謎の黒いオサムシ 前編  虫愛ずる生贄娘と未知の果てへの冒険

渡り薪狩

洞窟内の壁には電線が巡らされ、照明が瞬いている。しんと静かな暗がりの中、数人の男たちが歩いて行く。彼らは一様に神官のような白い着物を着、顔には覆面をしており、皆で神輿のようなものを担いでいる。
付き添う者が二人、覆面はしておらず平服の中年男女。
誰も一言も喋らず、ただまっすぐ奥へ進む。
やがて洞窟が大きく広がっているところに来ると、男たちは神輿状のものを用意されていた台座に降ろした。
中年女性が神輿の前面の垂れ幕を上げ、中に座っていた者の手を引いて外に出させる。それは花嫁衣装のように華やかながらも清楚な着物姿の、美少女だった。まだ小学生だろう、背は低く手が小さい。肌は真っ白く、短めな髪も大きな瞳も色素が薄い赤茶色。勝ち気そうな眼差し、口許はきりっと結ばれている。だが、表情には緊張と隠しきれない怯えが浮かんでいた。
少女の姿を見て、洞窟で待ち構えていた人々が一斉に歓声を上げた。全員が下卑た鼻息の荒い男だった。二十人以上いる。
中年女性が少女の背中を押して待っていた男の群れの中に入れる。
男の集団は一切の遠慮無く欲望の獣となり、少女の着物はあっという間に剥ぎ取られ、雪のように穢れ無い華奢な体はいくつもの臭い口にしゃぶられた。小さな唇も小さな乳首も、どこもかしこも舐められ吸われ、太く強固で不潔な男根が乱暴に差し込まれ、グロテスクな精液が次々に注ぎこまれる。
少女はすぐに失神しそうになるが、男の大きな拳で腹を殴られて目を醒ます。その目の前で一人の男が物凄い臭気の脱糞をした。そしてそれを食すように少女に命令する。
恐怖に震える少女に男たちは言う。こんなのいつものことだ。凄いのはこれからだよ………。

自室の布団で哀名は目を覚ました。開けていた窓から小鳥の声とともに、山里の澄んだ空気が入ってきている。
気分は妙にすっきりしているが、体のあちこちが痛む。右腕をはじめ、体のあちこちに包帯やガーゼ。昨日の夕方には怪我なんかなかったのに。
完全に記憶が消えている。洞窟の中で、乗り物から出て男たちを見たところまでしか覚えていない。その後どうなったのか気になるが、何も思い出せない。まあしかし、これはいつものことである。哀名は深く考えないことにした。
体を起こしてみる。痛いけれども身動きは問題なくとれるようである。パジャマから外出用の服に着替える。
彼女の名前は、荒氷屋 哀名。読み方がわかりづらい名だが、名字は「あらひや」、下の名前は「かな」と読む。十一歳。
背丈は同じ年頃の子と比べて小さめだが、性格はだいぶ大人びている。哀名は、自分の失われている記憶の中で、何をさせられているかだいたい知っていた。記憶が無いから、恐ろしい性的被害の体験は脳裡に刻まれてはいないけれど、自分の身が取り返しのつかないほど穢されていることはわかっている。
こうした境遇と向き合っていかなくてはならなかったから、精神的な成長は早かったのかもしれない。正しい成長とはいえないかもしれないが。
哀名は着替えてから、今日は日曜で学校はなかったと気付き、舌打ちした。痛みをこらえて着替えたのがバカみたいに思える。
洞窟の中でのあの最低な集まりに参加させられた次の日の哀名は、いまいち頭が働かない。暴行、凌辱を受けたためかもしれないが、記憶消去の処置の影響もあるだろう。どういうやり方で記憶が消されるのか哀名は知らないが、相当に悪質な副作用があるらしい。
時刻はもう夕方近い。哀名は、とりあえず何か食べようと台所に向かう。居間で母がテレビを見ていた。自宅にいるのにゴテゴテと幾つもアクセサリーをつけている。見るからに高価な大きい宝石をきらきらさせながらだらしない姿勢で、これまた高級そうなソファーに寝そべっている。年増だが、美人ではある。しかし顔だちは性格美人のそれではない。
哀名は無言で脇を通りすぎようとした。
「待ちなさい。」
母が顔はテレビにむけたまま、目線だけ哀名の方にやって鋭く声を飛ばす。
哀名は立ち止まった。
「何?」
「挨拶しなさい。」
哀名は内心で「下らな!」と吐き捨て、舌打ちだけしてその場を去った。
哀名には親への愛情は無い。哀名を性的暴行犯達の餌食にさせている張本人が彼女の両親なのだ。愛せるわけもないし、礼儀も必要ないと哀名は思っている。いつか殺害しようと夢想することもある。
台所で冷蔵庫の中を漁る。調理せずに食べられるものを取り出し、壁によりかかりながら一人食べる。
飲み込むと胸の辺りに痛みを感じるが、空腹なのでぱくぱく食べる。しかしよそ見をしていた隙に、そばのテーブルに置いておいたソーセージやチャーシューがトマトとキュウリにすりかわっていた。
気配に気づいていた哀名は、しゃがんでテーブルの下に声をかけた。
「意地悪しないでよ、お姉ちゃん。」
「駄目よ、体に悪いものばかり食べてちゃ。野菜も食べなさい。」
いたずらっぽく笑う少女が隠れていた。哀名の姉の夢来だった。読みは「ゆめき」、十六歳。妹と顔が似ていないが、とびきりの美少女なのは変わらない。豊満な胸をしているが手足はとても細い。その可憐な手に抱えたチャーシューなどのパックを開け、食べながら楽しげに笑っている。
「別に野菜も嫌いじゃないし。でも今はそんな気分じゃない。肉食べたい。」
「ダメ、キュウリでも食べてなさい。夕飯は肉いっぱいにしてあげるから。」
「えっ?お姉ちゃんが作るの?大丈夫?」
夢来はテーブルの下から這い出し、角につかまってよろよろと立ち上がった。哀名も立って夢来を支える。
「大丈夫だから。」
夢来は足が悪く、まともに歩くことも出来ない。一人で外出は出来ないし、家の中の移動も四つん這いで、長時間立っていることなど不可能。
「お母さんには言ってあるの。今夜のご飯はあたしが一人でつくるんだよ。」
「お姉ちゃんが無理してるのにあのババアはテレビみて寝っ転がってるのかよ。腐ってんな相変わらず。」
毒づく哀名の頭を、夢来が軽くポンと叩いた。
「お母さんのことそんな風に言っちゃ駄目でしょ。あたしが一人でつくるって言ったんだからいいの。まあ見てなさいよね、哀名もお母さんもお父さんも、皆が大喜びする超おいしいご飯を作るから。」
哀名はぐっと黙ってから、
「チッ!知るかよ!」
言うなり踵を返して台所を出た。逃げるように自室に戻りながら、哀名は込み上げる涙をこらえていた。
夢来の優しさに、哀名はしばしば泣きそうになる。夢来はかつて、今の哀名と同じように洞窟で男たちに凌辱させられていた。記憶消去があまりにも繰り返された結果、その弊害で生活に支障をきたす体になってしまった。足が悪いのもそのせいである。
もうこれ以上、記憶消去処置をすることは出来ないため、彼女は性的暴行被害からは解放された。しかし一人では生きていけないから、もう一生この家から出ていけないだろう。
人生を台無しにされたにも関わらず、夢来は両親を恨んでいなかった。毎日を楽しく、家族も楽しくさせようと、不自由な体でけなげに生きている。
哀名は、夢来が大好きで、そのために夢来を見ていると悲しくなることがあった。
ふん、と息とともに涙を飲み込んで、ポーカーフェイスになる。部屋に入ると同時に感傷的な想いを頭から追い出した。哀名は基本的にクールである。
思い悩んだところで夢来の救いになるわけでもない。今日の過ごし方を考えることにする。
窓の外に見える山々は、黄昏に赤く染まりつつある。もう一日も終わろうとしているが、まだ夕食まで多少の時間はある。
趣味活動にいそしむことにした。哀名は珍しい趣味を持っている。
昆虫採集である。集落の周りや、山中を歩き、見つけた昆虫を採取し、標本にする。図鑑で種名を調べ、ラベルをつけ、標本箱に並べてコレクションする。
哀名は採集にせよ標本作りにせよ、しっかりとした道具を使って本格的にやっていた。一生のライフワークにするつもりで、熱心に様々な昆虫を集めていた。
採集道具を詰めたバックパックを背負い、捕虫網の柄を手に持って、哀名は家を出た。いってきます、は言わない。
細い道路を、幾つかの家の前を通りすぎながら足早にゆく。哀名は集落の全ての大人を嫌っている。そして集落には子供は哀名と夢来しかいない。つまり誰に出くわしても不快である。最短距離で山の中へと向かう。
道はすぐに両側が山林に挟まれた登り坂となった。背中のバッグから網を取り出し、柄に装着する。
そしてまだ見ぬ虫との出会いを求めて歩く。こういう時、哀名の心の中は遥か遠い土地に飛んでゆく。木の育たない高山帯の花々に集まる蝶やカミキリムシ、亜熱帯の島のクワガタムシ、そして外国の景色…………アマゾン、チベット、ギアナ、ニューギニア、空想の旅がいつまでも続く。
哀名にとって昆虫採集は、大嫌いな生活空間から遠い自由な世界へ行くための道だった。両親によって支配され、いいように虐待され逃げ道もない生活の中でも、身近な林や草むらに潜む思いもよらぬ虫たちを見いだすことで、哀名は世界に無限の可能性を感じることができた。大人達の知らない小さな世界を知ることが、哀名に優越感を感じさせ、自信を与える助けになった。そしてこの土地に分布しない種への憧れは、遠い世界への旅立ちの動機づけになる。それは、両親に歯向かい、家を出ていく為に必要な勇気を育ませていた。
今はどこにも行けないが。哀名の行動範囲は厳密に規定されており、その外に一歩でも出るためには親の許可と監視を要する。哀名が歩き回れるのは家から見える山並みに限定されているのだった。外国どころか隣の市町村にも行けない。
だが哀名はいつまでもこんな境遇ではいないと心に誓っていた。遠い世界への憧れを必ず、それもなるべく早く、現実にすると固く決意している。
その想いを胸に浮かべると、哀名の心は熱くなり、同時にとても安らかになった。夕暮れの藪蔭で、彼女はとても心地よく虫を探していた。
とはいえ、家の近所である。道端で蝶が翔んでいるが、キタテハ、キチョウ、ヒメウラナミジャノメ、等々いつも見る普通種ばかり。
葉陰や地面の石の下、枯れ草の下に潜む小さな甲虫やカメムシを狙ってみても、見覚えのあるものが多い。
せっかくだから何か嬉しい獲物が一匹でも欲しいところなのに、これといって成果も上がらないまま、夕闇はどんどん濃くなっていった。
体長二、三ミリ程度の微小なノミハムシ類などの地味な虫を採集しただけで帰り道を辿る。柔らかな西陽に照らされた藪に囲まれた道を歩いただけでも気分は良くなった。今日はもう、ゆっくり体を休めよう。
そう考えながら哀名が樹林に沿う坂道を下りていた時、坂の下の路上に黒い虫が見えた。甲虫である。結構大型のようだ。
哀名は最初、クワガタムシかと思ったが、どうも違和感を感じた。まあ何の虫にせよ、あれほどのサイズの種で出会ったことのない虫など集落の周りにはまず居ない。どうせ何度も採集してきた種類に決まっているのだが、正体だけは突き止めておこうと、哀名は軽い駆け足で近寄ってみた。
そして心底驚いた。その虫は、全身が真っ黒い大型のオサムシだった。見たことがないものである。
クロナガオサムシやマイマイカブリではない。普通のオサムシの仲間に違いない。しかしこの辺りの地域では、褐色で小型のものしか居ないはずである。山麓の町の方に行けば、大きなアオオサムシがいる。だがアオオサムシも緑色や、褐色系の個体ばかりであり、この地方には黒色型は出ないはずなのである。
のんびりと歩いていたオサムシを、哀名は大急ぎで捕まえた。哀名の手でもがくオサムシは、何か奇怪なものを感じさせた。間違いなくアオオサムシではない。胸部の形が非常に独特であり、図鑑で見たどのオサムシとも異なるように思われた。マークオサムシより特殊に見える。
とにかくも哀名はオサムシを毒ビンに入れた。毒ビンというのはコルクの蓋つきの小さなビンで、中に薬品を染み込ませた綿を入れてある。薬品によって虫を殺して標本にするのである。
再び家路をたどりながら、哀名は大発見の喜びを感じつつも、周囲の林や山々に怪しげな悪意のような何かがあるように思われてならなかった。
もっとも、それでビクビクするような性格ではない彼女は、木々を威嚇するかのように唾を吐き捨てた。
帰宅して、夕食の前に、図鑑を見て採集したオサムシがどの種類に該当するか調べる。
オサムシという甲虫は、ごく一部の種を除き後ろ翅が退化していて固い前翅しか無く、そのため飛翔出来ない。だから大きな河などの地理的障害を越えて分布を拡げるのが難しいため、比較的狭い地域にしか居ない種や亜種が多く、コレクターに人気があるグループである。テントウムシのように小型種が大半であるグループが甲虫の仲間には多い中で、オサムシは大型から中型のものばかりというところも魅力的である。
日本全体で見るならそれなりの種数があるが、一つの地方で見られる種は多くない。哀名の家の周囲の山々でも同様だ。
オサムシには真正オサムシと呼ばれる仲間がいて、これはその他のオサムシと比べて種類は多いが、どれも同じような形態をしていて見分けがつきづらいのだが、近隣地域に二種分布している。ただしその二種は体の大きさがかなり異なるし、大きな方は緑色、小さい種は茶色と色も違うから一目で見分けがつく。山の少し上に行くと、もう一種いるが、それも哀名にはちゃんとわかる。
その他、クロナガオサムシ類が三種いる。この仲間は真正オサムシと形が違い、見慣れた人間には区別は容易い。また、カタツムリを食べることで有名なマイマイカブリもいる。形態がかなり特殊だが、これもオサムシの仲間である。
そして、オサムシとしては例外的に後翅が発達していて空を翔べるカタビロオサムシ類のクロカタビロオサムシという種がいる。哀名はまだ見たことが無いが、エゾカタビロオサムシもいるらしい。
以上でこの地域に棲息するオサムシは全てである、はずだった。図書館で見た過去の調査の資料にも他の種は出てこなかった。
しかし今日採集したオサムシは、明らかにそのどれでもない。真正オサムシなのはわかる。しかし哀名の知る真正オサムシとは違い過ぎる。パッと見でも、ルーペで各部をじっくり見ても、やはり図鑑に載っているどれにもあてはまらない。
その図鑑には日本産オサムシは全種載っているはずなのに、似たものが無い。オサムシは同じ種でも地方によって色が違ったり、同一地域内でも個体により全然別の色をしていたりするものもあるし、図鑑にはその全てのタイプの標本写真がのっているわけではないのだが、このオサムシは形態が独特なのだから写真が無いはずがないのだ。しかし見つからない。
そもそもこの辺りの土地にこんなオサムシがいることがこれまで知られていなかったのはどういうことか。
実はこの近隣の山域は昔から知られた昆虫採集の名所であり、数知れぬ採集家達が訪れてきた場所である。オサムシなんて人気の虫の変わった種がいたら有名になっているはずなのに。
昆虫標本は標本箱にしまう前に、一ヶ月ほど乾燥させる必要がある。哀名はオサムシを紙箱に入れて、もう一度外に出た。
玄関を出ると、丁度父が帰宅したのと出くわす。痩せていて長身の父は、スーツ姿だが会社勤めではない。何の仕事をしているのか哀名は知らない。
いつものような爬虫類的無表情の父は、眼鏡越しに哀名をジロジロ見るが、何も言わない。父は母と同じく、哀名をたくさんの男たちに生け贄に捧げている人間であるから、嫌悪の対象なのだが、あまり余計なことを言わない分、母よりましな存在だった。
「あ、お帰りー。」
顔も見ないで言ってやると、
「うん。」
と、感情がこもってないがどこか横柄な印象の返事。哀名は足を踏んづけてやろうかと思ったが、何だか親しみの表明のようにも見えそうだと思ってやめる。そのまま横を通りすぎ、集落を見渡せる高台までゆく。
空は紫色に染まり、家並みは影に沈んでいる。バス停の広場からは賑やかな声。今日は休日だから、帰りのバスを待つ登山客の行列が出来ているのだ。
哀名は視界いっぱいにそびえる山々をじっと見つめた。黒いオサムシは今、山のどこかで蠢いているのだろうか。
もともと集落の周りにもいるものなのか、それとも深い山中にひっそりと棲んでいるのが何かの偶然でこの近くまで歩いて来たのか。
あるいは海外から誰かによって持ち込まれたものか。その場合、一匹だけなのか、複数個体がいるのか。
哀名は、真相を突き止めようと決意していた。色々な可能性の中で、哀名は黒いオサムシが
山の限られた範囲にのみ生息する新種という可能性に心を傾かせている。だとすれば、世界で誰も知らないことを、自分が解き明かすことになるのだ。しかもそれはずっと暮らしてきたこの土地に隠されていたもの。
世界の無限性の中への旅立ちの第一歩に思え、哀名の胸のうちは希望の喜びにふくらむのだった。

翌日から、調査が始まった。黒いオサムシを再び見つけ出し、生息範囲を突き止めるのである。
しかし、毎日歩いている集落周辺でこれまで一度も見ていないことから考えて、二匹目を採集するのは容易なことではないはずである。
哀名は学校へ向かう車の中で調査方針をじっくり考える。小学校は遠く、とても歩いて通う距離ではないため、毎朝父に車で送ってもらっている。車中で会話は無い。哀名は父の人嫌いな性格が自分に遺伝したように思えてならない。
静かな車内では考え事がすすむ。黒いオサムシがこの山地のどこででもありふれたものとは到底思えない。やはり局地的に棲息するのだろう。
家の近所には普段はいないと見る方が正しい気がする。とした場合、本来の生息地はどこか?
翔ぶことが出来ないオサムシがとじこめられるような地形、そして採集者がほとんど行かないような所。恐らくそういう場所に正解、黒いオサムシの根拠地があるはずだ。
学校の前で哀名を降ろすと、父は仕事に向かう。本当に仕事に行っているのかわからないが、哀名がそれを訊ねたことはない。哀名は親と親しく会話などしたくなかった。
学校の子達は敵ではないが、心を許すほどに仲良しでもない。向こうは哀名のことを友達扱いしているが、哀名にとって彼らはさほど大切な存在でなかった。
教師は大人だから敵である。両親に対する程の嫌悪感は覚えないが、全く信用はしていない。男性教員は優しげな態度の裏で劣情を抱いているに違いないと哀名は考えていた。そしてそれはどうやら考えすぎではなさそうなのだった。
学校で誰かに自分の大発見を哀名が話すことはなかった。夢来にも話していないことを誰かに話すわけもない。
哀名が身近な人間の中で特別に思えて、強く好意を感じられるのは夢来だけだった。姉に対して恋人みたいで気持ち悪いことを考えてると哀名自身思っているのと、元来素直でないから好意を態度には出さないのだが。
学校が終わると、金崎という男がワゴン車で迎えに来る。哀名の親戚ということになっているが、実際には同じ集落に住んでいるだけで血のつながりなど皆無である。金崎はニホンザルに似た顔で態度も猿のように小うるさい老人で、これはもう露骨にはっきり哀名の幼いからだに欲望丸出しだった。
しかし、金崎は哀名の母の子分のようなものなので、いかがわしいことをしてくることは無い。無駄口が鬱陶しい時は、「お母さんにいいつけるよ」と言うだけで黙らせることが出来る。金崎は不思議なくらい哀名の母を恐れていて、瞬時にして顔色を失い無口になる。
なので帰りの車でもゆっくり作戦を考えられた。
調査法としては、やはりトラップを使うべきだろう。オサムシの採集は、石をひっくり返すなどして探すというやり方も出来るが、それではなかなか見つからない。地面の土を掘り、紙コップとか缶詰めの空き缶などを口が地面スレスレになるように埋め、中にオサムシの好む食物を入れておくという罠が良い方法である。
これは昆虫採集や、オサムシについて書かれている本に頻出するとても一般的な採集法なのだが、しかし哀名はこれまであまりやらなかった。
天候や仕掛けた場所によってろくな獲物が入らなかったり、中に餌がある為にイノシシやカラスなどに掘り返されてしまったりと、案外難しいということもあるが、何よりオサムシが採れたところで何度も見た種ばかりなのである。
だが一度しか出会っていない種もいることがわかった。百個でも千個でも、数限りないトラップを考えつくあらゆる所に仕掛けよう。大半は無駄になるだろうが、0.1、いや0.01パーセントでも黒いオサムシが入るトラップがあればいい。
車窓から渓谷や山並みを見渡して哀名は半ばうっとりしていた。
哀名は結構な額の小遣いをもらっているので、必要な物を揃えるのには困らない。トラップに入れる餌は、帰りがけに金崎に言ってスーパーに寄って仕入れる。
後は地道な努力だけである。基本的にオサムシは夜行性なので、トラップは夕方に埋めて、翌朝チェックする。
連日、トラップを山のあちこちに仕掛けてまわる。山の上の森林限界上にも、切り立った岩場の上にも、ともかく山中の様々な環境下に仕掛けた。
しかし予測通り黒いオサムシはさっぱりかからない。哀名は毎日黒いオサムシがどこにいるのか考えた。実は高い木の上でだけ暮らしているんじゃないだろうか。動物の巣に住み着くのかもしれない。ひょっとして動物の体にしがみついて体液を吸うとかダニを食べるかしているかも、なんてことまで考えた。
トラップにはゴミムシとかハネカクシなど、オサムシ以外の昆虫もたくさん入るから、まるっきりつまらないわけでもない。あのオサムシは大珍品のはず、二度目の出会いまでは年単位の努力が必要かもしれない、と哀名は考え出していた。
ところが一週間ほどのち、黒いオサムシがトラップで採れた。しかも一つの紙コップに二匹入っていた。
全身真っ黒、体の大きさ、形、まごうことなきあのオサムシである。哀名を心底驚かせたのは、そのトラップを仕掛けた場所が自宅の庭の隅だったのである。絶対に入らないと思いつつ、一個だけ庭に埋めておいたトラップに入ってしまった。どんな深山でも全くかからなかったものが。
人為的に海外から持ち込まれた種という可能性から、集落内外にもトラップは掛けていた。だが哀名は黒いオサムシは古くからこの山地に棲む新種という可能性の方が高いと思っていた、というよりそうであって欲しいという願望にとりつかれていたため、少数しか仕掛けていなかった。山奥の人間が入り込みづらい所で黒いオサムシに多数出会える日が来ると哀名は信じていた。
しかし二度、三個体と出会ったことからすると、むしろ黒いオサムシの生息域はここなのではないだろうか。
その日は集落内と、ごく近辺に数十個のトラップを掛けた。翌朝見ていくと、また二匹採れていた。二個のコップに一匹ずつ。
それがまた家のすぐそばであった。二個とも、家から十メートルも離れていないところだ。
この結果に哀名は喜ぶというより戸惑った。人里でばかり見つかるということは、やはり人為的分布なのかもしれない。しかし、海外原産のものだとして、どのように持ち込まれたのだろう。集落に哀名以外に昆虫趣味の人間などいない。まして海外の生きたオサムシを飼育している人物はいないだろうから、逃げ出したペットではない。何かの工事の資材に潜り込んでいたのだろうか。最近集落の辺りで大した工事は行われていないのだが。
それにしても何故家の周りでばかり見つかるのだろうか。最初の発見地こそ少し離れているが、それでも直線距離で二百メートルほどだろう。まるでこの家が発生地であるかのようだ。
何かこの家に他とは異なるものがあるのだろうか。
そこまで考えて哀名はハッとした。家の中に、哀名が凌辱される洞窟の入り口がある。
黒いオサムシはあの洞窟に関係があるんじゃないか。
まさかとは思いつつ、哀名はその仮説に魅せられてしまった。洞窟を調べてみたい。その考えは強い感情となっていった。
洞窟の入口は仏壇の間にあるが、金属の扉で厳重に封印されている。扉には五つも鍵が付いていて、勝手に入ることは出来ない。両親に頼んだところで調査など決して許可されない。
もしオサムシが洞窟から来ているのなら、どこかに通り道が開いているはずだが、虫しか通れない程度の小さな隙間だろう。哀名がくぐり抜けられるくらいの大穴がぽっかり開いている可能性は低い。そんな大穴に母や父が気づかないことは考えづらいのだ。何しろ彼らは人生で一番大事なのではないかというくらい、この洞窟の管理に神経質なのである。
鍵を入手するのもまず不可能。母は、哀名が言うことを聞かない悪ガキであることを考慮して、大切な鍵を絶対見つからないように保管しているに違いない。
しかし哀名は洞窟に入ることは出来ると考えていた。
ある朝、学校へ行こうとした哀名は、玄関でつまずいて硬い石の床に膝から落ちて怪我をした。わざとである。母から学校を休む許可を得るためだ。
「今日は休んじゃいな。お前の仕事はジジイどものオモチャなんだから、学校なんか行かなくてもいいんだよ。」
いつも通りカンに触る母の言葉だったが、上手くいった。
母は妙に機嫌がいい。母は哀名が怪我すると嬉しそうになる。哀名の“客”達は、本物の変態だから女の傷に大喜びするんだ、と一度語っていた。
親らしからぬ態度が哀名の心をどす黒くするが、作戦通りにいったので口答えなどはしない。
母は居間にテレビを観に戻り際、一言。
「今日一日夢来の面倒見るんだよ。」
話し声が聞こえたのか心配そうに四つん這いで来ていた夢来の顔がほころんで、
「お母さん違うわ、わたしがこの子のお世話をするのよ。仕方ないから夜までいっぱい遊んであげるわ。」
と幸せそうに頬を赤らめる。
これは計算外だった。哀名は外に出たいのだ。血の流れる両膝はとても痛むが、哀名にとっては大したことでもない。母がテレビの前に戻ったらこっそり出かけるはずだったが、見張りが付いてしまった。出発を延期せざるを得ない。
夢来は傷に丁寧に包帯を巻いた。哀名は、夢来が母と違って心から自分を大切にしてくれているのを実感する。しかし今はその愛情が厄介である。家でぼやぼやしていられない事情があるのだ。
強引に口止めして出かけるしかないと考えた哀名。どう説得するか考える為に一人になりたかったことと、体に湯上がりの匂いをつけたい理由があったので、風呂に入ることにした。
ところが、トイレにでも行くのか廊下を通りすがった母が、
「だったら夢来と一緒に入ってやんな。」
と言う。
夢来は、
「そうね、足の怪我が心配だし、一緒に入ってあげる。」
と赤面しながらも随分乗り気であった。夢来は恥ずかしがりやで、妹相手でも裸を見せるのは恥ずかしいらしく、入浴を共にすることなど普段は無いのだが、別に嫌ではない様子である。
かくて二人でお風呂となった。哀名は、久しぶりに見る一糸纏わぬ夢来の姿を眺めて、本当に綺麗だなあと感嘆していたが、夢来の方は真っ赤になったまま細かく震えてうつむいていて、決して哀名の方を見ようとしない。
そんな姉をからかいながらのスキンシップは身も心も暖めるものではあった。
しかし風呂場は哀名にとって安息の地ではなかった。夢来はまるで気づいていないようだったが、二人の生活は日常的に覗き魔に見られていて、風呂など確実に覗かれている。母がよその男達に覗きを許可しているのだ。もしかしたら謝礼金を取っているのかもしれない。
今も複数の男が見ているに違いない。鋭敏な哀名には気配が感じられていた。
小学生の妹と風呂に入るだけで羞恥に震えてしまうような夢来が、昔も今も性犯罪被害に遭い続けていることが哀名は許せなかった。
哀名は覗きの関係で早風呂だが、いつもにましてすぐに出ようとする。だが、夢来は「ゆっくりつからないダメ」と、よそ見しながら言ってくるので結局、長々と入浴することになった。
部屋に戻ったら、夢来は湯中りしたと言って座布団を枕に畳に寝転がってしまったが、これは哀名には好都合だった。
「ジュースでも買ってくる。」
自分の部屋に行って手早く準備を調え、音を立てないように玄関から出た。
心持ち早足で歩く。外出に時間がかかってしまったせいで、当てが外れる心配がある。
哀名は洞窟について考え、入口は他にもあると気づいた。哀名が男達の犠牲になる時、哀名や両親らは家の中から洞窟に入るが、男達は先に洞窟内で待ち受けている。彼らは別の入口から来たに違いない。
なるべく人目につかないように意識しつつ、バス停のそばにある「材木博物館」という施設の裏手に行く。ちょうどその時、表の扉が開いて誰かが出てきた。
恰幅のよい、尊大な顔の老人で、七十は過ぎていそうなのだが力強く精気みなぎる足取りでのしのし大股で歩く。しかし何か病気を抱えているのか、呼吸がぜえぜえと激しく、まるで大きな獣のような老爺だった。
哀名は壁際を小走りで老人に近づき、
「塚田さん!」
と小声で呼びかける。老人は立ち止まって振り向き、哀名の姿を認めると醜い肉厚な顔に瞬時に喜色と邪悪な欲望を浮かべた。
哀名は口許に人差し指を立てて老人が言葉を発すのを防ぐ。
「二人だけでこっそり話したいことがあるの。廃校の裏庭に来て。」
それだけ言うと、くるりときびすを返してその場から走り去った。
上手くいく、という確信が哀名にはあったから、これ以上の言葉は必要なかった。
山麓の町に住む資産家の塚田は、ある程度の学識がある関係で材木博物館の顧問になっていて、毎週やって来るのだが、特に何か役に立つことはせず浅い知識をひけらかしたら帰る。もう少し遅れていたら、哀名は来週も怪我をしなくてはならないところだった。
塚田は哀名が生け贄になる夜の常連客である。哀名の体を貪る男達は、プライベートで個別に哀名と接触することを禁止されている。二人で行動しているところを目撃されたら、男は厳しい罰を受けるらしいし、哀名も母から事情を詰問されるはずである。
そういうことがあるから、男達は昼間、哀名を見かけても不用意に近づいて来ない。
哀名は廃校の裏に隠れて待った。そこは小さいが、かつては小学校だったところである。今は哀名しか小学生がいない集落だが、昔は子供もそれなりにいたらしい。
すぐに塚田が大柄な体を揺らして現れる。いささかもこそこそする様子が無い。
哀名は校舎の蔭から手招きして塚田を裏庭に導いた。裏庭は小さく、校舎と崖に挟まれていて他から見えない。そして、万が一誰かが来たとしても、かくれる場所がある。密談にはとても適した所なのである。
そして狭く薄暗く、二人きりを強く意識させる場所でもある。
塚田はニターリと好色満面の笑みで、
「随分色っぺえ所じゃねえかあ。真っ昼間から我慢出来なくなったのかあ?生意気な奴隷の雌ガキめえ。」
と、遠慮の無いセクハラ発言。
「声を小さくして!二人でこんなとこにいるの、バレたらあんたも困るだろ?」
塚田は言われて声量を落としたが、哀名の体を視線で舐め回すのに夢中で、あまり小声になっていない。
「膝の包帯はどうしたんだあ?なかなか興奮させるファッションじゃねえかあ。」
「ちょっと怪我しただけ。」
「どれどれ見せてみろお。」
塚田は屈んで包帯に顔を近づけると、両手で哀名の腿やふくらはぎを撫で回したり、匂いを猛烈に嗅いだりする。
他の男なら、哀名の両親の監視下でなければ、制裁を恐れてこんな好き勝手しない。だからこそ利用価値がある。
「やめて。話を聞けよ。真面目な話なんだから。」
哀名が一歩下がって塚田から離れると、塚田の方は立ち上がって哀名を壁に追い詰める体勢になった。
「真面目だってえ?学校サボってほっつき歩いてる悪ガキが。」
「塚田さんに会うためにサボったんだよ。」
塚田は少し驚いた顔になった。
哀名はすかさず続ける。
「あたしさー、好きな人が出来たんだ。誰なのか知りたい?教えて欲しいんなら言うけど。」
精一杯の演技力で瞳を潤ませて塚田を見つめる哀名。
すると塚田は彼らしくもなく緊張した面持ちになり、ごくりと唾液を飲み込んだ。
「だ、誰だ。言え………」
哀名はそっと塚田の胸に手を当てて、言った。
「あんただよ。あたし、塚田さんのお嫁さんになりたい。」
塚田は、不細工な顔に妙なシリアス風の表情をうかべ、口調もシリアスっぽくなって応えた。
「そうか………性欲を満足させる以外に取り柄も無いオモチャの分際で、真剣に恋などしてしまったか。哀れなガキだ………。よし、男・塚田信一、お前を一生面倒見てやる!死ぬまでたあっぷり可愛がってしゃぶりつくして子宮が壊れるほど愛情ぶちこんでやるぞお!!」
いきなり塚田は哀名の服を脱がそうとした。しかし哀名は抜群の反射神経で逃れ、距離を離した。
「本当?嬉しい。こんな幸せな気持ち生まれてはじめて。」
身動きでは明確に拒絶を示しているにも関わらず、哀名は顔だけはうっとりとした好意を保ってみせていた。
塚田が獣のようにつかみかかろうとしてくるのに対し、
「聞いて!」
とピシャリと声をぶつけてしばし動きを止めると、一息にしゃべる。
「たくさんいる男の中で塚田さんだけ好きになったわけ、わかる?他の奴はあたしの体にしか興味無いクズだし頭悪い最低の奴らだけど、塚田さんは性欲だけじゃなくて愛情もある人。脳ミソ腐ってる奴らと違ってちゃんとした考え方出来るし、だからあたし、塚田さんのものになりたいって思ったんだ。」
塚田は動きを止め、迷いを浮かべてみっともない仕草で考え込みだした。
それから、激しく地団駄を踏んで「クソウ!」と連呼。その後何事もなかったような態度になって、
「うんうん、この塚田信一、女の子を欲望の対象としか見ない愚かしい男どもとは違う。教養豊かだしなあ、根本から知性が違うんだあ。哀名とは精神的な愛も多少は育みたいと思っているぞお。」
と取り澄まして言ったが、表情には極度の欲求不満がかくしきれず、脂汗がにじんでいる。
「やっぱり、あんたは他の男と違って素敵な人。ね、お願いがあるんだけどさ、聞いてくれる?」
「な、何だあ?」
塚田の悔しげな様子に気づかないふりをして、哀名は思いきり甘えた仕草で一言。
「二人きりの時は信一くんて呼ばせてよ。」
塚田の顔は一気に喜び満面になった。
「しょうがないなあ、生意気だけど許してやろう、何しろ俺の嫁だからなあ。俺も哀名ちゃんと呼んでやるぞお。そのかわり夜のお勤めの時は泣いても手加減しないからなあ。」
哀名は塚田の妄言を聞き流した。
「もう一つ、お願いがあるんだけど……」

三十分ほど後。二人は塚田の車で少し離れた山域に来ていた。そこは道路からもハイキングコースからも外れた植林地の奥だが、舗装されていない幅の広い道があって車で入り込める。
林の中に、公共の施設であるかのような白い壁の小屋があった。塚田は小屋の戸の鍵を開ける。
「本当は普段入っちゃいけないことになってんだけどなあ、構うもんかあ。こっちは哀名ちゃんにお願いされてんだからなあ。」
戸を引いて開くと、中には金属の扉。洞窟の入口である。
扉の鍵を塚田は躊躇無く開ける。
「お願い聞いてやるんだから、俺のお願いもいつか聞いてもらうぞお。どんなプレイにするかなあ、グプププ……」
哀名は顔を反らして小さく舌打ちした。
金属の扉を塚田が開けると、中は真の闇だった。
「いつもは灯りがついてんだけどなあ。哀名を犯す日じゃないと灯りつけないのかあ、知らなかったなあ。何も見えねえやあ。」
哀名は肩掛け鞄から懐中電灯を取り出して点灯した。洞窟は一本道で真っ直ぐ奥へ続いている。
「準備がいいなあ。」
哀名は懐中電灯をもう一つ取り出した。
「信一くんも持ってよ。」
塚田の手に懐中電灯を、丁寧に手を添えて渡す。塚田は機嫌良く受け取った。
洞窟の床は整地されていて、歩きやすい。
上手くたどり着けたな、と哀名はほくそ笑む。哀名を凌辱している男達なら、洞窟の別の入口を知っているはずだが、聞いて教えてくれるはずもない。しかし馬鹿で騙しやすく、そして恐れ知らずな男からなら聞き出せる、と哀名は考え、条件に綺麗に当てはまる塚田をターゲットにしたのだが、非常にすんなり成功した。
後はじっくり探索を楽しむだけである。塚田は邪魔だが、案内役として必要なのでご機嫌を取り続けなくてはならない。
「哀名ちゃん。」
「なに?信一くん。」
哀名は振り向きもせず返事する。
「どうして洞窟の探検がしたかったのかなあ?」
哀名はどう答えるか考えていたが、何も言う前に塚田の言葉が続いた。
「誰もいない所に俺と二人で行きたかったから、だったりしてなあ。」
哀名のライトは洞内のあちこちに向けられるのに対し、塚田はずっと哀名に光を浴びせている。
「哀名ちゃん、ちょっと止まって。」
塚田はモゾモゾと動いている。哀名が灯りを向けてみると、ズボンとパンツを下ろしているところだった。
「哀名ちゃんがあんまり美しいからなあ、我慢が出来なくなっちまうんだあ。鎮めてくれよお、お前の大好きな男のオチンチン様だぞお。ほうら、むせび泣いて悦んでしゃぶるんだぞお、淫乱雌ガキ奴隷めえ、物欲しそうにケツふって歩くのがいけないんだあ。」
塚田は哀名の頭を掴むと醜悪な巨根に押し付けようとした。
その時、懐中電灯の光の輪の中に白い煌めきが現れた。いつのまにか哀名の手にナイフが握られ、臭気を放つ塚田の肉棒に押し当てられている。
「しまえよ。二十等分に切り刻むぞ。」
不良少女の本気の凄みとともに、いかにも切れ味の鋭そうな刃物でかけがえの無い部所がおびやかされているとあっては、さしもの塚田もすごすごと引き下がらざるを得ない。惨めに縮んだ物をパンツにしまいこむ一人の老人。
安全が確保されたと見るや、哀名はしおらしい態度になった。
「ごめんね……あたし、男が怖いんだ。わかるでしょ、どうしても男の体にビビっちゃうんだよ。大切な信一くんでも、怖いんだ………。でも!いつか、二人きりで、あたしの全て、信一くんに捧げたいって思ってる。信じて!あたしだって、本当は信一くんの愛情を体で受け止めたいんだ!でも、今は恐怖心に勝てない。もう少し、待って欲しい…………なるべく早く、エッチ出来るようになるって約束するから!」
言い終えると、哀名は嘘泣きした。嘘泣きは哀名の最も得意とする技の一つであり、非常な名演技であった。
塚田は悔しそうにワナワナと肩を震わせていたが、彼なりに優しげな作り笑いを必死に浮かべた。
「待つよお。俺は性欲だけの馬鹿どもとは違うからなあ、ちゃんと哀名の気持ちも大事に出来るんだあ。」
「ありがとう、信一くん。大好きだよ。」
哀名はすぐ取り出せるようナイフをポケットにしまうと、平然と探索を再開した。塚田に近寄らないよう気をつけつつ。
塚田は懲りもせずライトとともに獣欲の視線を哀名から片時も離さなかったが、籠められた熱量は最前より倍加していて、哀名の肌を灼くようだった。
洞窟は数分ほど進むと下方に向かっていた。岩が綺麗に刻まれた階段がある。その先をライトで照らすと、乗り物らしきものがある。よく見ると、線路も光を反射して白く光っている。
哀名は振り返って塚田にたずねた。
「あれ、何?トロッコ?」
「ああ、そうだあ。あれでお前を味わう場所まで行けるんだあ。」
トロッコには座席が八つあり、前の席二つの前面に自転車のようなペダルが付いている。完全な人力ではなく半電動式だから漕いでいても疲れない、と塚田は言う。
哀名は塚田とともに前の席に座った。塚田がスイッチを操作してから、二人してペダルを漕ぐ。
確かに特に力を使うこともなく、楽に進める。意外にスピードも出る。
「面白いな、これ。」
思わず哀名ははしゃいでしまう。そんな哀名を見て塚田は下卑て意地の悪い笑いを洩らした。
「これに乗るだけでも興奮しちまうよお。」
哀名は自分にライトを向けている塚田に刺すような視線を振り向けた。光に隠れて塚田の顔はよく見えないが、慌てた様子なのはわかった。
「ご、ごめんよ哀名ちゃん!もう哀名ちゃんが怖がること言わないよお。」
洞窟は曲がりくねっていたが、勾配はあまり無く、トロッコは快速で進む。
途中から洞窟は広くなった。懐中電灯の光がかすめるだけではよくわからないが、天井から鍾乳石が垂れ下がっているようだ。
それから暫くして、塚田がブレーキをかけ、トロッコを停めた。入口から二十分ほどかかっただろ
うか。
「こっちだあ。」
トロッコを降り、塚田の示す狭い通路に入る。すぐにまた周りは広くなったが、そこは懐中電灯で照らしまわるだけでも見覚えのある場所だと哀名にはわかった。祭壇的なものもちゃんとある。
「ここ、いつもの場所か……。」
「そうだよお。まさか、ここに哀名ちゃんと二人きりで来られるなんてねえ。グプププ……。」
哀名は辺りをキョロキョロ見渡す。
「家はどっち?」
「こっちだあ。いつも哀名ちゃんはこっちから来るよお。泣きそうな顔でなあ。ブハアア、ブハアア、我慢してんのがつれえよお。」
不穏な雰囲気を感じて哀名が灯りを向けると、塚田はズボン越しに股間をまさぐっている。
哀名は壁をしたたかに蹴って大きな音を立てた。パアンという音が洞内にこだまする。
「変なことしないで。」
塚田は股間から手を離したが、非常に不機嫌な顔になっていた。
「おい、奴隷のガキ。」
塚田の物騒な声に、危機を察した哀名は塚田の臭い汗ばんだ体に抱きつき、目を潤ませて切なそうに訴えた。
「信一くんが他の男とは違うことを証明して………洞窟出るまであたしが怖くなっちゃうことしないで。そしたら……………キス、してあげるから。」
途端に塚田はニヤけきった顔になった。
「当たり前だあ、哀名ちゃんを悲しませるようなことはしねえ、他の男とは違ってなあ。グプッ、グプッ、ギュプウウウ!」
鼻息が荒すぎて鼻水が吹き出し、哀名はつい露骨に嫌悪の表情を浮かべて身を離したが、塚田はそれにも気づかず袖で鼻水をぬぐってご満悦であった。
場が落ち着いたので哀名は改めてライトを周囲に向ける。哀名の家への道らしき横穴以外にも、道が幾つも別れている。
生き物はいない。オサムシどころか洞窟性昆虫の類いも見当たらない。
最も、洞窟性昆虫というのはなかなか見つからないものらしいので、哀名はまだガッカリはしていない。
「哀名ちゃん。」
後ろから塚田が猫なで声で呼ぶので、何だろうと振り返る哀名。
「手をつないで歩こう。」
塚田は恋人気取りで鼻水を拭いた手を差し出してきた。
その時だった。洞内に奇怪な音が大きく鳴り響いた。それは「ギャアア」と聞こえ、鳥の声のように思われた。
哀名は驚いて身を固くした。塚田も仰天した顔になっている。
その音はそれっきり聞こえず、辺りは再び静かになった。
「何、あの声。」
哀名は平静を取り繕いながら聞いた。
塚田は脂汗を流し前後左右を何度も見回して、半ば独り言のように言う。
「何だあ、あんなのはじめて聞いたぞお。本当にこの洞窟はおかしな事がよく起こるな、やっぱり普通の洞窟じゃあないのかもしれねえなあ。」
塚田が言い終えた直後、どこからかカラカラと石の動く音がした。塚田は身をたじろがせたが、哀名は素早く音の方向にライトを向けた。
そこには哀名の家にゆくのとは別の横穴があった。哀名は恐れずに横穴に入ってみた。すると眼前にしめ縄が渡されていて進路を阻んでいる。
塚田に肩を掴まれた。
「そっちに行っちゃあダメだあ。絶対に入っちゃいけないところだあ。」
塚田は非常にあわてふためいていて、いつもの下品さや傲慢さが息を潜めているほどだった。
そしてしきりにもう帰ろうと言う。恐怖に捕らわれてセクハラする元気もないようである。
仕方ないので、哀名も撤退に同意した。ほとんど探索できなかったが、生物、しかも昆虫どころではない大型の生物の気配を感じるという大きな成果を得られた。
それに、哀名も不安感に捕らわれていたのも事実である。本格的に洞窟の秘密を探るのは次回でいいだろうと考えた。
トロッコで引き返し、無事に洞窟を脱出。陽射しを浴びると心から安心できた。木々や笹が懐かしく思えた。
塚田もいつもの横柄な態度に戻っている。
「哀名ちゃん、俺は他の男と違ってただろう?性欲丸出しの奴等とはさあ。」
はっきりとは言わないが、キスの約束を果たせという意味なのは明白だった。
「信一くん、下向いて。」
哀名は塚田の頬に手を添えて、背伸びして唇を重ねた。塚田の脂ぎった唇の味に嘔吐しそうになるのをこらえ、ときめいたような表情を保つ。自分の体は汚れきっているんだからこんなこと何でもない、と思いながら。
口づけを終えた塚田は、奇妙に純情そうな顔になっていた。
「哀名ちゃん、好きだあ。一生守ってやるぞお。」
どうやら時々こうして餌をやれば言うことを聞かせられそうだ、と考えつつ、哀名は塚田の奇妙な揚げ物のような味がする唾液を飲み込んだ。

それからの日々、哀名の心を捕らえていたのは、当然のように洞窟内の立ち入り禁止の場所の謎だった。
あの先には何があるのだろうか。大型の生物が棲める環境があるとしたら。
そこは洞外のはず。そここそが、黒いオサムシの生息地なのではあるまいか。特殊な環境の土地に、黒いオサムシが多数生活している姿が見られる場所なのではないか。
まだあくまで仮説に過ぎない。しかし可能性は否定しきれない。
哀名は、どうしてもあの通路の奥を見に行かなくてはならないと思った。もう少しで、全ての謎の答えにたどり着けるかもしれない、遥か遠く思っていたゴールを迎えられるかもしれない、とてつもなく大きな夢が叶うかもしれないのだ。行かないわけがない。
だが、危険があるかもしれない。塚田を言いくるめて同行させるのは少し難しそうであるし、そもそも邪魔どころか潜在的に危険な存在だから連れて行きたくもない。となると単独でゆくことになる。
塚田を置いて先に進む方法も考えなくてはならないが、それよりあの場所に入ることにどれだけリスクがあるかの方が大事な問題である。
別に恐れてはいない。もともと度胸のある哀名だが、夢をつかみとれるチャンスに心が熱され浮き立っている今、眼前に危険な何かを突きつけられてもいないのに臆病になることなどあり得ない。
しかし彼女は生まれつき冷静な性格である。危ない目に遭う可能性を疎かにはしない。
あの鳥らしき声の主が危険な動物であるかというと、常識的に考えてそれは無いだろう。日本に人間に襲いかかるような鳥は居ないはずである。凶暴化したカラスが人を追いかけて突つくなんて話はあるが、それほど致命的なものでもないだろう。鳥ではなかった場合、この山地にはおそろしく危険な動物としてツキノワグマがいるが、あんな鳴き声ではないと思われる。
ただ、クマや野犬などに遭遇することだって考えられなくはないし、その場合絶対に誰かに助けを求めることは出来ない。ヘビが多数住み着いているなんてこともあるかもしれない。マムシが群れている中に踏み込んでしまったらまず命は無いだろう。
そうしたこともありうることであるが、今のところそういったものに出くわす可能性を示唆する要素は無い。哀名が気にしているのは、洞窟というものそのものの危険性だった。
崩落など、洞窟には決定的なリスクがあるらしい。哀名が犠牲になっている場所までは、人の行き来があるから大丈夫と考えていたが、立ち入り禁止区域は長い間人が入っていないかもしれない。だとしたら、天井が崩れそうになっていても誰も気づかないし、不用意にその下を歩いたら、足音の振動で崩落するかもしれない。
色々考えてみると、やはりどうにかして立ち入り禁止地について、事前に情報を得ておきたい。しかし何かを知っている可能性があるのは両親だけ、そして二人からあの場所について聞き出すのは不可能だろう。
それでも一応、取りつく島は無いものかと居間に行き、テレビを観ている母の横に座ってみる哀名。
上手くご機嫌を取ろうとするが、会話のきっかけが掴めず黙っていた。哀名は夢来がいないと親とまともな会話が出来ないのであった。
不意に母が哀名に目を向け、人の悪い笑みを見せた。
「なんだい、急に寄ってきて。意地汚いガキらしく、大好物の匂いを嗅ぎつけたのかい、やれやれ恥ずかしい子だわ。」
哀名は一瞬、何か高級なお菓子でもあるのかと思ったが、どうせ違うだろうと思い直した。
「何の話?」
母はクライマックスを迎えつつあるドラマに目もくれず、邪まに微笑したまま甲高い声で宣言した。
「今週の土曜日、お前の大好きなおちんちんの日だよ!汚い汚いおちんちんがいっぱい集まるよ、お前の身体中をグサグサぶっ刺しにねェ!いつもみたいに泣いて悦びなよ、子供のくせに汚いチンポコがお似合いの不潔な淫乱娘!」
母は勝ち誇った顔で哀名の反応をうかがっていた。その態度に気づいていた哀名は、微塵も表情を変えずにわざとらしく溜め息をついて言った。
「あたしには化粧も宝石もつけなくてもチンポコ集まるんだよな、わけーから。チンポコなんかいらねーのにな、ババアと違ってよ。」
その雑言は見事に母のツボを突いたらしく、顔面をどす黒く変色させた。哀名はさっさと部屋に戻る。
ベッドに身を投げ出し、力の抜けた眼で天井を見る。哀名が男たちに犯される日は不定期だが、一ヶ月以上間が空いたことはない。最近は無かったから、そろそろ来るだろうと思っていた。しかし黒いオサムシに気をとられていたため、その事はどうでもよく思えていたのだった。
が、いざ数日後にその日が来ると知らされると、やはり心は苦悩に染められた。
あたしはまた汚れるんだ。その言葉ばかり何度も胸のうちで繰り返していた。いつか、この体は汚濁に耐えきれなくなって融解し、男たちの体液とドロドロに混ざって一体化してしまうんじゃないか、そんな妄想が思考を支配する。
すでに体の一部は穢れで変質しているかもしれない。汚れ爛れた臭いを放ってはいないだろうか?
嗅覚の鋭敏な生物なら、同年代の女子と自分のにおいを区別するんじゃないだろうか。
たといそんなことはなかったとしても、精神は確実に汚れによって壊され、回復不可能な砂漠が拡がり続けている。心の中の「本来の自分」の部分は縮小させられ、いつか跡形もなくなる。そうなった暁には何が残されるだろう。きっと言語能力も残らないし、記憶も消える。男に犯される度に「本来の」心は削り取られ、最期の時が近づくと共に、危機意識も薄められてゆき、やがては男たちを何の疑問も無く受け入れるようになり、壊し尽くされて棄てられる。
哀名は自分の頬を叩き、そんなの臆病な思い込みだ、と自らに言い聞かせた。
夢来はそんな末路を辿っていない。おそらく自分もいつかこの非人道的つとめから解放される。
いや、そうだろうか。未来を楽観視していいだろうか。哀名は自分の本心に耳を傾けた。哀名の正直な気持ちは、行く手に救いがあるとは信じていなかった。
夢来が役目を終えられたのは哀名がいたから。哀名には、次がいない。もしいたとしても、自分は生かされるとは思えなかった。死ぬまで使い潰される、本心はそう思っていた。
哀名は自分に対して失笑した。弱気なことばかり考えて寝てるだけなんて情けねーな。そう、自分を叱咤して、起き上がる。
心はまるで晴れていない。しかし何かするべきだと思って、考え事を打ち切る。思い詰めてもどうにもならないことだし、そんなことを考えているより、役に立つことをした方が人生もマシな方向に向かうだろう。
陰鬱な気持ちながらも割りきって、何をしようかと考えて真っ先に思いつくのはやはり、黒いオサムシのことである。今できるのは洞窟探検の準備だ。
立ち入り禁止地の情報を手に入れる方策を編み出せないものか。哀名は頭を働かせてみる。もし、その方法を思いつけたら、この気持ちを覆う暗雲も一気に消える。
そして奇跡のようにそのアイディアが浮かんだ。

日曜日。哀名は昼過ぎに起きた。いつものように体の各所に傷がある。しかし、凌辱された次の日にしては身も心も軽い。思考能力も不思議なくらい活発である。
夢来が用意していた昼食を食べる。それから外出した。
空は薄曇りで、涼しい風が吹いている。哀名は材木博物館を見上げる道路にある郵便局の前の自動販売機でジュースを買い、その場で飲んだ。ゆっくり少しずつ飲んでいるうちに、一台の車が材木博物館前の坂道を下ってきて、どこかへ走り去った。塚田の車だった。
哀名には前夜の記憶が無いが、どうやらノートにメモしていた通りに事を運べたようだとわかった。
空き缶を捨てると、山の上の方に向かって歩く。集落から延びる林道のある地点で塚田と待ち合わせている。計画通りなら、そういうことになっているはずである。
そこで哀名は手紙を受けとることができるはずだ。哀名自身からの手紙。
これが哀名の、情報収集の作戦であった。洞窟で男たちに犯される夜は、記憶を消されてしまう。ならば、母や父が普段は秘密にしていることを簡単に話すかもしれないと哀名は考えた。そしてそれを紙に記して協力者の塚田に翌日の自分へ届けさせる。
上手くいけば立ち入り禁止地の危険性がわかる。ただ、確実な方法とはいえない。必要な情報を聞き出せたかわからないし、そもそも両親が立ち入り禁止地のことをよく知らなかったなら無意味である。
それに、根掘り葉掘り聞き出せていたとしても、その全てが今日の自分に伝えられるわけではないのだ。哀名は、手紙が母や父にバレる危険や、塚田に見られてマズイ事態になることを配慮した。塚田は手紙を見るに違いないし、哀名が立ち入り禁止地に関心を持っていることを知って余計な反応を示すことになるはずである。
そのため、手紙は暗号文にすることとした。洞窟内の状況で使っても自然な言葉に、別の意味を持たせる。例えば、手紙の書き出しが「あたし」の場合、情報源が父であることを意味し、一人称無しは母から話を聞いたことを意味する。
そういった調子で、幾つかの必要事項について、暗号を決めた。これなら立ち入り禁止地のことを知りたがっていることはバレない。ただし、最低限の情報しか翌日の自分に送れなくなるが、そこは仕方のないことだろう。
どうしても知りたいのは、危険性の有無、人が入ることはあるのか、である。これらはイエスかノーかしか無いから、暗号を定めるのは簡単である。
具体的な危険性の内容や、入った先がどういう場所に通じているのか等も知りたいが、暗号化が難しい。これらについては、特定の前置きの後になるべく簡潔に記すことにした。
そうして考えた暗号は、ノートにメモしておき、念のためノートは山の中にかくした。
暗号も記憶消去と共に忘れるかもしれないと心配しての措置だったが、哀名は全て覚えていた。
だから、これから受け取る手紙をノートと突き合わせなくとも、手紙の意味は全部わかる。
ヒノキ林の中の坂を登っていると、前から塚田の車が来た。待ち合わせ場所はもう少し先なのであるが。
「ブフォホ、待ちきれなくて迎えに来ちゃったよお、さあ乗って、哀名ちゃん!」
助手席に座ろうとする哀名の手を、紳士的態度を装っているつもりか汗と脂まみれの手で握る塚田。手も特有の臭気がある。
車は林道の広くなっている所でUターンし、奥に向かった。密生する笹藪の傍らに停車したが、二人は車内のままだった。
哀名は甘えた仕草を意識しながら言った。
「信一くん、預けたものは持って来た?」
「グゥヒュウヒュウヒュ!もちろんだよお!」
塚田はやけに上機嫌で、鼻息荒いために鼻水が垂れ流しになっている。どうもおかしい、と哀名は感じたが、予定通りに進めるしかない。
「早く見せてよ。」
塚田はますます喜色を昂らす。
「おねだり上手だなあ、はしたない哀名ちゃん。」
塚田は運転席前の引き出しを開け、中に入っていた小箱を出す。そして胸ポケットから小さな鍵を取り出した。その鍵は小箱を開けるためのもので、小箱が開くと中には封をされた包み。
包みが開くと、ようやく哀名の見覚えのある紙が出てきた。メモ帳の一ページで、小さくたたまれている。随分と厳重に保管されていたことに違和感があったが、今は中身を見るのが先と、哀名は気が急いて震え気味の手で手紙を開いた。
文字は全て自分のものだ。塚田によって何かを書き加えられたりはしていない。
短い文章は中程に空白があり、上下二段に分けられていた。
上段にはこうある。
「あたしへ。悩まないで。あたしは、ただ吐き気がするだけ。意味わかんねえけど、あたし、宝の山だって。」
普通に見るなら、なんだかおかしな、意味があるような無いような、個人的感情の表明以上のものではない文である。実際には、これには立ち入り禁止地について貴重な情報が記されている。
まず、危険性である。哀名の暗号では、「危険性が有り」→「大丈夫」、「危険性無し」→「心配ない」、「不明」→「悩まないで」としていた。つまり、危険があるかどうかはつかめなかったということである。そして、出だしが「あたし」ということは父からの情報であるわけだ。
ここまでは収穫無しである。しかしその次が非常に重要である。意味しているところは人が入ることがあるかどうか。「無し」→「ただイラつくだけ」、「有り」→「ただ吐き気がするだけ」、「頻繁に有り」→「思いきり吐き気がするだけ」と決めていた。つまり、人が入ることはあるのだ。
そしてその次。「意味わかんねえけど」も暗号で、立ち入り禁止地がどういう場所かについて記す前置きである。
これによると、立ち入り禁止地は「宝の山」だと父が言っていたことになる。これは一体どういうことか、謎である。
空白の下の文章は一行で終わっていた。
「何をされても心を失わない」
哀名は思わず涙ぐみそうになった。これは暗号ではない。極限状況下で勇気を振り絞った感情の発露だ。覚えていない自分の健気さがいとおしく思えて、一人でいたなら泣いていたかもしれなかった。しかし隣に決して気を許せない者がいるから、哀名は弱さをさらけ出すことはしなかった。
手紙をたたんでポケットにしまう。もう用は済んだ。後は速やかに帰宅するのみだが、それがいささか面倒である。ある程度、塚田に仮初めの満足感を与えなくては帰してくれないだろう。何か、いい気分にさせることを言いつつさりげなく車を出るのが理想である。さて、上手い言葉は無いものか。
哀名が考えていると、塚田は不穏な態度を見せた。そろそろと手を伸ばして、肩を抱こうとしてくる。哀名がキッと睨み付けると、一度手は止まったが、すぐにまた近づいてくる。哀名は遠慮無くその手を押しやった。そして心持ち冷たい声を投げかける。
「信一くん、あたしがスキンシップ苦手なの知ってるよね?」
塚田は少し怯んだようだが、下卑て横柄な笑みは絶やさない。
「ゲヒッ!ブハ!でもねえぇ、約束だしねえぇ!」
塚田の声が急に大きくなった。吐息と鼻息も突然に荒くなる。巨体から発する熱気が哀名の全身に浴びせられた。
緊急事態になったことを哀名は察した。しかし努めて平静を保っていた。塚田の股間が盛り上がっていることに気づかないふりをして、表情は変えず、身構えもしない。
「約束……?何の話だっけー?」
塚田は内から沸き上がる何かを押さえきれないようで、手を震わせ、涎を何度も飲み込んで充血した目を大型の猛獣のように恐ろしげにニヤつかせる。
「しらばっくれるなよお?今さら恥じらってんのかあ?二人きりでセックスする約束だよお!!」
「知らない。あたしはそんなこと言ってない。」
反射的に言い放った哀名。彼女は塚田がどんなことを言うかを半ば予想していたから、間髪入れずにピシャリとシャットダウンした。
どうやら昨夜の哀名は、塚田に手紙を届けさせる為にとんでもない約束をしたようだった。極限状況の中で思考回路がまともに働かなかったのだろうか。非常にまずいことになった。
哀名の語気の強さは半秒ほど塚田の動きを止める。だが当然、諦めさせるには至らない。
「何を言ってるんだあ?!そんなの認められるわけがねえだろお!!つけあがるなよお、メスガキのくせによお!!素直におとなしくチンポコしゃぶれえ!!約束通り精汁出なくなるまでハードファックしてやるからよお!!」
塚田はズボンのチャックを下ろそうとする。だが気持ちが先走って手間取っていた。
哀名は急いで対策を考える。今なら何とか車から逃れられる。外に出ればこちらのものだ、林の中に逃げ込めば車で追ってくることは出来ないし、幾ら体力があるといっても老身の塚田が走ったところで捕まる心配は無い。
だが、それではせっかく手なずけた協力者を失うことになってしまう。そうしたらもう、洞窟探検は出来なくなるし、さらに悪いことになる可能性もある。塚田の気持ちを納得させる必要がある。かといって二人きりでセックスなど以ての外だ。心が崩壊しかねないし、その恐ろしい経験の記憶は消されないのである。
哀名はほとんど瞬時に作戦を決定した。
手を振りかぶり、塚田の頬を思いきり叩いた。車内に高らかに音が響く。さすがの塚田も完全に虚を衝かれて驚きを浮かべる。
哀名はそれを見てこれならいけそうだと内心せせら笑いながら、嘘泣きの涙をあふれさせた。哀名はいつでも自由に涙を出せるのだ。
「ひどいよっ!信一くん……!」
悲痛な声に、塚田の顔から卑しい笑いや凶暴さが消え失せ、後ろめたそうになる。哀名は本心ではゲラゲラ笑いつつ、ますます悲しみに暮れてみせた。
「あたし……たくさんの男に穢されてること、記憶がないんだぞ……?だからっ……信一くんとHするのが、あたしにとっては初めてになるんだよ…………?それが、こんな、乱暴に……」
哀名は自分の演技に笑いが堪えきれなくなってきたので、両手で顔をかくしてうつむき、すすり泣いた。塚田から目を離すことになるが、哀名は主導権を握れた確信があったので、危険とは思わなかった。
塚田の迷いが雰囲気で伝わってくる。
ややあってから、塚田は滑稽なシリアス声を発した。
「わかった。優しくする。男・塚田信一の名に懸けて約束する。ソフトなファックしかしない。」
当たり前だが、塚田はセックスをやめる気は毛頭無いらしい。
「だからセックス怖いって言ってるだろ!!」
哀名は泣き顔を見せ、涙目でにらんだ。
「あたしだって……約束は、守りたい……覚えてないけど、約束したんならH、してあげたいんだ……でも、怖いから………無理なんだよ………!」
あからさまに気圧されている塚田。ここぞとばかりに哀名はとどめを刺しにいく。
「ねえ、信一くんは待ってくれるだろ?あたしが、怖くなくなるまで。だって、信一くん、あたしのこと大事に思ってくれるし。あたしが信一くんのこと好きなのと同じくらい、信一くんはあたしのこと好きだよね?普通の下らない男みたいに、あたしが怖いのに無理矢理セックスすることなんてないよな?ねえ?」
「う、うん…………」
塚田はつい返事をしてしまい、すぐに後悔を満面に浮かべた。
哀名はすかさず健気な笑顔をつくる。
「やっぱり信一くんは他の男と違う。大好きだよ。」
塚田は何も言わず、欲求が満たされない悔しさに闘牛のような怒りの鼻息を幾度と無く鳴らしている。
フォローの必要がある。哀名は何気なく言った。
「信一くん、手を貸して。」
片手で塚田の手を引き寄せ、もう一方の手で自分の上着、そして下着をたくしあげて胸をさらけ出し、そこに塚田の手を当てた。
おぞましさに発狂しそうになった。本当はしばらくさわらせておこうと考えていたが、ほんの数瞬で手をのけ、上着を下ろす。
急いで車のドアを開け、外に出る。
「今の、約束破ったおわびだから。これだけでも怖かった。本当にあたし、弱虫でごめん。」
運転席の塚田は蕩けそうな顔になっていた。
「いいんだよお。哀名ちゃん、お前はいい子だなあ。すごぉく気持ちよかったよおお。グギュぺへエ!」
哀名は少しやりすぎたか、と後悔した。つい舌打ちしそうになるが、かろうじて我慢。
「じゃあ、またね。」
すみやかに立ち去る哀名の背後で、塚田はドアも閉めずゴソゴソと一人でおぞましい行為に入った。

立ち入り禁止地は人が入れない場所ではなかった。そしてそこには「宝の山」と表現されるだけの何かがある。
行こう、と哀名は決心した。危険が無いとは限らないが、誰かは行って帰って来ているのだ。それは情報源である父とも考えられる。哀名にとっては軽蔑の対象である父が行ったことがあるかもしれないとなったら、哀名は引っ込んでいられない。
行って、「宝の山」が何なのか突き止めなくては、という気持ちが抑えられない。
ネックは、一つには危険性について何も解明出来なかったこと。「宝の山」となると、両親にとって多大な利益をもたらす場所ということもあり得る。その為に塚田たち、哀名を凌辱する男たちの立ち入りを禁じているとしたら、不用意に入ったものを害するトラップなどもありかねない。
そして二つ目、立ち入り禁止地に重大な秘密があるとしたら、哀名がそこへ行ったことが親に万一知られた場合、途方もなく恐ろしい措置がとられることが考えられる。
勝手に洞窟に入っていることからして、バレたらただですまないだろうと哀名は覚悟していたが、どうやら立ち入り禁止地には非常に大きな秘密があるようであり、それを一端でも知ったことを両親に気付かれたら、どんなことになるだろうか。
殺されてもおかしくないと哀名は思った。「宝の山」の真相が大したことでなければ命まで取られはしまいが、彼らにとっての哀名の価値を上回る何かがあったなら、処刑されても不思議は無い。何しろ父も母も疑い無く哀名に対し愛情を持っていない。
殺されなくとも、手足が二度と動かなくされるなんてことになるだろう。説教や折檻だけで許されるなどという甘い結果は決して無いと哀名は百パーセント確信していた。
だがそんなことは哀名を怯ませはしなかった。敵を恐れて踏みとどまっていては、敵の思惑通りではないか。そんなことを考えていた。
さらに思う。立ち止まっていたらいつか広い世界に出ていくという夢がかなわない。これは一つの旅立ちなのだ。
あるいは、今、無理をしなくても、そのうちに遠くへ旅立つチャンスは来るかもしれない。しかし、この土地を離れる前にやらなくてはならないことがある。黒いオサムシの謎を解き明かすこと。それを果たさなくては出ていけないのだ。
洞窟を隅々まで調べても、黒いオサムシには何も関係無いかもしれないが、立ち入り禁止地に生息環境がある、という想像がどうしても哀名の頭から離れない。その思い込みに従うことを哀名はすでに決めていた。
最悪の場合、洞窟で命を落とすかもしれない。哀名は夢来を想う。大切な姉を救うことも出来ていないのに、死の危険を伴う行為に赴く無責任さに、自虐的な失笑を洩らしてしまう。
哀名がいなくなったら、もう夢来には、幸せな人生を送る可能性は無くなってしまうだろう。どうすればいいのだろうかと哀名は考えるが、探検を敢行する以外の選択肢は思い浮かばなかった。
舌打ちしながら涙を拭い、山々の上の空を見つめた。

塚田が集落に来た際に、哀名は洞窟に誘った。何故行きたがるのかと訊ねる塚田に、「人目を気にしないで二人でいられる所だから」と答え、「あと………何でもない」とつけ加えて気を引く。
「なんだなんだあ?言えよお。」
「言わないよ恥ずかしいから!」
話をスパッと終わらせつつ、興味を持続させる。
その日はトロッコには乗らなかった。
洞内で、相変わらず哀名の方にばかりライトを向けている塚田に、哀名は少しキツ目の語調で言った。
「信一くん、そこにいて。絶対あたしの方に来るなよ。」
哀名は塚田から距離を置き、胸くらいの高さの岩壁の裏に回った。塚田からは顔しか見えなくなる。
「なんだよお、おしっこかあ?」
塚田はニタニタと喜悦満面になった。
「違う!」
「違うのかあ。ガッカリだなあ……」
本当にしょんぼりしている塚田。哀名は舌打ちしたいのを我慢。
「一歩も近づくなよ!近づいたら殺すから!」
哀名の物言いに塚田はムッとした。
「お前が悪ガキなのは知ってるがなあ、幾らなんでも旦那様に向かってその言い草は……」
ゴチャゴチャと塚田が言い立てるのをやめさせるため、哀名はことさら音を立てて次の行動をした。
洞内にカチャカチャと音が響く。哀名のズボンのホックを外す音だった。チャックを下ろし、脱ぐ。さらにパンツも下ろす。衣擦れの音は確実に塚田まで届いている。
「な、ななな、何してるんだあ?ブヒュヒェ!脱いでるう!脱いでるよなあ、今あ!」
岩で隠れて哀名の恥部には塚田のライトは当たらず、闇の中だ。しかし、こんなところでパンツの中を外気にさらす恥ずかしさと情けなさがありありと浮かぶ顔は光にさらされ続け、岩陰であられもない姿となっていることを証明してしまっていた。哀名は表情をかくそうとせず、恥じらいの涙も素直に流した。
「どういうことだあ、な、な、何をしたいんだあ!言えよお、早く言ええ!」
塚田の興奮は一気に最高潮。哀名は言葉に冷気を思いきり込めて叩きつけた。
「何も言うなよ!動くな!絶対に!」
あまりにも冷たい声だったので、塚田は黙ってピタリと止まった。哀名はじっと見ていたが、塚田が再び騒ぎ出すことはなかった。哀名が何をしようとしているのか、静かに様子を見るつもりのようである。
それを確認すると、哀名は指を股に這わせた。
「ん……あぁ……」
こみ上げる声を遠慮無く発する。塚田は何か言おうとしたが踏みとどまる。替わりに鼻息が倍加し、その不気味な騒音が洞窟の空気を支配した。
哀名にとってオナニーは日課のようなものである。感じやすい体は、頻繁に慰めてやらないと管理出来ない。生まれつきの体質なのか、輪姦されているせいなのか、記憶消去の副作用なのか、哀名の体はすぐ欲求を訴えてくる。そして少し刺激されるとあっさり昇天する。
このような状況下でも、容易に快感に耽ることが出来る。自分の部屋で布団をかぶってしている時は、覗いているであろう者達にバレないよう、声を抑えるのだが、今は甘い声と吐息を好きなだけ洩らす。
秘部から流れる熱い液体を、大きく音をさせてかき回す。
体中が軽くなり甘い感覚に満たされ、くずおれそうになるのを岩に寄りかかって支え、塚田を見や
る。
塚田の顔は半逆光で見えない。ただ大ボリュームの途切れない鼻息が、夢中でこちらを見ていることを教えている。
哀名は醜怪な敵に、蕩けるような声で告げた。
「気持ちいいよ………」
そして、全身を痙攣させ、ズルズルと身を沈めて地面に突っ伏した。
荒い呼吸を急いで整える。岩の向こう側の気配を窺うが、塚田の足音は聞こえない。
岩につかまって必死に立ち上がる。しばらく普段の動きは出来ないから、今襲いかかられたら危うい。
岩陰から顔を出すと、塚田は近づいてきてはおらず、ライトをこちらに向けて突っ立ったままだった。哀名は素早くパンツとズボンを履く。呼吸も戻ったし、もう不安要素は無い。
哀名は塚田の方から目を反らし、恥じらいの演技をして言った。
「ここ、信一くんとの思い出の場所だからさ、ここでオナニーしたらいつもより気持ちいいかもしんないって思ったんだ。凄い気持ちよくてビックリしちゃったよ。」
さて、どういう反応がかえってくるかと、哀名は待った。すると塚田は洞窟が落盤しそうな大声で、
「俺もオナニーするぞおおお!!!グプバアア!!!!見てろよお哀名ちゃん!!!!この塚田信一の、愛の証、洪水になるぐらい射しまくってやるあああああ!!!!!」
いきなり下半身を脱ぎ放って猛然と自慰しだした。すぐに射精したが動きは止まらない。呆れ果てて冷たい哀名の顔を見つめて汚液を連射する。
十五回発射してようやく塚田は止まった。最も、うんざりした哀名が「もう帰ろう」と言わなければまだ続けていただろう。哀名は塚田のことを改めて見下したが、同時に果ての無い精力に恐怖も感じた。
洞窟を出てから、哀名は
「合鍵が欲しい。」
と切り出した。
「グプグプ!どうしようもないはしたない奴隷だなあ。ご主人様とセックスしないくせに気持ちいいオナニーはしたいのかあ。」
哀名は何も言っていないが、塚田は哀名がいつでも洞窟でオナニー出来るように合鍵を欲していると解釈した。
哀名の計算通りである。数日後、哀名は洞窟の扉の鍵を手に入れた。自ら一つ、大きな恥を重ねたが、それに見合うだけのものが得られた。
塚田から合鍵を渡された日の夜、哀名は念入りに洞窟探検の荷造りをした。ライトはヘッドランプと手に持つ物、それぞれ三つずつ。食糧は嵩張らずカロリーの高いもの。水筒は登山用の大きいもの。傷薬とメモ帳。洞窟内は冷えるので、最低限の防寒着も。
さらに採集用具。洞窟を抜けた先で出会ったことの無い虫と遭遇するかもしれないだけでなく、洞窟性昆虫を見つける可能性もあるから、持っていかないわけにはいかない。
毒ビンを二本、網、短くしてバッグに入れられる網の柄、三角ケース。それだけ持っていこうと思ったが、荷物がだいぶ多くなっているので、毒ビンだけにした。黒いオサムシに出会えたとしても、毒ビンさえあれば採集には困らない。網が必要になるチョウやトンボについては、採集したことのない種に会う可能性は低いから、絶対に必要ということもない。
今回の目的は「宝の山」なる場所にたどり着いて無事帰ってくることである。安全に行き来出来るのであれば、何度でも調査に行けるし、調べ尽くせなくてもいいのだ。それでも哀名の性分として、出来るだけの調査をするつもりでいるが。
他にも持っていきたい物は色々ある。落石対策のヘルメット、それにロープやハンマーなど。しかし荷物があまり大きく重くなるのは良くない。じっくり考えて取捨選択した。
翌日は土曜日、学校は休みである。哀名は朝食を済ますと、早速出かけることにした。
夢来に何か言っていこうと思ったが、別に死にに行くわけじゃないと考え直して特に何も言わなかった。
落盤や怪我などで洞窟から出られなくなった時の為に、見つかりやすいところに書き置きを残すことも考えたがやめた。それで命が助かったとしても、その後の人生に自由があるだろうか。死んだ方がましだった、なんてことになる怖れは十二分にある。それに、敵と見なしている者達に救出してもらうなど、そんなみじめさに哀名は耐えきれる気がしなかった。
誰にも行き先を告げることなく、哀名は地下へ向かう。もし事故があったら、もう空や木々や山々を見ることもない、そんな感慨に耽りながら自転車にまたがった。
バス停にはちょうどバスが来たばかりで、これから山を登る人々で賑わっている。哀名は人の来ない方へ行く。途中、一軒の家の前に停められているバイクに結わえられていたヘルメットを盗む。バイクの持ち主であるこの家の息子は、遠くに行っていて来週まで帰らないはずだから、後で返しておけば問題ない。
荷物がパンパンに詰まったバッグは背に、ヘルメットを籠に置いて、自転車を走らせ、洞窟の入口の小屋に着く。
一応、自転車は少し離れた低木の茂みにかくした。小屋に入って扉に鍵を差し込む。問題なく解錠出来た。
扉の中の真の闇は、何ら音を立てることなくたたずんでいる。ただ一人でこの闇に入るのはこれが初めてである。緊張を舌打ちで振り払うと、哀名は頭にヘッドランプを装着、手に懐中電灯を持って、暗黒のうちに足を踏み入れた。
哀名がもともと剛胆なのか、すぐに怖さはなくなった。ただ暗いだけで、何も居ないのだから夜山よりよっぽど安全である。孤独の心細さも無い。塚田のような危険人物が近くにいるより、気が休まる。
元来が他人と過ごすことを好まない哀名にとって、何者もいない地の底は、心安らぐ空間だった。
実際には、「何者もいない」わけではないはずなのだが。とりあえずは何の気配もしない。
電池の節約の為、ヘッドランプは切り、手に持ったライトだけで行く先を照らして歩く。トロッコにたどり着いて、乗り込む。隣にバッグを置き、後ろの席にヘルメットを結わえ付ける。
トロッコの操作法は見よう見まねだが、ちゃんと動いた。動き出してすぐ、ブレーキをかける。これもしっかり出来た。
哀名は危なげなくトロッコをゴール地点にまで走らせた。いよいよ探検の本番が始まる。哀名は片手が塞がっているのが鬱陶しくもあったので、ここでヘルメットをかぶった。そして舌打ちして脱いだ。メットの中が濃厚な加齢臭で満たされているのはまだしも、サイズが大きすぎるのだ。
ヘルメットは座席に放置して、降りる。そして「凌辱の部屋」へ。哀名にとって忌まわしい場所だが、誰もいない今は、ただの静かな空間に過ぎない。
ライトをぐるりと回し、ロープの張られた横穴を見つける。立ち入り禁止地の入口に違いない。念のため他の横穴も見てみたが、ロープは張られていなかった。
ロープを越え、禁じられた地に侵入する。灯りで照らしても、ただの洞窟にしか見えない。ただ、これまでの通路と比べて地面がデコボコしていて歩きづらく、見た目にも自然の洞窟のままという感じがある。
生き物の声は聞こえない。しかし哀名は油断なく耳を澄ませて進む。頭がむき出しだから、落石にも注意しなくてはならない。
少し歩くと、細い通路は曲がり角になっていた。そこを通ると、目の前は数メートルの岩壁に塞がれていた。行き止まりである。ロープを越えてからまだいくらも歩いていないというのに、道が完全に塞がっている。岩壁は左右に隙間なく巡らされ、天井まで届いている。
哀名は、「おかしい」とすぐに思った。鳥のような声は確かにこの通路から聞こえたのだ。上の方を照らすと、どうも天井との間に隙間があるようだった。ライトが岩の出っ張りに当たって影を作るためにわかりづらいが、人が通れるくらいの幅がありそうである。
あれが通路なのだろうか。人間の通り道として考えづらい。だが哀名は灯りをヘッドランプに切り替えると、迷わず岩壁のへこみに手をかけ、登り始めた。岩壁のデコボコはそれほど大きくなく、決して登りやすくはない。普通の人間にとっては這い上がるのは困難だろう。しかし哀名の身体能力では、さほど難しくなかった。
上まで行くと、やはり天井との間に隙間がある。その上下幅は、哀名がバッグを背負ったままでも潜り込めるほどだった。
隙間に入ると、とても広い空間になった。帰り道を見失わないよう、哀名は隙間のそばの岩の上に、小さなアクセサリーを置いた。灯りを反射して目印になる。
ヘッドランプを消し、懐中電灯で見渡すが、洞窟は広くなっただけでこれといって特徴的ではなく、「宝の山」には見えない。外への出口も見当たらない。もっと先へ行くべきだろう。
少し前へ歩くと、岩と岩の間に、何かが挟まっている。近づいて照らすと、それは萎れた植物だった。何かの花に見える。洞窟内に本来あるものではないはずである。やはりこの先に何かあると確信し、哀名の心に改めて勇気が湧いた。
時々後ろを照らし、目印のアクセサリーが光るのを確認しながら進んでいく。光が遠くなったら、新しいアクセサリーを置く。
そうして歩いてゆくと、今度は深い谷に出くわした。底まで灯りが届かない。真っ暗で巨大な穴が行く手を阻む。
哀名は冷静に周囲を見渡した。道はこちらではないのか、それともこの谷を渡るルートがあるのか。
谷沿いを横に移動しながら照らしていくと、まるで橋のように谷の向こう側へと続く細い岩の道があった。自然の地形に見えない。しかも、近くで見ると表面が人為的に加工されているらしくすべすべしている。
ここがルートらしい。しかしその岩の橋は細く、幅が広いところでも一メートルもない。手すりなどは無いし、見るからに危ない。
谷の向こうまで、懐中電灯の灯りはギリギリ届いているが、距離は短くはない。
安全を確保する方法は無い。命綱に使えるような物は持って来なかった。
それでも哀名は岩の橋を渡った。最初は四つん這いで、しかししばらく行ってから早く渡りきった方が安全だと考えて立って歩いた。
下が暗闇で谷の深さがわからないため、落下の恐怖にとらわれずに済み、谷の向こう側にたどり着くことが出来た。
そこからは再び狭い通路になっている。曲がりくねっているが、帰り道がわからなくなる心配は無さそうであった。
ふと、哀名は気温の変化を感じた。まさか、と思いつつ、前方を照らすライトを消してみる。真っ暗闇の中、微かな光が見えた。
さらに前進すると、通路の果てが明るくなっており、風が肌に当たる。
足に力がみなぎり、走るように哀名は光へと向かう。そして、洞窟を脱出した。
陽射しが強く、草の緑がとても鮮やかだった。洞窟の出口の前は哀名の背丈より高い草が繁っていた。
気温がやけに高いように感じられたが、低温の洞窟内にいたせいでそう感じられるのだろうかと考える。
草の群落の途切れ目にふみこんで、歩きやすい所を目指す。すぐに視界が開けた。地面が岩場だったため、植物が生えていない部分がある。おかげで結構な範囲に裸地に近い場所が出来ていて、見通しが良くなっていた。
哀名がいる所は、小高い岩山状の地形の上部だった。周囲全体が樹林に囲まれている。
ここはどこなのだろうか。哀名の位置は周りの木々の樹冠より少し高いくらいで、遠くまで見渡せるわけではないが、樹冠が途切れず続いているところからすると、近くに道路は無いようだ。人が歩くような道は見当たらない。洞窟を誰かが行き来するらしいことから、出口の先に道があることを期待していたのだが、当てが外れてしまった。これではどっちの方向に行ったら「宝の山」が見つかるのかわからない。
哀名はじっくりと辺りを見渡した。おかしな場所である。洞窟内にいた時間はそれほど長くない。それほど長い距離を移動してはいないはずである。立ち入り禁止地の入口は、哀名の家から近い。ということはここは、哀名の家から歩いて一時間以内の場所と考えられる。
しかしそれにしては景観がおかしい。木が大きすぎる。林の木々が非常な巨木なのだ。神社やお寺に生えていたなら名物になりそうな高く、幹の太い木が文字どおり林立している。この林が育つのにどれ程の年月が必要だったのだろうか。哀名の住む山地で、こんな巨木の原生林があるなどという話は知らない。
しかも見たところ、木がことごとく照葉樹のようである。哀名の家の近所では照葉樹は多くない。照葉樹だけの林など、哀名は見たことがない。
照葉樹というのは、広葉樹のうちで葉が厚く秋に紅葉せず冬も葉が無くならない仲間で、暖かい地方のものである。哀名の家の辺りだと少し気候が涼しく、照葉樹は少ない。より標高の低い麓の方なら、照葉樹林が成立出来るのだが、ただし育つのには非常に長い期間がかかる。
山麓地域でも、普通の林はコナラなど冬に葉が散る落葉樹の雑木林や、冬も緑の葉がある常緑樹だが針葉樹の、スギやヒノキが植えられた林であり、規模の大きな照葉樹林など、歴史的に保護されてきた場所にしかあり得ない。
都市近郊のこの地方でそんな貴重な林があったら、有名になっているはずで、哀名が知らないはずがない。
もっとおかしいのは、遠くまで続く樹冠が、平坦であることだ。林が出来ている土地が、平地なのである。哀名の家の近くなら山岳地帯なのに、かなり遠くまで山が見えない。
麓なら広い平地もある。しかしこんな広大な原生林的な林が麓の町や農地の中にあるはずもない。だいいち、哀名は洞窟内で下方への移動をあまりしていないから、麓にたどり着くわけが無いのである。
謎めいた場所である。哀名はともかくも色々見て歩いてみようと考えた。
すぐそばの草むらから、パッと数匹のチョウが舞い上がる。ヒョウモンチョウの仲間だが、網が無いから捕獲して種類を確かめることも出来ない。
よく見ると周りを結構、チョウが飛んでいる。焦げ茶色のジャノメチョウがいた。珍しくもない種なので採れなくとも惜しくはなかったのだが、何となく目で追っていたら、不意に別の色鮮やかなチョウが現れた。
見たことの無い種類だった。青い地色に、赤や黄色の模様が描かれている。哀名は衝撃を受けた。
その南国的に見えるチョウがはじめて見るものであるだけでなく、種類の見当がつかないことにも哀名はショックを受けていた。
日本に棲むチョウについては、哀名は図鑑を常日頃見ているから大体頭に入っている。しかし目の前のチョウの正体が全くわからない。
すると迷チョウだろうか。台風に巻き込まれたりしてチョウが本来の分布域から遠い地に移動することがあって、それを迷チョウと呼ぶ。このチョウのいかにも熱帯的な姿からしても、東南アジアかどこかから来たものなのだろう。
チョウはフワリ、フワリと飛び去った。哀名はチョウが消えた方向に岩の斜面を下りていく。網を持って来なかったことを後悔したが、どうにもならない。網が無くても採れる甲虫やカメムシを探して、丈の高い藪の葉や花を見ていた時、顔のすぐ横をチョウがゆっくりと飛んでいった。
反射的に振り向いて、哀名は凍りつきそうなほど驚愕した。明らかに先程とは別種の、これもまた哀名が知らない種類である。
全体的に濃いオレンジ色の大きな翅でゆったりと飛翔するそのチョウは、シロチョウ科の仲間のようである。こんなチョウは日本に分布しないことを哀名は知っている。
そして次の瞬間、とても大きな哀名が見たことの無いアゲハチョウが飛来して草の葉にとまった。
思わず哀名は身震いした。こんなに次々と迷チョウに出会うことがあるだろうか。異常事態である。
「宝の山」という言葉が頭をよぎった。宝とは金銀財宝のようなものではないのかもしれないと哀名は考える。ここまでのチョウとの出会いだけでも哀名にとって「宝の山」ではあるのだが、父はもっと別の何かのことを指して言ったに違いない。
急に草むらが動き、警戒する哀名の真正面にヘビが出てきた。哀名には関心を見せることなくヘビは草生えの無い岩場に長々と体をさらけ出してゆく。かなり大きめのヘビで、大きさからするとアオダイショウくらいだが体色は異なる。その動き方に哀名は違和感を感じ、よく見てみると短い足が生えていた。ヘビではなくトカゲだったのだ。
トカゲの体長は尻尾を除いて三メートル以上に見えた。
哀名は爬虫類のことはよく知らない。しかしそのトカゲが日本にいるはずがないことは間違いなかった。
哀名は、三種のチョウもおそらく迷チョウではないと判断した。この場所の自然環境全体が異常なのだと認めた。
トカゲはゆっくり藪の中に消えた。哀名はそばにあった手頃な大きさの石に腰かけ、空を仰ぐ。
未知の世界に来た、と心の中でつぶやく。そのままボーッとしていた。この場所の謎を探る前に、少し休憩して物思いに耽りたかった。
が、のんびりしていられない事態が起きる。哀名のすぐ横に高さ十メートルも無いような低いがとても幹の太い木が生えていたが、その背後から大型動物の気配が感じられたのだ。姿は木に完全に隠れていて見えないが、哀名に匹敵するほどの大きさのように思える。
おそらく最初からそこに居たのだが、息を殺して潜んでいて気づけなかったようである。感覚の鋭敏な哀名に存在を悟らせないとは人間ではないだろう。危険な肉食獣かもしれない。気配は、哀名を怖れ隠れてやり過ごそうとしているというより、じっと探っているように感じられる。
哀名は恐れはしなかったが、困惑した。護身の道具は小さなナイフしか持っていない。野性の猛獣に対処するのは難しいだろう。速やかにこの場を離れた方がよさそうだが、もし追ってきたらどうすればいいだろうか。
哀名はさほど考えず、立ち上がって木に近づいた。相手が危険な存在かどうか、さっさと確認しようと考えたのだった。手にナイフを持ち、多少の距離を置いて木の裏側に回る。
そこには何も居なかった。鼠一匹いない。
しかし哀名は考えすぎだったとは思わなかった。気配は依然としてある。木を挟んで哀名の反対側に何者かが居る。哀名の動きに合わせ、向こうも木の周りを移動したのだ。
哀名は慎重に木を回り込む。しかし動物の姿は見られない。見事に哀名の動きに合わせて逆側に移っている。
哀名は以前に読んだ本に出てきた熱帯のタマムシの仲間の話を思い出した。そのタマムシは、木の幹についているのだが、人が近づくと木の裏側に行ってしまい、追いかけて裏に回るとまた反対側に移動するので採集困難だという。これを捕らえるには採集者が二人で木の両側から近づく。するとタマムシは動けなくなり、採集出来るという。
哀名にはパートナーがいないからこの手は使えない。だが哀名は素早い身のこなしを持っている。飛びすさるように木の裏へ回る。しかし向こうも瞬時にして動いて隠れてしまった。
尋常ではない身動きである。しかも、急に動いた哀名に完璧に合わせた反射神経はただ事ではない。が、哀名には一瞬だけその存在の体の一部が見えた。しかしさすがの哀名でも見えたものが真実かどうかしばし判断に迷った。それは人間の手、しかも子供の手に見えたのだった。
こんな超人的なかくれんぼの出来る子供がいるものだろうか。とても信じられないが、哀名は目に映ったものをそのまま信じることに決めた。すなわち、木の反対側に居るのは猛獣などではなく人間である。
人間なら人間で恐怖の対象たりえるが、哀名は人などを怖れたくないという負けん気があったから、少なくとも心理の表層では不安が無くなった。そして、何としても相手の顔を見てやろうと決意する。
だがどうすればそれが出来るのかがわからない。木の裏に手を伸ばしてナイフで刺すなども少し考えたが、勿論そんなやり方は論外である。かわりに一つ、試してみたい手を思いつき、ナイフをポケットにしまう。
そしてバッグから毒ビンを取り出した。コルクの蓋を抜く。空気中に酢酸エチルの臭気が漂う。
毒ビンを持った手を樹幹に押し当て、毒ビンの口を横に向けた。その手を動かさずに、木の反対側を素早くのぞき込む。手が伸びきるところまで行くと、相手が裏に行こうとして仰天して尻餅をつくのが見えた。酢酸エチルを吸い込んでびっくりしたのだろう。哀名の思惑通りである。
毒ビンを開けっ放しにしておくと酢酸エチルが揮発して無くなってしまうので、蓋を閉めつつ地面に座っている存在を眺めると、長い綺麗な黒髪と、よく日焼けした肌が印象的な女の子だった。
体つきからすると哀名より年下のようであるが、顔立ちがどこか大人びている。かなりの美形だった。
ずいぶん露出の激しい服装は、どこかの民族衣装のようで変わっている。とても日本人とは思えない。それ以上に哀名には何か強い違和感があった。
声をかけようとすると、少女はこちらをキッと睨む。そして跳ねるように立ち、凄い速さで藪に飛び込んで見えなくなった。
哀名が心底驚くすばしこさだった。足の速さは哀名以上なのではないかと思われた。藪が少女の移動で揺れているが、相当に速く動いている。密生した藪の中をあれほど速く進むのは哀名にはとても無理である。
逃げられたか、と思った時、少女が離れた所で姿を現した。低木の茂みから突きだした岩の上に立っている。
瞬間、哀名を衝撃的な直感が襲った。何度も見たことのある虫と、姿が近似しているがはじめて見る別の種類に出会った時、直感的にそれとわかることがよくあるが、その感覚と似ていた。しかしこれは到底信じがたい内容で、哀名は凍りつく思いがした。
あの少女は、人間とは別種の霊長類だ。姿は人間にしか見えないが、別物なのだ。
不意に少女が声を発した。鳴き声などではなく、言葉だ。人間の少女のようなきれいな声だった。
その言語は日本語とは似ても似つかなかった。
しかし、
「何?追いかけてこれないの?悔しい?」
と言っていることが、何故だか哀名にはわかった。言葉は何もわからないのに、言いたいことはわかったのだった。雰囲気でニュアンスをつかんだというようなものではなく、はっきりと意志が伝わった。
浅黒い整った顔に浮かぶ嘲りのせいではない、声だけで何を言っているのかわかる。まるでテレパシーである。一体、これはなんだろう。哀名が黙って考えていると、少女はますます馬鹿にした表情になった。
「口も聞けないの?でかい男たちに抱かれ過ぎて気が狂れてるのかしら?恥ずかしい女だわ!」
脳天から氷の槍を打ち込まれたように体の芯に冷たい衝撃が走る。不思議な言語に込められた意味は哀名を青ざめさせた。少女は、哀名のことを知っている。絶対に知られたくない、恥じるべき真実を。
震える身を自らかき抱いて何とか落ち着きを保つ哀名。内心の動揺は消せないが、それを相手には見せたくない。顔に感情を出さないようにして少女を睨む。
哀名のことをもともと知っていて、秘密をも知っている。人によく似ているが人間ではない、綺麗な少女に見える存在。妖精か何かだろうか?
その思いつきを哀名はすぐに否定する。哀名としてはそうした超次元的なものでなく、確かに存在する生物、ないしはロボットのような物体として捉えたかった。そしてすぐに、どうしても正体を突き止めたいという気持ちが強く沸き上がってきた。
哀名は思いきって少女に呼びかける。
「お前、誰だよ。何であたしのこと知ってんだ?」
こちらの言葉が通じるかわからない。果たして反応はどうだろうか。
少女は途端に不愉快そうに眉を曲げた。小さな口を開けてよくわからない言葉を張り上げる。
「乱暴な言葉遣いね、案外気が強いんだ?もっと泣いてばかりいる子かと思ってたわあ!大きい男の前では逆らえなくて泣いてるだけなのにねー!」
明らかに言葉が通じている。異種の言語同士なのに確かな意志疎通が出来ている。
「黙れ、ブスチビ!汚ねー口閉じねーと怪我させるぞ!」
軽く挑発してみると、瞬時に怒気を露にした。どうやらそれなりのプライドを持っているようである。
「男がいないとそんな態度出来るのねえ!いっちょまえの口聞いちゃってさあ、誰とでも結婚させられる恥ずかしいみじめな娘のくせにね!怪我させるー?どうやってー?ここに来ることも出来ないのにー?バカな子!」
哀名はやおら地面の手頃な石をつかみざま投げた。それはかなりのスピードで真っ直ぐ飛び、少女のおでこにクリーンヒットし、高々と打ち上がって藪の中に落下した。
少女は悲鳴を発してよろめく。哀名としては比較的小さめの石を選んだから、大怪我にはならないはずである。しかし痛む場所をおさえた手からは
真っ赤な血が滲んでいるのが見えた。
少女の血は赤かった。
その目には涙。しかし表情は泣き顔にはなっていない、ケンカ腰のまま。忌々しげに哀名をにらみつける。
哀名の方は気分が良かった。それをそのまま表に出し、
「キャハハハハッ!」
とわざと高い声で笑い、
「じゃあな、ブスチビ!」
と捨てゼリフを言って背中を向けて逃げる素振りを見せた。
少女は怒り心頭の様子で、
「待ちなさいよ!」
叫ぶや否や藪を揺らして猛然と向かって来た。それを見てとった哀名、ますます笑い声を上げ、二歩ほど走りかけてから、わざとつまずいて転ぶ。
「あははは、バーカ!つかまえたわ!」
藪から抜け出た少女が飛びかかってきた瞬間、哀名は体勢を直し、迫ってくる小さな頭をむんずとつかんで引き倒した。
「バーカ!つかまえたぜ!ハハハハハ!」
組み敷いて膝を載せて押さえると、少女はもはや抗えない。力は哀名の方が強いようである。
「離せ!乱暴女!」
盛んにわめく少女を哀名はじっくり観察した。本当に人間にしか見えない。温かい体温もある。だが人間とは違うように感じられてならない。
長い黒髪はつやつやして、実に美しい。幼いのに顔つきは大人びている。肌の大部分をさらけ出している格好が、哀名を気恥ずかしくさせる。しかし人間とは違う、異質感が全体にある。
何も言わない哀名に対して少女はいささか恐怖を感じたようで、はじめて気後れした表情を見せた。
「何よ………怒っちゃって……あんたなんか誰からも馬鹿にされて当然の子でしょ!」
哀名は努めて優しい声で答える。
「別に怒ってない。お前が何者なのかさ……正体が知りたくてつかまえただけ。」
「ふーん……」
少女は哀名の目をじっと見上げた。涙で潤んだ少女の大きな瞳はとても綺麗で、哀名の胸は高鳴った。哀名は自分の顔が赤らむのを感じ、恥ずかしくて目をそらした。
「悪い子じゃなさそうね。」
少女の声から敵対感情が消えた。哀名は少女を押さえつけていた膝をどけた。肩を掴む手は離さなかったが。
「石をぶつけてごめんな。」
少女は起き上がって、無邪気な笑顔を見せた。
「別にいいわ。わたしが散々悪いこと言ったせいだもん。こっちこそごめんなさい。」
額からはまだ血が垂れていたが、少女はまるで気にならないらしかった。小さいのにこの子もずいぶん気が強いようである。
幼い手足は小さいが、それとは不釣り合いに胸のふくらみは大きかった。哀名よりもだいぶ成長している。それに気づいて哀名の顔はまた熱くなる。
哀名は少女に好感情を抱いていることを自覚した。まるで夢来に対するような気持ちだった。
そんな気持ちが芽生えたきっかけが大きい胸とは………「あたしは巨乳が好きなのかな?」
その考えは自分でも嫌で、哀名は自嘲して小さく舌打ちした。
「何考えてるのよ?」
怪訝そうに問いかけられ、何故だか哀名は焦ってしまう。
「あ、ん……別に、何でもない。」
「ふーん……」
少女はとても近い距離から哀名を見つめた。哀名はよそ見してしまう。
「やっぱり可愛いわねー!」
哀名の顔をジロジロ見ながら少女が言う。哀名はもう少女の方を見られない。
突然、少女が哀名の上着をがばりとたくしあげた。さらに乳首に口をつけ、強く吸った。
哀名の全身が飛び上がらんばかりに痙攣、そして硬直する。何が起こっているのか、頭はしっかり把握していたが、体はまるで動かない状態だった。
少女がスッと立ち上がった。逃げられた、と哀名は思った。
しかし少女はその場から動かない。
「ついて来なさい。」
そう言って、哀名に手をさしのべて立つように促した。
「何?今の。」
哀名は立たずに詰問する。油断のならない相手だとわかってはいたが、あまりにも思いもよらないやり方に完全に不意をうたれたことが衝撃であったし、悔しくもあった。
少女は得意気に笑う。
「大きい男たちが夢中になるおっぱいに興味があっただけよ。あまり気にしないで。」
勝手な言い草にますます哀名は苛立たされる。が、それと同時に胸の内に甘酸っぱい何かがこみ上げてくるのも感じていた。
「顔が赤いわよ。体を吸われるのなんて慣れてるくせに。」
指摘されてさらにカーッと顔が熱くなってしまう。敏感な所で感じた、少女の温かく湿った口の中の感触がいつまでも消えない。
哀名は認めたくなかったが、そのことが確かに悦ばしく思えていた。
「女同士の方が恥ずかしいのかしら?変わった子ね。子供だからかしらねえ?」
哀名より幼いのにこちらを子供呼ばわりした少女は、うつむいている哀名の頭をそっと撫でた。
小さな手をとても優しく感じた哀名は、身を委ねて甘えたくてたまらなくなる。
しかし恥ずかしさと、自分より小さな子にそんな感情を抱いたことのみっともなさ、情けなさに責め立てられ、首を振るうことで小さな手を払いのけた。
「黙んねえと前歯叩き割るぞガキ!お前のしたことは失礼なことだって覚えておけよバカガキ!」
恥じらいを消すために力を込めて少女をにらみつけながら哀名は立った。少女は何も怖れる風は無くにんやりと哀名を見上げてくる。
「生意気。でもいいわ。あんたの胸、平べったいのに柔らかくていい匂いで美味しかったし、許してあげる。」
瞬く間に哀名は羞恥で再びうつむくことになった。からかわれているのはわかっているのに、胸を誉められたことが甘い幸福感を満たしてゆくのを止められない。
「早く来てよ!」
少女の声が離れて聞こえ、顔を上げるといつの間にか彼女は勝手に歩き出していた。もう反抗する気が失せていた哀名は、物心ついたばかりの子のように素直についていった。
少女は急いでいる様子でもないのにとても足取りが速く、さっさと岩場を下りてゆく。その後ろ姿は小さいが颯爽としていて、ひょっとしたら精神年齢は向こうの方が上かもしれないと哀名は少し思った。長い髪の美しさも、年上であるかのように錯覚させる。
だがやはり、人間とは違うものだ。会話をし、温かい体温も感じたが、それでも人間と思えない。哀名はじっくり少女の後ろ姿の形質を観察する。人間と異なる特徴は何も見つけられない。それなのに何故、別種としか思えないのだろうか。出会ったばかりでありながら、哀名の心中には少女への特別な感情が沸き上がっているというのに。
哀名としては心底嫌だったのだが、少女に年下のような扱いをされたことが嬉しくて仕方ない部分が心の中にある。少女の大人びた綺麗な顔、大きな胸、いたずらっ子なところ。それらがまるで夢来のようで、そう思うとますます惹き付けられ、少女の足下にすがりついて子猫か何かのように可愛がられたくなる。
そんな自分を否定したくて何度も舌打ちする。
少女は何も言わず、暗い巨木の林に入って行く。振り向きもしないが、哀名がちゃんとついてきていることはわかっているようだ。
哀名も無言でついていく。少女は歩きづらい林内をどんどん先に行くが、哀名はさほど困難も感じずついてゆけた。
やはり哀名の見知った山の林とはかなり異なる、不思議なところである。歩けば歩くほどに謎が深まるかのように思える。
未知の世界に単身乗り込み、人に見えるが人ではないおかしな動物に、どことも知れない場所に連れてゆかれようとしている。そんな大冒険のさなかに、胸に去来するのは少女や夢来への想いばかり。
それが哀名には不思議だった。自分は案外、人間関係を軽視しない人間らしい。その思いつきは哀名を大きな意外の念で打っていた。
林の中で時おり木が倒れていて陽が射し込むところがあると、花が咲いていてチョウもいた。また見たことのない種かと思ったが、よく見るとクロヒカゲやルリタテハなど、哀名に馴染み深い普通の種にしか見えないチョウがいる。昆虫にはそっくり同士の別種はよくあるから、ルリタテハによく似た別物かもしれないが、しかしルリタテハそのものの可能性を否定する理由も無い。
そうしたチョウのすくそばに、やはり見知らぬチョウもいる。下草にテントウムシの仲間がとまっていて、これは日本にいるはずのないものなのかどうか、図鑑と見比べてみないとわからない。手掴みで捕らえられるので、つまんで毒ビンに入れる。
つい足を止めてしまっていたことに気づいた哀名、慌てて前方を見た。少女の後ろ姿が遠くに消えているかと思ったが、彼女は近くに立ち止まってこちらを見ている。待っていてくれたのだ。
哀名と目が合うと、後ろを向けて歩き出す。たった一人入り込んだ世界で、頼りにしていい存在に出会えたように哀名は思った。それがまた喜びを身体中に広がらせるのだった。
林の中には、南米にでもありそうな、巨大な岩で造られた遺跡の一部分が地面から露出しているところもあった。それもまた、哀名の地元には到底無さそうなものだった。
進むほどに謎に出会い続ける旅。いつまでこれが続くのだろう。
そんなことを哀名が思いはじめた頃、いつしか地面は緩やかな傾斜をしていた。気づくと、斜面を下り続けていた。
少女が立ち止まったところは窪地の底だった。この辺りの林は特に暗く、ほとんど闇のようだったが、その場所だけは狭い範囲が開けていて、明るい陽光が満ちている。
そこには大きな切り株があった。切り株ということは、人が木を切り倒したのだ、と哀名は気づいた。そしてすぐに思い直す。おそらくそれは人ではなく少女の種族だろうと。
少女は何十分ぶりかで言葉を発した。何語かわからない言葉だが、やはり哀名には意味がわかった。
「ここに上がって。」
少女は切り株を指差していた。言われるまま、哀名は膝上くらいの高さで切られている切り株に上がる。大木の切り株だから、ちょっとした部屋くらいの広さの台になっていて、哀名が寝転がったてしても相当にスペースが余る。
「そこで待ってて。いい、下りちゃダメよ。大丈夫よ、すぐ戻るから。」
「どっか行くの?」
「うん。でも戻ってくるから心配しないで。」
少女は幼児をあやすように微笑むと、真っ暗な木々の向こうに歩き去った。
哀名は一人になった。林は静まりかえって何の音もしない。
少女を行かせてよかったのだろうか?もし帰ってこなかったら。
洞窟に戻ることはまず不可能だろう。
しかし不思議と不安に駆られたりしなかった。少女のことを心から信用したわけではない。が、しかし、どうも哀名の本心は少女に対する何の疑いも持っていないようなのだった。頭では警戒すべきと思っているが、気持ちは安らいでしまっている。
だが、突然に平和な心地は破られた。人の声が聞こえた。樹林の闇から声がする。それは明らかに少女の声ではない。
ヒソヒソと小声で、しかし多分、哀名に聞こえるように何かを言っている。だが耳を澄ませても何を言っているかはわからない。
そのうちに、後ろからも、右からも左からも密やかな声が聞こえてきた。周り中、そこかしこの闇に誰かがいて、何かを呟いている。
ここにいるのは危険ではないかと思った。哀名からは周りの何者か達の姿は見えないが、光に照らされている哀名は丸見えである。
が、哀名は動かずにいた。切り株から下りてはいけないという少女の言葉通りにしていた。自分より小さい子の言いつけを守るなんておかしな話だと自分でも思ったが、そうしたいという感情に抗いたくなかった。
ヒソヒソ声は聞こえ続けている。しかし近づいてくる気配はない。哀名は腰を下ろして木々に囲まれた空を見上げた。ここから動けない以上、何も出来ないから、何もしないでいようと決めた。気配を気にしてはいたが、気にしない素振りでいた。

謎の黒いオサムシ 前編  虫愛ずる生贄娘と未知の果てへの冒険

謎の黒いオサムシ 前編  虫愛ずる生贄娘と未知の果てへの冒険

エロ有りだけどエロがメインでは無い中途半端作品ですが、自分の趣味要素を詰め込んでちょっと特殊な話にしていきます。見てやって下さい。

  • 小説
  • 中編
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  • 冒険
  • サスペンス
  • 成人向け
  • 強い性的表現
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