*星空文庫

ゆりあつめ サンプル

玉置こさめ 作

  1. ミッション
  2. くちなし
  3. いとこの夢
  4. 日曜日をきみに
  5. 夜明けの声
  6. 十一月、雨。

ミッション

マディ、ばあちゃんの愛猫。正しくはマドレーヌと称号されたその猫は焼夷弾の落とされた焦げ跡を抱く大地のようなさび柄だった。
 マディがばあちゃんを誘導したことは確実だとお葬式の席で親戚は口を揃えた。だからマディ忌だ、とも。確かにマディのいなくなった翌日にばあちゃんも亡くなった。
 通夜とお葬式が終わり、一週間を経てもマディは戻らない。
マディが連れて行った。そんなわけないじゃないですか。ひびきはぼやく。彼女だけが未だにこの世でマディの行方を追っているただひとりの人間だった。まだ19才の予備校生、私の従妹。けして無類の動物愛に満ちているわけではない。祖母と彼女は尋常でない関係を結んでいたのだ。祖父母とは小学生の頃まで同居していた。祖父ががんで亡くなると、祖母は遺された財産でマンションの一室を買い引っ越していってしまった。その頃中学受験を控えていた私に気遣ったのよと母は言っていた。祖母と母の折り合いが悪いことを当時から私は悟っていた。無事受験に合格してそれを報告しに行き、それを契機に祖母の家へよく通った。10代の大切な時期の放課後を彼女の部屋でのんびりすごした。そこは隠れ家だった。料理好きなばあちゃんも喜んで色色と作ってくれたものだ。
けれど大学にあがるとばあちゃんは私が恋人のひとりも作ろうとしないことを慮るようになった。その時期にもうひびきは彼女のなかへ根をおろしはじめていた。


ばあちゃんの訃報を受けたとき、私は私で経験したことのない事態に陥っていた。思考が硬直していたところに、その知らせを母からのメールで受けた。交通事故であたりどころが悪く亡くなってしまったと。
え、ばあちゃんが。そう思った瞬間、ひびきが何かしたのかとしか思えず、そのために冷静さを欠いていることを自覚した。
私がお金の盗難に気づいたのはまさに逢魔が時だった。他からは見えないけれど致命的に穴のあいた一日だった。私は漫画を売って生計を立てている。年に何度か同人誌の即売会で二次創作の同人誌を頒布して稼ぐのだ。大きなイベントだと会社勤めの重役の年収くらいの収入がある。だからきっちり税金もとられる。金銭管理を怠ったことはなかった。
それなのに、やられた。
ある大きなイベントの直前、長年親しくしていた女友達に仕事場の金庫ごと持ち去られた。締め切り明けのその和やかにゆるみきった睡眠時間のうちに。
夕方の。資料が床に散らかっている作業部屋のこたつから抜け出てすぐにトイレに行って、その和室の障子が開いて全部が荒らされているのを見たとき。
空き巣に怪我でもさせられたのではないかと懸念して探した相手がいないと気づいたとき。赤い夕日が照らす部屋の真ん中に私は立っていた。携帯が鳴り出したので、まだ届けてもいない警察からの連絡かと思い慌てて手に取ったのだ。母からの知らせを見て、私は突っ伏した。
とりあえず顔を洗おう、あのマンションに向かおう。やけっぱちに台所の戸棚からカップラーメンを取り出してすすっているうちに、なんという日だという実感が押し寄せてきた。いっぺんにお金を盗られたことはやはりしんどいが稼げば取り返せる。けれどばあちゃんと会える機会は不意に永遠に失われた。こんな日が来ることを知っていながら今日だとは思わずにいた。

部屋にはもう母と叔父夫婦が来ていた。父は間の悪いことに出張中で深夜に到着するという。母に問う。
「ひびきは?」
「ひびきちゃんね、叔母さんとさっき揉めちゃってベランダで拗ねているの」
もう永らくひびきに会っていない。幼い頃は本当にお互いひとりっこで妹のように感じていた。それが急にこんなことになって、まっさきにひびきの所在を尋ねてしまった。
「揉めたって何で?」
「あんたがついていながら母さんが…って、菫がね。でもどうしようもないのにね」
菫とは叔母さんの名だ。娘の手前でも母はそんな具合にまだ妹呼ばわりする。菫叔母さんと、沈うつな面持ちの叔父さんにご無沙汰してますと声をかける。泣き腫らした目なのに叔母さんは私を見てすっかり大人ねえと言った。お陰さまでと笑う。こんな時なのに久方ぶりに親戚と会えばそれなりの挨拶をするのが不思議だ。血のつながりのある人たちと会う、それがもう既にばあちゃんが手の届かないところへあがってしまった作用だ。
奥の和室、数年前までは私が漫画やCDを持ち込んで置かせてもらっていた場所の真ん中に布団が敷いてある。祖母は既に純白の装束を着せてもらっていた。枕元のお線香に一点だけ強く赤い火がついて煙が立ち上っている。今更絶句する。そばに膝折って座り、真四角の、顔の上のその白布を取り除く。事故に遭った、とてもそうは思えない綺麗な顔だった。冷たい掌に触れてみた。例えしわしわでもほんの少し前まで熱が宿っていたはずだ。それを知っていた。急に引越しをしていってしまったばあちゃん。思春期をあんなにここで一緒にすごしたのに。切なさが募る。そのとき静かに隣に座った人の気配に顔をあげた。ひびきだった。無言でこちらに会釈した。漆のように深く黒い髪が揺れる。
「お久しぶりです…最後に会ったときのことを覚えてますか?」
しおらしく彼女に問われて、こいつ…と憎たらしく感じながらも私は応じた。
「忘れるはずないでしょ。驚いた」
彼女がこの部屋のバスルームから下着姿で出てきたときのことを覚えてるか。そういう質問だった。私は目撃者だった。その光景を見た。落雷のような露見だった。顕微鏡のレンズを覗き込んでいた人が顔を上げて唐突に居場所を思い出すような。
去年、ひびきは大学受験に失敗した。予備校が近いからという理由で祖母の部屋で暮らすことになった。ばあちゃんをとられてしまったような気にもなったけれど、私は努めて明るい心持でいた。そして映画を見に行った帰り、前置きなしに訪れた。
祖母は合鍵を私に預けていた。それがあの光景を見ることになった原因なのだが、彼女は鍵を戻すよう言わなかったし錠を替えもしなかったのだ。そこだけは年寄りらしく失念していたのか、ただ無心にひびきに魅了されてしまっていたのか。私と異なることに、ひびきには他のどんな男にも女にもちょっとお目にかかれないような迫力的な色気があった。それが例え血のつながった年老いた者でも抗えないような。
ノックをしても返事がない、呼び鈴を押しても携帯を鳴らしても反応がない。私はドアを開いた。バスルームから下着姿のひびきが歯を磨きながら現れたときすら、あっ、もう本当にひびきはここの住人なんだとだけ考えていた。けれどひびきはあからさまに敵意をその目に浮かべた。
『花子さんなら風呂です』
怪我でもして一人で入れないほどにばあちゃんが弱っているのかと思った。すぐに気づいた。ひびきの雰囲気、下着姿だからというだけではなくその体に澱のように凝っている気だるさ。その肌の乾いたばかりの表面に、彼女の目つきに、言葉ではない交歓の、しかも充全たるものの宿っているのを匂いで覚えた。
『ひびき、ばあちゃんに何をしたの?』
今考えると恐ろしい問いかけだと思う。
『いいでしょう。もう今までみたいにずかずか入ってこないで下さい』
いいでしょうで済むものではない。けれど、そのぞんざいな口調は私の怒りを見越して咄嗟に出たものではなかった。そこはもう彼女らの巣で他者が入っていい場所ではなくなっていた。ひびきのその自然さ、領域を荒らす者を追い出そうとする自然な除外の態度は一層その関係性を裏づけていた。そのとき私はそれすら理解できず、何か愚かしいことをいくつか口にのぼらせて罵倒した。ひびきは、人差し指を自らの唇にあてた。
『花子さんが好きなら、誰にも言わないで』
そんな。そんな言い方って。頭が壊れていると口にしたことを覚えている。
そして今、あのときのことを覚えているかとひびきは自ら口にしたのだ。
「あんた、何してたの。事故ってどういうこと…」
どうしてこんな質問しかできないのか、われながら情けない。
「花子さんはね…猫探してました」
は? と私は声に出して聞いた。ひびきは携帯を取り出して開いて見せた。さび柄の猫の画像を見せて、名前はマドレーヌと告げた。ばあちゃんが拾って以来溺愛していたという。
「花子さんが事故に遭う前日にそいつがいなくなったんです」
ひびきは俯いた。ただつまらなさそうに。
声がつまる。彼女の哀感は嘘じゃない。だからこそいやだ。何も言わずに私はその場を立ってしまった。
逃げるように台所に入り母に声をかけてお茶を飲んだ。動揺を与えるのは忍びなかったけれど今朝の出来事を伝えた。警察署に被害届を出しに行くと言うと、あんた何で早く言わないのと急きたてられた。
「どうせ夜までに親戚がたくさん来るから。早めに出して戻ってきなさい。ばあちゃんもね、あんたと話したいこともあったろうけどね…」
祖母とうまくいっていなかったとはいえ、ついに母までが喉を震わせる。私に対する後ろ暗さなら感じることはないよ、大丈夫だよと返した。大丈夫だよ、本当に。私なんか比でないくらいに祖母はどっぷり孫との愛に漬かっていたのだから、などと涙する母に言えはしなかったが。
警察署へ赴き面倒な届を出した。夕方には戻り遅い時間まで部屋にいた。確かに続々と遠縁も含めた親戚がやって来た。挨拶をして夕食の支度を手伝った。ひびきとは互いに無言でいた。こんな時だからだろう、誰もそれに気づかなかった。いっそこのままやりすごそうか。そう思いはじめていたが、かなり遅い時間に到着した父がひびきを見るなりこう言ったのだ。
「あんなに元気だったのになあ!」
婿養子の彼は疲れと混乱のためかいらいらしていた。同居したひびきが何かしたのではといわんばかりだった。
見る間にひびきが眉間に皺寄せる。それは孫としてでなく恋人としての憎しみの表情だった。何故ひびきがまた悪びれずに恋情を露呈する場に二度も立ちあわなければならないのだろう。彼女が口を開く前に私はこう言って入っていった。
「ばあちゃんは最近拾った猫のマディとラブラブだったんだって。前日にマディは行方知れずになったらしくて…もしかしたらマディが道連れにしたのかもって話してたの」
果たしてこの寓話のような猫の名前は瞬く間に一同に広まった。マディはばあちゃんの死を予感して道標になったのだと口々に讃えた。恐ろしい話だ。いつの間にかそういうことになってひびきの悪評はついに生じなかった。



小高い山にある墓所から駅へ戻る送迎バスで私とひびきは隣りあって座った。ひと一人亡くなる。それを送り出すまでの時間がこうまで目まぐるしいとは思わなかった。冷たい体を差し置いて滑稽なほどに葬儀の手配や来訪者の対応に追われる。手一杯の叔父夫妻と両親に代わり、私とひびきは息をあわせて切り抜けた。火葬場でお経をあげてもらいお骨をお墓に収めて帰る頃にはぎすぎすした空気は払拭されていた。私はようやく言いたいことを言えた。
「…何で私が庇ってやんなきゃならなかったの?」
ふふふとひびきは笑った。ふふふではない。
「感謝します。あのね、柊子さんも大変なんでしょ。絵師っていうんでしょう。プロとしてはやっていかないんですか」
乾いた声でひびきがそう言う。叔父夫婦と不仲の彼女まで話が及んでいるとは恐ろしい。
「絵師じゃない。実情仕上がりが華やかでもイラストってのは音楽に近いし印象の産物で私にはできない。漫画は物語があるの。私は同人作家」
絵師というのはイラストレーターで、カードゲームやライトノベルの挿絵を描く人々のことだ。それとは違うことを強調した。
「でも売り上げ持ってかれたんでしょう。ねえ、あそこにいてくれないかな。花子さんの部屋。私、もう親元に戻りたくないし…かといって、あの部屋にいたら死にそうな気分になるんです」
財産を失ったばかりの私の前でよくもそんな甘ったれたことを。
「自分で稼いで引っ越したらいいじゃないの」
「だめ、猫を探さなきゃ。花子さんもせっかく私にあの部屋くれましたし」
問い質すときちんと手続きをとってひびきに与えたのだそうだ。そんな大事なことを他の大人が遠慮して言い出さないのをいいことに私に打ち明けた、この無感動な眼差し。祖母をただ物質として眺め、けれどはっきりと欲情を宿していたあの目をまだ覚えている。どうしてこんなにひびきは正直なのか、あの日私が目撃しなければこんな必死さにつきあわされることもなかったはずだ。
「私はあなたに手は出さない。花子さんのためにしばらく静かに猫探すから、その間の留守預かるくらいな気持ちでうちにきてくださいませんか」
うち、とばあちゃんの部屋を呼ぶ。正直なところ私も自分の空っぽの部屋に戻るのもなんだかなあという気がしていた。この通夜とお葬式を終えて電車であの部屋に帰って一人でいるのが耐え難い。私は私のお金を盗んだ友人のことを愛していた。ひびきほどではないとしても、私もまた幼い頃から男性より女性に傾く気質を有していた。そしてそれを存分に自覚していながら向きあったことがなかった。
ただ、彼女は素敵だった。どんなに忙しい原稿のときも彼女がいるとそれだけで切り抜けられる、仕事の速いかわいらしい女性だった。どうしたって部屋にひとりでいたら彼女のことばかり考えることになる。何であれものを盗まれるというのは被害総額以上に心に負担がかかる。
だからと言って、こんな女に縋るのは間違っていると思いながらいいよと返した。するとひびきは笑い出した。優雅に愉快そうに。実に不謹慎な軽やかさで。



とりあえずイベントの折にさまざまな出版社の人から受け取っていた名刺を引っ張り出して、どんな小さな仕事でもいいから漫画を描かせてくれないかと頼んだ。いくつかの会社の人がすぐにでもと言ってくれた。最低限の荷物だけ持ってばあちゃんのマンション、今はひびきの部屋に向かった。合鍵で勝手知ったる調子で入ったがひびきの出迎えはなかった。就寝中だ。起こすのも何だし厄介になる以上は家事をしようと私は台所を物色した。冷蔵庫を見て悲鳴をあげた。ばあちゃんの葬式までは普通だった、その冷凍庫のドアが開いて中に物が入らないくらいびっしりと霜が降りている。熱心に猫を探して寝不足の彼女には申し訳なかったが叩き起こして尋ねた。ひびきは欠伸をしてからこう返した。
「何ですよ、それくらい」
面倒そうに目のあたりをこすって、ひびきは起き出した。バスルームからドライヤーを引っ張り出すと、台所の電源につなげて熱風を霜にあてはじめた。何をしているのか。
「こうすると小一時間で融解します」
確かに熱風にあてられたところからはぽたぽたと水滴が流れ落ちてくる。腿にそれが跳ね上がって冷たいだろうに感じていないらしかった。
「冷蔵庫買えばいいじゃない」
「いや、何か部屋に業者が出入りするだけでいらつくから、あの人…そうか。新しい冷蔵庫買ってもいいんですよね」
ぼんやりと言う。祖母をあの人と呼ぶひびきに、聞いてみた。
「あのね、ひびき。あんた…本当にばあちゃんと…」
言いながら気がついた。私はこの部屋に転がり込むべきではなかったのではなかろうか。
「…好きあってる両親を製作した好きあってる両親の女の方を、その血を継いでる私が好きになんのは仕方ないでしょう」
ひびきはドライヤーを止めて、こちらを見た。
「私は元々女が好きで分けても枯れてんのが好きなだけです。女の子の好きなものを究極的にわけていくと花と石に分類されるんですよ。私は石が好きなんだ。花子さんはそりゃあ大理石でしたよ」
どうしてこのリスクに思い至らなかったのだろう。私が彼女に恋をしてしまう可能性に。
「わかった、もういい。説明させて悪かった」
この女は本当に恋人をなくしただけの、ただ寂しいだけの時間に耐えかねて私を頼ったのだ。猫探し手伝うよ。そう申し出た。たちまち喜色に溢れたその表情から、目をそらした。



果たして猫一匹見つけるのは容易ではない。
既にひびきは在住地域の公的な機関、警察署にも保健所にも連絡を入れていた。あとは足で探すという。さび柄で雌、若くて臆病。ひびきは彼女の特徴をそう教えてくれた。
「それが何かのヒントになるの?」
「若いってことは頑丈だから塀の上を歩きます。雌は雄に比べて行動範囲が13分の1しかありません」
リュックサックを背負った後姿。
冴え返る朝の秋空にアスファルトよりはわずかに近い歩道橋の上で煙草の先に真っ赤な火を点して答える。祖母のマンションを中央に置いた半径二百メートルの地図を広げる。探ったところは印がついていた。望みのありそうなエリアに赤い丸、そうでないところに青い丸。新興の一戸建の並ぶ住宅地でなく、空き地や公園、川沿いの団地あたりにひびきは賭けていた。近隣の住人に尋ねまくり、その反応からもエリアは絞っていけたという。猫が嫌いな人の多いところは実際に野良も見かけない。街道裏の古い木造住宅の並ぶあたり。時間帯を替えて何度もその界隈を歩いているという。
「探った時間帯は?」
「うしみつ時から6時半、8時から二十一時にかけてと二十三時から二時頃」
二十四時間をそんな具合に割りふって、彼女はその探した記録も見せてくれた。
「もう範囲を広げる必要はないんです。七時から八時くらい…人通りが多いからその時間はあまり移動しないかなと思いましてまだ手つかずだったんです」
灰色の町のどこにあの猫がいるのだろう。うそ寒い街道裏を歩きまわる。時折車の下や家と家の間を覗いたりしながら。
「うん万年前このあたりは何だったんでしょうね」
妙なことを言う。
「探しはじめる最初はね、期待したんです。空き地や駐車場に猫の集会があったら…放置された空き家があったら…そこにいないかなって。でももうそういうものがないんです。必ずどんな場所も所有者と管理者と利用者がいて権限示す書類つきの場所で。手つかずの場所はただのゴミだめなんです…」
なだらかなミルク色の頬が歩きすぎたせいで火照って輝いている。眺める。
「そんなこと考えながら探していたの? 猫なら不法侵入も罪にならないよ」
そう言うと声をあげて笑った。泣くのかなと思ったけど泣かなかった。
ねえ、ひびき。部屋に戻ろうと私は言いたくなった。寒いよ。街道を渡ったところにあるファミリーレストランに入って目玉焼きとトーストでも食べよう。缶詰のスープを解凍してもらって温まろう。それから遺品の整理をしよう、手伝うから。そう言いたかった。言わずにひびきの手をとった。ひびきは即座にこちらを見たが抵抗しなかった。
堪えきれず促した。
「帰ってばあちゃんが好きだった子猫物語でも見ようよ」
「デジタルリマスターなんかいやですよ。そう言えばあなたの家にお正月遊びに行ったときVHSで見たんですよね…でももう機械捨てちゃったんでしょう?」
「ばあちゃん、そんな恨み言言ってたの?」
「……」
「あんたが言うと卑怯に聞こえる」
共通の思い出がかえって諍いを招いてしまった。しかも私は今なんて言ったんだろう。
「マディが見つかったら見ましょう、それより柊子さんお願い。ビラ作るから絵を描いて」
そう言うと私の掌を握り返した。どちらが宥められているのかわからなくなる。二人でくたくたになるまでその界隈を歩きまわったけれど野良猫の姿すら見かけなかった。


『あんた大丈夫なの? ひびきちゃんの勉強の邪魔してない?』
母の心配も当然だった。予備校生のひびきと、堅気とは言えない荒稼ぎをしている私が同居するのを良く思わないのだろう。しょっちゅう電話をかけてきた。ひびきを慮って私はベランダに移動した。
「大丈夫だよ。猫が見つかったら出て行く」
『だってそんな…見つかるの? ねえ、ひびきちゃんおばあちゃんのこと大好きだったでしょう。うちにあるアルバムなんか見に来るよう言いなさい』
ひびきはどうしてこうおばさんやばあさんにやけにモテるのだろう。はいはいと適当に返事して通話を切る。直後に電話が鳴り出した。通知を見てぎくりと固まった。警察署からだ。
私が信頼していた相手の身柄が確保されたという連絡だった。水商売の男の人に貢ぐお金がなくなってついやってしまったけれど、反省して自首しにきたのだという。いくらかは使われてしまったが残りは返すと言っている。どうしますかと聞かれた。
つまり、告訴しますかというようなことを聞かれた。
ある程度戻るなら告訴はいいですと告げる。詳しいことは後日警察署に赴いて伺うと返事して通話終了のボタンを押した。振り向いて私は驚いた。すごい形相でひびきが立っていたから。
「なあんで、そんな甘いんですかあ」
私の代わりにぷりぷり怒り出した。未だにひびきは猫を探しまくっているが、一方でばあちゃんの物を少しずつ片づけるようにもなっていた。もうどうしようもなくなったもの、薬や下着なんかを。私が促すのでいやいやながらも片づけていくにつれて泥中の蓮がたちあがるように否応なしにひびきの艶は増していく。けれど胃袋は反対に重くなるらしく日に日に食べなくなっていく。
「別にいいでしょ。仕方ない」
声にした途端にものすごい悔しさが募る。
「そりゃ、あんたはいいでしょうけど…猫探してりゃいいでしょうけど」
「ああ…その人が柊子さんの弱みかあ。じゃあ仕方ないですね。ご愁傷様」
私は閉口した。そうか。こいつもまた私と同じものなのだ、いやそれ以上の化け物だ。気づかないはずがない。憐れみをひびきは隠さなかった。
「地球は冬で暗くて寒いですね」
「何だっけ誰だっけそれ」
「草野心平が中也におくった弔辞です。中原中也」
思い当たる。ばあちゃんの所蔵する本の一冊だ。幼い頃はうちにあった本。勝手に本棚から引っ張り出しては私も眺めていた。祖母の愛した活字を呼吸するようにひびきがつぶやいてももう驚かなかった。
「朝ごはん食べましょう。今日は私が作ります。それから見せたいものがあります…」
恐怖に値するほど不器用な彼女の作成した中華粥は米の芯が硬かった。食べ終えるとひびきは押入れから古いお菓子の箱を引っ張り出してきて中から帳面を取り出した。
夥しい数の手紙と日記だ。読むように言われ目を通す。それはばあちゃんがつけていた丹念なマディの観察日記だった。手紙は航空便で赤と青の縁取りがついていた。中は英語で読めない。そう言うとひびきは明かした。
「差出人はマドレーヌさんっていうんです、花子さんの想い人」
私の手からぽろりと手紙が落ちた。
「だからその名を冠した猫に花子さんがどれだけ心酔してたかわかるでしょう。あれは事故じゃなくて心中じゃないかなって私は思ってます。でもマディの遺体は事故現場になかったし、いなくなったのも前日の話だからそこがわからなくて…」
缶の底から古い写真の束を彼女は取り出した。相当に若い、まだ制服姿の彼女がどこか外国の明るい街で金色の髪の人と一緒に手をつないでる写真だった。
「苗字がヒースって人なんです。ひびきも柊子さんのひいらぎも花子さんが愛人からヒの字をとったんですよ」
「嘘…そんな」
「大丈夫ですよ。生々しい関係じゃないんです。でも花子さんが海外旅行にいくときはいつでもこの人が一緒だったんです。知らなかったでしょう? よほどこの日記やら何やら棺に納めようかと思ったんですけど、やっぱり仕舞ったままにしておきたかったんです。とっておいたんです…滋さんもずっとご存知ないままでした」
滋は祖父の名だ。二の句がつげない。
「花子さんはただ想っていただけなんですよ。でも私には彼女の話ばかりしてましたし、最中に間違ってそう呼ばれることもあったんです。私は花子さんがかわいそうでかわいそうで…絶対に花子さんは私とでなく彼女としたかったに違いないんです」
「この人一体どういう人なの?」
「花子さんが学生のときに英語教諭としてきた人だそうですよ。とっくに亡くなってます…でも私は猫のマディをみつけたら、この人の孫を今度は探してみたい気がしますよ。調べて探し出してやりまくりたい」
私は声を荒げた。
「何言ってるの、いい加減にして。だめよ、あんたはそういう」
「あなたのがいけないです、そうやって無自覚だとどんどん女の人に騙されますよ」
血の気が引いた。
「私はあんたじゃない」
「今の言葉は花子さんに対する侮辱でもありますよ」
どうしてだろう。どうしてこんな冷たい言い方ができるんだろう。
「私は」
涙が零れる。どうしてだろう、今更。ばあちゃんが亡くなった時ですら出なかったものが、今更。
「私だってあの子が好きだったよ、でもあんたみたいになれない。仕方ないじゃない」
うずくまった。好きだった、同じ学校ですごした、最初は趣味ではじめた漫画をたくさんその人に手伝ってもらった。色んなことを二人で乗りきってきた熱狂的な時間が想起されて失望が追いかけてくる。
「もういい、警察から連絡も入ったし出て行く。こんな喧嘩をするくらいなら」
きっぱり言うとひびきは明らかに落胆した。
「せめて猫が見つかるまでいてくださいよ」
「じゃあいじめないでよ!」
私が怒鳴ると彼女は呆然とした。それからごめんなさいと言った。こやつ、自覚がなかったのか。
私はへたりこんだ。



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くちなし

ゆつ香(ゆつか)と別れ、男性と結婚して二ヶ月経とうとしていた。
 彼女は女性で、私もそうだ。
 ゆつ香は生来のレズビアンだったが私はそうではない。
 女同士というのは大変なもので、お互いの心を悟りあえるので、それがいいときもあれば悪いときもあった。
 ただ、悪いときが不意に続くことがあって、険悪な雰囲気のまま別れることになった。
  以前から勤務先に私を気に入ってくれている人がいたのは知っていたので、その人とお付き合いすることにした。その人は本当に愛情深い人で、ゆつ香や私よりも二十も上で奥さんを亡くしていた。そのせいで寂しかったのか、彼の優しさは限りもなく、付き合い始めてすぐに結婚することになった。 今は文月。
 家は中古の平屋で古い造りで間取りが狭い。
 けれども広いと掃除が大変なので、これくらいの手狭な雰囲気を気に入っていた。
 ゆつ香と一緒にいたときは働いていたが、夫ができて、完全にひとりの時間が増えた。ひとりで午後をすごすのも慣れてきていた。
 こんなときに私は室内でちくちくとアクセサリーを作るのが好きだ。
 スワロフスキーのビーズを編んでネットで販売する。
 そういう細かい趣味をゆつ香は嫌っていて、部屋のなかにいると自分を構えとうるさかった。椅子に座って黙って手を動かしていると、足元に猫がやってきて、邪魔をしにきた。
 私は少し笑いながら、じんわり厭な気持ちになる。 
 猫の名はペペといって、ゆつ香が拾ってきたものだった。
 ゆつ香と私の暮らしぶりは平均以上のものではなかったのに、ゆつ香はやたらと色んなものを拾ってきた。
 使えるといって粗大ゴミを拾ってきたり、猫を拾ってきたりした。度は冷静に話し合って決めたのに、別れるときに、ゆつ香はすっかり興奮していた。
 猫をつれていくように私に押し付けた。経済的に彼女の方が少し苦しくなるのは見えていたので私も承諾して引きとった。けれども、この猫はまるでゆつ香そのもので、新しい生活をすっかり見られているようで、少しだけ疎ましい。夫が動物好きなので夜は安心していられる。
 けれども昼間は私が相手をする。
 ただ、ゆつ香といたときから、ペペはずいぶんと私を馬鹿にしているのだった。ペペはテーブルにひらりと飛び乗る。
 ビーズをきちんと仕分けしたケースに鼻をあててクンクンかぎ始めた。私はケースの蓋を慌てて閉めた。
 空腹なのかもしれない。
 いたずらをしたがるのはその証拠だ。
 えさ皿に向かうと、慌てて付いてきてせがむ。
 やはり、そうだ。おなかがすいていたのだろう。
 熱中していたときに限って、こういう邪魔をする。
 でも、私も気づかなかったのだから。
 ドライフードのストックを確かめると、困ったことにほとんど残っていない。
 最後の分をすっかり皿にあけると、夢中で食べ始めた。夜の分がないので、買いに行こうか。
 部屋のなかはクーラーが効いているが少しだけ息が苦しい。
 酸素を吸いに、外へ出たい。
 夢中で食事している猫を置いて、着替える。
 窓の外は今にも雨が降りそうな曇天だ。
 構うものか。
 雨用の靴を履いて傘を持って外へ出る。門のあたりに楓が植えられていて、それが好きだ。
 今はまだ紅葉の季節ではない。
 ゆつ香といたアパートの敷地では夏になるとくちなしが咲いた。
 強くよい匂いだが、トイレの芳香剤みたいだと私たちは言い合っていた。ペットショップで猫のごはんを買って外へ出ようとしたときだ。
 出入り口が純白に光って、ざあっと雨が降り出した。
 すごい勢いだった。
 呆然と立ち尽くしていると、若い店員が声をかけてくれた。
「今出ると大変じゃないですか」
「そうかも。もう少し、中にいていいですか」
「どうぞどうぞ」土曜日の夜だがこの雨を見越して皆外出を避けたのだろう。
 客は私だけだった。
 遠慮なく店内の猫グッズや、魚の水槽を見てまわった。
 猫を飼っている身でありながら、私はペットショップの犬や猫の売られているさまを見るのが怖い。
 売れなければ処分されるのだ、という残酷な事実がついてまわる。
 どうしてもそのコーナーを直視できない。
 ペペは元は野良猫だった。無料でいいはずのものを売る、こういう矛盾にはゆつ香のが執着していた。丸い目の魚を見ているうちに、あたりが静かになった気がした。
 店内を見渡すと、従業員の数が減っているような気がする。
 裏の作業で忙しいのだろうか。
 まだ雨は強かったが長居するのも何だし、傘を差して思い切って外へ出た。
 雷が鳴っている。
 すぐ近くにコンビニがある。
 おかしな梯子状態だ。私は車道を横断して、コンビニへ移動した。コンビニのなかはキンと冷えていて、元気な挨拶が飛んできて安堵する。
 雑誌とお菓子を選んでいるうちに、雨は小止みになったようだ。
 会計を済ませて店を後にした。信号の連なる車道沿いを外れて、家の方へ戻ってきた。
 十字路を曲がったとき、ふっとあたりが暗くなった。
 それから稲妻があたりをまばゆく包んで、どおん! と遠方に轟いた。私は立ち止まった。
 雷はどこかに落ちたのかもしれない。
 それだけではない。
 私の傘の中に人が、もうひとり、いた。
 この道をくるまで、前後して通行する人のひとりもいなかったはずなのに。それは確かに、私のすぐ隣にいて、同じ傘の下に静かに立っていた。
 ざあっと肌が粟立って、雷光のもとに私は正気を取り戻そうと瞬きする。
 そのときだ。
「ンニャアアアアアー!!」
 ペペだ。
 空腹だったり不満がたまったりしたときに、ものすごい大声を上げることがある。
 その声がこちらまで届いたのだった。
 私はその声とともに、傘と買い物の荷物を放り、走り出していた。
 ただ、貴重品を入れたバッグだけはしっかり抱えて振り返らずに一散に家へ走った。
 震える手で鍵をドアノブに差し込んで慌てて回す。
 そのときにはもう涙で顔がぐしゃぐしゃになっていた。家に飛び込むと、ごはんを心待ちにしていたペペがすっ飛んで迎えに来てくれた。
 私はそれをぎゅうっと抱きしめた。
「ごめんね、ごはん置いてきちゃった。ごめんね」
 ぶるぶる震えながら、抱きしめると、ペペは興奮した人間に感化されて喚きながらもがいた。
 するっと腕から逃げて奥へ行く。
 早く、おうちへ入れ。
 そう言われている気がした。
 涙を拭い、靴を脱ごうとして、片方落としているのに気付いた。
 家へ入るときに、まだ入っていないうちから、無意識に外で一足脱いでしまったのだ。
 何だか自分の慌てっぷりがおかしくて、少し笑いながら扉をあけた。
 外の靴をとろうとして。
 すると、稲光のもとに、この家の門の向こうに、その人がいるのが見えた。何故だろう。
 私はそれから逃げてきたのに、その記憶が猫を抱いた瞬間に飛んでいたのだ。
 声を。
 声をあげなければ。
 逃げなければ。


(続きは電子書籍でお読み頂けます)

いとこの夢

昨年の暮れに大切にしていた猫が亡くなってから、体が肥満する一方でどうにもだるい。
私は派遣社員だが、寝起きするのもおぼつかない。
猫がいる間はあんなに狭かった布団が広くなり、楽になったはずなのに、どうにも気遣って眠れない。
眠る直前までスマートフォンを握りしめているので、その蒼い光がよくないことはわかっていた。
それでも、だめなのだ。
今いる部屋に入ったばかりの頃、10年以上遡る如月の大雪の日に猫はやってきて窓から入れろとしきりに鳴いた。
焦げたように錆びついた鉄柵に板を載せて、野良のえさ皿を置いていた。それを目当てに飛び込んできた。通いの野良はほかにもいたのに、その子は初めてきたときからやたらに入れろと主張する。
あまりに鳴くのと、愛らしいのと、雪がニュースで取りざたされるくらいにひどかったので、抱き上げるとぴたっと静まった。
このときからその猫の虜になった。
旅行も恋愛もせずに尽くしてしまったので気が抜けて当然だった。
年が明ける前にそういう犬や猫や他の動物を弔ってくれる寺でお骨にしてもらった。
爾来、一言でいえば生きる力を失っている。
もう夏になろうというのだ。
蒸し暑さはかえって体を動かしてくれるのに、ある日とうとう会社を休んでしまった。
畳のあたりに押しつぶされるような蒸し暑さのうちに眠る。
そうしたら夢を見た。
夢のなかでそれとわからない感覚に陥るやつだ。
押し寄せるような不安のなかで、夜の道を歩いていた。
何事か話し込んでいる相手は母だ。
母はしきりに心配していた。はしゃいでいるようにも見えた。
兄が大学へ進んだ先で何故か文学を選んだことについて、どうも教授とうまくいかないらしいという相談を受けているのだった。
私の母は何故か父や兄のことを私に相談する。
私の悩みは一切聞いてもらえたためしがない。
それが異常だと気付いておらず、私はうんうん素直に頷いていたので、夢のなかの私はまだ十代か二十を少しすぎたあたりだった。
それからいとこの話になった。
いとこが絵本の賞を得て出版されたけれど、それが盗作だと、あるおじいさんに訴訟で騒がれて困っているというのだ。
そのいとこと私は五つ以上離れている女の人で、親戚同士の集まりでも小さい頃から親しかった。私はいとこがひどく好きだった。
そのことに思いを巡らせていたら、母から兄を迎えに行ってと言われた。
大学に迎えに行ってと。
教科書を買って帰るはずだからと。
いとこに思いを巡らせながら歩いていると、向こうから彼女が歩いてきた。真っ青の鮮やかな着物を纏っていた。ああまぶしいと私は思った。
「かなこちゃん」
 私は手を振った。
 彼女はにこにこしながら寄ってきて、元気だった? というようなことを聞かれた。
 彼女は結婚したばかりで小さな子が一人いる。
 自然と一緒に歩きながら、その子のことを聞いたりした。
 例の盗作のおじいさんの話も聞いた。
「大丈夫なの?」
「そうなのよ」
 思い出したように彼女はそのおじいさんの絵本を取り出した。
 それはおじいさんがそれまで生きてきたことを綴った出版物で、それをいとこが盗作したということで彼に騒がれているのだった。
 初めて見るその本は白黒で列車はまだ電化されていない時代のものだった。仲間同士で顔を黒くして線路沿いを工事している。
 どうやら鉄道関係のお仕事のようだった。
 その絵本を私は素晴らしいと感じた。
 だから、すごいねえとつい口にした。
 そうするといとこも笑い出した。
 そう、素敵な絵本なの。
 でも、いとこの絵本には全然内容が似ていないことはお互いに言わずもがな、だった。
 ただ、とにかくこの本が素敵だと感じていることは、他の誰にも…母にも叔母にも、そのほかの誰にも知られてはいけないような気がした。
 それでも、私の言葉に彼女は怒らず、その本を褒めあいながら歩いていった。
 ふと、暗がりのうちに兄の待っているイメージが浮かんだ。
 兄を迎えにいかなくちゃと私は言った。
 待って、と彼女は笑った。
 私が羨ましがっているその着物をくれるのだと言った。
 どうしてほしがっているのがわかったのか解せないままに、いとこの家に寄り、その着物をいただくことになった。
 綺麗な畳紙に包んで渡されたそれを私は大切に抱えた。
 生きている間にこうして何かをもらったり、お礼を言ったりすることができるのだ、となんとなく思った。
 家を出ると兄はもう逆に私を迎えにきていた。
 話をしようとしたけれど、言葉が出ない。
 兄は幸福そうに見えたけれど、私よりも先に彼は何か話し出した。
 そこで目が覚めた。

 実際には兄は理系で専門学校に進んだが、就職せず20年近く働いてもいない。いとこはもう子供を三人もっており、祖母が亡くなった折の法事で私はその人の夫に腰を触られて以来親戚の集いには寄っていない。童話で賞を得たのは私だった。
 もちろん、着物をいただいた覚えもない。
 年をとるにつれてだんだん両親と叔父夫婦の仲が露呈するにつれて、どう接していいのかわからなくなった。

 部屋の枕元には椅子を置いて、そこに私は猫のお骨を安置している。
 ああそうだったらいいだろうなあというような夢だった。
 猫がその夢を与えてくれた気がした。
 泣きそうに感じた。
 そうだ、小学校の頃、かなこちゃんが好きだった。
 父の部屋で二人で遊んだとき、かわいい絵を描いてくれたことを覚えている。あのほっそりとした私にはない綺麗な線の指に憧れた。
 けれど、もういないのだ。
 憧れの人はもういない。
 だから歩かなくちゃ、と思った。
 一歩でもいいから、歩かなくちゃと泣きそうに考えた。
 窓には太陽の光が満ちて真っ白に入り込んでいた。

日曜日をきみに

その日は朝から曇ってた。写生をするには丁度いい。明るすぎる太陽のひかりは、苦手だ。
早くから起きて、支度をして家を出た。目的地は中央線のはしっこの駅の大きな公園。
つつじの艶やかな季節。現地集合だ。
画用紙を抱えて、電車に揺られてそこへ向かった。どこへ行くにもあたしたちは制服に収まっていなきゃいけない。画用紙を抱えていると、少しだけ安らぐ。
写生大会は、二年生全体の参加必須の学年行事だ。今日はきっとイチちゃんが素敵な絵を描いてくれるはずだ。
駅に降り立つと、すぐに絵画部の友達が集まってきた。その真ん中に、イチちゃんはいた。
セミロングは淡く色を抜いてある。痩せた体。
どちらかというと小さい方。けれど、そう。彼女はとても目立つ。その中で一番背の高いユウコよりも。落ち着いた声音。それだけで辺りを惹き付ける。
部活の友達は、皆、スケッチブックよりも、自分の顔を彩ることに夢中だ。スケッチブックなんてものは飾りだ。けれど、あなたは違う。イチちゃん。公園が見えてきて、あとでね、またねと、手を振って別れた。

クラスごとに担任の注意事項をきいたら、おのおのがめぼしい場所を探しに解散する。無作為に分けられた班で、場所を選ぶのだ。三人一組で一枚の絵を仕上げる。一人一枚描いて、それをつなげた時に一つの風景が出来上がるようにする。絵画部の部員でない子といっしょに絵を描くのは、なんだか緊張した。
同じ班のメンバーの一人はえっちゃんという。
もう一人は、島田さんという。描きはじめると、ちょっと困ったことになった。画力に差がある。「うまいね」
えっちゃんがしみじみとあたしの画用紙を覗いて言った。
そう言われたら、ちょっと焦る。
「私たち、下手かも。どうしよか」
島田さんが、てれんと言った。
あたしは頑張ってみる。頑張らなくちゃ。
「ちょっと見せて」
二人の絵を見せてもらった。
島田さんの絵は色彩に広がりがない。えっちゃんのは線が堅い。でも、それをそのまま口にするのはためらわれた。あたしが二人に合わせるべきか、二人の絵をあたしがリードすべきか。わからない。そもそも、あたしがそんな風に偉ぶる程の才の主かというとそうでもない。
ここにおいて、多少群を抜いていたところで、絵画部ではそういうことにはならない。
ふと、ある考えに捕らわれた。イチちゃんだったらどうするだろう。内心、焦る。まただ。
また、この病気だ。いけない。いけないんだ。
あたしの憧れのヒト。駄目だ。まただ。
だって、あたしはすぐ考える。あたしの意思を放棄してしまう。彼女はどうするか、彼女なら何を選択するか。憬れるあまりに、いつも迷う。悪い癖だ。
えっちゃんが不安そうに島田さんの袖を引くのを見た。いけない。何とかしなければ。
「色合い揃えれば、いいと思う。色の」
色相、濃度というような言葉は避けた。
「色の濃さっていうか、薄さっていうか。水、もっと使って。絵の具はどれ使ってもいいから。そうすれば多分つながってくるよ」
「ああ。そっかー」
「すごいね。やってみよ」
二人があたしを見る。
ああ、うわあ、そっかあ、と言いながら目元を細めた。変に神経が伸び上がって縮んだ。
本当に胸を押さえつけたいくらいに緊張していた。分かち合うのは難しい。好きなことを好きであるほどに、分かち合うのは困難だ。
少しだけ。
いやだった。
わかちあうのがいやだった。
私の視線は私だけのものだ。
絵を描く友達となら、それを多少は共有できる。だから、私にとって部活は隠れ家のようなものだ。こうして、広い空の下、隠れ家から少し顔を出してみると眩暈がする。あまりにあたりが白々と眩しいので、思わず目を閉ざしたくなる。眩しく、穏やかな世界。
彼女とはちがう。

お昼。お弁当の時間だ。
水筒を忘れたから、自動販売機に行くと銘打って、あたしはイチちゃんを探しに出た。ウロウロしていると、担任の教員に会った。
「藤岡」
昨年のクラスの担任。社会科の先生。
あたしはこの先生と特に親しい。
「うまく描けた? 仲良くやってる?」
後半の問いがメインだろう。
「持ち物検査ですか?」
「鋭い」
彼女は布の袋を持ち上げた。中を見せてもらったら、たばこや音の出る機械がごろごろ入っていた。
「先生。イチちゃん、どこにいるか知りませんか」
見回ってるなら知ってるだろうと踏んで、あたしは尋ねた。先生は、眉根を寄せた。それが大げさな表情ではないのはわかってた。イチちゃんは体が弱い。喘息もちなのだ。だからこそ、あんなにひねくれている。体育ではいつも見学。いけすかない数学教師と何度も衝突している。彼女が授業をサボるのは、全部が全部虚弱なせいばかりではない。
「藤岡、麻生がとても好きよね」
「尊敬してますけど」
「麻生ね、転校するの」
ああ。
これは。
こんな知り方をしてはいけないことだと思った。先生はつづけた。
「喘息がひどいでしょう。もっと空気いいところ行った方がいいって、お医者さまに言われたんだそうよ。本当に病状がよくないの。おとなしく療養しないといけないの…」
「そんな」
つい、言葉を遮ってしまった。
「だって、イチちゃんは悪くないです」
「療養した方がいいというのは本当なのよ」
胸に鉛が落ちてくる。知っているべきではないこと。どうして。先生。
あたしに、そんなこと。
でも、本当に、もしも喘息じゃなかったら。
去来するいらだちと、誰かを責めたてたい気持ちに混乱する。
「先生、ありがとうございます」
あたしはお辞儀をした。
「まだ内緒だからね」
先生はそっと付け足した。

絵画部は、ほとんどが同じ小学校出身の子たちで組成されている。教員のことなど、誰も尊敬してはいない。先輩たちからの嫌味になど、誰も耳を貸さない。教科書以上の絵画を知らなかったあたしに、絵画を美術としてしか知らなかったあたしに、そういう不真面目な感覚はズンときた。単純なあたしは、彼女たちとすぐに親しくなった。彼女たちから絵の何たるかについてを、切々と教わったことはなかった。集団心理。ライブの熱、少女漫画。安く化粧する方法。
途中までは付いていけた。
けれど。
夜10時に待ち合わせて遊ぶ。教師の悪口を言う。掃除をさぼる。そのあたりから、だんだん、おかしいな、と思いはじめた。
国語や道徳の作文には思ってもいないが期待されていることを書けばいい、とか。でも、文集に載るのは恥だ、とか。人のまねをしろ。けれど、自己主張をしなきゃ。学ぶべきは英語だけ、だって石油王と結婚するから!
そういうことを本気で言う。少しずつ、それらの不文律に、あたしは辟易しはじめた。
それでも、彼女たちと付きあうのだった。
あたしが、そこにいて、楽しいからだ。くだらないことばかりが、あたしたちを充実させる。けれど、あたしと彼女たちを仕分ける徹底的なラインがあった。絵を好きであるか。学びたいと思うか。彼女たちは。ただ描く、描きたいように描く、というだけだ。
その態度は幾度か先輩たちの反感を招いた。
だから、ずっと絵画部の二年と三年との間には見えないひび割れがある。あたしは、先輩との間にそうした壁を感じたことはなかった。
本当に、いい絵を描きたいと思ってた。
誰よりも上手に。だから、感性だけに従う彼女たちこそ、本当のきらめきを有していると思うことすらあった。でも、彼女たちはちっとも上達しなかった。絵のことは、皆が口を揃えておせっかいだと評する先輩方から教わることにしていた。それが彼女たちとあたしとの違いのひとつだ。
イチちゃんは、それをたまに皮肉まじりに評した。
「藤岡は世間をよくご存知で」
彼女は、あたしが絵を愛するからではなく、評判のために、先輩に従うのだと決め付けてかかった。あたしはとても彼女が好きなのに、そういう意地悪を平然となすのだった。
彼女が好きだ。彼女は誰からも教わらないのに、群を抜いていた。同時に、彼女こそが、絵画部のルールを、統率のためのルールを築いている中心人物なのだった。
イチちゃん。麻生一。あそう・はじめ。
だから、いつも、あたしは彼女の言う通りだと思ってしまうんだ。皮肉を言われるとわかっている。それなのに、腹が立つどころか、落ち込んでしまう。あたしには、イチちゃんがよろしくない友達と同等の位置に自らを置いている姿が理解できない。いつも、それが偽りのように思われてならない。でも、いつだって、彼女は嘘がなかった。彼女は絵を愛している。いや、彼女ほど、絵を愛している人はいない。そうでなきゃ、誰に、あんなに明るくて澄んだ色の絵が描けるだろう。
そもそも、あたしが絵画部に入ろうと心を決めたのは、廊下に張り出された彼女の水彩を見てしまったからだった。立ち尽くした。立ち尽くすほどに、光る絵だった。
海の絵だった。
それ以来、あたしは海の、あの人の、虜なのだ。
無冠の彼女の虜。
冠のない王様の、あたしはただの襟巻きだ。
なのに、あたし、知らなかった。
転校なんて知らなかった。
あたしはふらふらと探し歩いた。
イチちゃん。イチちゃんの馬鹿。
馬鹿。ここを去る?
裏切り者!
とにかく、探す。
探せ、あたしの足。探せ、彼女を。

イチちゃんは変なところにいた。林がぐるりと取り囲む、芝の上。誰も気付かないような場所。クラスの集合場所からずいぶんと掛け離れた場所。クロッキー帳を片手に、ガリガリガリガリ描いていた。傍らにランチボックスと水筒。木の根を踏み越え、そばに寄った。
あたしが近づく気配に、彼女はわずかに震えた。こちらを見た。
あたしの姿を認めると、目を見開いた。
「どうしたの、あんた。写生会は?」
「その質問をそっくり返したいです」
大きな眼。その黒い眼。とても、病気を患う人間の眼に見えない。
「あたしはいいの」
彼女はニヒルに笑ってみせた。泣けるほどかっこいいなと思った。好きだな。詰りたいような気持ちも木っ端微塵になる。
イチちゃんは、うんと伸びをした。それきり黙った。また何か、がりがり描きはじめた。
うす曇りの公園の芝生で、イチちゃんの隣に座る。空を仰ぐと、けやきの葉が揺れて細やかな影をクロッキー帳に落としてる。イチちゃんはそれをなぞっているのだった。グレイの濃淡で。鉛の削られた先端で。
「曇りだね」
イチちゃんは答えない。描いている。
じっくり覗く度胸はない。乱暴な彼女は、あたしが彼女のスケッチブックを覗くといつも容赦なく叩く。そういう人。
「イチちゃん。お弁当、一緒に食べよう」
イチちゃんは、初めて顔をあげた。
「もうそんな時間?」
目はまっすぐに白い紙の上。白い紙の上。
ちょっと、もうすでに、おかしな人だった。
でも、その唇だけが動いて会話をつなげてくれた。
「あたしの水筒、そこにあるでしょ。お茶おいしいから二人で飲もう」
「いいの?」
芝生の上に置かれた白い魔法瓶をとってきて、栓をゆるめる。湯気。いい香りがする。その魔法瓶のコップになる蓋と、自分のペットボトルに、その紅茶をうつした。まだ熱いので、そっとハンカチで包んで手にもつ。おなかにあてると、熱がしみる。あなたにとって、全ては群集なのですか。問いが胸にあらわれて、漂って。隣に座るだけで、あたしはあたしでなくなりそうだ。黙って、絵を描きつづける彼女のそばにいる。紅茶がさめるのを待ちながら。イチちゃんは、あたしが彼女を好きなのを知ってる。
彼女は美しい。睫毛が蝶のよう。眼差しは揺らがない。鼻筋はなだらかだ。薄い唇。繊細な指。知っている。彼女はそのことをどうでもいいと思ってる。隠してる。でも、真剣に絵に取り掛かるときだけは、それを隠す余裕を失う。
彼女は何でもない目をして、鉛筆の端を咥えた。ティッシュをごそごそと探しはじめた。
あたしが自分のを差し出す。受け取ると、丁寧に紙の端をそれで叩きはじめた。その指使い。風景が、鉛の色が、淡く広がっていく。
「あたしね。転校するんだって」
血液がうまく巡らなくなる。
「どうして、イチちゃん、そんなこと言うの」
「本当なんだって。あのさ、あたし、夜更かしして遊んでばっかいたから…」
そうじゃない。
嘘。
嘘。
凍り付いてしまうよ。
「さっき、先生から聞いた」
あたしはさっさと白状すると、真顔で彼女を見つめた。彼女の黒い眼が動かずにあたしを見た。あたしを映し出していた。
その眼差しの奥のあたしはひどく頼りなく、そこに映っていた。乞食みたいに。
「転校しちゃうんですか」
自分でも驚いた。そうとは知らず、無意識に口が反問した。抵抗を秘めて問いただした。
動揺から為された問いだった。もしかしたら、あたしは胸にしまいこんでしまっていたかもしれない。納得させようと努めてしまっていたかもしれない。あたしたちはしばらく互いを見つめた。静寂。
相当に、あたしは動揺してる。
こんな風に彼女を追いつめるなんて。
こんなことできるなんて。
「先生から聞いた?」
彼女はすぐに察して、ほろ苦く笑った。お見通しだというように。複雑じゃない性格の、あたし。簡単で、つまらないですか。すぐに読み解けるというように。けれど、あなたに見抜かれて本望だ。いつでも、それでよかった。でも、こうなると、黙っているのは馬鹿らしい。
「転校するの? どこ行くの?」
喉がかあっと熱くなった。慌てて酸素を取り入れようと、口を開いた。
口はまったく言わないでいいことをつむいだ。
「体育の時、見学してるイチちゃんを見るまで、喘息のこと知らなかったのね。ずっと。でも、ずっと部活で同じだったのに、あたし知らないことに気づいたの。だから他人にそのことを黙っていたのがすごいなって思ったの。あとね。塾に通ってる友達がね、どうしてもイチちゃんにかなわないって嘆いていたのが、なんかすごいなって思った。あと、疑似恋愛は寂しいからやめなって言われてから、あたしアイドルとかどうでもよくなった。あのね」
いろんなものが。
「いろんなものが積み重なって、…でも、やっぱり、イチちゃんの絵をみたときが、初めてイチちゃんに出会えた瞬間だったよ」
あたしは喋った。今まで黙っていたこと。
棚の奥にストックしていた品物、全部引っ張り出してきた。在庫処分だ。作文みたいに読み上げる。だって。
何もかも話さなければ忘れてしまう。今、言わないなら忘れてしまう。今、隣に居るイチちゃんに目が眩む。行かないで。
行かないで。
本当のことなんか誰も言えない。言えないから、ウロウロするんだ。人は。本当のことのあたりまで、核心というもののすぐそばまで近付いては遠のく。本心から引き止めても仕方のないことで、彼女を困らせるのが怖い。
あたしは苛烈な痛みと悔しさを堪えていた。
あたしは従順だ。恥ずかしさも堪えて打ち明けることができる。
「あたし、あこがれてたの」
自分でも必死な目をしてるのがわかる。情けない。でも、イチちゃんは腕をのばした。何をするのか、分からずにいた。芝の上。彼女が、あたしの指を掴んだ。
どれだけ、あたしが、彼女に焦がれていたかということを、彼女は知らないはずだった。鉛筆は、芝の上。転がして。代わりに私の手をその指に収めて、赤ちゃんが眠るときに何か掴むような強さで掴んだ。
あたしは、動けない。
ごめんね、とイチちゃんは言った。
ああ。だめなんだなとあたしは思った。
少しだけ、そうしていてくれた。そっと手を離したので、あたしはいたたまれなくなって、何も言わずに立ち上がった。
「行くの?」
さすがにイチちゃんは驚いて見上げた。
見下ろすと、黒い瞳はあたしを見返した。
でも、木や花を見るようだった。その眼差し。
何でもないことのように。
あたしはたまらずに俯いた。そうして、踵を返した。逃げ出した。恥ずかしくってたまらない。
あたしは、その勢いで、イチちゃんの所属する班を探し出した。班の人たちは、彼女はいないよと素気無く言った。
「いないって?」
「あいつ、一人で仕上げて、どっか行った」
知らない男子がそうぼやいた。そのクラスでは、男女混同の班を構成したのだ。けれど、その班のもうひとりの女の子は、あたしの元クラスメイトだった。
「イチちゃんを探しにきたの?」
ビニールシートの上で、もくもくと絵を描いていた彼女は、嬉しそうに笑って、イチちゃんの乾燥待ちの絵を見せてくれた。無造作に放ってある一枚を見せてくれた。イチちゃんという天才はめったに絵を見せてくれない。
欲しいと言ってもノートの落書きさえもくれない。後で上達した時、昔のものが他人の手にあると思うと気味悪い。そう言うのだ。
彼女の絵をきちんと見ることができる機会は限られていた。部の展示会のときと、美術室に絵が飾られたときだけだ。
普段は無理矢理覗き込んで見るしかないのだった。彼女がいない場所で、直に触れるのは初めてだ。画用紙。水を一切使っていなかった。絵の具のみで描かれていた。それは殆ど油絵で、筆遣いも荒々しかった。水彩画なのに。
おそろしく完全だった。整っていた。色は激しく燃えている。イチちゃんの風景画は、ほかの二人なんか知らないと言わんばかりに燃えていた。あたしが、あまりに長く見つめていると、穴があくよと元級友の子が笑ってた。知らない男の子はいつまでもぶつくさ言って、筆をとろうとしなかった。
激しい、激しい色。


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夜明けの声

今日で学園祭が終わる。
廊下のあちこちには、ポスターが張られている。
校庭には紙ふぶきが散らばっている。
生徒たちは片付けに忙しい。
まだ後夜祭が残っているから、急いで片付けなければならない。
そうしてゆっくりと残された夜の時間を過ごすために。

あたしはずしずし廊下を歩いていく。
放送委員のあたしは、ライブに用いられる音響効果のスタッフとして駆り出されていた。
後夜祭にはお金がかかっている。
花火を打ち上げる。キャンプファイヤーを焚く。
有志らしいバンドのお披露目もある。
音響スタッフが、どうしてか、文化祭常任委員の使い走りを強いられている。
だから、放送委員がその代わりをつとめている。
つまり、委員の代わりの代わりというややこしい立場だ。
人員不足は知っているけれど、あたしは猫じゃない。
簡単に、人に用を申し付ける委員の奴らに内心で毒づきながら、階段を駆け上がっていった。
申し付けられた用は、出場するバンドのボーカルを探してきてくれというものだ。
ほかの顔触れは揃っているのに、一人だけ欠けている。
そして、それがあたしの友人なので、適役だろうと指名されたのだ。
確かにあたしはあいつの居場所を知っている。
「雪、いる?」
乱暴なくらいの強さで、ドアを開ける。
音楽室のピアノの下に彼女は寝そべっていた。
持参したひざ掛けの上で無造作に自分をものみたいに扱って寝ていた。
「はあい」
ピアノの下から片手が上がる。
あたしはずかずか近付いた。
ピアノの下を覗く。
雪が寝転がっていた。
「悠美、おはよう」
片手を軽く挙げて、あたしに挨拶する。
「後夜祭始まるよ」
彼女は、素早く身を起こした。髪が勢いで乱されて、また肩に落ちる。
「集中してたの! 急がないとだめ?」
ライトブラウンにまで色の落とされた髪。 
それを束ねながら、彼女はあたしを見た。
「開場の時間にもなっていないのに体育館のドアを開けておかなきゃならないくらい集まってる」
「ふふ」
雪が笑う。
彼女の何もかもが、すべてこの学校の生徒をひきつける。
骨格、神経だの心臓だのにまで、その無防備が染みとおっているに相違ない。
視覚や聴覚や味覚にも。
雪が笑う時、そこには必ず、自分の無防備を自覚しているかのような、いたずらな響きが伴った。
それで、この女子高には彼女を好きだという女子が無数にいる。熱狂。
雪の笑顔はそれくらいに洗練されている。
彼女は、鏡が自分の友人であることをあたしに打ち明けて憚らない。
このナルシスがあたしに心を許すようになった過程。
それは、あたしがこの少女に心を許すようになった過程でもある。
つまり、気が合ったんだ。
あたしと雪は、どちらも常に視線を感じていなければならない存在だった。
雪は、美しいから。
あたしは、ある教師と交際しているという噂から。
それはどちらも本当だった。

あたしや彼女が、校内で人気の少ない場所に安らぎを求めるようになったのは必然だった。
行く先々で顔をあわせるので、よく話すようになった。
彼女と親しくなることには躊躇を感じなかった。
彼女も同じだろう。
彼女とあたしの間には、初めから友情が横たわっていた。
雪はあくびをした。目をこする仕草があどけない。
「何が集中よ、眠っていたくせに」
制服のシャツの白が鮮やかに映える。
彼女は上着を羽織った。
雪がきちんと制服を着込んでいるのは目新しい。
いつもは私服を上に着てる。
「珍しいね、制服ちゃんと着てくるの」
「学園祭だからね。コーコーセーだから」
音楽室を出た。
肩を並べて廊下を歩く。
「歌なんてすぐ消えるのに」
眉を寄せて、雪が上から睨んでくる。
そういう構図、上から見下ろされるという構図にも慣れていた。
「消えない、残る。仮に消えてもかまわない」
あたしは圧倒されていた。
こんな雰囲気の雪は知らない。
こんなに熱心に、人に何かを言って聞かせる雪は知らない。
そんなに歌が好きなのか。
「歌しかない能無しになりたい」
雪の瞳がかすかに潤んでいるのをあたしは見た。

雪の歌がちょうど五曲目の前奏に差し掛かった時だった。
舞台袖に佇むあたしを、彼女が見るともなしに見た。
彼女の視界にあたしは入っていただろうけれども、どうやら認識はされなかった。
雪はすぐに正面を向いた。そうして、澄み渡る声で軽々歌いつづける。
取り残されたような気になった。
そんな気分になったことがおかしくなってくる。
委員の後輩が不思議そうにあたしを見て、何がおかしいんですかと尋ねた。
答えられなかった。
彼女が、スタッフとして役に立たないあたしを邪魔だと感じていることを悟った。
仕事を任せていいかと断って、その場を後にした。 

この学校ですごす日々において、あたしには『惜しむべき』焦躁が見当たらない。
名残惜しさというものはなかった。
来年もこの行事があるということを誰もが知っている。
今年度卒業する生徒だって、その先の人生にまだ幾つも今夜のような熱狂の待っていることを知っている。
現代では熱狂も続けようと思えば、次から次へと続いていく。
惜しむ余地なんか無い。
都会では、いつもどこかで火事が起きている。いつもどこかで工事が為されている。
それと同じに、いつもどこかで熱狂が息づいている。
こんな憂鬱を話しても、雪は笑うだろう。

誰も居ない教室に向かい、鞄を手にして駅に向かった。
まだ誰も帰ろうとしていない。
ホームに電車が滑り込む。
ベンチから腰を上げると、文庫本に挟んであったしおりが落ちた。
それを見て、厭な感じがした。
それはしおりではなかった。
携帯電話の番号が書き付けてある、一枚のメモだ。
しおり代わりに使っているが、あたしはこれをよく落とす。
大切なのに。
拾うためには、身を屈めなければならなかった。 
身を屈め、拾いあげなければならない。
そんな風にいつも気を配ってやらねばならない。
いつも、そのためにひざまづく。
そうやって、どんな時だろうとあたしの身を低く引き寄せる存在。
そう、そのメモは、まるであたしにそれを渡した本人そのものだった。
結局、今日も口をきかなかった美術教師。
彼そのものだった。
急いでしおりを拾いながら、この間、映画館で彼に触れようとしたことを思い出す。
あの時も身を屈めた。
けれど、あたしの唇は彼の口のわずか手前でかたくなな緊張を保った。
膂力には限界がある。そのわずかな数秒にあたしは決断を迫られた。
あたしは、瞬時に彼の瞼を見た。それは閉ざされていた。
いや、閉ざされていたと言えば嘘になる。寝たふりをしてた。
あたしの腕、動かないままのその腕と同じに、頑固に。
唇が落ちてくるのを天でも落ちてくるかのように待っていた。
それに気付いてあたしは体を離した。
彼は待っていたんだ。寝たふりをして。
それがひどく厭だった。
あたしから仕掛けるのを待っていた。
教員の立場であることを、あんなときですら忘れないなんて。
あたしからキスすれば、失敗したときに言い逃れることができる。
だから、絶対に彼は自分からあたしに触れようとすることがなかった。
あたしと彼が身を置いている関係が、初めて不自然に感じられた。
心の内側にある、暗い情動。
あたしは、それをはっきりと直視しなければならなかった。
白い瞼だった。あの瞼がほんの少しでも開いて、あたしに注意を促すようなことがあれば…あたしに、あたしがしようとしていたことの不自然を訴えるようなことがあれば。そうやって、彼が罪悪感を示すようなことがあれば…即座に彼を抱き締めていただろう。
でも、彼は眼を開けなかった。
あの瞬間、自分の為そうとした行動に対して本心から嫌気が差した。
自分が安っぽい悪役を演じているのが分かった。
電車の広い窓から、夕日が差してくる。
走行に合わせて、その赤は現れては消える。
どうしてあの時、あたしばかりが醜さを直視しなければならならなかったんだろう。
あたしが彼を奪うとか、彼が離婚するとかしなければ事態は変わらない。
けれど、奪うって、今更、何から彼を奪えばいい?
彼の配偶者から?
世間から? 
馬鹿馬鹿しかった。
もとより、彼はそんなこと望んではいない。
まだ、そういう類いの関係にはない。
あたしは、後悔していた。
あたしには勇気が足りなかっただけだということを、あたし自身、よく分かっていた。
あと2、3センチの勇気が足りなかったことを。
どんなに理屈を並べてみても、その意気地なしが今更弁解される余地はない。 

文化祭が終わり、何日かが経った。
校内は日常の雰囲気を取り戻しつつあった。
掃除時間を利用して、あたしは音楽室へ向かった。
雪は、そこにいて、相変わらずピアノの下でごろごろしていた。
あたしの話を聞いて、実に意地悪にこう言った。
「そんなに攻略が難しいの?」
恐る恐る明かしたあたしの弱み。
もう既に逃げ場がないところまでさらしてしまったというのに、それを更に追い詰める雪の眼差し。
「攻略に至るまでが色々とあるでしょ」
どうして、こんな生々しい相談を彼女に持ち掛けてしまったのか分からなかった。
それでも、今日はほかに話すことなんか無かった。
いつもの音楽室。
雪とあたしがこうして親しくしていることを知ったら、級友たちは驚くか呆れるかするだろう。
放課後。彼女とあたしには共通したところがない。
性格も生活も、まったく交わることのない雪にどうして信頼を置いているのか、自分でも分からなかった。
「色々って、何よ」
雪が無邪気に問う。あたしは音楽室の片隅の脚立に腰掛ける。
雪はピアノの下からあたしをまっすぐに見詰めてきた。
相談するつもりが、悪事でも白状しているような気分になる。
実際、彼への感情に少しも清潔なところなんか見当たらない。
この追い詰められた心地は妥当なものだった。
雪の口調が追及の厳しさを帯びるのは、自然だった。
「色々って…」
何だっけ。
あたしが考えていると、ふと雪は笑った。
「ピアノ弾いて!」
いきなり、そんなことをねだった。
「ピアノ? じゃあ、下から出てってよ」
「いいの。弾いて!」
「あたし弾けない」
「猫ふんじゃったでいいよ」
雪がもう歌うようにして言う。
あたしは、黙って脚立をおりてピアノに向かう。
「耳悪くするよ」
忠告したけど返事はなかった。
思い切り、猫ふんじゃったを弾き始める。
そうしたら、雪はそれにあわせて歌いだした。
気の狂った人のように、澄んだ声で、寝そべったまま。
ものすごく単純な唄なのに、そういえば歌詞を知らない。
それなのに、雪は全部歌いきった。
猫を踏んだら怒らせて、ひっかかれたから叱り付ける。
そしたら怯えてしまったので、謝って、かつおぶしで引きつけようとする。
すると、ばかな猫は怯えてのぼった屋根から飛び立って、そのまま空へいってしまうのだ。
そのやりとりがどうしようもなくて、死んだのか飛んだのかわからなくて、必死でみっともなく執着していて、悲しくて切ない歌だった。
歌詞なんか知らなかった。
思いっきり弾いているうちに、ぼろぼろ泣けてきた。
あたしは何度も繰り返しそれを弾いた。
けれども雪は付き合ってくれて、足元から繰り返し繰り返し歌声を発してくれた。
恋心の唄みたいだと思った。
雪の唇に与えられる歌。
こんな唄しか与えられない自分が、恥ずかしかった。
歌うためだけにあればいいような喉に、つまらない役割を与えたことが悔しかった。

次のデートのとき、駅の前で、帰り際、彼はようやくあたしの唇にキスした。
次第に、顔がほてってくるのが分かる。
恥ずかしいのか、怒っているのか、困っているのか、悲しいのか。
自分でもわからなかった。
きっとその全部だろう。
けれど、すぐには生じなかった複雑な感情が、今になってやっと渦を描き始めていた。 
「どうしてですか?」
あたしは尋ねる。
そこには置き去りにされたような、途方に暮れた瞳があった。
その瞳があたしを見ていた。
「どうしてって?」
「あたしが先生を好きだからですか」
「それは屁理屈だよ。俺も悠美が好きだよ」
「屁理屈! こんなものが屁理屈なら、先生が結婚してるのも屁理屈ですね」
「そのことはいいじゃないか」
機嫌を伺う仕草で、彼があたしを覗く。
その媚態で分かった。
彼は決して媚びることをしない人だと思っていた。
あたしには分かった。
それは違う。
彼は奥さんに見せびらかしたくて、あたしと遊びたいんだ。
「あたしイヤです」
きっぱり告げた。
「あなたのこと、イヤです」
彼は言葉を失った。
あたしが口を押さえたまま俯いていると、彼は背を向けた。
あっけないなと、あたしは思った。

好きになったときのことを思い出してみる。
彼は美術の教師だ。
場所は、昇降口付近の掲示版。
彼の奥さんの似顔絵が張られているという級友の言葉に、好奇心のみに衝き動かされて、友達と一緒に見に行った。
美しい人の姿を描いたスケッチブックの一葉が張り出されていた。
無造作に張ってあった。
誰の仕業かは知らない。
ただ、その絵が彼によって描かれたことは明白だった。
昇降口を利用する生徒のうち、幾人がこれを目撃したであろう。
愛ある絵だった。
その絵は、繊細な木炭の線で描かれていた。
柔らかな描写。
あたしは、その絵の前でしばし立ちすくんだ。
友達が口々に心無いことを言い始めた。
それすらも聞こえない。
それくらいに、その絵の出来に打ちのめされた。
それくらいに感動していた。
こんなふうに愛されたいと、あたしは思ってしまったのだった。
それなのに。

その放課後、雪の姿が音楽室になかった。
なんとなく彼とだめになったことを知らせなければと思って、校内をうろうろした。
すると、職員室から彼女が出てくるのを見つけた。
近づくと、雪は気まずそうにした。
叱られていたのだろうか。
けれど、何があったのかわからない。
つづけて、彼が出てきて雪を呼び止めた。
忘れ物だといって、雪の鞄を彼女に渡した。
びっくりした。
本来なら、彼は、焦って、慌てて顔を引っ込めるところだろう。
けれど、あたしを見ても動じなかった。
その必要を感じていないらしかった。
もうどうでも良いことなのだろう。
雪を迎えるあたしの前で、彼は堂々とふるまって、ただの生徒に告げるように早く帰りなさいと告げた。
はい、とあたしは答えた。
雪はあたしたちのやりとりを見て黙った。
彼は職員室に引っ込んだ。
このまま一緒に帰ろうかと尋ねると、雪は黙って頷いた。
何を説教されたのか、見当が付いていた。
その時になって、あたしにはようやくわかった。
絵を張り出したのは、彼女だったんだ。
彼女も、彼がすきだったんだ。

「本当にわからなかったの? 悠美」
歩きながら雪が微笑した。
主語も主題も抜けてたけど、なんのことだかわかった。
「わからなかった。どうして今更白状したの?」
「あんたがあの人と別れそうな予感がしたから、罪を白状したの」
「……」
絶句する。
「そうしたら職員室でがみがみ叱られた」
学園祭の名残で、廊下は雑然としていた。
まだあちこちに飾りつけの花が飾ってある。
片付けられていないレプリカのブロンズの像がある。
美術室の前を通る。
スケッチブックや生徒の作品が机の上に山積みにされている。
それぞれが美しいのに、片付いていない。
不躾な美しさだけが際立つ幾つもの作品。
その投げやりな部屋を見ていると、彼の心の中まで見えるようだった。
彼は、あたしたちを子供扱いしたことがなかった。
それを愛情だと勘違いするほど、あたしたちは自惚れていない。
ただ彼は、大人だの子供だのを区別するのが面倒なだけだった。
ろうで出来た林檎や葡萄が見える。
きっと、あんなふうに、レプリカとしてしか見なされていなかったのだろう。
林檎でも葡萄でも一様にニセモノはニセモノだ。
歩きながら、あたしはなんだか泣けてきた。
「ひどいよ、雪。あんたが、何もかもだめにして…」
雪は、鞄から一枚の紙を取り出すと、それをびりびりと破りはじめた。
足元には、ちぎられた手足の、首の、頬の、彼の肉体の破片が……スケッチの破片が散らばった。
「それ…何?」
「あの絵だよ。気持ちの悪い、あの絵」
静けさがそこらじゅうに散らばった。
あたしは。
彼女は、彼が好きで、あの絵を張り出したんだと思ったのだ。
雪があたしをまっすぐに見た。
「別れたのね」
「別れたよ!」
雪の言葉の終わらないうちに、あたしは怒鳴り返した。
「別れたよ、もう!」
「あたし、あの男が大嫌いなの」
急に雪はそんなことを告げた。
「前に胸を触られそうになって逃げたことがあんのよ。それで、今度はあんたに気のあるそぶりを見せたから、ああして、彼の奥さんへの執着を公開したというわけ。それなのに、あんたったら、逆にのめりこんじゃうんだもん」
真意の露呈。
あたしは心臓がとまるかと思った。雪が続けた。
「だって、あたしがすきなの、あんただもの」
すぐには信じられない言葉だった。でも、どんどん涙はあふれてきた。

十一月、雨。

あのこの特徴は、なによりもその美貌にあった。名前は、有美。名は体をあらわすとはよく言ったものだ。あの白い肌やあのあどけない笑顔の威力は半端じゃなかった。
私とあのこのように惰性の友情が卒業間近になっても続いてしまうことがある。友情なのかはともかく気持ちいいことは確かだ。
嘘がない。嘘つく必要がない。好きだとか嫌いだとか言っても、一緒にいるあいだくらいは仲良しでいたい。ずっと。嘘つかないでいられる相手と、一緒にいる。それだけだ。
でも、いつしか気付いてしまった。いつまでも私たちは、ふたりきりではない。
ある十一月。
高三の十一月。同好会の部室で、ひとりきりで後輩を待っていた。
「先輩」
二年生の後輩、メイちゃんがやってきた。メイちゃんは、しっかり者の名会計だ。文化祭や新入生歓迎会などの数あるイベントは、彼女なくしてこなせなかった。
「ご無沙汰してます。どうしたんですか?」
「久しぶり」
笑って、魔法瓶の紅茶を注いであげた。
「進路、決まったんですか」
「お陰さまで」
メイちゃんの瞳が、うるうるした。
「おめでとうございます!」
拍手までしてくれた。そう、私は『お陰さまで』とある学校に受かった。
「ありがとう」
「じゃ、残るは有美センパイだけですね」
「……うん。そうね」
有美は、勉強していないんだよ。メイちゃん。
この真面目大権現の彼女にそんなこと言う勇気がなかった。ほかの部員らが来るまえに帰ることにした。とりあえず、世話好きなメイちゃんに吉報を伝えておきたかっただけだ。
久し振りに部室で紅茶も飲めた。それで良かった。
のろのろ歩いて、JRに揺られて、窓の風景を眺めているうちに泣きたくなった。
もうすぐ卒業だ。
私のなかの時は、止まってしまっている。
永いこと、私のなかには有美しかいない。
それしかない。
今ごろ、有美は家でごろごろしてるだろう。
私は帰宅したらハハの代わりに料理をしてそれを食べる。それから彼女に電話する時間を待つ。十一時。その時間が、私や彼女にとってあたり前の約束だ。
彼女はうちに来るだろうか。まだ月曜だから、泊まらずに、朝になる前に、野良のようにひとりで帰るかもしれない。
そう、もうすぐ卒業する。けれど、それが何だっていうんだろう。この先の時間は、これから訪れる時間は、もう既に過ぎ去ってしまったように思われる。何かが終りつつある。崩れつつある。
まだ今日が卒業式の日ではないのに。
私は、よく勉強した。ムリめだった学校に推薦で受かった。参考書は、数字と文字で埋め尽くされた。けれど、合格通知が届いても、残骸としか感じられない。もう二度と学校の試験を受ける必要がない。その満足を得るためだけに必死になった…
有美はその馬鹿らしさをよく知っている…
今こうして窓に流れていく高層ビルを見てる私の行方は、本当に未来なのだろうか。
私のなかの時は、止まっている。
私たちの学校は厳しくて、彼氏をつくるという行為が認められていない。そんな環境なのに、有美には教員とつきあっているという噂があった。その噂が植え付けた偏見のもとの親しさ。組替えによって知った彼女の素顔。それによって改められた認識、好意。
噂の真相を知って覚えた落胆…
それが、噂ではなくて本当だと彼女から知らされたとき…
長いこと、私はそれに苛まれている。
こういう歴史が、修学旅行だの、試験だのの合間ごとにどんどん越えられないものとして築かれていた。
あのこは私と違う。けれど、必死にそれと同じ経歴を持とうという気持ちも起きない。ほかの子たちのように…
ああ、何故焦っているのだろう。
何を焦っているのだろう。
駅に降りた。
すぐ前を歩く同い年くらいの男子が定期を落とした。拾う。声をかける。
彼は、振り向き、ありがとうと言った。定期を渡す。受け取った。目が合った。
「帰る方向、一緒ですよね。あの僕…」 
あ。もうわかった。彼の落し物は罠だ。
「ごめんなさい」
丁寧に言った。唐突過ぎて乱暴だったろう。
けれど、遮らなければならなかった。その仕草と言葉があらかじめ定められた言動だとわかったから。応じられないとわかっているから。
「あ、そうですか」
それきりになった。
いつからか、狙いを定められていたものか覚えがない。車中の出会い?
純粋なものか、悪ふざけかはわからない。
けれども、これだけの事、この一連の対話によって、雷のような覚悟を強いられた。
わかった。
有美と同じものにならなかったんじゃない。なれなかったんだ!
それが、どんなに恐ろしいことを意味するか。
どこかで知っていた。だから、気付かないでいた…気付きたくないから、気付かずにいる時間を生み出していたのだ。無意識に。麻薬のように。
家までの距離を、私がここにあることを、彼女と離れていることを急速にもどかしく感じた。駆け出す。制服がめくれるのもかまわなかった。
どうせ夜中にならなければ会えないのに、待ちきれない!
勢いよく、家の門を駆け抜けた。ゴール!
息が切れて死にそうに体がほてってる。
わかった。
私は、あのこが!
彼女と同じ経歴を持つ気になれなかった。
必要を感じないから。
そんな言い訳もとっくに古くなっていた。
単にほかの誰かに欲望を感じないから、と言ったほうが、ずっと現実的だったのに。
靴を脱いで、二階に駆け上がった。
やっと泣ける。
料理して食事して入浴して部屋に引っ込む。
途端にひとしきり泣き尽くしてしまう。
階下で人の気配がした。弟だ。弟は、いつも私の意志とカンケイないところで動いている。まるで、お天気予報のお姉さんのように人畜無害だ。扉のしまる音が響いた。デートかバイトかゲーセンだろう。
ぼんやり、枕を抱えたまま天井を見た。泣いても、涙のひいたあとも、有美を思い出すにつけ悲しくなる。
悲しみは、少なくとも退屈じゃない。けれど安らぎとも掛け離れていた。何かの小説にあった一説を思い出す。
『若い人種の安息は、眠りよりもむしろ永らえる退屈な目覚めにある』
そうなのか。
永らえる退屈って、何。
起き上がった。両膝を抱えた。体を揺すった。
有美に会いたい。
有美を知りたい。
深く、広く、果てしなく感じられた、あのこの存在を、ここに限りあるものとして改めたい。
「有美……」
名前をつぶやくという行為は、苦しい。
それでも、苦痛がはっきりと感じられるので、さっきよりましだった。
つながるには、どうしたらいい?
時刻は十時半を示している。まだ早い。でも。
携帯を手にする。
コール音に焦れる。
『はい。早川です』
「有美?」
私の声は、上ずっていないだろうか。
『春子。どうしたの。早いね』
「今、ヒマ?」
『え……んー……』
「彼氏でもいる?」
こういう言いかたは、まずい。
彼氏が居ても居なくても私はかまわない、ということを知らしめるような『気に障る』話し方をしてた。
有美は、世間一般の人たちと同じに笑った。
笑い飛ばした。居るとも居ないとも答えたくないのだろう。
「ヒマじゃないんなら、いいけど」
『ううん、行きます』
「うん」
待ってる。じゃあねと言って受話器を置いた。
以前から、いつか夕食どきにも遊びに来たらいいよと誘っておいたことを、今、実行した。
それだけのことだ。有美は疑っていない。
私も、悔いていない。
親しくなった日の天候は雨だった。 
去年の九月。強く激しい秋の雨だった。
文化祭が行われ、私たちはやたらにはしゃいでいた。それだけに、片付けは空しかった。
熱狂のあとの無気力は、熱狂のまえの無気力よりも空々しい。会の人数が少ないおかげで、片付けも大変なものだった。けれど、皆、さわやかな顔つきをしていた。一人、有美だけがいなかった。同好会の会長に誰かが尋ねると、先に帰したということだった。私だけではない。皆の嘆きがひとつとなって展示に用いていた教室にこだました。
『どうしてですか』
最初に問いかけた子は、引き下がれないようだった。
『具合悪いっていうから帰したのよ』
その一言に、全員が静まりかえった。
嘘だよと、当時の先輩のひとりが呟いた。
『早川さんがオトコと一緒でしょ』
『ウソでしょう? 本当に真っ青だったよ』
会長が笑った。いい人だなと思った。
『ホント。今日、交替の時にちょっと遅れてきたでしょ。あれ、絶対だよ』
こういう過程を辿る暴露は、祭りの後遺症と言ってかまわないだろう。爛れた消費者への嫉妬にすぎない。有美は、提供することより消費することに長けている。それがこうした反感を招くに至った。そしてそれは、私を魅了した。窓の外には、雨が降っていた。
廊下を渡って、教室に戻った私は仰天した。
『早川さん』
まだ、彼女のことをそんな風に呼んでいた。
仰天したのは、有美がそこにいたことじゃない。有美が背中をこちらに向けて、ひとり、窓に向かっていたせいだ。誰かを、待っているかのように。
『誰か、待ってるの?』
『ううん』
振り向いた顔には笑みが浮かんでいた。
私だけに向けられているのだった。
『フラレちゃって』
『……どうしたの?』
そう聞いてから順序が逆だと気づく。どうしたもこうしたもない、フラレたんだ。問う前に回答を与えられては戸惑うしかない。俯いた。
『ね。今日、はじめて会うっていうか、きちんと話すよね。中田さんとあたし』
『え』
本当にそうだった。片付けの折、彼女の不在に気付いた時点でそのことにも気付くべきだった。もう遅かった。
『忘れてた』
言ってしまった。
『……あたしも』
共有してしまった。
私は彼女のことを。彼女は私のことを。
一日中、忘れていたという秘密が生まれた。
『終わっちゃったね。文化祭』
有美が言った。
『うん。終わったね』
私が答えた。
『楽しかった?』
有美が尋ねてきた。
『うん。そっちは?』
『楽しかった』
『男の人といて?』
『そっちこそ、先輩のごきげんとり?』
『ふふ』
それからしばらく話をした。とりとめもないものだった。テレビのアイドルでは、誰が好きかだの、シャンプーは何を使うかだの。
そんな話は、毎日の教室のなかでも出来ることなのに、どうしてだか夢中になれた。
真夏の夜に白昼の太陽を見るように。
雨が降っていた。机に腰掛けてずっと話した。カサなんて誰が発明したんだと笑っていた。
インターフォンが鳴ったので、包丁を置いた。
ドアの向こうには彼女が立っていた。セーターの橙の色合いが優しい。
「来ました」
「お待ちしてました」
いちいち、笑う。
「魚、平気だよね」
「大好き」
大好きって、すぐ言うのが彼女の癖だ。本気じゃないという証なのかもしれない。
「はい。おみやげ」
「いいのに。気、使わなくて」
「あたしが飲みたかったの」
私は、復習していく。こうして。彼女を招いて、彼女と話すことで未知の彼女を否定するために確かめていく。
彼女を眺めながら食事の準備をした。有美は、カード占いに昂じはじめて、私たちのあいだに言葉はなかった。どこにもそんなものは見当たらなかった。余白のような沈黙を埋めるために料理する。
きのことにんじんと鶏肉と。
炒めて煮て焼いて。
空間がもどかしいのは、気持ちが通じ合ってるからだ。
盛り付けは手伝うと言うので、遠慮なくそうしてもらった。向かい合って食卓についた。
有美はよく食べる。おいしい? そう尋ねるのもためらわれるほど、食べる。 
有美は、知りたくないのだ。何も知らないで生きていける。例えば、この料理がどんな素材で、どんな調理を経たものか。それを「おいしい」と表現することを厭う。食べたいから食べるのであって、それ以外はどうだっていい。彼女の恋愛も、そんなものなんだろう。
そうして、きっと、自分の顔の威力も、そのために十分活用できる先天性の武器でしかないんだろう。
「食べないの。春子」
「食べるよ」
「このムニエルおいしいね」
不意に彼女がこちらを見上げた。おいしい。そう言った。私は一驚する。
「え」
そのとき、私は、彼女を見ていたことに気付かれた。もう凝視していたといっても過言ではない、この眼差しを見抜かれた。
私が赤面したのは、言うまでもない。
何もかもがそのままであることを示していた。
「の、飲もうか。有美」
「うん。飲む」
肉付きのいい頬が、にいいっと盛り上がるのを、不思議な想いで眺める。再び、見ることを許されていた。彼女の繊細な眉や、うすい唇や、なだらかなローマ鼻をくまなく見渡すことが出来た。何年も生きてきて、ふと鏡を見た時、思いもかけないところにほくろを発見したらこんな複雑な気持ちになるのだろう。
そういう不思議さだった。新しく鮮やかだった。その仕草、その声音、有美のすべてがはじめて私に働きかけてきた。
「あたしね」
有美が言った。
「このまえ、猫拾ったって言ったでしょ」
「うん」
「こねこ」
「うん。トラのでしょ」
「死んじゃった」
一瞬、有美が泣くのかと思って胸が締め付けられた。怖かった。
「お墓ね、作ってるうちに、すっごく後悔したの」
「え。どして……」
「……拾った時から、弱ってたし……分かってたの。死ぬのは」
私には、もう何も言えなかった。
「獣医さんも、懸命にしてくれたけれど、分かってたんだよね。でも……」
「……でも?」
「放っておけなかったの」



この続きは電子書籍でお読み頂けます。

『ゆりあつめ サンプル』

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  • 短編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2018-05-25
Copyrighted

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