墓標
食器棚から覗くマグカップ
妙に空気が乾ききった部屋で
私は呼吸をしている。
息をしているだけで、生きている訳ではない。
生きている訳がない。
終わりがあるから美しいとか
限りあるから愛おしいとか
そんな聡明なお言葉を吐けるほど、成熟した人間でもなく、賢くもない私にとって
別れとは、終わりとは ただの地獄だった。
私は今日も君がいなくなった日から、どれくらい経つのか数えずにいられない。
君に関することはどんな些細な1滴でさえも忘れたくない。
なくしたくない。
また再び重なるものがないと知った私は君をかき集めるようにしている。
君の歌った歌とか。
日暮れを待つその横顔とか。
並んで眠ったシーツの暖かさとか。
何度も掘り起こして、掘り起こして。
そうまでしても必ず薄れていく恐怖に怯えながら。
そうしていないと忘れてしまうから。
けれどもそうしていても。
時間には、日々の流動には敵わない。
こうしている今も、かき集めた残骸を横から掠めていく。
攫っていく。
少しずつ、少しずつ。
侵食する波のように。
何年、何十年とかけて、少しずつ穿っていく。
ひと月が経った。君の歩幅を忘れた。
ふた月が経った。君の体温を忘れた。
み月が経った。 君の掌の大きさを忘れた。
その頃に、ああ、こうやってなくしていくのかと。
私には腑に落ちた。
許し難いことも、愛しいことも。
亡霊のように徐々にその輪郭を薄くして。
ついにはそこから居なくなるのだ。
もともとあったのかすら迷うほどに。
綺麗に旅立っていく。
その跡には何も残っていなかった。
ただ。
ただ。
君の置いていった揃いのマグカップだけが。
食器棚に墓標のように立っていて。
そこには、あの日の2人の会話や空気や全ての温度が。
埋まっているような気がする。
あの日の君が。
君を愛していた私の骸が。愛いしていた事実が。
安らかに眠っている。
墓標
いつか忘れるとしても。