春の訪れ、始まりの季節。
由美香.side
桜の雨が降る公園でビニールシートを敷いて寛ぎながら一人で温いビールを飲んでいた。穏やかな春の光に包まれた公園と、吐息のような生ぬるい風の中の冬の名残りを感じては、過ぎ去ってしまった陽一と、彼に纏わる色々なことを思い出して泣いてしまう。桜の雨は綺麗だけれど、未だに現実から乖離したかのように何処か幻想の海に浮かんでいるようで、途端に不安に苛まれてしまう。私は地に足がつかない感覚にぐらりと揺れそうになりながら、崩れ落ちないようにぐっと力を入れていた。頰は濡れた感触が伝わる。俯いて両手を広げると、手のひらを涙が溢れ濡らした。私は枯れるくらいに泣いたように思えたのに、まるで私の身体がかなしみの海にでもなったかのように尽きることはなかった。
去年の春を思い出す。お花見を楽しむ余裕もなく、ただひたすら仕事に打ち込んでいた。新しく赴任したばかりの学校だからというのもあって、職場の人間関係や生徒との関係であったり、色々と積み重なる問題に精一杯でお花見をする余裕なんてまるでなかったように思う。毎日、ひとつひとつの問題に必死に取り組んで何とか終わらせても、次の日には山の様に新しい問題が降り積もっていたように思えた、あの苦しかった一カ月を乗り越えて4月になったころには、ある程度は要領よくこなせるようになり、少しずつ落ち着きを取り戻しつつあった。そんな時に私は陽一と出会った。後に恋人となる陽一は初めはただ職場の仲間という冷たい関係だったように思う。ただ飲み会でよく席が近かったので一緒に話す機会が多かった。彼は体育会系でよく生徒を怒鳴るので周りからは避けられていたし、私自身もそんな噂を聞いて、怖い人なのかなと漠然と思っていた。でも、そのような感情を抱いたのは最初だけで話していくうちに陽一の不器用な優しさとか、笑う時の癖とか、色々や陽一に触れて知っていくにつれて薄れていったし、代わりに好きが濃くなっていった。気がつけばあっという間だった。私たちはプライベートでもカフェや映画に行ったりして、所謂、デートをするようになっていた。陽一の不器用な優しさは、くすぐったく温かい気持ちになるし、手を繋ぐだけで不安も和らいでいった。私たちは自然に告白して付き合い始めたし、泊まりでデートにも行ったし、もちろん、身体を重ねたこともある。私は自然とこのまま結婚するのかなと考えていた。でも、そのような彼との日々の先も、未来も、梅雨の季節に、突如として閉ざされてしまった。
梅雨の季節がやってきた。雨上がりの空の下でバス停へと歩く。いつもより少しばかりゆっくりと歩き世界を感じていた。濡れた紫陽花、じめじめした空気、私は梅雨と、梅雨に纏わるいろいろなことが好きだった。
その日は雨が降っていたのを覚えている。
「今日は急な用事ができてごめん。何かお土産を買ってくるよ」
私は行ってらっしゃいと言っては抱きしめて唇同士が軽く触れ合うキスをした。
私は仕事が休みなので家中の掃除をして、料理の準備をしていた。途中で疲れてしまったのでソファーの上で横になって眠ってしまったのを覚えている。
眼が覚めるとカーテンの向こう側の朝陽は夢だったのように、夜の暗闇が広がっていた。よろよろと身体を動かしてリビングで時間を確認すれば、もう夜の22時だった。陽一の遅い帰りに不安になりながら待った。夜の23時には流石に不安になり電話したが繋がらなかった。電話口からは無機質な機会音が聞こえてくるだけだった。その日を境に一ヶ月間、彼は行方不明になった。捜索願いを警察に届けたけれども一向に見つかる気配はなかった。私は彼は無事だと言い聞かせながら仕事に夢中になって取り組んでは、ふとした瞬間に涙を流して泣いた。職場の人たちからの哀れむような目が嫌で、みんなの前では強がっていたけれど、私はもう限界だった。食事は固形物は受け付けないために、ゼリーなどを買っては少しずつ食べていたし、夜中は不安から逃れる為にお酒を飲みながら携帯を眺め続けていた。梅雨もそろそろ明ける頃。朝早くにチャイムが鳴る。私は慌てて限界に駆け寄り、勢いよくドアを開けた。むわっと梅雨の香りが広がり、光は玄関から、私を照らした。眩しさに目を閉じて、私はゆっくり開ける。陽一...。陽一であって。願いは簡単に裏切られた。立っていたのは警察官だった。どうしてか悪い方に思考が流されていくのを止められず、私は家族が慌ててやって来るまで、ただ泣き崩れたのを覚えている。
そこまで思い出して、慌てて目を瞑り、こびりつくような悲しい思い出を振り払う。胸の穴がぽっかり空いたような喪失感とか、送り出してしまった私への罪悪感とか、陽一の抱いていた苦しみに気づけなかった私への愚かさとか、色々な感情や想いが溢れて、私はまた涙を流した。もう半年以上は過ぎた。色々なことと闘った半年間だったし、色々なことを諦め、手放した一年間だった、その間に家族には迷惑をたくさんかけたように思う。今もふとした瞬間に泣いてしまうけれど、ある程度は整理がついたように思う。仕事は辞めてしまった。理由はいっぱいあるようで、いざ話そうとすると頭が真っ白になっていたけれど、ゆっくり考え続けた今は少し立ち止まるが必要があったのだと分かっている。何もせずに静かに雨降る空を眺めたり、雨の不器用な歌を聞いたり、そういった時間がまた歩き出すためには必要だった。ふと、私は生徒にとってちゃんと教師であれたのだろうかとか思いつつ、そうであればいいと祈るように思った。
春の訪れ、始まりの季節。