離島野草雑記

タイトルと内容が乖離しているかも知れません。殺人事件の話です・・・

     1

 見晴かす一面の橙(だいだい)色だった。あとは青。たった2色の世界──
 橙色はシマユりの群生で、青は海だ。僕は息を飲んで立ち尽くしていた。
 まだ早い時間だったので、一瞬、錯覚したほどだ。今朝の日の出の陽光がそこら一帯に染み付いてしまったんじやないかと。
 そのくらい圧倒的で、美しい光景だった。
「な?」
 呆けて突っ立つ僕のすぐ横で豊明が微笑んだ。
「凄いだろ? これを見せたくて……一般的な観光シーズンにはちょっと早いけど、今の時期に招待したんだ」
 それから、悪戯っぽく付け足して、
「感謝しろよ。持つべきものは友人だろ?」
 本当に。僕もまさにそれを考えてたとこ。持つべきものは〝良き友人〟だよ。
 僕たちは日本海はS島の南端の岬に立っていた。友人の本間豊明が僕を誘ってくれたのだ。
 六月の島は花の盛り。来る気があるなら今を置いて他にないぞ。
 僕はと言うと、本来ならまともな旅行などできる身分ではなかった。
 この春、大学を卒業したものの僕には定職がなかった。教師になる予定だったのだが見事に地元の教員試験に落っこちたのだ。
 そういうわけで、僕は就職をもう1年先に延ばして今年は勉強とバイトと、それから、少しばかりの実家からの援助でやっていこうと決めた。
 豊明から先のメールが届いたのは六月半ば。
 僕の暮らす首都には鬱陶しい梅雨の雨が降り始めていた。

 豊明と僕はW大学入学以来の友人だ。学部は違うがサークルが一緒だった。趣味が同じだったのだ。
 僕達はともに〈山歩き同好会〉に所属していた。と言っても〈山岳部〉などと言うハードなヤツじゃなくて自然にも体にも優しいトレッキング専門。
 そして何より、僕も豊明も無類の野草マニアだった。
 S島出身の豊明はしょっちゅう故郷の話をしては、そこに咲く珍しくて美しい草花のことで僕を死ぬほど羨ましがらせてきた。

「俺が野草に興味を持ったのは小学生の時、シラネアオイを見てからだ」
 出会ってすぐの頃、大学のカフェテリアで豊明から聞いた話が僕は忘れられない。
「シラネアオイだって? 本物を見たのか?」
 僕は興奮して、サンドイッチを喉に詰まらせるところだった。
「勿論! 尤もその時、その名を知ってたわけじゃないけどな」
 シラネアオイは清冽なピンク色の、それはそれは優美な花だ。縮緬のような柔らかい若緑色の葉を持つ。
「ちょうど春休みだったな」
 豊明は教えてくれた。
「俺は虫籠を下げてブナの林を走り回っていた。その頃はどっちかと言うと花よりは虫に夢中だったのさ。で、偶然、ブナの根元に咲いてたその花を見つけたんだ」
 揺れる花びらが蝶々のように見えたそうだ。それで、摘み取ろうと虫捕り網を持ち替えて右手を伸ばした途端、背後で声が響いた。
「7500万年……!」
 豊明は笑った。
「声の主は何のことはない。一緒に来てた親父だったんだけど。親父は別段、俺を制するでもなくただ感慨深そうに花を見つめて繰り返した。7500万年って……」
  ──── 何さ、それ、父さん?
  ──── この花の年さ!
  ──── こんな弱っちい花が? 嘘だあ!

 だが、勿論、高校の生物の教師だった豊明の父の言葉に嘘はなかった。
 シラネアオイ(栃木県の白根山に多く、花がタチアオイに似ることからこの名がある)は、日本固有種で一科一属一種。
 日本のほとんどの植物が列島誕生後の2500万年前後に生まれ、分化発達したことを考えると、このシラネアオイ属は破格に古い時代、遥か古代三紀初めの7500万年前に誕生した。
 彼らは7500万年と言う気の遠くなるような時間の中で多くの種を分化し、栄え、そしてそのほとんどが滅亡した。
 現在、地球上で日本、しかも日本海側のブナ林床という特殊な立地にのみ生き残った〝遺在種・固有種〟……
 一科一属とは、つまりそういう意味を持つ。
  ──── 〝生き残り〟と言う呼称は弱弱しすぎると思わないか?
 豊明の父は静かに笑って言ったそうだ。
  ──── 〝どう? 私は生き続けてきたのよ!〟と言う自信に満ちて咲き誇っているように見えるがなあ!

 今春、豊明は大学卒業と同時に島に帰って行った。彼の父はシラネアオイを一緒に見てからほどなく亡くなったそうだ。二人してブナ林を歩いた時、既に肺癌を患っていたことを豊明は後で知ったとか。野草好きの父のことだ、最期に息子と山歩きをしたかったんだろうと豊明は苦笑しながら言ったものだ。実は彼の母も物心つく以前に他界したそうで父の死後、子供のなかった親戚に後継として望まれて養子に入った。そういう事情から、学業を終えるとすぐ家業の旅館を継ぐべく、年老いた養父母の待つ故郷へ帰っていったのだ。
 とはいえ、僕のことも忘れなかったと見えて島での生活が落ち着くとすぐ連絡をくれた。
《 ……本当に忙しくなる真夏のかきいれ時前に来いよ。実は六月の島は1番の花の季節。野草好きには七月、八月より断然喜ばしい。どっちにとっても好都合だろ?》
 というわけで、僕はスポーツバッグに最低限の衣類を押し込むと一週間の予定ですっ飛んで来た。

     2

 昨日、昼過ぎ新幹線でN市についた時、雨が降っていた。
 雨は群青色の日本海にも降り注いでいた。けれど、海は夏凪でほとんど波はなくカーフェリーはとても快適だった。
 そして、今朝は真っ青に晴れて、この橙色のシマユリのお花畑だ……!
「〝伝承〟とはかくも不思議な作用を施す」
 豊明は胸の前で腕を組むと感慨深げに息を吐いた。
「この辺りでは代々シマユリは海神様の花と言い伝えられてて……この花を摘むと海神様が怒って海を荒らすってさ。だから猟師町のここら一帯は何十年、いや、何百年もこの花を手折らず……結果、岬を覆い尽くすこんな見事な群生となった」
「同じ黄色なら──俺はヨーラメのほうが好きだな」
 真後ろから聞こえた太い声にハッとして振り返ると、僕達二人だけだと思っていたのにいつの間にかもう一人、花の中に立っていた。
 年齢は僕達と同じくらいだが体つきが違う。黒のTシャツから突き出た筋肉隆々の逞しい腕。そして、その肌の色ときたら──
 赤銅色とはこういう色だったのか!
「信彦?」
 すぐに豊明が紹介してくれた。
「こちら、我山信彦と言って、俺の幼馴染なんだ。祖父の代からすっとうちの旅館の釣り船も出してくれてる」
「ヨーラメの花はもう見ましたか?」
 信彦は豊明ではなく僕を見て言った。
「北の海岸……大野亀の辺りは大群生地ですよ」
「あ、いえ、そっちはまだ。昨日着いたばかりなんです」
「向こうもちょうど今が盛りだ。俺はこっちシマユリよりヨーラメの方がいい」
「そりゃ、おまえが漁師だからだろ!」
 豊明はクスクス笑って説明してくれた。
「ヨーラメったってわからないよな、島の人間以外には。カンゾウの一種なんだ。俺達の方言で〝魚孕み花〟が訛ってヨーラメってね。それが咲くちょうど今頃、磯に卵を孕んだ魚が産卵にやってくる。要するに島に豊漁をもたらす花なんだよ」
「へーっ」
 僕は素直に感嘆の声を漏らした。
 信彦は険しい顔のまま漸く豊明の方を見た。
「話がある」
 その深刻そうな表情。
「あ、じゃ、僕はブラブラそこらを散歩して帰るから……」
 二人を岬の端に残して僕はその場を離れた。
 岩の斜面を登りながら途中、一度だけ振り返ると、橙色の原に真っ黒い頭とやや赤茶けた頭が二つ不思議な種子のように浮き上がって見えた。
 二人は何やら真剣に話し込んでいた。

     3

 岬から離れて舗装道路に出た。
 僕が厄介になっている豊明の旅館まで距離にして2キロくらいだ。朝の散策にはちょうどいい。僕はゆっくりと歩き出した。
 が、すぐ足を止めた。
 アスファルトの道の端で深紅の花をポキポキ手折っている少女がいた。
 初夏というには幾分肌寒い裏日本の六月の早朝に、薄桃色のノースリーヴのブラウスと濃紺の膝丈スカート。花を摘むたびに真っ直ぐの赤茶の髪が揺れて剥き出しの肩に零れる。
「夏宝(かほ)ちゃん!」
 僕は少女の名を呼んだ。
「何してるんだ、こんなとこで?」
 昨日、旅館に着いてすぐ豊明が紹介してくれた。
 ──── 妹さ。
 その際、僕はお決まりの挨拶で応じたが。
 ──── こんな可愛い妹さんがいるなんて知らなかったぞっ!
 台詞は月並みでも感動は本物だった。
 豊明ときたら大学在学中、島の美しい草花のことはやたらと口にしたくせに、美しい妹のことは一言だって言及しなかった。
 昨夜もその点を突くと豊明は目を伏せて困ったように微笑んでいた。
「何って、見た通りよ」
 夏宝ちゃんは手を止めずに花を折り続けている。彼女の立っている周りはちぎれた花の残骸でいっぱいだった。
「私がこれをすると年寄り連中は物凄く嫌がるのよ。忌み花を摘むと祟りがあるって……」
 夏宝ちゃんは高校3年生、一七歳だった。僕は笑いを噛み殺して、
「キツネノカミソリか。それ、根が食用になるんだよ。大昔は飢饉の時の最後の頼みの綱だった。だから、絶対根絶やしさせないために──君みたいな悪戯っ子に手を出させないように、敢えて恐ろし気な言い伝えをくっつけたのさ。忌み花の類はみんなそう。曼珠沙華とかもね」
 少女は驚いた様子でパッと顔を上げた。赤い髪が弾けて、蕾が開くみたいだった。
「そうなの?」
「あれ、知らなかった? 兄さんは教えてくれなかったのか?」
 僕同様、野草マニアの兄さんが?
 夏宝ちゃんは掌にくっついたキツネノカミソリを振って落とした。すると復讐のように花びらは少女のミュールを履いた素足の足の甲に張り付いた。
「兄さんはなんにも言わないわよ。いつだって何処でだって困ったように笑ってるだけ」
 夏宝ちゃんが舗道に出て来るのを待って、僕達は並んで歩き出した。
「兄さんはどうしたの? 一緒だったんでしょ。海に突き落とした?」
「アハハハ」
 僕は声を立てて笑った。
「まさか。信彦さんって人と岬で話してる」
「そうだ!」
 少女ときたらもう他の話を始めていた。
「今日は土曜だから、夜、盆踊りイベントがあるわよ。ねえ、宇(たかし)さんも見に来る?」
 盆踊りにはいくらなんでも時期尚早だろうと僕が驚くと夏宝ちゃんは首を振って、
「ううん。早めに来すぎた観光客へのサービスで数年前からやってるの。ゴールデンウィークからは毎週末、島内の各地域の盆踊りが見られるのよ」
 それから秘密を打ち明けるみたいに声を落とした。
「実を言うとね……」
 剥き出しの細っそりした腕を腰の後ろで交差させて、
「私も毎回駆り出されてるの。ね、見に来てよ! 町役場前の広場で7時からやってる。提灯と篝火をたいてかなり本格的なんだから。おまけに──」
 ここで一旦息を継いだ。
「この地域の盆踊りは島でも一番ユニークだから一見の価値ありよ!」
「ぜひ行くよ!」
 僕は約束した。本当の処───島で一番ユニークであろうとなかろうと、彼女の浴衣姿を見られるだけで僕には十分だったのだ。

 豊明の継いだ旅館〈夕月荘〉は海を背にして建つ、小ぢんまりして風雅な昔風の旅館だ。
 僕と夏宝ちゃんは玄関前の駐車場で別れた。
 彼女は手伝いがあると言って、裏の勝手口の方へ小走りに駆けて行ってしまった。その前に僕は素早く腰を屈めて、ずっと少女にくっついていた赤い花の残骸を摘まみ上げた。その際見た、少女の足の爪はブラウスの色と同じ薄桃色だった。

     4

 朝食を済ますと、早速、豊明は車で彼推薦の秘密の観光スポットを案内してくれた。
 まず何を置いても、と向かったのが海抜450メートルの山腹にある〈杉池〉だ。
 コナラ、ミズナラ、ヤマモミジ、エゾイタヤ、ハウチワカエデ等、2メートル級の広葉樹林に周囲を囲まれた自然湧水池。
「この池の周りの原始林は300本を超えてて自生する植物も300種を下らない」
 と、豊明。
 こんな場所が日本に残っていたのか、というくらいそこは神秘的な異空間だった。
 池の水面は誰かに肘を掴んでいてもらわないと吸い込まれそうな気分になる濃くて深いエメラルドグリーン。
「先月まではミズバショウとユキツバキが群生してたんだが。ちょっと間に合わなかったな? それでも、ひょっとしたら早咲きのギンリョウソウは見つかるかも」
「え? それが咲くのか、ここ?」
「ああ。六月から九月くらいまで。この池のコナラとミズナラの林床で見られるよ」
 ギンリョウソウはユウレイソウとも言って、珍しい菌根植物だ。光合成をしないから葉も緑色にはならず純白の鱗模様で茎も真っ白。その茎の先に下向きに白銀色の釣鐘の形をした花を一つつける。全体が小さな竜の姿に似ているのでこの名がついた。
 僕は写真でしか知らないが、幻を見ているような、騙されているような、摩訶不思議な植物なのだ。見られなくてホント、残念だった。

天平年間(764)には完成していたという〈国分寺〉は礎石だけが残っていた。
 とはいえ、平安前期の作と伝わる薬師坐像を安置する茅葺き屋根の瑠璃堂は独特の雰囲気をたたえて印象的だった。
 隣接する〈妙宣寺〉の県下唯一の五重塔を見た後、〈清水寺〉へ。
「面白いなあ!」
「言うと思った」
 と、豊明は笑う。兄さんはいつも笑っているだけ、か。夏宝ちゃんが一緒じゃないのを僕はこの時、心底残念に思った。
「〈せいすいじ〉だぜ。〈きよみずでら〉じゃない。面白いだろう?」
 そう、ここは紛うことなくあの有名な古都・京都の清水寺を模した寺なのだ。
 樹齢400年の杉の巨木の間にあって、本家同様呼び降りたら首の骨を折ること間違いなしの〝舞台〟もある。
 交通機関が現代ほど発達していなかった遥か昔、離島の人々の都への憧憬──言い換えれば、文化への渇望はどれほどのものだったか……
「でも、こっちの方が素朴で……ワイルドでいいな!」
 仁王門に立って、山門へと伸びる長く真っ直ぐな石段を眺めながら僕は言った。
「特に冬が」
 と、豊明。
「雪に埋まってる頃が一段といいんだ。凄まじくってさ!」
 僕は今の今まで雪は柔らかくて静かなものと思っていたが。流石、雪国育ちならではの感想だ。
「さてと、今日の仕上げに、観光バスは絶対止まらない、取って置きの処へ連れてってやるよ」
 それが、〈慶宮寺〉の八祖堂だった。

 膝辺りまで生えた夏草を踏み分けて進むと小さな堂宇に行き当る。
 風雨に晒されて灰緑色になった正面の扉に細長い窓が穿たれていた。
「覗いてみろよ」
 豊明に促されて顔を寄せる。ちょうど堂内の須弥壇が見える位置に窓を作ったのだとわかった。扉を開けなくても安置されている祖師像を拝めるなんとも粋な設計。もっと目を上に上げて覗き見た天井には様々な花が描かれてあった。天井のお花畑か。この小さなお堂にこれほどの意匠が散りばめられているとはなあ?
 すっかり満足して前庭に飛び降りた。さわさわ揺れる木漏れ日。周りの緑からは懐かしい夏の匂いがした。
 堂から離れて二、三歩歩いた時、軋むような不思議な音を聞いた気がして僕は立ち止まった。
「戻って来いよ!」
 豊明はまだ堂の軒下にいて頻りに手招きしている。僕は再び低い階段を飛び越えて友人の横に立った。
「覗いてみろ」
 言われるまま、さっきやった通りに窓を覗いて僕は思わず声をあげた。
「あれ?」
 そこに見える祖師像の顔が明らかに違っていた。
「……もう一回、見てみろ」
「!」
 また違う。
「八面あるんだ。それが順番にくるくる廻ってるのさ」
 先刻僕が聞いた軋むような音は堂内で須弥壇が回転する音だったのだ。
「須弥壇が八角形をしていて八人の祖師像が祀られている。縁の下で回る仕掛けになってて……参拝者が拝んでるうちにいつのまにか次の像に変わっているって趣向さ」
「へえ、凄いな! でも……どうしてこんなもの造ったんだろう?」
「そうだなあ」
 豊明は暫く黙っていた。
 面白くて何度も覗いているとやがて豊明が言った。
「神仏だって一回見ただけではわからない色んな顔を持っているってことかもな」
 カラクリの方に気をとられていた僕は、その時は豊明の言葉について殊更深くは考えなかった。
「明日は〈梨の木地蔵〉に言ってみよう」
 帰路の車の中で豊明は言った。
「あそこも、さっきの八祖堂に負けず劣らず変わってるんだ。またまた吃驚すること請け合いさ。乞うご期待ってね……」


     5

 余計な気を使わないようにという配慮から豊明は僕を自室に泊めてくれていた。
 そこは旅館本館とは渡り廊下で繋がった二間続きの離れだ。
 廊下側には細長い坪庭があって高い漆喰の塀に囲まれている。塀の向こうは玉砂利を敷いた駐車場。
 座敷側の窓からは海が望めた。──実際、〈夕月荘〉の全ての客室の窓からは海が眺められたが。
 のんびりと風呂に浸かって戻ると、豊明が居間として使っている一室に豪華な夕食の膳が用意されていた。どの皿にも海の幸、山の幸が満載だ。
「まあ信用貸しってことで」
 豊明は笑って、
「いづれおまえが教師になった暁には、さぞや教え子をごっそり引き連れて我が〈夕月荘〉に赴いてくださるだろうからな?」
「ああ、期待しといてくれ!」
 ところが、僕が箸を持ったとたん豊明は腰を上げた。
「悪いけど先に一人で食べててくれ。ちょっとヤボ用があって……すぐ戻るよ」
 もちろん僕の方は一人でも一向に構わなかった。おまけに豊明は去り際、振り返るとこうも言ってくれた。
「良かったら、俺の分も食っちまっていいぜ。俺は食い飽きてるんだ」


 すぐ戻ると言ったくせに豊明はなかなか帰って来なかった。
 僕は素直に二人分平らげ、添えられていた地酒も二人分飲み干して──もともと酒にはさほど強くないせいもあって、つい寝込んでしまったらしい。
 目が醒めると九時前だった。
「いけないっ!」
 夏宝ちゃんとの約束を忘れてた。僕は慌てて跳ね起きた。

 盆踊りイベントの場所はすぐわかった。
 旅館から徒歩で五分と離れていない県道沿いの町役場前に、朝、夏宝ちゃんが言ってた通り櫓が設けられていて、提灯が揺れていた。所々、篝火も燃やされて、そのせいか逆に炎の届かない部分は墨のように闇が濃かった。潮の香りが日中より強く感じられる。
 盆踊りの見物人は僕が予想していた以上に多かった。四、五十人はいるだろうか。週末ということもあり全てが観光客ではないのだろう。きっと関係者や家族、地元の人たちも混じっているに違いない。親しく声をかけ合っている光景があちこちで見受けられた。
 装束を整えた踊り手は二十人ほど。その輪の中で夏宝ちゃんはすぐわかった。
 藍色の地に白い竜胆の柄の浴衣がそう。今風のカラフルな浴衣じゃないのが、いかにも、彼女らしかった。
 伝統の半月型の笠を深く被って顔はほとんど影に覆われていたけれど、形の良い唇がくっきりと浮き上がって見えた。
 夏宝ちゃんはその可愛らしい唇を一文字にキュッと結んで踊っている。
 僕は距離を取ってじっくりと観察した。
 赤い花緒の下駄で固い地面を蹴る時、今朝、盗み見た小さなピンク色の足の爪を思い出した。鶸色の帯の上に背負った小道具も何のその軽々と身を翻す。そのクルリと回転する瞬間を捉えて僕は手を振って合図を送った。ちゃんと来たよ、夏宝ちゃん。さっきからずっと君のこと見てるんだよ。
 少女は気づいたらしく口の端をちょっと上げて微笑みを返してくれた。
 おけさ踊りの所作は〝波〟を表現していると聞いた覚えがある。
 夏宝ちゃんの繰り出す波に僕は酔いしれた。
 あの波頭……たゆたい、崩れる細い指先の爪も足のそれと同じピンク色なのかな? そう言えば──
 あのピンクは姫踊子草の色だ。英名はレッド・デッド・ネェテル……紅い血を流す死者の花……
 あんな花のような波になら浚われても、いわんや、溺死したって、僕は全然構わないけどな。

 篝火の炎の輪の中に入ったり、暗い影の部分に出たりしながら夏宝ちゃんは踊り続けた。
 もっと夜が更けて、とうとうイベントがお開きになるまで、僕はその場を離れず心行くまで楽しい時を過ごしたのだった。

     6

 翌朝、本間豊明の死体を見つけたのは僕だった。

 その日も例によって目が覚めるとすぐ僕は散歩に出た。
 昨夜は盆踊りから帰ると、夕食の膳はとうに下げられていて、奥の部屋に僕用の客布団が敷いてあった。僕はそこに潜り込んで爆睡した。
 隣の部屋に豊明用の布団が敷いてあったことや、朝目覚めた際(六時過ぎだった)、やはり布団はそのままで豊明が寝た形跡がないのは気づいたが、その時は別段気にも留めなかった。
 それで、そのまま僕は一人で近隣一帯を散策した。朝食に戻ろうと帰りかけた時、それを見つけたのだ。
 そこは海を眼下にした遊歩道で、反対側は断崖だった。斜面にはびっしりと木々が生い茂って、真下の海原に挨拶するみたいにサワサワ枝を揺らしている。海の方では波がそれに応えてキラキラさざめいていた。そんな素晴らしい風景の真ん中に豊明は倒れていた。

 僕の友人は断崖の斜面に足を上にして折れ曲がって倒れていた。
 頭部が潰れて、大量の血が流れ出ていた。その血のほとんどは地面に染み込み、残りは既に乾いて彼の周囲で固まっていた。
 僕は反射的に頭を仰け反らせて上の方を仰ぎ見た。その辺から転がり落ちたのだろうと咄嗟に推察したのだ。彼の体には崖を転がったために刺さったと思われる小枝が数本刺さっていたから。果たして、もっと高いところ、僕の頭上の断崖にも遊歩道が廻っているのが見えた。そのさらに上には真っ青な島の空が見えた。

 豊明の葬儀は通常より三日も遅れて執り行われた。
 というのも、地元の警察が彼の死に方に僅かながら事件性を嗅ぎ取ったせいだ。
 単なる転落事故死ではないのではないか、と警察は疑ったようだ。実は、豊明が自宅を出て行った夜以降、幼馴染の漁師、我山信彦も行方知れずになっているのが判明した。島の警察官は信彦の居場所を懸命に探したがその所在は掴めなかった。
 結局、僕が島に滞在している間、彼は見つからなかった。
 当然のことながら、死体の第一発見者である僕はあれこれ詳細を聞かれた。もちろん、見知っている事柄は全部話した。例えば、豊明が死の前日、信彦と二人して岬で話し合っていたこと等々……
 検死の結果、豊明の直接の死因は頭部強打による頭蓋骨骨折とわかった。高所よりの転落死と言うのは正しいのだろう。

     7

 島で唯一の斎場は山の中にあった。
 そこはまた、最後の野生のニッポニア・ニッポンが生息していた地域だとも聞く。
「観光の予定を狂わせてしまってごめんなさいね」
 斎場から戻って、ささやかな膳が用意された〈夕月荘〉の大広間で最初に夏宝ちゃんが僕に言った言葉はそれだった。
 夏宝ちゃんは取り乱すというよりは放心状態で葬儀の日までを過ごした。豊明の養父母に至ってはその傷心の姿を言い表す言葉を僕は持たない。
 元々養父の方は老齢のため寝たきりだったのだが、事故の報を受けて以来、養母も床についてしまった。それで、通夜も告別式も全て夏宝ちゃんが喪主代行という形で取り仕切った。
 シンプルな半袖のワンピースの喪服姿で彼女はやり遂げた。
「親友を亡くして観光もへったくれもないさ」
 僕は正直にそう言った。
「宇さんが島にいてくれて本当に良かった。お葬式に出てくれて兄さんも喜んでるわ」
 消息不明の(ひょっとして殺人犯の?)我山信彦について僕と夏宝ちゃんは一言も話題にしたりはしなかった。僕達以外の、葬儀に出席した人達と、それから島中のほとんど全ての人達が彼について噂し合っていたにせよ──。
 広間のあちこちで交わされるこの信彦に関する疑心暗鬼の会話が完全に途切れたのは、一度だけ。当の我山家から弔問客がやって来た時だった。
 信彦の父、我山元は、かつては息子同様屈強な海の男だったに違いない。だが、数年前、脳梗塞で倒れてから体が不自由になった。その父を支えていた娘は夏宝ちゃんと同じくらいの年格好で、可哀想に皆の視線が耐え難いのだろう、俯いたまま顔を上げなかった。
 さすがにこの時ばかりは夏宝ちゃんも焼香する我山父娘から目を逸らせて隣に座っていた僕の手をギュッと握った。
 華奢でヒンヤリした手だった。
 盆踊りの輪の中で幾千もの波を繰り出していた手とは思えないほど。
 その違和感のせいか、はたまた葬儀の後だったせいかも知れないが、瞬間、僕はコウホネという花のことを考えた。
 川の中に育つ花。花茎を水上に出して咲く。水の中の根茎は白くて固くて人間の骨に似てるから〝河骨〟。〝川骨〟とも書いてセンコツとも呼ぶんだよな。僕の手を握った夏宝ちゃんの指は河骨と同じ細さだった。
 実際、僕はいつもその花を見ると背筋が寒くなる。ひっそりと水中に潜んでいる様子といい名前といいゾッとするところがある。
 そうして、そんな恐ろし気な茎から咲くその花の可憐さが、一層落ち着かない気分にさせるのだ。
「明日、帰ろうと思う」
 僕は小声で告げた。
「長いことお世話になったね、夏宝ちゃん」

     8

 次の日。
 〈夕月荘〉を辞して本当は朝一番のフェリーに乗るつもりだったのだが、実際には僕はそうしなかった。
 急に思い立って〈梨の木地蔵〉に寄って行くことにした。
 思えば、死ぬ前日、豊明が連れて行ってやると約束してくれた場所。
 ──── あそこも変わってるぞ。吃驚すること請け合いだ……
 それで、ぜひとも見てみたくなった。

 順徳天皇を奉祀した御陵からさらに奥深く、峠の道の端にその小さな地蔵堂はあった。
 豊明の言ってたのはこれだったのか……!
 僕は、もちろん、吃驚した。
 そこは何百、何千と言う石の地蔵で埋め尽くされていた──
 それがまた、尋常な数ではないのだ。お堂に入りきらずびっしりと境内中に溢れかえっている。苔むした地面は言うに及ばず、その下の地中にも埋まっている有様だ。
 大きさは、大きい物で1メートル。小さいのは10センチに満たない物もある。全体に〝持ち運べる大きさ〟だった。
 あまりの光景に圧倒されて佇んでいると、犬の散歩中と思しきお爺さんに声を掛けられた。
「驚かれたでしょう? 凄い数ですからなあ」
 駆けて行きたがる柴犬のリードを引っ張りながらニコニコして言うには、
「こんなにあるもので、記念にこっそり持ち帰る観光客もいるんですよ。いやはや」
 別に僕に釘を刺したわけではないだろうけど。
「あ! でも、だとしたら」
 頭に浮かんだ疑問を僕は率直に口に出して訊いてみた。
「数が減っちゃいますよね?」
 だが、どう見ても〝減っている〟ようには見えなかった。
 意を得たり、とばかり老人は微笑した。
「ご覧の通り、それがけっして減りはしません。石仏を持ち帰った人は必ず返しにいらっしやいますからな。と言うのも、どういうわけか持ち帰った人は身に災いが降りかかるそうで。謝罪を込めて新たに石仏を加えて行く人もいる。それからまた、何か特別に願いのある人は一つ持って帰ると願いが叶うとも言いますな。その場合もお礼に新しいのをもう一つ置くんです。──こういうわけで石仏は増えるばかりで減ることはないんですよ」
 これも? 忌み花と同じ類の、伝承の力だろうか?

 一人きりになると僕は地面に膝を折ってじっくりとこの情景を眺めた。
 重なり合ったまま、もの言わぬ石の地蔵達。お互いの隙間から夏草が伸びている様は壮絶でさえある。かつて友人は幾万と降る雪に対して同様の言葉を使ったが。
 頭上高く枝を伸ばした木々が、風が通り過ぎるたびに揺れて不思議な模様を地蔵達の上に描いていた。まるで沁みのようだ──
「────」
 そして、突然、僕は全てを理解した。
 ひょっとして……そうだったのか……?
 立ち上がることができず、僕は長い間石の地蔵達の中にしゃがみ込んでいた。

 午後の汽船で僕は東京へ帰った。

     9

 夏宝ちゃんから葉書が届いたのは半年後の、一二月も半ばを過ぎた頃だった。
 《  ようやく決心がついて納骨を済ませました。良かったら、ぜひ、兄の墓を訪ねて欲しいのですが……  》
 もちろん、僕は行くことにした。
 しまから戻ってからの僕は最低限生活を維持するためにバイトをする以外何もしていなかった。すぐ〈夕月荘〉に電話を入れて翌日にはそっちへ着く旨、伝えた。

 冬の島は様相が一変していた。
 海は錆色でどんよりとくすんだ空からは大きな雪が灰のようにゆっくりゆっくりと舞い落ちて来る。
 予め船の時間を連絡してあったので夏宝ちゃんは埠頭に兄の遺品の4輪駆動車で迎えに来てくれていた。夏休みに免許を取ったのだそうだ。
 僕達は〈夕月荘〉に戻る前に直接、豊明の眠る寺へ向かった。
 山の中のその小さい寺の境内からも海が見えた。
「ずっと計画を練ってたの」
 新しい黒御影石の墓の前で夏宝ちゃんはクスクス笑った。その悪戯っぽい目は兄とそっくりだった。
「納骨は冬まで待とうって。だってね、そうすれば宇さんに冬の島を見せられるでしょ」
 寺から帰る道々、夏宝ちゃんは、僕が東京に戻ってすぐ我山信彦が警察に出頭したことを教えてくれた。
 その話は僕には初耳だった。
 信彦は豊明が死んだ例の夜、二人で会っていたことは認めたものの殺害については否定した。六時頃に海岸沿いの遊歩道で落ち合って話をした後、八時前には別れた。朝になって豊明の死を知り、自分が疑われると思いつい逃げてしまった、と彼は言ったらしい。
 僕は助手席で押し黙ったままハンドルを握る夏宝ちゃんの指を見ていた。彼女は防寒用に砂色の革の手袋をはめていたので夏の水中の河骨のように白い、あの指を見ることはできなかった。も
 結局、豊明と争ったり、突き落としたりと言う明確な証拠が見つからなかったため信彦は長く留置されることなく放免されたそうだ。
「ゆっくりしていけるんでしよ、宇さん?」と、夏宝ちやん。
「うん。もし、そっちでお邪魔でなかったら」と、僕。
「邪魔なもんですか。冬は観光客はさっぱりなの!」

     10

 養父母の容態は夏に辞した時と似たり寄ったりだった。
 挨拶を済ますと夏宝ちゃんは懐かしいあの離れに僕を案内してくれた。
 室内は豊明がいた頃と少しも変わっていない。荷物を置き、障子を開けて中庭を見た。
 背の低い火棘の影に小さな──五〇センチくらいの──お地蔵様が置かれていた。夏にはなかったものだ。その石の地蔵の丸い頭と肩にも薄らと雪が降り積もっていた。
 周囲を取り巻く黒潮のせいで島は雪が少ない、と島民は口を揃えて言う。が、それはあくまで豪雪地帯と比べての話。雪と縁のない地域の人間にとって冬の島は雪にすっぽりと覆われているように思える。
 僕は何か履物がないか探したが見当たらないので、靴下を脱いで裸足で中庭に降りた。雪の冷たさに足の裏がピリピリした。でも構わず、そのまま地蔵の方へ歩いて行って雪を払ってやった。
 舞い落ちてくる風情からは想像も出来ないくらい裏日本の雪はじっとりと重く、石の地蔵の頭や肩は濡れてどす黒い染みになっていた。
「そんなことしても無駄よ」
 振り向くと、いつの間にか夏宝ちゃんが廊下からこっちを見ていた。
 夏宝ちゃんは笑って繰り返した。
「無駄よ。すぐにまた新しい雪が落ちて来て覆い隠してしまうから……」
 夏宝ちゃんはお茶の盆を置くと僕の裸足の足に目をやったがそれ以上何も言わず部屋から出て行った。

 彼女が再びやって来たのは真夜中を過ぎてからだった。
 僕は眠れないまま布団の中で天井を見ていた。実は、陽が落ちてから周囲でずっと妙な音がして気になって仕方なかった。
 布団に入って気づいたのだが、それは雪が降る音だったのだ。
 雪に音がないというのは大嘘だな? 何かが裂けるような──例えば、細い骨が裂けるような?──亀裂音がする。ほら、ピシッ、ピシッ……
 その音にじっと耳を澄ませていると雪とは別の音がした。襖を開ける音──
「あなたは気づいてると思ってた」
 入って来るなり夏宝ちゃんは言った。
「うん」
「ねえ、いつ? いつからわかったの?」
「葬儀の次の日、東京に戻る途中。〈梨の木地蔵〉へ寄って、それで……そうかな、と」
 僕は布団から起き上がって少女と向かい合った。
 妙に懐かしい気がしたのは彼女が浴衣を着ていて、それが夏、盆踊り会場で見たのと同じ柄だったせいだ。
 この時期そんな薄物ではひどく寒いだろう。実際、夏宝ちゃんは震えていた。
「でも、それ以前に妙な気はしてたんだ。だって、ほら、豊明を見つけたのは僕だろ。直接死体を見たから、正直、事故にしては違和感があった。アレを使ったんだろ?」
 障子越しに僕は庭の地蔵を指差した。
 それで夏宝ちゃんには通じると思ったし、現に通じた。
「そうよ」
 こっくりと夏宝ちゃんは頷いた。
 夏宝ちゃんは地蔵を使って豊明を殴り殺したのだ。
 その後で、遊歩道から崖下へ転げ落とした。殴られた傷は斜面の岩が付けた傷と一緒くたになった。
 その上、盆踊りの踊り手に借り出されていたあの夜、夏宝ちゃんは兄を撲殺した凶器をすぐには隠す必要がなかった。
 彼女は文字通り、夜通し凶器を身につけていたが、誰もそれを不思議には思わなかったのだ。何故なら──
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 それがこの地域の盆踊りの伝統的なスタイルだったから。
 
 本間兄妹の育った島の南部から国仲(くになか)と呼ばれる中央部の一部地域には、石のお地蔵様を背負って一晩中踊り通す特異な風習が今も残っている。何でも、時宗は一遍上人の〈踊り念仏〉に由来するとか。
 あの夜、石の地蔵を背負った少女の紅潮した頬を僕は思い出した。篝火の炎と影の中、細い指がヒラヒラと、寄せては返し、やがて砕ける波を模していたっけ。
 今宵、僕の前に座っている夏宝ちゃんは冷気の中、自分の熱の火照りでか、やっぱり頬がバラ色だ。
「何故?」
 レッド・デッド・ネェテル……不吉な踊子草色の爪を噛んで夏宝ちゃんが訊いてきた。
「何故、警察に言わなかったの?」
 それについて、僕自身説明するのが難しい。
「同情した? それとも、友人として少しでも兄さんの名誉を守りたかった?」
「多分、両方」
 妹が兄を殺した理由も僕はわかっていた。夏宝ちゃんが真犯人だと気づいた段階で凡そ察しがついたのだ。
「私達、デキてたのよ」
 夏宝ちゃんはそういう風に言った。
「ずっと長いこと。ほら、私達二人ポッチだったでしょ? 本当の父さんも母さんもいないし。寂しかったかな。それで……気づいたらいつも二人で寝てた。でも、私は嫌じゃなかった。誰よりも兄さんが好きだったから」
 ほうっと小さな息をついてから、
「でも、兄さんはそうじゃなかった。誰でも良かったみたい。近くにいる女なら誰でも。自分のこと好いてくれる優しい女なら誰でも。それが、妹でも友人の妹でも」
 夏宝ちゃんは目を瞬いた。
「兄さんは我山結衣ちゃんと結婚することに決めたの。平気な顔して私に『結衣ちゃんと結婚するから』って言ったわ。その理由が笑える。結衣ちゃんが妊娠したからだって。それで、そのことを信彦さんに責められて、あっさり結婚を承諾したって。そんなくだらない理由で兄さんはずっと一緒にいた私を捨てて結衣ちゃんと一緒になるんだって……!」
 数日前から我山信彦と兄の深刻な様子に気づいていた夏宝ちゃんは、問題の夜、二人の話し合いの場へこっそりつけて行き、信彦が去った後、兄と言い争いになった。
「誤解しないで」
 早口に夏宝ちゃんは付け足した。
「兄さんを独占したくて殺したわけじゃない。だったら、すぐ後を追って私も死んだわよ。だから、これは復讐なんだわ」
「もう、いいよ」
 僕は遮った。そういうことはあんまり聞きたくなかった。でも、夏宝ちゃんはやめなかった。
「つくづく兄さんの本性がわかったと思った。あいつ、自分以外の人間を心から愛するような人じゃないわ。違う?」
「僕にはわからないよ」
「ひどい男だわ。あんな優しい顔して。兄さんが好きだったのは、結局、野の花と自分自身だけなんだ」
「なあ、僕にはわからないよ」
「庇ってるの? それとも──男ってみんなそんなもの?」
 とうとう僕は何も言えなくなってしまった。
 こういうのは最も避けたかった話題だ。
「あなただって」
 夏宝は噛んでいた親指から唇を離して僕を見つめた。
「あなたが私のこと黙ってたのはそれをネタに私を強迫ろうって魂胆でしょ? 私の弱みに付け込んで……私をいいようにしようって思ってる?」
 僕は正直に答えた。
「かもな」
 それから、もう少し言ったかな。つまり──
 僕は一生黙っててやるよ。口を噤んでる。
 ここにいっしよに住んで婿養子になって、どっちかが死ぬまで一番傍にいて君を守ってやることもできる。
 実際、僕はこの美しい島も、美しい草花も、そして、美しい君にもほとほとマイっちまってるんだから。

     11

 汚いもの全て覆い隠すように、その夜、雪は後から後から降って来た。
 僕はその暗い空の下、重い雪を被った屋根の下、夏宝を抱いた。
 予め僕は思っていた。庭に地蔵が置かれているのを見た瞬間、夜半に彼女が忍んで来て、秘密を知ってる僕を兄にやったのと同じ凶器を使って殺す可能性もなくはないな、と。
 けれど、すぐ思い直した。
 同じ手は二度と使えまい。第一、布団の中ではもはやどう言い繕っても〝事故死〟とは主張できないはずだ。

「ねえ、明日、〈長谷寺〉へ行ってみる?」
 僕の腕の中で悪びれずに夏宝が言う。
「兄さんもあそこはまだ案内してなかったでしょ? とても素敵なお寺よ。宇さんも気にいると思う。春は梅と桜と牡丹が石段を覆うように咲いて、冬は椿。県の天然記念物になっている高野槇の巨木もあるの」
 巨木の暗い影のことを僕は考えた。気づかぬふりをして彼女は続ける。
「観音堂の近くに祠があって……中には小さな石地蔵がいっぱい安置されてる。願をかける身代わり地蔵よ」
「ふーん。島は、ホント、お地蔵様がいっぱいなんだな?」
 それで思い出したが。〈長谷寺〉の前に、どうしても〈梨の木地蔵〉へ地蔵を返しに行かなきゃならない。
 実は前回、島を離れる際、僕は小さなのを一つ──10センチくらいの奴──こっそりポケットに練り込ませて持ち帰ったのだが、このことは記していたっけ?
 盗んだ人は必ず返しに来る。災難に見舞われるから。或いは、願い事が叶うから。
 果たして僕の場合はどっちなのだろう?

 島内のメノマンネングサまばゆい岩場や、ハマイブキボウソウ揺れる岩礁、はたまた、白いウツギが満開の山腹、或いはハナショウブの沢で?
 僕が倒れているのが発見される日が来ないとも限らないけれど──
 でも、それはそれで構わない、と僕は思った。
 そんな先のことどうでもいいじゃないか。
 そのくらい、一目見た時から僕は夏宝が欲しくってたまらなかったのだ。

 亡くなった本間豊明と僕は大学入学以来の、仲の良い友人だった。趣味が同じだったせいだ……


                                                 《   了   》


☆彡参考文献  「佐渡の花 春・夏・秋・冬」写真 村川博寛  解説 伊藤邦夫
 


 



     


 
 

 



  

離島野草雑記

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野草をこよなく愛する僕と友人。その友人の招きで訪れた離島で僕が遭遇したのは美しい野草と美しい友人の妹・・・

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更新日
登録日
2012-09-19

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