:最愛の兄との別れ