サナギ少女の夢現
添削迷子になってしまったので、載せてしまいました
サナギ少女の夢現
たとえ空が雲一つない青空だとしても、その空の下で過ごす人がみな晴れ晴れとした心であるはずもない。
新緑の時期、梅雨に差し掛かる少し前、女子高生が二人、放課後のファミリーレストランでくつろいでいる。
某高校に通う1年生、古木明日香は超絶な美少女であった。街を歩けばすれ違う男性全員の心を奪っていくといっても過言ではないほどである。小柄で華奢な体に相反して、明るく、見た目のわりに大人びた表情が彼女の魅力の一つであった。その上人当たりもよく、誰もが認めるクラスのアイドル的存在である。男子生徒は当然のこと、女子生徒もみな彼女に憧れ、尊敬のまなざしを向けている。まさに老若男女の理想のヒロイン像を体現したかのような存在といえるだろう。
「私に話しかけられた時の男の子達の顔、ホントおかしいよね。スゴイにんまりしちゃって」
しかし、彼女にはクラスメイトの知らない裏の顔があった。それは、心の奥底に煮えたぎる、魔性であった。明日香は自分が男女問わず同世代から人気があり、支持を集めていること、自分の存在がその場の空気を、他者の心動かせることを誰よりも理解していた。それゆえに、自分の行動や言動でクラスの人間が思い通りの反応を見せるのを楽しんでいるのだ。男子生徒には飛び切りの笑顔で相手を骨抜きにし、自分に好意を抱かせ、こちらに振り向かせたかと思えば、そっけない態度をとり、落胆する様を見物して楽しむ。女子生徒の集団にひとたび混ざれば、たちまち会話は彼女を中心に回り始める。明日香にはそれが楽しくて仕方がなかった。
「それで話の途中で別の人と話し始めると、すごい残念そうな顔するのよね。まぁ、私くらいカワイイ女の子と話せる機会がどれほど貴重なことかを考えれば、当然と言えば当然か~」
その程度であるならば、若気の至りという一言で片づけることができるくらいの、かわいいものともいえる。しかし、彼女はその人気の裏で、クラスメイトの根も葉もない噂を流すという悪癖を持っていた。誰々が誰々を好きだとか、誰々が転校するだとかそういう類のものである。その噂に対象者とその周囲の人間が驚き、気を損ね、ぬか喜びし、振り回される様子を見て、右頬を吊り上げてほくそ笑むのだ。要は彼女は、自分以外の人間をおもちゃ、もしくは自分の引き立て役くらいにしか考えていなかった。
「あっそ。相変わらず楽しそうね」
明日香が楽しそうに会話をするその対面の席で、気だるそうにしている少女は、明日香と同じクラスの友人、野中綾乃である。クラスの女子の中でもとても地味で大人しい、ダウナーな少女だ。眼鏡の奥に除く表情は容姿端麗ではあるものの、愛嬌を感じさせない。他人を寄せ付けない雰囲気の彼女はまさに、明日香とは対極に位置するような存在と言えるだろう。しかし、彼女こそが、明日香が唯一友人と認め、誰よりも親しく接する人物である。それ故に、ただ一人綾乃だけが、明日香の本性を知っていた。ただ、なぜ彼女がクラスで一番の人気者である明日香の親友なのかは誰にもわからず、周りからは不思議に思われていた。
「いやぁ、みんな本当に期待通りの反応を見せてくれるの。それがもう楽しくて楽しくて」
明日香は一人満面の笑みで楽しそうに話しているが、綾乃はテーブルに肘をつき、指と指をすり合わせ、ドリンクに挿してあるストローを咥えながら、何かを考えているかのような素振りを見せていた。
「男の子達はみんな私に惚れちゃって。今頃叶いもしない恋に心をときめかせてるわけかぁ~」
だが明日香は、そんな綾乃の様子などお構いなしに、自分にとって楽しいことの話を続けた。
「さすがにみんなってことはないんじゃない?」
「いや、みんな一人残らずでしょ。だってだって~、惚れさせたもん」
「自分に興味が無い人は気にも留めないから、アンタって」
「そんなことないけどなぁ?」
明日香は腑に落ちなかった。なぜなら、彼女は歴代の同級生達の心を、ただ黙っているだけで奪い続けてきたからだ。それに加えて親しく接して微笑みかけたり、ボディータッチなどの自分に好意を抱かせる活動を常日頃欠かしてこなかったのだから、明日香は周囲からの評判、特に恋慕の情には絶対の自信を持っていた。
「ま、いっか。ジュースもう一杯飲も」
しかし結局は綾乃の言葉を気に留めず、明日香は立ち上がる。
「あ~、だったら私のも何か持ってきて」
「うん、一緒に行こう?」
彼女は性格に難はあるものの、基本的には穏やかで素直な女子高生であり、今もこの平凡な日常を謳歌していた。
「古木さん、おはよう」
「おはよう、明日香ちゃん」
翌日、登校した明日香はいつものようにクラスメイトからあいさつをされる。
「みんなおはよう~」
明日香は満面の笑みを込めてあいさつを返す。愛想よくふるまうことは人の心をつかむ基本中の基本であり、こうした日々の積み重ねを彼女は欠かさなかった。その結果、明日香はクラスでの人気を勝ち得たのだ。クラスメイトからのあいさつも人気者であるが故であり、彼女は自分が慕われていることを実感し、今日も優越感に浸る。
「綾乃ちゃん、おはよう」
「おはよう、何よその顔?」
「いやあ、私って人気者だなあって思ってさあ」
明日香は満面の笑みを込めて呟いた。綾乃にだけ聞こえるように。
「昨日の続きだけど、やっぱり私に興味ない人いないでしょ?」
「そう、よかったわね」
教室中を見渡しても、明日香と話すと顔がほころぶ男子と、笑顔になる女子ばかり。
だが、ふととある男子生徒が明日香の目に留まった。
「綾乃ちゃん」
「なによ?」
「あんなやつ、このクラスにいたっけ?」
その生徒は朝から机に突っ伏して昼寝をしており、顔や表情はわからなかったが、頭髪は五分刈りという特徴的な外見を持っていた。しかし、明日香には見覚えがない生徒だった。
「あぁ~、なんていったかな?でもうちのクラスの人だよ」
「野球部かな?」
「うん、確かそうだったと思う」
「よし、じゃあちょっと行ってくる」
そう言い残すと、明日香はその男子生徒の席に駆け寄っていく。
「おはよ!」
明日香は早速その男子生徒を魅了しに取り掛かる。まずは手始めに明るくあいさつをする。そして朝から惰眠をむさぼる少年の目の前でしゃがみこみ、机にあごをのせるポーズをとる。
「どーしたの?眠いの?」
美少女にこのように話しかけられれば、男子ならばうれしくないはずがない。普通ならば。だが、男子生徒からの応答がない。机に突っ伏したままで、動く気配すらない。その予想外の反応に、明日香は強い苛立ちを覚えた。気を緩めてしまうと、顔を引きつらせてしまいそうになる。ただしそこは満面の笑みで抑え込み、なおも声をかけ続ける。
「ねぇ~ねぇ~、お話ししようよぉ~」
そう問いかけ、人差し指で男子生徒の腕をつつく。だが、やはり反応がない。いよいよ明日香はハラワタを煮えくり返す。
「おい大悟!!明日香ちゃんが話しかけてんのに無視すんな!!」
明日香の苛立ちが表面化しかける直前で、他のクラスメイトが机にへばりついた男子生徒の頭を引っぱたいた。すると、やっとムクりと体を起こした。明日香はハッと思い直し、クラスのアイドルとしての様を心がける。
「ごめんね、眠いのにおこしちゃって。痛くなぁい?」
男子生徒を心配する様子を見せ、彼の心を自分に惹きつけようと考えていた。しかし、やはり彼は普通ではなかった。彼は明日香を見向きもしない。
「痛え、やめろ」
頭を叩いた男子生徒に一言そう言い放ち、再び机に突っ伏してしまった。
「え……、えと……」
「あ~あ、また寝やがった。まあでも明日香ちゃん、いつものことだしさ。放っとけ放っとけって」
「う……うん……。そうだね……」
全く自分の思い通りの反応を見せない相手を前にして、明日香は唖然としてしまった。
放課後、明日香と綾乃はいつものファミレスにいた。そこは、明日香達の学校に通う生徒が使ういくつかの駅からの通学路の、どれとも外れた場所に位置しており、明日香達の学校の生徒はまず利用しない穴場スポットであった。そこで彼女達は、青春の1ページを兼ねた作戦会議の真っ最中である。
「本ッッ当ッッッッ!!なんなのよアイツ!?」
「…………」
明日香は苛立ちをぶちまけ、綾乃は明後日の方向を向き、無言でドリンクバーのジュースを啜っている。
「この私が!!この私がよ!?愛想全開で話しかけてあげたってのに!!」
「…………」
「アイツって……、感情が死んでるのかしら……?」
「……………………」
綾乃が二杯目のジュースを飲みほしたところで、明日香の怒りは沈静化した。
「私ってさぁ?アイツのこと何にも知らないんだけど。綾乃ちゃん知ってる?」
「名前は鹿沼……だったと思う。部活は多分野球部で……、少し地味目……というより目立とうとしない感じかな?」
鹿沼大悟は決してクラスでも目立つタイプの人間ではない。綾乃も少しずつ思い出すようにして、明日香に情報を伝えている。
「あとまあ変なやつね。そのあたりで反りが合わなくて受け付けられないって人も多少はいる……、感じがする……」
「そう……、性格がおかしい野球少年ってことね……」
大悟の情報を得た明日香は相槌を打ち、理解したそぶりを見せる。そして、今度は右頬を吊り上げて不敵な表情を浮かべた。
「さ~て、どうやってアイツを虜にしてやろうかしら……?」
自信過剰の発言を口走る明日香に対して、綾乃はややあきれた様子を漂わせていた。
「……そもそもさ……、そんなことする必要……あるの?今更だけど……」
「当たり前じゃない!!人類は男女問わず私の美しさにひれ伏すべきよ!!」
明日香は鼻高々にそう言い放った。
「……恥ずかしいセリフ……」
「まぁ普通の人には似合わないセリフよねぇー」
綾乃の皮肉交じりの一言を、明日香は気に留めることはなかった。
「ああー、次はアイツをどうしてやろうかしら。とりあえずホディタッチがセオリーよねー。ああ、でもまずあいつが起きてる時を狙わないと」
作戦会議は彼女の単なる一人語りとなってしまったが、それは彼女達にとってさして珍しいことではなかった。
「大悟君お~はヨ!!」
翌日、教室で朝から全力で寝ぼけまなこの少年に愛想をふりまきにかかる。
「大丈夫?今日は眠くなぁい?」
「……んん……」
だが、大悟は心無い返事を繰り返すのみで、机に突っ伏したまま、明日香を見ようとはしない。
「明日香ちゃんおはよう!!」
「あっ、うん、おはよ~」
他の男子生徒が明日香のもとに駆け寄ってくる。内心鬱陶しいと思いつつも、決して笑顔を崩すことなく、そつなく男子生徒の応対をこなす明日香。大悟を振り向かせるために時間と労力を注ぎたいと考えていたが、クラスメイトからの支持を集めるためにはおざなりにはできない行為であった。しかし、そうこうしているうちに、朝のホームルームのチャイムが鳴り響く。またもや何の成果も得られずに終わってしまった。
その後も、彼女の大悟へのアプローチは続いた。一日中続いた。翌日も翌々日も続いた。だが、大悟は明日香と会話をするどころか、彼女に目線を向けようともしない。進展しない現状を打破すべく、明日香は綾乃を連れていつものファミレスに向かう。
「綾乃ちゃん、ゆゆしき事態だよ」
「…………………………」
「私は一つしかない体でみんなから好かれなければいけないっていうのにさぁ」
「…………………………」
「だからアイツにばっかりかまってられないのよ。私は忙しいの!!」
「…………………………」
「他の奴らに接してあげる時間がなくなっちゃうよ」
「…………………………」
「私はクラスのアイドルとしてみんなに平等にしなくちゃいけないのに……」
「…………飽きた…………」
明日香の駄々は綾乃のつぶやきにより一蹴された。
「あ……、その……、ごめん……」
怒りに任せて言葉を並べ立てた結果、綾乃を置き去りにしてしまった。明日香は自身の振る舞いを素直に反省する。
「……それで、……その、……アイツってちゃんと友達いるよね……?」
「まあ、何人かいるみたいね」
「明るい奴じゃないけど、他の人とはちゃんと話してるよね?」
「そうね」
明日香達の言う通り、鹿沼大悟という男は、少々変わり者ではあったが、決して孤独というわけではなかった。会話をすることが好きという印象は受けないが、人見知りもせず、場の雰囲気に合わせた振る舞いのできる人間のようであった。自分に対して話しかけてきた他者を拒絶するような失礼な行為などは、睡眠を妨害された時は例外だが、普段ならばあまり考えられないのだ。
「じゃあ……、なんで私には目を合わすことすらしないのかしら……?」
「……嫌われてる……から?」
「……ハァ……」
綾乃の一言に明日香はとうとう意気消沈してしまった。
「……私……、どうすればいいのかなぁ……」
「生き方見直せば?」
「いや……、そうじゃなくて……」
明日香は少しうつむきながら、声の調子を落として話し出した。
「……なんていうか……、アイツには嫌われたくないっていうか……」
「……………………へぇ?」
その想定外の言葉に、綾乃は呆気にとられ、言葉を詰まらせてしまう。
「その……、アイツに興味を持たれないことが最初は……、ムカついてたの。なんで目を合わせようとすらしようとしないんだって。でも今は……、なんだろう……、そのことがツライっていうか……、うん……、そんな感じ…………かな……?」
「……そう……なんだ…………」
二人の間に沈黙の時が流れる。それは無理のないことだった。二人の少女にとって明日香の感情は、今まで生きてきた中でおよそ縁の無いものだったからだ。
「……一度……、きちんと聞いてみたら……?」
沈黙を破ったのは綾乃であった。
「うん……、……何を?」
「なんで自分を避けるのかを」
「それは……、ちょっと……」
自分を慕っている人間に囲まれて過ごしてきた明日香にとって、そうでない人間とのコミュニケーションは大きなハードルであった。
「でも、このままじゃ何も進展しないと思うんだけど?」
「うう…………、怖いなぁ…………」
この日は、明日香が越えようとしている壁を具体的に認識することになったのだが、立ち向かう決心がつかないまま作戦会議を終えた。
ある日の放課後、大悟は一人科学室にいた。そこは先程明日香達のクラスが授業に使用した教室で、忘れ物か何かを取りに戻ったのだろうか、大悟は何かを探すそぶりをしている。そして科学室の外の廊下には、明日香の姿もあった。帰りのホームルームが終わって、大悟の後をつけてきたのだ。
(緊張する……)
彼女は、大悟との変化のない関係を打破するために、何らかのアクションを起こそうとしていた。そのために後をつけてきたのである。辺りには人気も無く、二人きりで話すには絶好のチャンスではある。しかし、いざとなると足がすくんでしまい、廊下から大悟の動向を見守るばかりで、何もできないまま立ち尽くしてしまっていた。そうこうしているうちに、大悟が科学室から出てきて、明日香と鉢合わせしたかのような状況になってしまった。
「あ~~、あ~~、大悟君、奇遇だねぇ~」
明日香は動揺から挙動不審になり、声も裏返り、棒読みである。
「おう」
大悟は相変わらずの不愛想でそっけない態度である。
「ええと……、大悟君はこんな所で何してたの?」
「別に?」
大悟は明日香の問いかけをあしらい、足早にその場を立ち去ろうとした。
「待って!!」
明日香が思わず声を張り上げて、大悟を引き止めた。
「私、その……、大悟君のことが好きなの!!もっといろんなお話がしたいの!!なんで……、なんで私のことだけそんなに避けようとするの……?」
本当はこんな核心を突くような質問をするつもりなどなかった。だが、大悟のあまりに愛想のない態度に心が締め付けられ、抑えが利かなくなってしまったのだ。大悟は急ぐ足を止めて振り返り、明日香の問いに答えた。
「嫌いだからだよ」
「……え……?」
ある意味予想通りの答えではあった。だが、全く隠すつもりのないはっきりとした物言いに、明日香は言葉を失ってしまった。大悟はなおも続ける。
「俺はお前みたいに他人がいつも自分の思い通りになると思っている奴は嫌いだ」
大悟はそう言って、その場を立ち去って行った。
「…………フラれちゃった…………」
明日香は静かに呟きながら、廊下の壁にもたれかかる。大悟の言葉の重みに押しつぶされ、しばらくその場から動くことができなかった。
翌日から、明日香が大悟にアプローチをすることは無くなった。そして、一つの小さな事件が起きる。
「あれ?財布が無いな……」
明日香達と同じクラスの女子生徒、片桐祥子の財布が紛失したのだ。
「本当?ちゃんと探したの……?」
「探したって。カバンの中に入れておいたはずなんだけど……。おかしいな……?」
クラス中がちょっとした騒ぎになった。だが、その女子生徒の財布はその日のうちに見つかった。同じクラスの女子生徒、須田真由美のロッカーの中から。
「ねえ?なんでアンタのロッカーの中に私の財布があるの?」
「ええ……、知らないよ……」
祥子が真由美に恐ろしい剣幕で詰め寄り、教室内に不穏な空気が漂う。真由美は悲しみをこらえられないといった表情をしており、今にも泣きそうである。
「この期に及んでそんな言い訳が通用すると思ってんのかよ!?」
「知らない……、私知らないよ……」
他のクラスメイト達が祥子を止めに入り、その場は収まったものの、二人の間に生まれたわだかまりは解消されることはなかった。そして、その日の放課後も明日香と綾乃の二人はファミレスにいた。
「ねえ」
「なぁに?綾乃ちゃん?」
「あなたでしょ?片桐さんの財布盗ったの」
綾乃は簡潔に問う。綾乃がこのような質問を明日香にぶつけるのには、彼女なりの根拠があった。それはここ最近、明日香を奇妙だと感じたからだ。声の質、表情に張り付けた笑顔、その他細かい所作が、どこか普段と違うように思えたのだ。それはいつもとさして変わらない、普通ならば全く気にするほどでもない、わずかな差でしかなかったのだが。この違和感を感じ取ったのは、明日香と一番近い距離におり、明日香の身に起きたことを全て把握している彼女くらいのものだろう。だが、これだけでは明日香を疑う要素としては少々心もとない。決定的だったのが、財布が紛失した騒動の最中である。大勢の不安がるクラスメイトの陰に隠れて、明日香も同様に表情を曇らせていたのだが、心の奥底でこの不穏な状況を一人楽しんでいるように思えたのだ。
「えぇ~?盗ってないよ~?」
明日香は笑顔で答える。
「移動させただけじゃん」
この一言を述べる間も明日香の屈託のない笑顔は一切崩れない。後悔やうしろめたさの類を感じている様子は全くない。彼女とは対照的に、綾乃は頭を抱えてあきれ返っている。
「そうね……、あなたは財布を移動させただけだったわね……」
「うん!!」
「じゃあ……、質問を変えるわね……」
親友の許しがたい行為を知りつつも、綾乃は平静を装うことに努める。
「なんであの子達の友情にヒビを入れるようなことをしたの?」
その問いを受け、明日香は考えるそぶりを見せる。
「う~ん、なんかよくわかんないけど、いろいろメチャクチャにしたかったんだよね!」
少々しかめっ面な表情を浮かべて明日香は答える。
「……なにそれ……?」
「わたしさ~ぁ?大悟君にフラれちゃったんだよね~」
明日香はどこか開き直った様子で話す。
「だからもうなんだかいろいろどうでもよくなっちゃってさ~あ~?誰か別の人にも私と同じように嫌な思いを味わってもらおうかなって?まぁ、私にはそんなことをしても許してもらえるだけの人望があるから別にいいかなって思ったり?」
明日香は他者の表情などから心情をくみ取る技術に長けている。綾乃の心の奥底に閉じ込めている苛立ちにも気づいてはいた。気づいてはいたが、そんなことはお構いなしに自分の思いをぶちまけ続けた。そして最後に、
「ああっ、でも安心して。綾乃ちゃんはターゲットにしないからね!」
この一言である。
「…………そっ。アリガト……」
綾乃はポツリとつぶやく。しかし、無差別に悪意をばらまく友人を直視することはできず、心を落ち着かせるためにジュースを一気に飲み干した。
それからも、明日香の暴挙は続いた。クラスメイトの所有物を隠す、机に落書き、対象者の評判を下げるような根も葉もない噂を流すといったものである。夏休みをまたいで二学期になってからも収まる気配はなかった。この問題は平和な学級に暗い影を落とし、教室内を険悪な雰囲気が包む。だが、この一連の事件が、クラスのアイドルである古木明日香の仕業だとは誰も思いもせず、明日香本人もそのことは理解していた。絶対にばれることはない、彼女はそう思っていた。だが、ある日の朝である。
「おっはよ~う」
登校した彼女を待ち受けていたのは、クラスメイトからの冷ややかな視線や、よそよそしい態度であった。
「あれ~……、どうしたの?みんな?」
内輪でこそこそと話す者、そっぽを向く者と明日香に対する反応は様々だが、好意的な態度をとるものは誰もいない。そんな中、一人の女子生徒が明日香に近づく。片桐祥子である。
「なあ、古木」
「なに……?」
祥子からのただならぬ雰囲気を感じ取った明日香は、緊張した様子で話す。
「最近のイザコザの原因が全部お前の仕業って話、本当か?」
「え…………」
教室に入った時のみんなの態度を見て、一瞬頭をよぎった。クラスのみんなを引っ掻き回したことが知られてしまったのではないかと。しかし、単なる思い過ごしだと思った。だが違った。ばれている。全員に。明日香は言い逃れの言葉を必死に考え、思考回路がパンクしそうになるが、何も思いつかない。
「私は財布を勝手に真由美のロッカーに入れられてたんだよね。お前がやったんだろ?」
祥子は財布を隠された騒動の際に、友人を問い詰めた時と同じ剣幕で、明日香に詰め寄る。
「ちがっ……、違うよ!!そんなことしてない!!」
否定をする明日香。だが、そのどこか挙動不審な態度に皆が確信した。もう誰も彼女の言葉に耳を貸そうとはせず、教室中から明日香に向けた野次や罵声が発せられた。
その日からクラスメイトの明日香に対する態度が急変した。自ら明日香に話しかける者はいなくなった。仮に明日香のほうから話しかけることがあってもそれはあくまで事務的なやり取りであり、授業外での和気あいあいとした世間話や雑談などは一切無くなった。明日香は教室で完全に居場所を失ってしまった。
「私、これからどうしてけばいいんだろ…………」
「……まあ、いつかはこうなるとは思ってたけどね……」
放課後のファミリーレストランには、クラス内での立場を失って落胆する明日香と、普段と特に変わった様子のない綾乃の姿があった。クラスメイトからの信頼を失っても、綾乃だけは以前までと同じように彼女に接していた。
「分かってたんだったら止めてよ~…………」
「…………そうね…………。謝っておくわ」
あきれた表情を浮かべ、ため息をつきながらつぶやく。
「いや……、……ゴメン……」
さすがに自分でも身勝手すぎる発言だったと思い直し、反省をする。そして、自身の発言の浅はかさに、明日香はさらに気落ちしてしまう。
「まあ、別にどうしようもないってほどの状況でもないとは思うけどね」
「えっ?」
綾乃の言葉を聞き、明日香は目を見開いた。
「ちゃんと謝れば許してくれるでしょ?みんな」
「いや……、それは…………」
明日香は目を伏せながら言葉を詰まらせた。
「……無理……。コワいよ…………」
「……あんた何言ってんの?」
「……だって……、みんなすごい怒ってる……。許してもらえるわけないよ……、絶対……」
古木明日香という少女は老若男女を問わず、常に周囲から可愛がられ、羨望のまなざしを受けて育ってきた。そのため、他者に嫌悪感を抱かれ、敵対視されるということに全く免疫が無かったのだ。さらにそれが大勢の人間からとなると、なおのことだろう。いつもの自信に満ちた態度は消え、その言葉にも力はなかった。
明日香の悪行がばれてから数週間が経過した。彼女はいまだにクラスメイトと向き合うことができずにいた。信頼は地に堕ち、クラスメイトの中では孤立、また、彼女を蔑む者も現れた。俗にいうイジメである。
「なあ、野中」
現在、片桐祥子が明日香に代わってクラスの女子達のリーダー的存在となっていた。かつて明日香に財布を隠された件に加え、生まれながらの強気で勝気、やや粗暴な性格も手伝ってか、明日香に対するアタリは人一倍強い。祥子は、幾人かの取り巻きを連れて、明日香と一緒に昼食を食べていた綾乃に声をかけてきた。
「なんでまだ、古木なんかと一緒に昼飯食べてるんだよ?」
祥子は明日香が目の前にいることなど構うことなく、むしろわざわざ聞こえるような大きな声で話しかける。
「前は友達だったのかもしれないけど、惰性でずっと付き合う必要なんてないだろ?何ならこれからは私達が一緒に食ってやってもいいけど?」
言葉自体は綾乃に向けられているものだが、完全に明日香へのあてつけであった。また、二人の間柄に亀裂を入れる算段とも読み取れる。唯一残された親友を失うかもしれない危機に見舞われながらも、明日香は祥子達を前に委縮してしまい、顔を上げることすらできずにうつむいたままである。
「いらないわ、結構よ」
しかし、綾乃は祥子達の思惑など気にも留めず、冷徹な瞳を宿した少女達を見ることもせずに、コンビニで買ったパンをほおばりながら答えた。
「つまり……、私達よりそいつと一緒にいるほうがいいってことか?」
「そうとしか言ってないわ」
今度は先程とは対照的に、真っ直ぐにその瞳を見つめながら言い放った。
「へぇ……、何?言ってくれんじゃん」
綾乃のやや挑発めいた言葉に苛立ちを覚えた祥子は、座ったままの綾乃との距離を詰めていく。
「お前さあ……、自分の立場勘違いしてんだろ?」
周囲の人間が不穏な空気を察知してか、クラス中の空気がピリつき、緊張感が走る。
「お前はいつも人気者の古木の側にいたから勘違いしちゃってんのかも知んないけど、お前なんて最初から存在価値すら無いんだからな?せいぜい引き立て役がいいところだよ、お前は。ああ、そうか、引き立て役を買って出ておこぼれで印象良くしようとしてたんだろ?人気者の友達でいられれば周りの見る目も多少は変わるもんなあ。まあ、今となってはその利用価値は無くなっちゃったけどな。笑えるよなあ。まあ、ゴミ同士仲良くやんなよ」
この重苦しい空気が流れるたったの三十人ほどの空間内でも様々な人間がいる。暴言で他者を虐げる者、その者の後ろでせせら笑いを浮かべる者、その者達の行動や言動にひたすら怯え続ける者、その一連のやり取りを周囲で傍観し、肝を冷やしている多数の者、見て見ぬふりをする多数の者、そして何とか止めようとしても結局行動に移せない者、様々である。その空間内に唯一無二がまた一人。今まで暴言を浴びっぱなしだった綾乃がここで立ち上がり、祥子と面となって向かう。
「良かったわね、片桐さん。たくさん友達ができて。大事にしなねー」
間の抜けた、相手を小馬鹿にしたその言葉を言い終えた瞬間、祥子が綾乃をおもいきり突き飛ばした。明日香ほどとはいかないまでも、小柄な体躯である綾乃は否応なく吹き飛ばされた。整列された机が散乱し、その様子を見ていた周囲の生徒たちは騒然となる。だが、これだけでは収まらない。さらに祥子は、机に体を打ち付けて苦痛に顔をゆがめる綾乃の肩をつかみ、思い切り床に押し倒した。
「綾乃ちゃん!!」
明日香の悲鳴にも似た声が教室内に響く。祥子もほかの女子生徒と比べて、体が特別大きいわけではない。しかし、持ち前の運動神経に比例して、腕力で彼女の右に出る者はいなかった。綾乃には、彼女にあらがう術など持ち合わせていなかった。
「誰のせいでこうなったと思ってるんだよ……」
綾乃を抑えつけるその表情には怒り以外の感情は感じられない。だが、表情とは対照的にささやくようなその言葉は、眼前にいる綾乃にしか聞き取ることができなかった。体もいささか震えている様子だが、それは怒りによるものなのか、はたまた別の感情によるものなのかは分からない。しかし、どういう事情であれ、祥子は今冷静さを失っており、綾乃にどのような危害を加えるのかわからない状態である。
ピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピ
ピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピ
ピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピ
ピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピ
ピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピ
その時、緊張状態にあるその空間を無機質な電子音が鳴り響く。鳴り響く。
「おい誰だよこの音は!?」
祥子の関心が床に倒れた少女から、おそらく防犯ブザーかなにかから発せられているであろう音に移る。その音は教室内の殺伐とした空気などものともせずに響き渡る。とうとう祥子は我慢できずに綾乃を抑えつける腕を離し、音がする方にいた生徒の一人に歩み寄る。
「何だよこの音!?お前か!?」
「ちっ……、違っ……」
ピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピ
ピピピピピピピピ
争いを遠巻きに眺めていた一人の生徒の肩に手を掛けた瞬間、音が鳴りやんだ。後に残ったのは散乱した机に、先程の争いから一転した奇妙なほどの静けさ、そして多くの生徒の心に生まれた暗澹の気持ちである。そして、いつの間にか教室の外では、物音や電子音に引き寄せられた他クラスの生徒が集まりだしていた。
「何なんだよッ!!クソッ!!」
一度遮られた濁流はその流れを変えた。やり場のない怒りを湛えた祥子は近くの机を、隣の机と衝突するほどの勢いで蹴飛ばし、教室の外の人垣をかき分け、その場を後にする。その後ろを慌てた様子で取り巻き連中が追いかける。
「綾乃ちゃん、大丈夫!?」
恐怖のあまり二人の争いに割り込むことができなかった明日香が、綾乃に駆け寄りその身を按ずる。
「……うーん……、まあまあかな」
明日香の問いかけに対し、ひょうきんな返答の綾乃だが、体を机と床に思い切り打ちつけて、痛くないはずはない。
「綾乃ちゃん……、ありがとう……」
「……あなた、私の心配よりもやるべきことがあるんじゃないかしら」
「えっ……」
明日香には綾乃の言いたいことがすぐにわかった。自分に対して配慮できるのなら、それを周りの人間に対して行えと。そう言いたいのだと。だが、それは自分の罪と向き合うということであり、それができるほど明日香は強い人間ではなかった。
「……………………」
明日香は戸惑いの表情を隠せず、黙り込んでしまう。
「……はぁ……。ほら、机直すわよ」
「あ……、うん……。そうだね……」
綾乃はここで明日香ともっとじっくりと話をしたいと思っていた。だが、教室内だということもあり、あまり大っぴらに話をすることもできなかった。
「さっきの音……、あれ何だったんだろ……」
倒れた机を直しながら、明日香がポツリとつぶやく。また、彼女に限らず、その場にいた大部分の生徒たちの共通の疑問でもあった。
「まあ……、一歩踏み出せないなりの精一杯の自己主張……、ってところなんじゃないかしら」
綾乃が悟ったような口ぶりで語る。
「泣きたくなるぐらい辛くて苦しい思いをしている娘がいるのよ、きっと」
「……そう……なんだ……」
綾乃は何か抽象的で濁した説明をするが、明日香にはどういうことなのか理解できず、深く掘り下げて尋ねるほどの気力も残ってはいなかった。結局その日も争いの火種は収束せず、新たに生まれた疑問の解明もされないまま、放課後になるまで教室内を息の詰まるような空気が包み込んだ。
その日以来、日々激しくなる一方であった明日香に対するイジメは、綾乃の存在が抑止力として働くことになった。物静かなクラスメイトが一人側にいるだけで何かが変わるとも思えないのだが、確かに綾乃と一緒にいるときは、明日香に危害を加えられることが少なくなっていた。だが、根本的にいじめを解決するまでには至っておらず、虐めが激化しないように抑えるのが精一杯で、一向に収まる気配を見せない。時期はもう1月、期間にして4ヶ月が経過した。クラスメイトの誰もが思う。今日も教室の空気は重苦しいのだと。そしてそれは進級してクラス替えが行われるまで続いてしまうのだと。この学級は最悪の状態のまま終わりを迎えるのだと。そんな毎日の中、誰もが予想しえなかった事件が起きる。
「すみません。この場を借りて一つ、お伝えしたいことがあります」
帰りのホームルームが終わろうという時である。綾乃が高く手を挙げて発言した。地味でとても大人しい同級生の急な行動と発言に、教室内は少々ざわめきだした。
「以前に古木明日香さんが自身の犯した至らない行動が噂として流れたことで、最近一部の生徒から虐めを受けていますが」
クラス全員が目をそむけたくなる、蓋をしたくなるような現状を、綾乃は隠すことなく、淡々と言葉にする。一瞬時が止まったかのように空気が凍り付き、その直後に教室内は激しくどよめきだす。
「その噂を最初に流したのは私です」
他のクラスメイトの言葉に遮られることなく、綾乃はその場にいる全員に聞こえるように暴露した。室内のざわめきは収まる気配がない。それもそのはずである。野中綾乃は古木明日香の一番の親友であり、彼女が虐められ始め、誰もが彼女から距離を置くようになる中、ただ一人接し続けた人物だからである。何が起ころうとも、野中綾乃だけは古木明日香の味方、誰もがそう思っていた。しかし、これでは野中綾乃が騒動の黒幕としか解釈の仕様がなかった。
「……どうして?」
明日香はゆらりと立ち上がり、綾乃のほうに向きなおり、力なく尋ねた。
「どうしてそんなことしたの……?」
悲しみや苦しみの感情を超越した、まるで魂が抜けたかのような様子で明日香は綾乃に対して尋ね続ける。ざわめいていたクラスメイトも、彼女のその異様さに圧倒され、たちまち教室内は静まり返る。立ち続ける二人を見守ることしかできなかった。
「……ねえ明日香、聞いて?」
「……綾乃ちゃんだけは友達だと思ってた……………………」
「これ以上問題を先送りに
「綾乃ちゃんだけは友達だと思ってたのに!!」
明日香はスイッチが切り替わったかのように感情を爆発させ、叫びだし、教室を飛び出してその場を後にした。その様子を静観していたクラスメイトは、ただただ呆然としている。
「はぁ……」
綾乃は一つため息をつき、走り去る明日香を追いかける。
「もうやだ……、もうやだよ……」
目に涙をにじませ、まだ生徒がまばらな廊下をがむしゃらに走る明日香。彼女が毎日の虐めに耐えることができたのは、綾乃がいつも側にいてくれたからであった。後ろ指をさされて過ごす毎日も、綾乃がついていてくれれば何ともないことのように思えた。暴言や強い非難を浴びた時には、幾度となくその身を盾にして自分を守ってくれた。しかし、明日香はその親友に裏切られた。心の支えを失った明日香は極限状態に陥った。ふと、後方から綾乃が追いかけていることに気が付く。
「何よ!!追いかけてこないで!!」
明日香は綾乃に罵声を浴びせる。
「ねえ、明日香……」
「何よ……、何なのよ……!!」
「……せっかく逃げるんだったら、もうちょっと頑張って走ってみれば?」
「……うっ……、うるさい……。ハァ……、これで……、全力……、ハァ……」
息を切らすほどに廊下を走る明日香であったが、あっという間に追いつかれ、綾乃にあきれられてしまった。明日香は運動があまり得意ではなかった。
明日香達は校舎を出て、裏庭まで走ってきた。冷気が肌に突き刺さる。
「ハァ……、ハァ……、ハァ……、ハァ……」
明日香は手と膝を地面につき、完全に息をきらしている。
「結構走ったね。……ハァ……、冬なのに汗かいちゃった……」
綾乃は割と平気そうにしている。
「ハァ……、ハァ……、ハァ…………」
「あなた……、運動直後だけは不細工ね」
「ハァ……、ハァ…………、左様ですか……、ハァ……、ハァ……」
立っていることすらできない明日香であったが、綾乃との掛け合いだけは怠らない。
「ねえ……、大丈夫……?」
息を切らし続ける少女を前に、綾乃もさすがに心配する様子を見せる。
「ゴメ……、待って……、ハァ……、ハァ……、……ふふっ、……ふふふっ……」
疲労困憊だった明日香が、今度は突然笑い出した。
「何……?どうしたの……?」
「いや、なんか……、ハァ……、おかしくなっちゃって……。ふふっ……」
綾乃は明日香の予想外の反応に戸惑いながらも、彼女の様子をうかがう。
「今……、綾乃ちゃんと普通に話ができてたな~って思ってさ……」
明日香は笑顔を浮かべる。しかし、その表情にはどこか悲しみのようなものも垣間見えた。
「綾乃ちゃんに裏切られた直後なのに、私はやっぱり綾乃ちゃんが大好きで……、綾乃ちゃんと一緒にいることが大好きで……、こんな何気ないやり取りが大好きで……、これからもずっと友達でいたいから……」
明日香にとって信じがたい事実を告げられたにもかかわらず、結局明日香は綾乃を嫌うことも憎むこともなく、綾乃に対する気持ちも変わることはなかった。それは明日香が矢面に立ちながら学校生活を送る日々の中で、綾乃がよほど大きな心の支えになっていたということ、そしてそれ以前に、ただただ綾乃が明日香の親友であるということを明確に示していた。明日香の気持ちを、綾乃は黙って聞き続ける。
「私、きっといつの間にか……、綾乃ちゃんにも嫌われるようなこと……、してたんだよね……?」
瞳から頬を伝うものを絶え間なく流しながら、明日香は自分の気持ちを話し続ける。
「綾乃ちゃん、ごめんね……。私に悪いところがあったら直すから……。私、綾乃ちゃんには嫌われたくない……。お願い……、私のこと嫌いにならないで……、綾乃ちゃん…………」
明日香は自分の気持ちをさらけ出し終えた。以前までの明日香は他人に対して平気で嘘をつく人間であったが、この時綾乃は明日香の言葉を疑わなかった。その伝えようとする様子や、頬を伝うものは本物だと感じたこと、それ以前に、明日香は自分には信頼を寄せている、自分だけには下らない嘘はつかないと自負していた。本心を話した明日香に対し、綾乃も本当のことを伝えようとした。
「こんな所にいたのか」
すると、校舎の角から声が聞こえてきた。声の主は鹿沼大悟であった。
「……よく場所がわかったわね」
「ああ、声がしたからな。それよりも、やっぱりみんな驚いてたし、なんか静まり返ってた」
大悟は相変わらずの最低限の声の大きさで、いつも通りの様子であった。
「本当?準備万端ね」
「……本当に打ち明けたんだな。よくやるよ……」
「まあね。でも、閉塞した状況は打破できたでしょ?」
「足元から全部ひっくり返したような感じだけどな」
大悟は、明日香達の前に現れた途端、綾乃と会話を始めた。
「ねぇ、ちょっと……、ちょっと待って?」
明日香には二人が何を話しているか理解できず、それ以上に一つの疑問が脳を占領した。
「なに?」
「えっと……、二人って……、なんでそんなに仲がいいの?」
至極当然の疑問であった。明日香は毎日綾乃と学校生活を共に過ごしてきた。だが、綾乃が大悟と会話をしている場面など、記憶のどこにもなかったからだ。
「なんだ、まだ話してなかったのか?」
「これから話すところよ。鹿沼君とのこともそうだけど、今まで明日香に内緒にしてきたこと全部……」
綾乃が真剣な面持ちで、明日香にじっと視線を合わせて話し始めた。
新緑の時期、梅雨に差し掛かる少し前、女子高生が二人、放課後のファミリーレストランでくつろいでいる。某高校に通う1年生、クラスでもアイドル的存在で人気者の古木明日香と、地味で目立たない野中綾乃である。
「私に話しかけられた時の男の子達の顔、ホントおかしいよね。スゴイにんまりしちゃって」
二人は、クラス内での立場や性格は違えど、親友同士であり、お互いを認め合う仲である。しかし、綾乃は明日香に対し、一つの懸念を抱いていた。
「それで話の途中で別の人と話し始めると、すごい残念そうな顔するのよね。まぁ、私くらいカワイイ女の子と話せる機会がどれほど貴重なことかを考えれば、当然と言えば当然か~」
それは、明日香の他人で遊ぶ悪癖であった。他人からよく思われようとする八方美人な態度だけならば、大した問題ではなかった。だが、彼女は思わせぶりな態度をとっては相手を落胆させたり、他人の事実無根の噂を流して印象操作を行い、その情報に振り回される様子を一人高みの見物をして楽しんでいるのだ。
「あっそ。相変わらず楽しそうね」
綾乃もそのようなことはやめるよう、明日香に促したことはあった。だが、彼女は耳を貸そうとはしない。注意しても初めから無駄なことは綾乃もうすうす気づいていたのだが。ともかく、やめさせたくてもどうしようもできず、綾乃はもどかしい思いをしていた。
「あんなやつ、このクラスにいたっけ?」
ある日、明日香は一人の男子生徒が目に留まった。
「あぁ~、なんていったかな?でもうちのクラスの人だよ」
その生徒は地味ではないが、目立たない、目立とうとはしない存在であり、綾乃も彼のことはほとんど印象に残っていなかった。
「おはよ!」
明日香は早速その男子生徒に声をかけ、愛想をふりまきにかかる。だが、机に突っ伏していたその男子生徒は明日香の呼びかけに全く耳を貸さず、動く気配すらない。明日香はその後も自分に好意を抱くよう言葉を投げかけたが、最後まで明日香とは一言も言葉を交わさなかった。その様子を遠巻きで眺めていた綾乃は、驚いたのと同時に一つの可能性を思い描いた。明日香に好意的な態度をとらない存在。明日香の予想を超える存在。彼ならば明日香のまっさらな心に見え隠れする黒い純真を塗り替えることができるかもしれない。綾乃は男子生徒との接触を試みることに決めた。
「今日、図書室で勉強してくから先に帰ってて」
「えっ?うん、わかった」
数日後、明日香を先に帰宅させる。一緒に寄り道をしながら下校するのはもはや日課であり、綾乃にとっても楽しい時間なのだが、綾乃には学校に残らなければならない理由がある。鹿沼大悟という人間が古木明日香のことをどう思っているのかを知るため、そしてその先の自分の目的、明日香の他人で遊ぶ悪癖を直すための力を借りるためである。ただし、自身の考えを明日香に悟られないためにも、明日香は当然のこと、他の誰にも大悟に接触する場面を見つかるわけにはいかない。特に接点のない男女の二人きりの会話というものは、その不自然さから噂が拡散する可能性があるからだ。そのため、大悟と二人きりの場面を見つからないようにするために、綾乃は一人、放課後の学校に残り機会を窺う。鹿沼大悟は野球部、綾乃は野球のグラウンドに向かう。そこでは、野球部員たちが練習に精を出していた。しばらく待っていると、休憩の時間になったのか、部員たちが思い思いに給水や談笑を始めた。そして、大悟は一人グラウンドから少し離れた水道の蛇口に向かっていった。綾乃もすかさず大悟のもとに向かう。他人と会話をするのが苦手な綾乃は、男子とはほとんど会話をしないため、大悟との距離を詰めるにつれ、心臓の鼓動が早まっていくのを感じていた。
「ねえ、鹿沼君」
「え?」
大悟は水を飲んで一息ついていたところをいきなり話しかけられ、少し驚いた様子を見せた。
「部活終わったら昇降口まで来てくれない?」
「……なんで?」
緊張からか、綾乃は早口で言葉をたたみかける。大悟もどうやら基本的に人と話をするのがあまり好きではないらしく、綾乃に対しても最小限の言葉で会話を済ませようとする。
「……いろいろ話したいこととか聞きたいこととか……あるのよ……。帰らないでよ?」
「……分かった」
どうにか約束を取り付け、綾乃はその場を後にした。野球部の練習が終わるまで、綾乃は勉強や読書をして時間をつぶすため、図書室に向かう。
日が沈み、野球部の練習が終わろうかという頃に昇降口に向かう。今から特に親交のない男子生徒と会話をしなければいけないということを考えると、少しの緊張と恐怖心で綾の心はざわついていた。そのうえ、振り向けば校舎内は真っ暗闇であり、より恐怖心を増幅させる。そわそわしながら待っていると、少し経ってから大悟がやってきた。
「おう」
「お疲れ」
人との会話を好まない者同士、あいさつを最小限に済ませる。
「ありがと、来てくれて」
「ああ。何か用?」
部活終わりなのもあってか、大悟からは疲労感が伝わってくる。
「そうね……、早速本題だけど……、古木明日香、分かる?」
「それは……、たぶん同じクラスにいる……、はず」
「そう、最近あなたの周りをチョロチョロしている娘よ」
ここ数日、毎日のように明日香は大悟と接触している。にもかかわらず、大悟は明日香を深くは認識していない。綾乃は確信した。彼は本格的に明日香に興味がないと。
「鹿沼君……、あの娘のこと、どう思ってる?」
「……どう……って、別に……」
「かわいいとかめんどくさいとか、あるでしょ?」
自分の予想を確固たるものにするために、大悟から明日香に対する印象を聞き出す。
「……まあ……、良いか悪いかで言ったら……、悪いよな……」
大悟は自分の言葉に罪悪感を抱いているのか、綾乃から目をそらし、ややうつむいて話した。
「自分はかわいくみられて当然……、とか……思ってそうでさ……」
綾乃の見込み以上であった。大悟は明日香の本性に感づいていた。
「そのとおりよ」
「ああ……、やっぱそうなのか……」
「いや……、むしろそれだけなら全然かわいいもんだったんだけどね……」
綾乃はこれまでの明日香の行いを思い返した。そして、一人落胆する。我が友人ながら、重ね重ね粗末な行動を繰り返したものだと。そのことを明日香という人物像も含めて全て大悟に伝えた。
「……重症だな」
「でしょ?」
「ていうか……、それ人に話していいのか?」
「まあ……、ちょっとお願いしたいことがあって……、ね?」
話はいよいよ本題に入る。
「今は鹿沼君、あの娘に声かけられても大抵無視してるでしょ?」
「まあ……、なんか胡散臭いしな……」
「ずうっとその態度でいてほしいのよ。それが私のお願い」
「ああ……、別にいいけど?もともとそのつもりだし」
「ありがとう。また何かあったらよろしくね」
綾乃の頼みを大悟は聞き入れ、二人はその日、その場所を後にする。
学校では明日香が相変わらずクラスメイトに愛想を十二分にふりまき、同時進行で重点的に大悟にアピールを続ける。だが、大悟は綾乃の指示通りに、そして自分の意志のままに明日香を無視し続けた。
「……なんていうか……、アイツには嫌われたくないっていうか……」
「……………………へぇ?」
「その……、アイツに興味を持たれないことが最初は……、ムカついてたの。なんで目を合わせようとすらしようとしないんだって。でも今は……、なんだろう……、そのことがツライっていうか……、うん……、そんな感じ…………かな……?」
「……そう……なんだ…………」
とある日のファミリーレストランの明日香と綾乃の会話である。綾乃は明日香の先日までとは違う、大悟に対する密かな想いを感じ取った。明日香は大悟に恋をしている。そこまでではないかもしれないが、大悟が彼女にとって強い影響力を持った人間になっていることは間違いなさそうである。少なくともその他大勢の男子生徒と比較して、好意の抱き方が全く違う。綾乃は、この想いを利用しようと瞬時に思い立った。
「……一度……、きちんと聞いてみたら……?」
「うん……、……何を?」
「なんで自分を避けるのかを」
綾乃は、大悟ときちんと会話をしてみるよう、明日香を誘導する。
翌日、放課後、綾乃は再び大悟を部活終わりに昇降口に呼び出した。前回同様二人きり、おまけに夜の学校という点まで同じだが、二回目ということもあり、綾乃は前回よりも落ち着いて大悟を待つことができた。
「お疲れ」
「おう」
手短にあいさつを済ませる。
「ありがとう、来てくれて」
「ああ、別にいいよ」
「あと明日香のことも、ありがとね」
「それも別にいい。アイツのことは好きになれないから」
「そっか……」
大悟の綾乃に対する印象は特に変化が無いようである。綾乃は少し安心したように、一つ息をつく。
「それと、今日はまたお願いしたいことがあるの」
「やっぱりか。何だ」
「今度はあの娘のことを強く拒絶してほしいのよ」
「拒絶……?」
大悟の表情が少し強張る。
「そう。嫌いとか、うっとうしいとか、めんどくさいとか、そういう類のことを声に出してもらって、はっきりと嫌悪感を抱いてることを示してもらいたいの」
「…………断る」
大悟ははっきりとした口調で拒絶した。
「俺は確かにアイツのことは嫌いだ。でも、わざわざ人を傷つけるようなことを言うつもりはない」
「……どうしても?」
明日香に対して悪印象を抱いている大悟に、綾乃は自身の頼みが断られることを想定していなかった。内心焦りを抱く綾乃であったが、ここで引き下がるわけにもいかず、とりあえず大悟に食い下がる。
「なんでわざわざ俺が言わなきゃいけないんだ?アイツのことが嫌いなら自分で言えばいいだろ。人に汚れ役を押し付けるようなことはせずにさ」
大悟は落ち着きながらも、強い口調で綾乃に苛立ちをぶつけた。必要最低限のことしか喋らない普段の態度との違いに物怖じしつつも、大悟の言葉に自分の感情との食い違いを察知した。
「……私はあの娘のこと、大好きだけど?」
「…………は?」
綾乃の予想外の言葉で、大悟から苛立ちの感情が瞬時に消え去り、気の抜けた一言が少年の口から漏れた。
「……ああ、そういえば、なんでこういうこと頼んでるのか、理由、言ってなかったわね」
「アイツのことが嫌い以外のどんな理由があるんだよ?」
大悟は困惑した様子で綾乃の言葉を待つ。
「趣味の悪い遊びをやめさせるためにね。まあ、私が注意して止めさせることができれば一番よかったんだけどね?私の言葉なんか聞きやしないのよ、あの娘。でも、好かれようといろいろ手を尽くしている人に、その一面が原因で嫌われたとわかったら……、ね?何かが変わりそうな気がしない?」
先程までの焦りは消えてなくなり、綾乃は少しはにかんだ様子で大悟に語り掛ける。
「あの娘は本当にすごいのよ。いつも明るくて、堂々としてて、常にクラスの中心にいて……。私が持ってない良いところをたくさん持ってるの」
綾乃は明日香に対する想いを、普段の落ち着き払った態度ではなく、抑揚のある嬉々とした声色で語りだす。
「でもあの娘の他人で遊ぶ面は許せない。あの娘には正しくあってほしいから。だから……、協力してもらえないかな……?無理にとは言わないけど……」
「ん~……、まあ……、いいよ……」
明るい調子から一変して、急に弱々しい口調で綾乃からお願いをされてしまった大悟は、その落差から、思わず了承してしまった。断るという選択肢を奪われたといった方が正しいのかもしれない。
「……ありがとう」
紆余曲折あったが、なんとか大悟から了承を得ることができた。作戦は最終局面へと向かっていく。
「俺はお前みたいに他人がいつも自分の思い通りになると思っている奴は嫌いだ」
大悟は綾乃の指示通り、突き放すような言葉を明日香に浴びせた。綾乃の思惑通り、明日香はこの出来事に強いショックを受けた。だが、ここで誤算が生じてしまう。明日香は自分の問題点を見つめ直すようなことはせず、それどころか、周囲に対してより質の悪い嫌がらせを頻繁に行うようになってしまった。
「わたしさ~ぁ?大悟君にフラれちゃったんだよね~。だからもうなんだかいろいろどうでもよくなっちゃってさ~あ~?誰か別の人にも私と同じように嫌な思いを味わってもらおうかなって?まぁ、私にはそんなことをしても許してもらえるだけの人望があるから別にいいかなって思ったり?」
ファミリーレストランで明日香が綾乃に不平不満をぶちまける。そして、明日香の憂さ晴らしは日々加速していき、この変貌ぶりは夏休みをまたいでも変わらなかった。綾乃は強い危機感を抱いていた。自分の親友の行いでクラスの雰囲気がどんどんどんどんどんどん悪くなっていく。しかも親友にそうさせてしまう原因を作ったのは、他ならぬ自分なのである。綾乃は何とか明日香の暴走を止める方法を考えていた。そんなある日、綾乃が廊下を歩いているときであった。
「なあ、野中」
綾乃は背後から大悟に呼び止められた。
「なに?」
「最近のクラスのゴタゴタの原因って、もしかして全部古木か?」
触れられたくない物事に急に踏み込まれ、綾乃の鼓動が早まる。そして大悟のことを、つくづく察しのよい人だと思った。
「……ちょっと来て」
綾乃は大悟とともに、人気の無い数学準備室の前に移動した。
「ふぅ……」
綾乃が浅くため息をつく。
「あんまり人前でそういうこと言わないでくれない?」
「ああ、悪い」
明日香の一件もあり、綾乃は大悟に強く当たってしまう。しかし、大悟も目の前のいらだった少女の置かれた状況を察してか、気にする様子は見せなかった。
「あと……」
綾乃も大悟の気遣いを察して、己の振る舞いを反省する。
「あと欲を言えば、私達が人前で面と向かって話すのもやめたほうがいいと思う」
綾乃の企みを明日香に悟られないようにするためにも、大悟との関係性は明日香に、ひいては噂の拡散を防ぐためにも周囲の人間全員に隠す必要があった。新しく策を講じても、明日香に対して働きけていた事実がバレた後では意味を成さないからである。
「そこまでする必要あるか?」
「用心するに越したことはないわ」
綾乃は大悟に徹底するよう要請した。気を遣わせてしまうことに対する小さな罪悪感を抱いてか、大悟からやや目をそらしてつぶやいた。
「まあ、気を付けるよ」
「ありがと」
「それでさっきの話だけど、最近のゴタゴタの原因は古木か?」
大悟は真っ直ぐに綾乃を見つめながら問う。
「……そうよ。全部あの娘……」
そう答えながら、綾乃は再び大悟から目をそらしてしまう。明日香の行いを正すために協力してもらったにもかかわらず、現状が余計に悪くなってしまったことに対するまた別の罪悪感からである。
「そうか……。やっぱり俺のせいか?」
「あの娘と私のせいじゃない?」
綾乃に頼まれていたとはいえ、自分の言動がきっかけで明日香を狂わせてしまったことに、大悟はいくらかの責任を感じていた。しかし、綾乃は大悟に責任など感じてほしくはなかった。その思いを素直に言葉で表現できないがために、言葉がやや投げやりになってしまった。
「いや……、悪い。責任とかやめよう。それより、この問題は俺達で何とかしよう」
「……うん……」
再び自分の意図を見透かされたかのような感覚を覚え、綾乃は力のない返事をする。二人の間にしばし沈黙が流れる。
「……私に考えがあるの……」
「考え?どんな?」
「少し乱暴な方法。だからちょっと言えない。私一人でやるから」
「教えてくんないのか?」
「うん……。今回は聞かないで……」
話せないのではなく話したくない、大悟は綾乃の微妙な感情を感じ取った。
「……分かった……。あんま無茶苦茶なことすんなよ?」
「うん」
「できることがあれば俺も協力するから、必要な時は言えよな?」
「うん……、ありがと」
この綾乃の考えこそが、クラスに明日香の行いについての噂を流すことであった。明日香を止めるためにはもうこれしか方法がなかったのだ。それは、明日香の他人を陥れる行為と何ら変わりないことであった。こんな陰湿な策略に、これ以上大悟を巻き込むわけにはいかない。だが、誰かがやらなければならず、それは発端である自分の役目と綾乃は考えた。綾乃は単独での実行を決意した。
「なんか変な話聞いたんだけど……、最近のトラブルは全部明日香の仕業だって噂が流れてるらしくて……」
このような文句を、クラスのおしゃべりで交友関係の広い男女数人に話した。すると、あれよあれよという間にわずかな火種はクラス全体に燃え広がり、世間に伏せられていたこの事実は明るみに出された。明日香が黒幕だなんてみんな考えもしていなかったであろうが、いざ指摘されてみると、やはり彼女の言動や振る舞いにどこか違和感を感じたのだろう。噂に疑問を抱いた生徒はほとんどいなかったようである。また、綾乃は自身が噂の発端になった人物であることを周囲に感づかれることを、少なからず覚悟していた。しかし、そのような話が表沙汰になることもなかった。綾乃の想定以上に急速に噂が広まったことで、みんながその噂を知っているという状況が突然作られたからだ。噂話を他人から聞いたものだと偽ったことも、周囲から疑いをもたれないために一役買ったのも間違いないだろう。そのため、綾乃が噂の発端だということがばれることもなかった。誰が言い出したかを特定することなど最早不可能となっていたのだ。こうなってしまえば、明日香の親友である綾乃は疑われるはずもない。こうして、明日香のクラスメイトからの信用は一瞬にして失われた。
「ちゃんと謝れば許してくれるでしょ?みんな」
「……だって……、みんなすごい怒ってる……。許してもらえるわけないよ……、絶対……」
そんなことはない。全てが元通りとはいかないだろうが、誠意をもって謝罪をすれば許してもらえないこともないだろう。一度はクラスメイトの矢面に立たされるが、きちんと謝罪をしてそれでおしまい、それが綾乃の思惑であった。だが、明日香はクラスメイトと相対することを徹底的に避けていた。それは、彼女が今まで他人から冷ややかな態度を取られる経験が極端に少なかったためである。またもや綾乃の計算違いの展開になってしまった。
「まさか古木があんな風に吊し上げられるとは思わなかった」
「まあ……、そうよね……」
明日香が矢面に立たされてから数日後、数学準備室の前には物静かな二人の少年少女の姿があった。少年は普段通りの無表情であったが、少女からは悲しみがの感情がにじみ出ていた。
「一応聞くけどさ、あれも野中が噛んでるんだろ?」
その言葉を聞いた瞬間、綾乃の表情が険しくなる。
「噛んでるも何も、全部私一人でやったことよ。軽蔑した?」
綾乃は大悟に視線を突き刺すように見つめながら、言葉を放つ。綾乃の言葉や態度からは、後悔や迷い、後ろめたさといった感情は感じられない。その常軌を逸したとも取れる様子に、大悟は少々たじろいだ。
「……いや……、してない。何か考えがあってのことだと信じてる」
「そう……」
綾乃は軽蔑してほしかったのだ。例えどのような理由があろうと、他者を、それも一番の友人を陥れた。そのような人間が、何の罰も受けずにのうのうと学園生活を過ごしている。その事実が許せない。綾乃は自分で自分が許せなかった。故に綾乃は、自分が置かれた状況を一番理解している大悟に軽蔑してもらうために、悪役を演じて見せた。しかし、大悟は綾乃を軽蔑などしなかった。いつの間にか綾乃は大悟から信頼を勝ち得ていた。
「優しいんだね」
「そうかな?」
「そうだよ」
大悟に軽蔑され、一人で向き合わなければいけないことを覚悟していた。自分で望んだこととはいえ、やはり拭いきれない恐怖心も抱いていた。だが、自分を信じてくれた大悟の言葉に安堵感が芽生え、ふつつかに飾られていた狂気的な表情がほどけ、笑みがこぼれてしまう。
「それで、何か考えがあったんだよな?」
「うん、一応あの娘の暴走を止めるためにね、あの娘の噂を流したの」
綾乃は胸襟を開いて語りだす。
「あの娘の裏の顔をクラスのみんなが知れば、あの子も好き勝手できなくなる。あの娘を説得できないのなら、あの娘を止めるにはもうそれしか方法がないと思ったの。まあ結果として狙い通りにはなったし、バラバラになっていたクラスみんなの団結力も強くなった。なったけど……、でもそれは、あの娘がクラス全員の敵になったから。今度はあの娘一人がみんなに虐げられる羽目になった。当然その展開も予想していたの。でもそれだってあの娘がちゃんと今までの行いを反省して、みんなに謝罪すればここまでの事態にはならなかったはず。ならなかったはずなのに……」
綾乃は、クラスの崩壊を危惧した末に、自身が起こした行動と、その成り行きに対する思いを打ち明けた。それはまるで、綾乃の独白のようでもあった。
「……謝罪はしてないな」
「……助言はしたんだけどね……。全く思い通りに動いてくれないのよね……、あの娘だけは……」
明日香とクラスメイト達の現況を思い浮かべ、晴れかけていた気分が滅入ってしまい、綾乃は気疲れした様子を見せる。
「……なあ、野中」
大悟がふと綾乃に尋ねた。
「二人ってどうして仲良くなったんだ?」
何でもよかったのだ。何でもいいから暗い話題からそらすための別の話題が必要だった。それならば、以前から気になっていたことをこの際聞いてしまおうと大悟は考えた。
「それ……、知りたい?」
「ああ、すごく気になる」
今でこそ明日香はクラス中から冷ややかな視線を浴びて毎日を過ごしているが、そうなる前は学級内のアイドルであり、一番の人気者だった。彼女ともっと仲良くなりたいと考えていたクラスメイトはいくらでもいたはずである。にもかかわらず、明日香が共に一番長い時間を過ごし、一番深い友人関係を築いたのが、地味で目立たない綾乃なのだから、誰もが不思議に思ったことだろう。大悟の疑問は至極当然のことと言えた。
「……どうして、か……」
大悟の問いかけに、綾乃は少し考えた様子を見せる。
「話せば長く……、いや……、一言で言えばね、なんかあの娘が勝手に懐いてきたのよね」
「一言で済ますな。話せば長くなるんだろ?もっとなんか仲良くなるきっかけとか無いのか?」
「いや……、別に無いわよ」
綾乃はそうは言いつつ、自分と明日香が出会って間もない頃の話を始めた。
「入学当初にあの娘がね、クラスの女子を集めて交流会をやろうとか言い出したの。ほぼ強制参加、本当は行きたくなかったんだけど、行かざるを得なくなってね。まあ終わるまで耐えたんだけど、その後の帰り道であの娘が声をかけてきたのよ」
「待って、野中さん」
「……なあに……?」
「今日は来てくれてありがとう。ごめんね?こういうことはあんまり得意じゃなさそうなのに、無理して来てもらっちゃって……」
「…………」
「でもせっかく同じクラスになったんだから、これからよろしくね?」
「……なんか嫌……」
「え?」
「みんなに好かれようとニコニコ愛想ふりまいて、でも本当は自分大好き。皆と仲良くなりたいんじゃなくて、ただ皆に好かれたいだけ。みんなから愛されている自分が好き。他人には皆自分の引き立て役。アナタってそんな感じがするのよ」
「そ、そんな……」
「あなたの一挙手一投足から浅はかな自尊心が見え隠れするのよ。常に自分をよく見せようと行動してるのがよく分かるわ。私はあなたのこと好きにならないから、愛想をふりまく必要なんて無いわよ。だから気安く話しかけてこないで」
「何で……、何で分かったの?」
「……そんなの……、見てれば分かるって……」
「……スゴイ……」
「えっ?」
「スゴイよ野中さん!!多分だけどね、私今まで誰にもばれたことなかったんだよ!!他人を割と見下してること!!周りの人間が皆引き立て役っていうのもドンピシャ!!それを高校生になったばかりのこの時期に全部見透かされるなんて!!」
「……何なのよ……、一体……」
「分かんないけど、なんか嬉しい!!私今感激してる!!イヤ~、尊敬しちゃうなぁ~!!楽しい高校生活になりそうだなぁ~!!」
「そして何だかんだで仲良くなっていったわ」
「なんていうか……、二人らしいな」
大悟には、綾乃が語る在りし日の二人の姿が容易に想像できた。
「本当に、ね。二人ともどうしようもないわ」
「でも、野中は少し変わったな」
「まあ……、あの時に比べればね。少しは人当たり良く振る舞っているつもりよ。あの娘と一緒にいて影響されたのかしらね。でもきっと、あの娘が積極的に声をかけてこなければ、私達は友達にはならなかったでしょうね」
そして綾乃は、少しはにかんだ表情を見せた。
「最初の方は鬱陶しくて、迷惑だっていう態度を見せてたんだけどね?本当は正直ね?嬉しかったの。私ね、今まで友達が一人もいなっかったから、私と仲良くなろうとしてくれる人が目の間に現れてくれたことが本当にうれしかった。いつもは八方美人が服着て歩いているような娘だけど、私に話しかけている時は私に興味を抱いて話しかけてくれてる、そんな感じがしたの」
大悟は綾乃の想いを視線をそらすことなく、ただ聞いていた。
「私に初めて友達ができた。明るくて、おしゃべりで、目立ちたがり屋で、私と正反対の女の子。でも、あの娘のおかげでクラスのみんなとも距離が縮まって、大嫌いだった学校も少しは楽しいって思えるようにもなってね」
ふと、はにかんだ表情から、今度は伏し目がちな暗い表情に変わった。
「でも……、あの娘の悪癖だけは許せなかった……。というよりも、あんなに素敵な娘にそんなことをしてもらいたくない。そう思うようになってたかな……」
「それで、いろいろ画策したってわけか」
「うん、そう……。でもそれは、あの娘のためでも誰のためでもない。ただ私が自分の理想をあの娘に押し付けただけ。あの娘にはこうあってほしいとか、こうあるべきだとか、本当に自分勝手な理由で……」
綾乃の明日香に対する想いをつづった言葉は、最後には自身の過ちから生み出された暗然とした気持ちに苛まれてしまった。綾乃は大悟から顔をそらし、うつむいてしまう。
「野中」
落ち込んだ綾乃の姿を見て、大悟は思わず声を上げる。
「遅かれ早かれ、アイツの性格の歪みは正しておくべきだったと思うぞ」
「…………」
綾乃は無言のまま、うつむいた顔を起こして大悟に視線を合わせ、その言葉に耳を傾けた。
「動機が多少自分本位でも、今古木が辛い目にあっているとしても、その時の野中の考えは間違っていない。俺はそう思う」
「…………」
そして、綾乃は再び大悟から視線を逸らす。
「……間違ってないっていうのは言い過ぎだと思う……。やっぱり私の考えは良くなかったよ……」
「そんなことない。ていうかもうこの際どうでもいいだろ?そんなこと」
「……ごめんごめん、せっかく励ましてくれてたのにね。ありがと。ちょっとだけ元気出た」
暗い影を落としていた綾乃の表情に、少しだけ明るさが戻った。
「なんか今日……、アナタに励まされてばっかりね」
「結局俺にできることって何もないから、こういうことくらいはさせてほしい」
「ふふ……、ありがとね」
大悟の心遣いに、綾乃は心の底から感謝をする。
「……大丈夫か?」
「うん、大丈夫。それに、落ち込んでなんていられない。ちゃんと終わらせないとね」
このような事態を招いたのは全て自分の責任である。だからこそ、この状況を打破するきっかけを与えることができるのは自分だけであり、それが自分の役目である。綾乃はそう考えていた。綾乃は改めて気を張りなおした。
冬休みを越えて三学期、綾乃の説得もむなしく、明日香はいまだにクラスメイトと向き合うことができずにいた。その間にイジメまで発生し、自体は悪くなる一方である。
「なあ野中」
ある日の昼休み、綾乃はたまたま一人図書室で本を選んでいたところを、大悟に声を掛けられた。
「んっ、……大悟君……」
急に声を掛けられ、綾乃はびっくりした様子で大悟のほうに振り返った。
「どうしたの?」
「いや、ちょっとな……。野中と話がしたくてな」
大悟はどこかはがゆい、もどかしい表情をしていた。
「……話?」
「古木のことで」
大悟の一言で、綾乃の表情に暗い影が浮かぶ。
「……あの娘……ね……」
そして、どうしようもないほど悲しげな表情を浮かべた。
「……本当に……ね……。どうしてなのかしら……」
本棚に正面からもたれかかり、顔もうつむかせてしまう。結果的に明日香を辛く苦しい現状に追い込んだ綾乃は、罪悪感に苛まれ続けてきた。普段の生活の中では気丈に振る舞うことに努めてはいたが、大悟と二人きりの時には疲弊を抑えきれないでいた。
「……このまま逃げ続けても、状況は……、何一つ変わらない……。つらいだけなのに……。あの娘が一番……、一番つらいはずなのに……」
「…………」
「もう……、どうすればいいのかわからない……。このまま終わりだなんてイヤダ……」
あと一ヶ月ほどで進級する。クラス替えも行われる。そうなれば、明日香や綾乃、それどころか、クラスメイトの大多数にとって最悪な記憶しか残らずに一年間を終えてしまう。
「大悟君……。私……、どうしよう……。どうすればいいのかな…………?」
綾乃はすがりつくような思いを口にする。
「……野中、俺思ったことがあるんだ」
弱音を口にする綾乃に、大悟は語り掛ける。
「なんで古木がクラスから爪弾きにされても、耐えれてしまっているかなんだけど」
「何?」
綾乃は本棚に預けた体を起こし、かなりの食い気味で大悟の言葉に耳を傾ける。大悟の話ぶりにわずかではあるが、問題解決の糸口を感じ取ったのだ。
「お前だよ」
「……エ?」
彼女にとって予想外の言葉に開いた口が塞がらず、一言だけ言葉がこぼれ落ちた。
「アイツは多分、野中が隣にいてくれるだけで十分なんだと思う。そりゃ最近あんまり笑ってないし、辛そうにしてる時も多いみたいだけど、野中と一緒にいるときはそんな様子は一切感じない。アイツにとっては野中以外の人間の言動なんか、大した問題じゃないのかもしれないな」
「そう……、なのかな……?」
「まあ、あくまでも憶測だけどな」
「……なんか……、嬉しいかな……」
綾乃は大悟の言葉に喜びを隠しきれず、表情からは笑みがにじみ出る。
「あの娘も私のことが好きって考えて……、いいよね?」
「何を今更……。一番の友達のくせに」
大悟はあきれた様子でため息をつく。
「そっか……。友達って……、そういうものなんだね……。そういうものだから……、友達なんだ……」
綾乃は明日香と友達になるまで、一人たりとも友達がいなかった。今一度、友達という存在の意味を噛みしめる。そして同時に、恐ろしい考えが頭に浮かび、それを実行に移す決意を固める。
「大悟君……、ありがとう。決まったよ。次の作戦」
綾乃は真っ直ぐに大悟を見てそう言った。さっきまでの疲れきった姿はもうそこにはなかった。
「おい……、次はどんなことをする気だ?」
大悟は恐る恐る綾乃に尋ねた。
「……うーん。ごめん、ちょっと言えない」
「なんでだ。ちゃんと言えよ。お前の作戦は碌な結果にならないんだよ」
「失礼ね!本当のこと言わないでよ!」
明日香がクラスで孤立するという現在の状況は、以前、綾乃が明日香の悪い噂を流したことがきっかけで生み出された。綾乃は大悟に、このことを事前に知らせずに、作戦を実行したのだ。大悟は綾乃の思い付きに基づいた行動に一抹の不安を抱いたために、声を荒げて問いただす。
「事前に教えてもくれないのか?」
「いや……、その……、今度のは凄い目立つの。しかも悪者にならないといけないから、大悟君までは巻き込めないよ……」
「何でも一人で抱え込むな。俺にも少しくらい背負わせろ」
大悟はかつて、嫌いだという意思表示を明日香に見せてほしいという依頼を綾乃から受けて、断ろうとしたことがあった。声を荒げる様を見るのは綾乃にとってその時以来であったが、不満をあらわにした前回とは違い、ただただ綾乃を心配している様子が感じられた。
「……ありがとう。でも大悟君はもう十分、助けになってくれてるよ。それに、今回必要なのは、古木明日香が一番信頼を置いている私という駒だけだから」
「……なにする気だよ、本当に……」
「……クラス全員の前で、古木明日香の人望を奪ったことを……、その……、打ち明けようかなと……」
綾乃は大悟の表情を窺いながら、作戦を打ち明けた。大悟はそのあまりに思慮外な作戦に感嘆し、彼女に対して恐れと畏れを抱き、決して一言では言い表せない様々な感情で満たされた。
「クラス全員……。それは古木も含んでるんだよな?」
「うん、そう。むしろあの娘に聞いてもらわないと意味がないわ」
古木明日香はいくら虐められても、クラスメイトから煙たがられても、唯一無二の親友、野中綾乃という存在がいれば壊れない。それは、いつまでも自身の罪と向き合わないということでもある。だが、もしも自分を陥れた人間がその親友であることを知ってしまったら?間違いなく状況は一変する。そのことは大悟にも容易に想像できた。
「それは……、古木の奴大丈夫なのか?」
一変した後の状況が、それ以前よりも良くなるとは限らない。明日香の心が修復不可能になるほど砕け散る可能性も考えられる。それは、綾乃も想定していた。
「うん、ダメになるかもしれないね」
分かっていて、なお、一歩間違えれば取り返しがつかなくなる手段を、迷うこともなく実行しようとする。大悟はそんな綾乃の様に、狂気を垣間見た。
「でも、もう逃げさせない。みんなに謝るまでまとわりつく」
「まとわりつく……。くくっ……」
綾乃の妙な言葉の選び方に、大悟は思わず笑ってしまった。普段よりも意気揚々と話す綾乃の様子に、彼女に対する憂心の情、そして、先刻芽生えた恐怖心までもが、すっかり消え失せていた。
「うん、明日ケリつけるから」
「でもさあ、みんなの前で打ち明ける必要はあるのか?今度は野中が悪役になっちまうだろ?」
「それでもいい。その方がむしろ好都合」
綾乃の決意は揺るぎないものであった。
「あの娘もある種の被害者なんだってみんなに印象付けられれば、謝罪の言葉も受け入れられやすくなると思うの。それに、あの娘にとっての謝るきっかけになるのと同時に、みんなにとってはあの娘を許してあげるきっかけになればいいかなって」
「じゃなくて!!自分がみんなからどう思われてもいいのかって聞いてんだよ!!」
綾乃は責任を全て抱え込み、自らの犠牲も厭わない思いであった。彼女は大悟を簡単には安心させてはくれず、彼女に対する大悟の憂心の情が再び湧き出し、満ちる潮のごとく心を占領した。
「別にいいよ。全部本当のことだし。あの娘も同じ目に遭ってるんだから私もってことじゃないけど……、自分の保身のために計画を変更するつもりはないわ」
「…………」
綾乃は力強く、躊躇なく言い切った。その様は、彼女の決意を大悟に分からせるには十分であり、大悟はこれ以上口出しすることができなかった。
「まあ、そもそも私はみんなからなんとも思われてないし、失うものなんて最初から無いのよね」
「……分かった、分かったよ。でも、予想外のことが起きたり、必要だと思うことがあったら、俺も遠慮なく動くからな?」
「ありがとう。でも無茶しないでね?」
「お前が言うな」
「ふふっ、ええ~、無茶?別にしてないよ?」
「はあー、自覚してくれよ……」
二人の間に和気あいあいとした空気が流れる。これは、二人が密会を始めた当初には考えられなかった雰囲気でもある。それだけ二人の間が親密になったこと、裏を返せば、親密になってしまうほどの長い期間、問題が解決できていないことを意味していた。
「まあ、タイミングがよさそうな時に決行するから」
「ああ、これで終わりにしような」
「うん」
「それで今に至ると」
「……………………」
綾乃は全てを話し終えた。明日香はその間に言葉を発せず、いつの間にか心ここにあらずという様子を見せていた。
「……あのっ……、綾乃ちゃん……」
「何?」
「……えっと……、その……、何か……、私……、よくわからなくて……」
明日香は、その情報の数々を処理するために頭を回転させていた。だが、話の内容が彼女にとってあまりに突拍子のないものであり、考えが追いつかなくなっていた。また、綾乃の普段の表情からは想像できない本心に触れ、自責の念に押しつぶされていた。現在、彼女の心はあらゆる感情が目まぐるしく渦巻いていた。
「うん、そうだよね、ごめん。じゃあ分かりやすく一言で言うね」
それは、綾乃が幾度となく明日香に諭した言葉
「早くみんなに謝ってきて」
であった。綾乃にとっては、明日香が自分の説明を理解したかどうかなど二の次であった。一刻も早く、可及的速やかに自身の責任を果たしてもらいたいのだ。
「それは……」
「それは……、何?」
「やだ……。コワい……、コワいよ……」
明日香は自分に害を及ぼす人間を見てはいなかった。見ないようにしていた。恐いからである。見なければ、認識しなければ、向き合わなければ、謝ろうとしなければ、恐い思いをせずに済む。先程生まれた自責の念も、あくまで綾乃に対してのものである。他のクラスメイトに対してのものではない。明日香は今までそうやって過ごしてきたのだ。そうもしなければ、彼女はとうに壊れていただろう。
「謝りたくないの?」
「……謝りたくない」
「恐いから?」
「……うん」
「絶対に?」
「……うん、絶対に……」
「どうしても……?」
「どうしても」
綾乃は髪をかき乱しながら下を向く。
「グダグダ言ってないで謝れ!!」
次の瞬間、明日香に対して激しい感情を露わにする。
「綾乃ちゃん……?」
「いつまでもいつまでもそうやって逃げてばっかりで!!何にも解決しないのに!!余計な言い訳ばっかり並べて!!いい加減にしなよ!!」
怒りにゆだね、厳しく明日香を叱責する。綾乃の地味で大人しい普段の印象からは、とても想像できない姿である。
「それは……」
「いつまでも甘えてばっかりで問題を先送りにして!!少しも向き合おうとしない!!アンタのせいでみんながどんな思いをしたかちゃんと分かってるの?」
「で……、でも……」
綾乃のあまりの逆上ぶりに、大悟はあっけにとられ、明日香は委縮してしまった。
「でもじゃない!!また言い訳する気なの!?そんなことする暇があったらみんなに謝りなよ!!今すぐに!!今謝らずにいつ謝るの!?今日が最後のチャンスになるかもしれないんだよ!?」
「わかった……、わかったよぉ~~…………」
明日香はとうとう観念し、目に涙を湛えながら、ぐずついた声でそう言った。
「謝るから…………。うぅ……、謝り……に……行くから…………。もう……、怒ら……ない……で…………」
明日香がついに謝罪の意を固めた。彼女の心の拠り所であった親友、その親友からの暴露と叱責により全ての支えを失った。親友の怒りに触れたことによって生まれた、見捨てられることに対する恐怖心が、先ほどまでのごたごたに入り混ざった感情を押し流し、明日香の心を制圧していた。
「じゃあ、行くよ」
「……うん……」
明日香はトボトボと綾乃の後ろをついて歩く。
「……みんな……、許して……、許して……くれる……かなあ……」
「大丈夫よ、たぶん。みんなはアナタが思っているより優しいから。少なくともアナタよりひねくれた人はいないから」
「……ひどい……」
綾乃は明日香を小馬鹿にした態度をとる。だが、その他愛のない普段通りのやり取りのおかげで、明日香は少し落ち着きを取り戻した。
「それよりも、教室に何人残ってるかよね……。たぶんもうほとんど帰ったか、部活に行ったか……」
「それなら大丈夫だ、たぶん」
大悟が進言する。
「念のため教室に残るようにみんなに言っといたから。たぶん帰らずに待っててくれてると思う」
「あら、随分気が利くのね」
「まあ、こうなるとは思ってたからな」
「大悟君……、ありがとう……」
「いいって。むしろ、古木にとっては辛いかもな。大勢の人間の注目を一度に浴びるわけだから」
「……いいの。……コワいけど……、早くみんなに謝らないといけないから……」
「そうか……。しっかりやれよ、古木」
「……うん」
静かな緊張感を湛えながら、三人は教室へと戻っていく。
「……やっぱりみんな……、怒ってるんだよね……」
教室へ向かう途中、明日香がポツリとつぶやく。
「怒ってるかどうかは知らないけどね。許してるとは思えないわね」
「綾乃ちゃんも……、怒ってる……?」
「怒ってないわよ……、別に……。あ、でもさっきは凄い頭に来たけど」
綾乃は蔑むような瞳で明日香を見つめる。
「あ……、えっと……、さっきのことじゃなくて……。あっ……、でも……、さっきは……、ごめん……」
明日香はしどろもどろになりながら言葉を紡ぐ。
「いままで……、ごめんね……。迷惑かけて……」
「……………………」
「きっと……、みんなも辛い思いでいるんだよね…………」
その後、明日香は黙り込んでしまった。大悟も二人の会話に口を挟むようなことはせず、ただ行方を見守っていた。学校内には他の生徒達も数多く残っているにもかかわらず、この三人の間だけが空間が切り取られたように、沈黙がこだまする。
「大丈夫よ。あなたが今思っていることを素直に言葉にして伝えればね」
「うん……」
明日香達は教室の前まで戻ってきた。ドアの前に立つだけで、多くの生徒が室内に残っているのがわかった。
「……こんなに……、いるの……?」
明日香達はドアの窓から覗いて教室内を確認する。
「ほぼ全員残ってるんじゃない?」
「ほぼじゃなくて全員いるんじゃないか?」
「ど……どうしよう……」
明日香は震えた声でつぶやく。
「私がついててあげるから、頑張って」
「う、うん……、ありがとう……」
明日香は教室のドアに手を掛ける。そこで二、三度大きく息を整え、ゆっくりと教室のドアを開ける。その瞬間、教室内が静まり返り、クラスメイトが一斉にドアの方を向き、明日香に注目する。明日香は曇った表情をしながらも前を向き、教壇まで歩いて黒板を背にみんなの方へ向きなおった。綾乃と大悟は教室の隅の方で行方を見守る。
「あ……、あの……、その…………」
クラスメイト全員の視線を浴び、明日香はその場でたじろいでしまう。そして、数十秒の間黙ってしまい、何も言えなくなってしまった。だが、ここまで来たらもう逃げることはできない。自らの行いから目を背ける時間はもう終わったのだ。明日香は意を決して謝罪の言葉を口にした。
「ごめんなさい」
そして深々と頭を下げた。明日香はクラスメイトが自分のせいで悲しい思いやつらい思いをしたことは理解していた。理解はしていたが、自分が今までしてきたことに対する罪悪感よりも、自分の非を認め、向き合って謝罪することに対しての恐怖心が勝ってしまっていた。そんな明日香の気持ちを変えたのは先程の綾乃の話であった。綾乃が自分の言動や行動に心を痛め、自分の考え方や行動を正すために苦心してきたこと。綾乃の想定外すぎる話の内容のすべてを把握するまでにはいまだに至らないが、それだけは彼女の話から痛いほど伝わってきた。彼女の話を聞き、思いに触れ、心が締め付けられるような気持ちになった。それでも一度は逃げ出そうとしてしまったが、綾乃の渾身の怒りにより、クラスメイト全員が綾乃と同じ思いをしているのだという事実、その事の重大性を理解した。もう恐がってなどいられない。明日香は自分の心に芽生えた素直な気持ちを口にした。
「私は……、今までみんなにしてきたことを謝りもせず……、みんなと向き合うことを恐れて逃げ続けてきました。本当にごめんなさい」
教室内に沈黙が流れる。その様子を明日香は心が押しつぶされそうになりながらも、必死にこらえていた。綾乃も緊張感をたたえながら見守っていた。
「なあ、ちょっと待てよ」
そんな中、沈黙を破るものが現れる。明日香にとって代わり、クラスのリーダー的存在となった片桐祥子である。祥子が発言を始めたことにより、明日香の鼓動が激しくなる。綾乃は状況が悪い方向へ向かうことを予期した。
「ちょっと謝っただけで全部チャラにしてもらおうなんてさ、都合よすぎるんじゃないか?」
その後も祥子は声高らかに発言を続ける。
「ここにいる全員、身に覚えのない噂を流されたり、持ち物隠されたりしたんだぜ?私は友人の財布泥棒の犯人に仕立て上げられた。罪の清算が全然足りないんだよ」
明日香は誠心誠意に謝罪をした。少なくとも本人はそう思っている。そうすれば、きっとみんなに許してもらえると思っていた。だが、許されなかった。先刻まで抱いていた一縷の望みは、いとも簡単に奪い去られてしまった。祥子に罵倒され、明日香は失意と恐怖で何も考えられなくなってしまった。
「それに本当はさ、対して反省なんてしてないんじゃないの?謝罪の言葉も上辺だけのものなんじゃないの?どうなの?古木さん?」
祥子が明日香に詰め寄る。眼を鋭く光らせ、その態度はいつにも増して傲慢で高圧的である。明日香はもう祥子の言葉の意味を認識する余裕などなかった。心臓がドクドクと鳴り、今にも破裂しそうである。額には脂汗をにじませ、まばたきをすることも忘れ、呼吸は激しくなり、足の震えも止まらない。
「何?どうしたの?何とか言えよ」
祥子はさらに明日香との距離を縮める。明日香が後ずさりして、背中に黒板が触れたその時である。
「待った」
綾乃が祥子の前に立ちふさがる。祥子は瞬きをしながら腕を組んだ。
「何?何か用?邪魔すんなよ」
「今この娘は、自分が今までしてきたことに対してきちんと謝罪をしたけど、なんだか不満がありそうね、あなたは」
明日香の償いは、ただ己の過ちを悔い改め、迷惑をかけたクラスメイトに謝罪をすること。彼女はその責任を全うした。それでもなお、明日香に対して言い掛かりをつける人間がいるのならば、友として、彼女を守る。それが、彼女を陥れた自身の行いに対する、せめてもの罪滅ぼしにもなると考え、無機質な少女はその身を盾とする。
「何だ?やけにそいつのこと庇うじゃん。お前アイツのこと嫌いなんだろ?だから今まで騙してたんだろ?」
祥子はここぞとばかりに明日香と綾乃の関係性について攻撃的な発言をする。
「私のこと心配してくれるの?でも大丈夫よ。こっちが終わったら私たちの方で適当に答えだすから」
しかし、綾乃は思いのほか落ち着いていた。クラス中の注目を浴びる中、クラスのリーダーに歯向かうという、彼女の人生において今まで経験のない事態に直面しているにもかかわらずである。心臓の鼓動が激しくなっていることは感じてはいたが、頭の方は普段と何ら変わりなく回転しており、冷静だった。
「誰もお前のことなんか心配してねえよ!」
「そ。それで?あの娘の何が不満なのかしら?」
話を一つ前の質問に戻す。綾乃は主導権を祥子に渡すまいとしていた。
「ただ謝って許される問題じゃないだろ!!それ相応の罰を受けてもらわないと釣り合わないんだよ!!」
祥子は感情を露わにし、自身の思いを吐き出した。
「罰ね……」
綾乃は一つため息をつく。
「つまりアナタは、今まであの娘にしてきた虐めの正当性を主張したいわけね。」
綾乃の挑発めいた態度に、クラスの空気が凍り付く。
「……生意気だな……。高々野中のくせに」
「そうね、生意気ね。私程度の人間に楯突かれる気分はどうかしら?」
綾乃はさらに祥子を挑発する。
「……お前調子に乗るのもいい加減にしろよ?」
脅し文句を吐きつけ、綾乃の制服の襟元をつかむ。祥子はクラスのリーダー的存在を自認している。そんな彼女が、クラスで有数の地味な存在である綾乃に、大勢のクラスメイトの前で分相応な態度をとられている。祥子のストレスは抑えきれないほど高まっていた。
「あなたが取り戻したいものは、こんなことをしても戻ってこないのよ。分かるでしょう?それとも単にあなたは弱い者虐めをしたいだけなのかしら?」
この言葉の直後、綾乃の制服の襟元をつかむ祥子の腕に、激しく力が込められた。そして、そのまま綾乃を自身の顔にぶつかる寸前まで引き寄せる。
「軽々しく私達のことに踏み込んでんじゃねえよ」
これまで以上の剣幕で綾乃に迫り、凄みの利いた声で威圧し、激しくにらみつける。
「あの娘のことを許す気はなさそうね」
それでも綾乃は冷静だった。恐怖は間違いなく感じているのだが、綾乃にとっては今この場から逃げ出して明日香を守ってあげれないことの方が、よっぽど恐いことであった。
「ダメだ。アイツは絶対に許さない。徹底的に後悔させる」
その言葉に、今度は綾乃の顔つきが変わる。
「……何様?」
祥子の手を振り払い、今度は綾乃がズンズンと祥子に迫っていく。
「あなたがあの娘を虐めればあの娘は悲しむ。でもそれだけじゃない。皆も嫌な思いをすることになる。虐めが起きてからいつも教室内の空気は重くて殺伐としてる。もうウンザリ。そりゃあの娘だって責められてもしょうがない、責められて当然だって言えるほどひどいことをしたよ?仲違いや信頼失墜の策略、所有物の紛失にその他イタズラ各種。あげだしたらキリがない。でもね?もう十分罰は受けたんじゃないかしら?約三ヶ月も虐めを受けて、結果的に学級内で誰よりもつらい思いを味わった。それともクラスメイト全員分かそれ以上の苦しみをあの娘に与えるまで気が済まないの?アナタは」
隙間なく言葉を詰め、祥子にぶつける綾乃。明日香の謝罪直後、クラスメイト全員の前でなおも明日香を責める祥子の様子を見て、これ以上の謝罪や説得は彼女には無意味だと綾乃は思い至った。しかし、自身の謝罪を拒まれた明日香が今後も反省の態度を継続して示し続けられるとは限らない。次は自分の罪と向き合うことができないかもしれない。クラスメイトからの許しを得られる最後のチャンスにもなりかねない今この瞬間に、なんとしてでも明日香を救わなければならないと考えた。だが、謝罪も説得もだめならば力づくで抑えつける以外に方法が思いつかず、有効な手段ではないと分かりつつも、間に合わせのためにこの様な挑発的で高圧的な態度をとるに至った。その過程で、着用している眼鏡も取り外す。漫画や映画などで、眼鏡を着用している人物が感情が高ぶった時や重要な場面では、よく眼鏡を外しているが、要はその真似事である。実際に行動に起こしてみると、実に仰々しい小細工ではあるが、何がきっかけで事態が転がるかわからない。思いついたことは全部行動に移した。
「何とか言いなよ!!片桐祥子!!」
だが、高圧的な態度も眼鏡の脱着も所詮はハッタリ。普段からは決して想像のつかない綾乃の態度に祥子はやや怖気づいた様子を見せるが、この程度で彼女が完全に明日香から怒りの矛を収める保証はない。何かいい案はないかと考えを巡らしているその時である。
「あの……、ちょっといい……かな?」
その生徒の名は須田真由美。かつて明日香に財布を隠される被害を受けた生徒で、祥子の親友であった。
「な……、なんだよ?」
「えっと……、言い争うのは一旦止めにして、ちょっと……後ろを見てくれない?」
「後ろ?」
祥子は真由美の言葉通り、後ろを振り返る。綾乃も外した眼鏡をそそくさと着用し、続いて周囲を見渡す。そこにあるのは、クラスメイト達の冷ややかな視線であった。軽蔑の念を込めた眼差しに、綾乃は血の気が引き、それまで目まぐるしく回転させていた頭脳が停止した。しかし、綾乃はこの視線に妙な違和感を感じた。誰一人として目が合わないのだ。そして綾乃は、この視線は醜い争いを演じた自分達に向けられているものではなく、祥子一人に対して向けらているものであることに気付いた。
「え……?」
「ね?気づいた?」
教室中の冷たい視線を一身に受ける。祥子はみんなも自分と同じように、明日香に対して恨みや憎しみを抱いていると思っていた。それが一転して、軽蔑のまなざしを浴びる羽目になってしまった。体を強張らせ、困惑を隠しきれないでいる。祥子の受けた重圧は綾乃の比ではなかった。
「古木さんが起こした騒動のことや……、その後から今までのこと、それに古木さん自身のことも含めて、みんな思い思いの考えを抱いていると思うの。でも言い出せなかった。もし自分の考えがみんなと違っていたら、今度は自分が虐められるかもしれない……。古木さんと同じ目にあわされるかもしれないと思った……。少なくとも私は……、そう考えてた。だから、自分の意見を大々的に主張していた祥子ちゃんに同調しちゃってたの。自分の身を守るために……。毎日自分に嘘をつくのは辛かった。でも、さっきの野中さんの言葉が私の本当の気持ちを代弁してくれた。そしたらスッキリしたっていうか……、モヤモヤが取れたっていうか……。それに、それは私だけじゃなかった。みんなのことを見たら、みんなが私と同じことを考えていたんだってすぐに分かったの」
真由美は綾乃はおろか、明日香に匹敵するほど小柄で大人しく、その上臆病で口下手なタイプの女の子である。人前で自ら意見を述べることなど普段ならば絶対にありえないのだが、自分の思いを、みんなの思いを、所々言葉を詰まらせながらも、強い語り口で話す。それはまるで、真由美の言葉が、クラスメイトの大多数の統制された意思であることを裏付けているかのようであった。
「私……、そんなこと言ったっけ?」
何がきっかけで事態が転がるかわからない。先程綾乃が考えたことではあるが、これは本当に思いがけない出来事であった。
「えっ……、言ったよ……。分からないんですか……?」
真由美はクラスメイト全員の方を向き直る。クラスメイト達は今まで触らぬものに祟りなしを貫いていたとは思えない面構えをしている。一人一人から何かを訴えかけるような強い意志を感じる。真由美はみんなの意思を確認するように全員の方を見回すと、改めて綾乃の方を向いて、かすかに微笑みながらつぶやく。
「言ったじゃないですか。ウンザリだって」
普段の生活の中で、周囲にいる人間が何を考えているかなど、分かりようがない。ただし、例外的に、自分以外の人間の考えがわかる瞬間がいくつかある。その一つは、自分以外の人間と、同じ時、同じ場所で同じ物を見て、自分と同じ考え、感想を抱いた時である。綾乃が発した一つの言葉が波紋のごとく吹き抜けていき、真由美をはじめとしたクラスメイトの心を揺らし、曇りを取り払い、場の空気を一変させた。その場にいる人間が自分と同じ考えを抱いていたことに、みんなが気付かされた。この気づきが同調を促し、一つの大きな意志を作り上げ、綾乃の下に集ったのだ。
「私達は……、私達はギスギスした空気の中で毎日を過ごすのはもうウンザリなの。祥子ちゃんの言うように、明日香ちゃんのことが許せないとか、罰が足りないとか、そういう見方があるっていうのもわかるよ?内心、そう思ってる人もいるかもしれない。祥子ちゃんの言うように、明日香ちゃんのさっきの謝罪も格好だけのものかもしれない。本当に反省してるかなんて私たちにはわからない。でもね?もう許すとか許さないとか、罰がどうこうとか、謝罪とか反省とか、どうでもいいの。そういうことじゃないの。もう疲れたの!もう嫌なの!」
クラス中が事態の収束を願い、その空気感で室内が満たされていく。見渡してみると、晴れ晴れとした表情の大多数に交じり、祥子に近しい者達が、どこか煮え切らない表情をしている。しかし、綾乃の一言によって表面化した大多数の意見に異議を唱える意志は、もはやその様子からは感じられない。
「ちょっと……、待てよ……。それでいいのかよ……。そんな簡単に許しちゃって……、だってアイツは……」
この急変した事態の中でも、祥子は、祥子だけは自分の意思を捨てきれないでいる。だが、動向を見開き、目の焦点が定まっていないその様子は、冷静さを欠き、見るからに混乱していた。意思を貫き通そうとしているのではない。捨てることができないのだ。
「祥子ちゃん、もうやめよう?もう終わりにしよう?ね?」
真由美が祥子の説得を試みる。
「アイツが全部メチャクチャにしたんだぞ……?私達もアイツのせいでケンカして……。許したらまた何しだすか……。みんなは!?みんなは本当にそれでいいのか!?アイツに恨みとか何もないのか……?」
祥子はなおも自分の主張を曲げようとしない。綾乃はその様子を見て意固地というよりも、
見えない何かに恐れを抱いているような印象を受けた。
「言い過ぎだよ。ひどいことするよね」
「アイツ空気読めてないよな」
「いい加減迷惑なんだよ」
ふと綾乃は、周囲から祥子を卑下するような言葉を聞いた……気がした。それは祥子の混乱した様子が見る者に得体のしれない恐怖心を与えるからか、ただ単純に祥子の存在が事態を平穏無事に治めるための妨げになっているからか。それとも、彼女を囮として自分たちの身を守るために、奴らがそそのかしたのか……。理由はどうであれ、もしこのまま祥子が自分の主張を曲げないようであれば、今度は彼女が矢面に立たされるかもしれない。それでは、被害者と加害者がすり替わっただけで、何も解決したことにはならない。それは綾乃の本意ではなく、クラスメイトの、今周りで祥子を卑下する言葉を発したと思われる一部の人間の本意でもないはずである。ひとまず、今この場だけでも意見を取り下げるよう働きかける必要があった。
「片桐さん!!」
綾乃は思わず叫んだ。綾乃に教室中の視線と注目が集まる。目立つことをした人間にみんなが注目するのは自然なことである。しかしそれ以上に、今綾乃はこの場にいる全員にとって、たやすく状況を転じさせてしまうほどの重要人物なのである。
「な……、なんだよ……」
だが、綾乃は祥子にかける言葉など何も考えてはいなかった。祥子を引き下がらせるために何か言わなければいけないという焦りから、つい名前を叫んでしまったのだ。だが、この皆が注目する中、もはや引き下がることができるはずもない。加速する鼓動を湛えながらも、わずかな時の間に綾乃は一つの言葉を絞り出す。
「……ありがとう」
それは誰しもが予想してなかった言葉であった。しかし、一番驚いているのは何を隠そう綾乃自身であった。今自分が感謝の言葉を贈った相手は、綾乃にとっては自分の親友の前に立ちはだかる、一言で言えば敵そのものであるからだ。
「な……、お前……、何言ってんだ?」
祥子の困惑は収まらず、綾乃の動向に無言で注目していたクラスメイト達もざわつきだす。そんな中、大悟と、そして明日香だけは驚く気持ちを抑え、次の綾乃の言葉を待っていた。
「あの娘が……、明日香が暴走してた時、私もあの娘を止めようとした。でも止められなかった。あまり強く注意できなかったの。嫌われたく……、なかったから。だから、片桐さんが止めてくれなかったら、ずっとそのままだったかもしれない。明日香も今みたいに反省しなかったかもしれない」
頭に浮かんだ言葉を、自分の思いとの整合性を図ることもなく、どのように有効に働くかなど気にも留めず、綾乃は思うが儘に言葉を紡ぎだす。
「それに……、ごめん……。明日香を反省させるための汚れ役を片桐さんに……、押し付けるような形になってしまって……。でも、もうアナタは役目を終えたわ。これ以上は……、大丈夫だから……、」
「……ああ……、その……、う、うん……」
祥子に対する感謝の気持ちなど皆無であったが、ひとまず、綾乃は祥子をなし崩し的に自分の言葉の意図に従わせた。結局のところ、祥子は明日香に対する行為に行き過ぎた面があったことを、自分で認識していたのかもしれない。途中怯えたような態度をとっていたのは、明日香がみんなから許されることで、反対に自分が虐げられる立場に回ることを恐れていたからだろう。自分に否定的な意見や態度に反発していたが、肯定的な言葉を掛けた途端に大人しくなったことからも、そのように推察できる。
「古木」
大悟が明日香に呼び掛け、明日香ははっとした表情を見せる。
「皆さん、本当に、本当に申し訳ありませんでした!!」
明日香は再びクラスメイトに頭を下げ、謝罪をする。少しの静寂ののち、クラスメイトの一人から拍手が鳴り、その音が一人、また一人と増え、やがて教室中を埋め尽くすほどになった。
「ありがとうございます!!」
その様子を見渡して、再び頭を下げる明日香。体内を熱い何かが駆け巡り、その瞳には涙を浮かべていた。綾乃は明日香の背に手を添える。
「綾乃ちゃん……」
明日香は綾乃のもう片方の腕をとり、そのまま綾乃にもたれかかった。
「良かった……。本当に良かったよ……」
「頑張ったわね……」
明日香は泣いた。笑顔をこぼしながら咽び泣いた。その震えた体を、綾乃はそっと抱きしめた。
長い長いホームルームが終わり、皆それぞれ家路につき、部活動に精を出す。明日香はまだ教室に残っている生徒一人一人に改めて謝罪をしており、綾乃はその様子を教室の入り口付近で見守っていた。すると、部活動に行ったはずの大悟が教室に戻ってきた。
「あら?部活は?」
「ちょっと忘れ物。そっちは?」
「あの娘がね?ちゃんと謝りたいんだってさ」
綾乃と大悟が話をしていると、明日香がクラスメイトと別れ、こちらに駆け寄ってくる。
「綾乃ちゃんお待たせ!!あ、大悟君……」
明日香が大悟の存在に気が付く。
「大悟君、ちょっといいかな?ちゃんとお礼を言いたくて……」
「お礼?感謝されるようなことなんか何もしてないけど」
「いいから。聞いてあげなさい」
綾乃が大悟のそっけない態度を戒める。
「えっと……、私のこといろいろ気にかけてくれたことと、綾乃ちゃんの力になってくれたこと、本当にありがとう。あとね……?その……、改めてちゃんと言いたいことがあって……」
明日香が急にそわそわした態度をとる。
「その……、私……、大悟君のことが好きです」
かねてからの思いを、再び大悟にぶつける明日香。綾乃は明日香のこの行動を想定しておらず、驚いて立ち尽くし、ただ成り行きを見守った。
「前の時は大悟君に振り向いてもらえなくて、ただむきになってたって面もあったんだと思うけど、でも今はそんなことない。大悟君の人の立場になってあげれるところとか、ちょっと変わってるところとかが大好きです」
明日香は赤裸々に思いを伝える。
「ありがとう、嬉しいけど、でもごめん。古木の想いには答えられない」
「そっか……。うん、分かったよ」
大悟の言葉に迷いは無かった。だが明日香も、大悟が自分の想いに答えてくれないであろうことは初めからわかっていた。それでもなお、中途半端ではない本気の想いを大悟に伝えて、そしてフラれたかったのだ。明日香は大悟の言葉をしかと受け止めた。
「ちゃんと好きになった後に思いを伝えられてよかった。ありがとう、大悟君」
「……俺も、好きな人に自分の気持ちを伝えたくなった」
「好きな人、いるんだ」
「ああ、いるよ」
そう言って大悟は、二人のやり取りを聞いてやり場を見失った綾乃の方に向きなおる。
「野中」
「……な、何よ……」
「好きだ」
大悟の言葉には、またも迷いがなかった。それは紛れもなく彼の本心だからである。綾乃はそのあまりにも唐突で、あまりにも綾乃の思慮を出し抜いた言動に返す言葉も見つからず、手の先から足の先まで完全に体が硬直してしまった。
「えっ!?えっ!?そうなの!?」
「……もう……、帰ろっか……」
わずかな沈黙の時を真っ先に破ったのは、当事者ではない明日香であった。思考回路までもが硬直していた綾乃だったが、明日香のその慌てふためきぶりを見てふと我に返り、恥ずかしさからかその場を後にしようとする。
「ねぇちょっと……、返事は?何か返してあげてよ」
「うるさい!!知らない!!」
綾乃も普段からは考えられないほどのうろたえぶりを見せる。声を荒げるが、その声はどこか浮ついていた。加えて、明日香の制止も聞かず、その場を離れようとする。
「野中」
大悟が綾乃を呼び止め、綾乃は足を止めて立ち止まる。そして、わずかな沈黙が流れる。
「……本気……なの……?」
綾乃は後ろを向きなおろうとはせず、背を向けたまま大悟に問いかける。
「本気だよ。野中の友達のために一生懸命な所とか、一緒になって苦しんであげられる所が好きだ」
「でも……」
大悟の言葉に対し、綾乃が言葉を詰まらせる。
「……ごめん……。私わかんないや……。今日は……、帰るね……」
綾乃は返事をすることなく、帰宅の途についた。
「綾乃ちゃん、なんで返事しなかったの?」
「なんでって言われてもねえ……」
帰宅の道中、明日香と綾乃は言葉を交わす。
「だって大悟君だよ?ためらう必要ないじゃん!!」
「ためらってるわけでもないんだけどね?」
「私、大悟君のことが好きだから、フラれるのはやっぱり悲しかったよ?だけど大悟君が好きになった女の子が綾乃ちゃんなのはスゴイ嬉しいよ。私の目に狂いはなかったなって思ったよ」
明日香は興奮気味に立てつづけに言葉を発する。
「あなたの好みの男性は私に好意を抱いている男の子……、っていうことなのかしら?」
「なんというか……、綾乃ちゃんをことを好きになる男の子だから、私も大悟君のことが好きになったっていうのかな?」
興奮している明日香に対し、綾乃は恋愛ごとの話題にウンザリしたような表情をしている。
「……綾乃ちゃん、大悟君のことは好きじゃないにしても、嫌いじゃないよね?男の子の中なら一番仲良しなんじゃないの?」
「……そうね……。まあ、一番よく話すし、信頼もしてる。いい人だってことも知ってる」
「でも、付き合わない……と」
「そうね、付き合わない」
綾乃は首を横に振った。
「そもそも、鹿沼君はたまに私と二人きりで話して、二人きりの時間を繰り返し共有したからそういう気分になったんじゃないかしら?今回はたまたま私だっただけで、別の人と一緒の時間を過ごしたら、たぶんその人のことを好きになるのよ、きっと。そんなの本気じゃない。本気で好きになってくれたわけでもない相手と付き合うのって、なんか間違ってるわ」
「綾乃ちゃん、根拠の無い鹿沼君の本心の推察はいいから、ちゃんと鹿沼君の気持ちに正面から向き合わないと。……私が言うのもなんだけどさぁ」
「……うん。そうだね……」
大悟と付き合わないための理由を並び立てる綾乃を、明日香は一閃した。
「なんだか、普段と立場が逆転しちゃったわね」
「うん……。ちょっとうれしい」
明日香は柔らかい笑顔を浮かべているが、反対に綾乃は複雑な表情をしている。
「どうして鹿沼君と付き合う気が起きないのか……」
綾乃は目を閉じながら、彼女なりに答えを探し出す。そして、ゆっくりと目を開いた。
「なんていうか……、恋人がいないからとりあえず手ごろな異性を探して恋人にするとか、そういうことはしたくない。アナタは大悟君のことが好きなんでしょ?私は好きじゃない……。好きかどうかなんて……わかんないよ……」
「それはイエスでもノーでもないってことかな?」
「今すぐに答えを出すのは無理……、みたい」
すなわち、保留である。しかし、放棄はしていない。綾乃は今、ゆっくりと丁寧に、自身のむず痒い感情と向き合い、答えを導き出そうとしていた。
「そっか……。そうなんだ……」
「そうよ。そうゆうことにしといて」
「でも、そんなことしててチャンスを逃したら?」
「その時はその時よ」
男女間の情に対してあまりにも無頓着な綾乃に対して、明日香は少々不機嫌な様子を見せる。だが、明日香はまたすぐに笑顔を浮かべた。
「まぁでも、時間の問題だと思うけどね」
明日香はくるりと回り、隣を歩く綾乃の前方に立ちながら屈みこみ、綾乃の顔を見上げるように覗きこむ。
「大悟君はこれから綾乃ちゃんとの距離を縮めようと努力するはずだよ。そんな大悟君を見てたらきっと綾乃ちゃんも、大悟君のことが愛おしくてたまらなくなっちゃうよ」
「……なるかしら?」
「ならなくても、二人の男女がずっと一緒にいたいと思えるようになったら、それはもう恋人同士だよ」
「……私も聞いていいかしら?」
綾乃が神妙な面持ちで明日香に問いかける。
「アナタはなんでまだ私と一緒にいるの?」
「……え?」
綾乃の一言で、しきりに心を弾ませていた明日香の表情と声色に、暗い影が落ちる。
「私はアナタを陥れたし、裏切った」
「ああ……、そっち……?うん……」
明日香は、綾乃が自分のことを嫌っているのに、それでもなお慕ってくることに疎ましさを抱いている。綾乃のたった一言で、明日香は綾乃の心情を読み取った。しかし、それは思い違いである。綾乃は明日香に対して、辛い思いを味わわせる原因を作った自分になぜ嫌悪感を抱かないのか?なぜ普段通りに接してくれるのか?明日香の思いを知りたかったのだ。
「う~ん、そ~だね~」
明日香は何か考える素振りを見せる。
「私達が友達だからかな?」
「……………………」
「友達だよね?」
「……………………」
「友達でしょ?」
「……………………」
「友達だもん!!」
「…………うん……」
黙りこくる綾乃の肩を鷲掴みにし、綾乃の体を前後にゆする。自身の行動に後ろめたさを抱き、明日香の友達を名乗ることを許すことができなかった綾乃に、明日香は無理やり回答を与えた。
「私ももうわかってるつもりなんだよ?自分がどれだけ非常識なことをしてきたか。それを間近で見ていた綾乃ちゃんが心を痛めていたことも。だから、間違っていることを正させるために秘密をばらされちゃったりするのもしょうがないことなのかなぁって、ちょっと思うの」
「私は……」
綾乃は言葉を詰まらせながらも、それでも言葉を絞り出す。
「……あなたに理想を押し付けた……」
「……理想?」
「うん……。私の友達、古木明日香はこうあってほしい、こうでなくてはいけないという理想……。とても身勝手な……、ね」
「理想を……」
明日香は再び何かを考えるようなしぐさを見せる。そして、にんまりと笑う。
「……きっと……、綾乃ちゃんが自分の理想を押し付ける相手は私くらいね」
「……まあ……、……そう……、ね……」
明日香は、本来持ち合わせている明るさを存分に振りまく。この笑顔といたわりの精神、そしていい加減さが、八方美人に振る舞うまでもなく、人々を惹きつけるのである。これが、古木明日香という少女である。
「それも悪くないねぇ」
「明日香……」
綾乃には、この言葉が明日香の本心なのか、それとも自分を気遣って発したものなのかはわからなかった。ただ、この一言で彼女が少し救われたのは紛れもない事実である。
「それに理想を押し付けるというのなら、私にも綾乃ちゃんに押し付けたい理想があるよ!!」
「え……、何……?」
明日香の発言に、綾乃は思わず身構えてしまう。
「大悟君と付き合ってよ」「却下」
綾乃の返答は食い気味であった。
「もぉ~~う」
そんな他愛のないやり取りに、二人はしばし喜びに浸っていた。
「ごめんね」
ふと明日香が一言口にする。
「今まで辛い思いさせちゃって……」
「……謝らないでよ……」
綾乃にとっては予想外の行動であったのか、どうしたらいいのかわからない様子である。
「私達……、と……友達だし……、その……、えっと……、私の方こそいろいろやっちゃったし……、別にもう怒ってないし……」
「……ふふっ」
綾乃のあたふたする姿を見て、明日香は笑顔をこらえきれないでいる。そんな明日香の様子を見て綾乃も平静心を取り戻し、つられて笑ってしまう。
「ふふっ」
「アハハ、面白~~い」
「ふう……、まったく……」
「やっぱり私、綾乃ちゃんのこと尊敬するよ……。私の知らないところでいろいろと印象操作したり、大勢の人間の前で堂々と自分の意見を言ったり……」
「本当はもっと早くあなたに謝罪させたかったんだけどね……。難しいのね、人を思い通りに動かすのって」
「それでも、片桐さんから私を守ってくれた綾乃ちゃんはかっこよかったよ」
「……そこに痺れて憧れてもいいけど?」
「?」
明日香はきょとんとしている。
「何でもないわ」
「そうなの?」
「そう」
「じゃ、ファミレス行こうか」
「そうね」
彼女たちはより輝かしい日常を手に入れた。
その後の学園生活は充足した日々であった
一度は地の底まで信頼を失った明日香は、クラスメイトへの謝罪をきっかけに信頼を取り戻し、平穏無事に毎日を過ごしている。一部の生徒とはいまだにわだかまりが残っているものの、以前のような計略行為によって塗り固めた人気ではなく、彼女の自然体の姿によって羨望を集めていた。
綾乃も以前と同様に、平穏な日常を過ごしている。明日香との関係もこれまで以上に良好である。だが、変わったこともある。周囲の生徒が彼女に抱く印象が大きく変わったのだ。以前までは大人しい人、暗い人、いつも古木明日香の隣にいる腰巾着でしかなかったが、騒動をきっかけに、彼女の言動や行動に多くの注目が集まるようになった。言うなれば、彼女の存在に価値を見出すようになったのだ。隠れファンも少なくない。ただ、目立つことが嫌いな彼女にとっては、決して好ましいことではないようである。
大悟は綾乃に自分の気持ちを伝えたものの、その後も返事をもらえずにいた。だが、彼女が内心まんざらでもないこと、少なくとも男子生徒の中では自分が彼女と一番親密であることは、大悟もわかっていた。大悟が綾乃にとって特別な存在になる日は、そう遠くはないだろう。
祥子は…………
「野中、ちょっと来い。話がある」
「……私?」
騒動の数日後、ある日の放課後、明日香と帰宅しようとしていた綾乃は、祥子に声を掛けられる。いつものやや威圧的な声色であった。急な事態に綾乃も警戒した様子で応対する。
「ああ、お前だ」
「ちょっと……、何の用なの……?」
明日香は二人の間に流れる険悪な雰囲気に危機感を抱き、声を震わせながらも綾乃と祥子の間に割って入ろうとした。騒動を経て、クラスメイトの大部分とは友好な関係を取り戻した明日香だったが、一部の生徒、特に祥子には確かな嫌悪感を抱かれていた。祥子が自分に抱いている心情は明日香も十分に理解しており、祥子と言葉を交わす際に緊張した様子がうかがえる。さらには、まだ教室に残っていた他の生徒達も、綾乃達の間のただならぬ様子を感じ取り、緊張感を湛えてしまう。数日ぶりに教室内に張り詰めた空気が流れる。
「お前は呼んでない」
「ちょ……、ちょっと……」
だが、祥子が指名したのは明日香ではなく、あくまで綾乃であった。
「……ここじゃ駄目なの?」
「ダメだ。お前と二人きりだ」
「ふう……、しょうがないなあ……」
二人きりと指名されてしまったからには、断るに値するこれといった理由を持ち合わせていない綾乃は、応じざるをえなかった。
「だ……、大丈夫……?」
明日香は恐る恐る綾乃に尋ねた。
「うーん……、自分の心配した方がいいかもね?」
「えっ……、ええ~?」
「早く来い、野中!!」
怯えた様子の明日香にくぎを刺していた綾乃を、祥子は強い口調で呼びつけた。二人は終始無言で学校の廊下を移動し、人気のない多目的室の前に来た。
「さて……、何を話すか……、どうした?」
綾乃は祥子に背を向けて、多目的室のドアの小窓から室内を覗いている。
「待ち伏せしている連中がいるとしたらここに隠れるかなと」
「んなもん仕込んでねえっつうの!!」
「冗談よ、ジョーダン」
綾乃は怒鳴り散らする祥子をおちょくるように、わざと間延びした口調で応対した。
「テメェ……」
綾乃の発言を聞いた祥子は、表情を強張らせ、鋭い目つきでこちらをにらみつける。
「…………ふぅ…………」
しかし次の瞬間、祥子は綾乃に仇名すどころか、深呼吸をして心を落ち着かせた。
「……そんなに私って印象悪いのか?」
「うん、悪い」
周りからのイメージを気にする祥子に、綾乃はとどめを刺す。
「……安心しろ、とりあえずそういうんじゃないから……」
綾乃の一言が心に刺さったのか、祥子は苦虫を噛み潰したような顔をしていた。それにしても、祥子が他人からのイメージを気にする様子を見せるのはかなり意外であった。だがそれ以上に、自分に対して敵意を抱いていない、もしくは敵意を抑え込んでいる様子が綾乃にとっては想定外であった。
「そうね。もうあなたにはそれだけの仲間はいないものね」
それは紛れもない事実であった。祥子は複数人の仲間とともに、当時クラス中から反感を買っていた古木明日香という敵を虐げることで、クラス内で幅を利かせていた。だが、明日香がクラスメイトに謝罪をし、敵役がいなくなった今となっては、力を誇示することができなくなってしまっていた。それどころか、明日香に対する行いがやや度を越えていたこともあってか、クラスメイトから嫌悪感とまではいかないまでも、漠然とした不信感を抱かれていた。そして、祥子を取り巻いていた仲間達は、これ以上自らの立場を悪くすることを恐れて、祥子との関係を断ち切ったのである。結局の所、最初から仲間ですらなかったのだ。綾乃はなぜこのような発言をしてしまったのか、自分でもよくわからなかった。こんなことを指摘すれば、祥子の怒りに触れ、また無駄な争いを引き起こしかねない。そんなことは綾乃も重々承知しているのだが、どういうわけか、祥子を蔑む言葉を抑えることができなかった。もしかしたら、彼女は自分が思っている以上に、祥子の明日香に対しての行いに怒りを抱いているのかもしれない。
「そう。もうそんなのはいない」
だが、祥子は怒ることもなく、動揺した様子も特に見られなかった。
「けどな、真由美がいてくれてる。アイツはまだ、私のことを友達と思ってくれてる」
祥子は不思議と一貫して穏やかな様子であった。
「昔な?といっても入学してすぐのことだったから一年も経ってないんだけど。アイツがガラの悪い奴に言い掛かりを付けられててさ。助けてやったんだよ。で、そっからなんていうか……、なんかすごい懐かれてさ?でもなんていうか……、嬉しかったんだよ、私。中学まではさ、私によって来るのって不良っぽい奴らばっかでさ。まあ、こんな性格してるからしょうがないんだけどな。でも、それ以外の奴らからは無条件でビビられて。それでもその不良たちのことを友達と思えればまだよかったのかもしれないけど、そうは思えなくてさ。なんていうか……、群れることでただ強い集団を作ろうとしてるっていうか……、互いの利害関係のためっていうか……。そういうやつらが考えてることって、この前まで私の周りにいたやつらそのものって感じだったんだ」
高校入学前の話を始めたあたりから、祥子の表情は沈んでいた。しかし、その暗い表情は一転する。
「でも真由美は違う。お互い本気で友達だと思ってると思う。アイツが困ってたら私はどんな時でも助けてやりたいと思ってる。……そんな風に思える初めての友達なんだ。だから、古木の奴に私達の間柄を大した理由もなく無茶苦茶にされたのが、今思えば……、その……、無性に腹立たしかったんだと思う。今更それを理由に……、なんというか……、自分の立場を守ろうっていうか……、許してもらいたいとか……、そういうんじゃないんだけど……。お前にも指摘されたけど、私自身がもっとアイツと面と向かって話をしていれば、こんなに長く関係をこじらせることもなかったわけだし……。でもまあ、うん……、そんな所かな?」
祥子は胸の内から湧き出てくる想いを告白した。話し終えた後も、祥子は終始楽しげで、満ち足りたような表情をしている。
「……………………」
綾乃は半ばあっけにとられていた。よもや祥子の口から、このような青々とした青春群像劇を嬉々とした様子で語られるとは考えてもみなかったのだ。
「……何だよ!?」
「…………何だろう……?別に何でもないんだけど……」
「………………~~~ッッッ!!」
勢い余って本音を語った、語りすぎた祥子は、気恥ずかしさがあとから襲ってきたのか、頬を赤らめてうつむいてしまった。
「アナタ、意外とかわいいわね」
「ハァ!?お前ふざけんなよ!!」
綾乃の一言で羞恥心が最高潮に達し、恥ずかしさをごまかすために怒鳴り声を上げる。
「ウソウソ、冗談よ、半分」
「……お前ってホント分かんねぇ」
「ところで、話ってもしかして……、さっきの?」
「悪いか!?」
「……五月蠅い……」
祥子の怒鳴り声に、綾乃はうんざりとした態度を露わにする。その様子を見た祥子は態度を一転させて、慌てふためく。どうやら、今回の一件で、本当に懲りたようだ。
「いやっ……、なんていうか……、本当は別に用なんて何にもなかったんだよ……。ただ、なんでかよくわかんないんだけど、お前と少し話がしたかったんだよな……」
もしかしたら、祥子は自分の親友に対する想いや、明日香と対立していた時の自分の胸中を、誰でもいいから聞いてほしかったのかもしれない。
「片桐さん」
「何だ?」
「もう彼女に電子音を鳴らさせちゃダメなんだからね」
「……へ……?何……?」
祥子は、数か月前に起きた出来事のことなど完全に忘れているようであり、綾乃が何を言っているのかわからないようであった。
「気にしなくていいのよ。それよりも須田さんのこと、大事にね」
「わ、分かってるよ!!うるせえな!!」
綾乃は柔らかく微笑み、祥子は純粋に自分のことを想って発した綾乃の一言が意外だったのか、再び恥ずかしさと格闘していた。
「ま、まあ……、そういうわけだから!!他に話すことも別にないし……、もう終いな!!」
「ええ、そうね」
綾乃の心は羽のように軽く、良質な物語を読み終えた時のように軽やかに舞い踊っていた。それはきっと、つい先日まで恐怖心や嫌悪感を抱いていた目の前にいる人間が、結局は自分と同じ一人の人間でしかないことがわかったからであろう。自分が親友をどれだけ慕っているか、その想いを知ってもらいたい、でも本人に話すのは恥ずかしい、それでも誰かに聞いてもらいたい……。もしかしたら、そんな人間味溢れる胸中を抱いて自分を訪ねたのかもしれない。がさつで言葉づかいも乱れており、自分とはまったく違う生き物だと思っていた祥子も、自分と同じように、人付き合いと優しくされることが苦手な普通の少女でしかなかったのだ。
「……っと、そうだ、一つ聞きたいことがあったんだ」
「何?」
綾乃と祥子は行道と同様に、終始無言で教室へと帰っていた。その道すがら、不意に祥子は綾乃に尋ねた。
「もしかして私って、お前に助けられたのか?」
「?」
綾乃には、祥子の言葉の意図が、すぐには理解できなかった。
「い、いや……、この前のゴタゴタの時にさあ……、私が意地張ってた時に……、その……、あのまま続けてたらなんか、ヤバかったらしいじゃん?だから野中のおかげで助かったのかなあって……」
「ああ……………………、えっ!?」
これは祥子の言ったとおりである。騒動の際、祥子に軽蔑のまなざしが向けられた時に、綾乃はいち早く異変を察知して、逆転の言葉を祥子に投げかけ事態を収束に導いた。もし、綾乃の言葉が無ければ、祥子は明日香に変わってクラスメイトから蔑みを受けていたかもしれない。だが、それは自分以外の誰かが知ったところで意味のないことである。仮にここで綾乃が祥子の問いかけに対して首を縦に振ったとして、その結果祥子に感謝をされたとしても、綾乃にとっては気持ち悪いだけなのだ。故に彼女は、質問の内容を理解した瞬間に最良の返答を考え、考えた挙句、渾身の力を振り絞り、しらばっくれた。
「いやっ……、心当たりがないんだったら別にいいんだ……。聞いてみただけだから」
「ふーん……、そ」
綾乃が小さな善意を隠し通し、二人が教室に戻った時である。
「祥子ちゃん!!」
一人の少女が祥子を呼ぶ。須田真由美である。
「どこに行ってたの?心配したよ……」
「バカ、心配するようなことがそうそう起こるかっつうの」
過度な心配をする真由美を、祥子はわずらわしさを抱きながらも、落ち着かせる。
「だってだって、昨日の今日だし……。しかもよりにもよって野中さんと……、二人でいたなんて……。こんなの何も起きない方がおかしいよ……。」
真由美は、祥子と一緒に教室に戻ってきた綾乃に一瞬視線を向け、おずおずと祥子に声を上げる。
「……こいつが仮に私に殴り掛かってきたとして、お前が心配するようなことは起きないと思うんだけどな……」
「違うんじゃない?須田さんは、あなたが私か他の誰かに乱暴なことをしないかを案じていたのよ」
「そういうことかよ!!お前らいい加減にしろ!!」
各方面からの自分に対する印象に祥子は少々うんざりした様子である。
「だってぇ~~!!祥子ちゃん手が出るタイプなんだもん~~!!」
だが、片桐祥子と須田真由美、この二人のやり取りは確かな友情を感じさせるものであった。性格は正反対ながらも、お互いがお互いを信頼しあっていることを感じ取れた。
「ハァ……、まあ……、帰るか……」
「うん!!」
祥子の言葉に、真由美は満面の笑みで答える。
「じゃあな、さっきはありがとな」
「じゃあね、野中さん」
「うん、気を付けて」
あいさつを済ませ、祥子と真由美が帰りの途につく。
「そうだ、野中、一つ忘れてた」
ふと、祥子が廊下を数メートル歩いたところで後ろを振り返り、綾乃に呼び掛ける。
「私は今もまだ古木のことが嫌いだ」
祥子は躊躇なく、真っ直ぐに綾乃の目を見て言い切った。この発言に真由美だけは動揺し、気が気でない様子を見せていた。
「でも、お前のことは嫌いじゃない。ある程度は認めてる」
祥子のこの発言が綾乃の耳に届いた瞬間、彼女の脳を停止させた。祥子の明日香に対する態度からまだ明日香を許していないことは、綾乃も感じ取っていた。なので、そのことをはっきりと言葉にしたからと言って、さほど驚くことでもなかった。しかし、自分も明日香ほどではないにしろ嫌われていると認識していた綾乃にとって、今の祥子の発言は動揺を誘うのに十分であり、相当に当惑する出来事であった。
「気ヲ付けて、帰ってネ」
先程と同様にいたわりの言葉を掛けたが、その言葉には少々別の意味合いが含まれていた。だが、その意味に気づくことなく、二人は帰路に就いた。
「さてと……」
綾乃は教室の端の方でこちらを観察している明日香に目をやる。
「……何やってんの?」
「よくあの人と話せるよね~……」
明日香の久々のげんなりした姿である。
「しかもあんなに仲良くなっちゃってさ!!」
「アンタが嫌われすぎてるだけ」
綾乃は明日香と会話をしながら自分の机のもとに向かい、カバンを肩に下げて帰る準備を整えた。
「そっちこそ、須田さんと何か話してたんじゃない?」
「え?あ、うん、そうなの。お互い大変だった時のこととかね……」
そう言って、明日香が少々言葉の間を置く。
「それで……、うん……。私と須田さんって……、ちょっと似てるかもって……、そんな話になった」
不思議な話である。綾乃も自信と祥子の共通点を見出していたばかりなのだから。明日香と綾乃、性格が真逆な少女達。それでも二人は信頼しあい、確かな友情を築いていた。そしてそれは、二人とは似て非なる、祥子と真由美というもう一組の性格の異なる少女たちも同様で……。
「……さ、帰ろっか」
「うん!!」
「私さ、野中のことが恐かったんだ」
「え?どういうこと?」
学校から駅までの道中、祥子は真由美に心に秘めていたことを話す。
「意外だと思っただろ?」
「それはまあそうだけど……、なんで……?」
真由美は祥子の言葉の意図をつかめないでいた。
「野中さんって確かにクールだけど……、客観的に見たらどう考えたって祥子ちゃんの方が恐いのに……」
「…………もう勘弁して…………」
そして、真由美は意図せず祥子の触れてほしくない箇所を言葉にしてしまった。
「あ、いや……、その……、気にしないで」
「……そんなに気にしちゃいないけどさあ、私だって少しは反省したんだからさあ……」
騒動が収まってから数日の間、祥子は後悔の連続であった。
「そ、それで……、野中さんが恐いって……、どういうことなの?」
「ああ、そうだった……」
祥子は少々考えるそぶりを見せる。
「まあ……、例えばだけど……。私とアイツが普通にケンカをしたら、私が勝つんだよ」
「うん。私もそう思う」
「でも……、そうだなあ……。例えば……、ええと…………、誰かに……誰かに……、人殺しを頼まれたら、アイツは結構ためらいなくできちゃうっていうか……」
「祥子ちゃん……、その例えはどうかなあ……?」
真由美が可哀想なものを見るようなまなざしを祥子に向ける。
「いや……、よくない例えだっていうのは分かってるし、別にアイツのことを悪く言うつもりもないんだ。ただ……、友達のため……、古木のためになら人も殺しそうな、そう私に思わせるような肌触りの恐怖をアイツから受けたんだ……。アイツは敵に回しちゃいけない人間だったよ……」
そして、祥子は自身と綾乃の話を始める。
「古木が私達や皆に悪さしたことがばれて、みんなから見放されて、いい気味だと思ったよ。それでもなんかむしゃくしゃが収まんないから、アイツのことを虐めるようになった。でも、アイツの隣にはいつも野中がいて……。どれだけアイツが周りから嫌われても、野中だけはアイツの友達で……。アイツはどれだけ人望や人気を失っても、一番大事なものだけは失わない……。方やその時は私の周りには虎の威を借るキツネしかいなくって……。アイツがどれだけ辛い思いをしても、私の一番大切なものはもう隣にいなくて……。それが本当に嫌で嫌で…………」
「……………………」
祥子が自分の思いを話すのは、真由美にとっても珍しいことなのだろう。真由美は無言で祥子の話に耳を傾ける。
「もう辛いからイジメるのか、イジメじゃ何も解決しないから辛いのかわからないな……。まあ、そこは別にいいか。古木をイジメてた時、野中の一言がきっかけだよ。アイツのことを恐いと思うようになったのは」
「……なんて言われたの?」
真由美はおずおずと尋ねる。祥子は少しの間沈黙し、答える。
「友達ができてよかったね、大事にしな、……って感じのこと」
「う~ん……、それって……」
真由美はその言葉の意味をうまく理解できず、首をかしげている。祥子は、暗い表情をのぞかせながら、なおも話し続ける。
「つまりだ、なんていうかアイツは……、私が真由美と仲違いして関係を修復できてないこととか、友達でもない奴らとつるんでたこととか、全部わかってたんだ。しかも、そのことについて私が触れてほしくないってことまで分かった上で、そう言ったんだと思う。完全に見透かされてたんだよ」
「……凄い……」
「その言葉を聞いたら……、恐怖とか、怒りとか、悲しみとか……、いろんな感情が沸き上がるのが止まらなくて……、でも逆にいろいろ混ざり過ぎて何も感じられなくなって……、それで……、地に足がつかないような感覚まで襲ってきたかな……。で、気付いた時には野中を押し倒してたよ」
「ああ……、あの時…………」
真由美がその時の出来事を、はっきりと思い出した。
「あんな少ない言葉で、あんな意味の分からない思いにされるとは思わなかったよ。それ以降はもう、古木をイジメる時も、とにかく野中と関わらないようにしたよ」
祥子はウンザリしたような、覇気のない表情をしている。
「あ……、野中に突き飛ばしたことは謝った方がいいな……」
「そうだね……、あれは凄い痛かったと思うし……」
祥子が自分の行いを反省する。
「あとはこの前の古木が全員の前で謝った日のこともだ。野中が古木をはめたのが自分だと打ち明けた時は、とにかくうれしかった。ざまあみろとも思った。アイツが謝りだした時は、ここぞとばかりに責め立ててやったよ。でも、野中がアイツのことをかばうんだ。その時は野中はアイツのことが本当は嫌いだと思ったのに。教室の外で何を話してたかは知らないけど、結局アイツには最後まで野中がついていた」
「どうして……、そこまでして古木さんの友達でいようとしたのかな……?自分の立場を顧みずに……」
「他に友達がいないから。……そんな理由じゃないよな。アイツの友達やってるくらいだったら、一人でいる方がましだったろうし。…………まあ、あっちにはいろいろあっちの事情があるんだろうな」
二人の間にしばし沈黙が流れる。
「私にはとても真似できないかな……」
真由美がポツリとつぶやくと、祥子が真由美をにらみつける。
「真似なんかすんな。あんな奴アイツだけで十分だっての」
「まあ……、そうかもね」
「それにだ……」
祥子が言葉を詰まらせ、視線を下に落とす。
「全員の見てる中で私を止めてくれたのは……、私のことを……、思ってくれてたからなんだろ……?」
「……ふふっ」
祥子の言葉と言いよどむ様に、真由美は笑顔をこらえられないでいる。
「……なんだよっ!」
「ありがとね!」
「……ああ」
乱暴者の祥子と小心者の真由美、傍から見ればとても友達とは思えない二人。そんな二人の間にも、確かな友情が結ばれているのだ。
「あとね、私は野中さんと古木さんと私達、全員で仲良くなれたらなあって……、少し思うの」
「野中はともかく、古木とは絶対にありえない」
この毎日が少女たちのかけがえのない友情を育み、そして、高校生活最初の一年が過ぎていく……
春を迎え、雲一つない青空の下、街の木々が桃色の花と香りに彩られる。明日香達はついに二年生を迎えようとしていた。
「おはよ~、綾乃ちゃん」
うららかな日差しの中、いつもの通学路、明日香の足取りは舞うように軽かった。
「おはよう」
「いやぁ~、もうどうする?クラス替えだよ、クラス替え?テンション上がるよね~」
「鬱陶しい」
空に雲一つないとはいえ、やはりみんながみんな晴れ晴れとした心で日常を送っているわけではない。明日香とは対照的に、綾乃は憂鬱であった。
「テンション低~い。なんで?」
まぶしいくらいの笑顔を振りまく明日香の方に、綾乃はゆっくり向き直る。
「自慢じゃないけどねえ。私はアナタしか友達がいないの。離れ離れになったら困るの」
綾乃は人間関係が苦手であることを重々承知していた。唯一の親友の明日香と仲良くなったのも、そもそもは彼女の強引な交友がきっかけであった。新しいクラスで新しい友達を作る自信など、綾乃は持ち合わせていなかった。
「うん、確かにそれは悲しいね」
明日香は発した言葉とは裏腹に、自信たっぷりに言い放った。そして、柔らかく微笑む。
「でも大丈夫。みんなは綾乃ちゃんが思ってるより優しいよ。ちゃんと新しい友達もできるよ」
いつだったか、綾乃が明日香にかけた覚えがある言葉を言い返されてしまい、綾乃は悔しい思いに駆られる。
「それにね、仮にクラスが変わっても、私の一番の友達はいつだって綾乃ちゃん、綾乃ちゃんの一番の友達は私、だよ」
相手の意思を決めつけるような言葉。だがそれは、明日香の一番の友達でありたい綾乃にとって最も価値のある、かけがえのない言葉であった。
「恥ずかしいセリフ……」
綾乃の表情も相手を小馬鹿にするような言葉にそぐわない、抑えても抑えきれないほどの笑顔が溢れていた。
学校では、所々で生徒たちが賑わっており、中でもクラス替え内容が掲示されている昇降口前では、ひときわ大きな盛り上がりを見せている。
「二年生は……」
明日香達もクラス替えの張り紙の前で自分たちの名前を探す。
「…………バラけたね」
綾乃がいち早く自分の名前を発見し、同じクラスに明日香の名前が無いことを確認した。
「……ウソ……」
「まぁ、覚悟はしてたけどね」
先程まで楽観的だった明日香も、いざ本当にクラスが分かれると知ると、ガッカリといった様子で顔を青ざめさせ、体を硬直させてしまった。
「アンタの名前もあったわよ」
「え……、どこ……?」
「ほらあそこ。ちなみに片桐さんと一緒みたいね」
その言葉を聞いた明日香は急いで事実確認を行い、またもや固まってしまった。
「……やだ……、どうしよう……」
「大丈夫よ。最近は特に何もしてこないし」
「本当に大丈夫かなぁ……?」
「あの娘、意外といい娘よ?アンタが思っているよりもね」
「……ハハ……」
先程綾乃に言い返した皮肉を、いとも簡単にさらりと言い返されてしまった。こちらも何か言い返したくとも、立て続けのショックの直後だったので言葉が出てこず、ただ息を吐くような笑いだけが口からこぼれ落ちた。その後も二人はしばらくの間、クラス替えの掲示を眺めつづけていた。
「大悟君と一緒のクラスになれなくて残念だったね、綾乃ちゃん。ただでさえ夜になると寂しさのあまり体をふるえさせてるのに……」
「私に恋する乙女設定を付加するのはやめてくれない?」
「えへへ……」
綾乃の言葉に対して、明日香は一切悪びれる様子を見せない。
「でも綾乃ちゃん、本当にいい加減、はっきりとした態度取ったら?」
綾乃はいまだに大悟のアプローチに対して、どっちつかずな態度をとっていた。
「いいのよ、別に。なるようになるでしょ、きっと」
「う~ん……、まったく……」
明日香は綾乃の無関心な態度に唸り声を上げる。
「それじゃあ、そろそろ行きましょうか」
「あっ、うん。とりあえず終わったらそっち行くから。そしたらまたファミレスね」
「好きね、まったく……」
そうして二人は各々の新しい教室に入っていった。二人が今後どのような学校生活を送ろうとも、いつか道を分かつことになろうとも、どうか二人がいつも笑顔でいられることを祈りたい。
サナギ少女の夢現