茗荷の舌 第1話―茗荷
子狸の摩訶不思議なお話。PDF縦書きでお読みください
第1章 茗荷
こんなところに茗荷の花が。
高幡不動で買い物をして家に帰る途中である。京王線の南平の駅舎にそった道を行くと、電信柱の脇に茗荷の葉がクローバに囲まれて一本生えていた。こんなところに茗荷が生えているとは今まで気がつかなかった。
よく見ると、すうーっと伸びた濃い緑の葉の根もとから、ちょっと離れたところに花芽が一つ飛び出している。赤錆が浮いたような緑色の蕾の先が少し割れて白い花の先がのぞいている。しゃきっとしていてみずみずしい。
食べごろだな。
茗荷は生姜と同じ仲間で、一緒に大陸から日本に渡ってきたそうだ。生姜が兄で、茗荷は妹というところである。
僕はそいつをもいで、ポケットに入れた。
茗荷をちょっと塩に漬けて、茶漬けの具にすると、これまたとてもおいしい。
いつものように北の街道を渡り住宅街に入る。閑静な住宅の間を通り抜けると、熊野神社の下に来る。朽ちかけた石段を登っていくと真正面に古びた神社の社がある。
なにやら騒がしい。
社の前の狛犬の前で人だかりがしているの。
近所の人たちが狛犬の周りを取り囲んでいる。
近寄ってみると、狛犬の脇で赤と青のチェックのスカートをはいて、白いブラウスを着た女の子が古い映画の雑誌をもってしゃがみこんで泣いている。小学校三、四年生ぐらいだろう、外国映画の、しかもこのようなかなり古い雑誌は似合わない。映画雑誌の表紙にはミレーヌ・ドモンジョが大写しになっている。映画の題名は忘れたが、たしか、シルビイ・バルタンやアズナブールが出ていたシャンソンの映画だったような気がする。一九六〇年代初頭の映画だ。
女の子の丸顔の大きな目から、大粒の涙があふれている。
いきなり女の子の顔がくしゃくしゃになると、ワーッと大きく泣きだして、映画の雑誌を放り出すともみじのような手で顔を覆った。
手に包帯を巻いた女の人が女の子に近寄ると、手を差し伸べて立ち上がらせようとした。
女の子はしゃがんだまま顔から手を離すと俯いたまま声をころして涙を土の上にぽたぽたと落とした。
汚れた前掛けをつけたおじさんがコロッケを女の子に差し出した。駅の近くの肉屋のおじさんだ。このコロッケは昔の味でとてもおいしい。学校帰りの高校生が一個買ってぱくついている姿を良く見かける。だが、女の子はコロッケを見ようともしなかった。
「朝からずーっとこうなんですよ」
覗きこんでいた僕に、駅前のタバコ屋のおばさんが、聞いたわけでもないのに教えてくれた。
女の子の白いズック靴の上に大きなザトウムシが登ってきた。ザトウムシは蜘蛛の仲間だが長い針金のような八本の足に小さな胴体がのっていて、それがゆっくりゆっくり歩くさまはまるでロボットが動いているようだ。ヨーロッパでは足長叔父さんという名でも呼ばれているらしい。三億年前から進化が止まった動物である。
女の子はスカートの上に登ってきたザトウムシを見ると、「ひーっ」と、追い払ってまた泣きだした。
この女の子が誰かに似ていると思ったら、最近テレビでよく見る子役だ。サイダーのコマーシャルに出ている。髪の毛を二つに束ね、「一つ、二つ、三つ、蜜屋のサイダー、蜂須賀小六も蜜屋のサイダー」と台詞は訳がわからないがひょうきんな振り付けが面白い。人気のある子役である。名前をどうしても思い出さない。今時の子役にしては、こまっしゃくれておらず、いきなり人気者になった子だ。
そんなことを思っていると、それを察したように、駅の近くの写真屋のおじさんが「よく似ているが、唇の脇に黒子がないだろう」と囁いた。
確かに、その子役の女の子には右の頬に特徴的な黒子があった。この子にはない。
その時、風がふーっと吹いてきて、神社の中の木々がかさかさと揺れた。
女の子がまた泣き出した。
どこの子なのだろう、誰か知っている人がいないのだろうか。
サイレンの音が聞こえる。パトカーが熊野神社の石段の下に止まったようだ。
おまわりさんが一人、石段を駆け上がってきた。しゃがんでいる女の子の傍にくると、周りに声をかけた。
「誰かこの子を連れて帰ってくれませんか」
おまわりさんはこの団地の上の通りの家の息子さんだった。
誰も返事をしなかった。
パトカーのサイレンで泣き止んでいた女の子がまた大きな声で泣き始めた。
僕の家の近くの九十三歳になるおばあさんが、「ほらよ」と女の子に団子を差し出した。このおばあさんは満月になると必ずお団子を作り、家の縁側でお供えするのである。中秋の名月だけではなく、一年中、満月ならお供えの団子を作る。もちろん中秋の名月ならすすきとともにお供えをするのだが、春ならば菜の花を添え、夏ならば百日紅の花を添え、冬はというと、松の枝を供えた。今は菜の花は終わっているので、なんとマムシ草が供えられている。
女の子はそれでも泣き止まなかった。
近くの看護婦さんをしている女性が、ペットボトルを差し出した。蟹のマークのついた最近売り出されたスポーツドリンクだ。この宣伝にもこの子に似た女の子が出ている。キスリングを背負って険しい山の崖っぷちを蟹歩きしている筋肉マンに「あちゅいでしょ」と言ってこのスポーツドリンクを女の子が差し出すのだ。それを飲んだ筋肉マンは蟹のように横歩きであっというまに頂上に行ってしまう。
他愛のない話だ。
女の子はスポーツドリンクを受け取ると一気に半分ほど飲んだ。やはりこれだけ泣くと喉は渇く。
おまわりさんは僕に手招きをして、女の子を持ち上げてパトカーに連れて行くのを手伝ってくれと、言葉では言わないが態度で示した。なぜ僕が選ばれたかというと、そこに集まっている人の中で見掛けは一番若かったからであろう。
僕はおまわりさんと女の子の腕をもって持ち上げようとした。しかし、根っこが生えたようにびくともしなかった。
女の子の丸い目から涙が雫になって頬に伝わっている。
成すすべがないというのはこのことだ。女の子がひたすら泣いているのを大人たちがただ囲んで見ている。
女の子を持ち上げようとしたときに、僕の手にポケットの中の茗荷が触れた。
ポケットの中をまさぐって、茗荷をつまみ出してみた。
ポケットに入れられたままぞんざいに扱われたのに、白い花がしゃきっとしている。採ったときには白い花先がほんの少し顔を出しただけであったのだが、だいぶ伸びている。すましたシュンランの花のようできれいだ。
ポケットから茗荷をつまみ出すのを見ていた女の子が、おずおずと立ち上がった。
泣き顔のまま、僕のほうに手を差し出した。
茗荷をくれと言っているようだ。僕は茗荷を女の子の手の上に乗せた。
女の子の顔がちょっと綻ぶと、茗荷を口にいれ、くちゃくちゃとかんだ。
生のままで食べてしまっていいのだろうかと、いぶかしく見ていると、女の子の顔が茶色っぽくなり、ひしゃげると、あれよと見る間に、狸の子どもの顔になって僕にむかって目じりを下げた。
僕はおそらくきょとんとしていたに違いない。何が起こったのだろう。
隣で見ていたクリーニング屋のおやじさんが、
「化けたのはいいが、元に戻れなくなって泣いていたんだ、初めてだから」
と言ったような気がする。
狸の子は熊野神社の裏山に駆けて行った。
おまわりさんも、やれやれといった顔をして、神社の石段を降りて行った。
周りで見ていたいつも近所にいる人たちも、三々五々自分の家に戻って行った。
九十三歳のおばあさんが、
「茗荷を食べると何もかも忘れちまう。私なんか、食べなくてもみんな忘れちまう」と言いながら神社を出て行った。
そうか、人間になったことを忘れたから、あの子は狸にもどれたのか。
僕もなんとなく納得した。
さー僕も家に帰って、買ってきた貝の佃煮で茶漬けを食べよう。
もう逢魔が時を過ぎている。南平台団地の八号通りに僕の家がある。
このあたりは、魔訶不思議な人たちがたくさん住んでいるところなのだ。
「茗荷の舌」所収、自費出版33部 2016年 一粒書房
茗荷の舌 第1話―茗荷