溺死
あの日、一人で海に遊びにいった。
ただの気紛れである。
その日は曇り空であった。
潮風は生温く、べたつく。
ああ、不快だ。
見上げた空は白い雲に覆われていた。
近くの声は
まるで私がトンネルに迷いこんで、
奥深くに進んでいるかのように、
小さくなる。
振り返れば、丸い点。
私が持ってきたペットボトルより小さい。
きっと片手で隠せてしまう。
私はあの日の庭にいた。
過ぎ去った筈だ。
ああ、と呻きながら、
隅を見れば、黒い塊がある。
猫の死体だ。
名前を私はつけなかった。
縛りたくなかった。
今なら分かるが、
ただ関わるのが怖かったし、
与える勇気がなかった。
まるで寝ているかのようで、
今にも起きるのではないかとさえ思う。
しかし、
図書館に埋もれてしまった本のように、
この猫はもう、
世界から取り残されてしまっている。
おそらくは、
この子の顔が、
安らかに眠ってるようだと...。
いや、幻想をみているに違い。
この子の内など、私に推し量れるものか。
全く、私という奴は。
私は歩きながら、
ここではない何処かにいながら、
ここにいる身体は海に足を濡らす。
歩き続けた。
もっと深い場所へ。
足を滑らした。
私は溺れた。
目を開けると、
何もない海が広がっていた。
無貌の女だ。
黒髪は血で染まった。
脆い手足は無残にも折れた。
合わなかった焦点が合う。
トンネルの出口の光に触れる。
ああ、そうか。
誰もが死を迎えるのか。
あの子は死んだのだな。
そして、私ももうすぐに...。
溺死