雲外蒼天! ~幕末新撰組異譚~

*この物語は史実を元にした幕末異世界フィクションです。
*一部残酷な描写がございますのでご注意ください。
*登場人物の名前の漢字変換が異なるのは仕様です。
*地名は史実と異なります。
*ファンタジー要素(神道、特殊能力等)を含みますので苦手な方はご遠慮ください。

第壹話   天地開闢

  意識が、朦朧とする。
  雄叫びと刃の交わる音が絶えず聞こえてくるが、視界は猛火と黒い煙で遮られており、何処で誰が戦っているのかは分からない。そもそもなぜこの様な戦禍にいるのかも”彼”には分からなかった。だが、右手に握る刀が血塗れであることに気付いて、自分が今まで戦っていた事は理解出来た。夢の中にいるような浮遊感の中、やけに現実味のある悔しさに胸を締め付けられる。同時に、既に限界を迎えている膝が折れて、身体は絶望感と共に崩れ落ちた。それでも前に進まなければならない気がして、畳を這う。だが、ただでさえ重い瞼が徐々に重量を増し、飛び立つ鳥が描かれた襖にもう少しで手が届くという所で”彼”の視界は暗転した。自身の命の灯火が闇の中で揺らぎ、消えようとしているのが分かる。
  足掻く事に疲れた、もうこのまま眠ってしまおう。”彼”は自ら闇へと溶ける決意をした。しかし、喧騒が遠のく中で聞こえた声が”彼”の命の灯火を蘇らせた。刀を握ろうと右手がわずかに蠢く。
「……じ……、そうじ……」

  誰かが、呼んでいる。



     第壹話   天地開闢(てんちかいびゃく)



  「想司! いい加減起きねぇか!」

  聞き慣れた怒号が耳を劈くと同時に脳天へ衝撃が走り、沖田想司は夢の中から現実へ一気に引き戻された。突然の事で一瞬現実なのかまだ夢の中なのか判断が出来ないでいたが、すぐに誰かが前に立っている事に気付いて、痛みが残る脳天をさすりながら見上げる。よく知る男が、怒りの中に呆れを含んだ様な顔で腕を組み、沖田を見下ろしていた。

「あれ、新八さん?」

   よく知る男  長倉新八は、呑気な沖田に松葉色の頭を抱えて溜め息を零した。

「寝呆けてる様だなぁ、想司……ゆっくり眠れたか?」

  彼は懐を探って懐中時計を取り出し、沖田の眼前に突き付ける。沖田は近過ぎる懐中時計に焦点を合わせようと頭をやや引いて目を細めた。これが指し示す時刻を見れば嫌でも目が覚めるだろうと長倉は思ったが、沖田の反応はその意図に反するものだった。

「十三刻半、ですね」

  二十四分割された円板の上で長針と短針は確かに彼の言う通り十三を示している。だが、長倉は答えの当たり外れなどどうでもいい。微塵も慌てる事無く落ち着いた調子で言われたのが癇に障り、長倉の怒りは急上昇する。それに比例してやや太めの眉が釣り上がり、眉間のしわが更に深まった。

「冷静に答えてる場合か!  午後の巡察の集合時間とっくに過ぎてんだよ!」

  長倉は犬歯を剥き出しにして怒鳴ると、耳の下で一本に結われている緋色の髪を鷲掴みにして引っ張り、起立を促した。

「痛い、痛いです!」
「お前はその呑気な性格をどうにかしろ!」

  普段の長倉は、決して短気な男ではない。寧ろ冷静で文武両道、信頼も厚い。その彼が沖田に対してやや手荒なのは、元々の世話焼きな性格に加え、年下の沖田を弟の様に思う気持ちがあるからだ。だが一番の理由は、自身と沖田の立場が"上"である為、それを沖田に自覚させなければと日頃から思っているからかも知れない。

「全く、新撰組一番隊組長がそんなんじゃあ困るぜ?」

  新撰組。境都(きょうと)の不逞浪士や反幕勢力、倒幕志士の捜索及び捕縛を主な任務として創設された組織である。天帝がおわすこの境都、そして天都(あまつ)幕府総大将 徳河家望が座す北の大都は共に政治の重要地である為、徳河幕府を打ち倒さんとする志士が横行している。中には過激派も多く、天誅と称した幕臣の暗殺や斬り合いがあちらこちらで起き、多くの血が流れている。更に幕府相談役である三賢者の直属組織  帝賢(ていけん)師団を攻撃した反幕の代表格  宝凛(ほうりん)藩は、それが一因となり昨年の夏に失脚し、
境都を追放された。以降、彼等は秘密裏に境都に潜伏して情勢を探るようになり、それが更なる治安の悪化を招いた為、新撰組を含む境都の治安機関はてんてこ舞いだ。
  そんな動乱の時代を迎えている天都国(あまつくに)で、境都の守護に携わる事がどれだけ大義であるかを分かっているのかいないのか。前進である巳生(みぶ)浪士組時代も含めて一年が過ぎたが、沖田は寝坊による遅刻、稽古の怠慢が目を見張るほど多い。ここ半年間、遅刻する前に叩き起こしたり、稽古の時は常に竹刀を片手に見張ったおかげで改善されてはきたが、今日は久しぶりの大遅刻だ。
  十三刻に四條大橋に集合して巡察する予定だったが、長倉は嫌な予感がして沖田が行きそうな所を見ながら集合場所へ行った。案の定、沖田はおらず、一番隊の隊士から「そう言えば、眠たそうに巳生寺へ入って行くのを見ました」と聞いた瞬間に鬼と見まごう形相で駆け出し、巳生まで戻って来たと言うわけだ。沖田は新撰組屯所の斜向かいにある巳生寺の、日陰になっている木の幹に背中を預けて気持ち良さそうに寝ていた。

「だって、身体がだるいんですもん~」
「じいさんか、お前は!」

  沖田は「何でだろう~」と呟きながら首と左肩を回した。
  若いとはいえ、一つの組の長を勤め、年上下関係なく部下を率いる立場だ。いくら剣の腕が立っても、普段が人懐こく温厚であっても、組織にいる自覚と最低限の常識は守らなければならない。そうしなければいつか部下が離れて行くかも知れないし、それが離反や裏切りの原因となるかも知れない。絶対の信頼を得なければーー。
  沖田が赤胴色の袴に付いた土を払い落とし、見なりを整え、刀を腰に差す僅かな時間で長倉はそんな事を考え、軽く説教しようとしたが、ふと我に帰り全てを飲み込んで自嘲した。
    剣に一途な人間の集まり、それが新撰組と言えば聞こえは良いが、逆を言えば荒くれ者の集まりだ。腕が立ち、健康であれば誰でも入れる為、間者が入り込み粛清した事もあった。また、まだ新撰組という名前を拝命する以前には、局内で派閥争いもあった。そのせいもあり、裏切りのない絶対の信頼を、と考えたが、これでは自分の方が仲間を信用していないと言っている様なものだ。部下が信頼してくれていると信用していないのだから。これでは、”上”と同じだ。

「新八さん、どうかしました?」

  沖田は、突如何かを考え始めた長倉の顔を覗き込んだ。長倉はすぐ笑って軽く謝ると「ほら走るぞ馬鹿!!」と沖田の頭を軽く叩いてから駆け出した。

「え、ちょ、酷いですよ! 待って新八さん!」

  沖田は頭を摩りながら、兄貴分の背中を追いかけた。



   *   *   *



  賑わう川原町に着くと、二人は一先ず隊士と合流するべく動いた。長倉は巳生へ戻る前、隊士達に先に巡察するよう指示しており、予め決めていた巡察の順序通りであれば、もうすぐこの呉服屋の前を通るはずだ。

「新八さん、この着物どうですか~?」

  買う気など微塵も無いにも関わらず、先ほどから沖田はずっと着物を見ている。相変わらずの呑気な声に、長倉は頬を引き攣らせた。番頭に買う気だと思われるのが嫌なので軽く返事をするだけに留めているが、番頭が沖田に買わせようと巧みな話術で迫っているのが視界の隅に入り、まさかこれから巡察という時に着物を買ったりしないか心配になる。しかし、そんな長倉の心配とは裏腹に、沖田は「あ、買う気は無いんです!」と笑顔で言い放ったので、番頭は笑顔のまましばし固まった。買わない客に用はないのだろう、番頭は「そうどすか」と不自然なくらいの笑みで会釈して沖田から離れて行った。買う買わない以前にもうこの呉服屋には来れないなと長倉は苦笑した。
  沖田は正直な人間だ。好き嫌いははっきりしているし、思った事はすぐ口にする。よく言えば嘘が付けない、悪く言えば考えなし。おまけに神経が図太い。

(まぁ、それがこいつの良い所か)

  嘘で塗り固めた計算高い性格よりは全然いい。それに、この嘘のない性格が慕われる理由なのだろうと、長倉は思った。

「長倉組長!」

  突如呼ばれて振り返ると、人の間を縫って駆け寄ってくる二十代の男が見えた。長倉が組長を勤める二番組の隊士だ。

「悪かったな、遅くなって」
「いいえ。それより、物盗りです。今、木内さん達が追いかけてます」
「案内してくれ。おい、想司!  いつまで見てんだ行くぞ!」

  沖田は買う気の無い着物を未だに眺めていた。手にしているのは先ほど長倉に見せた茜色の着物で、心なしかそれを見る視線に熱が篭っている。そしてその視線は長倉に向いて。

「これ、やっぱり買ーー」
「ーーわねぇよ馬鹿、行くぞ!!」

  強請られる事を悟って怒鳴り声で出鼻を挫くと、首根っこを引っ張って走り出した。



   *   *   *



  限界が近い身体を無理矢理前に出し、ひぃひぃと鳴る喉で必死に呼吸をしながら細い道を突き進む。追っ手を撒く為に仲間と別れたのはいいが、一人という不安が恐怖を煽る。時折、立て掛けてある竹棒の束を倒したり、積んである木箱を崩したりと足止めを図るが、追っ手は勇猛果敢に迫ってくる。だが、捕まる訳にはいかない、これは大義の為の資金調達だ。この世は何事も金がかかるのだ、この程度で将来が救われるのなら、あの番頭にとっては安いものだろう。そうだ、そうなのだ、何も間違ってはいない!

「止まれ!」

  突如身に落ちた影と降ってきた男の声に驚き、盗人は足を止めて天を仰いだ。刀を握った男が太陽を背負って屋根を蹴るのが見え、盗人は「ひっ!」と短い悲鳴を上げ慌てて駆け出す。

「行ったぞ想司!」

  男もとい長倉は盗人の真後ろに着地し、叫ぶ。その声に焦りは無い。全ては長倉の算段通りなのだから。物陰に隠れていた沖田は、予定通り盗人の前に立ちはだかった。

「なっ、何だてめぇ等……!」
「新撰組でーす!  って、知ってます?」

  状況に不釣り合いな愛想の良い笑顔で問いながら、滑らかな動きで刀を抜く。

「新撰組……!」

  盗人はその名に戦慄した。近頃よく聞く名で、彼等に同じ志を持つ同胞が何人も殺されている。憎しみが込み上げたが、この状況では分が悪いと自身に言い聞かせ、怒りを奥歯で噛み殺した。
  盗人が刀を抜いた瞬間、沖田の目の色が一瞬にして変わったのを長倉は見ていた。口元は笑っているものの、目はまるで獲物を見る肉食獣ような……普段のへらへらとした彼からは想像もつかない目をしている。
  人懐こく温厚な男。それが沖田想司だと言って間違いは無いが、それは普段の話であって刀を握る彼は別だ。まだ大都の田舎にいた時、道場で対峙した時も今の様な目をしていた。いや、あの頃がまだ可愛く思える。剣の腕は新撰組局内でも屈指の実力、戦いの中ではその殺気に味方までもが戦慄し、彼を恐れる。それが刀を握った沖田想司という男だ。長倉は、久しぶりに見た彼の殺意に息を呑むと同時に、笑った。味方で良かったという安堵感なのか、恐怖を通り越しただけなのか。恐らく両方だろう。

  先に斬り込んだのは、沖田だった。相手を惑わすように切っ先を漂わせ、肩口を狙って突きを見舞う。ぎりぎり避けた盗人は転びそうになりながらも沖田の横をすり抜け、立て掛けてある木材を倒して角を曲がった。

「おいおい、何逃がしてんだよ!」
「ごめんなさーい!」

  笑いながらでは、とても謝っているようには思えないが、逃がしたものは仕方が無い。長倉は溜息を吐きながらも再び駆け出す。
  狭い道を選んで逃げる盗人を追って何度目かの角を曲がった時、長倉は憫笑(びんしょう)した。

「あっちは行き止まりだ。曲がったらすぐ取り押さえるぞ」
「了解です」

  川原町は新撰組の管轄の一つだ。一年以上も巡察に来ているのだから、地理に詳しくならない訳が無い。盗人が次の角を曲がれば、その先に待ち受けているのはそう簡単には越えられない木板の壁だ。早くも順調に捕まえられそうな状況に安堵した長倉だったが次の瞬間、悲鳴が聞こえ、二人に緊張が走る。思わず足を止め、辺りの様子を伺う。方角からして盗人の可能性が高いが、切腹とは思えないし悲鳴に恐怖が色濃く含まれていた。長倉と沖田は顔を見合わせて、慎重に進む。刀を握りしめ、家屋に背中を預け、ゆっくり、ゆっくり、曲がり角から顔を覗かせる。瞬間、長倉は目を疑った。先程まで追いかけていた盗人が、血をばら撒いて仰向けに倒れているのだ。その他に人影は見当たらない。警戒しながらも歩み寄り脈の確認をしようとしたが、身体が腹で両断されている事に気付き、伸ばしかけた手を合わせた。おびただしい量の鮮血が、じわじわと領土を広げて行く。

「いったい、誰が……」

  ここは行き止まりだ。長倉の記憶通り、板の壁が道を塞いでいる。両脇には家屋の壁、そしてここに至る道は長倉と沖田が駆けて来た道一本しかない。屋根に登るにも、足場になるようなものはない。そして、動いている身体を横に真っ二つにするほどの剣撃と技量。只者ではないと、二人は息を呑んだ。

  不意に沖田は気配を感じた。直感的に人では無い気がして、恐る恐る振り返る。来た道の真ん中に、何かがいる。

「……狐?」

  だが、その狐と思しき生き物は、全身の毛が真っ黒だった。子供なのだろうか、全身は犬よりも一回り小さい。それよりも気になったのは、本当にそこに存在しているのかを疑わせる雰囲気だ。まるで蜃気楼の様に周りの景色と一緒に揺らいでいる。

「新八さん、狐……黒い狐がいますよ」

  指を刺しながら、長倉に振り返る。

「は?  そんなの、どこにいるんだよ?」
「え?」

  再び視線を戻すと、狐は忽然と姿を消していた。

  「あれ?  おかしいな……」

  曲がり角から顔を覗かせても見当たらない。

「黒猫かなんかと見間違えたんじゃねぇのか?」
「そうかなぁ」

  腑に落ちないが、言われてみれば猫のような気もしてきて、自分の記憶に自信が持てない。それに、黒い狐を見たのが初めてでない気がして、でも心当たりは何も無く、沖田は胸中に立ち込めた暗雲を晴らせないまま、狐がいた場所を見つめた。



  小路への入り口に下げられた立ち入りを規制する紐と看板を見た通行人から話が広がったのだろう、いつも静かな小路は四半刻も経たないうちに野次馬で騒がしくなった。規制線を見張る若い隊士は、野次馬の質問攻めに泣きそうな顔をしている。

「ちょ、退いてよ、もうっ!」

  娘は、野次馬の群れに肩を食い込ませて無理矢理突き進み、やっとの思いで規制看板の前に出ると盛大なため息を吐いた。高く結った二つの毛束を揺らしながら顔を上げると、生まれつき癖の付いた髪が首をくすぐったので、それを弾いてから規制の紐に手を触れた。瞬間、隊士は顔を顰めて「あ!」と叫んだ。

「立ち入り禁止です!」
「はぁ?」

  止められると思っていなかった少女は、隊士を睨み上げた。見覚えの無い隊士であった為、少女は左手に持つ二尺はある薬箱を見せつける様に持ち上げて。

「境都守護管理局医術部死体検査処理班所属の篠村さき。この顔、覚えておきなさい」

  微笑んで右目を瞬かせると隊士は頬を赤くして頷き、規制紐を超える少女ーー篠村さきを見送った。

「お疲れ様でーす」

  現場へ続く道に立つ隊士達に上機嫌な笑顔を向けて会釈すると、隊士達は嬉しそうに挨拶を返した。町娘とは違い、色取り取りの華やかな着物を身に纏っており、髪や手首には装飾品が輝いている。薄く化粧している彼女は、とても十代には見えないほど大人びており、大きな目とどこか艶やかな唇が浮かべる笑みに、頬を染める隊士は少なく無い。
  しかしそんな彼女は、知れば誰もが驚愕する一面を持っていた。

「嘘、真っ二つ!?」

  そこいらの若い町娘なら悲鳴の一つでも上げるであろう惨い殺人現場で、篠村は歓喜の声を上げた。篠村の到着を死体と共に待っていた沖田と長倉は、至極嬉しそうな篠村を見て苦笑いする。いつもの事だが、彼女のこの一面には毎回驚かされる。

「さっちゃんのお眼鏡に適う死体だったようで、何よりだ。さっさと持って帰ってくれ」

  乾いた笑いと遠い目で長倉は言った。

「すっごーい。こんな綺麗な真っ二つ、初めて見たわぁ」
「真っ二つに綺麗も汚いもあるの?」

  死体を挟んだ向かい側に小ぢんまりとしゃがみ込む沖田が問う。

「あるわよ! 刀が途中で止まったり、力の加え方が均等じゃ無かったりすれば、切断面はぐちゃぐちゃになるけど、これは一発で、しかも素早く切断してるわ」
「へぇ……」

  そういうものなのか、と沖田は頷いた。

  新撰組の上層機関である境都守護管理局の医学部内死体検査処理班。そこに所属する篠村さきは若き医師であり、死体をこよなく愛する娘である。死体が発生した際に死体の検査や処理をするのが主な仕事で、殺人であった場合に死体から手掛かりを探り事件解決へと導いたり、身元不明の遺体の出身地を探し当てたりと、彼女の優れた観察眼は新撰組だけでなく見廻組や奉行所など境都の治安機関で重宝されている。だが死体好きである為、一部では変人と言われている。少なくとも新撰組隊士は彼女に友好的で、彼女が来る度に隊士達が浮き足立つのが目に見えて良く分かる。

「さっちゃん。犯人の特徴は?」

  長倉も沖田も、篠村の観察眼を信頼している。なぜなら、彼女の推測が外れた事は一度も無いからだ。

「切断面の角度から、身長は七尺近く。血の飛び散り方から、武器は太刀じゃない……もっと幅の広い、大きな剣で回転の勢いをつけて切った」

  目を閉じ、当時の光景を思い浮かべながら告げる。目を開けると、指先に付いた遺体の血を桃色の手拭いで拭った。

「どうやってここから逃げたかまでは分からないけど、死体を見る限り分かるのは、とりあえずそれだけよ」
「流石さきちゃん!  七尺もあって大きな剣を持ってるなら、すぐ見つかりそうですね新八さん!」
「ん?  おお、そうだなー」

  長倉はにやにやと意地の悪そうな笑みで篠村を見た。

「な、何よ」
「いやぁ、何でも……想司、さっちゃん送ってやれよ」
「は、はぁ!?」

  篠村は長倉の言葉に声を荒げた。その反応がまた長倉には面白く、堪えきれなかった笑い声が少し零れる。笑う意味が分からず沖田は首を傾げたが、送るくらい構わないので「いいですよー」と快諾する。しかし。

「結構です!!」

  篠村は顔を真っ赤にすると勢い良く立ち上がり、薬箱を引っ付かんだ。遅れてやってきた死体回収担当の男に指示をすると、振り向かないまま「失礼します!」と叫ぶ様に言って、そそくさと去って行った。

「どうしたんですかねぇ、さきちゃん」
「お前、いい加減悟れよ」
「え?」

  長倉は、篠村が沖田に好意を抱いている事に春先から気付いていた。沖田に「流石」と言われた瞬間に篠村の頬に赤みが差したので、ついついからかってしまったのだ。沖田も沖田で色恋沙汰には疎いため、悉く乙女心をいなすのが見てて面白い。

「何でもねぇよ。さぁて、屯所に戻って報告すっか」

  長倉は、篠村が来る前に盗人の懐から見つけた数枚の通行手形と書状に視線を落とした。通行手形から死んだ盗人が宝凛藩士という事が分かった。そして書状の方には、明日境都に潜伏中の宝凛藩士数名が集まるという重大な情報が記されていた。盗難品の代わりにまさかこんな物が出て来るとは思ってもみなかった為、緊張から自然と手に力が篭ってしまい、書類は小さな悲鳴を上げた。



   *   *   *



  日頃から幹部が集う際に使う屯所の一室で、沖田と長倉は新撰組局長  近藤勇実、副長  土方歳造、総長  山南啓介に事の次第を伝え、通行手形と書状を広げた。

「集会は明日か」

  近藤は厳つい顔を強張らせた。
  宝凛藩が失脚した真夏の政変以降、境都に宝凛藩士が潜伏している事は分かっているが、どれだけの人数がどこに潜伏しているかまでは掴めておらず、毎日虱潰しに探しているのが現状だ。明日の集会は定期的な報告会の様で、恐らく重役とまではいかずとも上司に当たる者も参加することだろう。参加者を一網打尽に出来れば、尋問で芋蔓式に間者を捕縛できるかも知れない。この場にいる全員の考えは一致していた。

「今から監察に張り込ませる。明日には現場付近で待機、動きを見て踏み込む」

  土方は静かに言って、煙管を銜えた。

「長倉くんも沖田くんも、明日は非番ですね。斎藤くんなら確実だと思いますが?」

  穏やかな笑顔で言った山南は、包帯が巻かれた左手を無意識に摩った。

「いいや、斎藤は丁度密会場所近辺を巡察予定だ。警備も兼ねて密会場所を中心に巡察させる」

  土方の意見に、山南は笑みを崩さないまま「分かりました」と言い、目を伏せた。

「長倉、代わりに明後日を非番にする。明日は谷、弦さんと組んで密会に踏み込んでくれ。俺も同伴する」
「了解」

  久々の大捕物に長倉は血が滾るのを感じて笑みを零した。

「しかし、宝凛の間者が窃盗とは……」
「真昼間から窃盗で捕まったなんて話、初めてですね」

  窃盗が行われたのは人通りが多い商店街の油問屋で、先ほど死亡した男が店主を刀で脅して金を出させ、奪い取って逃げたーーと隊士から報告を受けている。目撃者は多く、証言によれば犯人は四、五人、金の入った包みを持って逃げたのは先ほどの男とは別の男だ。遺体を発見後、応援を呼んで引き続き捜索はしたのだが未だ見つかっていない。
  それにしても、目立たない様に滞在しながら情報を集めるのが間者というものだろうに、彼等は一番目立つ状況下で犯行をおこなったというのが引っかかる。

「よっぽど金に困って、魔が差したのだろうか」

  近藤は同情心を露わに呟いた。

「だが、間者なら定期的に藩から生活資金が貰えてるはずっすよね?  それでも金に困るって、どんだけ使ってんだって話だ」

  良からぬ企みに関係してなければいいが。長倉はそう危惧したが、沖田はのほほんと言う。

「女の人に使ってるんじゃないですか?  土方さんみたいに」

  瞬間、汗ばむ季節であるというのに、長倉は季節外れの肌寒さを感じた。

「あぁ?  俺は使ってねぇ。向こうが勝手に使ってたんだ」
「うわ、最低ですね」
「最低だぞ、歳」
「土方くん、最低ですよ」

  沖田は軽蔑の眼差しで即答し、近藤は諭す様に言い、山南は笑顔を絶やさず追い打ちをかける様に一字一句はっきりと述べた。遠慮のなさに長倉は苦笑う。

「昔の話だ!」

  全員に責められた土方は怒鳴り散らすが、昔の自分が”最低”だったこと自体は否定しなかった。若気の至りと割り切っているのか、昔の良き思い出としているのかは定かで無い。

「兎に角、捕まえりゃあ分かる話だ。解散、解散!」

  すっかり機嫌を損ねた土方は藍鉄色の頭を掻くと、足早に退室した。機嫌が足音に現れており、沖田はやや勝ち誇った様な笑みを浮かべた。

  集っていた五人は、大都の田舎にいた頃からの付き合いで、その中でも近藤、土方、沖田はより長い時間を共にしていた。近藤の父が営む試永館道場に弟子入りしていた沖田は、兄弟子の近藤を実の兄の様に慕い、信頼し、尊敬している。後に加入した土方に対しては、みるみるうちに頭角を現した彼を徐々に好敵手と感じる様になった、と長倉は沖田本人から聞いたことがある。それでも近藤と同じく兄の様に慕っているのが傍からみて良く分かる。そして長倉、山南らは、近藤の豪快かつ人情の厚い人柄に惹かれて試永館道場に集い、共に剣技を磨いたのだ。
  そう。そうだったのだ、昔は。

「長倉くん、疲れているのかな?」

  山南の声に長倉は、はっと我に返る。

「あ……いや」

  心配をかけてしまった申し訳なさから咄嗟に「何でもないっすよ」と笑った。駄目だ。最近、何かある事に考え込んでしまう。

「長倉、今日はもう休め。明日は大捕物だからな!」

  力を蓄えろと言いたいのだろう、近藤は右手を振り上げて力こぶを作って見せた。屈強な身体で何年も剣術稽古を行っているのだ、その力こぶには迫力がある。

「……そうさせて貰うっすわ」

  長倉は立ち上がると、一礼して退室した。



  沖田は山南と共に縁側から退室し、玄関方面へと向かった。そして自室に続く廊下を曲がろうとした山南を呼び止める。

「山南さん。腕、大丈夫ですか?」

  沖田は先ほど山南が左腕を包む包帯を摩る所を見ていた。
  年が明けてすぐ、山南は将軍護衛の為に大阪へ出張した際、呉服店に不逞浪士が討ち入ったと聞いて土方と共に駆け付け、刀が壊れるほどの激闘の末に左手を負傷した。もう五月も終わるというのに、山南は未だに包帯を巻いている。稽古にも巡察にも出ず、ずっと会計や監察の方を手伝っているが、山南の背中が時折悲し気で、見る度に沖田は心配に思う。

「ああ。大丈夫だよ」

  いつも彼は、微笑み、そう言う。他人に心配や迷惑をかけまいとし、何があっても「大丈夫」と答えるだけだ。

「そう、ですか」

  本人がそう言うのだ、しつこく問わずに彼の言葉を信じよう。

「治ったら、一番に手合わせしてくださいね!」

  山南はほんの一瞬、笑みを作っていた口角が脱力するのを感じた。だが、沖田の無邪気な笑顔に釣られて、再び笑みを取り戻す。

「ああ。約束しよう。お手柔らかに頼むよ」

  大きく手を振る沖田に小さく手を振り返して、自分より小さなーーだが自分より活力のある背中を見送る。そして、笑みを消した。
  山南には分かっていた。恐らく、もう刀を握る事はない。先月、篠村の診察を受けた際に「ゆっくり治して行きましょう」と言われたが、彼女の顔に戸惑いと躊躇いが見えた。気を使ってくれたのだと、すぐに分かった。正直に言って欲しかった反面、前向きになれる嘘に感謝している。

(君が羨ましいよ、沖田くん)

  彼の剣技には、天性の才能を感じる。以前は、尊敬するに留まっていたが、最近ではそれを羨むようになってきた。彼はまだ若い、才能がある、まだ成長する、可能性がある。だが自分はどうだ。今はもう、刀と無縁な裏方に回るしかない。稽古をしても傷を悪化させるだけだからと、刀の代わりに筆と算盤を持ち、それで剣技が成長などするわけもなく、ただ年を取るだけだ。そう考えてしまうと、この嫉妬心に我を失いそうになる。そして自分の醜さを痛感し、自分が嫌いになる。
  胸を締め付けるどす黒い感情をどうにか壊したくて、山南は思わず柱を殴った。八つ当たりする自分が、もっと嫌になった。



  続

第貮話 奇々怪々


第貮話 奇々怪々



小さな旅籠屋の二階の角部屋は、ただでさえ日当たりが悪い上に障子窓が全て閉められている為、朝とは思えないほどに薄暗い。そこでは、眉を八の字にした反省の面持ちで俯く四人の男と、逆八の字にした激昂の面持ちで睨み付ける二人の男が輪になっていた。

「何をしておるんじゃ、お前らは!」

厳つい男が怒鳴ると、矛先の四人は更に萎縮した。
上司二人は、境都の視察も兼ねて四人から諜報活動の報告を受けるべく上京、昨日の日暮れにこの旅籠屋に到着した。そして日が昇り、四人が約束の八刻にここへ集った。一人足りない理由を問うて返ってきたのは、予想だにしないものだった。

「盗みを働くなど……なぜその様な事をした」

細身の男は、呆れた調子で問う。

「い、猪又殿が突如、油問屋に入り刀を抜き、番頭を脅したのでございます」

目付きの悪い男が言うと、上司二人は顔を見合わせた。にわかには信じ難い。そう思われても仕方が無いと、目付きの悪い男は思っている。その当時、彼も目の前の状況が信じられなかったのだから。
猪又という男の討幕の意識は過激派に近いものではあったが、自己判断で動く男では無かった。意見があれば上司に申し立て、許可を得てから実行する、冷静で忠実な男だったはずだ。それが突然、武器を持たない商人に刀を向ける事が信じられなかった。

「猪又さん……大義の為の出資であるから誇りに思え、と番頭に言い乙部さんに金を持たせたんです」

やや訛り口調の若い男は言って、隣の乙部を見た。

「どうしたら良いのか分からず、取り敢えず逃げたのですが……追っ手は猪又さんの方へ行ってしまい……」

彼は膝の前にある風呂敷を捲り、包まれている箱の蓋を躊躇いがちに開けて中身を覗かせた。厳つい男と細身の男が、同時に目を背けて溜息を吐く。捕まって間者である事が露見すれば一大事なので逃げ切れて良かったが、奪った金を無事持ち帰ってしまった事もそれはそれで大問題だ。

「その時の猪又さん、いつもと雰囲気が違ったっす。いつもは熱血漢って感じっすけど、あの時は威圧的っつーか……怖かったっす。猪又さんじゃないって思ったっす」
「はっ、憑き物にでも憑かれたとでも言いたいか」

厳つい男が鼻で笑った、瞬間。

「ご名答」

聞こえた声に、全員の背中が凍りついた。その声は、ここにいる誰のものでもないからだ。全員が瞬時に刀を手に取り身構え、部屋の入口を睨み付けた。閉めたはずの襖は空いており、縁に少年が寄りかかっている。全員、話している最中でも周囲を警戒していたにも関わらず、誰一人として彼の侵入に気付かなかったのだ。

「何奴!」

厳つい男が問うと、少年は背中を浮かせた。その際に揺れた漆黒の髪から覗いたのは、真冬の海の様に凍てついた色の瞳だった。厳つい男は、その目色を持つ者達の存在を知っており、その一人がここにいる事に驚愕した。そしてその名を口にしようとした瞬間、上顎と下顎の位置が滑らかにずれた。

「知る必要はないよ」

全員が少年の抜刀に気付いた時には、既に厳つい男の上顎から上は落下を始め、鮮血が天井へ向けて惜しみなく吹き上がっていた。殺される。戦慄が背中を駆け抜け、身体の至る所で闘志が恐怖に包まれて消えて行くのを感じた瞬間、全員の意識は闇へと消えた。



「な、んだ……これは……!」

土方は部屋を見た瞬間、悪寒が全身を駆け抜けるのを感じた。未だかつて、この様な惨劇を見た事はない。胴の数は六つ、全てが四肢と頭を切り離されて、それらは部屋の至る所に散乱している。共に踏み込んだ長倉は直視出来ないでおり、六番隊組長の井上 弦三郎は静かに手を合わせ、七番隊組長の谷 三重郎は座り込んで吐き気を必死に抑えている。
土方らが部屋の異変に気付いたのは、つい先ほどの事だ。外から見張っていたこの一室の障子窓に何かが当たる音がし、目を凝らすと飛沫の様に見えたのだ。まさかと思い踏み込むまでの間はごく短い時間だ、その前後に人の出入りは無かった。

「土方さん。一先ず外に出よう」

井上は手の甲で鼻を塞ぎ、谷の背中を摩りながら言った。血の臭いで鼻どころか気まで可笑しくなりそうだ。土方が同意すると、四人は浅葱色の羽織を翻して一階へと降りた。

主人とその妻、そして息子夫婦の四人で営む小さな旅籠屋だ。人が出入りすればすぐに分かるはずだが、店先で水を巻いていた主人も、土間で食事の支度をしていた妻と嫁も、現場の三部屋隣で客と話していた若旦那も、誰一人として目撃しておらず、不審な音も聞いていないと答えた。悲鳴を上げる暇も、踏み込んで斬りつける事すら叶わないなど、文字通り”瞬殺”……だが、六人の侍を瞬殺など、とても人間業とは思えない。

「一体、誰が」

昨日の殺人と関係があるのであれば、犯人は篠村が推測した大剣を所持する大男だ。間違いなく目立つであろうに、その目撃証言すら未だに得られていない。そもそも、両殺人事件は白昼堂々の惨殺で返り血を浴びていない方がおかしい状況だ。それなのに、何一つ事件に繋がる情報を得られないというのが不思議でならない。事件解決が途方もないものに思えた土方は、込み上げる焦燥感を落ち着かせる様に息を吐いた。



* * *



「っあ~、傷に沁みるぜ!」

十番隊組長 原田左乃助は、頭から井戸水を被った事を後悔した。水は火照った身体を一気に冷やしてはくれたが、先ほどの稽古でついた擦り傷が数カ所痛んだ。少しでも水気を無くそうと、屈強な身体を犬猫の様に震わせて水分を飛ばす。

「冷たっ! 左乃さん、冷たいっすよ!」

原田のすぐ近くで身体を拭いていた八番隊組長 藤道平助は、彼が飛ばした水飛沫の大半を右半身に受けて叱責した。

「あん? 細けぇこと気にすんなよ。お前も被りゃあ一緒だろ平助!」
「は? え! ちょっ!?」

身の危険を察知した藤道は逃亡を試みるが、身を翻してすぐに首根っこを掴まれた。細身の藤道と巨漢の原田の体格さは大人と子供のほどあり、力の差は歴然だ。分かっていても藤道は諦めずに危機から逃れようと暴れるが、原田は井戸水が入った木桶を彼の頭上で容赦無くひっくり返した。

「ぎゃああ! 冷たっ、冷たっ!!」

猫の様に丸く釣り上がった目を白黒させて悶絶する藤道を、原田は腹を抱えて豪快に笑う

「うわぁ……平助、大丈夫?」

遅れて井戸端にやってきた沖田は、ずぶ濡れで震えている藤道を見てぎょっとした。

「ううっ、想司……大丈夫じゃないっすよぉ」
「もぉ、左乃さん。また平助を虐めたんですか?」

両手で顔を覆い、しくしくと泣き真似をする藤道。沖田は冗談混じりに原田を責め、藤道の頭に手拭いを被せて撫でた。

「虐めじゃねぇ、滝行だ!」

原田が豪快に笑って言ったので、沖田も釣られて笑った。
原田と藤道は、長倉や山南と同じく大都の田舎にいた頃からの仲間だ。いつも声が大きく賑やかな原田は槍の使い手であり、武者修行中に近藤と出会い意気投合し、試永館道場の食客となった。藤道は北辰一刀流剣術の道場にいたが、他流試合の際に沖田と親しくなり、試永館道場に度々訪れるようになった。藤道は沖田より二歳下で、数少ない年下であるため、沖田は弟のように接している。

「お前、今日はいつにも増して気合が入ってたじゃねぇか!」
「そうですか?」

原田に背中を叩かれ、その衝撃に耐えられず身体がややよろける。

「言われてみれば、今日は調子が良かった気がします」

一日身体が怠い日もあり、そういう日は稽古に身が入らないと自覚している。だが今日は朝から目覚めが良く、稽古が久しぶりに清々しく感じた。

「お前と手合わせさせられた奴は可哀想だぜ!」

原田は道場へと続く縁側を振り返った。絶好調の沖田と手合わせをした隊士数名が、井戸へ向かう途中でへたり込んでいる。沖田の強さを知っていても、身体に力が入らなくなっても、沖田が交代を促すまで立ち向かった彼らを、近藤は大いに褒めていた。

「あんだけ強ければ、近藤局長と土方副長も倒せるんじゃないっすか?」
「あはは、無理だよ」

二人は強い。長い間共に剣術を学んでいたし、数々の他流試合や出稽古も傍で見てきたので、その強さは誰よりも分かっている。

「でも、今はとりあえず土方さんに勝つのが目標です」

尊敬すると同時にいつか二人を倒したい。ずっと抱いている野心がある。

「鬼の副長にかぁ?」

端正な顔の眉間にいつもしわを携えており、稽古が容赦なければ毎度企てる戦略も鬼畜であり味方にすら容赦しない事から、土方は影でそう言われている。見た目が優男な沖田と並ぶと迫力は更に増す。

「稽古中の想司は同じくらい怖いっすから、案外勝てそうっすよね!」
「え。土方さんくらい怖いの?」

藤道の言葉に、沖田は心底嫌そうに顔を歪めた。

「そりゃあもう」

藤道自身は尊敬の念が強いが、沖田の気迫に怯える人間を見る度、大衆の目から見て刀を握る彼は恐怖なのだと再認識させられる。

「普段ぼけ~っとしてるくせに、竹刀握ったら怒鳴り散らすんだもんなぁ」
「俺だって最初に見た時は吃驚したっすよ」

普段のほほんとしたお気楽そうな沖田と、戦闘体制の沖田とでは人が変わったような差がある。新人隊士の中には、最初の手合わせで舐めてかかり、瞬く間に打ちのめされた者もいる。

「気をつけよ~……」

沖田が苦笑して呟いたので、原田は「なんでだ?」と問うた。

「だって、近寄り難いって思われたくないですもん」

少し照れ臭そうに答えた姿が、稽古の時の彼と重ならず、原田も藤道も小さく吹き出した。

「そうだよなぁ、お前は寂しがりやだもんなぁ。まだまだ子供だな!」

大きな手で沖田の頭を掴み乱暴に撫で回すと、彼は顔を顰めてその手を振り払った。

「こ、子供じゃないです! もう二十一歳です、お酒だって飲めます!」

原田は沖田が子供扱いされる事を嫌うと知っていて、わざと言った。思惑通り沖田がむきになって憤慨しているので面白く、豪快に笑う。

「すーぐ酔い潰れるだろうが!」
「でも子供じゃなーい!」

藤道は、すぐ飽きるだろうと思い再び身体を吹き始めたが、水の音がして振り返ると水の掛け合いへと発展していた。流石にこれは不味いと、藤道は頬を引き攣らせた。

「ちょ、二人とも落ち着くっす!」

止めに入ると、折角拭いた身体が再び濡れたが、それを気にしている場合ではない。至極楽しそうな原田に「謝るっす!」と懇願するが、余程水の掛け合いが楽しいらしく聞き入れてはくれない。この人こそ子供だ、と藤道は思ったが、言うと怒られるので黙っておく。
藤道は、自らを巻き添えを喰らいやすい質だと思っている。今までに何度、仲裁に入ったにも関わらず一緒に怒られたことか。今度こそは勘弁してほしい、そう思って全力で止めに入るが、最悪な状況が起きてしまう。分かっていれば、止めになど入らずさっさとここを離れていたのに。

「あ……」

三人は一斉に動きを止め、一点を見つめた。沖田はやや笑っているが、藤道は青ざめて、原田でさえ空いた口が塞がらない状態だ。
それはほんの一瞬の出来事だった。体格の良い原田を止めることは不可能と判断した藤道は、体格が近い沖田を止める事にし、水が半分ほど入った桶を奪おうと飛びかかった。そして沖田が藤道を振り払おうと桶を降った瞬間、傾いた桶から水が縁側の方へ飛び出し、運悪くその軌道上に人がいたのだ。そして最悪な事に、その人物が。

「騒がしいと思って来てみりゃあ……てめぇら、覚悟は出来てんだろうな?」

鬼の副長、その人であった。
死をも覚悟するくらいの形相であったと、後に藤道は長倉に語った。



* * *



男は、頭を抱え震えていた。何度も頭を掻き毟り、上司と会うからといつにも増して綺麗に結った髪は、今や赤の他人にも見せられないほど崩れている。抜け落ちた髪も、零れ落ちた涙も、暗闇に隠れてとうに見えなくなった。悔しい、憎い、許せない。だんだら模様が入った浅葱色の羽織を思い出し唇を噛むと、鉄の味が渇いた口内に広がった。この何倍もの血を、仲間は流したのだ。あの浅葱色の集団に、あの新撰組に殺されたのだ! 男はまた、頭を掻き毟った。息を荒げ、次第に指の力は皮膚を剥くほどにまでなるが、痛みも、滲む血も、死んだ仲間に比べたら軽いものだと自分を責めた。そう、一番許せないのは自分だ。
男は、上司や仲間との約束の時間の前に他の用事があり、予め遅れて行くと伝えていた。そして集会場所である旅籠屋に着くと、入り口に新撰組の姿があったので、隠れて様子を伺っていたのだ。どうにか会話を盗み聞こうと素知らぬ顔で旅籠屋の前を通った時、誰かが言った。「全員死んだ」と。
自分が約束の時間に行けていれば、殺されなかっただろうか。新撰組の存在に気付いた時点で自分が切り込んでいれば、まだ間に合ったのではないだろうか。手遅れでも、新撰組を一人でも多く斬り殺して自分も死ねば、少しは宝凛藩の為の名誉な死に方だったのではないだろうか。仇も討てずに生き残った自分は、どうしたらいいのだろうか。

「だーから、とめたんすよ」

不意に声が聞こえ、男は身体を強張らせた。声が聞こえた方に意識を集中させ、様子を伺う。

「御免ってば平助~」

言った直後に同じ口から欠伸が零れたので、藤道は微塵も謝罪の念を感じなかった。

「まぁ、副長だったのが運の尽きだな。お前、本当に運が無ぇな!」
「なんで他人事!? 発端はあんたじゃないっすか!」

夜中であることをまるで理解していない大声で原田が言った言葉に驚いて、思わず藤道も配慮を欠いた声量で叫んでしまう。

「煩いですよ、二人とも。夜中なんですから」

沖田は唇に人差し指を当てて注意を促す。誰のせいでこうなった、と藤道は言いたかったが、彼はきっと笑って受け流すだろうと思い、諦めて口を噤んだ。

土方より説教を受けた三人は、罰として夜間の巡察を命じられた。夜勤の隊士と交代して管轄でも一番遠い戲園に配備され、それで終わればまだ良かったのだが、沖田が「水も滴るいい男って言うじゃないですかぁ」と反省の色が全く伺えない余計な発言をし、原田が「なるほど!」と笑ったせいで「十刻まで戻ってくるな」と罰の嵩
かさ
が増してしまったのだ。にも関わらず、原田と沖田は呑気なものだから、藤道はどうにか反省させようと怒っていたが馬鹿らしく思えてきて、呆れた溜息を最後に忘れる事にした。

「ところでよぉ」

突如原田の声が真剣味を帯びたのでどうしたかと思ったが、沖田も藤道も彼が言いたい事は直ぐに理解出来た。二人も気付いているからだ。

「用事があんなら出て来な」

振り返り、通りの角を睨み付けると、気配は足音を消そうともせずに走り去って行った。

「誰っすかね、凄い視線だったっすけど」
「あんなあからさまなのは久しぶりかも」

睨まれるというよりも真っ直ぐ食い入るように見つめられた様な、気持ちが悪い視線だった。気配の出どころが暗闇に包まれた小路の角であるから、それがまた違う怖さを醸し出している。何事もなければいいが、と密やかに祈りつつ、三人は巡察を再開した。



男は薄ら月明かりが差す小路で、目を見開いたまま考えていた。腰に刀を差していた三人の男。浅葱色の羽織は来ていなかったが、猫目の男が手にしていた提灯には誠の文字が見えた。新撰組は、誠の文字を掲げている。ならば、彼らは新撰組なのではないだろうか。きっとそうだ、間違いない、そうに決まっている!
男は、怒りで震える手で刀に触れた。恐怖は無い。三人とも討ち取るつもりだ。腕が飛ぼうが足が飛ぼうが、最期まで食らい付いて、首を切り落とす。そう決意し、勢いよく首を回して身を翻したーー瞬間、男の首は蹴られた鞠の様に宙へ飛び、自転しながら弧を描いて地に落ちた。

「……」

男の身体が倒れるよりも早く、断頭者は踵を返した。月明かりに照らされた大剣が一瞬鈍く光り、闇へと消えた。



沖田は不意に足を止めた。原田と藤道がそれに気付いて振り返ると、沖田は真横の小路に視線を向けて、闇の奥を見つめていた。原田が「どうした」と問う寸前に、その音は原田と藤道の耳にも届いた。下駄の音、そして金属が触れ合う音、だろうか。微かにだが、闇からそれらしき音が聞こえる。そしてそれは、段々と大きくなっていく。提灯の明かりが見えない事から、ただの通行人とは考え難いが、足音を隠さず歩いているので曲者とも思えない。
遂に、音の主は暗闇を抜け、月明かりの領域に踏み込んだ。瞬間、三人は驚愕した。屋根まで届く身の丈と、常人が二人並ぶほどの肩幅。未だかつて見た事が無いほどの巨漢だ。原田も体格はいいが、それが子供に見えるほど筋骨隆々としている。手首に付けられた幾つもの鉄輪が触れ合い、男が一歩踏み出す度に鈍い金属音を奏でている。
三人は思わず男を凝視した。だが男は、まるで三人の存在に気付いていないかの様に、ただただ真っ直ぐ歩く。そして、沖田の横を通り過ぎる。瞬間、藤道が持つ提灯の明かりに照らされた男の身体を見て、沖田は息を呑んだ。男の身体には、おびただしい量の血が付着していたのだ。更に沖田を驚かせたのは、背中の大剣だ。一尺ほどの幅で刀身は太刀の二倍はある。篠村の言葉が、脳裏に浮かんだ。

”身長は七尺近く。幅の広い、大きな剣で斬った”

男は、それに一致している。

「ま、さか……!」

沖田は男が出てきた暗闇へと駆け出した。藤道と原田にも血は見えており、篠村の犯人像も聞いていたので、現場は沖田に任せて男の進行方向に立ちはだかる。

「ちぃと聞きてぇんだが」

男は、原田の声に答えるどころか立ち止まろうともせず、依然直進を続け、二人の間を通り抜けた。

「って、おいおい無視かよ!」

立腹した原田は、男の肩を掴もうと腕を伸ばしたーー瞬間、天地が逆転した。そして事態を理解するより先に背中から地面に叩きつけられる。内蔵に衝撃が走り、一瞬息が詰まる。肩を掴むはずだった手を逆に掴まれ、投げられたのだ。

「左乃さん!」

藤道は原田の手を掴んだままの男に一太刀浴びせるが、容易く躱された。相手の力量が分からないまま無闇に攻撃するのは得策では無いと判断し、一度間合いを空ける。原田が立ち上がると、二人は男を見据えて構えたまま挟むよう動いた。そして、目で合図をして同時に斬りかかった。



沖田は、某然とそれを見つめた。首を刎ねられた男の遺体と、その身体の上に乗っている生き物を。

「狐……」

月明かりが照らす狐と思しき生き物は、釣り上がった目を沖田に向けた。逃げようとはせず、ただただ沖田を見据えている。
一歩ずつ、ゆっくりと沖田は狐に歩み寄った。しゃがみ、手を伸ばしても狐は逃げない。触れる気がする、そう思い、指先で狐の頭に触れーー。

「え?」

もう少しで触れるというところで、狐は後ろに宙返りをして沖田と距離をとった。だが驚いたのはそれよりも、跳ねた際に頭を掠めたはずの指に伝わった触感が冷気に触れたような感触だった事だ。とても、生物に触れた感触ではない。不思議に思い、自身の指を見つめる。そして再び顔を上げると、狐は姿を消していた。昨日と同じく、音も無く、文字通り消えたのだ。



大男は、防具で覆われた右手で藤道の刃を掴むと、刀ごと藤道を軽々と降り飛ばした。短い呻き声と共に地面を転がるが、手を付き転がった勢いを利用してすぐに立ち上がった。
大男の大剣は、依然鞘に収められたままだ。素手で翻弄されているのが屈辱的でならない。原田は悪態を吐き、槍を一回転させてその一瞬の間に次の手を考えた。そして一突き、躱されるのは分かっていた、寧ろそれでいい。空かさず槍を半回転させ、柄を頬に打ち込んだ。やっと一撃を与えることが出来た嬉しさに、原田は口角を上げる。大男はややふらつくと、立ったまま動かなくなった。

「……な、なんだぁ?」

原田は構えをやや緩めた。大男は一向に動く気配がない。今が好機かと思ったが、攻められるほど無防備というわけでもなさそうで、二人は様子を伺う。
それは突然起きた。一陣の風が通りを吹き抜け、その強さに原田と藤道は思わず腕で顔を庇い、目を細めた。そして直ぐに敵と対峙している意識が蘇り、慌てて大男に視線を戻した、が。目を背けたほんの一瞬のうちに、大男は姿を消した。走り去る音、気配すら無く、二人は暫し周囲に目を走らせたが、隠れられるような所など無い。

「平助、探すぞ!」
「は、はいっす!」

まるで神隠しの様だが、そんな事で犯人を取り逃がしたなど言い訳にもならない。二人は別れて、周囲の捜索を開始した。



第參話 心願成就


娘は血溜まりを見下ろした。彼女が纏う華やかな着物の地色と同じ赤で汚れた地面には、首と胴体が離れた遺体が冷たく横たわっているが、彼女はそれに臆する事無く、ただ見つめた。そして、着物が汚れぬ様やや裾を捲ってしゃがみ、そっと血塗れの首元に触れる。瞬間、頭に断片的に流れてくる男の記憶に顔を顰めて、指を離した。懐から手拭いを出し、何十人目か分からない血を拭う。白かった手拭いは、幾多の血を吸って洗えども落ちない染みでいつしか桃色になっていた。



第參話 心願成就



沖田は、日当たりの良い縁側に座り、ひたすら空を見つめていた。稽古終了後、弾む心臓を落ち着けたくて腰掛けてから、ずっとそのままでいる。首に掛けた手拭いの両端を掴んだまま、猫背も気にせずぼんやりと、昨夜から頭を離れない”存在”をずっと考えている。

「どうしたんだ、想司のやつ」

手拭いで頬の汗を拭いながら長倉は、井戸水を汲み上げる藤道と、筋肉を伸ばす原田に問う。

「夕べ、例の殺人犯に会ったんだろ?」

結局刀を抜かせる事が出来なかった悔しさが蘇り、藤道と原田は眉間にしわを寄せた。

あの後、三人は直ぐに屯所へ帰り、土方の部屋に駆け込んだ。文机に向かったままうたた寝をしていた彼は事態が把握できず一瞬困惑の表情を浮かべたが、間もなく「十刻まで戻ってくるなっつっただろうが!!」と怒鳴った。「それどころじゃないっす!」と藤道が土方を落ち着かせて事情を説明した後に現場検証が行われ、一段落する頃には空が白んでいた。

思えば、沖田は小路より戻って来た時から思案顔をしていた。

「そう言えば、狐がどうどか言ってたぜ!」

言って原田は、濡らした手拭いを絞り、顔を拭く。

「狐?」
「そうっす、死体の上に狐みたいなのが座ってて、触ったけど透き通って触れなかったって……寝ぼけてたんすかね?」

原田は、昨日の小路での事を思い出す。あの時も、彼は狐を見たと言っていた。それを二人に告げると、ぎょっとした目が長倉に向いた。

「き、狐の……幽霊、とか?」
「人間の幽霊見るよかましだな!」

原田は他人事の様に笑うが、長倉は沖田があれ程考え込むのだから嘘でも見間違いでも無い気がして。ほんの僅かに不安が過った。
だが、呪いなどではなく生きた人間の犯行である殺人事件だ、深く考える必要はない。沖田は屯所を代表する楽天家なのだから明日には、いや、昼飯を目の前にする頃には忘れているだろう。

「おっ、巡察組が帰ってきたな!」

正門を潜る隊士達の姿が見え、原田は歓喜した。昼食は巡察組の帰局後である為、空腹感に耐えかねていた原田は巡察組の帰局を楽しみにしていたのだ。隊士達は原田達に頭を下げながら井戸端を通り過ぎて行く。

「お疲れっす初!」

最後尾に組長の姿を見つけた藤道は、手を振って彼ーー三番隊組長 斎藤 初を呼んだ。ほぼ同時に、斎藤を取り巻く”それら”を見た長倉は素っ頓狂な声を上げた。

「犬に猫に鳥……まぁた、たくさん連れてきたな!」

原田の笑い声を背に、猫好きの藤道は堪らず駆け寄る。

「連れて来たのではござらぬ、勝手に付いて来たのだ」

斎藤は、癖のついた髪の間から鋭い目で原田を見上げて言ったが、右肩に止まっている雀を指先で優しく撫でながらではその否定も強がりにしか聞こえない。
斎藤初という男は、いつも騒がしい原田とは対極に位置する寡黙で喜怒哀楽が乏しい人間だ。剣の腕前は、藤道と同じく新撰組最年少でありながら二歳上の沖田と肩を並べるほどで、彼をよく知らない人間は一匹狼の冷徹な男だと避ける。そんな人間が彼に親しみを持つきっかけとなるのが、動物に懐かれやすいこの体質と満更でもない対応だ。彼が率いる三番隊隊士は編成当初ほとんどが彼を恐れていたが、動物と触れ合う姿を目撃した事をきっかけに斎藤を慕うようになったと言っても過言では無い。

「今日はまた、豊作だな」

長倉は目視で数えた。犬が一匹、猫が二匹、狸が一匹、雀が五羽。足に擦り寄ったり、尻尾を振ったり、囀ったりと、各々喜びを表現している。長倉は狸に視線を戻して顔を顰めた。

「街歩いて狸連れてくるってお前……」

彼の動物誘惑領域の広さは未だ謎だ。

「俺は大歓迎っすよ~、猫に会えるんすから~」

藤道は至福の声を上げ、猫の脇に手を入れて持ち上げると頬擦りした。

「屯所じゃ飼えねぇんだ、あんまり可愛がるとまた別れが惜しくなるぞ」
「わ、分かってるっすよぉ」

可愛がり過ぎたあまり、いざ別れる際にお互い別れられず、長倉が無理矢理引き離したのは記憶に新しい。大抵は斎藤が帰るよう促すと動物達は解散していくのだが、その時は斎藤のいう事さえ聞かない状態だった。引き離す側としても辛いものがある為、二度と御免だと長倉は思っている。
藤道は、猫を見つめてぽつりと呟く。

「お別れ、か……」

別れというものは、藤道が一番嫌うものだ。よく覚えてはいないが、幼い頃に経験した別れが、今も藤道の胸を締め付ける。

「平助、だからそう見つめてやるなって」

長倉は背後から猫を奪って、しゃがんでいる藤道より更に高く持ち上げた。すると猫は肩を跳ね上がらせ、長倉の手を振り切って飛び降りた。見事に着地し、斎藤の後ろに隠れて片目だけ覗かせて長倉を睨み付ける。

「はっはっは! 嫌われたなぁ、新八!」
「うっせぇ! 俺は、元々動物とは相性悪いんだよ!」

子供の頃はそうと分かっていても触りたくて追いかけ回して、挙げ句の果てには引っ掻かれた事もある。そしていつからか、歩み寄ることは無くなった。どうせ逃げられるのだから、と。

「長倉殿。想司は、何かあったのか?」
「え? ああ……考え事してるみてぇだ」

斎藤は、もう一度沖田に視線を向けると暫し考え、歩み出した。長倉は彼の行動に驚いたが、いつまでも一匹狼ではないという証明に他ならないと思い、安堵してそれを見送る。



「何かあったか?」

斎藤が空と沖田の間に割って入って問うと、沖田は目を瞬かせた。

「……別に、何もないよ」

へらっと笑った顔が何もない顔には見えず、斎藤は溜め息を吐く。

「立て」
「へ?」
「立てと言った」

沖田には斎藤の意図が分からなかったが、一先ず言われた通りに立ち上がり、自分よりやや背の高い斎藤を見上げた。煤色の髪から覗く目を見ても、やはり彼の考えは分からない。すると斎藤は、沖田の袖を掴むと何も言わずに歩き出した。戸惑いながらも歩調を合わせてついて行き、辿り着いたのは先程まで稽古をしていた九武館だ。中に入ると袖は開放され、斎藤だけが奥まで歩みを進めた。そして壁に掛けられた竹刀を二本取り、戻る。沖田はこの後の展開を予想し、それは見事的中した。ある程度沖田と斎藤の間合いが狭まった所で、斎藤は竹刀を放り投げ、言った。

「構えろ」

沖田の返事を待たずに、彼はさっさと位置についた。

「え、ちょ……え?」

あの会話の流れからどうしてこうなったのか、沖田には皆目分からない。戸惑いを隠せずうろうろしていると、斎藤は鼻で笑って。

「今度は裾を踏み、転ぶなどと言うことが無きようにな」

瞬間、沖田は驚愕と共に顔を真っ赤にした。
それは今日の稽古が始まってすぐの事だった。立ち上がる時に袴の裾を踏んで転んでしまい、原田を筆頭に全員に大笑いされたのだ。幼少時に一回同じ事をした記憶はあるが、大人になってからは恥ずかしいことこの上ない大失態だ。

「今時童とてやらぬぞ」
「み、見てたの!?」
「嗚呼、巡察へ行く前に通りかかってな。久方ぶりに笑わせてもらった」

言い終わる前に、黙らせんとばかりに沖田が踏み込んだ。上段からの振り下ろしを、斎藤は冷静に受け止める。笑われた挙句に剣撃も受け止められてしまい、沖田は口を尖らせた。

「酷いよ……!」
「上の空で稽古をする故そうなるのだ」

斎藤の竹刀が螺旋を描いて沖田の竹刀を絡め取ろうとするが、それを見抜いていち早く竹刀を引き、胸部めがけて突きを見舞う。が、斎藤は身体を横にして躱すと手を狙って下段から振り上げる。それを叩き落として、二人は一度離れた。

「嘘は吐かない方が良いぞ、想司。お主は嘘が下手だ」
「……どうせ、笑うでしょ?」

一昨日は長倉に見間違いだと言われ、その通りかも知れないと思っていたが、昨夜の出来事で考えは変わった。だが原田や藤道は軽く笑うだけで、土方にも言ったが軽くあしらわれ、近藤と山南さえ信じてはくれなかった。
それでも頭からあの狐の事が離れない。しかし、誰に言っても信じてくれないし笑われるだけだと、沖田は胸の内にしまっておこうと決めたのだ。
どちらとも無く力強く一歩踏み出し、再び竹刀を交える。

「拙者がよく笑う人間だと思っているのか?」

彼が笑っている姿は、あまり見た事が無い。宴会で酒が入るとやや口角を上げる程度の笑みは零すが、普段、原田の様に豪快に笑ったり、土方の様に嘲笑ったりなどはしない。

「人を馬鹿にしたりしないとは、思ってる」

斎藤は沖田の竹刀の剣先が床を向くよう弾き促し、浮き上がらせまいと物打を踏み付けた。

「しからば、お前が真実を話したところで笑うわけが無い。嘘は吐いておらぬのだろう?」

彼の言う通りだ。嘘など吐いてはいない、真実を言っているだけだ。

「そっか……そうだよね」

沖田は、ようやく信じてくれる人が現れた事に安堵して笑んだ。

「狐を見たんだ」
「狐?」
「そう。一昨日と昨夜の殺人現場で。真っ黒い狐なんだけど、猫くらい小さいんだ。でも昨日少し触ってみたんだけど、冷たい風が指を掠めた様な感触しか無くて、目を離すと消えていなくなるんだ」

冬の風の様に冷たい感触が忘れられない指先を見つめる。

「でも、ずっと前にも見た事ある気がするんだよね」

それが、沖田の中で一番引っかかっている事だった。初見はただ奇妙な狐だと思っただけだが、徐々に記憶の底から湧き上がってきて、幼少期に何かがあった気がするのだ。だが、霞がかった様にそれが思い出せない。

「だからか分からないけど、何か関係があるんじゃないかって……」

沖田の言葉が途切れ、一拍置いて斎藤が口を開く。

「あまり考え過ぎぬ方が良い」

沖田は落胆した。彼も結局は信じてくれず、そんな気休めの言葉で流そうとしているのかと。だが、斎藤の言葉は続いた。

「よしんば真にその狐が事件に関係があり、お主と縁があるのならば、これより幾度も出逢うことになるだろう」

やや、沖田はその言葉を疑う。適当に答える人間だとは思えないが、落胆した沖田は疑い深くなっている。

「 想司、大都で拙者と再会した時の事を覚えているか?」
「え……うん」
「そうか。されば、お主は狐との縁を信じると思っていたが」

沖田は、はっとして顔を上げた。
斎藤に初めて出会ったのは、大都の城下町だった。買い物を頼まれて訪れた沖田は、大荷物を抱えてふらつきながら歩いていたところ、柄の悪い男にぶつかってしまい、難癖をつけられた。適当に謝って逃げようと思っていたが、その適当さが癇に障ったのか男達は引こうとしなかった。いよいよ面倒な事になったな、と思いながら目を走らせて竹刀の代わりになりそうな棒を探している最中に胸倉を掴まれたーー直後、割って入ったのが斎藤だった。睨み付け、親指で鍔を押し上げただけで、男達は分が悪いと悟って逃げ出した。斎藤は沖田の安否を確認すると、さっさと人の波へと消えて行ったが、沖田はその背中を見つめたまま、暫く動けなかった。きっと剣の腕前は凄いのだろう、歳は同じくらいか、戦ってみたい、また会いたい。そんな願いが視線に籠っていたのか、数日後に斎藤が試永館道場に現れたのだ。その瞬間、沖田は歓喜して言った。

ーーまた会いたいって思ってたんだ、そしたら本当に会えた!ーー

願えば叶うと、沖田が自ら証明した瞬間だった。

「今もまだ願えば叶うと信じているのであれば、狐との再会も願い、信じてみてはどうだ」

この答えこそ、沖田が心の何処かで欲していた答えなのかも知れない。そう思えるくらい、ぴたりと心に填まった。

「……そう、か。そうだよね。ありがとう、初くん。なんか、すっきりした」
「それはよかった」

沖田の吹っ切れた笑顔に釣られて、斎藤も微かに笑みを零した。

「さて、ここまでにするか」

斎藤は、沖田はから一歩離れながら言った。

「え? 折角だからもうちょっと手合わせしようよ~」

撃剣師範である沖田は、稽古の時は平隊士の剣術指導をする為、斎藤など助勤の面々と手合わせをする機会が少ない。もうすぐ昼食の時間だが、一戦くらいは出来るだろう。だが、沖田はこの選択を後悔する事となる。

「駄目だ、これ以上ここにいるとーー」

途端、斉藤の竹刀を握る右手に必要以上の力が籠った。そして、左手に竹刀が投げ渡される。それを見た瞬間、沖田は「げっ」と唸って顔を青くした。

「ーー抑えられなくなっちまいそうなんだよ……!」

普段の斉藤からは想像もつかない荒い口調だ。厚い唇は三日月型を描き、前髪の影が落ちる目は普段の冷静な色を失い禍々しく光る。

「お、終くん……!」

斉藤初という男には、難点が一つあった。一定時間戦いの場に身を起いたり強者と対峙し士気が高揚すると、普段の彼からは考えられないほど豹変してしまうのだ。その時、彼は本来の利き手である左利きとなり、無敵の剣と称されるほどの実力を発揮する。まるで人格が変わったかの様な変わりっぷりであるので、沖田達は勝手に”初め”の反対の”終わり”と呼んでいる。
終が出てしまうと、手合わせどころでは無く命懸けの全力勝負になってしまう。流石にそれは避けたいので、沖田は竹刀を奪おうと試みるが、時は既に遅い。終は笑みを深めて、竹刀を振り上げた。

道場から上がった沖田の悲鳴は、屯所中に響き渡ったという。



* * *



「想定外だったよ」

娘は、自身しかいないはずの執務室に突如響いた声に、さして驚きはしなかった。彼が神出鬼没なのは、今に始まった事ではない。

「君が回収仕損じたから」

青年は壁に背中を預けて、娘の背中に言う。

「何の事よ?」
「宝凛藩士の集会に関する書状」
「……遺体を回収する前に抜き取られたのよ」
「誰に?」

娘は、分かっているくせに、と言わんばかりの目で青年を睨み見た。

「新撰組、に」
「ご名答。後片付けはしておいたよ。”来たるべき日”の妨げになっては困るからね」
「……知ってるわ、”視た”から」
「だろうね。”来たるべき日”は近い。滞り無く頼むよ」
「はーい」

娘の気の無い返事が響く直前に、青年の気配は消え去った。人の言葉を最後まで聞かないのも、今に始まった事ではない。それに彼は知っている。娘が否定などしない事を。



雲外蒼天! ~幕末新撰組異譚~

雲外蒼天! ~幕末新撰組異譚~

時は幕末。長きに渡り徳河が治めてきた天都国は、動乱の時代を迎えていた。 新撰組に所属する一番隊組長 沖田想司は、変わらぬ日々を送っていた。 しかし、一人の盗人が捕まったことから奇妙な連続殺人が発生する。 そして傍らに現れる狐に妙な縁を感じ、六月五日ーー池田屋事件をきっかけに、沖田の日常はその路を外れることとなる。 出会いと別れの中で”世界”を知っていく彼は、やがて天都国を揺るがす戦へ身を投じる。 真実を知った時、彼が選ぶ道の先にあるのは蒼天か、それともーー。 *この物語は史実を元にした幕末異世界フィクションです。一部残酷な描写がございますのでご注意ください。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • アクション
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-09-19

Copyrighted
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  1. 第壹話   天地開闢
  2. 第貮話 奇々怪々
  3. 第參話 心願成就