アデュー

アデュー

見知らぬ館へ招かれた女の私。猫の不思議な館だった。

 私は知らない館へ招かれた。いや本当は違う。気づくと森を抜け丘の上に来ていた。暗闇の丘は風もない。静謐そのものだ。丘に面した館の中から、どうぞお入り、と微かな声が聞こえてくる。重たい扉を開け、広間の板張りで立ち尽くした。黒猫がたくさんいる広いお屋敷だった。壁にはまばゆいランプがいくつも灯っている。踊り場が二股にわかれた大階段は、二階へと続いていた。
「ようこそ。当館へ」
 猫のような顔の貴婦人が、うやうやしく一礼して出迎えた。その婦人に先刻からじゃれついていた黒猫が黄色い瞳を光らせ、こちらの足元にすり寄ってきた。
 なぜか頭がスースーする。見上げたら星空が広がっていた。天井も屋根もない。満天の星が降ってきそうだった。猫が話しかけてきた。
「そうだよ。うちには屋根がないのさ。壁と床だけ」
 猫は、その瞳で私の心を読み解いているのだと察した。
「雨は? 風や嵐のときは?」
「ジマ様が呪文を唱え、雨風を弾くんだ」
「誰?」
「ジマ様だよ。目の前の貴婦人さ。ジマ様は耳が遠い。おれが通訳する係さ」
「あなたはなんていう猫?」
「おれはニトラン。よろしくな。いっとくが、他の猫は人間の言葉を理解できない」
「そうなの?」
「ああ。気持ちを感じ取るのはできる」
「どうやって私はここへ来たのかしら?」
「きっと匂いに惹かれて辿りついたのさ。ここは人間世界と違う、匂いで包まれた丘さ。猫の匂いに敏感でなきゃここには辿りつけない」
「たしかに猫の匂いは好きだけど」
「ここに来る前、森で迷っただろう? 大きな欅の洞に手を突っ込み匂いをかいだよな」
「どうして知ってるの?」
「匂いだけで相手の行動までわかるのさ。猫は匂いに敏感だ。欅の洞を嗅ぐのがこちらへ入る唯一の手だて」
 ニトランは、匂いが鼻腔から脳の通り道へ到達する間に、意識が抜けてこちらへ漂着した。匂い成分が意識を猫の手座まで飛ばした。そう説明した。
「なんだか難しいわ。ここは猫の手座っていう星座なの?」
「ああ。銀河の端の猫の手座。そのアルファ星の小さな丘に、いま君はいる」ニトランは、さらにつづけて、「あの森の欅とここの丘は空間的に表裏の同じ位置にある。君が来たことで空間がよじれ、メビウスの帯になった。表裏がつながったのさ」
「もっと難しい……」
「まあ座れよ」ニトランはうながした。
 私は樫の木の椅子に腰かけた。ジマ自らがハーブティーをテーブルのティーカップについでくれた。
「どうぞ、おあがりなさい」
 その手が招き猫のような手つきだったので、私はフフフと笑った。さっきまで微笑んでいたジマは、急に神妙な面持ちになった。
「もうすぐあの世へ旅立たねばなりません。この館のことをよろしく頼みます」
 いきなり私に後継を託した。急に頼まれても困る、と思った。が、たくさんの黒猫がいつしか取り囲んで足を舐めてくるので断れなかった。猫は好きだし、友だちも少ない。まあいいか。開き直った。
「分かりましたと伝えて」
 ニトランに頼んだ。ニトランはジマの肩によじ上って何事か伝えると、ジマは元の和やかな表情に戻った。
 夜空の闇が消え、天井の空が白み始めた。夜明けとともに虹が出た。ふわりと宙に浮いたジマは、七色の虹に吸い込まれるようにして色と影形をなくした。
「君がこの館の女主人になった」
 ニトランがいった。私は、「地球の友へ伝言をしたい」といった。頭に呪文が浮かんできて、それを唱えた。最後にアデュー(さよなら)といった。
「ハーブティーの匂いを嗅いで、意識を地球へ飛ばせ」
ニトランは告げた。これで地球と友人に別れを告げたことになるという。つながっていた表裏の空間も切れたらしい。不思議となにかを失う感覚はなかった。新しい場所でニトランや猫たちに囲まれ、自適に暮らす毎日を想像したら、自然と笑みがこぼれた。
 ふと体の変化を感じた。肌と体毛は黒くなり、背中が丸まる。耳がとがる。尻尾のない猫人間になった。
                             〈了〉

アデュー

アデュー

猫の洋館にたどり着いた私。不思議な館である運命が待ち受けていた。

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-05-28

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