水洗

水に流してしまおうか。

たった2500円のあなたから貰った指輪を
水洗トイレに落としてしまった。
丁度、外に出ようと体の向きを変えた時に、
壁に指を当ててしまい、その弾みで外れたのだ。
小さな水に跳ねる音。
しまった、と慌ててのぞき込む。
濁りのない水面のすぐ下に指輪は佇んでいた。
とはいえ、落とした場所も場所なものだから
すぐに手を伸ばすことは躊躇われた。
いや、本当にそれだけだろうか?
私が今、太ももの横から手を動かせないのは、
なりふり構わずにそれを拾い上げられない理由は
それだけか?
躊躇った指は、なぜか私の本心に触れてしまった。
指輪に目を向けたまま、そのまま私は立ちすくんだ。



知っている。
私は知っている。
あなたが私よりも2つ下の女の子と連絡を取り合っていることを。
互いに愛称で呼びあっていることを。
その子は薄いピンクのスカートに、グレーのヒール。
白いシフォンシャツで、茶色の長い髪をゆるく巻いていることを。
薄いピンクのグロスで色付けた唇で、あなたと笑うことも。
あなたの気持ちが、そちらへ向かっていることも。
彼女の指には綺麗なシルバーのリングがあることも。



1年なんぞ何にもならなかったのだ。
一緒に歩く歩幅は、気がつけば少し小さくなっていようだった。
きっとスニーカーで歩く私よりも、ヒールの彼女の方が。
小さくゆっくりと歩くから。
ピンクのスカートを揺らしながら。



たとえば。
落としちゃったって言えば、
トイレに流しちゃったのってそう言えば、
あなたは「仕方ないな」って困った顔で笑うだろうか。
彼女よりもいい指輪を、もう落とすなよって、
選んでくれるのだろうか。
そんなあなたが当然のように思い浮かんでしまって、
やっぱり何もかも信じられなくて。
嘘だと笑いたくなって。
私の唇はきっと、そうやって新しい指輪を選ぶあなたを信じて。微笑もうとする。
一方で私の瞳は、
10日前に見たあなたのLINEの通知、
2日前にみた彼女の指輪と繋がれた手を焼き付けたままだから。口にできない感情として涙を落とす。



気がつけば私はトイレの個室で声を震わせ泣いていた。
上手く息ができなかった。
惨めさが首を締めるみたいにそっと手をかけてくる。
それに耐えられなくなって、私は手を伸ばした。

レバーを上げる。流水音。
思わず目をつぶる。
大丈夫、大丈夫、間違ってない。
言い聞かせるようにかわいた唇で呟いた。
これを捨てたと思うのか。
それとも、落としたと思うのか。
それはきっと私がいつか決める。
私が決めてしまえる。
ここで今起きたことは、私だけの秘密だから。

大丈夫。
もう一度だけ呟いたら、立ち上がる。
濡れている頬を拭ってから、
ドアを開けて外に出た。


そのまま帰路についた私は、
おもむろにスマートフォンを取り出し、
見慣れたトークルームを開く。

「ねえ、聞いてほしいことがあるの。」

水洗

私だけが知っている。

水洗

この先私が決断する前のお話。

  • 小説
  • 掌編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-05-31

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