20180523-不釣り合いな俺と彼女
一
暑い。もう盆だというのに、この道東がまるで本州でもあるかのように、アスファルトに蜃気楼まで立っている。
その暑い中、六十キロの峠道を車をとばしてあと少しで実家に着こうとしたとき、赤い外車――サーブ9000がこちらを向いて止まっていることに気がついた。そのかたわらで、俺の車に気付いて懸命に手を振る一人の女性。俺は見とれてしまって、少し行き過ぎて車を止めた。
「よかった、止まってくれて」
女性は三十代後半のふっくらした面持ちで、とても嬉しそうに笑った。夏なのに紺色のスーツを着ていて、とても暑そうである。
「どうしましたか?」
「車を止めて風景を眺めていたら、エンジンが掛からなくなって」
「分かりました。見てみましょう」
ボンネットを上げて故障個所を探した。どうやらオルタネーター(交流の発電機)のベルトが切れて充電できずにバッテリーが上がったようだ。
「原因は分かりましたが、部品がないので直せません。でも、ストッキングがあれば代用できますが」
「え?」
女性は自分の足元を眺めると、ちょっと躊躇して脱ぎはじめた。それも俺が見ている目の前で。日焼けしていない太ももが、俺をドキリとさせて下を向いてしまった。
「これでいいですか?」
「はい、大丈夫です」
真っ赤な顔の女性からストッキングを受け取ると、すぐにオルタネーターのプーリー(滑車)とエンジンのプーリーを、ベルトの代わりにグルグル巻いた。気のせいかもしれないが、ストッキングはぬくもりがあって手が震えたのだが。
応急の修理は直ぐに終わった。後は、俺の車のバッテリーをブースターケーブルで繋いでスターターを廻すとエンジンは掛かった。
「ありがとうございます」
女性は、とても嬉しそうにそう言った。たぶん、この外車はお気に入りだろう。こんなとき、俺は喜びを感じる。
「まだバッテリーが充電してないから、一時間ぐらいはエンジンを切らないでくださいね。それから町に着いたら、ちゃんと修理してください」
「あの、お名前は?」
「俺? 俺のことは気になさらずに。はい、名刺です。井出モーターズ。もしよかったら、ここで修理してください。釧路市内から電話をしてくだされば、向かいに来てくれますから」
「それで自動車に詳しいんですね。えーと、佐藤隆明さんですね。よかった。私、釧路は初めてでどこに頼んだらいいのか分からなかったんです」
安心した面持ちの女性は、汗で頬に貼り付いた髪をかき上げた。
この時、俺はこの女性はどれくらい待ったのだろうかと考えた。この暑い中、喉が渇いているに違いない。だが、残念ながら俺の車には、飲みかけの飲料水しかなかった。
「もし喉が渇いていたら、この道を少し行くと、飲み物の自動販売機がありますよ」
「あれ、入ってますよね?」
そう言って、女性は俺の車の飲み物を指差した。
「あれは、俺が飲んでいた奴ですが」
「おねがい」
よほど喉が渇いていたのか、両手を合わせてお願いされた。仕方なく、飲みかけの飲料水を渡すと、女性は喉を鳴らして飲み干した。
「ああ、生き返った」
あまりのことに、俺は呆然としてしまったが、女性は人心地付いたような笑顔である。
「それでは、お世話になりました」
「いいえ」
それにしても、彼女は一体こんな田舎に何か用事があったのだろうか。しかし、理由を聞ける訳はない。俺は実家に行く途中なのだが。酪農をやっていて、盆と正月に帰らないと父から電話が掛かってきてどやされる。仕方なく行くと、壊れた機械を出して来て、修理させられるので嫌なのだが。
俺は、女性の車が発進するのを見届けると、実家へ向かった。
二
四時ころ実家に到着すると、俺は少し離れた牛舎を見渡した。乳の大きな牛が群れをなして牛舎へ吸い込まれてゆく。早く絞ってと言いたそうに、モーと鳴き声をあげて。俺はしばらくその光景を眺めると、お土産を手に持って玄関のチャイムを鳴らした。
「はーい」
弟の嫁の時子が、顔を出した。髪を短く切って日焼けしているのだが、相変わらず美しい。俺の胸はずきっと痛んだ。
「ご無沙汰しています、時子さん。これ、大地にお土産」
「いつもすみません、隆明さん。大地が喜ぶわ」
さあ、どうぞと言って俺を居間に通してくれた。すれ違うとき、かすかに時子の匂いがした。
あれは、俺が中学に入ってすぐだった。同じクラスの佐々木時子が、真っ赤な顔で、俺に手紙を差し出した。小さいころから憧れていたので、俺は手を震わせてその手紙を受け取った。それから、交際が始まった。幼い俺たちは、一緒に弁当を食べるとか、休み時間に話をすることで心みたされていたが、いつも心に引っかかっていた。お互いに農家の跡取りだと言うことが。
悩んだ末、俺は時子と結婚することを夢見て、地元の農業高校ではなくて、遠くの工業高校へ進学したのだ。これは、農業を継がないと言う、完全な意思表示である。父は怒って学費も生活費もを出さないと言ったが、母はだまって出してくれた。俺は、卒業後も働きながら必死に勉強して、自動車整備士の資格を取ったのだ。
しかし、その間に地元の農業高校に進んだ時子と俺の弟が、卒業とともに婚約してしまった。そのことを聞かされた俺の心境は複雑だったが、余命わずかな母の頼みで、必死で笑顔を作り結婚式に出席したのである。あのときの夢を、未だに見る。
だが、そのことがあったから、こうして実家に出向くことができるのだ。母には、感謝をしている。
俺は、仏壇の笑っている母の写真に手を合わせた。愛犬のメロディの散歩をしていて撮ったものだが、病気の苦しさにも負けずうれしそうに笑っている。そのメロディも一昨年、老衰で亡くなった。たぶん今頃は、天国でメロディと散歩していると思う。
母と久しぶりに会話した後、時子の入れたお茶を飲んでくつろいでいると、夜の搾乳前に皆軽い夕食を食べに来た。話し声と笑い声がかさなって、にぎやかである。
「兄さん、ひさしぶり」
「隆明。今年も、修理頼むな」
「おじさん、こんにちは。お土産って、なに?」
皆顔が、うれしそうである。
「大地。お土産は、天体望遠鏡だぞ」
「すげー! すげー!」
そう言って、大地は俺に抱きついて来た。かわいいやつ。
「兄さん、いつも悪いね」
「よかったなー、大地」
俺は、この大地を溺愛していた。まるで、我が子のように。また、そうすることで時子との思い出を風化させようとしているのかもしれない。
「さあ、食べたらさっさと乳しぼりを終わらすぞ」
父はそう言って、浅漬けの白菜をごはんに乗せると、勢いよくかき込んだ。
皆が牛舎へ向かうと、俺はかまぼこ型の農業機械倉庫のシャッターを上げた。まずは、トラクターに装着して草を刈るモアの修理。俺は、折れた歯を鉄のハンマーでガンガンたたいて形を整えると、整備工場からかりてきた半自動溶接の装置を電源につないで溶接を始めた。火花が散るので皮手袋とハンドシールドは欠かせない。そして、すべて溶接し終わると、グラインダーできれいに歯をとがらせた。
ふと、視線を上げると、大地のランランと輝いた視線とぶつかった。
「おじさん。僕に溶接の仕方教えて」
小学校四年には、まだ早いと思ったが、俺は、いいよと言うと、鉄板の切れはしを固定して、溶接して見せた。続けて、大地に溶接をやらせた。はじめてにしては、うまくできて、顔をほころばせた。
「小学生にしては、いい腕だね。でも、ひとりで使うんじゃないぞ。事故が起こったら、俺の責任になるから。これを自分ひとりで使えるようになるには、電気の勉強をして、免許を取らなきゃいけないんだよ」
ほんとうは、免許はなくても扱えるが、安全のために必要だと言った。もしも、怪我したり、建物が燃えたりしたら、いけないので。
「面倒くさいなー」
「そうだよ。人の命がかかっているからね」
そう言う俺は、中学時代から独学で勉強して、無免許で溶接していたのだが。あの頃、俺がやっていたのは仕上がりが荒いアーク溶接。今日持ってきた半自動式溶接は、技術的にも、コスト的にも数段上である。その荒いアーク溶接で、壊れたバイクを直して、畑や私道で乗り回していた。その頃から、将来の夢は自動車の整備士になることだった。
「さあ、もうそろそろ皆が上がってくる時間だ。さっさと晩飯を食べて、天体望遠鏡セットしようぜ」
満面の笑みを浮かべて、大地はうなずいた。
ご馳走を食べた後に天体望遠鏡をセットした。夏の夜空には、無数の星々が光り輝いていた。この田舎には珍しくないこぼれそうな天の川だが、どの星を見るかで迷ってしまう。
大地は、去年買ってあげたノートパソコンで、星座の位置を確かめると、探索をはじめた。そして、気に入った星を見つけると、セットしたデジタルカメラに収めた。
夜の星座めぐりは、遅くまで続いた。大地は、印刷した白鳥座を胸に抱きしめて、眠りについた。
翌日、俺は皆と同じように朝早くから起きて、残りの壊れた農業機械を直していた。そして、九時頃には、皆と連れ立って七十キロほど離れた屈斜路湖(くっしゃろこ)へ向かった。道中、焼き肉のタレを忘れたとか、サンダルを忘れたとか騒いだが、結局それは皆キャンプ場に売っているとわかり解決した。
昼前に到着すると、俺たちはテントを組み終わってから、服を脱いで湖に飛び込んだ。真夏だと言うのにこの日は水が冷たくて、すぐに砂浜に穴を掘り、砂湯で暖まる。大地は、弟の作った砂湯に入ってしまい、少し寂しくなった。
「ねえ、入れて」
ふいに、時子の声がした。遅れて湖に入ったのだろう。ガタガタと歯がかみ合っていない。
「どうぞ」
俺は、高鳴る鼓動を悟られないように、少し隙間を開けた。時子の水着は、アイドル歌手のようなワンピースで、三十という年齢を感じさせないほどかわいいのだが、水にぬれてよけいに寒そうに見えた。
「ふー、助かったー」
俺は、時子の顔を至近距離で見れない。それは、時子も同じだったようで、うつむいているうなじが見えた。
そのとき、時子が皆には聞こえないように、声をひそませていった。
「ねえ、結婚しないの?」
それは、ごめんなさいの言葉に聞こえた。俺は、あわてて言った。
「そうなのよ。誰もうんと言ってくれなくて。ほんと、困っちゃうわ」
時子は、あはははと笑って言った。
「ほんと、優しいんだから」
「いや、ほんとは違うんだ。君が、いつまでも美しいのが悪いんだ」
時子は、ありがとうと言って、涙を浮かべて笑った。
後日、時子から手紙が届くのだが、そこには弟と結婚した理由が書かれていた。かいつまんで言うと、以下の内容だった。
あの頃の私には、あなたについて行く勇気も、自分の道を切り開く自信もありませんでした。そんなとき、声を掛けてくれたのが、直道さんでした。私は、直道さんの優しさに甘えて、あなたとの繋がりを選んだのです。ほんとうに、ごめんなさい。
でも、これだけはわかってください。今は、直道さんもあなたも、私の大切な家族です。だから、あなたも幸せな結婚をしてください。
俺は、あまりにも早足で、気がつくとデートする女性が、怒ってることがある。それと同じで、時子も俺について来れなかったのだと思い知る。
なぜ、あのとき手を差し伸べて、優しく抱きしめなかったのだろう。せめてもの救いは、時子が幸せそうなことだ。
三
盆が明けると、俺は日常に戻って行った。前日の晩、俺はかりた半自動溶接機をもとに戻しておいた。そして、朝七時に起きると、七時四十分にツナギを着てアパートを出る。職場の井出モーターズには、徒歩十五分。工場へ着くと盗難や破損などの異常がないか点検してから、営業時間の八時半までインスタントコーヒーを飲みながらスポーツ新聞を読むのが、楽しみである。
ちなみに、俺の車はアパートの駐車場代がバカにならないので、工場の敷地に置いてある。スバルのワゴン車――インプレッサで、四駆と流れるようなスタイルが自慢である。
「よお、佐藤。おはよう」
「おはようございます。上田さん」
先輩の上田さんが、ツナギを着て職場に現れた。四十歳になって頭とお腹を気にしている。
「佐藤はいつも早いな」
上田さんは、そう言いながらコーヒーを入れて、俺と対面のソファーに腰掛けた。お腹を気にしている割には、砂糖を三杯も入れる。
「はい。家にいてもやることがないですから」
「だから早く結婚すれって言ってるんだ。三十になってからが時間の経過が急に早くなるんだ」
「ははは」
「そうだ。盆休みに女性が訪ねて来たよ。オルタネーターのベルトとバッテリーを買ってもらった。売り上げ貢献、ご苦労さん」
「よかった、ちゃんと修理してくれて。それでベルトが切れた原因はなんですか?」
「ああ、張りが弱すぎてスリップしたのが原因だろう。ちゃんと調整したからもう大丈夫」
「有難うございます。それでバッテリーは、やっぱり過放電で痛んでいましたか?」
「そうだね、あれじゃ夜は直ぐにバッテリー上がっちゃうよ」
「お手数をお掛けして、すみませんでした、上田さん」
「それよりあの人、佐藤よりはちょっと年上だけど色っぽいな。もろ、タイプじゃないのか?」
「いやー、彼女はたぶん大学を出てバリバリ仕事をしている才女ですから、俺なんて。それに、もう結婚しているでしょう」
「結婚はしてないな、指輪してなかったから。それに、案外佐藤に惚れたかも。その証拠に、メールアドレスを渡してくれって置いて行ったよ。そら」
「どうも」
名刺ではなく岡田芳子という名前とメールアドレスを書いただけの紙だった。俺は携帯で、ちゃんと修理してくれてよかった、と書いて送った。
それから就業時間となり忙しく働いた。その日の修理は、たれたバネの交換だったが、古いシビックだったので、木の棒をかませての力作業だった。それが、二台も入っていたので、ヘトヘトになって作業を終えた。
メールの着信を確認したのは昼休み。食堂で仕出し弁当をなんとか食べ終わってお茶をすすっているときだった。
『岡田芳子です。この前はありがとうございました。とても助かりました。お礼に今度食事に行きませんか?』
この返事に困ってしまった。俺は工業高校を出てこの修理工場に勤めて今まで過ごした。それ故、大学出の女性とは縁がなかった。もっぱら高校出の女性とお付き合いしてきた。だが、俺の性格が細かいことに気になるたちで、いつも振られる。そんな俺が大学出の女性と食事? どんな罰ゲームなのか。だから、すぐに返信した。
『岡田芳子さま。そんなお気になさらずに。気持ちだけ受け取りました。ありがとうございます』
こう返した。だが、岡田さんは中々納得せずに、同じようなメールが三日三晩行き来した。仕舞には私が歳だからかと言われて、俺はとうとう折れて食事の約束をした。
四
釧路のレストランはたかが知れている。それでも失礼がないように一応スーツを借りて約束の日に職場で待っていた。皆がサービス残業をして忙しく働く中、ひとりソファーに座っているのは、酷く居心地が悪い物である。
手持ち無沙汰に車のカタログを眺めていると、約束の時間どおりに岡田さんはタクシーに乗って工場に現れた。服はこの前見たときと変わらず紺色のスーツを身にまとっていたが、しっかり化粧をしていた。この方がずっと色っぽくて俺はドキドキしてしまった。
「佐藤さん、お待たせしました」
岡田さんはそう言って、事務所の窓から眺める社長たちに会釈をしてタクシーを出した。
「このスーツ、借りものなんです。変じゃないですか?」
「いいえ、ちっとも。私は、普段着ているスーツで来ましたが、ドレスの方がよかったかしら?」
「止めてください。よけい緊張するから」
「そうですよね。よかった」
このとき、微かに香った香水が俺の鼓動を早まらせた。
レストランに着くと、俺は否応なしにエスコートをさせられた。慣れないのでとても緊張したが、紳士になったようで気持ちがよかった。
レストランに入ったことがないという俺に対して、岡田さんがあらかじめオーダーしたメニューは、不案内の俺にはわかるはずもない。だが、味は美味かったように思う。なにせ、緊張と彼女との話に夢中になっていたので。
話題はもっぱら俺の仕事について聞かれた。どこで身に着けたのか。どれ位でできる仕事なのか。将来の夢は。
自分を飾ってもすぐにメッキが剥がれるので正直に答えた。不良が大勢いる工業高校で基礎を学び、二年間修理工場に勤め、二級自動車整備士の資格を取った。これは、ハイブリッド車以外の整備全般を任される資格である。取るのは苦労したが、機械が好きで中学の頃からバイクをいじっていたから、いやになることはなかった。
将来の夢はレストアの工場を作って、老後はそこで仲間たちと古い車を直すことだ。当然、利益は出るわけもなく、カツカツだろう。
「こんな話、聞いても面白くないでしょ。それよりも、俺は岡田さんの仕事の話を聞きたいな」
「私の仕事はつまらないわよ。クレーム処理だから。お客の所へ行って、ひたすら頭を下げる仕事なんだ」
そう言って、岡田さんは「ふふふ」と笑ったが、目がなぜか泳いでいる。だが、それは思い出したくないことがあるのだろう。俺は、話題を変えた。
その後は、映画、音楽、スポーツ観戦、などに話を広げた。思ったよりも趣味が似ているので、食べるよりも会話に夢中になった。
だが、デザートが来ると彼女は無口になった。アイスを美味しそうにほお張る彼女は、歳よりも若く見える。俺と同じ三十歳だと言っても通用するだろう。と言っても、三十代後半は推定年齢であるが。
「今日は本当に有難うございました。いい思い出になりそうです」
「私も、こんなお店で食事するのは初めてなんです」
「またまた。岡田さんだったらお誘いも多いでしょう」
「そんなことありません」
岡田さんは寂しそうに笑った。俺は、気になってお別れを言うことはできなかった。
「そうだ。これから俺の行きつけの店に行きませんか? ここから歩いて行ける距離です」
岡田さんは、こくりとうなずくと、ギャルソンをよんでカードで支払いをすませた。
「ごちそうさまです」
「いいえ」
「さあ、こちらです」
歩いて向かった店はちょっとわかりづらい路地裏、小さいプレートが掛かっているバー。名を『heaven』と言う。その脇の重い扉を開けると、チリンと音がする。中に入ると照明が薄暗いので、目が慣れるまで時間が掛かる。俺は、いつも行っているので慣れたが、はじめの頃は足元ばかり見ていた。
このバーは、とてもナンパできる雰囲気ではない。大人しく飲むのがルールみたいになっている。
「隠れ家みたいで、素敵なお店ね」
「そうでしょ」
「それにこのマルガリータ、とても美味しいわ」
「だってさ。マスター」
「有難うございます」
マスターはそう言って、作り笑いをした。あご髭を生やして、一重の見えない目には眼鏡を掛けている。
マスターは一度だけ俺に話したことがある。妻を交通事故で失って、そのときに彼は視力を失ったのだと。元々バーテンだった彼は、慰謝料でこの店をはじめた。だから、この店は天国にいる妻に守られているようで安心するのだと言う。マルガリータの作者の人生に少しだけ似てると思った。
コップを拭くマスターを見ていた岡田さんが、ふいに口を開いた。
「マスターってあご髭をはやしていて四十ぐらいに見えるけど、本当は二十代後半かな?」
すると、マスターは口に指を当てて、しーと言った。その瞬間、あちこちで笑いが起こる。それを聞いたマスターは、がっくりと肩を落とした。照明が暗くても、常連はみんな知っているのだ。
「若くてうらやましいわ。ねえ、マスターから見たら、私は何歳ぐらいに見えるのかしら?」
マスターのコップを拭く手が一瞬止まった。そして、申しわけなさそうに言った。
「すみません、ご婦人。私、目が見えないので」
「え! ごめんなさい。そんな風には見えなくて」
「いいんですよ。よく言われますから」
マスターは、よく健常者だと間違われる。それくらい、日常の動作には支障をきたさない。それでも、外を歩くときなどは、神経を使うと言う。だから、誰かと結婚すればいいと言ったのだが、ただ笑うだけだった。やはり、亡くなった奥さんを、いまだに愛しているのだろう。
「佐藤さんには、いつも助けられています。それで、ホモだって間違われて」
「それはマスターがかわいいのが悪い。これで髭を剃ったら大変なことになるから」
「そうですか?」
話を聞いていた客は、皆うなずいた。俺は、その反応をマスターに報告すると、両手を上げて降参した。
この店は、多くの人に守られている。俺が気にしないでもいい位に。それでも、俺は放っておけない。それは、酪農をやっている実家に置いて来た弟の代わりなのかも知れない。
「いいお店ね」
「よかった、ここに連れて来て」
「そして、あなたもね」
「え?」
岡田さんは、俺の疑問符を笑って受け流した。
それから、俺と岡田さんは三杯お代わりをして、タクシーに乗った。そのタクシーの中で彼女の家にどう言って上がり込もうかと考えたが、学歴がブレーキになって言い出せなかった。やはり、俺には不釣り合いな女性なのだ。
岡田さんのアパートへ着くと、今日は楽しかった。それじゃと言って、大人しくタクシーに戻ろうとした。
「実は、実家からギフトで送って来たバースデー・ケーキがあるのよ。私ひとりじゃ、食べきれないの」
岡田さんはそう言って、恥ずかしそうに笑った。その言葉で俺のブレーキが外れた。
「誕生日、おめでとう」
俺は、そう言ってタクシーの料金を払った。
この夜は、緊張してたせいか、前戯もぎこちなく、本番に至っては中折れで、散々だった。「ごめんね」と言うと、「いいのよ、誕生日を祝ってくれてありがとう」と言って抱きしめてくれた。
ひとりの誕生日ほど、寂しいものはない。たとえ、いくら歳をとっても。
このとき、とても珍しいことに気が付いた。岡田さんの手は、しっとりと湿っているのだ。まるで、緊張しているかのように。
彼女の話では、普通の人は緊張したときに手が汗ばむのだが、どういうわけか、彼女は常に手が湿っているのだと言う。本人は、気にしているが、そのことで身体の具合が悪いとか、なにか困ったことがあるわけでもないので、極力気にしないようにしているそうだ。
俺からしてみれば、あの湿った手を握りしめると、まるで身体が溶けあったようで幸せな気分になる。実に、不思議な体験だった。
五
翌朝、俺が目覚めると隣には岡田さんが眠っていた。穏やかな吐息が俺の胸に掛かってくすぐったい。
昨夜の話では、岡田芳子三十八歳ちょうど。帯広で生まれて、札幌の大学を出てデパートに勤める。はじめは製品のバイヤーを任されていたが、歳を取りクレーム処理に回された。そして今は釧路に来てその仕事を続けていると言う。生きるって大変なのねと岡田さんは寂しそうに笑った。俺は、そんな笑顔さえ、いとしさを感じるのだった。
岡田さんは、それから少しして目覚めると、恥ずかしそうに、おはようと言ったが、時計を見てあわてた。
「こんなにぐっすり眠ったのは久しぶりだよ。送っていけなくてごめんなさいね。それじゃ、またね」と言って、あわただしく車に乗って出て行った。俺は、タクシーをひろって自分のアパートへ戻った。
それから、岡田さんは忙しくて、会えない日が一か月ほど過ぎた。俺は、もしかしたら嫌われたのかと思い、暗い気持ちで過ごしていた。あの日も、岡田さんのことをもんもんと考えて、工場の食堂で昼休みに弁当を食べてお茶をすすっているときだった。
「おい、佐藤。この前の女の人がテレビに映っているぞ」
同僚の言葉に驚いてテレビの画面を見た。それは、事件の記者会見だった。岡田さんが弁護士として、逮捕は不当だと訴え掛けている。それも、ヤクザの。
俺は、この光景をシーンと静まり返った食堂で黙って聞いた。そのニュースが終わっても、重たい空気は変わらなかった。俺は、いたたまれなくなって席を立とうとした。
「おい、佐藤。あれは、仕事でやっているんだよ。いくら嫌でも、あれが弁護士の仕事なんだ。きっと、そう言うもんなんだ」
「上田さん、わかってますよ」
だが、いつまでも重いしこりは拭い切れなかった。俺は、ヤクザの弁護をしているよりも、弁護士として働いている才女だと言うことを気にした。偏差値五十にも満たない俺は、偏差値六十以上の大学を出て司法試験を受かっている女性には、きっとチンケに見えるだろう。
それでも、岡田さんは俺と一緒に眠って、ぐっすり眠れたと言った。その言葉を信じたかった。
それから半月が過ぎて、季節は秋になった。岡田さんに余裕ができて久しぶりのデートは、あのバー『heaven』で待ち合わせた。
岡田さんは薄いオーバーを羽織り、硬い表情でバーに現れた。彼女はマルガリータをオーダーして、カウンター席からボックス席へ移動するように、俺にうながした。
「久しぶりだね。元気してた?」
「ねえ、テレビ見たでしょう?」
岡田さんは、俺の質問には答えずに、思いつめたようにそう言った。
「うん。キレイに映っていたよ」
「茶化さないで」
「ごめん……」
「私のこと、嫌いになった?」
「いや、嫌いになりはしないけど、なんだか遠い人みたいで。頭は良さそうだとは思ったけど、まさか弁護士さんとは。どこの法学部出たの?」
「ガリ勉して北大。この目はコンタクトなの」
そう言って、岡田さんはおどけるように自分の目をまばたかせた。
「それでも、すごいよ」
そのとき、マスターから声が掛かり、岡田さんはカクテルを受け取ってひと口飲むと、遠い目をして言った。
「これでも、昔は正義感に燃えていたのよ。そのお陰でいつのまにか国選弁護人の仕事しか来なくなって。窃盗の常習犯とか、ヤクザのね。あの記者会見だって……」
岡田さんは、そう言って顔をおおった。その後に彼女の言いたかったことは、たぶん『本当はしたくなかった』だろう。
「大変な仕事なんだね。でも、そんな才女がどうして俺なんか?」
「その目よ。なんの悪意もなく優しく見つめてくれるから……。ねえ、こんな私だけど一緒にいてくれる?」
「岡田さんこそ、俺でいいのか? 偏差値五十以下だよ」
「そんなこと気にしないで。あなたもガリ勉したらきっと北大でも入れると思うわ」
「なんだか、そう思えて来た」
そう言って、自分を励ますしかなかった。
「よーし。今夜はとことん飲みましょう」
その夜は、軽いカクテルにはじまって、バーボン、そしてビールをあおった。岡田さんは酒に強いみたいで、俺は正体なしにあと一歩だった。
「岡田さん、それ位にして、タクシー呼びましょうか?」
マスターが心配顔で、ブレーキを掛けてくれた。
「ごめんなさいね、こんなに酔って。お会計お願いします」
「有難うございます」
俺は、岡田さんに肩を抱かれタクシーに乗った。
その夜、俺はリミッターが外れた車のように、衝動のままに岡田さんを抱いた。そして、ことが終わると、俺は力尽きて眠ってしまった。
結局、このときの俺は、酒の力を借りて、思いの丈を岡田さんにぶつけたように思う。その前は、よそ行きのセックスをしたから、うまく行かなかったのだろう。言うなれば、俺がヘタレであることが証明されたことになるが、それだけ岡田さんが知的で、美しいからだと思う。俺は、理想以上の女性を手に入れて、とても幸福である。
六
年末。雪が強い風に吹きだまりとなって、毎日のように除雪をする季節となった。俺たちは、実家に帰らずにふたりで過ごすことに決めた。一緒になって、岡田さんのアパートの大掃除をして、蕎麦を食べ、紅白を観て、除夜の鐘を聞いた。まるで、夫婦のようだと思ったが、それは言わずに飲み込んだ。
弁護士と整備士。それは、あまりにもかけ離れている。そんなふたりが結婚して、果たして上手くやっていけるものなのか。
しかし、今のところ、会話で違和感を覚えることはない。それでも、岡田さんの選ぶ話題が、俺のレベルに落とされているのかも知れないが。
だが、映画を観て、同じ場面で一緒に笑い、一緒に泣き、一緒に感動したのは確かだ。
そして、セックスも非常に相性がいいみたいだが、まだ子供はできないようだ。このところ、毎週のように会って彼女を抱いている。もし、四月頃まで子供ができなかったら、不妊症を疑うべきだと思うが、岡田さんの年齢を考えると、自然の摂理として受け入れるべきか。
子供ができなくたって、上手く行っている夫婦はたくさんいると思う。いざとなったら、子供を引き取って育てればいいのだ。
俺は、こんなことを考えながら、徐々にプロポーズへの心の準備をしていった。
三月になって、少しずつ暖かい陽気となってきた。そんな時期になっても、俺はまだプロポーズしていなかった。やはり、子供ができなかったときを考えて、躊躇してしまう。それは、甥の大地を思うと、いっそう俺の頭を悩ませた。
そんな折、突然、従妹が遊びに来た。厚岸からバスに乗って一時間半も揺られて来たそうだ。
「芽衣ちゃん、よく来たね。疲れたでしょう?」
俺は、工場の食堂でホットココアをおごった。
「ありがとう、お兄ちゃん。わたし、そんなに疲れてないよ」
「そうか、芽衣ちゃんも高校を卒業したんだから、もう大人なんだね」
従妹は、商業高校で調理師免許を取って、地元の給食センターに就職を決めた。中々の頑張り屋なのである。
それにしても、わからない。卒業旅行なら友だちと行けばいいのに、なぜ俺の所へひとりで来たんだ。まさかとは思うが、俺を好きだなんて言わないよな。俺はそこまで考えて、なにバカなことを妄想しているんだと、打ち消した。
「あと三時間したら、定時だから待っていてね」
そのとき、奥の事務所から社長が顔を出した。
「こら、佐藤。かわいい従妹が、わざわざ遊びに来たんだ。もう帰っていいぞ。タイムカードは、定時に押しておくから」
「社長、どうもすみません」
「これで、何かうまい物でも、食べなさい」
「え、こんなに! ありがとうございます、社長」
なんと二万円もくれた。従妹が満面の笑顔を返すと、その瞬間、食堂にいる皆が幸せにつつまれた表情を浮かべた。それくらい、従妹の笑顔には、威力があるのだ。そう言う俺も、脈拍が著しく上がった。
俺は、ロッカーに置いてあった少しホコリ臭い普段着に着替えると、従妹をワゴン車に乗せて、近くのファミレスへ向かった。
「芽衣ちゃんは、なに食べたい?」
「うん。それじゃ、パンケーキにカフェオレ。それと、チョコパフェがいいな」
「なんだ、それじゃ全然余っちゃうよ」
「まさか、ステーキとか、カキだとか、カニなんかを食べれって言うんじゃないでしょうね? そんなの、地元じゃいつも食べているじゃない。それに、お昼食べてから二時間もたってないし」
「そうでした……」
「ねえ、ごはんは後にして、お兄ちゃんの部屋が見たいな」
「えー、俺の部屋なんて汚いよ。とても、芽衣ちゃんに見せられないよ」
「それでも、いいの」
シブシブ従妹を俺のアパートへ連れて行った。もちろん、従妹を外に待たせて、必死で掃除したのだが。
「おじゃましまーす」
従妹は、ぐるっと部屋を見渡し、深呼吸をした。
「男くさい」
それは、そうだろう。女がこの部屋に入るのは、従妹が初めてである。なにせ六畳のワンルームなので、家具やベッドを置くと、居住スペースは極端に狭く、とても女性を招き入れることは、はばかられる。それに、エッチをするには壁が薄すぎた。
「どう、狭いだろ?」
「大丈夫だよ。わたし、ここでも平気だから」
そう言って、従妹はオーバーを脱いだ。その下には、白いセーターを着ている。俺は、従妹の大きな胸に目が行ってしまった。そして、スリムなジーンズに包まれた形のいいお尻に、ゴクリと唾を飲み込んでしまった。
「いいよ。わたしを好きにして」
「な、なにバカなこと言ってるんだ。俺たち、従兄妹同士だぞ」
「それでも、結婚できるじゃない」
「そうだけど、血が近すぎるし、歳だって離れすぎている」
「だって、好きなんだもん」
従妹は、目を潤ませてその言葉を吐き出すと、セーターを脱ぎ捨てた。彼女の陶器のような白い肌は、熱を帯びて赤くほてっている。
俺は、心の内では従妹をなんども犯したが、現実には大切な妹として扱ってきた。それが、ほんの数十センチ手を伸ばせば、かわいい従妹が手に入るのだ。俺の頭は芽衣のことでいっぱいになり、岡田さんのことは完全に忘れてしまった。
そのとき、薄い壁の向こうから、男の笑い声がした。明らかにテレビのお笑い番組を見て笑っている声である。隣りの住人は、夜勤が多いので、午後三時頃から動き出すのだ。
俺は、その笑い声に現実に引き戻される。
「ねえ、壁、薄いでしょう」
「……」
余りのことに、従妹は固まっている。それに、追い打ちを掛けるように言った。
「本当に悪い。俺、近々結婚するんだ」
こう言うと、従妹の両目は、見る見るうちに涙であふれて、やがて声を上げて泣いた。その泣き声は、幼い頃の芽衣ちゃんだった。
「よーし、涙がやんだら、ごはん食べに行こう。そして、厚岸まで送って行くからさ」
俺は、従妹のセーターをひろい上げて渡した。
「ぐっすん。パンケーキと、カフェオレに、チョコパフェだよ」
「うん、わかった」
「楽しみにしてたんだから、三人分ね」
「そんなに食べて、お腹壊さないか?」
「バカ。三人分はパンケーキだけに決まってるしょ」
「そうだと思った」
従妹は、ファミレスでパンケーキを夢中でほお張ると、カラオケボックスへ駆け込み、アニメソングを七曲ほど熱唱した。そして、厚岸に向かうワゴン車の助手席で寝息を立てた。今日は一日気を張っていたのだろう。少々の振動や音では起きなかった。
夜の十時すぎに叔父の家に着くと、俺は眠っている従妹を抱えてチャイムを鳴らした。余ったお金を、従妹のポケットに押し込んで。
七
昨夜は、従妹の芽衣ちゃんを送って行って、帰りが遅くなってしまった。寝不足の身体をだましだまし動かしてやっと定時になって、アパートでうつらうつらとコンビニ弁当を食べていると、携帯が鳴った。出て見ると、岡田さんが深刻な声でバー『heaven』で待っていると言った。俺の眠気は吹き飛んで、急いでコートを羽織ってタクシーをひろった。
「いらっしゃいませ」
「こんばんは、マスター。バーボンを」
「かしこまりました」
カウンターに座ると、岡田さんは俺の手を握った。いつものように湿っている手だ。
「岡田さん、どうしたの?」
「うん」
そう返事して、岡田さんはマルガリータを口にした。なにか悪いことがあったのは電話の声からわかっていた。俺は、彼女の手を強く握り返して、これから言うことに身構えた。背中を嫌な汗が流れる。
「私、四月から帯広に転勤なの」
「え!」
「私の所属する事務所に、ずっと前から実家のある帯広へ移動願を出していて、その席がやっと空いたの。私、今年で三十九だしね」
俺は、お尻に火が着くような思いで、この岡田さんの話を聞いた。まさか、従妹に心を揺らしていたことがバレたのではないのか。いや、そんなわけはない。岡田さんの主なテリトリーは、事務所と法廷、それに拘置所の面会室の中なのだから。
俺は、マスターが入れてくれたバーボンにも口を付けずに、オロオロするだけだった。
「だから……、お別れしましょう」
「待って。待ってよ」
なにを言うのか、俺の頭は整理できていなかった。そして、この言葉が口の中から出た。
「行っちゃ駄目だよ。君は、俺と結婚するんだから」
岡田さんの目から、見る見るうちに涙があふれてきた。
「嬉しい」
俺は、声をあげて泣く岡田さんを抱きしめた。彼女の涙が、俺のコートを濡らした。涙は、なかなか止まらなかった。
岡田さんが、やっと泣き止んでお絞りで涙を拭いていると、見慣れないカクテルがふたつ、俺たちの前に置かれた。
「おめでとうございます。これは、おふたりの祝福のカクテル『永遠の愛』です。どうぞ」
それは、生クリームの中に苺の赤が溶けていて、その上に色々なプチフルーツが乗っているカクテル。普段なら頼まないが、今なら飲める。
「乾杯」
そう言って、俺たちはグラスを合わせて、味わった。
後に打ち明けてくれたのだが、四十もあとわずかになって中々プロポーズしない俺に業を煮やした岡田さんは、もしもこのときプロポーズしてくれなかったら、あきらめて実家のある帯広へ行こうと思ってたらしい。
この話を聞いて、俺は岡田さんの決断に感謝した。俺にはとてもできないし、もしも俺に合わせていたらダラダラと年月を浪費していただろう。
それから、すぐに結婚の準備をはじめ、岡田さんの三十九歳の誕生日に結婚式を挙げた。このとき、すでにお腹に子供がいたが、まだ、小さかったのでウエディングドレスのサイズは変えずにすんだ。
ふと思ったのだが、俺が実家に帰ったから岡田さんと出会えた。そう考えると、父に感謝しなくてはいけない。電話が来なくても毎年訪ねて、親孝行をしようと思った。
八
「おい芳子、起きろ。大変だ。もう八時だ!」
「え! 海(かい)!」
そう叫びながら、芳子はあわてて子供部屋へ駆けて行った。
「なに騒いでいるの。僕は、とっくに起きてパン食べているよ」
「なんで、起こさないんだ、海?」
「あなた、そんなこと言っていないで、早く支度をしないと!」
妻の芳子は外車に乗ってあわただしくアパートを出発した。俺は、パンをかじる暇もなく工場へ向かおうとして、息子とガールフレンドの会話を聞いてしまった。
「佐藤くん、おはよう」
「おはよう、君島さん」
「佐藤くんの家って、いつもあわただしいわね。どうして?」
「それはね、よく眠れるからだって、おかあさんが言っていたよ」
「もしかして、いまだにラブラブ?」
「はー、考えたくもない」
「でも、いいじゃない。向井さん家(ち)にみたいに離婚しなくて」
「それはそれで、大変だなー」
小五の海は、これから反抗期を迎えるだろう。俺みたいにグレてしまわないことを願っている。でも、弁護士になりたいと言うのには、芳子は反対している。いずれにせよ、思ったとおりに生きて行って欲しい。
ガンバレ、息子よ!
そう心の中でエールを送って、俺は井出モーターズへ駆けて行った。
(終わり)
20180523-不釣り合いな俺と彼女