NOCTUNE
暗い森の中を、幼い少年が息を切らせながら走っている。
少年の頭上では樹々が枯れた葉をたっぷりと蓄え込み、時々耐え切れなくなったかのように数枚の葉を落とす。森の外はあんなに眩しくて暑かったのに、ここはじめじめして薄暗い。落ち葉は湿った土にまみれていて、足が地面を蹴る度、靴がめり込んだ。
ひんやりとした空気が、少年のほてった頬から、髪からこぼれ落ちる汗の雫から、徐々に熱を奪っていく。もう晩秋だからかな、こんなに空気が冷たい。いや、きっと土の湿気が森の中の空気を冷やしてるんだ。少年は頭の片隅でそんなことをぼんやりと考えながら、更に前へと走っていく。
冷たさが身に染みていくにつれ、興奮していた少年の心もまた冷静さを取り戻していった。殴られた腹や肩などはまだ重苦しい痛みを残してはいたが、大分和らいできた。少年は走るのを止め、ゆっくりと大きく息をついた。
この森には物心付く前から遊びに来ていたため、少年にとって唯一落ち着ける場所だった。家には怖い父親がいる。朝ごはんの時にやっていたニュースで、小さな女の子が母親に虐待されて死んだと言っていた。悟られないようにそっとお父さんの方を見てみたが、お父さんの顔は新聞に隠れて見えなかった。台所から聞こえてくる、お母さんの包丁の規則正しい音だけが、早鐘のように響いていた。
虐待されていた女の子は自分と同じ小学四年生の女の子だった。その子は何年も前から母親に暴力を振るわれていた。普段は見えないお腹などを殴られたり蹴られたりしていたらしい。学校のプールの授業に出たがらないその子を、担任の先生が不審に思って問い詰めたところ、事実が発覚したのだ。結局女の子はお風呂に顔を突っ込まれて死んだらしい。僕もいつかそんな風にお父さんに殴り殺されるのだろうか。殺されるのは嫌だ。しかし力無き少年には父に抵抗する勇気さえ出なかった。
大きな樫の木に背をもたせるようにして座り込み、額から滴る汗を拭う。少しの間休んで呼吸を落ち着かせると、少年はまた立ち上がった。さっき走ったおかげで昂っていた気持ちが静まったので、今度はゆっくり歩いた。
落ち葉の踏み心地や湿った木の幹の手触りを確かめながら歩いていくと、前方を遮る木々の間から紅いものが見えてきた。何だろう、そう思って近づいてみると、木の生えていない開けた場所に出た。そこにはもみじの葉がたくさん積もり、山となっていた。
少年が両手を広げても足りないその山は、周りの木々の枯れた茶色とは対照的に、鮮やかな紅色だった。近くにもみじの木は生えていない。茶色の地面と紅い山の境は、気味が悪くなるほどにはっきりと、もみじで縁取られていた。
去年作った金魚のお墓にそっくりだ。少年は夜店の金魚すくいですくった金魚を思い出した。ひらひらした尾の付いた、小さな赤い金魚だった。その一匹しか掬えなかったのだが、翌日金魚は死んでしまった。少年は庭のすみっこに穴を掘り、その穴に金魚を埋めて土でこんもりとした山を作った。それから献花の代わりに庭で一番綺麗だったもみじの葉を数枚添えた。赤い金魚だったから、紅いもみじで飾ると金魚も喜ぶかもしれない、そう思ったのだ。
このもみじの山は誰かのお墓なのかもしれない。過去の記憶と相まって、そのもみじの山は少年に墓を連想させた。少年はその場にしゃがみこんで、上から下へと山を眺めまわした。もみじの葉一枚々々が冷えびえとした、近寄りがたい雰囲気を醸しだしている。手を伸ばしてみたものの、触れてはいけないような気がして、手を引っ込めた。
それにしても、この大量のもみじは一体どこから現れたのだろうか。再度辺りを見回してみたが、やはりもみじの木なんて一本も見当たらない。誰かが別の場所から運んできたのだろうか。何故だかそれが一番納得できた。ここはお墓であり、お墓にお供えものを持ってくるのは当たり前のことだ。きっと誰かがここに通っていて、毎日もみじの葉を供えているんだ。想像してみると、胸が締められるような優しさを感じた。少年はしばらくその甘い空想をかみしめ、それから痺れを解くようにゆっくりと立ち上がり、紅い墓を後にした。
家に向かって歩きながら、少年は金魚のことを考えていた。家に帰ることは少年にとって苦痛だったが、家に居ないことが父親にばれてしまったら叱られるので、早く帰らなければならない。
そう思って家の前に出る角を曲がったとき、庭のガレージに黒い車が一台留めてあるのが見えた。
しまった、お父さんだ。全身の汗腺から汗が滲み出た。もう仕事から帰ってきていたんだ。少年は玄関のノブに手を掛け、恐る恐る前に押した。
「慎司か」
まだ開ききっていないドアの隙間から、重苦しい低い声が聞こえた。ドアを開ける手が恐ろしさで止まりそうになったが、普段どおりに振舞えるように慎重にドアを押した。玄関のドアを挟んで目の前に、父親が腕組みをして立っていた。
「何処で何をしていたんだ」
外出が見つかったときの、いつもの言葉だ。ここで言うべき返事は決まっている。
「健君のおうちで遊ぶ約束をしてたから。……ごめんなさい」
健君とは近所の友達の名前だ。父親の印象は悪くない。
「勉強があるだろうが、遊んでいる暇があると思っているのか」
父親は少年の頭を、拳をそのまま下ろすようにして殴った。この後は部屋でちゃんと勉強するんだぞ、そう言って父親は奥の部屋に引っ込んだ。
殴られた頭は痛かったが、今日はそれほど怖くなかった。口答えをせずにすぐに謝ると、父親はそれほど機嫌を悪くしない。少年は玄関に腰を下ろして靴を脱ぎ、綺麗に揃えてから、二階の自分の部屋に行くために階段を上った。
部屋に着いてから、少年は教科書を机の上に広げた。そしてランドセルから筆箱を取り出し、同じく机の上に置いて頬杖をついた。こうしていれば、父親が突然部屋に入ってきた時でも勉強しているように見える。少年は毎日このようにしてから本を読んだり、落書きをしたり、考え事をするのが習慣になっていた。
今日は学校の図書室で一昨日借りてきた、童話集の続きを読むことにしていた。机の引き出しから童話集を取り出し、栞を挟んでいたページを開いて、昨日の続きから読み始める。悪い継母が主人公の女の子を苛めているところから始まり、最後に継母は罰を受けて死んでしまった。そして女の子は幸せな結婚をして、物語は締めくくられた。少年は最後まで読むと、本を閉じて引き出しの中に戻した。
少年はまた頬杖をついて、算数の教科書の宿題のページを開いて、鉛筆も持たずにぼんやり眺めていた。意地悪な継母が死ぬお話、昨日読んだ他の話もそういう終わり方をしていた。主人公をいじめる継母はきっと死ななくちゃいけないんだ。
悪いことをする人は最後に罰が当たることになってるんだ。神様には地上のものが何でも見えていて、悪い子はお仕置きされるんだってお母さんもよく言ってた。それなら僕を叱って殴るお父さんも地獄に落ちちゃうのかな。お父さんが僕に酷いことをしているところを神様がちゃんと見ていてくれるなら、お父さんは神様に罰で地獄に落とされる。そうしたら僕の家は平和になるんじゃないか。僕はもう殴られなくて済むし、お母さんもお父さんの機嫌を損ねないようにびくびくする必要はなくなる。毎日友達と遊んだり堂々と居間でテレビを見たりできるし、こんな風にこそこそと本を読むなんてこともしなくていいんだ。
少年はそれから目の前に広げた宿題のことも忘れて、ただひたすら父親がいなくなったらどうなるかという想像を膨らませ、悩みが解けた時のような安心した、幸せな気分に浸っていた。
次の日から、少年は学校を終えるとすぐに例の森に向かうようになった。途中の道でもみじの木を見つけては、その木の中で一番紅いものを選り、また一本見つけてはもっと紅いものは無いか探し、その日最も紅かったもみじを献上することにしていた。
そのような日々を何回繰り返した頃だったのだろうか、ある日少年が墓に向かうとそこには既に先客がいた。この場所で他人に会うのは初めてだったので、少年は身構えた。彼は少年より幾つか年上に見えた。少年と目が合うと、彼は人好きのしそうな笑顔を僕に向けた。そして少年の目を見つめて言った。
「これは君が?」
これ、というのは墓のもみじのことだろうか。少年は肩を強張らせつつも、手に持っていた一枚のもみじに目をやった。
「違う、僕が供えたのはほんの一部だけ。僕が最初にここに来た日からあったんだ」
「ふぅん。誰なんだろうね」
彼はこのもみじの山をどういったものだと思っているんだろう。少年は疑問に思ったけれど、聞かないことにした。自分がこの山のことを墓のようだと思っていることは、他の人からするとばかばかしいことだと自覚していたからだ。
彼は少年の方に歩み寄り、こう尋ねてきた。
「君、いつもここに来ているの?」
「うん。つい最近通いはじめたんだけどね。君こそ、いつから?」
少年がそう答えると、彼は自分も同じようなものだと言い、土の上に座りこんだ。
「ここって何だか落ち着くよね」
「そこ、座り込んじゃって大丈夫? ズボン濡れないかな」
「うん、大丈夫だよ。ここ数日雨降ってないから」
彼がそう言ったので、少年は彼の隣に腰を下ろした。尻の下で、踏んだ落ち葉が乾いた音を立てた。
二人は色んな事を喋った。はじめは住んでいる場所や学校のことのような他愛も無い挨拶みたいな話をしていた。少年は知らない人と話すのは得意ではなかったが、話せば話すほど、少年はもっと彼に自分の事を知ってもらいたい欲求に駆られた。二人が打ち解けあうのに時間はかからなかった。驚いたことに、彼は少年がもみじの山を墓だと思っていることを見抜いていた。
「君の言葉尻を聞いていて、そうかなって思ったんだ。それに僕自身、このもみじの山が発している空気に触れると粛々とした気持ちにさせられる」
自分の考えに理解を示されているのを感じ取り、少年は嬉しくなった。そしてずっと胸の内に隠していた秘密を曝け出してみようという気になった。
「僕、お父さんに殺されるかもしれない。それがいつなのか、分からないけれど」
「殺されるだって。どうしてそんな物騒なことになっているんだい」
彼の驚いた顔を見て、少年は先ほどの自分の発言を取り消したくなった。父から不当に厳しい扱いを受けていることを主張したくて誇張気味に言ってしまったことに、少年は自分でも気がついていた。だが彼にそれを知ってもらいたい欲求を抑えることができず、少年の口からは堰を切るように虚飾された言葉が溢れ出してきた。
「僕はお父さんに殺される。僕はお父さんより力が弱いから、お父さんがいないと生まれてこなかったから。そしてこの墓に埋められるんだ」
決して本当に命の危険を感じた訳ではない。父親が力加減を間違えるか、余程当たり所でも悪くない限り死ぬことはあり得ないのは、少年も分かってはいた。これらは全て可能性としてあるだけで、あくまで少年の妄想に過ぎない。馬鹿な考えだと自嘲しながらも、喋ってしまわずにはいられなかった。軽蔑されたかもしれない、少年はそう思いながらそっと彼の方を見てみると、彼は下を向いて何か考えている様子だった。声をかけるべきかどうか少年が悩んでいると、彼はおもむろに話し始めた。
「僕たち子供は親に従わなければ生きていけない、それは事実だ。親に限った話ではない、親にもまたその親はいるし、突き詰めていけばそれは神だとも言えるし、自然だとも言える」
彼は手のひらで地面に触れた。少年はまさか自分の言葉をそんな風に返されるとは思っていなかったので、動揺しつつも彼の次の言葉を待った。
「僕たちは反発しながらも成長し、やがて親から離れる。でもそれで脅威が終わる訳ではないんだ。君はどうすれば君の悩みから逃れられると思っている?」
「お父さんが……いなくなれば」
日頃抑圧されていた不満や願望が少年の感情を激しく揺らしたのか、少年は我慢しきれずにまくし立てた。
「お父さんがいなくなれば僕は怒られなくてよくなる。いつも僕の将来のためって言って勉強ばかりさせて、僕を自分の部屋に追いやるんだ」
少年は一息ついて、こう付け足した。
「お母さんだって、そう思っているよ。いつ殴られるかっていつもびくびくしてる。その場にお父さんがいなくったって、僕もお母さんもつい怯えてしまうんだ。もうまるで病気のように」
そこまで喋ると少年は脱力して、力の無い目で彼の様子を窺った。彼は悲しそうな顔をして、こう言った。
「そうかい。僕もね、昔はそう思っていたよ」
彼はそう言ったきり、下を向いて黙り込んでしまった。少年は話し過ぎてしまった気まずさから、無理やり話題を切り替えるような形で他の話をした。そうして少し喋った後、帰る時間になったので少年は別れのあいさつを言った。
「またここに来るよ」
「うん、僕も」
その言葉で、少年は彼が再び会うことを認めてくれたのだと分かった。また会える、そう思うと少年の心は浮き足立った。先ほどの気まずさはまだ尾を引いているが、家族とも、学校の友達とも違う話し相手が出来たことが嬉しかった。少年は彼と話すことによって、自分の持っている苦しみを何か別のものに昇華できる、そう感じていたのだ。
帰り道、少年はいつも通り父に怒られないように早足で家に向かっていた。彼と話すことによって気分は晴れていたが、父に外出がばれないように帰ることはもはや習慣となっていた。少年はアスファルトを見つめながら足を前に出すことに集中していたが、急に誰かに背後から肩を叩かれた。
「どうしたの、慎司君。ぼーっとしてるよ」
健君だった。彼とは家が近所で一緒の学校に行っているので、こうやって道で出会うことも多い。
「あ、健君。ちょっと考え事してた」
少年はとっさに愛想笑いをした。
「別に大したことじゃないんだけど」
少年は話をしかけて、やめた。今日林で知らない子と会ったことや、その彼に悩みについて話したこと、それを嬉しく感じたこと、そんな事を健君には喋れない。健君は何でも母親に話してしまう癖を持っていて、健君の母親と少年の父親が話したときに全部父に伝わってしまうからだ。
学校でも先生に何でも話してしまうらしく、他の友達にそういった面が指摘されたことがあった。しかし健君は誰にでも親切なので、たった一つ悪癖がある程度で嫌う人などいなかった。社交的な性格も相まって、クラスではむしろ人気者だと言ってもいい。少年も健君のことは良い人だと思ってはいた。だがもし「クラスで一人だけ健君のことが嫌いな悪い子がいる」と言われれば、それは自分のことだと思ってしまうだろう、少年はそう感じていた。
そのような理由で、他愛無い会話でも健君と話すときには気を使う必要があった。少年は話を誤魔化そうとして、別のことを言った。
「健君の家は、家族みんな仲が良さそうでいいな」
「え、そうかな。僕の家だって喧嘩ばかりだよ。毎晩テレビのリモコン取り合ったりしてるもん」
テレビ見てもお父さんから怒られないならいいじゃん、友人の言う喧嘩の内容を聞いて、少年はみじめな気持ちになった。でもそれを言うことは、少年には出来なかった。
「そんなのは喧嘩のうちに入らないよ。むしろ仲が良すぎるくらいだ」
少年は苛立つ気持ちを抑えて、冗談めかして言った。
「でも慎司君の家だってそんな感じでしょ」
健君は人の良さそうな笑みを浮かべてそう言った。
「僕の家は、健君の家みたいなのじゃないよ。だって僕は健君みたいに成績もよくないし、良い子でもないし」
「そんなことないよ。慎司君だって頭いいし、良い子だと思う。そんな風に悪く考えるのは良くないよ」
笑いながらそういう友人に、少年は劣等感を感じていた。いつも健君は型にはまった『良い子』の答えをする。僕の方が出来が悪いから、優越感を感じながら優しくしてくれて、お説教めいた事までしてくれるんだ。少年は心の中で毒づいた。友人の優等生らしい振る舞いが故意なのかどうか、少年には推し量ることしかできなかったが、少なくとも友人に密やかな悪意があるのではないかと少年は常々疑っていた。
少年はそんな自分の気持ちを隠すように、いつも通りの、もう顔にはりついてしまった愛想笑いを作った。そして友人と同じように優等生らしい答えを返した。
「ありがとう、そんな風に言ってくれるのは健君だけだよ」
「僕そろそろ帰らなきゃ、お父さんに怒られちゃう」
「そうなんだ、引きとめちゃってごめんね。じゃあね」
そう言って健君は去った。少年はほっとして、また憂鬱な気分で家路を急いだ。
数日後の夕飯時、いつも通り黙って行儀良くご飯を食べていたら、父が唐突に話を切り出した。
「慎司、お前健君に何か要らないことを吹き込んだだろう」
きっとこの前会った時のことだ。少年はそう思ったが、告げ口されるようなことは言った覚えが無かった。
「え、何だろう。僕知らないよ。……ごめんなさい」
健君に話す内容には重々注意を払っているはずなのに、あの日の会話の中で一体どの件が父親の機嫌を損ねてしまったのか、少年には検討がつかなかった。
「おかげで健君のお母さんに嫌味を言われたよ。子供に対して厳しすぎるんじゃないか、だからお宅の慎司君は成績がいいのねって。他にも近所の人にうちが何て言われているか、知っているのか。お前はいつも他人に、うちのことをどんな風に喋っているんだ」
先日の会話で、そんな風に受け取られていたのか。少年は驚いた。そもそも先日の会話の内容からじゃなくても、そんなことは近所の人にはばれてしまっているのは分かっていた。少年は、友達の母親達が自分のことを可哀想な子供だと噂しているのを聞き知っていた。いつも時間を気にしてびくびくしているって言われてたよ、と健君がわざわざ自分に教えてくれたからだ。少年は父親にも母親にも抱きしめられた記憶が全く無いことを、ふと思い出した。
「父さんは慎司のことを思ってやっているのに、どうしてお前はそういう態度を取るんだ」
少年は母親の方を覗き見た。母はこちらに目を合わせないようにしながら、黙々とご飯を口に運んでいた。もしかするとお母さんにはこの会話が聞こえてないんじゃないか、少年にそう思わせる程母の見ない振りは完璧だった。もともとお母さんには何も期待していないんだから、構わないよ。少年はそう思うことで、母のことを無視することにしていた。
今回の件について一通り怒鳴り、関係のない昔のことまで掘り返し始めてもなお、父の怒りは収まる気配を見せなかった。少年は叱責を受け続けることに疲れを覚えはじめていた。そのためか、少年はつい愚痴をこぼしてしまった。
「僕も他の家の子と同じように、居間でテレビを見て笑ったりできる家に生まれたかった」
こんな生意気な口をきいたらどれだけ怒られるかと恐ろしかった。だが故意でない訳ではなかった。もしかすると普段父を畏怖するあまり言えなかった本当の気持ちを聞いて、父が子供の純粋な望みを受け止めてくれるかもしれないという計算があった。だが少年に投げかけられた言葉は期待していたような優しいものではなかった。
「うちはうち、余所の家は余所の家なんだ。口答えするんじゃない」
食卓がばん、と激しい音を立て、厳しい一喝が飛んできた。少年は竦み上がった。自分の期待を裏切られたことを怒っていたし、悲しんでもいた。だが一番少年の心に衝撃を与えたのは、暴力だった。少年は父親の暴力が怖くて仕方なかった。
「余所の家がどうだろうと、他人に合わせていたらろくな奴にならない。他人に合わせていればいざという時、他人がお前を助けてくれるというのか。親身になって考えてくれるとでも思っているのか」
二度とそんなつまらないことは言うなと言い置いて、父は自室へ去った。母は黙って父の残していった残飯をごみ箱に捨て、食器を片付けた。
僕がいくら頑張っても、お父さんと笑って話せる日なんて多分来ないのだろうな、少年は失望した。たとえお父さんが僕のことを思って厳しくしていたとしても、人の顔色を窺う癖のついた、卑屈な子供にしかなれないし、友達ともぎこちなく接することしかできない。それのどこが僕の幸せだと言うんだろう。僕には力が無いから、お父さんが何をやっても抵抗できない。そうしていつかお父さんの暴力に呑み込まれて、殺されてしまうだろう。そう思うと少年は悔しくなった。少年は目尻に浮かんだ涙の粒を母親に見られないように、乱暴な動作で食器を片付け、二階の自分の部屋へと向かった。
***
数ヶ月前、まだ夏真っ盛りだった時のことだ。私はベッドに寝転んで、溶けていくアイスクリームのようにただ部屋の天井だけを見つめていた。時折窓から生暖かい風が入って、額にかかった髪を揺らした。昼間だったので外は暑苦しかったし、喧しかった。外から隔てられた部屋の中で、私は部屋の空気や時間が沈んでいくのをずっと見ていた。まるでレコードの針がすり減っていくかのようだ、私はそう思っていた。部屋の内容物は天井から埃と一緒にゆっくりと舞い下りてきて、私の顔の横を通り過ぎ、足元へと溜まっていった。
このまま横たわってぼんやりしていれば、いつか餓死するのではないかと思った。机の上には銀紙に包まれたチョコレートが二粒置いてあった。そうだ、チョコレートをしゃぶるくらいなら餓死してしまった方がましだ。祖父が死んだ時、祖父の姉は祖父のように大往生したいと言って、火葬場で祖父の骨をしゃぶっていた。ぬるい風とともにチョコレートの甘い香りが漂うのを一瞬感じた。
……白骨死体のそばで餓死するのはどういう気分だろう。そんなことを考えながら、少年は文字を書く手を止めた。少年は備忘ノートを書いている。あれから数回彼に会い、その話の中で備忘ノートの話を聞いて、少年もつけ始めようと思ったのだ。少年は彼に名前を聞いてみた。彼の名は律といった。少年はその名前をノートの一番はじめのページに書き綴った。
律が言うに、備忘ノートとは日記のように毎晩寝る前につけるといったことをするのではなく、思い付いたことを思い立った時につけるためのものである。この記録は日記とは少し異なる性質を持っていると少年は考えているため、備忘ノートと呼ぶことにしていた。そこに書くべきことについても特に決まったルールは無い。日記のようにその日の出来事を書いてもいいし、読んだ本からのメモ書き、すべき事のリストアップでもいい。とにかく、忘れてはいけない事や後で思い出したい事について思いのままに書き連ねていくのだ。
最初は本当にただのメモ書きだった。明日の持ち物や学校での用事などを書きとめておいたりしていただけだったのだ。しかしページが埋まっていくにつれ、そこに書かれる事は読んだ本のタイトルになり、その内容や感じた事となった。
今では夢の内容やふと思い浮かんだことを書き留めていることが多い。少年は夜更かしをする子供であった。家族も外の世界も寝静まった夜に、デスクライトのぼんやりとした光だけを点けて備忘ノートをつけていた。窓から入ってくる夜の冷たい風を額に受け、まどろみながらノートに書き込んでいくのが少年の慰めになっていた。
近頃では現実より夢うつつの状態で見たことの方が面白いと少年は感じていた。夢は感傷的で掴みどころがなく、正気に戻るとすぐに消えてしまうが、少年にとっては現実より象徴的で意味のあるものだったからだ。悩み事の答えをそっと差し出してくれる夢は、自分の言い分を聞いてくれず罰だけを与える父や、見ない振りをする母、大人に媚びて少年を省みてくれない友人より、ずっと少年に近しいものに思えたのだ。
それからしばらく経ったが、少年はまだ墓参りを続けていた。律がいたからという理由も大きかったが、それ以上に虐待されて死んだ女の子がここに埋まっているのではないかと思えたからだった。少年は殺された女の子にひどく同情していた。父親に不遇に扱われ、周りの人にもそれを見て見ぬ振りをされる自分を、殺された女の子に重ね合わせて見ている部分があまりにも大きかったからだ。
そういった立場に置かれる原因の一端は自身にもあることを、少年は自覚してはいた。自分の性格を素直で従順だと言えば聞こえは良かったが、そういった性質は卑屈で自己愛が強いことの裏返しであるのだから、父親にしても誰にしても、厳しく当たられて当然だった。だが少年は自己憐憫の情を捨てられなかった。
恥ずかしいような、後ろめたいような気持ちを必死に取り繕いながら、少年は今日も墓にもみじを供えた。もみじの山はまるでたき火が燃えているかのような紅さなのにもかかわらず、どこか寒々しさを感じさせた。身に堪える肌寒さに、少年は秋がもう終わってしまうのだと気付かされた。吐く息の白さに驚きながら、少年は座ってこちらを見ている律に向かって、おもむろに話し始めた。
「僕お父さんが苦手なんだ。家族だから嫌いとか、そんな風には言い切れないんだけど、もしもいなくなってくれたら多分ほっとしてしまう」
墓の前で律と会って話をすることが、すっかり少年の習慣になっていた。彼はそういう性格なのか、冷たかったり、よそよそしい態度を取ったりすることもあった。だが友人には言えないような話でも、不思議と彼にはすんなり話すことができた。誰かに本音を言いたかったのかもしれない。少年は父にも友人にも、建て前で会話することに疲れていたのだ。
「誰だってそうだよ。他の人と関わりあうのは気後れするけれど、誰かといたい。そう思うものさ。それは君にも、君のお父さんにも言えることだ」
だから君は嘘を吐くし、君のお父さんは暴力を振るうんだよ、律はそう言った。
「なんでそうなるの」
「だって君は例え父親に殴り殺されるとしても、実際家を出てはいないだろう。家出をしたいと思ったことはたくさんあると思う。想像だけだったら君はもう他のねぐらを見つけて笑っているか、死んでいるだろう」
律は横目で少年を見ながら、苦笑いをした。皮肉な言い草に、少年はため息をつきたくなった。少年は言い訳がましいと思いながらも言った。
「どうしようもないから出て行くか死ぬかしたいと思ってはいるんだけど、僕は得体の知れないところで死にたくはないんだ。だって汚いだろ。寝られないようなところでしばらく誰にも見つけられないまま、転がっているのは耐え難いんだ」
「寝られないところ? 毎日寝ている布団や、服を脱いで入る浴槽なんかでも駄目だって言うのかい」
「そんなところで死んだら、僕の死体を見つけたお母さんがまた勝手なこと想像し始めるよ。学校で友達にいじめられているとかね。僕は死んだことを周りの人たちに悟られたくないんだよ」
「でもどう足掻いても、死んだら死体は残ってしまうんだ。猫は死期を悟ると家人からは見えないところに行って死ぬって言う。だけど人間が死んで空気のようになることは難しい」
「死んだ後親や友達に僕の死体を見られて泣かれるなんて、想像しただけでも嫌になってくる。飛び降りて、風の中に僕の身体が溶けていけばいいのに」
「そんな死に方ありえないさ。だって今こうやって生きているということは、ひどい死に方をするってことと同じことだ」
律は心底嫌そうな顔をした。そして彼はこう続けた。
「僕の祖父の話なんだけどさ、戦時中祖父は奇跡的に生き残ったんだ。爆弾が雨のように降り注ぐ中で周りの人がみんな死んでいった。だが祖父だけは無事だった。まるで爆弾が自分だけを避けているかのようだった、あれは運命だった、そう言って祖父は僕によく自慢していた。逆にこういう話もある。あるとき僕は家族とデパートに出掛けていたんだけど、そのデパートで警報が鳴った。火事が発生したんだ。火はみるみるうちに広がって、死を覚悟する程の大火事になった。周りの人たちが動揺して半狂乱になっている中、突然知らない男が『ありがとう!』って叫び始めたんだ。僕はびっくりしたよ。その人は周りの人から罵られるのにも構わず、『神は存在した』とか『私は選ばれた』とか、何かに訴えかけるかのようにずっと叫んでいたんだ。でもどうにか収拾がついて人々が普段通りの平静さを取り戻したとき、僕はもう一度その男を見たんだけど、この世の終わりのような顔をしていたよ」
そういった意味では運命的に死に選ばれるって事態もありえるのではないだろうか、律はそう言った。
「だって君のお父さんが殴るのだって些細なことだ。でも当たり所さえ悪ければ、君は死ぬ。確率は極めて少なかろうと、その可能性があることは事実だ。そして今、君は死んでいなかろうとその可能性だけで十分だと思っている」
「そうだね。それに君の言う人が訴えていたように、神様がいるとすれば僕だってもう救われていてもいい頃だと思う。本当に存在していれば、僕は何だって我慢できるよ。でも、実際はそうじゃない。だってそうだとすればあの人が今ああして生きている訳がないし、子供が炎天下のアイスクリームのように溶けてなくなっていくのをみんなが黙って見ているはずがないんだ」
少年のささやかな告白に、律は非難するような口調で答えた。
「血だ。血が邪魔するんだろう」
「血って……どういうこと?」
「血縁だよ。誰も生まれる場所や親を選べない。血は運命的なものだからだ」
その時点では、少年は律の言葉のすべてを理解できたわけではなかった。自分の中に流れている血を感じ取るには、少年はまだ幼すぎたのだ。
***
夜、少し強まった雨の音で私は目覚めた。浅い眠りから覚めたばかりで身体がだるいが、だからといってもう一度寝られそうになかった。数日前から降り続いている秋雨のため、空気は湿り気を帯び、寝巻きの薄い布地から冷気が染みわたる。仕方が無いので眠るまでの間、音楽を聴くことにする。暗がりの中、聞き馴染みのあるCDを本棚から取り出し、コンポの電源を入れる。緩やかに流れ始めたピアノの音を聴きながら、壁にもたれかかって目を伏せている。
こういう夜にはきまって思い出すことがある。私は本棚の隅で埃を被っている数冊のノートを引っ張り出した。ベッドの上にそれらを広げると、数年前の自分の字がノートから溢れ出した。
十月二十一日 木曜日 (雨)
今日は図書館で天体の本を読んだ。惑星や星座の名前を覚えた。
物の名前をたくさん覚えたら、もっと色んなことが分かるようになるかな。
十月二十七日 水曜日 (くもり)
お父さんは勉強ばかり言うけれど、学校の勉強より本を読む方が色んな事を知ることができると思う。懐中電灯を持ってきて、ふとんの中で本を読みたい。はやく一人で暮らせるようになって、お父さんに見張られずに夜ふかしをしたい。
数年前までは些細なことで目をきらきらさせていた。目についたもの全てを吸収すれば自分の糧になっていくと信じていたし、何をしても眠くならなかった。親や先生が正しいと言うものは正しいと鵜呑みにしていたし、ニュースで殺人や暴力の話題が流れると、どうして悪いことをするのか理解が出来ないと義憤の念を抱いた。
いつからこんな私になってしまったのか。私が学んだものの殆どは成長するにつれ霧散して、何処かに消えてしまったようだ。こういった秋雨の降る夜には、読書よりも蜂蜜入りの紅茶を飲みたい。そしてまどろみながら、徒然に考えるのだ。未消化なのに自然と終わってしまう、全ての問題について。書きかけのノート、どこに埋めたか思い出せないタイムカプセル、会わなくなった昔の友達……。こうして考えているうちに、私は風にざわめいているもみじの葉に降られて、段々埋もれて忘れられていく。
ペンを持つ手がぴりりと痛んだ。今日殴られた時、変な風に手をついてしまったからかな、少年は顔を顰めた。家族が寝静まった深夜、少年はいつも通り備忘ノートを書いていた。
少年は昨晩みた夢を思い出した。たくさんの人に見つめられて腹が膨れ上がっていく、不気味な夢だ。見られているうちに少年は気分が悪くなり、観衆の目の前で無数の目玉を吐き出す。夢から覚めて額の汗を拭ったとき、少年は腹の底に目玉が残っているのを感じた。
デスクライトの光の下でノートを広げながら、夢と同じように吐き出してしまえればいいのに、と少年は思った。ノートに書かれた文字がばらばらになって口から入り込み、腹の底に沈殿していく、ノートを見ているの少年はそんな感覚に襲われた。悪意や諦め、寂しさ……少年が今までノートに綴ってきたそれらの想いが、かき混ぜられて輪郭を無くし、このぶよぶよの身体を作り上げてきたように少年には思われた。
少年は窓の外を見た。ひんやりとした雨がまるで降りやむことのないかのように、屋根や地面を打ち続けていた。でもこの雨が止む頃には冬が来てしまう、少年の心には焦りがあった。
近所のもみじが全て枯れてしまうと、墓に供えるものが無くなってしまう。そうなると律に会うこともなくなってしまうだろう。それは少年にはたまらなくさびしく感じられた。この憂鬱な秋がずっと続いていけばいい。少年は父親の仕打ちに耐えながら、律に会いに行ってその苦痛を言葉に昇華するという行為に酔っていた。
今日父さんは出張で帰ってこないらしい。少年は学校に行く前に母親からそう聞いた。父親の不在はまれなことだった。少年は存分に寄り道をしてから家に帰った。もう辺りは薄暗くなっていた。やはり父親の車は無かった。いつもより遅い夕食を母親と二人で食べた。食事中、二人とも無言だった。普段父親がずっと喋っているせいで、話を切り出すということに母子は慣れていなかったのだ。
そうやって過ごしていると、少年の心に苛立ちが生まれた。自分は父親に不当な扱いを受けている。母親はそれを知っているのに、何も言おうとしない。父親のいない今日なら僕に優しくしてくれたっていいのに。少年は母親の態度に対して不満を募らせていた。
しばらくは黙ってやり過ごしていたが、少年はとうとう痺れを切らせて口を開いた。
「お母さん、父さんがどんな人かって考えたことある? 」
「何を言ってるの、慎司」
「お父さんが時々僕を殴っているの、お母さんは知ってるよね」
少年がこの家で禁忌となっている言葉を告げると、母親はしばらく口をつぐんだ。そしてしばらくの沈黙の後、ぽつりとこう呟いた。
「面倒なのよ」
母親は首を気だるそうに傾げながら言った。
「そんなこと、笑って話せるようになるわ。大人になったらね。余計なことは考えないで、その日のことだけ考えていればいいの」
母親の目は少年を映してはいなかった。母親が何を見て日々暮らしていたのか、少年はふいに疑問に思った。お母さんは僕を見ていない、お父さんも見ていない、では何を思って生きているのだろう。少年は母のことが理解出来なかった。
つねづね周りの人からは、少年の性格は母親似だと言われていた。容貌は父親のものを多く受け継いでいたが、父親の頑固さや短気なところは少年には見当たらなかった。必然的に、少年は父親のことは理解できないが、母親の気持ちであればある程度分かるはずだと思うようになっていた。
お母さんの気持ちはよく分かる。僕もお母さんも、お父さんに怯えながら生活しているんだから。少年は母親に対して父親による共通の被害者だという意識を抱いていた。しかしここにきて、母親の考えていることが理解できず、少年は困惑した。
少年は何回か話を切り出してはみたものの、結局ふたりきりだと黙り込む他なかった。少年は情けない気持ちで泣きそうになりながら、味気ない夕食をひたすら口に運んだ。そして食べ終わったら逃げ込むように自室に戻り、部屋に閉じこもっていた。その日は風呂にも入らずに、少年は眠りに落ちた。
数週間後、大切な話があるといって。学校に母親から電話が掛かってきた、すぐ帰ってくるように、そういわれて少年は学校を早引けした。電話越しの緊迫した空気を思い出しながら少年は急き立てられるように家に帰った。
家に帰ると父親も家にいた。今日は仕事じゃなかったのかな、少年は不思議に思いながらダイニングの自分の席に座った。父親と母親が並んで座る向かいの椅子、そこが少年の定位置だった。家族全員が揃い、父親が口を開くのを少年と母親は固唾をのんで待っていた。束の間、沈黙が部屋を支配した。やがて父親が口を開いた。
「慎司、父さんと母さんは離婚することになった」
来る時が来たな、そう考えつつも少年は意外に思わざるを得なかった。権威的な父と無口な母、どちらが離婚を言い出したのだろう。いい雰囲気の家庭ではなかったのは確かだが、惰性で家族を続けていくのではないか、少年は両親に対してそういう印象を抱いていたからだ。
「離婚など、慎司には悪いとは思っている。だがもうどうしようもないのだ。兎に角、どちらについていくか、しっかり考えておきなさい」
父がそこまで言うと、母はやれやれ、やっと終わったとでも言いたげな顔をしてダイニングから出て行った。母親が部屋に戻って、父親と少年が二人取り残された。少年は父親に尋ねた。
「どうして離婚することになったの」
父親は少し目を見開いて、躊躇いながらもこう言った。
「母さんと他の人の間に赤ちゃんが出来たんだ。父さんのことは嫌いじゃないんだけど、だとさ」
お母さんと他の人の知らない人との間に赤ちゃんだって。唐突に告げられた事実に、少年は驚きを隠せなかった。それとともに、こんな事になるまで気付きもしなかった父親に対して呆れと恥ずかしささえ感じた。
「お父さん、僕はお母さんと一緒に暮らすことにするよ。お父さんのことが嫌いなわけじゃないんだけど」
元々父親と暮らしていけるとも思っていなかったので、少年はそう言った。言った後に、言い訳めいてるところが母親と同じだと気付き、少年は苦笑した。
父はそうか、と呟いて背を向けた。
少年は森に行った。律にお別れを言うためだ。彼はいつものように紅葉の墓にいた。今日は木に背をもたせかけて本を読んでいるようだ。
「何を読んでいるの」
少年は律に話しかけた。彼は本から目線を外して、少年をじっと見つめた。
「ムージルだよ。『特性のない男』」
「何それ」
「ドイツの小説だよ。プルーストの『失われた時を求めて』、ジョイスの『ユリシーズ』と並んで、二十世紀の三大文学と言われているんだ」
「どういう話なの」
「どうという事はないよ。どうしようもない男が、どうしようもない集団で訳の分からない活動をして、どうしようもない時代を生きている、ただそれだけの話さ」
「こんな分厚い本なのに、そんな事ばかりつらつらと書き連ねているの」
「まあそういう事になるね。でも君、思わないか。僕たちの人生も往々にしてそんなものじゃないかと」
彼は一息おいて、薄灰色の晩秋の空を見つめながら言った。
「可能性感覚っていう言葉があるんだけど、存在するものが必ずしも存在しないものより重要という訳ではないんだ。今現在存在しないものが存在していた可能性もある、そういう世界のことを考えることによって、無限の世界が想起されるだろう。そうするとEigenschaften、特性を持ちえなくなる。そういうことだ」
彼のその説明で、少年はその本の内容を理解できた訳ではなかった。だが彼の言うことを聞いて、少年は自分の夢のようだと感じた。現実ではないこと、掴みどころがなく、多様性のある夢の世界に憧れを持つ少年は、本の主人公に興味をもった。そしてその事について、律の選んだ本だけある、と感嘆の意を示した。彼なら自分のことをもっと分かってくれるだろう。この先色んな話をしていけば、より親しい友人になれただろう。少年は律と別れなければならないことが本当に惜しいと思った。
別れの言葉をどのように切り出せばいいか、少年は迷った。どんな話をすれば彼に自分のことを伝えられるのか分からなかった。
「小さい時にお腹が痛くて病院に行ったんだ」
悩んだ末、少年は幼かったころの思い出を語り始めた。
「風邪の時にやるような診察じゃなくて、変な部屋に連れて行かれて怖かった。それで、処置の工程で麻酔をかけることになったんだ。でもそれが身体に合わなくて、気分が悪くなった。僕はぐったりして涎を垂らしながら、必死に助けを乞うたよ」
少年は腹の底から搾り出すように、記憶を手繰り寄せた。するとその当時の感情がみるみるうちに少年の心の中に蘇ってきた。
「後でお母さんに怖かったって言ったら、そんな診察大人になったらいっぱいするんだから怖くないよって言われたんだ。どうして僕のことを誰も分かろうとしてくれないんだろうって、幼いながらに思ったよ。でも君と初めて話した時、君だったら分かってくれるんじゃないかって思った」
熱っぽい口調で少年はそう語った。そして律の方を見た時、彼がひどく冷たい表情をしていることに気付いた。
「実は君、暴力なんて大して受けていないんじゃないか」
彼は今まで黙っていたと思えば、唐突にそう言い出した。
「確認した訳じゃないけれど、君には本気で殴られた人に残る程の傷や痣は無い。僕と話している時の君は、最初の方は痛むような仕草を見せる。でも話に夢中になるにつれて傷口を庇う動作は無くなっていって、仕舞いにはその部分に触れても平気な様子だった」
「いいかい、どんな家庭でも暴力はある。確かに君のお父さんは暴力を振るっているかいないかというと、振るっているのだろう。だがしかしそれはどの家庭でも多かれ少なかれあることだ。親が精神疾患だったり変質的な嗜好を持っていると、その子供は地獄のような虐待を受けることになる。君の家は厳しくて息苦しいかもしれない。だが君のお父さんの暴力は、言ってしまえばただの躾の問題だ。世の中本当にひどい虐待はある。『カラマゾフの兄弟』でも寒い秋の日に裸にされて、地主の猟犬どもに食い殺される子供の描写があっただろう。イワンが言ったように、罪を認めなくちゃ行けない天国なら、切符なんてさっさと返してやる、そういいたくなるような話だ」
「じゃあどうして殴られたところが傷むの? 僕が痛みを感じているのは本当だよ」
「父親に殴られて痛くない子供なんていないさ」
その父親のことなんだけど、と少年は話を切り出した。
「父さんと母さんが離婚して、引っ越すことになったんだ。ここから電車で一時間くらいかかるところ。今日はそれを言いにきたんだ」
「そうだったのか。では今まで言ってなかったけど、今だからこそ言っておこう。僕はね、肉親と離れて暮らしてるんだ」
「え……」
「両親ともに死んだんだよ。同時にではないけれども。そのおかげで僕は結果的に血のつながりのない人に養ってもらっている。君もこの町を出て行くなら、直に分かるよ。僕がどういう気持ちで今生きてるかって」
律は続けてこう言った。
「前に言ったよね、『血の運命』って。僕たちは親を選べない。環境を選べない。痛めつけられるかどうか、死ぬかどうかさえ自由意志で選べるとは限らない。君は死ななかろうと、死ぬかもしれない可能性があるという事実だけで十分だと言った。可能性感覚という言葉で語られる、無限の事象のなかの一つの世界で、我々は生きている。君は他の可能性、他の面からも自分の置かれている状況を見つめてみた方がいい。僕たちは父なるものに逆らえない、弱い存在だ。だが君にとっての父が何であるか、もう一度見直してみるといい。父親の暴力が存在するかしないか、そんな事は問題ではない。暴力が存在する世界、しない世界。全ての可能性を考慮しても、君に残るただ一つの問題は常に存在することになるだろう。それを理解できない限り、君が暴力から解放されることはないだろう。正直、僕は君の態度を見ていると苛々するんだよ」
そう言って、律は立ち上がった。少年は律と会話をしようと試みたが、彼の威圧的な喋り方に返せる言葉が無かった。
「僕もそろそろ帰らなければいけない。苛々するなんてひどい事を言ったが、別れるというのは寂しいものだね」
「律……」
「僕もまだまださっきまでの口上なんて理解しきれない、ただの非力な子供ということなんだろうな」
その後、律とはまともに言葉を交わすこともできず、淡々と別れの言葉を告げて帰ってきた。そして少年がぼんやりしている間に、母とともに新しい家に引っ越す手筈が整った。引越しの日も、少年はあの日の気まずさを引きずったままだったので、墓を訪れることなく出て行くことになった。
新しい家は以前住んでいた家より広々としていた。前の家も狭くはなかったが、どこか重い雰囲気を纏っていた。それに比べてこちらの家は日当たりのいいリビングに暖かみのある雑貨などが飾られ、ここに住んでいる家族は幸せなのだろうなという思いにさせられる家だった。
慎司君、新しい家族よ、母から紹介された男と少女はどちらも人の良さそうな微笑みを浮かべて、少年を家 に迎え入れた。結婚はまだなのよ。法律で決まっていることでね、まだしばらくは居候みたいなものだけれども、でも私たちはもう家族なのよ。そう言う母の顔を見て、少年は困惑した。「新しい家族」は父と違って優しそうだ。だがそのうち化けの皮が剥がれて、僕のことを邪魔な目で見始めるかもしれない、苛められるかもしれない。少年はそう疑っていた。実際のところ、そう思う根拠など何も無いはずだった。ただ母が知らない人と急に仲良くし始めたせいで、僻みのようなものを感じているのだろう。自分の中にしばしば湧きあがる醜い感情について、少年はそう説明付けることで納得することにしていた。
それからしばらくして、父が死んだという知らせが少年の耳に入った。少年は驚いて母親に詳細を尋ねたが、母親は自分もよく知らないと言葉を濁した。だがその表情から、あまり良い死に方ではなかったのだろうと少年は思った。
僕の手の届かないところで裁きが訪れてしまったのだ、少年はそう思った。裁かれたというより、むしろ受けるべきだった罰からまんまと逃げられてしまったのかもしれない。父の死に様を実際に見てはいないため、少年には分からなかった。
「僕たち子供は親に従わなければ生きていけない、それは事実だ。親に限った話ではない、親にもまたその親はいるし、突き詰めていけばそれは神だとも言えるし、自然だとも言える」
少年はいつの日か、律が言った言葉を思い出した。以前だったら父が死んだと聞けば万歳喝采していただろう。本の世界では悪い人が死んだ後、主人公はずっと幸せに暮らしたと書かれていた。だが少年の前には一歩先さえ見えない暗闇があるだけで、明日に対する不安だけがその心を占めていた。
少年はすっかりやる気を失っていた。母の再婚相手や義妹とも上手くやっていける自信がない。母はまるで今の家庭が戻るべき場所だったかのように、新しい父や義妹と楽しそうに話している。みんな少年に特別優しく接してくれてはいるが、少年が一人で二階の自分の部屋に籠っているとき、下の部屋から楽しそうな笑い声が聞こえてくると、少年は自分が完全によそ者であることを自覚させられた。急に環境が変わってしまって、少年は一人で前の家に取り残されてしまった気分だった。
この家に引っ越してから、少年は頻繁に頭痛がするようになった。家が新しいからペンキなどの化学物質で悪くしているのかもしれないと言って、父や母は大変心配してきた。そしてホルムアルデヒドなどについて調べ始めたが、少年の頭痛で結束している家族を見ていると、少年は無性に腹が立ってきた。
ある日少年はとうとう我慢がきかなくなって、一階に降りた。ちょうどその時は義父も母も食事の用意で台所にいる時間帯だった。リビングには義妹だけがいて、夕方の幼児向け番組を見て笑っていた。少年は出来るだけ何の感情も込めないようにして、義妹の頭を殴った。
「おにいちゃんが殴ったぁ」
義妹は泣きながら父と母のいる台所まで走っていった。まずいことをしたなぁ、少年は頭では分かっていながらも、どうも罪の意識が湧いてこなかった。やがて台所が騒がしくなった。少年はリビングで一人、夕食が出来るのを待っていた。しばらくするとひやりとするほど、台所が静かになった。美味しそうな匂いとともに義父と母が台所から出てきた。叱られるのかなぁ、少年はぼんやりとそう考えていたが、母親にひとこと、「暴力は、振るっちゃ駄目なのよ」とだけ言われた。義父も母も、その日はそれ以上何も言ってこなかった。
なるほど、お父さんもこんな気持ちだったのだろうな。自分と向かい合おうとしない両親を見つめながら、少年は怒りを感じると同時に、憂鬱な気持ちになっていた。
お父さんの血が、僕の中に流れているんだ。自分の運命を支配している血の奔流を、少年は自分の内に感じていた。あれほど似ていなかった父が、あんな風にはなりたくないと思っていた父が、少年の性質を支配していたのだ。
結局のところ、少年は父のことをどう思っていたのか分からなかった。そんなことはもはやどうでも良かった。ただ、少年は自分が父親でもあるのだとしたら、自分自身はどこにいるのかが分からなくなっていた。自分の中に流れる赤いもので、少年は埋め尽くされそうになっていた。備忘ノートを書かなければならない、少年は降り積もっていく苦しさをノートに吐き出さずにはいられなかった。腹の底に溜まっているものをノートに書き散らし、それをまた目から吸い込んでいく、その循環で血を洗うのだ。
親からの虐待で、ニュースの中の小さな女の子は死んだ。僕はその日一番綺麗だった紅葉を供えることしか、彼女にしてあげられることはなかった。だがもう冬になってしまった。ここに紅葉はないから、代わりに備忘ノートを書き溜めることにしよう、今晩もデスクライトの明かりで、夜の冷たい風を受けながらノートを書こう。少年は居心地の悪いリビングを離れて、二階の自分の部屋に帰った。
***
ノクターンが聞こえる。
窓の外は雪。粉雪が地面に降り積もっていき、厚い根雪となっていく様子がくもった窓から霞んで見える。部屋の中は暗く、壁や床からは冷気が微かに伝わってくる。暖炉には橙の炎が燃え盛っていて、火花が暖炉を覆う煉瓦に当たっては消えていく。木製の台の上で、Chopinと銘打たれた、使い古されたレコードが回っている。針がその溝を丁寧になぞる。音量は暖炉の火花の音に遮られない程度に絞られている。
私は安楽椅子に深く腰を掛けている。目を閉じて、聴き慣れたメロディに静かに耳を傾けていた。膝には赤い膝掛けを掛け、その上に灰色の毛並みの猫を載せている。安楽椅子は小さく揺れていて、時々軋んだ。その動きに合わせて、私は猫を撫でてやる。頭から背中へ、ゆっくりとその灰色の毛並みを愛しむ。猫は死んで硬くなっていた。猫の体は、芯は冷え切っていたが、その毛並みを撫でていると毛並みから仄かに温かさが伝わってきた。
暖かさと、心地良い重みと、柔らかな冷たさが、私の身体を解きほぐす。呼吸は段々緩やかになっていく。眠気が幕を降ろすようにもたれかかってくる。
そして私も目を閉じる。
少年が妄想ばかり書きつけるので、備忘ノートは少年の書いた字でいっぱいになった。少年は満足してノートを読み返した。少年はノートの中でさえ嘘ばかりつくので、そこに描かれている自身は「僕」ではなかった。少年の部屋にはベッドやコンポは無く、家に暖炉なんてあるはずも無い。行ったことの無い場所や経験したことのないシチュエーションのもとで、語りかけてくるのは少年ではない別の誰かであった。だが少年はその誰かにひどく共感することができた。
久しぶりに、少年は律や健君に会いたくなった。誰か自分を知っている人と話がしたかった。だが律の住所や電話番号は知らないし、健君の家に行ってもあの騒々しいおばさんと喋って健君に会わせてもらうのは気が引けた。こちらから頭を下げて会ってもらって、健君にいつものように育ちの良さそうな笑顔を向けられたら、みじめ過ぎて逃げ出したくなると思ったからだ。
出掛けようかどうか散々悩んだ末、少年は久しぶりに墓に行くことにした。一人で電車に乗るのに慣れていなかったので、以前住んでいた街に行くだけなのに特別なことをするような気持ちだった。電車を降りて駅から見渡す街は、慣れ親しんでいたはずなのにどこかよそよそしい雰囲気を醸し出していた。少年は泣きそうになったが、人前で泣く訳にはいかないので下を向いて前髪で顔を隠して歩いた。
駅から小一時間ほど歩いて、やっと森に着いた。紅葉の墓は以前と変わらず鮮やかで、触れ難い雰囲気を醸し出していた。片手にノートを持って、少年は墓に近づいた。墓を見つけた当初、少年はそこに女の子が埋められているという幻想を抱いた。こうやって表面から見ている限りには、あの哀れな女の子はこの中にいるともいないとも言える。中を開けてみない内は、ここには無限の可能性があった。
そんな事を少年が考えていると、突然強い風が吹いた。少年が目を瞑っているうちに、風はたくさんの紅葉をさらっていった。風が止むと、もうそこは何の変哲もない森に戻っていた。手元にはただ備忘ノートだけが残った。
僕はここから追い出されてしまったんだ、少年は改めてそう思った。既に少年の居場所はなくなってしまって、開けた空間が冬の冷たい空気にさらされていた。帰って、夜になったらまたここの事を思い出しながら備忘ノートを書こう、僕に残されているのはノートと、夜の冷たい風だけなのだから。少年は踵を返して、森の出口に向かった。
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