もう、我慢できないよ。

学校の屋上に、広い空を見たくて階段をあがった。ブラスバンドの騒がしい音が聞こえたけど、それもなんだか記念的な一日を予感させるものがあった。屋上には誰も登っているとは思わなかったけれど、手すりにしがみついてグラウンドを見ているひとりの女の子がいた。
僕は彼女を驚かさないように、静かに彼女が視界に入らないところに歩いていって、眼下に住宅街が見えるところに達すると、太陽とそして雲が流れていく様子を眺めた。その時思ったことは、自分が生命を宿していること、こうして生きていることに感謝したいということだった。日々生きていると、そうした感動が薄れがちだけど、今をこうして自分が存在していることに驚嘆しないではいられなかった。自分の手を眺めて、十本の指があること、そのことにも感動を覚えた。こうして、視力があって、様々なものを見ることができること、そんな些細なことにも感謝せずにはいられなかった。僕は生きている。充足した、何か達成感にも似た思いが身体を満たしていた。住宅街が広がる南側のところに目を向けてみると、きっと一軒一軒の家では主婦が洗濯をしたり、テレビでワイドショーなんかを見たりしながら、お菓子をつまんでいるのだろう。そして、世界中で僕と同じように学校に通って勉強に励んでいたり、きっと、自分だけの孤独を抱えて、独りぼっちで、これから先、どのように生きていくのかわからないでいる人々でいっぱいなのだろう。地球が一周するたびに、いったいどのくらいの人が生まれているのか、そして、どのくらいの人が死んでゆくのか。僕には分からないけど、いずれ、僕もその死という、あまりにも孤独な現象の仲間入りをするのだと思うと、なんだか不思議な感覚に襲われて、恐怖というよりは、感動に近い気持ちがすることに自分自身、深くため息をついた。こんなふうに、深刻ともいえる思いに取り憑かれた、自分と同じ考えを抱いている人はどのくらいいるのだろう。僕はあまりにも現実を直視しすぎる。もっと、楽な見方をすることにしよう。そんなふうに考えていると、背中の方から、声が聞こえてきた。
「田崎くんじゃない?」
「ん?」振り返ってみると、そこに、同じクラスメイトの佐伯葉子がいた。
「佐伯じゃない、なんでこんなところにいるの?」
「それは、お互い様、時々一人でこうしているの。なんかさ、たまにこうして大空に包まれたいって思わない?」そう言って佐伯は両手を大空に広げた。
「うん、そうだね、気分転換ってやつだね」
「田崎くんもけっこうロマンチストなんだね。って言うか、薄々感じてはいたけど。よく教室の窓の外を眺めてたそがれているのを何度も見ていたから」
「佐伯、俺、小学校の頃から、窓の外の風景を眺めるのが好きだったんだ。何故だかわからないけど、そうしていると、気持ちが落ち着くんだ。新鮮な空気も取り込めるしね。風にたなびく木を見ていると、なんか乗り移ったような気がして、落ち着くんだよ」
「その気持ちわかるな。わたしもこうして、屋上からグラウンドを眺めるのが昔から好きだった。一生懸命、サッカーボールを追っている人たちをずっと見ているのって、全然飽きないんだ」佐伯葉子がとても素敵な笑顔で両手を伸ばして大きく深呼吸をした。
「佐伯、お前って素敵だな」
「今、気づいたの?」
「いや、なんとなくは気づいていたけど。お前のこと、好きになっちゃったよ。よかったら、付き合ってくれるかな?」
「うん、喜んで。実はわたしも田崎くんのこと、気になってはいたんだ。そうだ、学校終わったら、ロッテリアで話し合わない?」
「いいね、行こう、行こう。積もる話もあることだし」そう言って、僕たち二人は屋上から教室に向かった。

わたしは今、札幌に向かっている。快速エアポートで新千歳空港から、電車の中で、心地よい眠気に誘われながら、窓の流れてゆく風景を堪能している。久しぶりの帰郷だった。東京都練馬のアパートから、実家のある、手稲区まで、旅行気分で胸が満たされていた。イヤホンで音楽を聴きながら、さきほどまでいた新千歳空港の構内を思い出す。そこはとても特別な環境で、みんな楽しそうに、空港内の土産屋で商品を手に取って品定めをしていた。わたしも自分用にお寿司の弁当を買って、電車で食べた。まるで宝石を食べているようだった。車内では中国語で話す観光客がいて、子供たちが嬉しそうに母親に抱き着いていた。とても幸せそうな恋人たちが外の風景を眺めていた。わたしは鞄からミネラルウォーターを取り出して飲んだ。そして窓に微かに映る自分の姿を見つめた。口紅が輝いて見えた。
札幌駅に電車が停まると、車外に出て、手稲行きの電車を待つことにした。駅構内は静かで、携帯電話を眺めている人で溢れかえっていた。わたしは鞄から文庫本を取り出して、読むことにした。辻村深月の小説で、凍りのくじら、という小説だった。
電車が到着すると、スーツケースを引きずりながら車内に入って、座席に座った。三年ぶりの帰郷なので、両親に会うのが楽しみでしょうがなかった。札幌は気温、二十度でとても過ごしやすかった。こうして、飛行機が墜落もせずに、その思いがとても現実的に強くて、北海道の大地に降り立ったことに安堵を覚えて、目をつぶって大きく深呼吸をした。電車が動き出すと、本を鞄にしまい、今、この時間を、この空気間を自分の身体に取り入れて、自分が生きていることに感謝というか、感動がこみ上げてきた。なんなんだろう、この気分は。そして、何故だかは分からないけど、きっと、この北海道滞在期間中に、なにか、変わったことというか、何か不思議な出会いがあるのではないかということが脳裏に浮かんだ。わたしの予感は当たるのだ。たまに、そのような現象が、心の扉をノックするようなことが、そう度々ではないにせよ、あるのだった。きっと、その衝撃はこれからのわたしにとてつもない体験となって、訪れるだろう。
発寒駅に到着して、駅を出て、十五分ほど歩くと、実家に着いた。母が玄関に出て迎えてくれた。父はわたしの歓迎会をするべく、スーパーで食材を買いに行ったということだ。懐かしい匂いがした。微かにラベンダーの香りがして、きっと今でも洋服の芳香剤に使っているのだろう。
ソファーに座って母が淹れたコーヒーを飲みながら、寛いでいると、懐かしい車のエンジン音がした。エンジンが止まり、ドアの開閉音がして、玄関ドアが開く音が聞こえて父が家に入ってきた。
「お父さんお帰りなさい。久しぶりだね」
「おう、香織、元気にしてるか。なんだか痩せたんじゃないのか?しっかり、食べているか?」
「うん、野菜を中心にしている。肉料理はあまり食べてないかな」
「タンパク質を摂ることは重要なんだよ。低脂肪の肉を食べることは健康につながるんだぞ。お前の為に、今日はすき焼きだ。しっかり食べるんだぞ」父はそう言って、母に買い物袋を渡した。
「すき焼きなんか東京で食べたことなかったな。楽しみ」
「仕事の方はうまくいっているのか?」
「うん、順調だよ。沢山仕事をまわしてくれる。残業で夕食はいつもコンビニや外食が多くなっているけど。でもとても有意義な生活をしている」
「そうか、それはなによりだ。でも身体には気をつけるんだぞ。病気になったらどうしょうもないからな」
「うん、休日は週二日あるし、スポーツクラブで有酸素運動をしているし、体の方は快調だよ。毎日が充実してる」
「まあ、ゆっくりしてきなさい。仕事のことは忘れて、美味しい物をいっぱい食べていきなさい」
「うん、お世話になります。そうだ、お父さんにお土産があるんだ」そう言って、スーツケースから、スコッチウィスキーを取り出して、父に渡した。
「ラガブーリンじゃないか。お父さんの好きなウイスキーだ。ありがとう、けっこう高かっただろう。さっそく、いただくことにしよう」
すき焼きを食べながら、わたしの日常に起こっていることを話して、仕事のことやら、毎日どんな生活をしているのか、楽しみながら会話をした。父も母も、いまだに恋人同士のような感じで、とても幸せそうだった。今日一日の長旅で少し疲れたので、早めに布団に入って、眠りについた。でもとても充足した一日で、夢も見ずに、朝を迎えた。

わたしたちは日常を当たり前のように過ごしている。でも、その日一日が、最後の日となるのかもしれないことに気づいていない。毎日が文庫本を一ページずつ、めくるように進んでいくことに疑問を抱いていない。でも、大切なのは、大それたことかもしれないけど、一日一日を、人生最後の日と思って暮らすことなのだ。なんか格言的で大袈裟なことを言っているようだけど。わたしたちは願う。今日一日が有意義でとてつもなく楽しい日々であることを。さあ、明日の朝はどんな一日になるのだろう。わたしたちは待ちきれないほど、将来を、未来を、希望を持って生きていくことができる。なんか最後に難しい話になっちゃったな。でも、このまま、終わりをむかえることが、なんだかいいようにも思える。たまにはそんな時もあるのさ。明日、また、沢山の人と出会い、そして別れることになるだろう。でも、できるだけ、ちょっとでも誠実に、自分の気持ちを伝えることにしよう。そう、できるだけ。

もう、我慢できないよ。

もう、我慢できないよ。

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-06-04

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