あなたの笑顔に魅せられて(3)

第三章 ある日の火曜日

 昨日は、俺の体に劇的な変化が生じた。自宅に戻って、湯船に浸かりながら、三十数年間、見えなかった俺の腕をさする。これまでも、存在していたはずなのに、実際に見え出すと、愛おしさが増してくる。何回も、何回も、見えない左手で、露になった右手を慈しんで撫でる。おや、こんなところに、ほくろがある。右手の小指の付け根だ。右腕には、青い血管が浮き出ている。看護師さんは、注射しやすいので、ありがたがれるだろう。俺という未知の大陸を、これからも発見続けるのだ、なんて、楽しいことだ。ヘイ、ミスターコロンブス!
 俺は、体に異変が生じながらも、待っていてくれる客のために、仕事に取り組む。俺の個人的事情のために、客に迷惑をかけるわけにはいかない。今日の最初の客、今週二人目の客の依頼内容は何だ。俺は、見える右手を掻きむしながら、クミちゃんの作成してくれた調書に目を通す。俺の右手が、見えないながらも、かゆみがあったときは、掻きむしっていたが、形として、顕になったとたん、不思議なことに、より一層、かゆみが増したような気がする。かゆい、かゆい。今まで、隠れていたものが、お天と様の、白日の元にさらされ、注目を受けたために、恥ずかしさのために、かゆみが増したのか。プレッシャーとは恐ろしいものだ。俺は、自分の右手が、これまで以上に、愛しくなってきた。右手を描きむしりながら、また、一方で、磯惜しさのあまり擦りながら、調書を読み進める。
 なになに、犬の捜索か。最近多いんだ、犬や猫などのペットの捜索が。人間を探さずに、ペットばかり探している。探されない人間は、フリーターやニート、果ては、四国遍路など流浪の身になる。それでも、自分探しだからと言って、全てが許される。自分は、自分を一所懸命探すのに、他人は、仲間の人間は放っておいて、他の生き物に生きがいを見出している。変な話だ。みんな、それ程、ペットに頼るほど寂しいのかな。犬や猫がいなくなったって心配なら、巨大な自家製金庫でも購入して、鍵をかけて飼育すればいいじゃないか。犬や猫にばっかりに愛情をかけるから、犬や猫がその愛情に嫌気がさして、逃げちまうんだ。人間だって同じじゃないか。愛情をかければかけるほど、相手は愛情の押し付けに気がついて、逃れようとする。追いかける愛と避け続ける愛。すがりつく愛と振り払う愛。
 なになに、相手に何も求めない愛情は美しいだって。冗談じゃない。将来何かしてもらおうという魂胆の愛情の方がいくらかましさ。お互い愛情の重さで、ビジネスライクに愛情のキャッチボールができるじゃないか。そのキャッチボールも、最初は、正面捕球だけど、時間が経てば、右や左に少しずつぶれて、時には、頭上高くか、グラブと反対方向に、大暴投となってくる。例え、ボールがどこに投げられようと、まだ、キャッチボールの意思がある間は、愛情が一パーセントでも残っているということだ。そのうちに、相手が金属バットを持ち出してきて、せっかくの好返球も、公園の遥か彼方の空き地に打ち返されることとなる。相手の愛情は、既に冷め、攻撃的に、他者の排除を始める。それでも、すがりつきたい片方は、ひたすら、相手のこころの真ん中に直球を投げ続ける。やがて、打ち返すことに疲れた片方は、「やってられるか」と叫び声を発したかと思うと、バットとグローブを地面に叩きつけ、足早にグランドから立ち去る。公園の片隅のまで転がったボールを拾い、駆け足で現場に戻った相手は、誰もいないことに気づき、ただただ、立ち尽くすのみ。相手が残してくれたバットとボールを心の支えにして、これからの人生を生きていかなくちゃならないんだ。
 一方的な、見返りのない愛情なんて怖い。そこに打算がない分だけ、見えない鎖で相手を束縛してしまう。そして、相手が逆らおうとしたら、逆襲に触れてしまう。かけた分だけの愛情が、二倍にも三倍にもなって憎しみとなって返ってくる。おっと、そんなことはどうでもいい。仕事だ。仕事だ。調書に、再び目を戻す。まずは、三日前の午後、ふと目を離した隙に、玄関のドアから、犬が逃げ出したんだと。そこはマンションで、後を追いかけたが、あっという間にいなくなったのか。今まで、外で散歩したことはなく、それ以来、帰ってこないだと。ふーん、よっぽど、この犬、外の世界に憧れていたんだなあ。それ以来、泣きじゃくっていますだと。犬じゃなく、人間がか。やっぱり、わーん、わーんて泣くのかなあ。おっ、誰か来たぞ。この申し出者かな。
「先生、お客様です」
 部屋に通されたクライアントは、顔は丸顔、色白で、ふっくらとしている。年齢は六十を過ぎているものの、目鼻立ちは整っている。今も、昔の面影がある。上品そうな服を身にまとい、左手の薬指には、大きな指輪が煌いている。たとえ、所有者の心が曇っていても、宝石は、いつまでも光輝く。その光に魅せられて、多くの人は、宝石を所有したがるのだろう。それは、永遠の命に結びつくのかも知れない。彼女が何か商売をしていたのか、今もしているのかはわからないが、金銭的には、かなり成功している様子だ。ここ最近の客としては、上玉だ。うまくいけば、それなりの報酬が得られるかもしれない。期待と財布の中身が、相関関係になって欲しい。
「あの子を捜して。どこに行ったの、あの子は。本当に、誠心誠意、愛情をかけたのに、いつも裏切りばかり。裏切られても、裏切られても、 可愛がってあげたのに、こんな形で仕打うちを受けるなんて。ひどい、ひどい、あまりにひどすぎる」
「まあまあ、落ち着いてくださいよ。ここで、犬の悪口を言っても始まりませんよ。」
「誰が、犬なの。うちの子には、ちゃんと、名前があります。「ルビー」ちゃんと言うんです。今度、犬だなんて言ったら、私は承知しませんよ」
「これは、これは失礼しました。いや、まだ、犬のお名前を、いやいや、「ルビー」ちゃんのお名前を聞いていなかったものですから、つい、 一般的な呼称を使ってしまいました。それで、その犬のルビーちゃんがどうしたんですか」
「よくぞ聞いてくれました。話せば長いお話です」
「短めにお願いします」
「あら、探偵さんって、冷たいのね。確かに、探偵さんは、映画や小説では、クールで、ニヒルで、寡黙なイメージですけど、心だけは熱くなって欲しいわ、でも、今から私がお話することを聞いたら、きっとお涙頂戴ものですわ。語りますよ、語りますよ」
「前置きは結構ですから、お話の続きをお願いします」
「こちらこそ、お願いします。もうあの子がいなくなって、何日も寝ていないんです。こんな私をかわいそうだと思ったら、力を貸してください。もしかして、もう、あの子が死んでいるんじゃないかと思うこともあります。それでもいいんです。あの子のことさえ少しでもいいから分かれば。首輪とか、毛の一部とか、ごはんを食べた残りかすだとか、道路の片隅に追いやられた乾ききった糞のかけらでもいいです。電信柱に目印としてつけられたおしっこの臭いでもいいんです。何でもいいから、あの子に関係する物を探して欲しいんです」
「あなたが私に、何をしてもらいたいか、よくわかりました。ですが、そのためにも、種類とか毛の色とか、尻尾が巻いているとか、もう少し、犬の特徴、いや、ルビーちゃんの特長を説明していただけませんか。写真を見せていただければ、ありがたいのですが」
 俺は、犬を繋いでいたはずの、もつれた縄をほどくように、事件の謎を解明しようとやさしくクライアントに話しかけた。
「そうですね。わかりました」
 老婦人は、犬のことではなく、自らの生い立ちのことから話し始めた。
「私は、とある老舗の旅館の跡取り息子の主人と結婚しました。結婚してからは、旅館の女将として、妻として、母として、小学校のPTAの 会長として、夫の両親が倒れたときは看護人としてなど、ひとりで何役をこなしながら、この老舗旅館を守ってきたのです。苦労もありましたが、一生懸命働いたお蔭で、経営も順調に伸び続け、旅館は増床し、従業員も増えました。一人息子も、結婚し、若女将もできたので、これを機会に、経営を息子夫婦にまかして、主人と私は引退したのです。ですが、人生とは皮肉なもので、やっとゆとりの時間が持てるかと思った矢先のある日、私を残して、主人は亡くなってしまったのです」
 よくある話だが、よくあるだけに、妙に悲しくなってしまう。悲劇の主人公として生まれた透明人間の俺としては、特別の存在としての悲しみはより深いものがあるが、多数の中にある悲しみは、より広いものがある。どちらの悲しみも、哀しさには変わらない。こんなんことを考え出したのも、俺が大人になった証拠だろうか。悲しみは誰の心の中にもある。どちらの悲しみがより悲劇だと比較しても、あまり意味がない。
「毎日、悲嘆にくれる私を見て、息子夫婦が、連れてきてくれたのが、子犬のルビーちゃんだったんです。最初は、犬なんか、あら、ごめんなさい。人に、呼び捨てにしないでと怒っておいて、自分から犬と呼ぶなんて、ごめんね、ルビーちゃん」
なんだ、なんだ、俺に謝るのかと思ったら、犬に謝るのか。この恨み、一ポイント追加。
「最初は、これまで、子供を育ててきたことや旅館の経営などで、今さら、食事やうんち、散歩の世話をするなんて、大変だと思っていましたけど、人間、慣れれば、ルビーちゃんの世話が楽しくなってきました。返って、何もしないでいることの方が、心配で仕方がなくなりますね。所謂、貧乏性ってやつでしょうか。あらら、話がそれてしまいましたね。それから、毎日のように、ルビーちゃんに、亡くなった夫や一人息子以上に、愛情をかけて育てたのですよ。探偵さん、わかります、この気持ち」
「ええ、わかりますよ。私も、昔、カメを飼っていたことがあるんですよ」
「あら、カメさんね、カメさんもいいわね。今度は、犬に変えて、カメでも飼おうかしら。カメなら、水槽の中から逃げ出すことはないでしょうから。探偵さんが、カメを飼っているということは、カメのように着実に一歩ずつ、捜査を積み上げていくイメージがして、探偵事務所には、ピッたしだわ。明日からでも、カメさんを、この事務所に連れてきなさいよ。きっと、クライアントたちも、カメさんを見て、あなたを信用すること間違いありません。ついでに、この探偵事務所の名前も、「カメ」探偵事務所に変更すれば、相乗効果が一層図れますよ」
 俺は、カメほどにしか信用されていないのか。それに、探偵事務所の名前までも心配していただいて、有難方迷惑だ。どちらがクライアントかわからない。心の中では、そう思っても、相手はお客様、神様だ。金のなる木が目の前にぶらさがっている。競走馬で例えれば、目の前のにんじんだ。ここはひとつでも、ふたつでも、三、四がなくて五に我慢、六から一万まで、ひとっ飛びの忍耐あるのみ。
「ありがとうございます。さっそく、カメ印の探偵事務所、カメ印のバッジ、カメ印のTシャツ、カメ印のタオル、カメ印のお茶に、せんべい、それから・・・」
 俺は、思いつく限りのカメ印のヒット予備軍の商品を口に出した。ひょっとしたら、どれかひとつぐらいは、本当に馬鹿売れするかもしれない。そんなことを期待することが間抜けなのか。アホらしくて、答える気にもならない。そう言えば、子供の頃、最初に友だちに言った言葉が「バカ」だったような気がする。その次が、「アホ」、その次が、「マヌケ」、その次が、「お前の母さん、デベソ」、ナドナド、いずれも相手を誹謗・中傷する言葉だ。今となっては、面前で他人を貶めるような言葉は使わないものの(事務所の壁に向かって、顧客の不満をぶつけることは、よくある。真実の壁が、いつ、俺のこれまでの悪口雑言をしゃべりだすのか不安だ)、子供の頃は、何の考えもなく、四つの言葉を「おはようごさいます」などのあいさつの言葉と同様に、日常生活の中で使ったものだ。その他にも、うんこ、しっこ、おならなど下品な言葉を、互いに楽しく会話の中に取り入れていた。うーん、懐かしい。思い出は、たくさんあればあるほど、心に重く圧し掛かってくる。
「山中、お前本当に、うんこみたいな性格の奴だな」
「杉本、おまえこそ、しっこの溜まり場みたい顔をしているじゃないか」と覚えたての知識をひけらかすのが楽しくてたまらないように、会話の一フレーズの中に取り入れたものだ。おっと、お仕事、お仕事。
「あら、そんなに気にしなくてもいいですよ。カメは所詮あなたのもの。ルビーちゃんは私のものですから。それより、ルビーちゃんのことですよ。あの子は、これまで私が全身全霊をかけて、愛情豊かに大きく育ててきたのに、隙があれば、すぐに私から逃げようとしたのです」
「例えば、自宅からですか」
「そうです、自宅でもそうです。普段は、家の中に住んでいて、散歩や日光浴、夏の間の水浴びの時は、庭に出してやります。その時の、喜びようといったら、例えようがないほどです。それなのに、ある日、偶然にも、裏の勝手口が開いていて、そこから逃げ出したんです。なんで、勝手口の鍵を掛けるのを忘れてしまったんでしょう。ルビーちゃんが逃げ出したことよりも、私は、そのことの方が許せないのです。用もないのに、きっとどこかのりんご売りかがやってきて、「りんごー、りんごー」と叫びながら、私の家の勝手口を勝手にあけて、かつてないような声で、りんごを買って、買ってと叫んだのに違いありません。その時、私は、ルビーちゃんを病院に連れていっていたために、りんご売りがやってきて、扉を開けっ放しでいたなんて気がつかなかったのです。扉の鍵を確認しなかった私も私ですが、りんご売りもりんご売りです。「開けたら、閉める」自分がしたことに対して責任を持ってもらいたいです。今の社会に必要なのは、他人を思いやる気持ち、もし、自分が、相手の立場だったらどうなるのか、どうするのか、メタの立場、つまり、シンボルタワーやシンボル的存在の高く、屋島から、景色を眺めるように、俯瞰的立場から、物事を見つめ、自らの行動の規範にすることが必要だと思いませんか」
「それは、おっしゃるとおりです」
 相手が、六十過ぎのばあさん、いや淑女だと思い油断をしていた。探偵の立場でもそうだ。あまりにも当事者にのめり込んでしまうと物事が見えなくなってしまうことがよくある、物が見えるということと、物事がわかるということは、全く別のことなのだ。両まぶたをおでこからあごまでくっつくぐらい開いて、よく見やがれ。耳たぶを空が飛べるくらい広げて、よく聞きやがれ。鼻の穴を自分の周りが真空になるぐらいふくらまして、臭いを嗅いでみやがれ。瀬戸内海の海の水をすべて飲み干すぐらい口を開けて、よく味わってみやがれと言いたくなることがある。人は、目の玉を二つ与えられたものの、真実は一つであることに気がついていない。いや、そうじゃない。事実がひとつであり、真実は解釈の仕方により、いくらでも都合のよい方向に導くことができる。
「その考えは、正しいと思いますが、残念ながら、私はスーパーマンじゃありませんので空を飛ぶことができません。空高くから、ルビーちゃんを探せたらいいのですが」
 俺は、真っ正直な回答をした。
「何もあなたに、正義のヒーローになってくださいと言っているわけじゃありません。ただ、私にとっての宝物、ルビーを探して欲しいのです」
「それで、りんご売りに逃がされたルビーちゃんは、どうなったのですか」
「さっきから言っているように、りんご売りが犯人だとは断定していません。ひょっとしたら、みかん売りかもしれませんし、バナナのたたき売りかもしれません。私にとっては、スイカ売りでも、ぶどう売りでも、そんなことはどうでもいいのです。果物屋さんを経営したいわけではありません。商売なんてもう懲り懲りです。うんざりです。と、言いながらも、朝、誰かに出食わすと、「今日はいい天気ですね。お体の調子はいかがですか」なんて、つい笑顔で応対してしまいます。そんな自分に、いじらしさと可愛らしさを感じる今日この頃です。私は、ルビーに自分自身の姿を見ているのかもしれません」
 彼女は、既に六十を過ぎているが、話す仕草ひとつひとつに、そこはかとない色気を感じる。人は、見た目の年齢ではなく、心の持ちようなのか。ルビーのことを話す時、人生に疲れ果てた皺の一本一本が、満面の喜びの間に変わっている。笑顔で出来た皺は、必ず、平面に戻るのだ。
 再び、俺は問いかける。
「もう一度お尋ねいたします。自宅から逃げ出したルビーは、まだ、戻って来ないのですか」
「はい、お蔭で、わたしの心に輝きが戻りました。それから、二、三日経過した頃、ひょんなことから、ルビーが戻ってきたのです。もちろん、まっ白な雪から、白さだけを抽出したはずの毛は、死の灰に匹敵するほど降り続く排気ガスや、出来るだけ人目に触れ、購買力を高めようと計算されたかのように、無造作に捨てられたタバコの吸殻、遠心力で地球から飛びだすのを防ぐため、靴と合体がしやすいように捨てられたチューインガムなど、地球上のありとあらゆる廃棄物が集められたかのように、黒灰色に汚れていました。しかし、赤くきらめく目の輝きだけは、ルビーそのものでした。今日が、地球最後の日だとしても、明日の天気を願う、生命力に溢れた目でした。私は、自分の服が汚れるのも気にせず、思い切り、ルビーの体を抱きしめると、顔一面に、キスの嵐を見舞ったのです。ルビーはいやがりもせず、ただただ、じっとして、私のなすがままに身を委ねていました。ひょっとしたら、あの時から、ルビーは今日の家出のことを計画していたのかもしれません。二、三日のひとり旅の結果、自分ひとりで生きられるという自身を得たのかもしれません。これが、これまでの一週間以上の旅たちの始まりかも知れません。今となっては、何もかもが決まっていたのに、私、一人が知らされていなかったという気持ちです。夫を亡くして、一人の孤独の寂しさを知っていましたが、信頼していたルビーから見放されたと思うと、地獄へ突き落とされた気分です。もう一度、一人の世界へ戻ったほうがいいのかもしれませんね。ルビーの最初の冒険の後以降、私は、二四時間、片時も目を離さず、ルビーを見張り続けてきました。でも、一秒たりとも目を放さなかったわけではないですよ。私も人間。ルビーも人間、いや、人間同様の犬。ある程度、信頼関係がないと、共に生活なんてできません。わたしは、ルビーをただ、単に不幸な目にはあわせなくなかっただけなのです、ゴク」
 永遠に続く一人芝居に、相槌を打つ暇もなく、ただ黙って聞いていた。やっと、相手が唾を飲み込む瞬間を見逃さず、二人の会話へと発展させるべく、合いの手を入れる。
「そうですか。それで、一度あなたの元へ帰ってきたルビーが、どうしていなくなったのですか」
 確かに、話を聞くだけでも一時間が過ぎようとしている。基本料金は、三十分単位だ。元旅館の経営者だし、身なりもしっかりとしているから、お金の心配はないものの、いつまでもだらだらと犬の世間話をしているわけにはいかない。俺は、探偵だ。しかも、透明人間という、ただの探偵ではない。誰にも見つからずに、秘密の場所に侵入して、国家情報を入手することも可能だ。もし、ルビーという犬が、誰かの手に隠されていて、そこのアジトにこの俺が侵入し、無事に、犬を奪還するというのなら、透明人間の特性を思う存分生かすことができる。しかし、どこに行ったかわからない犬ごときを、わざわざ、特殊能力戦士である透明人間の俺が探す必要があるのか。おっと、これは秘密のアッ子ちゃんだ。疑問は続くものの、お客様は神様だ。俺は、透明人間だ。もう少し、話を聞こう。できれば、手短に。じっとしているのは、俺の性分に合わない。
「実は、私は、高知に住んでおり、月に一度、この高松の犬の美容室に、ルビーちゃんをシャンプーに連れてきているのです。」
「お客様は、高知からきたのですか?」
 俺は、あきれてものが言えなかった。しかし、急いで、質問した。今度は、俺からの攻勢だ。
「高知と言えば、ここ高松から百四十キロ、車で2時間はかかると思うのですが、わざわざ、いや、ありがたいことに、犬の、いやルビーちゃんのシャンプーに訪れているのですか。高知にも、犬の美容室はあるでしょう」
思わず、声を荒げてしまった。お金持ちの奥様が、道楽で、犬のシャンプーのために、飛行機に乗って東京へ行こうが、船で世界一周しようが、そんなこと、こちらの知ったことではないものの、あまりにも自分とかけ離れた生活に、嫉妬したのかもしれない。もちろん、人は、嫉妬から、自分もそうなりたいと次なる行動のきっかけを得る。上昇志向の典型的な誘発法だ。その点からすれば、嫉妬もまんざら悪いことではない。人の行動を促進する、きつけ薬なのだ。だが、行動を伴わっても、相手の足を引っ張る嫉妬心はよくない。マイナス思考の最たるものだ。もぐらたたきじゃあるまいし、人が目立って何が悪い。俺も、目立ちたいが、透明の探偵じゃあ、誰も気づいてくれない。再度、心を落ちつける。高知で、ルビーちゃんがいなくなったら、わざわざ私のところくるはずがない。高松まで、来てくれたから、私の所へ来てくれたのだ。ありがた、ありがた。ちょっと迷惑。
「それで、どうなったのですか」
「ええ、探偵さんのおっしゃるとおり、高知にも犬の美容室は多くありますが、こちらの犬の美容師さんが、カリスマ美容師さんで、犬の美容師会では、有名な方なのです。以前は、高知で店を営業していたのですが、こちらの高松の方にも店を出されて、現場の指導者として、第一線で活躍されているのです。うちのルビーちゃんは、カリスマ美容師さんに良く慣れていて、逃げることもなく、シャンプー・カットの時も大人しくしていたのです。また、違う美容室に行ったら、ルビーちゃんが怯えて、逃げ出しては大変だと思い、こうして高松までやってきているのです」
 犬が、高知で逃げ出しても、高知内でとどまるだろう。まさか、高松までは来やしない。しかし、高松で逃げたら、ほっといても、百五十キロの逃避行となる。犬の主人は、そこのところを考えていたのだろうか。まあ、犬の美容師の追っかけということだ。しかも、犬のために。それほどまでに、ルビーのことを愛しているのに、ルビーの方は、なんてことだ。親のこころ、犬知らず。これが本当の犬畜生だ。人も、いつだって畜生になれる。いや、普段から畜生なのかもしれない。俺が、透明人間であるように。
「でも、それがどうしていなくなったのですか」
「そう、すべて、あの子が悪いのです。そして、私が悪いのです。いつものように、ルビーちゃんを犬の美容室「チャンドラー」に連れて行きました。カリスマ美容師の正樹君にお願いしたのです。ルビーちゃんは、正樹君を見ると自分から喜んで、クイーン、クイーンとおねだりしながら、正樹君の胸に飛び込んでいきました。言っときますけど、ルビーちゃんは、男の子です。どうして、キング、キングと泣かないんでしょう。今日の餌も、明日の餌も保障されていない野良犬に比べれば、王侯貴族の暮らしと言っても、言い過ぎではないでしょう。まあ、それは置いておいて。私は、ルビーちゃんが喜ぶ姿を見て、二時間あまりかけてやって来たかいが、報われほっとしました。正樹君は、ルビーちゃんを抱きかかえると、「お預かりします」と言い残し、店の奥のユニットバスの方へ連れていきました。私は、ルビーちゃんに向かって、「頑張ってね。いい子にしているんですよ」と手を振りました。その後、店員さんに案内され、待合室で時間を過ごしました。小一時間が過ぎた頃でしょうか。私は、高知からの運転の疲れもあり、少しうとうとと眠りについていました。「長い間お待たせしました。お疲れさまでした」の目覚まし時計代わりに声が聞こえてきました。薄目の向こうから、やや輪郭のぼけたルビーちゃんが、正樹君に抱きかかえられ、私の元に戻ってきました。やっと、頭がはっきりとしたわたしは、「ありがとうございました」と礼を述べ、ルビーちゃんを受け取り、再び、連れて還ろうとしました。美容室の入り口の扉が開き、他のお客さんが、入ってこようとした時です。ルビーちゃんは、天国の扉が開かれたと思ったのでしょうか、わんと一言吠え、私の腕からする抜けて、外へと逃げていってしまったのです。いいえ、逃げたのではなく、自分の道を歩み始めたのかもしれません」
と言うなり、老淑女は、顔を伏せ、嗚咽を漏らし始めた。
 女性の涙には弱い俺は、しらじらしくも慰めの言葉をかける。
「心配なさらないでも、結構です。私が、なんとか、世界に誇る多島美の瀬戸内海のように、あなたにとって大切な宝のルビーちゃんを、きっと連れ戻してみせますよ」
愛想笑いを誤魔化すため、より一層、声をあげて、大きく笑った。例え、見つけ出す可能性がゼロに近いとしても。
「探偵さん、力強い言葉、ありがとうございます。もし、ルビーちゃんが見つからなくても私はかまいません。私はただ、ルビーへの想いを誰かに告げたかったのです。もう犬はなんて飼いません。主人が死んで以来、ルビーちゃんだけを生きがいとし、これだけ愛情を注いでも、注いでも、飼い主である私の言うことを聞かないで、ただ、逃げるのみ。でも、車に轢かれて死んだのか、それとも、どこかで生きているのかだけでも知りたいのです。何かありましたら連絡ください。例え、何の手がかりがなくても、連絡をいただければ、また、挨拶に参ります。本当に、お願いばかりで申し訳がありません。どうかよろしくお願いします」
 俺は、それから、二時間あまり、淑女とお話をした。犬の、好きな食べ物、好きな音楽、好きなテレビ番組、好きなシャンプーの香、好きなベッド、好きな、好きな、あれこれを。また、嫌いな、それ、どれを。俺は、話を聞き続けて、その犬が好きでなくなった。いや、正確には、その犬の飼い主のことが。こんな風にして、他の同業者達も毎日、毎日過ごしているのかと思うと悲しくなる。だが、それは、それとして、仕事は仕事。老婦人から借りた写真を手がかりに、ダイヤモンドちゃん、いやルビーちゃんを探しに出かけることにした。
「ちょっと、捜索に出かけるよ」
 普通の人間に見えるよう、普通の姿が見えるよう、背広をひっかけ、城から戦場へと向かった。

 とりあえず出向いたのが、犬の美容室。犯人は、必ず、現場に立ち戻る。現場に足を運ばずとして何の捜索だ。探偵業のベストラー「探偵五輪書」の前文にも、記載されている。しかしながら、昨今、この前文を変えようとする勢力が台頭してきている。現場主義からインターネット等による情報収集を優先する流れである。確かに、インターネット等による情報収集は便利である。過去の事例を探り、今回の事件と似たような事件を集め、そこから解決の糸口や方向性を決めて、捜査に取り掛かる方法である。日々、時間に追われる現代人にとって、極めて効率的で能率のよいやり方であろうが、そこには深い落とし穴がある。過去の事例に囚われて、新しい発想が生み出さなくなるからだ。想定外の問題に突き当たると、思考停止状態となり、慌てふためき、パニックに陥ってしまう。そうならないためにも、様々な経験をつみ、例外こそ、正道であることを体で自覚することが大切だ。
 俺は、断固として、五輪書前文の改正を求めない。崇高な理想があってこそ、人は人として生きていけける。全てが、現実主義なら、水が低きに流れるがごとく、地獄への道に真逆さまに落ちてしまう。理想主義を非難するものは、ひと時の自らの快楽に溺れてしまうが、未来の夢のある子どもたちには、何ら責任をとらない。銃を持つなら、まずは自らが屍となれ。なんだか、興奮してきたぞ。ただ、言えることは、人は、理想に生き、現実によって死に至るということだ。何んだって、そのことと、ルビー探しと何の関係があるかだって。何の関係もないが、透明人間の俺が、探偵として生きていくための矜持が五輪書なのだ。それを、一時期のはやりかなんかで変えられてたまるかだ。まずは、自らが経験し、事実じゃなく、真実は何かを突き止めなければならない。まあ、難しいことはおいておこう。さあ、本来なら、従業員に当たって、聞き込み調査をすべきなのだろうが、既に、老婦人が訪れ、犬、ルビーが帰ってきていないことを確認している。今さら、新たな情報はないだろう。それに、もし、犬の美容室が、ルビー失踪事件に関与しているのなら、例え、聞き込みをしたところで、本当のことはしゃべらない。いたずらに、こちらの存在を、相手に知らしめるだけで、何のメリットもなく、返って、不利になるだけだ。
 ひょっとして、一宿一飯の礼ではないが、シャンプーのお礼に、再び、犬の美容室に戻って来ることもある。探偵五輪書第一条、まずは、張り込めだ。俺は、店の前に車を駐車し、何か情報が得られるまで待つことにした。季節は、秋。夏の暑さも峠を越え、体には絶対適温の時期となった。しかし、車の中に太陽光線が差し込むと、真夏を思わせるような、気温となる。汗腺が百二十パーセント開放状態となるが、透明人間にとって、汗は最大の敵である。空気中に、いきなり水玉が浮かび上がれば、誰だって驚く。ひょっとしたら、理科の実験か何かで、雨は何故ふるのかを実験しているのかと勝手に思い込んでくれるかもしれない。誰も乗っていないと思える車への、熱い視線に注意を払う必要がある。見張っているつもりが、こちらが見張られていることになるかも知れない。探偵免状の返還だ。
 数時間待っただろうか。車の中は、俺の汗で、霞から霧、そして、雲の状態へと変化している。このまま、あと一時間も経てば、雷が鳴り、大雨が振り出しそうだ。恋人同士が、夜、港でデート中、誤って、岸壁から海に転落して、車に閉じ込められたまま、命を落とすニュースを聞くことあるが、路上駐車中の車の中で、男が水死体で見つかったなんて洒落にもならない。いや、俺は、透明人間だから、「車中から、洪水。乗っていたはずの人間は行方不明。背広だけが見つかる」なんて、新聞記事が頭に浮かぶ。衣服だけ脱がされて、俺の体と俺の愛車だけがそのまま廃棄処分。もともと、死んでから墓なんて作ってもらいたいとも思わないが、腐敗したまま、カラスやうじに食い尽くされてしまうのも、天国から自分を眺めると惨めな気持ちになる。死んだ後、煮るなり、焼くなり、茹でるなりしてくれてもいいが、形だけは残さないで欲しい。 おっ、犬の美容室から誰かが出てきたぞ。何だ、ゴミ出しか。ふと、携帯電話で時間を確認する。時間は、もう、午後五時に三十分前だ。勤務時間終了。俺のおなかは、空腹感からか、鼓笛隊が鳴り出した。二人しかいない会社だから、どちらか一人は、事務所に残っていないと、お客や警察等からの連絡があったときに、直ぐ対応ができない。留守番電話や携帯電話での転送という方法もあるが、通常の時間は、やはり、生の声で対応したほうが、相手も安心し、信頼できる。「あの、探偵事務所って、いつ、連絡してもいないのよ」なんて噂が立ち始めたら、看板に傷がつく。それよりも、俺を待っていてくれるクミちゃんの元に、早く帰る必要がある。確か、彼女の予定では、月曜日は、近くのフィットネスクラブで、エアロビスク教室、火曜日が、ピアノの練習。なんと、自宅に、先生が来てくれるそうだ。年に一度は、三百人ほどの会場を借り切って、発表会があるそうだ。確か、来月の十五日の日曜日の午前中と聞いている。先生も、是非、聴きに来てくださいと無料チケットを手渡された。ただし、この無料チケットというのが曲者だ。一回コンサートを開くにしても、会場やの使用料や音響、照明、空調使用料、プログラムやチケットの印刷代、先生へのお礼の花束など、様々な経費が掛かるはずだ。
 小さいながらも、一国一城の主の俺さまだ。たった一人の従業員の晴れの舞台に、出席はもちろん、花束の準備もしている。残念ながら、何の収穫もないけれど、彼女のためにも、早く帰ろう。アクセルを吹かし、急いで、事務所に戻ろうとする。あと残された時間は、三十分。捜索犬との持久戦はお預けで、今度は、時間との戦いだ。毎日、同じように時間が過ぎていく。感動のない人生はつまらない。ならば、自分から無理やりにでも、充実感・達成感を味わうために、後三十分間で、事務所に帰れるかどうか賭けをしてみる。賽は、どちらに振られるのか。だが、ふと俺は思い出した。保健所だ。不明犬や野犬などが、保健所で保護されたり、捕獲されたりしている。このまま、何の手掛かりもなく事務所に戻るのも癪だ。クライアントにも申し訳ないし、探偵の俺自身も、納得がいかない。もし、終業時間に遅れたら、クミちゃんには、悪いが、 引き続き、一人のワンちゃん捜索隊へ参加だ。隊長兼隊員、監督兼選手、社長兼社員など、一人何役もこなす。その点、意思決定の早さが売りだ。その決定した内容が、正しいかどうかはおいておいてだが。どちらにせよ、結果は、後から、自分自身に降りかかってくる。時には、結末の恐ろしさから、判断すること、動くことをやめてしまいたいこともあるが、それは俺の生き方に反する。透明人間である以上、どんな境遇にも立ち向かっていかなければならない。時には、相手が、不幸が、勝手にすり抜けたり、遠ざかってくれたりすることもある。結局、意識しすぎているのは、こちら側だけの問題なのか。自意識過剰の唐変木だ。持ち前の猪突猛進の精神で、何らかの手がかりを探しに、保健所へ向かう。
 住宅街の中に、聳え立つ、六階建ての建物。お犬様にとって、そこは、自らを救出してくれる天国なのか、はてまた、この世から、存在を消し去る、地獄なのかはわからない。門は叩かなければ開かれない。
自動ドアが開き、俺は、事務所の受付のところまで足を進める。窓を多くとり、開放感のあるロビーには、狂犬病予防注射のポスターと動物愛護のポスターが隣り合わせに並んでいる。
 俺はおもむろに、カウンターに向かう。
「すいません。犬がいなくなったので、探しているのですが」
 近くの職員に声を掛ける。
 俺の声が大きくて、事務所中に、響き渡ったのか、奥の方から、担当と思われる職員が、ノートを持って、俺のほうに近づいてきた。
「犬を、お探しですか。犬の種類や特徴、いつごろいなくなったのか教えていただけませんか?」
 俺は、飼い主から教えられたとおりのことを伝える。
 職員は、俺の言った犬の特徴をメモに書きつけ、台帳のページを繰っている。この秘密のノートに、犬の情報が全て隠されている。俺は、独 自の嗅覚を利用して、身を乗り出し、相手の書類を奪わんかばかりに、覗き込む。
「えーと、犬のことで何か、分かりましたか」としらじらしい質問。
 保健所の職員は、俺の動作に即座に反応し、ノートを持ったまま、後ろに一歩下がる。相手が下がれば、こちらは前へ進むしかない。更に、カウンター越しに、身を乗り出す。相手は、今度は、ノートをパタンと閉じると、
「残念ながら、お客様が探されている犬は、現在のところ、保健所では保護されていません。また、市民の方で、同様の犬を預かっているという連絡もはいっていません。お客様のお名前、住所、連絡先等を教えていただければ、お客様が探されている犬が見つかったとき、ご連絡いたします」
 保健所の職員が言っていることが本当かどうかはわからないが、そこで疑っても仕方がない。まして、俺に、犬の一匹のことで、嘘の情報を与えても、相手にはなんのメリットもないはずだ。タイムリミットの五時まで、残り十五分。時間もないこともあり、俺は、相手の言葉に素直に頷き、名詞を渡し、犬のことで、何かわかることがあれば、連絡をしてくれるよう依頼する。
 保健所を後にして、車に乗り込み、猛ダッシュで、事務所に向かう。事務所には、俺が探し求めている、彼女が待っているからだ。この時だけは、犬のことは、頭の片隅からも、消えている。残り、五分。車を、駐車場に止め、昔、マラソンで鍛えたはずの、健脚で、二段飛ばしで階段を上る。激しい動きのため、息は切れ、口から、真夏の炎天下の犬のように、口から舌を出し、呼吸を助ける。おっと、やはり、こんなときでも、犬のことは忘れられない。俺は本当に、仕事熱心だ、自分で自分に感心する。階段の踊り場で、一息つかったお陰で、三階の俺の事務所に扉が見え出した。時計を見る。午後五時まで、後、三十秒。よかった、間に合った。俺は、見える右手で、ドアを開けた。

「先生、お帰りなさい。お疲れさまでした」
 クミちゃんからのやさしい言葉を受ける。風を切って走ったため、体温が急激に下がったものの、心の中は、温かくなる。やはり、人間は、言葉、言葉、言葉だ。
「先生、入れたてのお茶はどうですか。冷え切った体を温めてください」
 駄目押しの言葉で、体の芯まで温かくなる。
「秋とはいえ、朝夕は冷え込みが厳しくなりましたね。少し、肌寒いので、暖房をいれておきました」
 もう、こうなると唸るしかない。体は、透明でも、心は、人のやさしさや思いやりがちゃんと、突き抜けることなく、染み渡るのだ。このひと時のために、俺は、生きているのかもしれない。永続する肉体と、瞬間の感動。感動の連鎖の中で、人は自らの歴史を紡いでいく。ただ、単に、俺は生きているのでは、ない。こころの旅を経験しているのだ。妙に感慨に耽ってしまった。お茶の湯気を見て、砂漠の蜃気楼の中を一歩、一歩、歩んでいる気になったのだろうか?一歩、百景。百の人生。偶然の産物の中で、人生の軌跡が出来ていく。夢見る、透明人間に明日はあるのか。
 いや、明日を見たいために、明日への準備の言葉を発する。
「やあ、遅くなって、ごめん。もう五時を過ぎたから、帰ってもいいよ。今日は、ピアノの練習だね。早く、帰って、準備をしなくちゃ。また、明日も、よろしく」
「はい、お気遣いしていただき、ありがとうございます。先生の机の上に、お茶をいれています。それでは、失礼します」
 クミちゃんの労いの言葉に、疲れもふっとぶものの、誰もいなくなった事務所に、ぽつねんと一人いると、よけいにどっと疲れが増す。今日の犬捜索の成果?を、調書に書き込んだら、早々と、退社しよう。初めて、人目にさらされた俺の右手も疲れているはずだ。犬おばさんには、明日の朝、一番で報告だ。

あなたの笑顔に魅せられて(3)

あなたの笑顔に魅せられて(3)

透明人間として生まれた主人公が、透明の特性を生かし、私立探偵として客の依頼を解決するに従い、透明だった体を取り戻す話。第三章 ある日の火曜日

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-09-20

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