飛べないペンギンの夢
「どうしよう、あたし、もう死なないといけないかも」
真っ白な病室、やけに大きな白いベッドの上で、チナちゃんはひとりで震えていた。
「え?」
お見舞いの花束と、フルーツがたくさん入ったかごを持って病室に入ってきたゆきちゃんは、慌ててチナちゃんに駆け寄った。
「な、なんで? チナ、手術、無事に終わったんでしょ? もうどこも痛いとこないって、LINEでも言ってたじゃん」
ねえ? とゆきちゃんが言うと、チナちゃんは弱弱しくベッドの隣の棚の上を指さした。
「これ、ゆきちゃんがこの前貸してくれたやつ……」
そこに積んであったのは、何冊かの文庫本。
「もう、返すね。全部、読んでないけど……いらないから」
その言葉にゆきちゃんはぞっとした。三度の飯より何よりも読書が好きなはずのチナちゃんが、貸した文庫本を全部読まないで返すという。そんなことは今までで一度もなかった。
チナちゃんが本を読まなかった日なんて、チナちゃんの人生で一度もなかったはずだ。それはここにいるゆきちゃんが一番よくわかっていた。ましてや、未読の新しい本がそこにあるのに、一切手をつけようとしないだなんて、そんなことは今までで一度もなかったのに。
ゆきちゃんは、これは何かの間違いだと思いたかった。
「チナちゃん、私が貸した本あんまり趣味じゃなかった? ははは、だったらごめんね、でも珍しいねチナちゃんがそんなこと」
ゆきちゃんの長い髪が、頭が、揺れる。まくしたてるように話すのを遮り、チナちゃんが言った。
「違うの」
涙が、シーツの上にぽたりと落ちた。
チナちゃんは静かに泣いていた。
「あたし、本、読めなくなっちゃったみたい」
橋本千波と芦原由紀がお互い初めて顔を合わせたのは、中学の文芸部という場所だった。
本の好みが似ていたことですぐに意気投合した。由紀は千波を「チナちゃん」と、千波は由紀を「ゆきちゃん」と呼ぶようになった。
文芸部という部活は、読書会のほかに小説を書くことが主な活動としてあった。チナちゃんもゆきちゃんも、そこで小説を書くことになった。
チナちゃんはそこでまず驚いた。ゆきちゃんが書いた小説を読んで驚いたのだ。それは、中学生とは思えない美しく強い物語だった。チナちゃんだけではない、他の文芸部の部員たちも、顧問の先生も、誰もがびっくり仰天していた。それぐらい、ゆきちゃんの書く小説はすごかったのだ。
チナちゃんたちは知らなかったが、ゆきちゃんは小学生の頃から小説コンクールの子供部門で何度も賞を取るような子だった。将来は絶対に作家になる、とその頃からゆきちゃんは宣言していた。
そして、チナちゃんに対しても、こう言っていた。
「チナちゃんも、作家目指しなよ。将来私と二人で作家になって、そんでコンビで活動するんだ。今をときめく二人の女流作家! みたいな感じでインタビューとかされちゃったりして~」
いひひ、とゆきちゃんは笑った。それを見てチナちゃんも、
「そうだね。ゆきちゃんがそう言うなら、あたしもそうする」
と返した。
作家なんて、なれる人はほんの一握りの人だけだ。チナちゃんは自分にそこまでの才能があるとは思えなかった。今からこんなに才能を発揮しているゆきちゃんならともかく、自分はそこまででもないと思っていた。
だからこそ、ゆきちゃんのことを強く尊敬していた。チナちゃんにとって、才能に恵まれ毎日毎日小説を書きまくっているゆきちゃんは憧れだった。
ゆきちゃんの、隣に立っていることが、チナちゃんの誇りだった。
中学を卒業した二人は、同じ高校にあがった。
そしてゆきちゃんは、なんと高校生のうちに小説家デビューしてしまった。有名なライトノベルのレーベルが主催する賞で金賞を取り、そのままゆきちゃんの原稿は文庫本になった。
ゆきちゃんの家にできたてほやほやの献本が届いたとき、まっさきにゆきちゃんはチナちゃんにそれをあげた。ゆきちゃんのデビューを誰よりも喜んでいたのはチナちゃんだった。二人は放課後の教室にジュースやお菓子を持ち寄って、二人だけでささやかなパーティーをした。
「今回は私が先だったけど、チナちゃんもあとからきっと来てね。絶対一緒に作家やろうね」
そう言うゆきちゃんの目には、希望にあふれた強い光があった。
その言葉にチナちゃんも大きくうなずいた。
実際、チナちゃんもゆきちゃんの活躍っぷりを見てやる気をなくすどころか、以前よりももっと頑張るようになっていた。中学の頃は始めたばかりだった執筆活動にも今は慣れ、賞やコンクールでもいい線までいくことも何度かあった。
大人になったら、ゆきちゃんと一緒に作家やるんだ。
いやいっそ、大人になる前でもいい。
そう思っていた。どこにいようとも、チナちゃんはゆきちゃんと一緒にいたかった。
そしてそこから月日は少し流れた頃。
それはあまりにも唐突だった。
ゆきちゃんとチナちゃんが高校二年生のとき、夏休みのことだった。
チナちゃんが、旅行中に交通事故にまきこまれたのだ。
***
「足の骨折れたのはね、手術で治してもらったから、大丈夫なの。もう少ししたら歩けるようになると思う。でも、事故あったときに、頭を強く打ってて、そのときに、脳の一部分だけが、損傷? したみたいで」
病室で、チナちゃんは自分の頭をさすりながら言った。
「あのね、大丈夫なんだよ? こうやってゆきちゃんとも喋れるし、テレビも見れるし、人の言ってることわかるし、文字書いたりするのもちゃんとできるよ。でも、なんでかな、本が、……」
チナちゃんは言葉を詰まらせた。
「病院の先生は、あたしの脳を検査した結果から判断して、事故の後遺症だっていってる。時間が経てば治るかもしれない。でも、もしかしたら、もう、ずっと、治らないかもしれないって」
がたがた震えるチナちゃんの手を、ゆきちゃんは、優しくそっとさすった。
「そっか。それは、辛いね。チナちゃんにとって一番、辛かったね」
ゆきちゃんの言葉に、チナちゃんは嗚咽を漏らして泣きながら言った。
「ゆきちゃん、どうしよう、なんかね、伏線とか、わかんないんだ……。文章が、読めないんだ……! 本、読めなくなった、いくら読もうとしても、なんにも頭に入ってこない、内容が、わかんない、他のことはなんでもできるのに、わかんない、どうしよう、あたし、人生で一番大事なことができなくなっちゃった……!」
うわあああああああーーーと決壊したかのように泣き叫ぶチナちゃんの背中を、ゆきちゃんはさすった。でもそれ以外に、何もできなかった。何もできない自分がただ悲しく、ひたすら虚しかった。
脳に障害を負った結果、本が読めなくなる人がいる、という例はゆきちゃんも聞いたことがあった。長文が理解できない、文章の内容がわからない、時系列や伏線を理解することができない。だから、本が読めない。鬱病にかかった人の中にもそういう風になることがあるらしい。
でも、まさかチナちゃんが交通事故なんかで、そんな風になるなんてゆきちゃんは考えたことすらなかった。
読書が好きな人にとって、そして小説を書くのが好きな人、作家を目指している人にとって、「本が読めない」というのは致命的だ。サッカー選手の脚が使い物にならなくなること、野球選手の腕が怪我でだめになることと同じと言っていい。
それがどれくらいの地獄であるか、わからないゆきちゃんではなかった。だから、あまりにも惨い現実に、今のチナちゃんに対してかける言葉を見つけることができなかった。
「あたし、飛べないペンギンになっちゃった」
涙が落ち着いたあと、チナちゃんはぽつりと言った。ベッドのシーツと同じくらい真っ白い顔をしたまま。
「ペンギンは、ペンギンだから、どれだけ頑張っても飛ぶことはできないんだ。どれだけペンギンが飛びたいって願っても、それは無理。私もそれと同じになった。これから、どれだけ作家になりたいと思っても、きっと無理。もう、絶対になれない」
「……」
「あたし、ゆきちゃんみたいに、作家になりたかったなあ。デビュー、目指したかったな。一緒に、小説家、やりたかったなあ、」
チナちゃんはまたボロボロ泣いた。今のチナちゃんの『脳の障害』がどの程度のものなのか、そして回復する見込みがあるのか、ゆきちゃんにはわからなかった。どんな慰めの言葉をかけても、それはチナちゃんを苦しませることにしかならないような気がした。
それでも、ゆきちゃんは言った。
「チナちゃんは飛べないペンギンじゃないよ」
ゆきちゃんは自分の鞄から、ペンとノートを取り出した。
そしてそこにペンギンの絵を描いた。
「飛べないペンギンも確かにいるけど……飛べるペンギンもいる」
「飛べるペンギンなんていないよ!」
チナちゃんが噛みつくようにしてどなった。
「ううん、飛べるペンギンはいるよ。空を飛んで世界を一周するやつとか」
ゆきちゃんはノートに、空を飛んでいるペンギンの絵を描いた。
「宇宙まで飛んでくやつとか、火の玉に変身できるやつとか、暑いと溶けるやつとか、人間と話ができるやつとか……」
ゆきちゃんの手で、変な顔のペンギンがどんどん増えていった。ゆきちゃんは小説に関しては天才的な腕前を持っていたが、絵が圧倒的に下手だった。もはや変なペンギンでノートは埋め尽くされている。
「小説を書けるペンギンもいるかも。消防士になるペンギンもいる、お医者さんになるやつも保育士さんになるやつも、働かないやつもいるかも、でもみんな一緒にここで暮らしてる」
「……ここは、なんていうところなの」
「うーん、ペンギン島」
チナちゃんは少し笑った。小説家の癖にネーミングセンスがなかった。
「そして、飛べないペンギンも飛べるペンギンも変なペンギンもよくわかんないペンギンもみんないるなかで、私たちは幸せに暮らしましたとさ」
最後に、ゆきちゃんは中央に二人の女の子を描いた。
長い髪のほうがゆきちゃんで、短い髪がチナちゃんだった。
「なにそれ」
本が読めなくてもこの絵の奇妙さは一発でわかるチナちゃんは、苦笑した。
「意味わかんないよ。励ましになってないし」
「チナちゃんは生きていけるよ。これで終わりじゃ全然ない」
この状況であえてそう言えるゆきちゃんは、強かった。
「そんなの、わかんないじゃん」
「絶対に大丈夫だよ、何があっても」
「なんでそんな風に言い切れるの」
「生きていれば、必ず希望はあるから。あと、チナちゃんを信じてるから」
なんか、陳腐だけどね。とゆきちゃんは言った。
「私はチナちゃんをずっと待ってるよ」
チナちゃんは布団を握りしめ、唇をかみしめた。
「……ゆきちゃんは、ずるいなあ」
でも、もう泣いていなかった。
窓からさす光に照らされて、ノートの上で奇妙なペンギンたちが踊っていた。
***
これはその後のチナちゃんとゆきちゃんの話だ。
「あれからもう10年、か」
27歳になったゆきちゃんは、駅の近くのカフェでチナちゃんと話をしていた。
「10年とか、あっという間だねえ」
「ほんと、一瞬だったね。高校生の頃が昨日のことみたい」
アイスティーをすすりながらゆきちゃんは言った。
「今日は編集さんとの打ち合わせはいいの?」
「大丈夫、今日はオフだから。ていうかチナちゃんのほうこそ平気?」
「うん。あたしも今日はお仕事お休み」
あれからゆきちゃんは小説を書き続け、今やベストセラー作家だ。一方のチナちゃんが目指した先は、予想外にも映画監督という仕事だった。文章の道から映像へと目を向けたチナちゃんは、駆け出しの監督として現場を奔走している。
「確か10年くらい前だよね。ゆきちゃんが、あたしが交通事故あったときに病室来てくれて」
「そうそう。チナちゃんがびっくりするくらい泣いたからあたし焦ったわ」
「恥ずかしいからやめてよー。そこでペンギンの絵とか描いてくれてさ」
「あー、そうだったっけ」
「あのときのこと、最近よく思い出すんだ。あたしはあのとき『もう作家になれない』って思ったけど、ゆきちゃんが『ずっと待ってる』って言ってくれたから、今があるんだって思う」
「そうだね。全部、繋がってるからね」
チナちゃんが、企画書の書かれた書類を取り出した。その企画は、ゆきちゃんの書いた小説の映画化プロジェクトだった。チナちゃんが任されている仕事だ。
「あたしたちの作る映画ができるって、なんか信じられないね」
「うん。でもずっと待ってた夢だからね」
ゆきちゃんは笑った。
「ほんとうに、待っててよかった。私はずっとチナちゃんと一緒にいれれば、それでいいんだよ」
アイスティーの氷がからん、と音を立てた。
(ああ、そこは同じだったんだ)
チナちゃんは、諦めないでよかった、と改めて思った。
ゆきちゃんと同じところから、一緒に前を向ける未来があることを、高校生の頃の自分に教えたかった。
「夢は必ずかなう」なんていうのは綺麗ごとでしかないなんてわかっていた。それでも、昔と同じように二人でいられる今を手に入れたことが、チナちゃんにとっての代えがたい幸せだった。
ペンギンたちが描かれたノート、ゆきちゃんは今でもとっておいてあるだろうか。映画の打ち合わせが終わったら聞いてみよう、とチナちゃんは思った。
飛べないペンギンの夢
読んでくださってありがとうございました。これは別のアカウントに載せていた小説ですが、ここにも載せてみます。