現在を憂ふ

現在を憂ふ

誠に、嘆かはしいことであります。外を眺るも緑はなく、唯灰色の町並みが映るのみであります。道を往く人々も、何とも派手な衣を纏い、首から鉄の鎖を垂らし、物騒な履物を地に打ち付けております。私に其れが何なのかは、一切分かりませぬ。唯、いつの間にやら発生したのであります。忌々しいことであります。
私の若い頃は、それはもう美しい世界でありました。人々は陽光の下田畑を耕し、木々は空の青に映え、虫どもは自由に歌っておりました。すべてが調和しておりました。現在(いま)はもうありませぬ。
五月蝿いものであります、現在の世は。虫どもの歌は、機械の雄叫びに代はって了いました。私は悲しう御座います。夏の風に曝され乍ら聴いた蟬の声が、彼らの奏でる生命の音色が、現在はもう、唯不快なのであります。夏も唯、私を焦がすのであります。
私の生きた彼の日々は、何処へ消えたのでありませうか。昔を想ひ出そうとしても、叶ひませぬ。探しに行こうにも、動けぬのであります。
唯こんな私にも、楽しみといふものが御座います。年に一度、短き間のことであります。其の間だけ、唯其の間だけ、私は昔を想ひまする。晩春、窓に映る葉桜が、色めく間で御座います。
「今日は何時にも増して、葉桜が見事であるな」
梢から射す陽の光に目を細め乍ら、あの人は云ひました。私は静かに、彼を眺めておりました。私は彼を下より眺る許りでありましたが、彼の美しさは、其の足取りは、変はらず其処にありました。
私は彼に大層気に入られておりましたから、外へ往くときは、常に一緒におりました。
私も彼と同じ、葉桜を眺めました。本当に見事でありました。
今日のうちに峠を越へて了おう、そう彼は云ひました。彼は隣の村に、塩を届ける仕事をしておりました。隣と言ひましても、一山越へねばなりませぬ。大変な仕事でありました。
私は其の時、大変疲れておりました。其れでもじいっと、耐へていたのです。然し其れも、長くは持ちませんでした。峠の所為で御座いませう、私は怪我をして了いました。彼は大層驚いて、暫く思案した後、
「今日は此処で休むことにしやう」
と云ひました。
彼は近くに生えていた草で、私を直して呉れました。
「これは漢方に使ふから、以前より丈夫になるやもしれぬ」
彼はそう言って、一人で笑っておりました。
其の夜は本当に、月が綺麗でありました。ほんのり青めいた、満月でありました。私はあの人と見た最後の月を、生涯忘れないでせう。
次の日に私は、隣村の家へ預けられました。彼は私を瞥見することもなく、何処かへ行って了いました。
もう半世紀以上も、待ち続けております。もう一世紀以上も、お慕い申しております。
これは、私への罰なのでせうか。不遜な私に、仏様が御怒りになったのでありませうか。
其れは分かりませぬ。私のような物の怪に、其のような高尚なことは。

唯、私は現在を憂ふ。汚れて了った現在を憂ふ。
そして、過去を想ふ。あの人と歩いた、彼の道を想ふ。

私はそんな、哀しき草履で御座います。
                           了

現在を憂ふ

読了感謝致します。
このお話は三題噺にて生まれまして、お題は「晩春」「峠」「靴」でした。
読み終わった後、もう一度読み返して頂ける作品を目指したのですが、如何でしたでしょうか?

現在を憂ふ

  • 小説
  • 掌編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-05-30

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