宗教上の理由、さんねんめ・第八話

まえがきにかえた作品紹介
 この作品は儀間ユミヒロ『宗教上の理由』シリーズの一つです。
 この物語の舞台である木花村は、個性的な歴史を持つ。避暑地を求めていた外国人によって見出されたこの村にはやがて多くの西洋人が居を求めるようになる。一方で彼らが来る前から木花村は信仰の村であり、その中心にあったのが文字通り狼を神と崇める天狼神社だった。西洋の習慣と日本の習慣はやがて交じり合い、村に独特の文化をもたらした。
 そしてもうひとつ、この村は奇妙な慣習を持つ。天狼神社の神である真神はその「娘」を地上に遣わすとされ、それは「神使」として天狼神社を代々守る嬬恋家の血を引く者のなかに現れる。そして村ぐるみでその「神使」となった人間の子どもを大事に育てる。普通神使といえば神に遣わされた動物を指し、人間がそれを務めるのは極めて異例といえる。しかも現在天狼神社において神使を務める嬬恋真耶は、どこからどう見ても可憐な少女なのだが、実は…。
(この物語はフィクションです。また作中での行為には危険なものもあるので真似しないで下さい)
主な登場人物
嬬恋真耶…天狼神社に住まう、神様のお遣い=神使。清楚で可憐、おしゃれと料理が大好きな女の子に見えるが、実はその身体には大きな秘密が…。なおフランス人の血が入っているので金髪碧眼。勉強は得意だが運動は大の苦手。家庭科部所属。
御代田苗…真耶の親友で同級生。スポーツが得意で活発な少女だが部活は真耶と同じ家庭科部で、クラスも真耶たちと同じ。猫にちなんだあだ名を付けられることが多く、「ミィちゃん」と呼ばれることもある。
霧積優香…同じく真耶と苗の親友で同級生。ふんわりヘアーのメガネっ娘。農園の娘。部活も真耶や苗と同じ家庭科部。
プファイフェンベルガー・ハンナ…真耶と苗と優香の親友で同級生。教会の娘でドイツ系イギリス人の子孫だが、日本の習慣に合わせて苗字を先に名乗っている。真耶たちの昔からの友人だが布教のため世界を旅しており、大道芸が得意で道化師の格好で宣教していた。部活はフェンシング部。
宮嵜(みやざき)雄也…希和子の夫で、村の職員。天狼神社の所蔵品も多く展示されている村の史料室に勤めていたことが縁で結婚。この夫婦は夫の姓を名乗っているが、希和子が神社を離れられないので彼のほうが嬬恋家に住むマ◯オさん方式をとっている。
宮嵜(嬬恋)希和子…若くして天狼神社の宮司を務める。真耶と花耶は姪にあたり、神使であるために親元を離れて天狼神社で育つしきたりを持つ真耶と、その妹である花耶の保護者でもある。
池田卓哉…通称タッくん。真耶のあこがれの先輩でかつ幼なじみ、元家庭科部部長。真耶曰く将来のお婿さん、だったが最近破局を迎えてしまった。
岡部幹人…通称ミッキー。中学時代は家庭科部副部長にして生徒会役員という二足のわらじを履いていた。ちょっと意地悪なところがあるが根は良いのか、真耶たちのことをよく知っている。

(登場人物及び舞台はフィクションです)

1

 梅雨前線が去り、木花村にも本格的な夏が到来した。でも夏と言ってもここは高原。日陰に入ると半袖では一瞬ふるえが来るくらいの涼しさを感じられる。日曜ということもあり、外でのレジャーには最適だ。
 だが、分厚くて重い着ぐるみをずっと着続けている真耶には関係ない。嬬恋家のリビングにはオリが設置され、中に犬小屋が置いてある。そこが真耶の居所で、平たい器に注がれた水を盛んに舌を使って飲んでいる。そんな姿をソファに座って眺めている花耶の目から自然と涙が流れてくる。どうしてお姉ちゃんばっかりこんな目にあわなきゃいけないの? 神使様ってみんなから尊敬されているのに、なんでこんな大変な思いしなきゃいけないの? 誰か助けてあげて、助けてあげてよ…。
 そしてそんな花耶の姿を見ながら、口には出せないけれど、
「あたしは大丈夫」
と思っているだろう真耶の姿が、余計に悲しみを後押しする。それでも花耶はこの場を離れない。愛する姉をひとりぼっちになど出来ない。さすがに希和子ですら耐えられなくて、場を外す事が増えてきたと言うのに。
 「キキーッ」
「バタン」
「タッタッタッ」
自転車をすっ飛ばして苗がやってきた。彼女もまた真耶をひとりぼっちになど出来ないひとりだ。
「よっ」
といつものように適当な挨拶をするとオリにより掛かるように座り、
「二次ほ~て~式の解の公式は~」
とわざと声に出して、これまでやりもしなかった受験勉強を始める。仲良し四人組とは言うが、家が一番近い苗が一番親しくなるのは自然なこと。苗は毎日こうやって、真耶に勉強を読み聞かせしているのだ。

 そんな努力を知っているから、渡辺の夏休みは天狼神社の歴史の更なる解明でつぶれることが確実となっていた。特に二人は自分の受け持ちの生徒でもあるから、一刻も早く受験体制に入ってもらわなくては困る。苗が結果的に勉強することになったのは怪我の功名だが、肝心の真耶が鉛筆もろくに持てない状態では喜んでばかりもいられない。毎日毎日、朝から夜中まで史料にあたり、渡辺はついにある古文書に行き着いた。

 渡辺が古文書と格闘している頃のある日、希和子は岡部医院にいた。
「ううむ、こればかりは私の手に負えないなあ」
嬬恋家の主治医、幹人の母が腕組みをして深刻そうに言う。
「…なんかそこだけ聞くと、私が不治の病にでもかかったかのように聞こえるんですけど」
希和子が苦笑しながら言う。
「いや、事実を言ったまでだぞ。確かに田舎の医者だから内科・外科・小児科なんでも診るし、患者のえり好みはできんよ。特に子供なんてのは、やれ木登りしてて落ちただの、ナイフ使って工作してたら手を切っただので学校からかつぎこまれてくる。そんなときに私の専門はなんたらかんたら言ってられんよ。だが、今回ばかりはどうにもならん。このまま私が手をこまねいていては、時既に遅し、となる」
「だから、そういう部分を切り取って言うと誤解を招くでしょ、と言っているんです。ただでさえこの診察室、壁が薄くて廊下に声が丸聞こえなのに、通風がどうこう言ってドアを半開きにしているもんだから…」
「あいかわらず真面目だね、希和子君は。たまにはこういう遊びもしないと、医者ってのはストレス溜まる仕事なんだぜ?」
ペロリと舌を出す幹人の母。はたから見るに、どうやら深刻な病ではなさそうだ。
「ま、茶番はここまでとして、だ。紹介状書くと余計な金かかるから、岡部がこう言ってたと受付にでも言えばいいだろう。この辺では一番実績ある専門医だし、真人も希和子もあそこの卒業生だしな。とにかく」
幹人の母は、改めて椅子に座ると希和子に向き直り、
「おめでとう」

2

 「でだ、真耶のあの装束を解くには、新しい神使候補が現れたらいい、ってことが分かったわけだ、宮嵜くんよ」
いつもの史料の山の前で、渡辺が宮嵜に講釈している。だが早速宮嵜が質問をしてさえぎった。
「それは分かってますけどね、というか以前から分かっていたわけですよね。だとすると今回、何が新発見だったのです?」
宮嵜は渡辺より年下なので敬語でしゃべる。公務員としてのキャリアは彼のほうが長いのだが、職種も違うし、何より彼の温厚な人柄に敬語が似合っているので、自然とそうなっている。
「オイオイ、この程度のひっかけ問題でバツ喰らってちゃ、うちの生徒のほうがよっぽど優秀だなあ。まあ親馬鹿ならぬ教師馬鹿だからなこちとら。してやったりだけれども」
「いやいやいや。今、渡辺先生がおっしゃった一文には、何の違いも無いのではないですか、今まで我々が解明してきたことと」
宮嵜も真面目一本槍に見えて案外ノリがいい。普段はさん付けで呼んでいる渡辺に先生と呼びかけた上で疑問を呈した。が。
「違うんだよ。いいかな、もう一度言うからよーく聞きたまえ。真耶のあの装束を解くには、新しい神使、こ、う、ほ、が現れたらいい、ってことが分かったわけだ、宮嵜くんよ」
これはさすがに宮嵜も一発で気づいた。違うところをゆっくりと強調して言ってくれるのだから大サービス問題だ。
「いまアンタの配偶者サマが医者に行っているところだ。岡部医院じゃせいぜい検査薬使って判定するくらいしか出来ないから二度手間だろ、直接専門の病院に行っちゃえって言ったんだけどな。キー子にしてみりゃ岡部の姐さんに報告もしたかったのかな」
その時、宮嵜のメールが鳴いた。文面を見るやパッと顔が明るくなる宮嵜。それを見てすかさず言う渡辺。
「やっぱりそうだったか。おめでとう。そして」
渡辺は遠くに目をやると、
「真耶もおめでとう、そして、お疲れさん。神使の『候補』がついに現れたよ。まだ、キー子のお腹の中だけどな」

 ついに、神使の後継者候補が現れた。真耶は今年の神宿しの儀を以て狼の姿から解放される。
 これまでは、新たな神使が現れないと現神使はその職務から引退できないとされてきた。しかしそれが聞き書きなどの二次資料でしか確認されていないことから、渡辺は長年の勘で、それらの記述の一次資料、すなわち原典を探していた。そして予想は見事的中、神社の決まりとしてはより優先度の高い史料の中から、神使の候補が現れれば職務から引退しても構わない、それは神使を産む資格を持つ母親が身体に子を宿したときから適用される、という記述をみつけたのだった。
 希和子は、このところ身体に変調をきたしていたのだが、その特徴からして周囲の既婚女性たちから、
「アタイの時とおんなじだねえ、早く行ってきなよ、病院」
と言われていた。そして彼女たちの予測は大正解で、いわゆる「おめでた」だった。天狼神社の宮司たる希和子が子どもを授かるということは、紛れもなく神使候補を宿したということ。これで真耶は、今の姿からは解放される。

 吉報は、早速嬬恋家にもたらされた。会計が終わるのももどかしいとばかりに産婦人科の玄関を飛び出すや、希和子はSNSでそのことを伝えた。それを受け取って内容を一読した花耶は狂喜乱舞という言葉がまさにピッタリくる様子だった。オリの中に飛び込むと、真耶を抱きしめ、
「お姉ちゃん、お姉ちゃん! 希和子さん、やっぱりニンシンしてるって! で、ニンシンが分かった時点でお姉ちゃんはフリーになるんだって!」
 花耶の見ていたSNSのページは真耶の友達も含めたグループなので、このニュースはすぐさま彼女たちの知るところとなった。苗が、優香が、ハンナが、あっという間に嬬恋家に集結した。真耶たちの担任であるところの渡辺もバイクで駆けつけ、宮嵜はいったん所属課に戻ったものの、全員がその朗報を知るや、その日に限って抱えていた残業を根こそぎ同僚たちに奪い去られ、空っぽになった机の上をあとに、はよ行かんかいとばかりに背中を課長に叩かれて帰ってきた。
 そして希和子が自宅の玄関ドアを開けるやいなや、クラッカーの雨が降った。そしてそのままの勢いで全員がリビングに直行、希和子もそれを追いかけつつ優香の持っていたクラッカーの袋から中身をつかみ取りすると、リビングのオリの前で、
「真耶ちゃんも神使役卒業決定おめでとー!」
とばかりに、クラッカーの雨を浴びせた。
 高原の夏は、日の入りとともになりを潜め、ときに寒風ではないかと思うほど冷えた涼風に場を譲る。だがこの日の嬬恋家だけは、いつまでも熱気が冷めなかった。

3

 さて。夏祭りということは不特定多数の参詣者がやってくるということでもある。そうなると神社としてもお出迎えの体制でのぞまなければならない。境内の動線とか、出店(といっても村内のボランティアグループとかだが)の配置とかは例年通りなのだが、問題は主役がいま現在、とても人前に出せない状態になっていることである。
 狼の着ぐるみはこのタイミングで脱がせてはいけないことが史料研究からわかっている。だからまず真耶をオリから出し、口にはめられていたボールを外し、よだれでベトベトになった顔を綺麗に拭く。そして消臭スプレーを着ぐるみの中に吹いたら、オムツは適宜交換なので、真耶の身体本体についてのケアは以上となる。
 それよりも、外見のケアがものすごく丁寧に行われる。ペット用のシャンプーとブラシで部分部分を洗っていく。乾いたらいったん完了。あとは適宜芳香スプレーを着ぐるみにふりかけつつ、祭りのはじまりを待つのみである。
 希和子の経過も良く、元気な赤ん坊が産まれてきそうだ。何もかもが神使職の引き継ぎへと順調に近づいていった。

 そしていよいよ当日。高原と言えど夏の日差しは強く、日なたを滅多やたらに歩き続けたならばさすがに汗ばむ。もちろん開拓者たちはそのあたりもぬかりなく、メインストリートには立派なメイプル並木、そこから分岐する道という道にもさまざまな街路樹が植えられ、別荘地も、それをモデルに作られた一般の住宅地もシラカバやなどの林に囲まれ、広大な畑地ですら随所に日よけ用の木が植えられ、農道にも並木道が作られている。木陰があらゆるところに用意されている点が、木花村が避暑地としてより優れている理由のひとつでもある。
 それでもなお、高原の日差しは厳しい。日なたでは紫外線が容赦なく人体に降り掛かってくるので、子どもでもサングラスをして外出するくらい。体感の暑さはこの村にしては結構なものになっているはずだし、天気予報によればこの気温が何日かは続くと言われていた。
 旧盆が過ぎ、ご先祖様たちを無事送り出した木花村では、この世とあの世との行き来のどさくさで災厄が紛れ込んで来るとか来ないとか言われており、それは是が非でも祓わなければならないところ。というわけで、そのタイミングに合わせて天狼神社の夏祭りは行われる。
 祭りというのは基本的に楽しいものであるが、今年の天狼神社の夏祭りはのんびりなごやかな雰囲気の中にも、ものものしい緊張感が潜んでいるように感じる。村の人々も神使様の現状を知っており、心配もしている。この夏祭りをもって苦行から解放されるとあれば、どうせなら派手にやりたいと思っている。皆気合が入っている。
 もっとも、お祭りと言っても主に働くのはやっぱり真耶で、朝には舞を神様に捧げ、昼からは人々の持つ不幸を御札という形で預かるという行事なのだが、実際には着ぐるみのグリーティングみたくなっており、子供たちはハグするわキスするわで大はしゃぎ。一番暑い時間に一番体力的にハードなことをさせるあたり、神様がSなのか、神使がMなのか…。

 もっとも、それとほぼ同じくらいハードな儀式がこれから待っているわけだが。
 夜のとばりが近づいてくるのに合わせて、本殿の前には火が起こされる。いくさの本陣のごとく派手で豪快な炎で境内は足元が見える程度に明るくなっているが、その炎のせいで神殿の外から中をうかがい知ることは出来ない。真耶に直接不幸の詳細を手渡せなかった人は炎の中に内容を書いた紙を放り投げ、お焚きあげのような形になるが、実際には熱が本殿の中に入っていくような構造に建物がなっているし、この時真耶はどこにいるかと言えば、まさにその本殿の中にいるわけである。
 本殿の中には真耶の他に、守り人である花耶と、助け人と呼ばれる補助者として、苗と優香がいる。キリスト教会の娘であるがためにいくらなんでも本殿でお手伝いするわけにいかないハンナは、社務所の一部を改造して作られた休憩所でこまごまと働いている。神社の本殿以外なら教会の娘でも手伝いオーケー、といったくらいにはこの村の宗教観は緩い。
 その休憩所だが、文字通りのお祭り騒ぎ。樽で奉納された酒の水位があっという間に下がっていく。村内選りすぐりの飲ん兵衛達が集結して、ここぞとばかりにタダ酒を飲むのだからたまらない。そして当然のように鎮座ましましている木花中学校教諭・渡辺史菜。周囲の勧めもあるのでガンガン飲んではいるが、今年ばかりは内心穏やかではない。真耶は大丈夫だろうか。ずっと狼の格好でいたのだから相当体力は消耗しているはずだ。
 時々目線を社務所の外に建てられたテントのほうに向けると、岡部の母が心配するなという合図で手を振る。真耶の心拍数などをモニタリングして、万一の事態に備えているのだが、医者の立ち合いが必要な神事って一体どんなものなのだろうと思ってしまう。

 というわけで、本殿の中であるが、ものすごい熱気が支配している。その中で真耶が横たわり、希和子が神を呼び寄せ、真耶の身体に宿らせる。一通りの祈りを済ませるだけで希和子は汗だくになるのだから、残留組の大変さたるやいかばかりか。勿論水分はたっぷり用意されているが、しばしば飛んでくる火花に備えて長袖で消防服と同じ素材の特別巫女服を着ている花耶・苗・優香はもちろんのこと、最も大変なのが着ぐるみを着ている真耶なのは言うまでもない。
 汗が大量に流れ落ちているうちはまだいい。危険なのは汗が出なくなったときで、水分が枯渇し、熱中症の発病可能性が一気に上がるとのこと。ノドが渇く前に飲め、が合言葉。
 水分補給が最も困難に見えるのは真耶であるが、そこはよく考えられていて、大量の経口補水液が入った容器からチューブを伸ばして口のところで固定し、常時水分を補給するようになっている。
 真耶は身動きがとれないようになっている。全身をワイヤーで床に固定され、着ぐるみの口は半ば閉じられているので表情はほとんど見えない。真耶の口はチューブどころか口全体が動かせないようになっている。自動的に流し込まれた水は時々飲みきれずによだれの如く唇の端からしたたり落ちる。それでも水が足りないよりはいい。
 真耶のつらさは同席している三人には十分に伝わっているけど、何もできないのがもどかしい。でも辛そうだからってやめるわけにいかないし、やめてはいけない決まりで良かったとも思っている。いま、真耶は神様と一緒にこの世にあふれかえっていた不幸や災難を身体に宿らせ、それを幸福に変えるべく戦っている。真耶はつらいだろう。でもこんなつらいけれども人々の救いになる儀式を自分がやれるということに喜びを感じているだろう。
 だから皆、真耶を心のなかで応援していた。一心に。

 日付が変わり、丑三つ時も過ぎた。さすがに炎の勢いも弱まりはじめたが、暑さは変わらない。神事的には災厄を無害化することがひととおり終わり、幸福へと変えて熟成させているところになる。この頃になるとだいぶ緊張感も薄れ、交代でなら眠ることも構わない。本殿の一番奥は暑さもそれほどではないので、苗と優香はそこに花耶を寝かせて毛布をかけた。小学生にとっては夜通しの儀式というだけで大変だろう。
 そして、真耶の口をずっと固定していたギャグボールが外され、水飲み用のチューブだけになる。実に何十日ぶりに真耶は喋る事ができる。この頃になると預かった災厄は完全に真耶の身体の中に入ったまま出てこないのだという。
「急にしゃべるなよー、ずっとしゃべってなかったんだから、慌てて舌噛むぞー」
苗が真耶の口の周りをタオルでぬぐいながら、単語は男子のようだが優しい口調で言った。真耶はゆっくりうなずいた。こんな状況なのににっこりと笑って、感謝の意を表した。どんな辛い時でも笑顔を忘れない。言うのは簡単だが、それを本当に簡単にやってしまう真耶はやはり凄いと優香は思った。だが彼女たちだってこの暑さの中真耶をずっと見守ってきたのだ。みんな、ほめられて然るべき子どもたちだ。

 少しずつ真耶の口の筋肉がほぐれてくると、女子トークの華が開き始める。この段階になるとおしゃべりをしても問題ない。ただ深夜のテンションだと、自然と感傷的なムードの話になる。
「もう、これで終わりなんだね」
「そうだねえ、次に神使になる子が幼いうちは今の神使の人が何年かやることもあるけど、さすがに今回は真耶ちゃんが長くやりすぎたから特例で来年から自分の子にやらせるつもりって希和子さん言ってたし。まあこんなハードなことはさせないし、赤ん坊のうちはお母さんが同席していいみたいだから、心配ないと思うよ」
「そっかー、うちら用済みかー、ボロ雑巾の如く使い捨てされるのかー」
苗がニヤニヤしながら軽口を叩いた。
「そ、そんなこと無いよ、苗ちゃんも優香ちゃんも神社色々手伝ってくれたら嬉しいし、あ、あと助け人の経験がある人は全国の神社で巫女さんのアルバイトするときに時給アップしてくれるっていうから、これ、無駄なことじゃないから…」
と、真耶が汗だくの顔で言うと、苗が呆れ顔になって返した。
「冗談だよ、冗談。嫌だっつってもウチらはこの神社に居座るからさ。それに、少なくともウチはここで真耶の手伝いができて良かったって思ってるんだよ」
「あー、ミィちゃんズルい、それわたしだって同じだよー。いっぱい思い出あるし、それに真耶ちゃんがわたしたちを選んでくれたのが嬉しかったかな」
優香がそう言うと、苗も深くうなずいた。
「真耶のことだからさ、友達にこんな大変なことさせられないみたいな事も言いそうなのにさ、遠慮しないで言ってくれたのがね。信じてくれてるんだな、っていうかなんていうか」
「今でも覚えてるよ、真耶ちゃんが頼みに来たときのこと。これこれこんなで大変だけど、二人にやってほしいの、お願い、って。感動したなあ、それだけ大変なことも任せられるくらい友情が厚いって感じてるんだなって」
「あー今度はウチが言おうとしてたこと言われた! でもホンネ言うとさ、公然と夜更かしできるってのもちょっとドキドキしたよ。今こうやって女子会みたいな感じで話ができてるのが楽しいんだよね。それはみんな同じじゃん?」
優香と真耶がしっかりとうなずいた。そこで、
「これで終わりになるのはちょっとさみしいけどね」
と、真耶が言ったのだが、それには、いつの間にか目をさましていた花耶が、寝たままの姿勢で突っ込んだ。
「お姉ちゃんがそれ言う? 一番苦しい思いする役割なのに。やったーもうすぐ終わるーみたいに思うのが自然だと思うんだけどなー」
「まー、ムードに流された感じはあるんじゃないの?」
と、横たわった姿勢なので大きな声が出しにくい真耶ではなく、苗が代わりに答えた。真耶は何も言わず、そういうこともあるかな、といったような顔をしてうなずいていた。

4

 いつの間にか全員眠りこけていた。そこにスマホのアラームが鳴り響き、全員が慌てて目を覚ました。設定時刻は日の出より数十分前、太陽が上って来る前に神様は真耶の身体を出ていくと言われている。
 苗と優香が、だいぶ勢いの弱まってきた火に、まきを投げ込んだ。火の勢いが盛り返したのを合図に、その上昇気流に乗って神様は天に帰っていく。ここでは希和子の祈祷は無く、本殿内で夜を明かした四人が居住まいを正して神様を見送る。それを終えると火の勢いはすぐまた弱くなり、やがてほとんど炭火になるのだが、これが神様の完全に天に帰ったサインである。火が弱まったタイミングに本殿正面の扉は上部の煙と神様の通用口を除いて外から閉じられている。
 だが、守り人と助け人はむしろこれからが忙しい。まず、真耶の身体を縛り付けていたロープやワイヤーを外す。そして、ここでようやく真耶をずっと包み込んでいた狼の着ぐるみが脱がされる。
 まず、着ぐるみが脱げないようにしていたファスナーの南京錠が外される。だが上下ワンピースフード付きになっている上に、開口部が小さい着ぐるみを脱がせるのは、かなり困難を伴う。真耶も身体をあちらこちらに曲げたりひねったり。
 もちろん、これで終わるはずがない。着ぐるみの下にもラバースーツやら全身タイツやらを着込んでいるのでそれらもすべて脱がす。こうして産まれたときの身体になった真耶の身体を清めるというか、汗などで汚れまくった真耶の身体をひたすら拭く。三人で寄ってたかって拭くのだからあっという間に終わる、のだが…。

 真耶の腰の下のあたりから、黄色い放物線が見事に描かれた。

 「ご、ごめんね…」
「気にすんな気にすんな、毎年のことじゃん」
これまで何重にも服を着させられ、燃え盛る火のそばで水分を常に摂っていたのが、火が消えて全裸になって急に涼しくなった上に身体の拘束が一気に解けたのだから、余った水分が飛び出して当然なのである。流石にこのときだけは真耶も恥ずかしそうな顔で涙目になってしまうが、苗たちは慣れた手つきで新しいオムツをはかせ、身体がこれ以上冷えないように真っ白な絹の布で全身をぐるぐる巻きにする。白く光るシルクに包まれた真耶はいかにも神々しい。やはり神使は真耶。真耶は神使。

 天狼神社の境内に、活気が戻ってきた。社務所などで夜を明かし、お清めを名目に飲みに飲んだ大人たちが起きてきたのだ。とは言え長椅子に座って頭痛に耐えている人、座った姿勢もキープできずに、休憩所の畳に寝そべっている人、酔いはそれほどでもないが徹夜したので椅子の上で舟をこいでいる人。
 しかし、本殿上部から「終了」と書いた札が竿先に下げられた形で掲げられ、それを見た希和子が本殿の扉を開けに行くと、それに気づいた人々の注目が一斉にそこに注がれた。希和子がゆっくりと扉を開ける。神々しい雰囲気がそこに流れる。

 露払いのごとく、花耶と優香が高床式の本殿から階段を降りてきて、左右に控える。そして、奥から出てくる人影。真耶だ。絹布に巻かれた状態のまま苗にお姫様抱っこをされている。
「相変わらず軽いなー。全国の女子が嫉妬すんぜ?」
「もお、苗ちゃんはー。これでも少しは成長したんだよー?」
小声で軽口を叩き合う二人。神使は一番疲れているので自分では歩かないのがしきたりで、体力自慢の苗が毎年運び役を買って出ているのだが、左利きの彼女が姫抱っこをすると、抱えられる真耶の顔は苗の身体の左側になる。
「苗ちゃんの、心臓の音。安心するなー」
育児書などに時々書いてある。赤ん坊を抱くときは左側に顔を持って母親の心音を聞かせると赤ん坊が安心するのだと。苗は気持ち悪いこと言うなよと苦笑するのだが、その顔には誇りが見て取れる。いま、神使を神殿から安らかな心のまま運び出すことが出来るのは自分だけなのだ、という誇りが。それに、この過酷な神事を皆でやり遂げたことへの誇りもある。それは花耶も、優香も、そして真耶も同じだ。それぞれがそれぞれの果たした役目に誇りを持っている。
 すべての段を降りた苗が、車椅子に真耶を座らせた。境内に集った人々の中から、誰ともなく拍手が沸き上がる。一昼夜を書けた、天狼神社最大のイベントの、感動的なフィナーレだ。

5

 夏祭りが終わると、数日で二学期が始まる。冬が寒い木花村では八月の下旬に二学期の始業式を設定する代わりに冬休みを長くしている。その前に祭りの終わった翌日、嬬恋家では真耶たちの労をねぎらうためささやかなパーティーが開かれるのが慣例だ。たいていは盛り上がった末に苗も優香もお泊りとなり、またしても女子トークが繰り広げられるのだが、これによって祭りで半ば徹夜だったことによる体内時計の狂いを修正する狙いもある。
 真耶の部屋の二段ベッドは上段が花耶の定位置なのだが、さも当然のように下の段の布団に潜り込んで真耶との添い寝を満喫するべく待ち構えている。当然拒むはずもなくそれどころか体育の授業でも見せないような素早さで布団に入り込み、ぎゅっと花耶の身体を抱き寄せるとひとつの枕に二人の頭を載せて、おでこをくっつけあった。
 それを見るや、苗が上段ベッドに一気に駆け上り、
「頂上ゲットー!」
と雄叫びを上げると花耶の布団をさも我が物のようにして大の字に横たわった。それを呆れ顔で見ながらも、残された床に敷いてある布団にどっかと座ると、
「じゃあ地上はわたしの天下ね!」
と高らかに宣言する優香。しかし、
「ふっふーん、もうオイラが領有権主張してるもんねー。面積もでかいしー」
と、ハンナが掛け布団の中から現れる。ハンナは家が教会なので神事にはさすがに参加できないが、境内には手伝いに来ていたし、一人だけ仲間はずれとかかわいそう、というわけで毎年全会一致で呼び出されている。だからこんな悪ふざけも毎年繰り返される光景だ。
 ただ今年は、この後に大きな出来事があった。ドアがノックされると、そっと開かれ、希和子が顔を出す。
「ちょっとごめんね、さっきはなかなか言い出せなかったことがあって。今、ちょっといいかな?」

 「希和子さんどうしたの? 急にかしこまっちゃって」
全員布団から起き上がって正座をして、希和子を見つめる。
「ああ、みんなこそ堅くしないで楽に聞いて。お布団の上でいいから」
「あ、うん。それで、どうしたの?」
真耶が尋ねた。正座しているひざには花耶の頭が横たわっている。希和子も床に正座すると、一息ついてから、話し始めた。
「あのね、私が子どもを授かった事は知ってるわよね? それで、今日産婦人科行ったんだけど、今って進んでるのね。中の子どもの様子がすぐわかるの。性別もわかっちゃうみたい。あとのお楽しみで聞かないけど」
希和子の妊娠はすでに周知の事実で、まだ妊娠してから日が浅いため神事も無事とり行えたのは幸いだった。お腹の中の子供は順調に成長しているそうだ。
「でもね」
希和子が、急に下を向いた。なんか、言いにくそうにしている。
「ん? どうしたの? 言いたいことあるなら言っちゃえばいいのに。子どもは元気なんでしょ?」
花耶がせかす。それに背中を押されたように、希和子は言った。
「あのね、私の子ども、じゃなかった、子どもたちって、双子なんだって」 

 場のテンションが一気に上った。
「かわいいー! 早く見たーい! 双子コーデさせたーい!」
と言った具合。ところが希和子の表情は複雑で、それに気づいた花耶が、
「希和子さん、なんか、問題あるの?」
と尋ねた。希和子は、おそるおそる、話し始めた。
「実は…双子は、神使になれないの」

 双子。顔もからだも似通ったどころか、そっくりな兄弟、または姉妹。神使が選ばれるルールはと言えば、先に産まれたほうと決まっている。だが歴史を紐解けば後に産まれたほうを姉や兄とする時代もあったりする。そうなると、なぜ長女が神使ではないのか云々といった混乱が生じ、下手をすればお家騒動のもとだ。騒ぎのもとになる決まりごとは避けるのがこの神社の習わし。だから双子が産まれても、それまでの神使が引き続きその職務を続けるしきたりだった。
 「だからね…」
希和子が申し訳なさそうに切り出した。
「真耶ちゃんたちには、来年も夏祭りで神様のお迎えしてほしいの」

 「うわー」
「マジかー」
「勘弁してくれー」
「やったー!」

 「やったー」?

 異口同音に不満の声が溢れたが、一人だけ、喜びの声を上げた者がいた。その声の主は言うまでもない。
「ええっ、なんでみんな、やりたくないの?」
首をかしげながら、真耶が言った。
「まあ、イヤなわけじゃないけどさ、いっぺん終わったと思ったものをまたやれ、ってなると気合の入れ直しが難しいじゃん? つか、真耶が一番大変なんだからさ、一番ショックなんじゃないの?」
「わかる。みんな相当テンション上げてやってたのはアタシも見てたしさ。勢いってのもあるわけだし、一度気が抜けたらそこからまたテンションMAXに持っていくのって厳しいと思うよ」
苗とハンナが真耶をなだめるように言った。もちろん全員とも、二度とやりたくないわけではない。だが一旦やらずに済むとなったら、気持ちの切り替えが大変なのも事実だ。
 だが、真耶の答えは動じたところがなかった。
「大変だとは、あたしも思うよ。でも終わったときのやりとげた感じがすごく気持ちいいの」
そして、最後の言葉が、殺し文句となった。
「それに、みんなと毎年こうやって出来るのが嬉しいの。楽しいの。夜更かししておしゃべりしたりさ。みんなじゃなかったら、ずっと前にくじけてたと思う」
そう言われては、誰もがうなずかざるを得なかった。

6

 そして、いよいよ翌日から二学期という日、新学期の準備に余念がない真耶と花耶。一方希和子は家庭菜園での野菜の収穫に励んでいる。曲がったキュウリやデコボコのトマト、形は悪いが味は最高な木花村の野菜たちだ。すると。
「モロキュウに冷やしトマトってのは夏のつまみの定番だわな。乾き物より健康にも良かろうて」
突然声をかけてきたのは、真耶の担任、渡辺。史料の山に埋もれる日々から解放されたこともあってか、血色が良い。おかげで酒が旨くて仕方ないらしい。
「もう、口を開けばお酒の話なんだから。一応うちの子の担任の先生なんだから、少しはわきまえなさいって」
半ば呆れて希和子が返す。担任と言ってもかつては嬬恋家に居候していたこともあって、気のおけない仲だから希和子も歯に衣着せぬ言い方を遠慮なくする。
「あーじゃあ、モード切り替えっか。えっと、臨時家庭訪問です。保護者殿、少しお付き合い願えないでしょうか」
「と、言う割にその手に持ってるチーズは何でしょうねえ、先生。しかもバイクのほうが速いのにわざわざバスでお越しとは。奉納されたお酒の残りは神様のものなんだけどなあ」
「狼が酒飲むわけ無いだろ。それに神使もこの世じゃ未成年だ。で、その神使様の件なんだが…」
教師モードはすぐに崩れた。そして渡辺は真耶達姉妹が気づいていない様子なのを確認すると、社務所のほうに希和子を連れていき、話を始めた。
 「真耶…嬬恋のことなんだが…」
珍しく、眉間にしわを寄せて渡辺が言った。
「単刀直入に言うぞ。いよいよ受験だろう? だから、出来ることなら、制服を…だな…」
一般に高校受験には面接がある。そのときに男子が女子の制服ではまずいだろうと渡辺は懸念しているのだ。もちろん、性同一性障害などによって戸籍上男子でも女子の制服で面接して良いという配慮をしてくれる学校もあるだろうし、そうでなければならない。
 だが、真耶の場合はあまりに事例が特殊なので、認められるとは限らない。もっとも近隣の高校なら天狼神社の存在とそこの神使が持つ事情をくんでくれるだろう。それでも渡辺が心配する理由は…。
「神使の候補が現れたら、日常生活で狼の格好はしなくても良い、これはわかっていることだし、現に真耶はそうしてるわな」
希和子が妊娠して、目出度く真耶の後継者が現れたと嬬恋家は喜びに包まれたが、双子であることがわかってしまったので、神使職の引き継ぎはお流れとなった。双子はどっちが神使なのかでもめ事の元となるからだ。
 だが、神使「候補」が現れた時点で、真耶は外見上の制約から開放されること、それもわかっている。神使が「誕生」するかどうかは、文面を解釈する限り関係ないのだ。
「たださ、夏祭りでの儀式はやってもらわなくちゃいかんわけよ、神使職に従事する者がいないときでも代理にふさわしい者が儀式を行うのが望ましいと。でもそれ以外は自由になる」
「望ましい、って日本語は大抵やれってことなんだよね、実質。まあ真耶ちゃんは進んでやるやる言ってるから問題ないけど、でもねえ…」
希和子がため息をついた。
「格好もだけど、神使職に縛られなくなった以上は、父母の元に帰してあげないと。ちょっとさみしいけど、こっちが借りてたようなものだからね。東京の高校に通うことについては、真耶ちゃんはどうなの?」
「成績的には問題ないし、東京の学校の過去問対策もさせてる。本人も抵抗は無いようだ。友達と離ればなれになるのは寂しいだろうが、乗り切れると思う、今はスマホでいつでもコミュニケーション取れるしな。だから」
渡辺は、一息ついてから言った。
「だからこそ、外見が問題になる。華の大東京で田舎の神社のオキテがどうたらこうたら言っても通じないだろう」

宗教上の理由、さんねんめ・第八話

 やっぱり真耶は筋金入りのMなのかもしれませんね。次回からは少しほんわかムードが戻ってきます。

宗教上の理由、さんねんめ・第八話

作品史上もっとも過酷な環境に耐え続けている真耶。読者の皆様の中の彼女を早く楽にさせるためにも読みすすめてみてください。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-06-07

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